7
「もう疲れた~~!」
部室のドアを開けるのと同時、赤川さんの気の抜けた声が聞こえてきた。部室の奥では、椅子の背もたれをお腹に当てるようにして座った赤川さんが、両足をぽーんと投げるように伸ばしている。
僕は彼女の近くに椅子を置いて、そこに腰を掛けた。
「どうしたの急に」
「どうしたも何も、ずっと文化祭の準備続きで参っちゃったよ。決めなきゃいけないことがあるたび、みんなして私に丸投げするんだもん」
「そ、そうなんだ……」
その態度と言葉から、相当なストレスが溜まっているのが伝わってくる。口調や見た目はいつもの人気者の彼女だけど、こんな風に素直に負の感情を表に出す姿は部活の時のようだ。
「私、別に学級委員でもないんだよ? だけど、私に任せたら楽だと思ってるんだろうね。まあ、私が今までそういうキャラでやってきちゃったから、しょうがないのかもしれないけどさ」
クラスで決めごとをするのは、男子や女子、明るい人と暗い人、いろいろな立場の人の考えに折り合いをつけなければいけない、相当気が折れる作業だ。確かに、男女問わず信頼の厚い、人気者の赤川さんに頼ってしまいたくなる気持ちもわかる。
「やっぱり赤川さんはすごいね」
「すごくなんてないよ。私なんて、みんなの顔色を窺ってただニコニコしてるだけなんだから。本当にすごいっていうのは、青葉みたいな人を指すんだよ。今は私なんかよりずっと忙しいんでしょ?」
「この時期はどうしてもね。もう毎日朝から晩まで仕事に追われてるみたい」
「やっぱり。さすが青葉だ」
赤川さんは、呆れのこもったような顔で苦笑した。
「赤川さんは部活で出したりしないの?」僕はふと気になって訊いてみた。
「もちろん出すよ。一応調理部だし、今が見せ場だもん。……ホント、いやになるよね。そんなに頑張れないよ」
一瞬の沈黙の後につぶやかれた言葉には感情がこもって聞こえた。いつもの部活の時の地味な彼女こそが本当だ、と、小清水先生が言っていた言葉が、少しだけ実感できた気がした。いつも学校中で明るい笑顔を振りまいている赤川さんも、その笑顔に疲れてしまうことだってあるんだ。
「青春部」なんていう名前の部活にいながら、文化祭に頭を悩ませている姿は皮肉みたいだった。
「文化祭なんて、いかにも青春っぽいのにね」と、僕がおどけて言うと、「確かに」と赤川さんは寂しそうに笑った。
「でも私、ズレてるから。いかにも青春におあつらえ向きなイベントを用意されても、そんな素直に楽しめないよ」
「僕も、去年まではそうだったよ。でも、この部活に入ったおかげかな。案外、こういうイベント事に全力になるのも悪くないかなって……それに、この文化祭のために青葉が頑張ってくれてるんだから、僕も頑張らないと」
僕の言葉に、赤川さんは目を細めて苦笑する。
「古河くんって、なんていうかホントまっすぐだよね。ちょっと羨ましいくらい」
「そうかな」
赤川さんは、「そうだよ」と言いながら椅子をガタガタと揺らして僕の方へ身体を向けると、不意にいたずらっぽく笑った。
「ね。なんでそんなに青葉が好きなの?」
「え、好きって!?」
あまりにも不意打ち過ぎる突拍子もない質問に、思わず声がひっくり返った。赤川さんは、さらに距離を詰める。
「好きなんでしょ? 青葉のこと」
僕は目をそらしながら、青葉のことを想う。
好きとか嫌いとか、そんな簡単な言葉じゃない。そういう言葉で表していいほど、僕と青葉の距離は近くない。それくらいの自覚はあるし、わきまえている。
「好きっていうか、憧れだよ。僕じゃ住んでる世界が違いすぎるし。……それでも、こんなに近くで見上げていられるんだから、それだけで十分幸せだよ」
「二人の関係はよくわかんないけどさ。でも、本当にそれでいいの?」
「いいもなにも、僕にこれ以上は無理だよ」
そんな話をしていたら、なんだか青葉の懐かしい姿を思い出していた。
今も昔も、僕と青葉の関係は変わらない。いつだって僕は、彼女のことを見上げ続けていた。
初めての出会いは幼稚園の広い部屋の中で、たった一人でトランプ遊びをしている彼女の姿を見かけたことだった。どこまでが本当の記憶か分からないけど、窓際のスペースで一人トランプをいじっている彼女のイメージが頭の中に今も焼き付いている。
周りのみんなは友達同士や先生と一緒に遊んでいたのに、彼女の周りには誰もいなくて、今と変わらずに孤高だった。
窓から差し込む光を浴びた彼女の姿が印象的で、僕が声をかけたのが始まりだった。どんなことを話したのか、今となってはもう覚えていないけど、僕は彼女と二人で何かトランプの勝負をしていた。
勝負の結果は、当然僕の惨敗だった。当時から飛びぬけた才能を持っていた彼女の強さは圧倒的で、僕はそんな彼女の強さに惹かれ、それ以来後を追いかけるようになっていた。
断片的に思い出す青葉との幼い記憶は、いつも僕が見上げる形だった。
雲梯から落ちた僕の顔を心配して覗き込む彼女。
九九を覚えるのに四苦八苦していた僕の隣で、複雑な割り算をあっさりと解いてしまった彼女。
自転車にさえ乗れない僕を横目に見ながら、得意げに一輪車を乗り回す彼女。
青葉はどんな時も僕の想像を超えるようなことを成し遂げてきたし、そんな彼女に憧れて後を追いかけることが、僕にとっての喜びとなっていた。
小学生になり、中学生になり、高校の卒業がだんだんと近づいてきた今でも、その関係は変わっていなかった。
いつだって青葉は、近くにいるのにずっと遠い。
次に頭に浮かんだのは、夕陽の差し込むこの学校の廊下だった。そこに立っているのは、鋭い目をした晃嗣くんだ。図書室で勉強をした帰り、偶然晃嗣くんに出会った時の光景だった。
『あなたは、青葉先輩にふさわしくない』
頭の中の晃嗣くんがそんなことを言った。
その時に告げられた言葉の数々が、連なるようにして次々と頭によみがえってくる。
青葉にふさわしくない。青葉の足を引っ張っている。次の部活で僕のアイディアがこけたら、ペアになった赤川さんにまで恥をかかせてしまう。
その時は無視できていたはずの言葉たちが、今になって僕の胸をえぐり始めた。
僕は視線を椅子の足に逃がして、つぶやくように言った。
「次の企画、僕の考えたアイディアで本当に大丈夫かな」
「どうしたの突然。そう決めたじゃん」
突然の言葉に、赤川さんは明らかに驚いた様子だった。
「うん、そうなんだけど……もし僕のアイディアのせいで、赤川さんに恥をかかせるようなことになったら……」
「もしかして、晃嗣になんか言われた?」
晃嗣くんとのことを話すのはためわれて濁したはずの言葉の裏側は、あっさりと看破されてしまった。ごまかす為の言葉が浮かばなくてまごついていると、赤川さんはやっぱりなあという様子で、
「あいつはそういうところあるからなあ……気にしなくていいのに」
「でも――」
「あの企画は私が選んだんだよ? だから、もしウケなくてもその時は連帯責任だよ。むしろ、そのアイディアで私たちが勝って、晃嗣を見返してやろうよ」
それでもすぐには切り替えられずにうつむいたままいると、隣で赤川さんが席を立った気配がした。気になって隣を向くと、「ちょっと口開けて」と両手を背中に隠した体勢でいたずらっぽく微笑んでいた。怪訝に思いながらも言われた通りにすると、開いた口に突然こげ茶色の何かが突っ込まれた。驚いてから、口の中に香ばしい甘さが広がるのに気づく。
口に突っ込まれたそれをかじって手に取ると、きれいな焼き目のついたフィナンシェだった。
「美味しい?」
「え。う、うん」
「良かった。それ、今度の文化祭で出す奴の試作品なんだけど、私あんまり洋菓子好きじゃないから、自分だとよくわかんなくて」
気づけば、話題は赤川さんのペースだった。
残ったもうひとくちを口の中に放る。さっきは突然のことで味が良く分からなかったけど、ほどよい甘さと心地の良い食感でやみつきになってしまう。
「うん、やっぱりすごくおいしいよ! 本格的なお店で売ってるものみたい」
「そ、そんなに? 実はまだいっぱい余ってるんだよね。昨日作ったやつだから早く食べないといけないんだけど……」
そう言いながら開かれたカバンの中を覗いてみると、ジッパーに入った大量のフィナンシェが見えた。細かい数は分からないけど、これを全部食べたら間違いなく健康被害が出そうだ。
「何個かならまだいけるけど、この量はさすがに……誰か他にあげられそうな人はいないの?」
「うーん、たしか伊織は甘いのが好きだったはずだけど……」
袴姿でクールな加瀬くんを思い浮かべると甘い洋菓子を食べている姿は不釣り合いだけど、部活の時のアロハサングラスだと驚くほどによく似合う。
今は部活中だろうけど、休憩時間に差し入れくらいできるはずだ。
「じゃあ、加瀬くんに差し入れに行こうよ」
「ええ!?」
何気なく提案すると、なぜか赤川さんは相当動揺した声だった。
「もう疲れた~~!」
部室のドアを開けるのと同時、赤川さんの気の抜けた声が聞こえてきた。部室の奥では、椅子の背もたれをお腹に当てるようにして座った赤川さんが、両足をぽーんと投げるように伸ばしている。
僕は彼女の近くに椅子を置いて、そこに腰を掛けた。
「どうしたの急に」
「どうしたも何も、ずっと文化祭の準備続きで参っちゃったよ。決めなきゃいけないことがあるたび、みんなして私に丸投げするんだもん」
「そ、そうなんだ……」
その態度と言葉から、相当なストレスが溜まっているのが伝わってくる。口調や見た目はいつもの人気者の彼女だけど、こんな風に素直に負の感情を表に出す姿は部活の時のようだ。
「私、別に学級委員でもないんだよ? だけど、私に任せたら楽だと思ってるんだろうね。まあ、私が今までそういうキャラでやってきちゃったから、しょうがないのかもしれないけどさ」
クラスで決めごとをするのは、男子や女子、明るい人と暗い人、いろいろな立場の人の考えに折り合いをつけなければいけない、相当気が折れる作業だ。確かに、男女問わず信頼の厚い、人気者の赤川さんに頼ってしまいたくなる気持ちもわかる。
「やっぱり赤川さんはすごいね」
「すごくなんてないよ。私なんて、みんなの顔色を窺ってただニコニコしてるだけなんだから。本当にすごいっていうのは、青葉みたいな人を指すんだよ。今は私なんかよりずっと忙しいんでしょ?」
「この時期はどうしてもね。もう毎日朝から晩まで仕事に追われてるみたい」
「やっぱり。さすが青葉だ」
赤川さんは、呆れのこもったような顔で苦笑した。
「赤川さんは部活で出したりしないの?」僕はふと気になって訊いてみた。
「もちろん出すよ。一応調理部だし、今が見せ場だもん。……ホント、いやになるよね。そんなに頑張れないよ」
一瞬の沈黙の後につぶやかれた言葉には感情がこもって聞こえた。いつもの部活の時の地味な彼女こそが本当だ、と、小清水先生が言っていた言葉が、少しだけ実感できた気がした。いつも学校中で明るい笑顔を振りまいている赤川さんも、その笑顔に疲れてしまうことだってあるんだ。
「青春部」なんていう名前の部活にいながら、文化祭に頭を悩ませている姿は皮肉みたいだった。
「文化祭なんて、いかにも青春っぽいのにね」と、僕がおどけて言うと、「確かに」と赤川さんは寂しそうに笑った。
「でも私、ズレてるから。いかにも青春におあつらえ向きなイベントを用意されても、そんな素直に楽しめないよ」
「僕も、去年まではそうだったよ。でも、この部活に入ったおかげかな。案外、こういうイベント事に全力になるのも悪くないかなって……それに、この文化祭のために青葉が頑張ってくれてるんだから、僕も頑張らないと」
僕の言葉に、赤川さんは目を細めて苦笑する。
「古河くんって、なんていうかホントまっすぐだよね。ちょっと羨ましいくらい」
「そうかな」
赤川さんは、「そうだよ」と言いながら椅子をガタガタと揺らして僕の方へ身体を向けると、不意にいたずらっぽく笑った。
「ね。なんでそんなに青葉が好きなの?」
「え、好きって!?」
あまりにも不意打ち過ぎる突拍子もない質問に、思わず声がひっくり返った。赤川さんは、さらに距離を詰める。
「好きなんでしょ? 青葉のこと」
僕は目をそらしながら、青葉のことを想う。
好きとか嫌いとか、そんな簡単な言葉じゃない。そういう言葉で表していいほど、僕と青葉の距離は近くない。それくらいの自覚はあるし、わきまえている。
「好きっていうか、憧れだよ。僕じゃ住んでる世界が違いすぎるし。……それでも、こんなに近くで見上げていられるんだから、それだけで十分幸せだよ」
「二人の関係はよくわかんないけどさ。でも、本当にそれでいいの?」
「いいもなにも、僕にこれ以上は無理だよ」
そんな話をしていたら、なんだか青葉の懐かしい姿を思い出していた。
今も昔も、僕と青葉の関係は変わらない。いつだって僕は、彼女のことを見上げ続けていた。
初めての出会いは幼稚園の広い部屋の中で、たった一人でトランプ遊びをしている彼女の姿を見かけたことだった。どこまでが本当の記憶か分からないけど、窓際のスペースで一人トランプをいじっている彼女のイメージが頭の中に今も焼き付いている。
周りのみんなは友達同士や先生と一緒に遊んでいたのに、彼女の周りには誰もいなくて、今と変わらずに孤高だった。
窓から差し込む光を浴びた彼女の姿が印象的で、僕が声をかけたのが始まりだった。どんなことを話したのか、今となってはもう覚えていないけど、僕は彼女と二人で何かトランプの勝負をしていた。
勝負の結果は、当然僕の惨敗だった。当時から飛びぬけた才能を持っていた彼女の強さは圧倒的で、僕はそんな彼女の強さに惹かれ、それ以来後を追いかけるようになっていた。
断片的に思い出す青葉との幼い記憶は、いつも僕が見上げる形だった。
雲梯から落ちた僕の顔を心配して覗き込む彼女。
九九を覚えるのに四苦八苦していた僕の隣で、複雑な割り算をあっさりと解いてしまった彼女。
自転車にさえ乗れない僕を横目に見ながら、得意げに一輪車を乗り回す彼女。
青葉はどんな時も僕の想像を超えるようなことを成し遂げてきたし、そんな彼女に憧れて後を追いかけることが、僕にとっての喜びとなっていた。
小学生になり、中学生になり、高校の卒業がだんだんと近づいてきた今でも、その関係は変わっていなかった。
いつだって青葉は、近くにいるのにずっと遠い。
次に頭に浮かんだのは、夕陽の差し込むこの学校の廊下だった。そこに立っているのは、鋭い目をした晃嗣くんだ。図書室で勉強をした帰り、偶然晃嗣くんに出会った時の光景だった。
『あなたは、青葉先輩にふさわしくない』
頭の中の晃嗣くんがそんなことを言った。
その時に告げられた言葉の数々が、連なるようにして次々と頭によみがえってくる。
青葉にふさわしくない。青葉の足を引っ張っている。次の部活で僕のアイディアがこけたら、ペアになった赤川さんにまで恥をかかせてしまう。
その時は無視できていたはずの言葉たちが、今になって僕の胸をえぐり始めた。
僕は視線を椅子の足に逃がして、つぶやくように言った。
「次の企画、僕の考えたアイディアで本当に大丈夫かな」
「どうしたの突然。そう決めたじゃん」
突然の言葉に、赤川さんは明らかに驚いた様子だった。
「うん、そうなんだけど……もし僕のアイディアのせいで、赤川さんに恥をかかせるようなことになったら……」
「もしかして、晃嗣になんか言われた?」
晃嗣くんとのことを話すのはためわれて濁したはずの言葉の裏側は、あっさりと看破されてしまった。ごまかす為の言葉が浮かばなくてまごついていると、赤川さんはやっぱりなあという様子で、
「あいつはそういうところあるからなあ……気にしなくていいのに」
「でも――」
「あの企画は私が選んだんだよ? だから、もしウケなくてもその時は連帯責任だよ。むしろ、そのアイディアで私たちが勝って、晃嗣を見返してやろうよ」
それでもすぐには切り替えられずにうつむいたままいると、隣で赤川さんが席を立った気配がした。気になって隣を向くと、「ちょっと口開けて」と両手を背中に隠した体勢でいたずらっぽく微笑んでいた。怪訝に思いながらも言われた通りにすると、開いた口に突然こげ茶色の何かが突っ込まれた。驚いてから、口の中に香ばしい甘さが広がるのに気づく。
口に突っ込まれたそれをかじって手に取ると、きれいな焼き目のついたフィナンシェだった。
「美味しい?」
「え。う、うん」
「良かった。それ、今度の文化祭で出す奴の試作品なんだけど、私あんまり洋菓子好きじゃないから、自分だとよくわかんなくて」
気づけば、話題は赤川さんのペースだった。
残ったもうひとくちを口の中に放る。さっきは突然のことで味が良く分からなかったけど、ほどよい甘さと心地の良い食感でやみつきになってしまう。
「うん、やっぱりすごくおいしいよ! 本格的なお店で売ってるものみたい」
「そ、そんなに? 実はまだいっぱい余ってるんだよね。昨日作ったやつだから早く食べないといけないんだけど……」
そう言いながら開かれたカバンの中を覗いてみると、ジッパーに入った大量のフィナンシェが見えた。細かい数は分からないけど、これを全部食べたら間違いなく健康被害が出そうだ。
「何個かならまだいけるけど、この量はさすがに……誰か他にあげられそうな人はいないの?」
「うーん、たしか伊織は甘いのが好きだったはずだけど……」
袴姿でクールな加瀬くんを思い浮かべると甘い洋菓子を食べている姿は不釣り合いだけど、部活の時のアロハサングラスだと驚くほどによく似合う。
今は部活中だろうけど、休憩時間に差し入れくらいできるはずだ。
「じゃあ、加瀬くんに差し入れに行こうよ」
「ええ!?」
何気なく提案すると、なぜか赤川さんは相当動揺した声だった。