まぶしい青に、春は惹かれて


 正式に青春部へ加入することを決めてから、僕の日常には確かな変化があった。

 教室での変化は少し加瀬くんと話をすることが増えたくらいなものだったけど、放課後に部室で何気ない時間を過ごしたり、二週に一度の活動日を待ち遠しく思うことも増えた。それは日常の中の小さな一部分に過ぎなかったけど、今まで単調な日々を過ごして来ただけの僕にとっては大きな変化だった。

 当然、刻一刻と迫る受験に向けて授業のスピードはますます早まっていき、毎日は瞬く間に過ぎていく。受験勉強と部活の二つに追われる毎日は今までよりもずっと忙しなかったけど、今までで一番充足感に満ちた日々だった。

 そんな風に日々が流れて、気づけば夏が近づく気配が漂い始める季節になっていた。その間も二回ほど企画に挑戦してみたけど、相変わらず点数は片手で足りるくらいで、当然勝利はつかめていない。

 そして、二カ月と少しが経っても相変わらずなのは、部活のメンバーたちとの距離感だ。赤川さんとはどうしても距離を作ってしまうし、小清水先生は先生という立場の壁があるし、晃嗣くんからの敵意は言わずもがなだ。

 どうにかその関係を変えていきたいと考えていた、そんなある活動日のことだった。

「勝者、西峰青葉!」

 小清水先生が勝敗を告げると、青葉は対戦相手の加瀬くんに、ふっ、と挑発的な笑みを向けて見せた。もちろん、こんな青葉は青春部だけの光景だ。

「やっぱり青葉は安定してるね。伊織も今回のは悪くなかったけど」

 赤川さんが言うと、加瀬くんが憤慨する。

「今回のは、ってなんだ。のはって」
「だって、伊織は両極端すぎるんだもん。面白いとはすごく面白いけど、つまらないときはホントつまらないし」

 赤川さんの冷静な声が、加瀬くんの胸をえぐる音がする。みんなもそれをフォローすることはしないで、共感するような様子だ。

「青葉はいつもこれくらいの点数なの?」僕は訊いた。
「青葉先輩は、安定して二桁に乗せてきますからね」

 そう答えたのは晃嗣くんだった。言葉には棘があったけど、どこか誇らしげだ。

 二桁なんて、僕には夢のまた夢の点数だ。まだ青葉と当たったことはないけど、間違いなく勝負にすらならない。

「バカにされてるけど、伊織だって最高得点保持者だし、青葉とも互角の戦績なんだぞ?」
「先生、そんなあからさまにフォローしないで……」

 小清水先生の励ましにも、加瀬くんは拗ねた様子だ。

 いつもみんなにからかわれているけど、加瀬くんがすごいのは分かっている。もちろん赤川さんも晃嗣くんも、レベルの高い企画を見せてきた。
せめて、いい勝負ができるくらいには頑張りたいけど……

「それより!」と加瀬くんは強引に話題を変えて、「そろそろ次の対戦カードの発表といこうじゃないか」

 待ってましたと言うように、みんなは期待のこもった目を加瀬くんに向ける。間が空いたから、次は僕の番がくるんじゃないかという予感があった。

「次は――」

 加瀬くんが数秒ほどの溜めを作る。その長さにみんながだんだんと焦れ始めた時、

「ちょっと変わり種を用意した」
「……変わり種?」晃嗣くんが怪訝に言った。
「そ。そろそろみんな普通の企画も飽きてきた頃かなあと思ってな。そんなみんなのために、ちょっとした刺激を用意したわけだ」
「前置きはいいから、結局変わり種ってなに」

 赤川さんからの冷静な急かす声を受けて、加瀬くんは隠れるようにサングラスをかけ直した。

「……コホン。次回はなんと、久しぶりのペア対戦だ」

 青葉と赤川さんが「おお」と歓声をあげ、晃嗣くんは怪訝な様子だった。

「ペア……?」
「晃嗣と古河は初めてだよな。ペア対戦っていうのは、要は二対二の対戦だ。

 二人ずつのペアでそれぞれ企画を考えて、ペア同士で競い合うわけ」

「ペア同士で……」

 つまり、今まで一人で考えて作っていた企画を、誰かと協力しながら作っていかなければいけないんだ。それは僕みたいな下手くそにとってはありがたいルールな気もする反面……

「青葉も莉愛も久しぶりだろ?」得意げに小清水先生が言った。
「……うん、一年ぶりくらいかも?」

 赤川さんが答えた。部活の間、基本的にメンバーは(僕を除いて)小清水先生に対してはタメ口だ。

「で、そのペアっていうのはどうするんですか?」晃嗣くんが訊いた。
「ああ、俺は準備がいいからな。もちろん組み合わせはもう決めてある」

 加瀬くんの言葉を受けて、みんなに緊張が走った気がした。もちろん僕もその一人だ。すべてを一人でこなす普段の活動と違って、協力が必要な今回の形式では、ペアの組み合わせが勝敗に直結するはずだ。

 それに、同じペアになれれば一緒にいる時間だって……

 僕は、ちらと青葉の方を見てから、すぐに加瀬くんの方を向いてその言葉を待った。

「まず一つ目のペアは――」

 加瀬くんはそこでまたタメを作る。思わず唾を飲み込んだ。

「晃嗣と俺。……そして二つ目は、古河と莉愛だ」

 加瀬くんからの発表を聞いて、ほうっと一度息を吐いた。青葉とペアになれなかった落胆と、赤川さんとペアを組む不安が入り混じった感覚だった。そこにたぶん、晃嗣くんとじゃなかった安堵も若干だけ混じっている。

 思わず赤川さんの顔をのぞき見た。不安と不満が混じったような、そんな表情に見えた。

「……私、伊織とが良かった」
「まあまあ、俺とのペアは前に一回やっただろ?」
「でも……」と、まだ釈然としていない赤川さんに青葉が加わる。
「ねえ、伊織。ペアの変更はダメなの? 莉愛と春樹が組むのはまだ早いと思う。私が莉愛と替わった方が……」
「ダメだ。これは俺が昨日のうちにあみだで決めたことだからな。あみだの結果は変えられない」

 加瀬くんは、青葉の提案をピシャリと退けた。

「ねえ、対戦カードって毎回あみだで決めてるの?」

 そう訊くと、答えたのは小清水先生だった。

「基本的には、俺が伊織と相談しながら決めてんだ。同じカードが続いたり、一人に負担がかかったりしないように、満遍なくな。ただ、悩んだときは全部伊織の一存だ」
「というわけで、今回は俺の一存! 俺の決定が絶対だ! 部長の言うことに従いなさい!」

 青葉と赤川さんは、加瀬くんの強引なその言葉に不満顔を浮かべながらも、これ以上文句を言うことはなかった。

 こうして加瀬くんに押し切られる形で、次回の活動の対戦カードは、僕と赤川さんペア対加瀬くん晃嗣くんペアとの対戦に決定したのだった。

 週明け月曜日の放課後、帰りのHRが終わると同時に教室を出ると、ちょうど青葉と一緒になった。青葉の表情が何か言いたげで、立ち止まって話し込む形になる。

「ペア、本当に大丈夫? もう一度私から、伊織に交代できないか頼んでもいいし」
「大丈夫だよ。せっかく同じ部活に入ったんだから、赤川さんともちゃんと話せるようになりたいし」
「それならいいけど……」

 心配そうに眉を下げる青葉の表情に、少しだけ寂しくなる。この青春部に入ってから、青葉にこんな顔をさせることが多くなっている。青葉の心配そうな表情を見られるのはきっと僕だけで、少し前まではそれが嫌いじゃなかった。だけど部活中の青葉の溌剌とした顔を知ってしまった今、こんな顔しかさせられない自分が悲しくなる。

「でも、企画のことはもう考えてるの?」
「……まだ。けど、この後赤川さんと相談するんだ」
「そう、莉愛と……」

 そうつぶやく青葉の口調が、なんとなくそっけない気がした。

「はあ、そろそろどうにか勝ちたいなあ。いや、せめていい勝負くらい……」

 今回の対戦相手が晃嗣くんに決まって、リベンジをしたい気持ちはもちろんある。だけど、最初に見せつけられたおばけ屋敷の圧倒的なイメージが強すぎて、勝てるビジョンはまるで見えてこない。しかも相手は晃嗣くんだけじゃない。加瀬くんだって、最高得点の記録を持つ実力者だ。

「春樹はまだ入ったばかりなんだか、あんまり気負わなくていいよ」
「うん、ありがとう。できる範囲で頑張ってみるよ」

 赤川さんとは帰りのHRが終わり次第、部室で合流する約束になっている。きっともう先に着いている頃だろう。「じゃあ、もう行くね」と青葉に別れを告げてから、部室を目指して歩き始めた。



 部室に入ると、先に待っていた赤川さんが頬を膨らまして出迎えた。

「こら、遅いよ~」
「ご、ごめん。ちょっと青葉と話し込んじゃってて……」
「まあいいけどさ、この後部活あるからサックっと始めちゃお」

 この時間の赤川さんは、裸眼に二つ結びという普段の学校で見せるアイドルのようなスタイルだった。少しずつ赤川さんの際立った容姿にも慣れてきたつもりではいたけど、小さな部室で二人きりになると嫌でも身体に力が入る。

「う、うん」と、久しぶりの明るい赤川さんに圧倒されつつ、少し離れた椅子に座る。近くに座れないのは僕の意気地なしだ。
「部活って、ちゃんとした方の?」
「そ。調理部だよ。まあ、そっちも自由な部活だから、わりと適当だけどね。それよりどう? 何かアイディア考えたりしてきた?」
「ごめん。まだ何も……それを今日話し合うのかなって」

 事前に赤川と話したのは、この時間に次の企画の相談をするということだけだ。誰かとペアを組むのは初めてで、どんな段取りになるのか分かっていなかった。

「まあそれもそうなんだけどね、もし古河くんに何かアイディアの用意があるならそれが使えるかなって」
「ごめん、用意とかも全然してなくて……でも、アイディアを考えるのは赤川さんの方がいいよ。押し付けるわけじゃなくて、僕のアイディアじゃあの二人には勝てないから……赤川さんの足は引っ張りたくないし」

 僕の考える企画ではみんなと戦えないことくらい、もう身に染みて分かっている。僕のつまらないアイディアのせいで、誰かの足を引っ張ってしまうなんて耐えられなかった。

 そんなことを考えてつい顔をそらしていると、叱るような声だった。
「言っておくけど、古河くんのアイディアを使うかどうかは私が決めることだからね」

 赤川さんの方を見ると、頬を膨らませながらも、どこか真面目な顔だった。

「ご、ごめん……」
「もう。これだから役人ジュニアは。少しは伊織のバカを見習って、つまらない企画を堂々と見せるくらいの気概はないの? いや、堂々と見せられても困るけど……」
「ご、ごめん……」と、ついまた謝罪が口を出ると、赤川さんはまたムッとして、
「もう決めた。企画の原案は古河くんが担当ね! 明日までに、いくつかアイディアを考えてくること。宿題だから!」

 学校での姿をした赤川さんは、部活の時とは打って変わって言葉に力がある。僕は「う、うん」と勢いに流されて頷くのが精一杯で、それを見た赤川さんは「じゃあ私は部活に行くから」と、慌ただしく部室を去って行った。

 企画の原案なんて荷が重過ぎるよ……

 赤川さんがいなくなった後、ようやく抗議の言葉が頭に浮かんできたけど、あまりにも今更すぎたし、それを本人に言えるだけの勇気もない。どうなっても知らないぞという諦めと、やっぱり足を引っ張りたくない想いとがせめぎ合う。

 椅子の上で頭を抱えていると、ドアの開く音がした。顔を上げると、小清水先生が入ってくるところだった。

 小清水先生がこの部室に顔を出すのは珍しい。

「あれ、もう終わっちゃったの?」
「え?」言葉の意味が分からずに訊き返す。
「莉愛と話し合いしてたんだろ? さっきたまたま西峰に会って聞いたんだよ」
「ああ。赤川さんに用事ですか?」
「いや。用事っていうか、おまえらがどうしてるかなーって興味本位で。やけにしょげた面してるな」

 言いながら、小清水先生は部室の隅に置かれた椅子を僕のすぐ隣に移動させてそこに座った。先生の言葉は軽い調子だったけど、その中に気遣うような響きがあって、つい弱さをこぼしてしまう。

「僕じゃ、赤川さんの足を引っ張るだけなんです」
「決めつけるなよ。おまえにできることだってあるさ」
「企画の準備くらいならできますけど」と、僕は苦笑してから、「本来、僕はみんなとは住む世界が違いますから」
「……それは、おまえがそう思い込んでるだけじゃないのか?」

 僕は首を振って応える。

「なんだか、いろんな人に気を遣われている気がするんです」

 先生は言葉を待つように、ただ黙ったままでいた。
 
 いつも僕を心配するような目を向けてくれる青葉と。そして、

「加瀬くんはきっと、僕と赤川さんの仲を取り持とうとしてペアを組んだんです。あみだなんて、わかりやすい嘘までついて」
「まあ確かにな。活動中の伊織はバカっぽく見えるかもしれないけど、実際はバカじゃないし。いろいろと考えてるだろうさ」
「で、ですよね……」
「けど、別に気を遣われた結果でもいいんじゃないのか? 部員と交流を深めるチャンスだってことに変わりないんだから」

 確かに、青葉や加瀬くん以外の部員との間にある壁をなくしたいと思っていたのは事実だ。今回ペアを組めたことは、間違いなく距離を縮めるためのきっかけになるとは思う。だけどどうしても、加瀬くんが組み合わせを発表した時の、あの赤川さんの不満そうな顔が思い出されてしまう。

「なんだか、赤川さんに悪くて……今日は普通に話してくれましたけど、部活の時はまだまだ僕にだけ素っ気ないし……」
「まあ、あいつはなあ……」と、小清水先生は困ったように頭を掻いてから「人見知りだからとっつきにくいかもしれないけど、あれで打ち解ければ楽しいやつなんだ」
「人見知りって、赤川さんがですか?」

 思わず驚いて訊き返す。

 学校での赤川さんはいつも明るい笑顔を振りまいていて、誰にでも分け隔てなく接する人だった。それに、同じクラスになった事のない僕でさえ何度も噂に聞いていたほど、顔だって広い。

「いつも活動の時に見てるだろ、あのじみ~な格好。普段の学校の姿を見てると信じられないかもしれないけど、あっちが本当のあいつだよ」

 僕が何も言えずにいると、先生はさらに続ける。

「あいつらにとっては、この部活だけが自分をさらけ出せる場所なんだ」

 本当は、あの部活での姿と表情を見た瞬間に、学校での赤川さんは作られたものなのかもしれない、と頭をよぎらなかったわけじゃない。

 そして、それは赤川さんだけじゃない。加瀬くんだって教室での姿とはかけ離れた浮かれた格好で、晃嗣くんも普段の知的で真面目そうな身なりとは真反対だ。

 だけど三人とも普段の学校での姿もすごく自然で、それが作り物だとはとても信じられなかった。

「……じゃあ青葉も?」
 
 あの四人の中で、青葉だけは普段と大きく姿を変えていなかった。確かに学校では表情を隠しているのに対して、部活の時はよく笑うし言葉だって砕けているけど、それは見知った仲間しかいない空間だからという理由なだけにも思える。

「ま、今は悩め悩め」と、小清水先生はいたずらっぽく笑うと、勢いよく立ち上がった。そして、「それじゃあ頑張れよ」と別れを告げてから、ひらひらと手を振りながら部室を去っていく。

 再び部室に一人になった僕は、なんとなくすぐには帰る気になれなくて、意味もなく部室をくるくると歩いてから、ようやく帰路についた。

 家に着いて自分の部屋へと入った僕は、今すぐにベッドで横になりたい衝動を抑えて、そのまま椅子へと腰を掛けた。

 いつもならここで問題集でも開くところだけど、今日は大事な宿題がある。問題集の代わりに開くのは、まだまっさらなノートだ。

 赤川さんが満足するような面白いアイディアなんて、僕に考えつくのかは分からない。それでも、今は自分にできることをする以外にはない。

 ペンをとって、さっそく思いついた企画の一つを書き出してみる。が、すぐにあまりのセンスのなさに頭を抱えた。恥ずかしさですぐにそれを消したくなったけど、ぐっと我慢をした。今回は質には目をつぶって、思いついたままに書いていこうと決めていた。

 またそこからうんうんと唸りながら、思いついたものをぽつぽつと書き出していく。「かくし芸大会」「カラオケ大会」……思いつくのは社会人の宴会みたいなものばかりで、盛り上がる予感もなければ、そもそも僕自身がやりたくない。納得のいくものは、一向に思いつかない。

 考えているうちに夕食とお風呂の時間になって、それを済ませてからまた考える。そこからはまたネットの動画サイトを漁って、それを参考にしつつ探し続けた。

 一つのことに集中していると、時間はすぐに過ぎる。いよいよ夜も遅い時間になった頃、ついにこれ以上アイディアが絞り出せなくなり、机の上にうなだれた。ごろりと机の上で上半身を横に向けると、地面に置かれたジオラマキットの箱が目に入った。小さなものを組み立てるのが好きで、幼いころからずっと作り続けてきていたけど、新しいものを二年生の終わりに買ったきり、今日まで全く触れていなかった。

 受験がひと段落するまではお預けかな。

 時計を見ると、もうとっくに日付が変わっていた。さすがに今日はもう寝ようと、椅子を立ち上がりかけた時だった。

 ふと、明日の授業の予習ができていないことを思い出す。次の日の授業の予習だけは、どんなに忙しくても今日まで毎日欠かさずに続けてきたことだった。それをここでやめてしまうのは簡単だ。けど――

 僕は「よしっ」とつぶやいて、眠りを求める身体に鞭を打つ。もう一度机に向かい合って、明日の授業の教科書を開いた。



「ど、どうでしょうか……」

 次の日だ。この日も授業の終わりに部室で落ち合って、僕はびっしりとアイディアを書き出したノートを赤川さんに見せていた。

 赤川さんは受け取ったノートをぱらぱらとめくりながら、そこに書かれた文字を目でなぞっていく。いったい何を言われるのか緊張が走る。部室には静寂が漂い、ノートをめくる音がやけに大きく聞こえた。

 耐えきれずにつばを飲んだ、その時だった。やっと顔を上げた赤川さんは、恐ろしいものを見たかのような目をしていた。

「これ、全部昨日の夜考えたの……?」
「う、うん。やっぱりちょっと勢いで書きすぎちゃったかな……」

 思いついたものを書き連ねているうち、結局一冊のノートがアイディアだけでびっしりと埋まってしまっていた。

「書きすぎっていうか、これだけあってことごとくつまらないんだけど……」

 つまらない、それは覚悟していた一言のはずだった。だけど実際に突きつけられると、心にくるものがある。ごめん、と言葉が出かかった時だった。

「でも、まさかノートまるまる一冊埋めてくるとは思わなかったな」と、赤川さんが苦笑した。

 それは普段学校で見せる完璧な笑顔じゃなくて、部活の時に加瀬くんたちに見せるような素直な笑顔だった。そして、それが僕に向けられたのは初めてのことだった。その表情に照れ臭くなる。

「面白いものを考えつく自信がなかったから、せめて少しでもたくさん考えていかないとと思って」
「それで夜通し考えてたの? 目、すごいクマできてるよ?」

 言いながら、赤川さんは僕の顔を覗き込む。顔の近さにまたドキッとして、つい目をそらしてしまう。学校での赤川さんは、こういう仕草が自然に出てきてやっぱり卑怯だ。

「まあ……それもあるけど、授業の予習とかもしてたら深夜になっちゃって」
「これだけアイディアを考えて、それで予習までしたの?」
「次の日の予習は日課だから、どうしてもやらないと気が済まなくて……結局、そのせいで授業中居眠りしかけちゃったんだけど」
「なにそれ、本末転倒じゃん」

 僕が自嘲気味に笑うと、赤川さんはまた自然な笑みで返した。しばらくそうして笑い合っていると、赤川さんはふと目を細めて、

「正直、古河くんって最初は役人みたいでつまらない人かと思ってたけど……いや、今もつまらないことに変わりないんだけど、でもなんか面白いね」

 なんとも言えない褒め言葉の反応に困っていると、赤川さんは再び視線を手元のノートに移してぺらぺらとページをめくりだす。

「ねえ、もしかして工作とか得意なの? なんか仕掛けを作るようなネタが多そうだけど」
「工作っていうか、何か仕掛けを考えたり細かい作業をしたりするのは少しだけね。……でも、やっぱり現実的じゃないのばっかりだよね」

 うーんと唸りながらページをめくっていると、ふとその手が止まった。

「これ、ちょっと面白いかも……」
「え?」とページをのぞき込む。そこに書かれていたのは、とても赤川さんの気を引くような面白いものには思えなかった。
「これをやるの?」
「うん。このままじゃ微妙だけど、アレンジしたらきっと映えると思う!」

 力強いその言葉に背中を押される。どうすればこのアイディアが映えるのか想像もつかなかったけど、きっと赤川さんには考えがあるはずだ。

「じゃあ、次は何の準備をすればいい?」
「うーん、アレンジはこっちで考えるから、企画はいったん放置しよっか。どうせ、そっちだってこれから忙しくなるでしょ?」
「忙しく?」

 忙しくなるような要因が思い当たらず首をかしげる。と、赤川さんは少し呆れたように、

「文化祭の準備、そろそろ始まる頃でしょ?」
「あ……」

 言われて思い出す。この森宮第一高校の文化祭は、毎年七月の頭に開催されることになっていた。忙しく過ぎていく毎日の中ですっかり抜け落ちていたけど、いよいよ準備も始まる頃だった。

「お互い、まずは目の前の文化祭を頑張ろ」

 高校最後の文化祭が、もうすぐそこまで迫っていた。

 クラスのHRで文化祭の出し物について話し合われ始めると、学校中には一気に浮足立った空気が漂い始める。文化祭の準備期間中は青春部の活動は休止になるようで、普段は隔週の活動もさらに間隔が開いてしまう。

 文化祭が近づくにつれて生徒会長である青葉の忙しさも増していき、一緒に登下校ができる頻度もずいぶんと減ってしまっていた。

 そして、いよいよその週の週末に文化祭をひかえたある日。その日は週に一度のLHRの時間があり、その時間を利用してクラスの出し物の準備を始めていた。「こっちのり貸してー」「模造紙これで足りる?」「誰かこっち手伝って!」と、教室中には活気あふれる声が入り乱れる。教室の中がこんなににぎやかになるのは、一年のうちでこの時期だけだ。

 クラスの出し物は、先週の同じ時間の話し合いで喫茶店をすることに決まっていた。そこにたどり着くまでは早かったけど、ただの喫茶店じゃつまらないからコンセプトを決めよう、という意見が出てからが長かった。五十分の授業時間のほとんどを使い、最終的には一部の女子の意見で、童話のお城の雰囲気をイメージした喫茶店にすると決まったのだった。

 まだ実際に教室を飾り付けるわけにはいかない中で、前日の準備が少しでも楽になるように装飾のパーツを作ったり、衣装の準備に取り掛かったりしていた。

 教室の奥では青葉が黙々とウエイトレス風の衣装に小物を縫い合わせ、加瀬くんは数人の男子と一緒にテーブルの配置について話し合いをしている。同じ教室にいるはずなのに、やけに二人が遠かった。

 ここ最近はみんなで集まれる機会もなくて、一抹の寂しさがあった。

「西峰さん、当日は生徒会の方にかかりきりになるんだろ? めちゃくちゃ戦力ダウンだよな」

 僕と一緒に内装のパーツを作る作業をしていた山本くんが言った。

「うん。たぶん前日の準備から、ほとんど生徒会の方が中心になると思うって」
「まあ、そうだよな……加瀬だって部活の方で出店するんだろ? 二人が呼び込みでもしてくれれば、放っておいても千客万来だったろうに」

 そう口にする山本くんの手は、止まったり動いたりだ。

「二人は仕方ないよ。その分、僕たちが頑張らないと」
「頑張るってもなあ……三年にもなって文化祭頑張ってる場合じゃないし。正直、この時間だって受験勉強に当てたいくらいだよな」

 山本くんが乗り気じゃないのは、文化祭の準備が始まった時から気づいていた。そして、それは山本くんだけに漂う空気じゃない。一、二年生の時は文化祭に張り切っていたクラスメイトも、この三年生の文化祭ではいまいち乗り切れていないのが伝わってくる。

 きっと数ヶ月前までの僕ならこの空気の中に混じって、不満を抱えながらも流されるままに参加していたのだと思う。

 だけど今は、そうやって一歩引いて眺めているだけの自分にはなりたくなかった。

「僕は……これが最後の文化祭なんだから、手は抜かずに頑張りたいな」

 視線は手元の模造紙に向けたまま、それを大きな窓の形にハサミで切り取りながらそう言った。その言葉に、隣では山本くんが驚いているのが伝わってきた。

「春樹、三年になってから少し変わったよな」
「うん、そうかも」

 それがいい変化なのか、確証なんてない。だけどもし、それが自分で決められることなら、間違いなく僕は前を向いている。

 その日はすぐに家には帰らず、学校の図書室を使って勉強をしていた。

 つい集中をし過ぎて、気づけば完全下校時刻までもう少しだ。だんだんと司書の人が店じまいの準備をしているのが見えて、慌てて荷物を片付けて図書室を後にした。

 日が伸びたこともあって、こんな時間になってもまだ廊下は明るい。築数年の真新しい校舎の壁は、窓から差し込む夕日に照らされて輝きを放っている。ふと、廊下の奥へと目を向けた。この先には旧校舎へと続く連絡通路の扉がある。その扉のさらに向こうにある古びた内観が頭の中によみがえり、ほんの少しそれが恋しくなった。

 その時、廊下の奥の影から一人の姿が現れて、連絡通路の方へ向かっていく。そして、そのままその扉を開けて旧校舎の中へと入っていった。
遠目だったけど、今旧校舎に入っていったのって――

「何をしているんですか?」
「うわあっ!」

 突然の背中からの声に驚いて思わず跳ね上がる。慌てて振り向くと晃嗣くんだった。

「ちょっと図書室で勉強してたらこんな時間になっちゃって……それより今、小清水先生が旧校舎の方に入っていったように見えたんだけど、何か知らない?」
「さあ。今は部活も休止中ですし、普通に見回りとかじゃないですか?」
「そ、そうだよね」

 当たり前に考えれば、晃嗣くんの言葉はもっともだ。だけど旧校舎の扉を開ける時の小清水先生の後ろ姿に、何か引っかかるものを感じていた。

 どこか寂し気だったような……

 と、晃嗣くんは廊下に誰もいないことを確認するように左右を見ると、不意にそのメガネの奥の両目を鋭くとがらせた。

「でも、ちょうどよかったです。春樹先輩と会えて」

 よかった、という言葉とは裏腹に、その口調は視線同様に棘があった。たじろいでいると晃嗣くんが続ける。

「あなたとは、一度ちゃんと話をしておきたかった」
「僕と……?」

 晃嗣くんが僕と話したいことなんて本当は分かっている。青葉について、それ以外にあるわけがなかった。

「単刀直入に言います。青葉先輩に付きまとうのをやめてください。あなたは、先輩にふさわしくない」

 ピシャリ、と、有無を言わせないような強い口調だった。さらにメガネの奥の鋭い瞳が僕の顔を射抜き、反論を封殺しようとする。

 耐えきれずにつばを飲む。思わずうなずいてしまいそうになるほどの凄みがあったけど、それでも折れるわけにはいかない。

「おまえは青葉にふさわしくない……散々言われてきたし、自覚はあるよ。けど、誰と一緒にいようが僕の自由だ」
「それは同じレベルの人間同士の場合だけに通用する理論です。でも、そうじゃない。あなたは、青葉先輩の足を引っ張っている」
「僕が、青葉の……?」
「あなたに対する青葉先輩の態度は、明らかにおかしい。この間、伊織先輩がペアの組み合わせを発表した時に確信しました。誰かをかばうような、他人を甘やかすようなことは絶対にしない」
「それは……」

 図星だった。青葉の僕に対する態度は、他の誰に対するものとも違っていて、それは彼女にとって僕が庇護の対象になっているからだ。そんなことは、ずっと前から分かっていた。

 だけど、せめて後少しの間だけでも僕のわがままを許してほしい。

 言葉に窮していると、晃嗣くんは呆れたように目を伏せる。

「まあ、今さら少し言ったくらいで聞かないのは分かっています。ところで、次の企画のアイディアは決まりましたか?」
「え? まあ、ネタは決まったから細かいところをこれからって感じだけど……」
「そのネタは莉愛先輩が?」
「ううん、僕が考えた」
「へえ」と晃嗣くんは少し驚いた後、笑みを浮かべて、「もしそれが失敗したら、あなただけでなく莉愛先輩まで恥をかいてしまいますね。あなたみたいな凡人と関わってしまったばっかりに」

 言い返せずに言葉に詰まる。それを否定できるだけの自信が、僕にはわずかもなかった。

「まあ、企画なんて先の話です。文化祭ももうすぐですから。皆さんのためにオレたち生徒会も一生懸命準備しているので、ちゃんと楽しんでくださいね」

 晃嗣くんは穏やかな微笑みを携えてそう言うと、「それでは失礼します」とこの場を去っていった。

 僕はただ、その背中を見送るばかりだった。

 翌日の放課後、教室の前の廊下で僕は青葉を待っていた。

 毎日のように生徒会の仕事に追われていた青葉が、珍しく今日は活動がないと話をしていて、それなら、と久しぶりに一緒に帰る約束をしたのは朝のことだ。

 やがて、帰宅を急ぐクラスメイトに紛れて教室を出てきた青葉は、すまなそうな顔だった。

「ごめん、やっぱり今日も帰れなくなっちゃった」
「いいよ。生徒会でしょ?」
「うん。この時期はどうしても仕事が山積みで……」
「一年の一大イベントだもん。しょうがないよ」
「ありがとう。行ってくる」と、言うや否や慌ただしく去っていく青葉の背中を見送る。

 ここ最近の青葉はずっとこんな調子だ。文化祭関係の仕事に追われているみたいで、毎日完全下校時刻のギリギリまで生徒会に打ち込んでいる様子だった。朝早くから学校に行くことも珍しくなくて、ずっとすれ違いのような日々が続いていた。

 こんなに忙しくて、勉強する時間あるのかな?

 ふと青葉のことが心配になる。どれだけ超人のような才能と体力を秘めた彼女でも、さすがにこの忙しさは負担になっているんじゃないか、という心配が頭をかすめた。

 でも、とすぐに思い直す。さっきの青葉の顔に、疲れの色はなかった。今日の授業中、先生に問題を当てられた時だって、それが難問だったのにもかかわらず、あっさりと答えて教室を沸かせていた。

 やっぱり、青葉ならこの程度余裕なんだ。僕みたいな凡人と同じはかりで測れるはずがない。

 早く帰って勉強をしよう。そう思った時、スマホの震える感覚があった。短いバイブレーションは、メールの通知だ。

 ポケットから取り出して画面を見ると、差出人は赤川さんだった。

『今から部室!』

「もう疲れた~~!」

 部室のドアを開けるのと同時、赤川さんの気の抜けた声が聞こえてきた。部室の奥では、椅子の背もたれをお腹に当てるようにして座った赤川さんが、両足をぽーんと投げるように伸ばしている。

 僕は彼女の近くに椅子を置いて、そこに腰を掛けた。

「どうしたの急に」
「どうしたも何も、ずっと文化祭の準備続きで参っちゃったよ。決めなきゃいけないことがあるたび、みんなして私に丸投げするんだもん」
「そ、そうなんだ……」

 その態度と言葉から、相当なストレスが溜まっているのが伝わってくる。口調や見た目はいつもの人気者の彼女だけど、こんな風に素直に負の感情を表に出す姿は部活の時のようだ。

「私、別に学級委員でもないんだよ? だけど、私に任せたら楽だと思ってるんだろうね。まあ、私が今までそういうキャラでやってきちゃったから、しょうがないのかもしれないけどさ」

 クラスで決めごとをするのは、男子や女子、明るい人と暗い人、いろいろな立場の人の考えに折り合いをつけなければいけない、相当気が折れる作業だ。確かに、男女問わず信頼の厚い、人気者の赤川さんに頼ってしまいたくなる気持ちもわかる。

「やっぱり赤川さんはすごいね」
「すごくなんてないよ。私なんて、みんなの顔色を窺ってただニコニコしてるだけなんだから。本当にすごいっていうのは、青葉みたいな人を指すんだよ。今は私なんかよりずっと忙しいんでしょ?」
「この時期はどうしてもね。もう毎日朝から晩まで仕事に追われてるみたい」
「やっぱり。さすが青葉だ」

 赤川さんは、呆れのこもったような顔で苦笑した。

「赤川さんは部活で出したりしないの?」僕はふと気になって訊いてみた。
「もちろん出すよ。一応調理部だし、今が見せ場だもん。……ホント、いやになるよね。そんなに頑張れないよ」

 一瞬の沈黙の後につぶやかれた言葉には感情がこもって聞こえた。いつもの部活の時の地味な彼女こそが本当だ、と、小清水先生が言っていた言葉が、少しだけ実感できた気がした。いつも学校中で明るい笑顔を振りまいている赤川さんも、その笑顔に疲れてしまうことだってあるんだ。

「青春部」なんていう名前の部活にいながら、文化祭に頭を悩ませている姿は皮肉みたいだった。

「文化祭なんて、いかにも青春っぽいのにね」と、僕がおどけて言うと、「確かに」と赤川さんは寂しそうに笑った。
「でも私、ズレてるから。いかにも青春におあつらえ向きなイベントを用意されても、そんな素直に楽しめないよ」
「僕も、去年まではそうだったよ。でも、この部活に入ったおかげかな。案外、こういうイベント事に全力になるのも悪くないかなって……それに、この文化祭のために青葉が頑張ってくれてるんだから、僕も頑張らないと」

 僕の言葉に、赤川さんは目を細めて苦笑する。

「古河くんって、なんていうかホントまっすぐだよね。ちょっと羨ましいくらい」
「そうかな」

 赤川さんは、「そうだよ」と言いながら椅子をガタガタと揺らして僕の方へ身体を向けると、不意にいたずらっぽく笑った。

「ね。なんでそんなに青葉が好きなの?」
「え、好きって!?」

 あまりにも不意打ち過ぎる突拍子もない質問に、思わず声がひっくり返った。赤川さんは、さらに距離を詰める。

「好きなんでしょ? 青葉のこと」

 僕は目をそらしながら、青葉のことを想う。

 好きとか嫌いとか、そんな簡単な言葉じゃない。そういう言葉で表していいほど、僕と青葉の距離は近くない。それくらいの自覚はあるし、わきまえている。

「好きっていうか、憧れだよ。僕じゃ住んでる世界が違いすぎるし。……それでも、こんなに近くで見上げていられるんだから、それだけで十分幸せだよ」
「二人の関係はよくわかんないけどさ。でも、本当にそれでいいの?」
「いいもなにも、僕にこれ以上は無理だよ」

 そんな話をしていたら、なんだか青葉の懐かしい姿を思い出していた。
今も昔も、僕と青葉の関係は変わらない。いつだって僕は、彼女のことを見上げ続けていた。

 初めての出会いは幼稚園の広い部屋の中で、たった一人でトランプ遊びをしている彼女の姿を見かけたことだった。どこまでが本当の記憶か分からないけど、窓際のスペースで一人トランプをいじっている彼女のイメージが頭の中に今も焼き付いている。

 周りのみんなは友達同士や先生と一緒に遊んでいたのに、彼女の周りには誰もいなくて、今と変わらずに孤高だった。

 窓から差し込む光を浴びた彼女の姿が印象的で、僕が声をかけたのが始まりだった。どんなことを話したのか、今となってはもう覚えていないけど、僕は彼女と二人で何かトランプの勝負をしていた。

 勝負の結果は、当然僕の惨敗だった。当時から飛びぬけた才能を持っていた彼女の強さは圧倒的で、僕はそんな彼女の強さに惹かれ、それ以来後を追いかけるようになっていた。

 断片的に思い出す青葉との幼い記憶は、いつも僕が見上げる形だった。

 雲梯から落ちた僕の顔を心配して覗き込む彼女。

 九九を覚えるのに四苦八苦していた僕の隣で、複雑な割り算をあっさりと解いてしまった彼女。

 自転車にさえ乗れない僕を横目に見ながら、得意げに一輪車を乗り回す彼女。

 青葉はどんな時も僕の想像を超えるようなことを成し遂げてきたし、そんな彼女に憧れて後を追いかけることが、僕にとっての喜びとなっていた。

 小学生になり、中学生になり、高校の卒業がだんだんと近づいてきた今でも、その関係は変わっていなかった。

 いつだって青葉は、近くにいるのにずっと遠い。

 次に頭に浮かんだのは、夕陽の差し込むこの学校の廊下だった。そこに立っているのは、鋭い目をした晃嗣くんだ。図書室で勉強をした帰り、偶然晃嗣くんに出会った時の光景だった。

『あなたは、青葉先輩にふさわしくない』

 頭の中の晃嗣くんがそんなことを言った。

 その時に告げられた言葉の数々が、連なるようにして次々と頭によみがえってくる。

 青葉にふさわしくない。青葉の足を引っ張っている。次の部活で僕のアイディアがこけたら、ペアになった赤川さんにまで恥をかかせてしまう。

 その時は無視できていたはずの言葉たちが、今になって僕の胸をえぐり始めた。

 僕は視線を椅子の足に逃がして、つぶやくように言った。

「次の企画、僕の考えたアイディアで本当に大丈夫かな」
「どうしたの突然。そう決めたじゃん」

 突然の言葉に、赤川さんは明らかに驚いた様子だった。

「うん、そうなんだけど……もし僕のアイディアのせいで、赤川さんに恥をかかせるようなことになったら……」
「もしかして、晃嗣になんか言われた?」

 晃嗣くんとのことを話すのはためわれて濁したはずの言葉の裏側は、あっさりと看破されてしまった。ごまかす為の言葉が浮かばなくてまごついていると、赤川さんはやっぱりなあという様子で、

「あいつはそういうところあるからなあ……気にしなくていいのに」
「でも――」
「あの企画は私が選んだんだよ? だから、もしウケなくてもその時は連帯責任だよ。むしろ、そのアイディアで私たちが勝って、晃嗣を見返してやろうよ」

 それでもすぐには切り替えられずにうつむいたままいると、隣で赤川さんが席を立った気配がした。気になって隣を向くと、「ちょっと口開けて」と両手を背中に隠した体勢でいたずらっぽく微笑んでいた。怪訝に思いながらも言われた通りにすると、開いた口に突然こげ茶色の何かが突っ込まれた。驚いてから、口の中に香ばしい甘さが広がるのに気づく。

 口に突っ込まれたそれをかじって手に取ると、きれいな焼き目のついたフィナンシェだった。

「美味しい?」
「え。う、うん」
「良かった。それ、今度の文化祭で出す奴の試作品なんだけど、私あんまり洋菓子好きじゃないから、自分だとよくわかんなくて」

 気づけば、話題は赤川さんのペースだった。

 残ったもうひとくちを口の中に放る。さっきは突然のことで味が良く分からなかったけど、ほどよい甘さと心地の良い食感でやみつきになってしまう。

「うん、やっぱりすごくおいしいよ! 本格的なお店で売ってるものみたい」
「そ、そんなに? 実はまだいっぱい余ってるんだよね。昨日作ったやつだから早く食べないといけないんだけど……」

 そう言いながら開かれたカバンの中を覗いてみると、ジッパーに入った大量のフィナンシェが見えた。細かい数は分からないけど、これを全部食べたら間違いなく健康被害が出そうだ。

「何個かならまだいけるけど、この量はさすがに……誰か他にあげられそうな人はいないの?」
「うーん、たしか伊織は甘いのが好きだったはずだけど……」

 袴姿でクールな加瀬くんを思い浮かべると甘い洋菓子を食べている姿は不釣り合いだけど、部活の時のアロハサングラスだと驚くほどによく似合う。
今は部活中だろうけど、休憩時間に差し入れくらいできるはずだ。

「じゃあ、加瀬くんに差し入れに行こうよ」
「ええ!?」

 何気なく提案すると、なぜか赤川さんは相当動揺した声だった。

 放課後の学校は、ほとんどの生徒が部活に励むか帰宅をしていて、グラウンドや体育館以外は閑散としている。そのおかげで、弓道場の前に来るまでの間、赤川さんと二人で歩いている姿は、ほとんど誰にも見られることなく済んでいた。部室を出る時は深く考えていなかったけど、もしも見つかっていたら大スキャンダルだった。

「ねえ、本当に差し入れに行くの?」

 弓道場に着く直前で、赤川さんは何度目になるか分からない質問をした。

「いや、やめるなら全然いいと思うけど……僕も勢いで言っちゃった気はしてるし」
「ううん、ここまで来ちゃったんだもん。それに、食べ物を無駄にしちゃいけないし、うん」

 加瀬くんに差し入れを持っていく話になってからの赤川さんは、やけに様子がおかしい。差し入れを躊躇しては、お菓子がもったいないからと決意しなおす流れは、弓道場に向かうまでの短い間に、もう何度も目にしていた。

 何度目かの決意を固めてまた少し歩くと、弓道場の側面に沿うようにして、数人の女子が張り付いているのが見えた。彼女たちは一様に、弓を引く袴姿の部員の様子に釘付けになっている。弓を構えている部員は数人いたけど、彼女たちの視線はたった一人に集まっている。見ると、ちょうど加瀬くんが弓を放つ瞬間だった。

「差し入れは加瀬くんの練習が終わってからがいいかもね」
「だね。私たちも見学してよっか」

 僕たちも先に見学をしていた彼女たちの隣に並んで、弓を構える加瀬くんの姿に目を凝らす。矢を弦にはめて、弓を構え、狙いをすまして矢を放つ。

 初めて見る加瀬くんがそこにはいた。

 クラスで見せる穏やかで誠実な表情とも、もちろん、旧校舎で見せるおどけたようにはしゃぐ表情とも違う。ピリピリとした緊張感が、数十メートルは離れているはずのこの場所まで伝わってくる。きっと加瀬くんの感覚は極限まで研ぎ澄まされていて、それがまるで刃のような鋭さを感じさせているんだと思った。

 加瀬くんの周りだけ、違う世界の空気が漂っているかのようだ。

「すごい集中力だね」

 僕はそれに視線を奪われたままつぶやくと、隣で赤川さんが応えた。

「……うん。でも、なんだかちょっと怖い」
 
 加瀬くんが再び矢を放つと、それは的へ向かって一直線に飛んでき、そのまま的の中央へ突き刺さる。と、隣で見学をしている数人の女子が一斉に沸いた。

「最近の伊織先輩、すごく気合入ってるね!」

 彼女たちのひそひそと盛り上がる声が聞こえてくる。

「やっぱり総体が近いからかな。伊織先輩なら、きっと余裕で優勝だよね」
「うんうん、絶対みんなで応援行こうね」

 加瀬くんはじっと、鋭い瞳で矢の放たれた先を見つめている。ただの練習の風景とは思えないほど緊張感にあふれていて、見ているこっちの息が詰まりそうだった。

「やっぱり、今日はやめておこうか。余ったお菓子は家族に渡すよ」

 落ち着いた声で赤川さんが言った。同感だった。こんなにも集中している姿を見せられて、それに水を差すことなんてできるはずがない。

「うん、そうだね……」

 数人の部員が弓を構えて並ぶ中で、加瀬くんだけが圧倒的な存在感を放っている。その息遣いやわずかな表情の変化、その一つ一つから目が離せないでいた。すぐ隣では赤川さんが、お菓子の入ったバッグをぎゅっと胸に抱くのが横目に見えた。

 それから数日が経ち、いよいよ文化祭の前日となった。

 文化祭の前日は半日で授業が終わり、午後の時間を丸ごと使って翌日に向けた準備に取り掛かる。昼休みの時間の終わりとともに、教室の中の椅子や机といった備品は、必要なものだけを除いて一斉に撤去された。学校中が一段と慌ただしくなり、一気に文化祭の近づきを感じさせるような雰囲気が漂いだす。

 準備は段取りの通りに順調に進んでいき、事前に準備をしておいたパーツで華やかに装飾を施していく。日が暮れ始めた頃には、何の変哲も無い普通の教室が、思い描いた通り、童話に出てくるお城の一室へと姿を変えていた。

 完成のイメージが見え始めた頃にはだんだんと必要な人手も減り始め、本来は放課後の時間に入ったこともあって、教室に残っているクラスメイトの数はずいぶんと減っていた。

 その中に当然、青葉や加瀬くんの姿はない。もう最後の確認を残すだけの段階になった時、教室に残っていたのは、僕と山本くんと学級委員の女子とその友人の二人だけだった。

「結局、こんな時間になっちまったな」

 テーブルの飾り付けを終えた山本くんが、伸びをしながら言った。

「ごめんね、こんな時間まで付き合わせちゃって」
「いいっていいって。俺も久しぶりに勉強以外に打ち込めていい息抜きになったし」
「ありがとう。無理やり付き合わせちゃったんじゃないかって心配だったから、そう言ってくれると嬉しいよ」

 僕も山本くんに倣って伸びをしてから、自分たちの努力の成果であるこの教室を見渡した。どこからどう見ても、テーマパークさながらのお城の一室になっている。

 最近では部活で夜遅くまで残ることも増えたけど、自分たちが普段から使っているこの校舎にこれほど遅くまで残るのは初めてだ。達成感と感慨深さが、充足感となって胸に広がる。

 と、調理用の機材の最後の確認をしていた、学級委員の朝倉さんが振り向いた。

「古河くんも山本くんもありがとね。係じゃないのに、こんな時間まで残らせちゃって」
「ううん、僕がやりたかっただけだから」
「でも、まさか古河くんが手伝ってくれるとは思わなかったよ。こういうクラスのこととかって、あんまり頑張らないタイプかと思ってた」

 つい最近も聞いた言葉に苦笑する。僕はみんなからそんな風に思われていたらしい。そして、数ヶ月前までならそれは合っていた。

「確かに、少し前までの僕だったら、適当な言い訳でもして逃げてたかもね。でも、最近は少し自分に自信が持てるようになったんだ」
「うん、前よりもそんな感じの顔してる」

 僕は照れ臭くなって顔をそらすと、山本くんが朝倉さんに訊いた。

「それより、どう? こっちは確認終わったけど、そっちは?」
「うん、さっき終わったよ。器具も食器も全部オッケー」

 その返答に、山本くんと顔を見合わせた。

「と、言うことは……」

 誰かがそうつぶやくと、その声を合図に僕たち残ったメンバーは一斉に声を揃えて、

「終わったー!」

 作業に没頭して明かりをつけ忘れていた教室は、いつのまにか沈んだ夕日の明かりがなくなり、薄暗闇に染まっていた。そんなことにも気づかず僕たちは、この教室に弾んだ声を響かせた。