まぶしい青に、春は惹かれて


 クラスのHRで文化祭の出し物について話し合われ始めると、学校中には一気に浮足立った空気が漂い始める。文化祭の準備期間中は青春部の活動は休止になるようで、普段は隔週の活動もさらに間隔が開いてしまう。

 文化祭が近づくにつれて生徒会長である青葉の忙しさも増していき、一緒に登下校ができる頻度もずいぶんと減ってしまっていた。

 そして、いよいよその週の週末に文化祭をひかえたある日。その日は週に一度のLHRの時間があり、その時間を利用してクラスの出し物の準備を始めていた。「こっちのり貸してー」「模造紙これで足りる?」「誰かこっち手伝って!」と、教室中には活気あふれる声が入り乱れる。教室の中がこんなににぎやかになるのは、一年のうちでこの時期だけだ。

 クラスの出し物は、先週の同じ時間の話し合いで喫茶店をすることに決まっていた。そこにたどり着くまでは早かったけど、ただの喫茶店じゃつまらないからコンセプトを決めよう、という意見が出てからが長かった。五十分の授業時間のほとんどを使い、最終的には一部の女子の意見で、童話のお城の雰囲気をイメージした喫茶店にすると決まったのだった。

 まだ実際に教室を飾り付けるわけにはいかない中で、前日の準備が少しでも楽になるように装飾のパーツを作ったり、衣装の準備に取り掛かったりしていた。

 教室の奥では青葉が黙々とウエイトレス風の衣装に小物を縫い合わせ、加瀬くんは数人の男子と一緒にテーブルの配置について話し合いをしている。同じ教室にいるはずなのに、やけに二人が遠かった。

 ここ最近はみんなで集まれる機会もなくて、一抹の寂しさがあった。

「西峰さん、当日は生徒会の方にかかりきりになるんだろ? めちゃくちゃ戦力ダウンだよな」

 僕と一緒に内装のパーツを作る作業をしていた山本くんが言った。

「うん。たぶん前日の準備から、ほとんど生徒会の方が中心になると思うって」
「まあ、そうだよな……加瀬だって部活の方で出店するんだろ? 二人が呼び込みでもしてくれれば、放っておいても千客万来だったろうに」

 そう口にする山本くんの手は、止まったり動いたりだ。

「二人は仕方ないよ。その分、僕たちが頑張らないと」
「頑張るってもなあ……三年にもなって文化祭頑張ってる場合じゃないし。正直、この時間だって受験勉強に当てたいくらいだよな」

 山本くんが乗り気じゃないのは、文化祭の準備が始まった時から気づいていた。そして、それは山本くんだけに漂う空気じゃない。一、二年生の時は文化祭に張り切っていたクラスメイトも、この三年生の文化祭ではいまいち乗り切れていないのが伝わってくる。

 きっと数ヶ月前までの僕ならこの空気の中に混じって、不満を抱えながらも流されるままに参加していたのだと思う。

 だけど今は、そうやって一歩引いて眺めているだけの自分にはなりたくなかった。

「僕は……これが最後の文化祭なんだから、手は抜かずに頑張りたいな」

 視線は手元の模造紙に向けたまま、それを大きな窓の形にハサミで切り取りながらそう言った。その言葉に、隣では山本くんが驚いているのが伝わってきた。

「春樹、三年になってから少し変わったよな」
「うん、そうかも」

 それがいい変化なのか、確証なんてない。だけどもし、それが自分で決められることなら、間違いなく僕は前を向いている。

 その日はすぐに家には帰らず、学校の図書室を使って勉強をしていた。

 つい集中をし過ぎて、気づけば完全下校時刻までもう少しだ。だんだんと司書の人が店じまいの準備をしているのが見えて、慌てて荷物を片付けて図書室を後にした。

 日が伸びたこともあって、こんな時間になってもまだ廊下は明るい。築数年の真新しい校舎の壁は、窓から差し込む夕日に照らされて輝きを放っている。ふと、廊下の奥へと目を向けた。この先には旧校舎へと続く連絡通路の扉がある。その扉のさらに向こうにある古びた内観が頭の中によみがえり、ほんの少しそれが恋しくなった。

 その時、廊下の奥の影から一人の姿が現れて、連絡通路の方へ向かっていく。そして、そのままその扉を開けて旧校舎の中へと入っていった。
遠目だったけど、今旧校舎に入っていったのって――

「何をしているんですか?」
「うわあっ!」

 突然の背中からの声に驚いて思わず跳ね上がる。慌てて振り向くと晃嗣くんだった。

「ちょっと図書室で勉強してたらこんな時間になっちゃって……それより今、小清水先生が旧校舎の方に入っていったように見えたんだけど、何か知らない?」
「さあ。今は部活も休止中ですし、普通に見回りとかじゃないですか?」
「そ、そうだよね」

 当たり前に考えれば、晃嗣くんの言葉はもっともだ。だけど旧校舎の扉を開ける時の小清水先生の後ろ姿に、何か引っかかるものを感じていた。

 どこか寂し気だったような……

 と、晃嗣くんは廊下に誰もいないことを確認するように左右を見ると、不意にそのメガネの奥の両目を鋭くとがらせた。

「でも、ちょうどよかったです。春樹先輩と会えて」

 よかった、という言葉とは裏腹に、その口調は視線同様に棘があった。たじろいでいると晃嗣くんが続ける。

「あなたとは、一度ちゃんと話をしておきたかった」
「僕と……?」

 晃嗣くんが僕と話したいことなんて本当は分かっている。青葉について、それ以外にあるわけがなかった。

「単刀直入に言います。青葉先輩に付きまとうのをやめてください。あなたは、先輩にふさわしくない」

 ピシャリ、と、有無を言わせないような強い口調だった。さらにメガネの奥の鋭い瞳が僕の顔を射抜き、反論を封殺しようとする。

 耐えきれずにつばを飲む。思わずうなずいてしまいそうになるほどの凄みがあったけど、それでも折れるわけにはいかない。

「おまえは青葉にふさわしくない……散々言われてきたし、自覚はあるよ。けど、誰と一緒にいようが僕の自由だ」
「それは同じレベルの人間同士の場合だけに通用する理論です。でも、そうじゃない。あなたは、青葉先輩の足を引っ張っている」
「僕が、青葉の……?」
「あなたに対する青葉先輩の態度は、明らかにおかしい。この間、伊織先輩がペアの組み合わせを発表した時に確信しました。誰かをかばうような、他人を甘やかすようなことは絶対にしない」
「それは……」

 図星だった。青葉の僕に対する態度は、他の誰に対するものとも違っていて、それは彼女にとって僕が庇護の対象になっているからだ。そんなことは、ずっと前から分かっていた。

 だけど、せめて後少しの間だけでも僕のわがままを許してほしい。

 言葉に窮していると、晃嗣くんは呆れたように目を伏せる。

「まあ、今さら少し言ったくらいで聞かないのは分かっています。ところで、次の企画のアイディアは決まりましたか?」
「え? まあ、ネタは決まったから細かいところをこれからって感じだけど……」
「そのネタは莉愛先輩が?」
「ううん、僕が考えた」
「へえ」と晃嗣くんは少し驚いた後、笑みを浮かべて、「もしそれが失敗したら、あなただけでなく莉愛先輩まで恥をかいてしまいますね。あなたみたいな凡人と関わってしまったばっかりに」

 言い返せずに言葉に詰まる。それを否定できるだけの自信が、僕にはわずかもなかった。

「まあ、企画なんて先の話です。文化祭ももうすぐですから。皆さんのためにオレたち生徒会も一生懸命準備しているので、ちゃんと楽しんでくださいね」

 晃嗣くんは穏やかな微笑みを携えてそう言うと、「それでは失礼します」とこの場を去っていった。

 僕はただ、その背中を見送るばかりだった。

 翌日の放課後、教室の前の廊下で僕は青葉を待っていた。

 毎日のように生徒会の仕事に追われていた青葉が、珍しく今日は活動がないと話をしていて、それなら、と久しぶりに一緒に帰る約束をしたのは朝のことだ。

 やがて、帰宅を急ぐクラスメイトに紛れて教室を出てきた青葉は、すまなそうな顔だった。

「ごめん、やっぱり今日も帰れなくなっちゃった」
「いいよ。生徒会でしょ?」
「うん。この時期はどうしても仕事が山積みで……」
「一年の一大イベントだもん。しょうがないよ」
「ありがとう。行ってくる」と、言うや否や慌ただしく去っていく青葉の背中を見送る。

 ここ最近の青葉はずっとこんな調子だ。文化祭関係の仕事に追われているみたいで、毎日完全下校時刻のギリギリまで生徒会に打ち込んでいる様子だった。朝早くから学校に行くことも珍しくなくて、ずっとすれ違いのような日々が続いていた。

 こんなに忙しくて、勉強する時間あるのかな?

 ふと青葉のことが心配になる。どれだけ超人のような才能と体力を秘めた彼女でも、さすがにこの忙しさは負担になっているんじゃないか、という心配が頭をかすめた。

 でも、とすぐに思い直す。さっきの青葉の顔に、疲れの色はなかった。今日の授業中、先生に問題を当てられた時だって、それが難問だったのにもかかわらず、あっさりと答えて教室を沸かせていた。

 やっぱり、青葉ならこの程度余裕なんだ。僕みたいな凡人と同じはかりで測れるはずがない。

 早く帰って勉強をしよう。そう思った時、スマホの震える感覚があった。短いバイブレーションは、メールの通知だ。

 ポケットから取り出して画面を見ると、差出人は赤川さんだった。

『今から部室!』

「もう疲れた~~!」

 部室のドアを開けるのと同時、赤川さんの気の抜けた声が聞こえてきた。部室の奥では、椅子の背もたれをお腹に当てるようにして座った赤川さんが、両足をぽーんと投げるように伸ばしている。

 僕は彼女の近くに椅子を置いて、そこに腰を掛けた。

「どうしたの急に」
「どうしたも何も、ずっと文化祭の準備続きで参っちゃったよ。決めなきゃいけないことがあるたび、みんなして私に丸投げするんだもん」
「そ、そうなんだ……」

 その態度と言葉から、相当なストレスが溜まっているのが伝わってくる。口調や見た目はいつもの人気者の彼女だけど、こんな風に素直に負の感情を表に出す姿は部活の時のようだ。

「私、別に学級委員でもないんだよ? だけど、私に任せたら楽だと思ってるんだろうね。まあ、私が今までそういうキャラでやってきちゃったから、しょうがないのかもしれないけどさ」

 クラスで決めごとをするのは、男子や女子、明るい人と暗い人、いろいろな立場の人の考えに折り合いをつけなければいけない、相当気が折れる作業だ。確かに、男女問わず信頼の厚い、人気者の赤川さんに頼ってしまいたくなる気持ちもわかる。

「やっぱり赤川さんはすごいね」
「すごくなんてないよ。私なんて、みんなの顔色を窺ってただニコニコしてるだけなんだから。本当にすごいっていうのは、青葉みたいな人を指すんだよ。今は私なんかよりずっと忙しいんでしょ?」
「この時期はどうしてもね。もう毎日朝から晩まで仕事に追われてるみたい」
「やっぱり。さすが青葉だ」

 赤川さんは、呆れのこもったような顔で苦笑した。

「赤川さんは部活で出したりしないの?」僕はふと気になって訊いてみた。
「もちろん出すよ。一応調理部だし、今が見せ場だもん。……ホント、いやになるよね。そんなに頑張れないよ」

 一瞬の沈黙の後につぶやかれた言葉には感情がこもって聞こえた。いつもの部活の時の地味な彼女こそが本当だ、と、小清水先生が言っていた言葉が、少しだけ実感できた気がした。いつも学校中で明るい笑顔を振りまいている赤川さんも、その笑顔に疲れてしまうことだってあるんだ。

「青春部」なんていう名前の部活にいながら、文化祭に頭を悩ませている姿は皮肉みたいだった。

「文化祭なんて、いかにも青春っぽいのにね」と、僕がおどけて言うと、「確かに」と赤川さんは寂しそうに笑った。
「でも私、ズレてるから。いかにも青春におあつらえ向きなイベントを用意されても、そんな素直に楽しめないよ」
「僕も、去年まではそうだったよ。でも、この部活に入ったおかげかな。案外、こういうイベント事に全力になるのも悪くないかなって……それに、この文化祭のために青葉が頑張ってくれてるんだから、僕も頑張らないと」

 僕の言葉に、赤川さんは目を細めて苦笑する。

「古河くんって、なんていうかホントまっすぐだよね。ちょっと羨ましいくらい」
「そうかな」

 赤川さんは、「そうだよ」と言いながら椅子をガタガタと揺らして僕の方へ身体を向けると、不意にいたずらっぽく笑った。

「ね。なんでそんなに青葉が好きなの?」
「え、好きって!?」

 あまりにも不意打ち過ぎる突拍子もない質問に、思わず声がひっくり返った。赤川さんは、さらに距離を詰める。

「好きなんでしょ? 青葉のこと」

 僕は目をそらしながら、青葉のことを想う。

 好きとか嫌いとか、そんな簡単な言葉じゃない。そういう言葉で表していいほど、僕と青葉の距離は近くない。それくらいの自覚はあるし、わきまえている。

「好きっていうか、憧れだよ。僕じゃ住んでる世界が違いすぎるし。……それでも、こんなに近くで見上げていられるんだから、それだけで十分幸せだよ」
「二人の関係はよくわかんないけどさ。でも、本当にそれでいいの?」
「いいもなにも、僕にこれ以上は無理だよ」

 そんな話をしていたら、なんだか青葉の懐かしい姿を思い出していた。
今も昔も、僕と青葉の関係は変わらない。いつだって僕は、彼女のことを見上げ続けていた。

 初めての出会いは幼稚園の広い部屋の中で、たった一人でトランプ遊びをしている彼女の姿を見かけたことだった。どこまでが本当の記憶か分からないけど、窓際のスペースで一人トランプをいじっている彼女のイメージが頭の中に今も焼き付いている。

 周りのみんなは友達同士や先生と一緒に遊んでいたのに、彼女の周りには誰もいなくて、今と変わらずに孤高だった。

 窓から差し込む光を浴びた彼女の姿が印象的で、僕が声をかけたのが始まりだった。どんなことを話したのか、今となってはもう覚えていないけど、僕は彼女と二人で何かトランプの勝負をしていた。

 勝負の結果は、当然僕の惨敗だった。当時から飛びぬけた才能を持っていた彼女の強さは圧倒的で、僕はそんな彼女の強さに惹かれ、それ以来後を追いかけるようになっていた。

 断片的に思い出す青葉との幼い記憶は、いつも僕が見上げる形だった。

 雲梯から落ちた僕の顔を心配して覗き込む彼女。

 九九を覚えるのに四苦八苦していた僕の隣で、複雑な割り算をあっさりと解いてしまった彼女。

 自転車にさえ乗れない僕を横目に見ながら、得意げに一輪車を乗り回す彼女。

 青葉はどんな時も僕の想像を超えるようなことを成し遂げてきたし、そんな彼女に憧れて後を追いかけることが、僕にとっての喜びとなっていた。

 小学生になり、中学生になり、高校の卒業がだんだんと近づいてきた今でも、その関係は変わっていなかった。

 いつだって青葉は、近くにいるのにずっと遠い。

 次に頭に浮かんだのは、夕陽の差し込むこの学校の廊下だった。そこに立っているのは、鋭い目をした晃嗣くんだ。図書室で勉強をした帰り、偶然晃嗣くんに出会った時の光景だった。

『あなたは、青葉先輩にふさわしくない』

 頭の中の晃嗣くんがそんなことを言った。

 その時に告げられた言葉の数々が、連なるようにして次々と頭によみがえってくる。

 青葉にふさわしくない。青葉の足を引っ張っている。次の部活で僕のアイディアがこけたら、ペアになった赤川さんにまで恥をかかせてしまう。

 その時は無視できていたはずの言葉たちが、今になって僕の胸をえぐり始めた。

 僕は視線を椅子の足に逃がして、つぶやくように言った。

「次の企画、僕の考えたアイディアで本当に大丈夫かな」
「どうしたの突然。そう決めたじゃん」

 突然の言葉に、赤川さんは明らかに驚いた様子だった。

「うん、そうなんだけど……もし僕のアイディアのせいで、赤川さんに恥をかかせるようなことになったら……」
「もしかして、晃嗣になんか言われた?」

 晃嗣くんとのことを話すのはためわれて濁したはずの言葉の裏側は、あっさりと看破されてしまった。ごまかす為の言葉が浮かばなくてまごついていると、赤川さんはやっぱりなあという様子で、

「あいつはそういうところあるからなあ……気にしなくていいのに」
「でも――」
「あの企画は私が選んだんだよ? だから、もしウケなくてもその時は連帯責任だよ。むしろ、そのアイディアで私たちが勝って、晃嗣を見返してやろうよ」

 それでもすぐには切り替えられずにうつむいたままいると、隣で赤川さんが席を立った気配がした。気になって隣を向くと、「ちょっと口開けて」と両手を背中に隠した体勢でいたずらっぽく微笑んでいた。怪訝に思いながらも言われた通りにすると、開いた口に突然こげ茶色の何かが突っ込まれた。驚いてから、口の中に香ばしい甘さが広がるのに気づく。

 口に突っ込まれたそれをかじって手に取ると、きれいな焼き目のついたフィナンシェだった。

「美味しい?」
「え。う、うん」
「良かった。それ、今度の文化祭で出す奴の試作品なんだけど、私あんまり洋菓子好きじゃないから、自分だとよくわかんなくて」

 気づけば、話題は赤川さんのペースだった。

 残ったもうひとくちを口の中に放る。さっきは突然のことで味が良く分からなかったけど、ほどよい甘さと心地の良い食感でやみつきになってしまう。

「うん、やっぱりすごくおいしいよ! 本格的なお店で売ってるものみたい」
「そ、そんなに? 実はまだいっぱい余ってるんだよね。昨日作ったやつだから早く食べないといけないんだけど……」

 そう言いながら開かれたカバンの中を覗いてみると、ジッパーに入った大量のフィナンシェが見えた。細かい数は分からないけど、これを全部食べたら間違いなく健康被害が出そうだ。

「何個かならまだいけるけど、この量はさすがに……誰か他にあげられそうな人はいないの?」
「うーん、たしか伊織は甘いのが好きだったはずだけど……」

 袴姿でクールな加瀬くんを思い浮かべると甘い洋菓子を食べている姿は不釣り合いだけど、部活の時のアロハサングラスだと驚くほどによく似合う。
今は部活中だろうけど、休憩時間に差し入れくらいできるはずだ。

「じゃあ、加瀬くんに差し入れに行こうよ」
「ええ!?」

 何気なく提案すると、なぜか赤川さんは相当動揺した声だった。

 放課後の学校は、ほとんどの生徒が部活に励むか帰宅をしていて、グラウンドや体育館以外は閑散としている。そのおかげで、弓道場の前に来るまでの間、赤川さんと二人で歩いている姿は、ほとんど誰にも見られることなく済んでいた。部室を出る時は深く考えていなかったけど、もしも見つかっていたら大スキャンダルだった。

「ねえ、本当に差し入れに行くの?」

 弓道場に着く直前で、赤川さんは何度目になるか分からない質問をした。

「いや、やめるなら全然いいと思うけど……僕も勢いで言っちゃった気はしてるし」
「ううん、ここまで来ちゃったんだもん。それに、食べ物を無駄にしちゃいけないし、うん」

 加瀬くんに差し入れを持っていく話になってからの赤川さんは、やけに様子がおかしい。差し入れを躊躇しては、お菓子がもったいないからと決意しなおす流れは、弓道場に向かうまでの短い間に、もう何度も目にしていた。

 何度目かの決意を固めてまた少し歩くと、弓道場の側面に沿うようにして、数人の女子が張り付いているのが見えた。彼女たちは一様に、弓を引く袴姿の部員の様子に釘付けになっている。弓を構えている部員は数人いたけど、彼女たちの視線はたった一人に集まっている。見ると、ちょうど加瀬くんが弓を放つ瞬間だった。

「差し入れは加瀬くんの練習が終わってからがいいかもね」
「だね。私たちも見学してよっか」

 僕たちも先に見学をしていた彼女たちの隣に並んで、弓を構える加瀬くんの姿に目を凝らす。矢を弦にはめて、弓を構え、狙いをすまして矢を放つ。

 初めて見る加瀬くんがそこにはいた。

 クラスで見せる穏やかで誠実な表情とも、もちろん、旧校舎で見せるおどけたようにはしゃぐ表情とも違う。ピリピリとした緊張感が、数十メートルは離れているはずのこの場所まで伝わってくる。きっと加瀬くんの感覚は極限まで研ぎ澄まされていて、それがまるで刃のような鋭さを感じさせているんだと思った。

 加瀬くんの周りだけ、違う世界の空気が漂っているかのようだ。

「すごい集中力だね」

 僕はそれに視線を奪われたままつぶやくと、隣で赤川さんが応えた。

「……うん。でも、なんだかちょっと怖い」
 
 加瀬くんが再び矢を放つと、それは的へ向かって一直線に飛んでき、そのまま的の中央へ突き刺さる。と、隣で見学をしている数人の女子が一斉に沸いた。

「最近の伊織先輩、すごく気合入ってるね!」

 彼女たちのひそひそと盛り上がる声が聞こえてくる。

「やっぱり総体が近いからかな。伊織先輩なら、きっと余裕で優勝だよね」
「うんうん、絶対みんなで応援行こうね」

 加瀬くんはじっと、鋭い瞳で矢の放たれた先を見つめている。ただの練習の風景とは思えないほど緊張感にあふれていて、見ているこっちの息が詰まりそうだった。

「やっぱり、今日はやめておこうか。余ったお菓子は家族に渡すよ」

 落ち着いた声で赤川さんが言った。同感だった。こんなにも集中している姿を見せられて、それに水を差すことなんてできるはずがない。

「うん、そうだね……」

 数人の部員が弓を構えて並ぶ中で、加瀬くんだけが圧倒的な存在感を放っている。その息遣いやわずかな表情の変化、その一つ一つから目が離せないでいた。すぐ隣では赤川さんが、お菓子の入ったバッグをぎゅっと胸に抱くのが横目に見えた。

 それから数日が経ち、いよいよ文化祭の前日となった。

 文化祭の前日は半日で授業が終わり、午後の時間を丸ごと使って翌日に向けた準備に取り掛かる。昼休みの時間の終わりとともに、教室の中の椅子や机といった備品は、必要なものだけを除いて一斉に撤去された。学校中が一段と慌ただしくなり、一気に文化祭の近づきを感じさせるような雰囲気が漂いだす。

 準備は段取りの通りに順調に進んでいき、事前に準備をしておいたパーツで華やかに装飾を施していく。日が暮れ始めた頃には、何の変哲も無い普通の教室が、思い描いた通り、童話に出てくるお城の一室へと姿を変えていた。

 完成のイメージが見え始めた頃にはだんだんと必要な人手も減り始め、本来は放課後の時間に入ったこともあって、教室に残っているクラスメイトの数はずいぶんと減っていた。

 その中に当然、青葉や加瀬くんの姿はない。もう最後の確認を残すだけの段階になった時、教室に残っていたのは、僕と山本くんと学級委員の女子とその友人の二人だけだった。

「結局、こんな時間になっちまったな」

 テーブルの飾り付けを終えた山本くんが、伸びをしながら言った。

「ごめんね、こんな時間まで付き合わせちゃって」
「いいっていいって。俺も久しぶりに勉強以外に打ち込めていい息抜きになったし」
「ありがとう。無理やり付き合わせちゃったんじゃないかって心配だったから、そう言ってくれると嬉しいよ」

 僕も山本くんに倣って伸びをしてから、自分たちの努力の成果であるこの教室を見渡した。どこからどう見ても、テーマパークさながらのお城の一室になっている。

 最近では部活で夜遅くまで残ることも増えたけど、自分たちが普段から使っているこの校舎にこれほど遅くまで残るのは初めてだ。達成感と感慨深さが、充足感となって胸に広がる。

 と、調理用の機材の最後の確認をしていた、学級委員の朝倉さんが振り向いた。

「古河くんも山本くんもありがとね。係じゃないのに、こんな時間まで残らせちゃって」
「ううん、僕がやりたかっただけだから」
「でも、まさか古河くんが手伝ってくれるとは思わなかったよ。こういうクラスのこととかって、あんまり頑張らないタイプかと思ってた」

 つい最近も聞いた言葉に苦笑する。僕はみんなからそんな風に思われていたらしい。そして、数ヶ月前までならそれは合っていた。

「確かに、少し前までの僕だったら、適当な言い訳でもして逃げてたかもね。でも、最近は少し自分に自信が持てるようになったんだ」
「うん、前よりもそんな感じの顔してる」

 僕は照れ臭くなって顔をそらすと、山本くんが朝倉さんに訊いた。

「それより、どう? こっちは確認終わったけど、そっちは?」
「うん、さっき終わったよ。器具も食器も全部オッケー」

 その返答に、山本くんと顔を見合わせた。

「と、言うことは……」

 誰かがそうつぶやくと、その声を合図に僕たち残ったメンバーは一斉に声を揃えて、

「終わったー!」

 作業に没頭して明かりをつけ忘れていた教室は、いつのまにか沈んだ夕日の明かりがなくなり、薄暗闇に染まっていた。そんなことにも気づかず僕たちは、この教室に弾んだ声を響かせた。
10
 文化祭の準備を終えた僕は、街灯の明かりだけが頼りの夜道を一人歩いていた。

 さすがにちょっと疲れたな……

 ここ数日は文化祭の準備に注力していたけど、普段の勉強だっておろそかにしていたわけじゃない。その二つを同時にこなしていたことで、いい加減に疲れが蓄積されてしまっていた。

 帰ったらご飯を食べて少し横になろう。

 そんなことを考えている時だった。背中の方から突然、「春樹」と名前を呼ばれた。聞き慣れているはずのその声が、少しだけ懐かしく覚えた。

「青葉!」

 振り返ると、駆け足の青葉がそこにいた。教室では毎日顔を見ていたけど、なんだかやけに久しぶりに顔を合わせた気分だった。

「明日の準備は終わったの?」

 僕は、久しぶりに話ができた喜びも隠さない声で訊いた。

「どうにかね。明日になってみないとっていうところはあるけど、とりあえず今日のうちにできることは終わったから」
「そっか。さすが、準備にぬかりないね」
「当日になってドタバタと慌てるのも嫌だから、できることは先にしておかないと」
「それをちゃんと実際にやれるから青葉はすごいんだよ」

 それは何気ないやり取りだった。だけどふと、今青葉と話をしているんだ、ということを意識してしまった。

「なんだか、こんな風に落ち着いて話せるのも久しぶりだね」

 二人で家までの道を歩く。それがやけに久しぶりのことに思えたし、事実二週間近くは空いていたはずだった。

「そうだね、本当はもっと仕事を減らせればいいんだけど……変な決まりごととか面倒な企画の申請とかで、もう参っちゃいそう。前任者の残した資料も使えないのばっかりだから、結局また私が作り直すことになったし」
「はは……なんだかこんなに愚痴る青葉も珍しいね。でもみんなも、青葉が会長なら大丈夫だろうって安心しきってるよ」
「なら良かった。春樹たちには安心して自分の作業に集中して欲しいから。クラスの方はどう?」
「うん、一応飾り付けは終わったし、あとは明日の朝イチでメニューの準備をしてって感じかな」
「順調みたいだね。明日は少しでも手伝えればいいんだけど……」
「いいよいいよ。青葉には青葉にしかできない仕事があるんだから」
「そうだね。でも、少しでも時間が取れないか頑張ってみるから」
「無理はしなくていいからね。青葉の手を借りなくてもいいように、ちゃんとシフトは組んであるし」
「ありがとう」と、青葉は優しく微笑んでから、「それより、莉愛との企画の方はどうなってる? 最近全然気にかけてあげられてなかったけど」
「どうにか順調にいってるのかな。大まかなアイディアも決まって、後は文化祭の後にっていう感じ。赤川さんとも、前よりはちゃんと話せるようになったし」
「それならいいけど……何か手伝えることがあったらいつでも言ってね」
「うん。ありがとう」

 青葉がやけに心配性な様子で、思わず苦笑が漏れた。いつも心配をかけている自覚はあるけど、ここまであからさまな態度は珍しかった。

「だけど、それより今は明日の文化祭を頑張らないと。部活のことはその後かな」
「うん、そうだね。私も、まずは明日を乗り切らないと」

 そんな話をしているうちに、気づけばもうお互いの家の前だった。通りの右側には青葉の住む大きなマンションがあり、左側には僕の暮らす年季を感じる戸建てがある。

 僕たちはそこで足を止めると、また明日と言い合ってから、それぞれの家に向かって歩き出した。
 明日は、いよいよ高校最後の文化祭当日だ。
11
 その日は、朝から学校中に浮かれ騒いだ声が響いていた。

 朝イチに教室に集まったみんなはどこか浮足立った様子で、出し物である喫茶店の開店に向けた最後の準備を進めていく。廊下に出てみればどこの教室も同じような様子で、はしゃいでふざけ合うような声がそこここから聞こえてくる。文化祭に乗り気でなかったクラスメイトも、いざ当日が来てしまえば楽しげに友達と笑いあっている。

 この浮ついた空気は、去年や一昨年と変わらない。だけどその中で、僕の気持ちは過去の二年間とは違っていた。

 ずっとこういうイベントごとは、自分とは遠いことのように感じていた。だけど、最後の最後になって、この空気の中に自分がいるんだという実感があった。

 けど、そう感じられるようになったのは、きっと青春部が僕を変えてくれたからだ。それなのに、教室の中を見渡してみても、僕を誘ってくれた彼の姿はない。青葉は生徒会の仕事へ、加瀬くんは弓道部の方の出し物のためにクラスを離れていた。

 文化祭の開始を告げる空砲の音が学校中に響くと、途端にあちこちから歓声が沸いた。高校最後の文化祭が始まっていた。

 クラスの出し物は順調だった。大盛況というわけではないけど、お店を開けてから途切れることなくお客さんは入り続け、こだわったお店の内装も女性客を中心に好評だった。

 そこでの僕の仕事は、料理の提供や席への案内をするホールの役割だった。バイトの経験なんてなかったけど、上手くこなしているクラスメイトの見様見真似で、どうにか大きな失敗もなく乗り切っていた。

 働いていると時間はあっという間に過ぎる。お客さんのピークが過ぎて一息をつくと、気づけばもうお昼過ぎだった。と、また教室の扉が開いた。慌てて出迎えに走ると、そこから顔を覗かせたのは赤川さんだった。どうやら赤川さんは一人みたいで、教室の中をきょろきょろと見回している。誰かを探しているように見えた。

「どうしたの? なんだかお客さんって雰囲気じゃなさそうだけど」
「あ、古河くん。紛らわしくてごめんね。ウエイトレス似合ってるじゃん」
「あ、ありがと」

 今の僕は、今日のための用意したウエイトレス風の制服だった。こんな衣装着たことがなかったから恥ずかしかったけど、褒められてちょっと照れ臭い。
赤川さんは少し声を潜めて、

「ね。伊織って今教室にいる?」
「ああ。加瀬くんなら弓道部の方でお店出してるから、そっちに行ってるよ」
「そっちかー。まあ部長さんだもんね」

 赤川さんは残念そうに肩を落とす。もしかしたら、一緒に文化祭を回ろうとしていたのかもしれない。

 と、その時だった。赤川さんの身体の向こうに、小走りで駆けてくる一人の女子の姿が見えた。今は見かけるはずがないその姿に驚いた。

「あ、青葉!? どうしたの、生徒会の仕事は?」
「え、青葉?」

 僕の声に赤川さんも驚いて振り向いた。青葉は教室の入り口まで来ると、

「この時間は面倒なステージがないから、いったん他のメンバーに任せてきたの。だから、少しの間だけなら手伝えると思う」
「そんな、無理しなくていいのに」

 学級委員の朝倉さんが青葉に気づいて近づいてきた。

「西峰さん、もしかして手伝ってくれるの?」
「うん、少しの間でもよければだけど」
「もちろんだよ」と朝倉さんは教室を見渡したけど、今はお客さんがほとんどいない。
「でも青葉、そんなに仕事ばっかりして、自分が文化祭回る暇はあるの?」

 赤川さんが心配するように言った。

「私は別に、行きたいところもないし」
「えー、もったいない。せっかくだし、自分の成果を見ておくのもいいんじゃない?」

 あっさりと断る青葉にも赤川さんは屈せずに押し続けると、それに朝倉さんが加勢する。

「クラスの手伝いはいいから、古河くんと一緒に回ってきたら? 今ならお客さんもほとんどいないし」
「え、でも僕はまだシフト入ってるし……」
「いいからいいから。古河くんにもずっと頼りっぱなしになっちゃってたし、ちょっとは息抜きしてきなよ」

 思わぬ話の流れに困惑していると、あれよあれよと話がまとまっていく。なんでこんな話の流れになったのか、気づけば青葉と二人で文化祭を回れることになっていた。
12
 それは、突然舞い込んできた幸運だった。

 青葉と二人で文化祭を回れるなんて、つい昨日まで、いや、ほんの三十分前まで想像さえもしていなかった。予期せずして舞い込んだこの幸福を噛み締めながら、僕は青葉と二人で、たくさんの生徒と来場者で混雑した道を歩いていた。

「やっぱり、どこもすごくにぎわってるね」
「ちょっと一度作戦会議しよっか」

 青葉に促されて、屋台のない校庭の外れに移動する。そこまで行って、ようやく一息をつけた。

 自由時間をもらった僕たちが真っ先に向かったのは、加瀬くんのいる弓道部の出店だった。ぜんざいが売られていたそこには、加瀬くん目当てらしき女子たちの長蛇の列が伸びていて、断念せざるを得なかった。次に向かったのは赤川さんの調理部で、僕も試食をしたフィナンシェが売られていたそこは、やっぱり男子たちで長蛇の列だった。

「やっぱりあの二人はすごい人気だったね。混んでるだろうとは思ってたけど、まさかあそこまでとは……」
「だね。うちの制服以外の人もたくさんいたし、他校まで噂が広がってるのかも」

 青葉はそう言うと、何かに気づいた様子だった。

「あ、晃嗣」

 青葉の視線を追って、人混みの向こうへ目を向けてみると晃嗣くんの姿が見えた。隣には文化祭のスタッフが数人いて、彼らにテキパキと指示を飛ばしている。距離があって細かい表情までは見えないけど、スタッフの人たちの態度から晃嗣くんが頼られているのが伝わってくる。

 晃嗣くんも、加瀬くんや赤川さんと同じで非凡なものを持っている。

「頑張ってるね」

 こんな場面を晃嗣くんに見られたら、間違いなくまた睨まれてしまう。僕はつい隠れるように顔を伏せる。

 この瞬間くらいは、どうか今という贅沢を許してほしい。

 と、晃嗣くんは僕たちとは反対側に向かって歩いていき、青葉はその背中をじっと見つめている。

「なんだか、働いている人を外から眺めるのは変な気分」
「そうかもね。こうして一緒に文化祭を回るのだって初めてじゃない? 青葉はいつも運営側にいるし、中学の時だって」
「そうだね。私だって別にやりたくないのに、いつも気づいたらそういう立場になってる」

 青葉は自分から責任者に立候補をするタイプじゃない。ただ、何かを決める時はいつも最適なアドバイスを送ってしまうから、そのまま周りに担がれてまとめ役になってしまう流れが多かった。

「青葉はきっと、そういう星のもとに生まれたんだよ」
「そうなのかな。まあ、だとしてもやることは変わらないけど」

 青葉は目の前を埋め尽くす人混みを眺めながらそう言った。いくつもの屋台が並ぶ通り歩く人たちは、そこで買ったものを片手に隣を歩く友達と楽しそうに談笑している。

 せっかくの機会なのに、このまま校庭の隅で立っているだけというのももったいない。

 これが、青葉と二人で回れる最初で最後の文化祭なんだ。食べ物でも企画でも、どこか一つだけでも回っておきたかった。

「それより、次はどこに行く? まだ時間は平気?」
「うん、もう少しなら。二時から軽音部のステージが始まるから、それまでに戻れれば」
「よかった。何か面白そうなところとかあるかな」

 文化祭のパンフレットを開くと、ステージのタイムスケジュールが目に入った。メインステージの体育館では、常に何かしらの出し物があるみたいだ。

「ちょうど今から、小清水先生たち教師陣が漫才をするらしいけど」
「それはいいかな。……身内のコントって正直かなり寒いし」
「あはは……まあ確かに」

 青葉の歯に衣着せぬ言い方に苦笑する。だけど実際、変に滑ってサムい空気になるのは目に見えていた。

「じゃあ、教室の企画とかだと……」

 と、めぼしいものを探してページをめくった時だった。慌ただしい足音とともに、人の気配が迫ってきた。

 振り向くと、息を切らした一人の男子だった。

「あの、西峰先輩……!」
「どうしたの、そんなに慌てて」

 生徒会の人だろうか。慌てた様子に嫌な予感を覚える。彼は言いにくそうにしながらも、恐る恐るといった様子で、

「すみません、自由時間中に。実は、メインステージの方でちょっとトラブルがあって、その対応を……」
「この時間のメインステージは中山に任せたはずだけど?」
「そうなんですけど、西峰先輩の判断を仰ぎたいと言っていて……すみません」

 その男子は、また悲痛な表情で頭を下げる。青葉は少しも顔色を変えず、ひたすらに冷静だった。

「ううん、半端に任せちゃった私が悪いから。やっぱり、ちゃんと私が見ていなくちゃいけなかった」

 青葉はそう言ってから僕の方を振り向くと、そこで初めて申し訳なさそうに表情をゆがめた。

「ごめん。やっぱり戻らないといけなくなっちゃったから……」
「ううん、いいよ。少し回れただけで満足だから」

 青葉は最後にもう一度「ごめん」と口にすると、生徒会の彼を連れて急ぎ足でこの場を去っていく。通りはたくさんの人でにぎわっていて、人混みに紛れると、その背中はすぐに見えなくなった。

 一緒にいられたのは、ほんの十分か十五分くらいだろうか。なんとなくすぐに教室へ戻るのがはばかられて、僕はゆっくりと寄り道をして帰った。