この声、聞こえますか?

「……お前こそ」

「今になって携帯部屋に忘れてきたことに気付いたから取りに戻ってきたんだけど、もしかして永倉さんをちょっぴりいじめちゃってたこと、長尾君にバレちゃったかなー?」

市川さんは何の悪びれもない様子で楽しそうに笑う。


「お前、やっていいことと悪いことがあるだろ!」

「はあ? ていうかさっきから、私のことお前って呼ばないでくれる?」

「うるせえ。律に対して何か不満でもあるのかよ?」


律が、若干困った様子で俺を見ているのが分かった。
テレパシーはさっき切れてしまったから、今、律が何を思っているのかは分からない。
でも、ここはしっかりと話をする必要がある。



「永倉さんのことは、元々ちょっと気に入らなかったんだよね。アンタ達の男子グループとばっかり話しててさ。お姫様気取りかって」

「んな訳ねーだろ。大体いつも、俺から律に話し掛けてるし」

「私はねえ、声の出ないカワイソウな永倉さんに優しくして、尚也君にアピりたかったの。分かる? 障害者にも優しい私、ってね。
けど、何か途中で疲れちゃってさー。
ていうか、ここ最近毎日声掛けてやってたんだから、うちらが花火してる間に食器洗いくらいしてくれてもいいと思うのよねー」


……勝手なことをペラペラと喋り続けるこいつに、俺の怒りもどんどん増してきた。



その時だった。



――バチンッ!




頬を叩く、乾いた音がロビーに響き渡った。




「り、つ……?」

律が、市川さんの頬を思い切りビンタしたのだ。
「な……っ?」

市川さんにとっても予想外だったのか、彼女は叩かれた頬を摩ることもなく、一瞬固まる。
食器洗いを押し付けるくらいだから、市川さんはきっと、律のことを大人しくて気の弱い女子と思っていたのだろう。どこか勝気な律の性格をよく知ってる俺ですら驚いたのだから、市川さんのこのリアクションは無理はない。


……しかし、すぐに。



「……何すんのよ!」

今度は市川さんが律に掴み掛かった。完全にキレている。

さすがにマズいと思って慌てて止めに入ると、ちょうどタイミング良く隣のクラスの担任が通り掛かり、仲裁に入ってくれた。


そうして、何とか一旦、この場は落ち着きを取り戻した。
その後、俺達は三人揃って一階の学習室に連れて行かれた。


先生がホワイトボードの前でパイプ椅子に腰掛け、律と市川さんもそれに向かい合うようにしてパイプ椅子に座る。


俺は、二人の後ろに立ち尽くしていた。



律も市川さんも、さっきから何も言わない。
勿論、律は喋ることが出来ないけれど、何か意見があればホワイトボードがあるから文字を起こすことは出来る。それもせず、ただ黙り込んでいる。


「黙っていたら事情が分からないだろ」

先生がそんな二人の前で、腕を組んで呆れたような困ったような、そんな顔で律達を交互に見やる。


すると先生は、律の顔を見てハッと何かを思い出したような表情になる。


「君は、二組の永倉さんだね?」

名前を呼ばれ、そっぽを向いて不機嫌そうにしていた律が先生に顔を向けた。

律の顔を見た先生は「ああ、なるほどね」と言って、何やら頷く。


すると今度は、市川さんの方を向き、


「市川。お前が永倉さんをいじめていたんだろう」

と言ったのだった。
「はあ?」
と、市川さんが先生を睨み付けるが。


「お前、中学生の時から派手な格好で相当目立っていたらしいじゃないか。それに、気に入らないクラスメイトには暴力を振るったりしていたそうだな。要注意人物だと、出身中学から連絡が入っているぞ」

「ぼ、暴力はしてないわよっ」

「永倉さんが弱い立場にあるからって、彼女のことをいじめていたんだろう」

「私は……!」


市川さんは自分の意見を発しようとするが、先生はそれを遮り
「全く、これだから問題児は……」
と、溜め息を吐く。

市川さんが、膝の上で両拳をギュッと握り締めたのが、俺の位置からも見えた。


「……違いますよ」

先生、市川さん、そして律が。
皆一斉に、俺へと視線を向ける。


「確かに、きっかけを作ったのは市川さんですけど、先に手を出したのは永倉です」

だから、と言葉を紡ぎながら、俺は律と視線を合わせ、


「お前も悪いぞ、律」



そう言うと、先生はバツが悪そうに

「そ、そうなのか? よく分からないが、じゃあ後は皆で話し合って仲直りしてくれ!」

と言い残し、学習室を出ていった。
バタンと扉が閉まると、パタパタパタと小走りに去っていく足音が聞こえてきた。
「結局、丸投げか。まあ、いいけど」

ふぅ、とひと息吐き、呟くようにそう言った。



「……な、長尾。庇ってくれて、ありが――」

「さ、行くぞ。律」

律に視線を向けてそう言ったが、何か今、市川さんと声が重なったような気がした。


「何か言った?」

「な、何も言ってないわよ! 馬鹿ッ!」

「バッ……!?」

何で急にキレてるんだ、この人⁉︎



「あーあ、早く尚也君のところ行こーっと!」

ガタン!と大きな音を立ててパイプ椅子から立ち上がると、市川さんは大股で律の前を横切り、乱暴に戸を開け、さっきの先生よりも早い足音で去っていった。


「何で馬鹿って言われたんだろ、俺」

俺の発言の、何がそんなに気に障ったのか分からない。


「まあ、いいか。ほら、お前も立てって」

声を掛けると、律は腰を上げた。
だけど、頷いたり笑ったり、いつもはしてくれるリアクションが一切なく、俺と目を合わせることもない。
学習室の電気を消して、廊下に出た。

ロビーはさっきと同じく薄暗い。

クラスの奴らはまだ花火をしているだろうし、他のクラスの人達は、こっそり外で遊んでいる人もいるかもしれないが、基本的には部屋にいなくてはいけない時間だから、ロビーや廊下には誰の気配もない。


部屋を出て、ロビー脇の階段を上がって部屋に向かう……が。


その間も、律は俺と目を決して合わさず、難しい顔をしている。



「おい、まだ機嫌悪くしてるのかよ」

そう尋ねても、やっぱりこっちを見ない。何のリアクションもない。



「……仕方ないだろ。確かに市川さんがお前にしたことは俺だってかなりムカついたけど、だからって手を出していい理由にはならないだろ」

「……」

「聞いてる?」

「……」

「こっち向けって」


俺は足を止めて、手を伸ばした。
左隣を歩いていた律の右手を強引に掴むと、キーンという音が響き、テレパシーが発動する。
「よし、何が不満なのか言ってみろ」

俺は腕を組み、どっしり構えてるような風格を見せながら律に問う。


律からの返事は、俺が想像していたものとは少し違った。



《不満なんてない……。寧ろ、ありがとう》



ありがとう?
言葉の意味が分からずに、首を傾げる。


「ごめん、何が?」

《私が悪いって言ってくれたこと》


俺は、律の言おうとしていることがまだいまいち分からなかったが、そこで律はようやく俺と目を合わせてくれた。


律は、ちょっと寂しそうな顔をしていた。



《声が出なくなってからね、さっきの先生みたいに、腫れ物扱いされることが多くて。あ、無理はないと思ってるの。家族ですら、最初は私にどう接していいかよく分からなそうだったから》

「……うん」


どう接していいか。
大事な存在だからこそ、そうやって悩むことはあると思う。


俺だって、〝あの時〟ーー。



《……だからさっき、先生が私のこと、声が出せない人だからって私のこと擁護したのが、何か嫌だった。だけど私は、否定の言葉を発することが出来ないし。

だから、達樹君が本当のことを言ってくれて嬉しかった。私のこと腫れ物扱いすることもなく、はっきりと私も悪いって言ってくれたことが……。


本当はすぐにお礼言いたかったんだけど、怒られた後だから何て言ったらいいのか分からなくて、気まずくて目も合わせられなくて……お礼言うのが今になっちゃって、ごめん》


頭に流れこんでくる律の言葉に、俺は「う、うん」と一応返事をするけれど。

本当は戸惑っていた。正直、ここしばらく忘れ掛けていたけれど、どんなに今の律と仲良くなったって〝あの時〟のことが消える訳じゃない。



それでも。
今の律と接して、今の律ともっと仲良くなりたい。
そう思うこの気持ちは、きっとこの先変わらない。
「じゃあ、しっかり反省するよーに」

階段を上りきったところで、先生の様なな口調でそう言ってみた。


「俺、男子部屋戻るけど、律は?」

《うん……市川さんが花火から戻ってきたら、ちゃんと話さなきゃとは思うけど……》


でも、今はまだ一人になりたくない……と律は言った。



「じゃあ付き合うよ。どうせ俺も、今部屋に戻っても一人で暇だし」

《じゃあ、男子部屋連れてってよ。二人きりになろ》

「なっ、何、馬鹿なこと……っ!」

《この程度の冗談で何を狼狽てんのよ》


あ、ああ、冗談か……。
まあ普通に考えてそうだよな。
真面目に捉えてしまって恥ずかしい……。


……でも、仕方ないだろ。俺は女の子と付き合ったことないし、ましてや相手が……律なんだから、



……これが恋愛感情なのかどうかは、分からない。
だけど俺にとって律は、特別な存在なんだから。




その後、施設の中を適当にふらつきながら、律と過ごした。


と言っても、十分くらいでクラスメイト達が施設に戻ってきたから、そのタイミングで律とも別れた。



男子部屋に戻ってからは、女子部屋の様子なんて当然分からない。テレパシーもとっくに切れている。携帯は、キャンプ中は不必要とか言われて先生が回収してるし。

もどかしい。歯がゆい。
でもそんな態度を顔に出したら、コーヤと尚也からまた〝過保護〟って言われるんだろうな。


結局その夜は、律の様子が気になって、あまり寝られなかった。
翌朝。六時に起床し、各々Tシャツ等のラフな服装に着替え、顔を洗い、ロビーに集合。

ロビーには、クラスごと、そして班ごと集合することになっている。
全員が集合した後、昨日のキャンプ場でおにぎりと味噌汁を朝食に作ることになっている。


完全に寝不足だが、未だに律の様子が気になって仕方がなく、列に並びながら律の姿を探す。


夕べ、女子部屋でいじめられたりしてないよな……と不安になる。


すると、うちのクラスの女子達がぞろぞろとロビーに集まってきて、市川さんと村田さんの姿を発見した。