「そういえば、唯斗。あなた一人の時に目覚めたのに、よくナースコール押せたわね」
母は思い出したように口にした。確かに、と伊都は思った。
「いや、押してない……」
「え? じゃあ誰が……」
すると、後ろにいた看護師の一人が、
「ああ。それは、別の方がナースコールを押したみたいです。ご家族ではないのですが、よくお見舞いにこられていた方で……」
「それって……フーカ?」
伊都は思わず言った。看護師は不思議そうな顔をする。
「え?」
「あ、いや、その人って……青いパーカー着た女の子じゃ……?」
「ああ、そうです。お知り合いなんですね」
「まあ……」
知り合いも何も、少し前まで同居していたのだが。
「ちなみに、その人って、ナースコール押した後はどこに……」
「それが……私が駆けつけて、少し会話をしたあと、『あとはお願いします』と仰って、病室から出て行ってしまわれて……」
出て行った? なんの為に……? 伊都は考え込んでしまった。
「それでは、我々はこれで。あ、お母さん、今後のことでお話したいことがあるのですが……」
「あ、はい」
母は医師たちと病室を出て行ったので、部屋は、伊都と兄の二人だけになった。
「なんだ、伊都。そんなにあいつに会いたかったのか?」
「はっ……!? な、なわけないだろ。誰があんな奴」
「俺はいいと思うけどな。なかなか似合いのカップルだ」
「カッ!? なんで好きだっていう前提なんだよ!」
「違うのか?」
「フーカなんて、好きでもなんともねぇよ」
「好きでもなんともない奴と、数週間も共同生活出来るのか」
「あれは、仕方なくだっつーの!」
「……仕方なく、か」
兄は、ふっと笑った。「何がおかしいんだよ」と伊都は口を尖らせる。
「いや、青春とは、こんなにも甘酸っぱいものだったのかと思ってな」
「バカにしてるだろ!」
「本心だ」
いや、絶対にバカにしている。伊都は、ふん、とそっぽを向いた。
別に、好きだとか、そういうことではない。フーカと一緒に過ごすのが、少しだけ楽しかっただけだ。ほんの少しだけ……。と、自分に言い聞かせる。
「……伊都」
「なんだよ」
「もしも……もしもの話だ。俺が、立花久美子を好きだと言ったら、どうする」
「……え?」
伊都は、ゆっくりと唯斗の方を向いた。心臓が高鳴る。
「兄貴、あいつのこと……」
「もしも、だと言っているだろう。もしも、好きだと言ったら、お前はどうする」
「どうするも何も……あ、そうなんだって思うだけなんだけど……」
平然と答えたが、それと反比例して心臓の鼓動はどんどんと早くなっていく。
兄が……フーカを……。
「本当か?」
「え?」
「お前の、立花久美子への思いは、本当にそんなものか?」
「それは、その……」
「簡単に他人に渡せるような、そんなに軽い存在か?」
「俺は……………」
頭の奥で、違う、という声がした。
フーカは、そんな存在じゃない。
フーカは、フーカは……。
「誰にも、渡したくなんかねぇよ……」
小さな声で、だがしっかりと伊都は言った。
「うん。そうだろうな」
兄はさらっと口にした。
「なっ……! そうだろうなって、初めからわかってたみたいに言いやがって」
「いや、もう嫉妬が見え見えだったぞ。本心を読み取られたくなかったら、もう少し隠す努力をしたらどうだ」
「う……」
「まあ、そういう事だ。誰にも取られないうちに、早く思いを伝えることだな」
「思いを、伝える……」
「応援しているぞ」
そう笑いながら言った兄の顔を見て、伊都は心がギュッと締め付けられた。
こんな風に、兄が背中を押してくれるなんて、久しぶりだったからだろう。
本当に、変わってくれた。フーカのおかげだ。
「……おう」
伊都は、照れながらも、そう呟いた。
伊都たちが病院にやって来る少し前、舞子は、病院に入ってすぐの待合室にいた。唯斗を見舞いに行った久美子を、携帯を見ながら待っていたのだ。
本当は帰ろうとしていたのだが、ここで帰ったら久美子はどこに帰るというのか。そう思うと、帰る気にはなれなかった。
その時、病院のドアが開いたかと思うと、ものすごい勢いで階段を駆け上がっていく親子ふたりがいた。
よく見ると、霧野伊都とその母である。何をそんなに急いでいるのだろうか。なにか忘れ物でもしたのか。ぼんやりとそんなことを考えながら、また携帯に視線を戻す。
「舞子さん……!?」
久美子の声がした。携帯の画面から目を離し、顔を上げると、目の前に久美子がいた。
「どうして? 帰ったんじゃ……」
「あなたを置いて帰れるわけないでしょ。さあ、帰るわよ」
「え、あ……」
舞子はソファから立ち上がると、久美子の手を引いて、病院から出た。
「乗って。とりあえず、私の家まで送るわ」ら車の前で鍵を開けながら、舞子は言った。久美子は戸惑っていたが、助手席に乗った。
舞子は車を発進させる。
「それで、唯斗の具合はどうだった?」
「あ、えっと……無事に意識が戻りました」
久美子はさらりと言った。
「え!? そ、そうなの?」
あまりに驚いた舞子は、声が裏返った。ついでに目の前の信号が赤に変り、あわててブレーキを踏む。
「はい」
「これはまた急な……。まあでも良かったわ」
舞子は、ほっとため息をつく。だが、久美子は浮かない顔をしていた。
「どうしたの? あんまり嬉しそうじゃないけど」
「あ、いや……。ユイトは、本当は生きていたくなかったみたいだから……」
「え? どういうことよ」
「夢の中で、ユイトと話したんです。そしたら、もう生きることを諦めてて……。でも、私はユイトに生きて欲しかったから、説得したんです。だから、無理矢理現実に連れてきちゃったなって……」
「あなた……すご過ぎない?」
「え?」
久美子はキョトンとしていた。いかに自分がすごいことをしたのか分かっていない様子だ。
「まあ、気にしなくていいんじゃない? 夢の中がどうであれ、本人が生きようと思わなければ意識は戻らない。だから、結局は唯斗の意思なのよ」
「そっか……。そうですね」
久美子は安堵の表情を見せた。信号が青に変わり、車を走らせる。
「そういえば、霧野くんには会った?」
「え? イトは……会ってないですけど」
「そうなの? あなたが来る少し前、霧野親子が階段駆け上がっていったから、てっきり会ったのかと思ってたわ」
「そうだったんですね。危なかった」
「何がよ」
「実は、イトたちに会わないように早く帰ってきたんです。実際は、そんなに差はなかったみたいだけど……」
「なんで? 会いたかったんじゃなかったの?」
「……イトは、多分私とは顔を合わせたくないと思います。家族をあんな風にした人なんかに、会いたくなんか……」
久美子は伏し目がちに話す。本当に、彼女は自分のせいにするのが好きだ。
「ま、でも目覚めたんだし、関係ないんじゃない? しかもあなたのおかげで」
「そんなこと……」
「きっと、会いたいって思ってるわよ、霧野くん。命懸けであなたのこと助けに来たのよ。会いたくないわけないでしょう」
「でも、私、さっき逃げちゃったし……」
「何よ。結局あなた自身が会いたくないんじゃない」
舞子はため息をつく。
「何だか気まずくて……」
「気まずい?」
「自分で家を出たから……顔を合わせづらくて……」
「それは仕方の無いことでしょ。そんなこと気にしないで、会いに行けばいいのに」
「でも、イトは私のことなんか……」
「……あなたと霧野くん、そんな程度でヒビが入るような関係じゃないって、私は思うけど?」
「………」
久美子は黙り込んでしまった。まあ、きっと放っておいても直に会いに行くのだろう。舞子はそう思うことにした。
「……舞子さんは、どうしてユイトのお見舞いに来なかったんですか」
「今日行ったわよ」
「え、いつですか?」
「あなたの後に来たの。そしたらあなたが病室から出てきて、あわてて追いかけたのよ」
「あっ……だから止めに来てくれて……」
「そうよ」
「じゃあ、あの……私のせいで……」
また始まった。舞子は面倒くさそうにぼやく。
「あー、違うわよ。もともと一人でお見舞に行くつもりだったから、あなたがどうであれ、出来なかったわ」
「え……?」
「あの時、病室には霧野親子がいたんでしょ? だから、どっちみち無理だった」
「なんで、一人で……」
「当たり前でしょう。唯斗との関係、お母さんにどう説明しろって言うのよ」
話したところで、理解してもらうには時間がかかるだろう。そもそも、生徒の親に自分が研究者だと言ったら、学校になんと言われるかわからない。
「じゃあ、なんでさっきは帰っちゃったんですか?」
「……出かける予定があったの」
「でも、私、病院に十分くらいしかいなかったんですよ? その間に、どこか行かれる場所なんて……」
確かに、久美子の言う通りである。十分では、行って帰って来られるような場所は、ない。
久美子は分かっているようだ。本当は、どこにも行かず、ずっと待合室で待っていたことを。
「あー、もう。止めたのよ、行くの。でも、今更病室に戻るのもなんか邪魔するみたいで嫌だったから、待ってたのよ」
「……そうですか」
久美子は腑に落ちない様子だった。
本当は、予定などなかった。それでも帰ろうとしたのには、理由があった。
唯斗は、きっと久美子に来て欲しかったはずだ。舞子ではない。そう思ったのだ。
久美子を救うと決めて、唯斗に協力して行く中で、薄々気がついていた。
唯斗は、きっと……。だから、あの場に相応しかったのは、久美子だ。
唯斗との縁はもう切れるだろう。無事に久美子は救い出せた。彼とはもう協力関係でもなんでもない。
「ねぇ、久美子」
暗い気持ちを切り替えるように、明るい声で舞子は言った。
「もし良かったら、しばらくの間、家に住まない?」
「えっ……?」
「住むところ、ないでしょう? だから」
「いや、でも……マンガ喫茶とか、そういう所あるので……。今までもそうしてきたし」
「駄目よ。二十歳とはいえ、見た目は子どもなんだから、怪しまれるでしょ?」
「う……でも、悪いです」
「いいのよ。どうせ私、一人暮らしだし、部屋もまあまああるわ」
「……本当に、いいんですか?」
「ええ、もちろん」
唯斗が回復するまでの間だ。それまでは、彼女を守る。私情を持ち込んでいる場合ではない。強く、生きなければ。
舞子は、ハンドルをぐっと握りしめた。
数日後。
舞子の携帯に一通のメールが届いた。今は朝の七時である。こんな時間に一体誰だろうか。
「!」
なんと、唯斗からであった。ドキドキしながらメールを開く。
『元気か。私はもうすぐ退院出来そうだ』
メールはそこで途切れていた。そうか、退院するのか、と安心したのと同時に、
「なんで、わざわざ私に……」
とも思った。とりあえず、「おめでとう」と送っておく。
舞子は、結局、見舞いには行っていなかった。どうせ、今後関わることはないのだし、彼は自分のことなど気にもとめていないのだろう。見舞いになど、行く必要がない。そう思っていた矢先に来たメールだったので、不思議に思ったのだ。
相変わらず、すぐに返事がきた。
『私は、退院した後、やりたいことがある。そこで、お前に頼みたいのだが、私に協力してくれないか?』
「……え?」
一瞬思考が停止した。
『やりたいことって?』
『お前が協力してくれるというなら、教える』
「何よそれ……」
そんなことを言われてしまったら、気になる。舞子は考えた。縁が切れると思っていた唯斗からの誘い。それは純粋に嬉しい。
でも、同時に、彼は自分を協力関係者としか見ていないのだ。信頼を置いてくれているのは嬉しいが、何だか少し寂しい気持ちにもなった。
「……………」
舞子は携帯を握りしめた。
この期に及んで、何を言っているのだ自分は。私情を持ち込んでもしょうがない。強く生きると数日前に決めたばかりではないか。舞子は、返事を打った。
『いいわよ、協力する。それで、何をするの?』
これでいい。
舞子は清々しい気持ちになった。朝からいい気分である。通知音が鳴り、メールが届く。開いた瞬間、彼女は思わず文面を凝視した。
『立花久美子を、本当の意味で自由にする』
「ねぇ、本当にいいの? 病み上がりじゃ……」
「平気だって。兄貴、めちゃくちゃ元気だから」
次の日。伊都は、誠を連れて、病院に向かっていた。
実は昨日、兄の唯斗に「そういえば、例の俺に会いたいと言っていた人はどうなった?」と言われたので、「明日連れてくるよ」と言ったのだ。という訳で、伊都は久しぶりに学校に行き、帰りに誠を病院に連れていくことにした。
歩きで行くのは少し遠いので、初めて病院行きのバスに乗り、やって来た。
「いや、でも……」
誠は病院を目の前にして、まだ渋っていた。
「大丈夫だってー。兄貴、誠に会うの楽しみにしてたから」
「そ、そう?」
「当たり前だろ」
伊都はニカッと笑った。病院に入って、兄の病室に向かう。扉を開けて、兄に声をかけたを、
「兄貴ー。連れてきたぞ」
兄は、ベッドから体を起こし、新聞を読んでいた。
「おお、伊都。彼が、そうか?」
「おうよ。俺の友達の誠。一ノ瀬 誠」
「一ノ瀬くんか」
「初めまして」
誠は、しっかりと頭を下げて挨拶をした。
「伊都。せっかく連れてきてくれたところ悪いが、彼と二人きりで話がしてもいいか?」
「おー、分かった。じゃ、下にいるわ」
こうなることは、ある程度予想していた。
「それじゃ、ごゆっくりー」
伊都は、病室を出た。
唯斗の病室に誠は取り残された。心臓が高鳴る。憧れの研究者がこんなにも近くにいることが、今でも信じられない。
「まあ、座ってくれ」
唯斗に促され、誠はベットの横にある丸椅子に座った。
「あの……本当に、会ってくださって、ありがとうございます」
「いや、むしろ遅くなってしまって、すまなかった」
「そんな、僕はもう、会えるだけで、嬉しくて」
「そうか、それは嬉しいことを言ってくれるな」
唯斗の柔らかい表情。硬い口調とは裏腹に、こんなに素敵な顔をする人なのか。誠は思わずマジマジと見てしまう。
「君は、将来、研究者になりたいのか?」
「あ、はい」
「研究者の闇を知っても、なりたいと思ったか?」
「闇……」
「君は、木下に会っただろう。今回の件で彼は消えたが、また新たに彼のような研究者が出てくるかもしれない。それでも君は、流されることなく、自分の信念を、正義を貫けるか?」
誠は、戸惑った。今回の事件の発端は、元はと言えば、誠だ。誠が木下に流されなければ、ここまで事態は大きくなっていなかったのかもしれないのである。
「僕は……」
答えに迷っていると、唯斗は、はっと我に返り、
「すまない。そんな顔をさせるつもりではなかったんだ。君には、お礼を言わなくてはいけない」
「え?」
「今回のことで、世間に闇研究者の実態が知られることとなった。今後は研究者を一新し、また一からチームを組み直すことになる予定だ。今度は真っ当な研究が出来るように」
唯斗が、先程まで読んでいた新聞を開き、誠に見せる。今、彼が言ったようなことが記事となっていた。
「君のおかげだ、一ノ瀬くん」
「え、僕ですか……?」
「君が事態を大きく動かしてくれたおかげで、結果的に長年問題となっていたことが解決した。ありがとう」
「お、お礼なんて」
「君には、従順さと行動を起こす勇気がある。おまけに努力家だ。それを活かして、先程のことに注意すれば、きっと研究者にだってなれる。応援しているぞ」
誠は呆然とした。まさか、憧れの研究者からそんなことを言ってもらえるなんて。お世辞かもしれないが、それでも嬉しかった。
「……僕、がんばります。だから、だから」
待っていてください。必ずあなたに追いついてみせる。
声には出来なかった。無理な目標だと思ったからだ。だが、その思いを汲み取るように、唯斗は微笑みながら頷いた。誠も微笑み、深々とお辞儀をした。
「お待たせ、伊都」
待合室で待っていた伊都に声をかけた。伊都は相変わらず、携帯ゲームをしていた。
「おう、おかえり」
誠の方を向き、返事をする。
「どうだった? 兄貴、怖くなかったか?」
「とんでもない。とっても優しかったよ」
「マジ? いいなー俺にも優しくしてくれよ……」
「え? 伊都には怖いの?」
「怖くはねぇけど、すごいパシられる。あと、バカにしてくる」
「なんか、兄弟って感じだね」
「まあ、やっとな」
伊都は白い歯を見せた。
二人で病院を出る。バス停にちょうどバスが来ていたので、乗る。
バスに揺られながら、誠はふと思った。
兄弟、か。一人っ子の誠は、親の期待を一身に受けて育った。彼らは、誠が研究者になることを望み、幼い頃から塾に通わせた。
彼らは厳しかった。結果が全てで、それまでの頑張りだけでは、なかなか認めてくれなかった。
だから誠は、認められたかった。一刻も早く結果を出したいと、高校生ながらに思っていた。
木下に出会った時にも、少なからず心の隅にそんな思いがあった。
『もし、協力してくれたら、君が不老研究者になれるように、サポート出来るかもしれない』
あの時、確かに木下はこう言った。誠はそれに食いついてしまったのだ。結局、そんなうまい話はなく、利用されただけに過ぎなかったのだが。
夢を叶えるのに、きっと近道などない。地道な努力をしていくしかないのだ。
時には遠回りをするかもしれない。道に迷って、立ち止まってしまうかもしれない。
それでも、ただひたすら進んでいくしかない。必ず叶うと信じ続けながら。
誠は、流れゆく街並みを眺めながら、決心した。
あっという間に、休日となった。今日は土曜日。伊都は、部屋のベッドの上でのんびりとゲームをしながら過ごしていた。
「暇だー」
夏休み前までは、暇な日なんて当たり前にあったのに、フーカが来てから消滅した。まあ、彼女がいなくなりまた戻ってきたのだが。
「フーカ……」
病院で鉢合わせた以来、見かけていない。彼女は今どこにいるのだろうか。
この頃、気がつけば彼女のことを考えている。兄には好きだからだとか何とか言われてしまったが、ただ単純に心配なのだ。
まあ、どうでもいい人に心配などしないから、兄のいうこともあながち間違ってはいないのだろう。認めたくはないが。
「うあー暇だー」
もうそれしか言うことがない。その時、玄関のチャイムが鳴った。
「お、来たか」
伊都は、ネットショッピングで漫画を注文していた。暇になったことで、ゲームの他に漫画にハマり始めたのだ。
「はーい」
ベッドから起き上がり、部屋のドアを開けて、階段を降りる。ちなみに、いつも出てくれる母は、今入浴中だ。母は最近、「昼風呂」にハマっている。
最も、自分の注文したものが知られるのは何とかなく恥ずかしいので、自分で受け取った方が良いのだが。
玄関を開けると、立っていたのは、だいぶ小柄の配達員……ではなく、
「………え?」
なんと、フーカであった。玄関先で、下を向いて何だか気まずそうにしている。
「と、とりあえず、入れよ」
伊都は、条件反射で家に入れる。
「なんでここに……?」
「……会いに来たの」
フーカは、下を向いたまま、両手を握りしめた。
「ずっと、ずっと会いに来たくて、でも、私、この家勝手に出てっちゃったから、来る資格なんてないって思って」
一生懸命話しながら、フーカはゆっくりと顔を上げた。
「でも、やっぱり会いたくて……来ちゃったの。ごめんなさい」
フーカがそう言い終わらないうちに、伊都は彼女を抱きしめていた。
「えっ、イト!?」
「……良かった。俺、お前が出ていってから、もう一生会えないんじゃないかって思ってたから。良かった。会えて、良かった……!」
「イト……」
フーカがいる。ここに、いる。その事実が信じられなくて、でも嬉しかった。
彼女の温もりを感じていたい。
このまま、ずっと。
「おかえり、フーカ」
伊都は、彼女をより一層抱きしめ、そっと囁いた。
「ただいま、イト」
フーカも大切そうに、彼の名を呼んだ。
「それで、今は田沢先生の所にいるんだ。なるほどな」
ひとまず、フーカを家に入ってすぐのダイニングキッチンに通した。ダイニングテーブルの椅子の上で、向かい合って座り、伊都の知らない、フーカの「その後」の話を聞いていた。
「これから、少しあと片付けというか、やらなきゃいけない事が結構あって……だからしばらくは舞子さんのお家に居候かな」
「そっか」
「何だか、ちょっと残念そうな顔ね」
「はっ? いやいや、そんなことないぞ。安心してる顔だから、これ」
フーカはクスクスと笑っている。
「クソっ……。大人の余裕見せやがって」
「あら、ようやく私のこと大人って認めてくれたのね」
「ま、まあなー」
とっくに認めていた。今までどれだけ、時々見せるフーカの大人の顔に胸が高鳴っていたことか。自分の気持ちを誤魔化すために、あえて彼女を子供扱いしていたのだ。
「何もかも終わって、本当に自由になれるのは、早くて一年後かな」
フーカはため息をつきながら、遠い目をして言った。闇研究者は、ひとまず消滅したが、この先また新たな困難が待ち受けているということなのだろう。
突然、ダイニングキッチンの入口から黄色い声が聞こえた。二人で一斉に振り向くと、そこには、風呂上がりの母がいた。
「あ、お母さん! お久しぶりです」
「久しぶりねー! 元気だった?」
「はい、おかげさまで!」
早速お互い、ハグをし合っている。そのあまりの速さに、伊都はただただ呆然と見ていた。
「ねぇ、フーカちゃん。またお家に来ない? すごく寂しがってるのよ、伊都が」
「母さん!」
「あら、本当のことでしょ。毎日毎日、フーカ、フーカって……」
聞かれていたようだ。顔から火がでそうになる。
「ありがとうございます。でも、これからやることが山積みで、しばらくはちょっと、難しそうで」
「そうなのね」
「そういえば、さっき言ってたな。一年後がどうのこうのって」
「うん……。多分、激動の一年になるから、しばらくは会いにも来られそうになくて……」
フーカは残念そうに下を向く。
「いいのよ。何年経ったって、私たちはフーカちゃんのこと待っているわ。いつでも帰ってきて」
「お母さん……。ありがとうございます」
フーカは、「そろそろ行かないと」と立ち上がった。そのまま三人で玄関まで行く。靴を履き、フーカはこちらに向き直った。
「今までお世話になりました」
フーカは深くお辞儀をした。
「……フーカ」
玄関から出て行こうとするフーカを、思わず伊都は呼び止めてしまった。扉を半開きにしたまま、フーカが振り返る。
まさか反応するとは思わなかったので、伊都はあわてて笑顔で、言葉を続ける。
「元気でな」
「………」
フーカは、申し訳なさそうな顔で、視線を下に逸らし、小さく「イト」と言った。
「私、帰ってくるから。必ず会いに来るから、だから」
「え?」
「だから、一年。待っていてくれる?」
伊都の目をしっかりと見て、フーカは言った。最初に出会った時と変わらない、綺麗で、吸い込まれそうな大きな瞳である。
願わくば、これから毎日、会いたかった。また、あの時のように一緒に暮らしたかった。
でも。
「一年、だな?」
「うん」
「分かった」
お互い笑顔でうなずいた。
そう、これは永遠の別れではない。また必ず会えるのだ。だから、悲しむ必要などない。
一年経っても、いや例え何年経っても、待ち続ける。
いつか会える、その日まで。
二学期の中間テストが終わった頃。面談が始まった。
放課後に先生と進路や成績のことについて語り合わなくてはいけない。成績があまり良くない伊都には、非常に憂鬱な時間である。
今日は伊都の番であった。担任である穂積のホーム、進路指導室の前で待っていると、中から穂積が出てきた。
「入っていいぞ」
「あ、はい」
置いてある椅子に座り、穂積と対面する。進路指導室に来るのは、夏休み前以来であった。まだそれほど経っていないことに、若干のショックを抱きながらも、面談は始まった。
「霧野くん。君は、進学で考えているんだったね」
確かめるように穂積は聞いてきた。
「はい」
「それで、志望校がここだったね」
穂積は、パソコンの画面に、伊都の志望校の公式サイトを映し出した。偏差値があまり高くなく、いわゆるFラン大学と呼ばれている所だった。
「まあ、はい」
「なんでここに行きたいんだ?」
穂積は珍しい質問をした。いや、質問自体は普通なのだが、一学期の面談の時には聞いては来なかったのだ。
なぜ、今なのだろう。不思議に思いながらも、伊都は答えた。
「俺がいかれそうなところって、そこしかないかなって」
正直、そこに行ったからと言って、身になるかというと、そうは思わなかった。だが仕方ないのだ。将来のためには、大学卒業という肩書きを得なければならない。母親からそう言われている。不本意でも、行くしかないのだ。
「なるほどね。……ところで霧野くん」
「はい」
「君には、将来の夢ってあるのかい?」
予想外の質問に、伊都は戸惑う。
「夢は……特にないですね」
そんなものは、小学校卒業と同時に捨ててきた。
「そうか、ないのか。正義感が強いから、てっきり警察官と言うものだと思っていた」
「そんな単純な……」
というか、警察官に失礼では? 伊都は思ったが、
「いや、大抵は夢なんてそんなもんだ」
「そうですかね……?」
いまいちピンと来ない顔をしていると、穂積はこう聞いてきた。
「じゃあ、好きなものはなんだ?」
「好きなもの?」
「なんでもいい。ぱっと思いつくのはなんだ?」
うーん、と考える。ぱっと思いついたのは、フーカの顔だった。
いやいやいや! とあわてて脳内から消す。しかし、それ以外がなかなか思いつかない。それもそのはず。この間、彼女と一年後の再会を誓ったものの、それから毎日毎日フーカのことばかり考えているのだ。
虚しくなるだけなので、それを誤魔化すように家ではひたすらゲームをしている。前は趣味だったゲームが、今や誤魔化すための道具になっているのだ。
「……あ、ゲーム」
そうだ。ゲーム。ゲームをやっている間だけは、どんなにつらいことも忘れられた。考えてみれば、今までもそうやって乗り越えてきたのだ。
「ゲームが好きなんだね」
「まあ……はい」
「じゃあ、ゲームのことを学べる所に行くのはどうだ?」
「え、ゲームですか?」
「そうだ」
考えたこともなかった。伊都は目をぱちくりさせる。
「えーと、ゲームプログラマーを目指せる所は……」
穂積は、パソコンで大学を調べ始める。
「おっ、あったな」
続々とヒットしたようだ。「ここなんかどうだ?」と、穂積は候補のひとつを見せてくる。
隣町の私立大学。伊都も名前くらいは知っていたので、知名度はあるのだろう。写真を見ると、キャンパスも広い。設備も整っていて、評判も良さそうであった。
「……ここ、いいですね」
「お、気に入ったかな?」
「まあ、はい」
サイトを見れば見るほど、伊都は、ここに行きたいという気持ちが高まってきた。
続いて穂積は、「偏差値」というボタンをクリックした。そこに書かれていた数字は、伊都の前までの志望校のプラス二十ほどだった。
「……偏差値、やばくないですか?」
「そうだな」
「え、俺、無理じゃないですか」
「今のところはな」
「いや、今だけじゃなくて、多分これからも無理です」
「なんでだ?」
「だって、あと一年とちょっとですよ? 二十も上げるなんて無理ですって」
「でも、ここに行きたいんだろう?」
「そうですけど、でも!」
「じゃあ、大丈夫だ」
「何が!?」
「よし、面談終わり。帰っていいぞ」
「何も解決してませんけど!?」
「なんだ、新しい志望校が決まったんだぞ? 大収穫だ」
「いやそうじゃなくて!」
「大丈夫、大丈夫。君なら、行かれる」
「そんな簡単に……」
本当にどこまでも楽観的な教師である。伊都は呆れた。
「大丈夫だ。だから、無理なんて言わない方がいい。人間は、出来そうもないことは、初めからやらないように出来ているからね」
穂積は、満足気に微笑んだ。
「応援しているよ、霧野くん」