進路指導室。
そこは学生なら誰もが恐れるところではないだろうか。普段から素行が悪い生徒、問題を起こした生徒などが、休み時間や昼休みに呼び出されては、先生から説教を食らう。そんな場所。無論、呼び出されるのにはそれだけではなく他にも様々な理由があるのだが、「進路指導室に呼び出される」というのはあまり喜ばしいことではない。生徒たちは進路指導室が自分たちとは無縁な場所であるように日々願っていた。
まあ進路指導室に呼び出されるのは、「ちょいワル」か「相当なワル」くらいで、ちゃんとしている自分たちは大丈夫だろう、と大抵の生徒は思っていた。しかし、いくらちゃんとしていても、少しの過ちで呼び出されることもある。
現に、今日呼び出された男子生徒だって、普段からちゃんとしていたのだ。
「だから、違うって!」
霧野 伊都。只今喧嘩の真っ最中。彼は、とある理由で三日間の自宅謹慎の危機に直面している。理解を示さない教師に、彼は本気でぶちギレていた。
一方、今年から伊都の担任であり、進路指導担当でもある穂積武は、ダルそうに、しかし、しっかりと自身の主張を述べてくる。
「だから、いくら君が違うって言ってもね、実際やっちゃってるでしょうが。今回のことは、完全に君の方に非がある」
「いや、だから俺は!」
「はいはい。もう言い訳は聞きたくないから、言わなくていいよ」
「言い訳じゃないんです!信じてくださいよ、穂積先生」
彼は、もうブチ切れを通り越して半泣きである。そんな彼を、穂積はうちわで仰ぎながら、気だるそうに見ていた。

霧野 伊都は、至って普通の男子高校生である。髪色は黒、制服もさほど着崩してはいない。もちろん、ピアスも開けていない。そんな彼が、なぜ進路指導室に呼び出されてしまったのか。話は前の日の昼に遡る。
日曜日。せっかくの休日を有意義に過ごしたいと思い、伊都は友達の一ノ瀬 誠を誘って、ゲームセンターに足を運んだ。
伊都は無類のゲーム好きで、月々の小遣いのほとんどをオンラインゲームの課金に使ってしまうほどだった。
対する誠は、塾にも通っているのに、ゲームにも熱心なのだ。いったいいつ寝ているのだろう、と伊都は時々思う。ちなみに彼は、昨年の夏に、都会から田舎の伊都の通う高校に来た、転入生だ。性格は正反対で合わないと思っていたのだが、ひょんなことから彼がゲーム好きだと知り、伊都と誠は急速に仲良くなったのだ。
そんな彼らは、ゲームセンターに通うのも楽しみのひとつで、たまに足を運んでは、至福の時間を過ごしていた。
「お前、本当リズムゲーム上手いよな」
「いや、全然うまくないよー」
「いやいや、一番難しいレベルを軽々SSランク出してるやつが何言ってんだよ」
「それは、たまたまだよ」
「それに、レベルも半端ないし」
「これは、前にかなり通いつめてたら、いつの間にか」
「そっか。前は都会に住んでたんだもんな。いいなー都会って」
伊都は、生まれてからずっと「宿木町」という所に住んでいる。ここは、生粋の田舎で、家の周りには公園とコンビニぐらいしか存在せず、電車に乗って街に出ないとゲームセンターは存在しない。その為、本当は毎日通いたいのだが、それが難しい。都会なら、こんなことは無いんだろうな、と単純な理由で都会が羨ましかったのだ。
「そう? 僕はここの方がいいけどな」
「あと、四年くらいたってみ。絶対、嫌になるから」
「そういうものなのかな」
「そういうもんよ。あ、ちょっと俺、トイレに行ってくるわ」
「あ、うん。行ってらっしゃい」
他愛もない会話をしながら、二人はゲームセンターを満喫していた。
しかし、事件は起きた。伊都がトイレに向かっている最中だった。不意に、知らない人物が伊都にぶつかってきた。そしてそのまま何も言うこともなく出口の方へと歩いていった。
「……ったく、なんだよあいつ」
薄暗いゲームセンターではよくあることだが、それでも良い気はしない。せめて謝ってくれたっていいじゃないか。伊都は度々思っていた。しかし、そんなことでいちいち腹が立っていても仕方が無い。さっさとトイレに行こう。
「……ん?」
何かが足に当たる。足元を見ると、見慣れた銀色の硬貨が落ちていた。百円玉だ。さっきまではなかったはずだが……もしかすると先程の人物が落としたものだろうか。
慌てて出口の方を見ると、先程伊都にぶつかった人物がまさに出ようとしているところであった。伊都は、素早く足元の百円玉を拾おうとした。が、そこにもう一つの手が重なった。
「ちょっと、これ、あたしのなんだけど」
伊都の前には女子高生がいた。髪は茶色でパーマがかかり、メイクもバッチリ。いわゆるギャルである。
「ねぇ、聞いてんの?これ、あたしのなの」
自分のであると言い張る彼女。しかしそんなはずはない。伊都がこの百円玉を見つけた時、こんな女子高生は周囲にいなかった。
「違う。これはさっき俺にぶつかってきた人のだ」
「は?そんなん知らんし」
「とにかく、これはお前のじゃねーよ」
「あたしが先に見つけたんだから、あたしのなの」
「いや、俺の方がお前より先に見つけたんだけど」
「そんなの証拠ないじゃん」
「お前こそないだろ」
「……」
 彼女は急に黙り込んでしまった。やっと諦めてくれたか。伊都がそう安心した次の瞬間。
「どうしたんだよ、リナ」
女子高生の背後から男が声をかけた。彼を見た途端、リナと呼ばれた女子高生は立ち上がり、
「あ、テルく~ん。ねえ、聞いてよぉ。この人がねぇ、リナの百円玉、返してくれないのぉ~」
と、猫なで声で言った。
「は?どういうことだよ」
「だからねぇ、落ちてた百円玉、リナのだって言ってるのに、俺のだって言言い張って、渡してくれないのぉ」
いや、それはお前の方だろ。伊都は心の中でツッコミをいれた。
「なんだよ、それ」
「ひどいでしょ~?」
「ひどいな、ひどすぎる」
男はそう言うと、未だにしゃがんでいる伊都を睨みつけた。
「おい、テメェいつまで座ってるんだよ。早く立て、コラ」
言われた通りに伊都が立とうとすると、「遅い」と言われ、結局胸ぐらを掴まれ立たされた。
「テメェ、人の彼女に何してくれてんだよ」
「何って……別に何も」
「とぼけんな、コラ。俺の彼女のだっつってんだろ、その百円玉」
「だから、違うって。これはさっきの人の……」
「そんな奴のことより、リナの方を優先するべきだろ」
なんなんだ、こいつは。とんだカップルに出会ってしまった。早く終わらせたい。しかし、百円玉はこいつらにだけは意地でも渡したくない。
伊都は悩んだ末に、とりあえず、胸ぐらを掴まれている手を引き剥がした。ただ単純に服が伸びると思ったからだ。だが、この無言でやった行為が、後の事件を引き起こす。
「なんだ、テメェ。やんのか?」
男は、臨戦態勢に入った。
おい、マジか。伊都が望んでいたことと全く逆の方向に事態は進んでしまったようだ。これには流石に伊都もたじたじになり、
「いや……その、そういうつもりじゃなくて」
「なんだよ、ビビってんのか?いいぜ、そっちからやってこいよ」
困ったことになった。挑発までしてきた。しかし、今ここで逃げたら、伊都が今まで守り抜いてきた百円玉を手放すことになる。それは嫌だと伊都は強く思った。
「……分かったよ」
男はニヤニヤとしている。完全にこちらを舐めている顔だ。伊都は、その顔にムカつき、怒りに任せて、
「うおりゃーっ!!」
体育の授業で習った背負い投げをした。男は地面に叩きつけられた後、全身を震わせながら体を起き上がらせ、伊都を見た。
「なかなか……やるじゃねぇか……」
完全に獣の目だ。これは、まずい。伊都は後ずさりをした。だが彼が完全に立ち上がろうとした時、店員が駆けつけ、男の元に駆け寄った。
「お客様! 大丈夫ですか!?」
すると、先程までやり返す気満々だった男は、急に泣きそうな表情になり、
「こいつ! こいつがやったんです! 俺の百円玉だーとか訳わかんねぇこと言って喧嘩売ってきて!」
と伊都の方を指差して、店員に訴え出した。
「いや、それはそっちが……」
「あたしも見てました! この人がテルくんに喧嘩売ってきて、問答無用で背負い投げしてきたんです!」
リナもあちらに加勢し出した。二人揃って、嘘を並び立てる。
「いや、だから、違っ……!」
「君が手を出したんだね?」
「違います! 向こうが先に胸ぐら掴んで……」
「嘘は良くないよ。みんな見てたんだから」
気がつけば、伊都たちの周りには人だかりができていた。
「嘘じゃなくて、本当に……!」
「うん、とりあえず、奥へ来てもらえるかな」
こういった経緯で、伊都は奥へと連れ込まれた。
その後も伊都の必死の反論は一切聞いてもらえることなく、結局、非は伊都の方にある、ということで話がまとまってしまった。
そして次の日の放課後、進路指導室に呼び出されてしまい、今に至る。
今のところ、悪いのは全部伊都ということになっているが、彼にはこのままで終わらせるつもりなどさらさらない。穂積には、なんとか分かってもらって、指導を免れたいのだ。だが……。
「だから、俺は悪くないんですよ! そもそも向こう側から喧嘩売られたんだし!」
「でも、君から手を出したんだろ?」
「いやいや、向こうですよ! 何度も言いますけど、胸ぐら掴まれたんですよ? これは正当防衛です!」
「やられたことに対してのやり返しの度合いがおかしいだろう。正当防衛なんかじゃない、暴力だ」
こんな感じで、すべて切り返されてしまう。結局、皆、面倒なことは早く終わらせたいのだ。
「大体、校則なんだから仕方ないだろう?『学校外で問題を起こした生徒は、数日間の自宅謹慎をすること』って、生徒手帳に書いてあるじゃないか」
そう言って穂積は、引き出しから生徒手帳を取り出し、その校則が書かれたページを見せる。
「それは……」
知らなかった、とは言えない。生徒手帳は各自読んで、校則を頭に入れておくように、と四月の頭に全員が言われたからだ。実際、彼は一ページも読んだことなどないのだが。
「そういうことだから。今回は三日ってことで、いい加減分かってくれるかな」
確かに伊都は問題を起こしたかもしれない。手を出してしまったし、店にも迷惑をかけた。そうではあるのだが。
「俺は……」
そう。彼はただがむしゃらに背負い投げをしたわけではない。彼にはちゃんとした目的があったのだ。正義のために、彼は戦っただけなのだ。
「俺は、百円玉を守りたかったんです!どうしても、あいつらの手に渡るのが、許せなかった……」
「それはもう聞いたよ」
「いや、何度でも言います。俺は、百円玉を落とした人に返したかっただけだったんですよ!」
伊都は語った。これまでで一番熱く語った。かれこれ一時間はここにいる。同じような話も何度もした。そろそろここから出たい。ついでに謹慎も勘弁してもらいたい。そんな思いもあり、つい熱くなってしまったのだ。
「…………」
しかし、穂積からの反応はなく、さらにため息をつかれた。
「俺の話聞いてます!?」
「聞いてたよ。あと何度も聞いた」
「じゃあ、そんな顔するんですか! いい話でしょうが!」
「あのね、霧野くん。美談だと思っているのは君だけだよ。私からしたら、はっきりいってバカバカしすぎる。たかが百円玉如きでどうしてそこまで出来るのかが、私には理解できないんだよ」
「なっ……!」
「君は正義のためと思ってやっているのかもしれない。でも世の中理不尽なことなんて山ほどある。すべてを正そうなんて、無理だ。今回だって、そう。君は、手を引くべきだった」
「…………」
恐ろしいほど冷静な穂積に、伊都は何も言い返すことが出来ない。
「余計な正義感を振りかざして、自分の人生を棒に振るようなことはしちゃだめだ。分かったか?」
伊都は悔しかった。穂積の言うことは正しいことで、納得せざるを得ない。納得したくない自分がいる。そんなことを分かりたくない自分がいる。なのに、言い返すことが出来ない。さっきまではすらすらと言葉が出てきたのに、今は何も言えない。
「……分かってないみたいだな。まあ、いい。そのうち分かる。家で頭を冷やして来てくれ」
穂積は席を立った。そして思い出したようにドアの前で振り返り、
「今日はこのまま帰りなさい。さようなら」
と言い、穂積は、進路指導室から出ていってしまった。かくして伊都は、三日間の自宅謹慎をすることになったのだ。
夏休みの四日前のことであった。
伊都が自宅謹慎となってから、早くも三日がたった。今日は待ち望んだ最終日だ。
それにしても、夏休みの四日前に三日間の自宅謹慎とは嫌がらせである。なぜあえての三日間なのだろう。もしかすると、自宅謹慎のまま夏休みに入らせない、というのは穂積の配慮かもしれない。だが、伊都にとっては余計なお世話だ。そんなことをされた方が、よほど学校に行きづらい。どちらにせよ行かなければいけないのだが。
「……暇だ」
自宅謹慎とはこんなにも暇なものなのか。家の中で出来ることは案外限られているということを、伊都は初めて知った。
ゲームだって、一日中やりたくても出来ない。なぜなら、スマホのRPGはストーリーを進めるごとにAPが減り、貯まるのにはかなりの時間がかかる。
ゲーム機のゲームは、去年の夏休みにやり込んでしまったので、やることがない。通信ならレベル関係なく遊べるが、何せ父は既に他界、母は日中は仕事、九つ上の兄は数年前に家を離れ、現在、一人暮らしをしている。つまり、完全に一人ぼっちである。
「……少し、外、出てみるか」
今は昼の二時。伊都の自宅謹慎を知る者は皆、学校にいる。
伊都は思い切って外に飛び出した。外はやはり暑い。それはそうだ。昼なのだから。
いつだったか、理科の授業で、「一日のうちで、最も気温が上がるのは午後二時」と習ったことを伊都は思い出した。完全に外出する時間を間違えた。
毎日のように聴くミンミンゼミの鳴き声。きっとこれも暑さの原因だろう。容赦なく照りつける太陽にうんざりしながら、伊都は公園に向かった。
緑に囲まれた、小さな公園。ひとつの東屋とふたつのベンチ、そしてほんの少しの遊具しかないが、このあたりの住民の憩いの場となっている。
この公園は、夕方になると、学校帰りの子どもたちでにぎわう。伊都も子どもの頃はよく遊んだ。だが、さすがは平日の昼。とても静かだ。
木の近くにあるベンチがちょうど木陰になっている。少し涼んで帰ろう。そう思い、公園に足を踏み入れたその時、
「やめて!」
甲高い叫び声が聞こえた。驚いた伊都はあたりを見回し、その声の主を探した。すると、東屋の影で数人の男が少女を囲んでいるのが見えた。伊都は慌てて、近くの木の影に隠れる。
「もうここまでだ。いい加減、諦めたらどうだ?」
「嫌だ……。こんなの、嫌だ。なんで、なんで……」
「お前は、そういう運命なんだ」
「違う、私は……。お願い、誰か、誰か! 助けて! 誰か!!」
必死に助けを求める少女。それを嘲笑う男達。何だこれは、どういう状況だ? 伊都は必死で考える。そしてある考えが浮かんだ。『誘拐』。そう、きっと彼女は誘拐されそうになっているのだ。
何としてでも彼女を助けなくては。しかし、どうすれば良いものか。この間のように体に任せれば、間違いなく問題になる。そうなれば、今度は退学なんてことになりかねない。
かと言って、他に方法があるものか。伊都は必死に考えた。目の前で助けを求める者がいる。声を上げて、必死に……。
そうだ、声。声である。体が使えないのなら、声を発せばいいのだ。単純なことに一周回って気が付いた彼は、大きく息を吸って、思いきり叫んだ。
「おまわりさーん! ここでーす!」
先程まで少女を囲んでいた男たちが一斉に逃げ出した。日向に出たことで露わになった彼らの服装に伊都は目を細めた。白衣を着ていたのである。暑い夏には、珍しいファッションだ。白衣の男たちは、恐ろしい速さで逃げていき、あっという間に公園から姿を消した。
それを確認すると、伊都は、すぐに少女のもとへ駆け寄った。少女は座り込んでいた。だが、伊都が近くまで来た時、少女はいきなり伊都の方に倒れ込んできた。その衝撃で伊都は尻もちをついた。
「いって……。おい、大丈夫かよ」
軽く揺さぶってみるが、少女は伊都の胸に顔をうずめたまま動かない。完全に脱力している。まさか、気絶しているのだろうか。
「マジかよ……」
どうすればいいのだ。こんな状況、初めてである。だが、放っておいていいわけが無い。どうにかしなければまずいことくらい、伊都にはわかっている。
「と、とりあえず救急車……」
伊都はポケットを探る。しかしここで、携帯を忘れてきたことに気がついた。
「ああ………」
それでは、東屋に寝かせておこうか……。だが、もしも先程の白衣の男たちが戻ってきたら、大変だ。さすがにもう太刀打ちできない。
では、交番に届けるか。そう思ったが、あいにくこの近くに交番がないことを伊都は思い出した。田舎ではよくある事だ。この夏に、少女を連れて交番を求めどこまでも行くのはごめんである。
そうなれば、もう家しかない。伊都は気絶した少女をおぶって、自宅へと向かった。
どうしよう。田沢舞子は、頭を悩ませていた。スクールカウンセラーである彼女は常に生徒のことで悩みが尽きないが、今回はその手の悩みではない。
つい先程の昼休みのことであった。
「田沢先生」
突然、スクールカウンセリングルームに進路指導の穂積が訪ねてきた。珍しいこともあるものだ。この部屋に生徒以外が訪ねてくることはめったにない。
「ちょっと、頼みたいことがあってね」
「何ですか?」
「二年三組の霧野 伊都くんのことは、ご存知かな」
「ええ、まあ……」
確か、学校外で問題を起こして、三日前に自宅謹慎になった生徒である。
「彼の家に、訪問してくれないか」
「え、私がですか?」
「そうだ。君にお願いしたい。どうも、来るかどうか心配でね……」
それは困る。舞子には今夜予定あるのだ。正確には、ずっと前から立てていた計画を、今夜実行しようと思っていたのだ。だが、ベテランの教師にそんなことは言えない。なんとか断ろうと、
「霧野くんなら、きっと大丈夫なんじゃないですかね」
と言ってみるも、
「いや、私は心配なんだ。どうやら私のせいで彼の心を閉ざしてしまったような気がして……。なんとかお願いできないか。この通りだ」
と、頭を下げてくる。自分のせいって分かってるならあなたが行きなさいよ。とは言えず、断るすべもなくなり、結局引き受けてしまった。
全く困ったものだ。問題を起こした生徒の家庭訪問などしている場合ではないのに。
私はこんなことをする為に教師になったんじゃない。口が裂けても他人には言えないが。
仕方ない。計画はまた次の機会に実行しよう。舞子は、ため息をついた。
霧野伊都という生徒は、相当謎である。問題を起こしそうな生徒にも見えなかったが。やはり人間というのは分からないものだ。
ちなみに彼には兄がいるが、研究者らしい。この町、宿木町において、研究者とは最も地位が高い役職である。それはこの町の歴史が関係している。
「霧野伊都……ね」
そうだ、少し、利用させてもらおうか。今回の計画に。
「起きねぇな……」
時計の針は午後五時を回っている。伊都はため息をついた。
彼が例の少女を家に連れてきてから、約三時間が経過した。今のところベッドに寝かせているのだが、全く起きない。気持ちよさそうに寝息を立てている。
もしかすると、あの時彼女は気絶したのではなく、ただ寝てしまっただけなのかもしれない。そうだと言える証拠はどこにもないが。
改めて寝顔を見てみる。大人びてはいるが少しあどけなさも残るなんとも不思議な顔立ちだ。身長はおそらく百三十センチほど。非常に華奢な身体付きである。年齢は十二、三歳といったところか。肌は抜けるように白く、まるで何年も日に当たっていなかったかのようだ。
これだけ挙げると特に変わった様子はなく、ごくごく普通の少女に思えるが、実は彼女には、伊都には理解できない特徴があった。
それは、服装。青色のジップアップパーカーを来ているのだが、そのボロさといったらなかった。あちこちが擦り切れ、色褪せている。そこまでして着たいのだろうか。謎である。
「しっかし、よく他人の家で寝られるよな……」
伊都は呆れ顔でつぶやく。果たしてこのまま寝かせておいて良いのだろうか。そもそも、ここに連れてきたこと自体、大丈夫だったのだろうか。今更ながら不安が襲ってくる。
「……ちょっと待てよ」
伊都は、机に置いた携帯を開き、「未成年 家に連れ込む」と検索した。すると、「逮捕」だの、「法律違反」だの、恐ろしい単語の数々がヒットした。
「やば……」
もし、これが何らかの形で警察にバレて問題になったら、自宅謹慎どころの騒ぎではない。全国ニュースである。伊都の背中を冷や汗が伝った。すぐにでも警察に相談しなければ。面倒くさがってる場合ではない。伊都は、少女を起こそうと、彼女の方を向いた。その時だった。
バタン!!
なんと少女がベッドから落ちた。まさかの寝相が悪いタイプであった。少女はうなりながら、床の上でゆっくりと起き上がる。
「……?」
少女は自分の身に何が起こったのか、まだ理解していないようだった。
「はぁ……やっと起きたか」
長かった三時間であった。早く、交番に連れていかなければ。
「おーい、大丈夫か?」
寝ぼけている少女に伊都が話しかけたその時、彼女の様子が急変した。
「いやー!! 変態!」
と叫び、目の前の伊都を足で蹴った。彼女の足は伊都の腹部にクリーンヒットした。鈍い痛みが伊都を襲う。
「いってーな! なんだよいきなり!」
「ここどこよ! 私を連れてきて、どうするつもり!」
「は?」
「誰に言われたの!? 答えなさいよ、誘拐犯!」
「誘拐!? ちげーよ、俺はお前を助け…… 」
「ていうか、誰よ、あなた!」
「いや、お前が誰だよ!!」
 悲しいことに会話が全く噛み合わない。というか、こちらの話を全く聞いてくれない。
「名前を言わないってことは、やっぱり誘拐犯……」
ガチャっ。
部屋の外で玄関の開く音がした。まずい、誰か来た。少女はまだしゃべり続けるので、伊都はあわてて、彼女を黙らせる。
「シーーっ!!」
「は!? 何よ」
「いいから、黙ってくれ、頼む……!」
伊都はひそひそ声で叫ぶ。だが、少女は黙らない。
「黙るわけないでしょ! 聞きたいことが山ほどあるのよ、誘拐犯!」
こうなったら、最終手段だ。伊都は止む無く少女の口を手で覆った。
「っ!? んーーーっ!」
なんとか喧嘩を中止させた。それにしても、誰だろうか、こんな時に。伊都は耳をすませる。
「ただいまー」
帰宅したのは、伊都の母であった。
まずい。こんな状況を見られたら、なんと言われるだろう。伊都は、母が部屋に来ないことを祈った。
ガチャっ。
再びドアの開く音がする。どうやら母は、二階の伊都の部屋には来ず、そのまま一階のリビングへと直行したようだ。思わず安堵のため息が漏れる。
すると、伊都は思いっ切り肩を叩かれた。何度も、何度も。叩いているのは少女であった。伊都は、自らの手が少女の口を覆ったままだったことに気がついた。
「あ、悪い」
伊都が手を離すと、少女は真っ赤な顔で怒りを顕にした。
「いきなり何すんのよ、誘拐犯!」
「お前が黙らないからだろ!」
「だからって、やっていいことと悪いことがあるでしょう! ああ、それとも誘拐犯はその程度の判断も出来ないのかしら?」
「頼むから、あんまり誘拐犯って連呼しないでくれ……」
誘拐犯というのはあながち間違っていない。伊都が先程調べたところによると、こういうものは「未成年誘拐」に入るのだそうだ。そうなのだ。そうなのだが……。
「誘拐犯は誘拐犯でしょ! 事実を言って何が悪いのよ」
「だから、誤解だって! 俺はお前を助けたんだよ」
「助けた? さらったの間違いでしょ!」
少女は伊都の言い分を全く信じる気配がない。
ピーンポーン。玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
一階から母の声がする。どうやら母が出たようだ。 微かに母の声が聞こえる。今度は話していても大丈夫そうだ。
「とりあえず、名乗って。話はそこからよ」
「ってか、さっきから、なんでそんな上から目線なんだよ」
「上から目線? 別に普通に接してるつもりだけれど 」
 自覚がないようだ。どうやら彼女はこういう性格らしい。
「で、名前は?」
「えらい聞きたがるけど、そんなに重要かよ、名前って?」
「重要よ。答え方次第で、あなたの運命が変わるわ」
「んなわけねーだろ、大げさだな」
「んなわけあるのよ。はい、教えて」
いや、んなわけねーよ。伊都は少女の言うことに納得出来なかった。
やはり少女の上から目線が気になる。何より腹が立つ。たかが名前を聞かれているだけではあるが、聞かれる度に、答える気がなくなる。伊都は、意地でも名前をいうつもりはなかった。
「名前を聞く時は、自分からってもんだろ。お前が先に名乗れ」
「何よ、その態度。失礼でしょ」
「お前が言うな」
少女も名前を言うつもりはないようだ。睨み合いが続く。その時、伊都の部屋のドアが開く音がした。
「こんばんは、霧野くん」
伊都が声のするほうを振り向くと、そこには、スクールカウンセラーの田沢舞子が立っていたのだ。
最悪だ。なぜこのタイミングで。
伊都は言い合いに夢中で、彼女の階段を登ってくる音も聞こえていなかったのだ。
「突然、ごめんなさいね。どうしても……。えっと、そちらの方は?」
舞子が少女の存在に気がついた。伊都は焦った。どうしよう。なんと答えるべきか。
ふと少女の方を見ると、なんと彼女も焦っているようだった。先程の高圧的な態度を取っていた少女の面影はどこにもない。
「あー、えっと……」
とにかく俺が何とかしなければ。でも、どうする。どうする! 焦った伊都はとっさに、
「い、いとこなんですよ!」
「いとこ?」
「そうです!」
「あら、そうなの。でも、どうしてここに?」
「あー、えっと、俺が自宅謹慎になったから、わざわざ心配して来てくれたんです」
「へー、素敵ないとこさんね」
舞子は微笑んだ。何とか切り抜けたか。伊都が安心したのもつかの間。
舞子が座りつつ、少女に話しかけたのだ。
「お名前は何ていうの?」
名前。その言葉に伊都は凍りついた。それは少女も同じだったようで。
「名前……あ、えっと……」
下を向いて、困っていた。そしてちらちらと伊都を見てくる。明らかに助けを求めていた。
なんで、俺! だが、文句を言っている場合ではない。この状況をなんとか出来るのは伊都しかいなかった。
伊都は、もう一度改めて少女を見た。小柄の割に大きなパーカー。フードも当然大きい。
パーカー。フード。
「フーカ!」
「え?」
「フーカって言うんです、そいつ!」
「そうなの?」
舞子に聞かれた少女は、ヘドバン並に頷いている。
「もう、びっくりしたじゃないの。どうして、霧野くんが答えるのよ」
「いや、その、フーカは、結構人見知りで」
本当は全然違うが、ここまできたらでっち上げていくしかない。
「へー、可愛らしいのね」
「ははは……」
舞子は見事に騙されている。
「こんなに可愛らしい子が来ているんだったら、私、来る必要なかったわね」
「え?」
「ああ、私ね、穂積先生に頼まれたの。霧野くんが明日学校に来るか心配だから、家庭訪問してくれないかって」
「なるほどー、穂積先生が。そうだったんですねー」
穂積、余計なことしやがって。伊都は心の中で舌打ちをする。
「でも、その様子じゃ、心配なさそうね。良かった」
舞子は目を細めて微笑む。伊都もそれ合わせて、何となく笑っておく。
舞子は、伊都が苦手とする教師の一人である。何だか怖いのだ。笑顔の奥に、とんでもないものを隠しているような気がして。
「それじゃ、また明日」
舞子は立ち上がり、後ろを向いてドアノブに手をかけた。しかし、「あ」とつぶやき、すぐさま振り向いた。
「霧野くん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい?」
「霧野くんって、お兄さん、いるわよね?」
「いますけど……」
いきなりどうしたというのか。
「お兄さんって、研究者?」
「あ、はい」
「今はどちらに住んでいるの?」
「さあ……俺もよく知らないんですよね」
「そう……。ありがとう」
舞子は微笑み、「それじゃ」と言って部屋から出ていった。彼女の階段を降りていく音がする。しばらくして、母との会話が聞こえた後、玄関の閉まる音がした。
「どうなることかと思った……」
伊都は緊張が解け、ほっとため息をつく。
「………あの」
少女が口を開く。
「なんだよ」
「その……」
先程の伊都を誘拐犯呼ばわりしていた少女は、どこへ行ったのやら。気まずそうに下を向いている。
「言いたいことがあるんなら、はっきり言えよ。さっきまで、さんざん言ってたくせ……」
「ごめんなさい!」
「え?」
少女は頭を下げていた。
「誘拐犯とか言って、ごめんなさい!」
「え、え?」
あまりにも急な謝罪に、たじたじになる伊都。
「でも、どうしても分からなくて……。私、何も覚えてないの。どうしてここにいるのかも、ここに来る前、何をしていたのかも……」
「そ、そうか」
「だから、教えて。……ううん、教えてください! お願いします」
少女は伊都の手を掴みながら言った。アイドルに握手をされているような気分である。無論、伊都はそんなことされたこともないが。だからこそ、変にドキドキしてしまう。
「分かった、分かったから。とりあえず、離せって」
「あっ、ごめんなさい……」
少女は、ぱっと手を離す。
「さっきから、何度も言ってるけど、俺はお前を助けたんだ。あの公園で」
「公園……?」
「お前が白衣の奴らに囲まれて、助けてって言ってたから、俺は上手く、そいつらを追い払って、お前を助けた。でもその後、お前は気絶した。だから、仕方なく、ここに連れてきたんだ」
「………」
「でも、それがどうやらまずいらしくてだな。だから、今から交番に行くぞ」
 伊都はそう言ったが、少女から返事がない。
「おーい、聞いてんのか?」
 少女は、考え込んでいた。思い出そうとしているのだろうか。
やがて、少女は顔を上げ、青ざめた顔でつぶやいた。
「そうだ……私……」
どうやら、思い出したようである。
「よし、行くぞ。思い出したんなら、状況言えるな?」
「え、どこに……?」
やはり、話を聞いていなかったようである。伊都は、一から説明をし直した。
「交番……? 警察……?」
「そうだって言ってんだろ。行かねーと俺がやばいんだって。だから、行くぞ」
伊都は立ち上がった。
「ま、待って……!」
少女は伊都の服を引っ張った。その手は、震えていた。
「警察は……行きたくない」
「は?」
「嫌だ……また、あんなの……いや……」
少女は、苦痛に顔をゆがめ、必死で伊都を止めていた。伊都はただならぬ状況を感じ取った。
「何か……あったのか?」
伊都は座り、少女に事情を聞くことにした。
「……私、旅行中、なの」
予想だにしていなかった返答に、伊都は目を見開いた。
「はっ? 旅行中……?」
「正確には、家出中……。でも、親には友達の家に泊まりに行くって言って出てきた……。だから、旅行中」
「いや違うだろ」
「あなたが言ってる、『未成年誘拐罪』って……確か、親の了承を得ずに泊めた場合でしょう? だから、これで大丈夫……」
「いやいやいや! 不審に思われて、お前の親に行方不明届出されたら終わるんだって」
「……出すと思う? あんな……私を人間扱いもしてないような……親……」
「え?」
「…………」
少女は暗い顔をした。
「今まで、何回も家を空けてきた。でも、何も言われなかったし、帰ってきても、おかえりも言ってくれなかった。今回だってきっと同じよ。だから、大丈夫」
ネグレクト、だろうか。伊都も聞いたことはある。戻りたくはないだろう。それに、彼女の言っていることが本当なら、誘拐罪には引っかからない。
「お願い、泊まらせてください」
少女は頭を下げた。どうするべきなのだろうか。少女の言うことを信じて、ここで匿うのが正解なのだろうか。だが、伊都はやはり、首を縦には振れなかった。
「いや、やっぱり無理だ。親だっているし……バレたら、やばいし」
「そうなったら出て行くから。お願いします」
「いやいや、お前はそれでいいかもしれねーけど……。一歩間違えりゃ警察沙汰になるからな……」
すると、先程まで気弱だった少女が豹変した。
「……はぁ? そんなことでビビってるの? バカじゃないの」
伊都は、カチンときて、言い返す。
「なっ……バカはお前だろ! さっきから言ってんだろうが、俺の責任になるんだって! いい加減分かれよ、バーカ!」
「バカはあなたよ! いい? そんなことにはならないの! 分かった?」
「どこにそんな証拠があんだよ! 子供のくせに、知ったような口ぶりで言うな!」
「子供!? 私は大人よ!」
「嘘つけ! どう考えても小六だろ!」
「はぁ? あなたより大人よ!」
「誰が信じるかよ、そんな嘘!」
これでは埒が明かない。お互いが一歩も引かないまま、熱戦は続く。
「ちょっと、なに騒いでるの。電話?」
いつの間に階段を上ってきたのだろうか、扉の向こうから、母の声が聞こえた。
まずい。なんと言い訳すればいいのか。伊都は焦り、「開けるんじゃねぇぇぇ!」と言おうとしたが、遅かった。
扉は開いてしまった。
「もう、何して……。………」
母が固まった。仕方がない、弁解だ。
「……いや、あの。俺は、悪くねえんだよ? こいつが勝手に!」
「あ、あの! 私は何も悪くないんです! 信じて!」
「ああもう! ややこしくなるからお前は黙っとけって!」
「なんでよ! 私にだって、喋る権利はあるでしょ!」
「だから、黙れって!」
「あなたが黙りなさいよ!」


「かわいいいいいい!!」


「…………え?」
伊都が、その声が母であることを理解するのに、数秒かかった。
母は突如として、叫んだのだ。
「母さん……?」
「かわいい。かわいいじゃないの! もう、伊都。彼女が出来たなら、お母さんに言いなさいよー」
興奮気味で母は言う。どうやら、少女を見て、伊都の彼女だと思ったようだ。まさかの、そっちに行ったか。伊都は頭を抱える。ふと、伊都が少女の顔を見ると、戸惑いの表情を見せていた。
「お名前は何ていうの?」
「……えっと、ふ、フーカって言います」
「フーカちゃん! 素敵なお名前ね。今日はどうしてここに?」
「あの……お泊まりしたいなって言ったら、彼……い、イトがいいよ来なよって言ってくれたから……」
所々つっかかりながらも、少女はなんとか話をでっち上げた。しかも、伊都に言ったこととは違う話を。
すると、母は目をハートにして、
「まあ、伊都が? いつの間にそんな男らしいこと言えるようになったのね〜」
さりげなく、母は息子をディスる。
「おい」
「私の親には言ってあるんですけど……ごめんなさい、いきなり来てしまって。あ、でも明日には出ていくので、あの……」
「あら、そんないそがなくていいのよ? ここで良かったら、いくらでも泊まっていって!」
 少女は目をぱちくりさせた。
「いくらでも……?」
「ええ!せめて夏休みの間だけでも。ね?」
正気か?
伊都は開いた口が塞がらなかった。夏休みは短い。だが、いくら短いとはいえ、三週間はある。三週間も、彼女と共同生活をしなければいけないというのか。
「ありがとうございます!」
少女は頭を下げていた。こんなことを言う母親が存在するのか。
「ああ、でも、部屋が用意出来ないのよ。だから、寝る時は伊都と一緒でもいいかしら?」
「だ、大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、伊都。今日から床に布団敷いて寝なさいね」
「え、俺が床!?」
「当たり前でしょ。彼女を床で寝させるつもり?」
伊都は不満だった。なんでこんな奴のために床で寝なきゃいけないのだ。大体、彼女でもないし、いとこでもない。赤の他人なのだ。
「あ、あの、床で大丈夫です」
母と伊都のやり取りを見ていた少女が、控えめに、だがしっかりと言った。
「あら、いいの?」
「はい。その……きっとイトだって、いつも寝てるところのほうが寝やすいだろうし……」
「まあ、気遣いまで出来る、いいお嬢さんね! 伊都、大切にしなさいよ」
「はぁ……」
もうベタ褒めである。
「それじゃあ、夕飯出来たら呼ぶわね」
母は、上機嫌で伊都の部屋を出ていった。
「……なんか、大変なことになったな」
「本当にね」
「俺の彼女、だってさ」
「そうみたいね」
「どう思う?」
「すこぶる嫌」
「だろうな」
「でも、泊まること、許してくれて良かったわ」
「……俺は、あと三週間も警察に怯えて過ごさなきゃいけねーのか」
「だから、親に言ってあるってば」
「本当かよ……」
「本当よ。……それにしても、とてもいいお母さんね」
「まあ、昔俺に向かって『娘も欲しかったわ』って言ってきたことあるからな。娘ができたみたいで、嬉しいんじゃねぇのか」
 そうなのである。伊都の母は、人一倍、娘というものに憧れを持っていた。今後も母の、少女への優遇措置は続きそうである。
「とにかく、これからお世話になるわ。よろしく、イト」
「……よろしく」
ああ、また面倒なことになってしまった。伊都は大きくため息をつく。
「あ、名前、イトで合ってるのよね?」
「合ってるけど……。結局、お前のことはなんて呼べばいいんだよ」
「私? フーカって言ってたじゃない。それでいいわよ」
「いや、お前の名前じゃねぇだろ。大体パーカーとフードを組み合わせて適当に作ったやつだし、やめたほうが……」
「でも、気に入ってるのよね。この名前。私、今日から『フーカ』で生きていくことにするわ」
少女……フーカは、満足そうに言った。彼女からは自然と笑みがこぼれている。そんなに嬉しいのだろうか。思わず彼女の好みを疑う。
「ご飯よー。降りてらっしゃーい」
下の階から母の声が聞こえる。フーカの目が輝き、すぐさま立ち上がった。伊都もゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと、なにチンタラしてるのよ。案内して。私、分からないんだから」
「はいはい、わかりましたよ」
 もう彼女が上から目線なのは諦めることにした。きっと、皆に対してこうなのだ。そうに違いない。むしろ、そうであることを願った。

こうして、伊都とフーカの共同生活が幕を開けた。
「えー、夏休みだからといって、くれぐれもだらけた生活を送らないように……」
先程、終業式が終わり、学期最後のホームルームが行われている所であった。蒸し暑い教室に穂積の声が響く。ちなみに穂積は特に好かれてる訳でもない(むしろ嫌われている)ため、皆、だるそうに話を聞いている。「早く終わらせろよ……」と言わんばかりの顔である。
伊都も同じだった。というのもフーカのことが気が気でないからだ。家族でも友達でもいとこでも知り合いでもない、昨日出会ったばかりの謎すぎる少女を家に一人置いてくるということが、こんなにも不安だとは、予想もしていなかった。
一応、学校に行く前に「家の外には出るな」「来客は無視しろよ」「騒ぐな」と注意はしておいたのだが、彼女のことだ、伊都の言うことなど守るかどうか。とても心配である。もし破られたら……。考えただけで鳥肌が立つ。
早く終わってくれ。伊都は祈るようにホームルームの終わりを待った。
「以上で、ホームルームを終わります」
終わったー! 伊都は心の中で歓声を上げる。
「起立ー、礼ー」
「ありがとうございましたー」
終わるやいなや、伊都はすぐに荷物をつかみ、さっさと教室から出ようとした。
「ちょっ、伊都! 待ってよー」
誰かに腕を掴まれた。振り返るとそこには、クラスメイトの一ノ瀬誠がいた。
「あ、誠」
「あ、じゃないよ。三日経ったら、僕のこと忘れちゃったの?」
「いやいや、忘れるわけないだろー。はっはっはー!」
「……なんか、棒読みなんだけど」
「気のせい気のせい! んで、どうした?」
「いや、久しぶりだし、一緒に帰ろうかなーって思って……」
「おう、帰ろうぜ!」
「……なんか、伊都、今日変だね」
「んなことねぇよ。いつも通りだ」
「そうかなぁ……」
誠は心配そうに伊都を見ている。さすがは友達。相手の異変には鋭い。
「何かあったら、いつでも相談してね。僕にできることなら何でもするからさ」
出来ることならそうしたい。だが、相談することのリスクが大きい。自宅謹慎中に何をやっているんだという話になるし、第一、他人に知られてしまえば今度こそ警察沙汰だ。
伊都は、自分の気持ちをぐっと押し込んで、「ありがとな」とだけ言った。

誠と別れ、全速力で家に向かう。家に着くとドアを開け、階段を駆け上がり、真っ先に自分の部屋へ行く。
「フーカ!」
叫びながらドアを開けると、フーカはゲームをしていた。めちゃくちゃくつろいでいたのだ。
「なによ、帰ってくるなり人の名前呼んで……。気持ち悪いわね」
「どういう意味だ。こちとら、お前のこと心配してたんだぞ」
「私を舐めないで。留守番くらい出来るわ」
「そうじゃなくてだな。身内でもなんでもない、昨日知り合ったばかりの奴を一人家に置いていくことが、どれだけ不安だったか、お前に分かるか?」
「分かるわけないでしょ。経験したことないんだから」
「俺だって経験したくなかったんだけど」
一日経っても、フーカの上から目線は変わらない。おかげで顔を合わせると言い合いが始まってしまう。
「はぁ……やっぱりやり方がわからないのよね。私には向いてないみたい」
フーカは持っていたゲーム機を机の上に置いた。
「全く、こんなののどこが面白いのかしら」
「お前今、全国のゲーマーを敵に回したぞ」
「だって、難しいんだもの。私にはこれの面白さがわからないのよ」
「お前には分かってもらわなくて結構だよ」
「あーあ、また暇になっちゃった」
フーカは、ごろんと床に寝そべる。とりあえず、フーカは無事だった。伊都はひと安心すると、また出かける準備をした。
「どこか行くの?」
「ああ、昼飯買いに行ってくる」
いつもは母に弁当を用意してもらうのだが、今朝はフーカのこともありバタバタしていたので用意をしてもらえなかったのだ。この暑い中、買いに出かけるのはとても憂鬱だが、行くしかない。
「留守番、頼んだぞ」
伊都はフーカにそう言い残し、部屋を出ていこうとした。すると、フーカは、「私も行く」と言い出した。
「は? 何言って……」
「私も行くわ」
「いやいやいや、なんでお前を連れてかなきゃいけねぇんだよ」
「だって、身内でもなんでもない、昨日知り合ったばかりの奴を一人置いていくのは不安なんでしょ?」
「お前と一緒に出歩く方が、もっと不安だわ。誰かに見られたらどうすんだよ」
「このまま家に居たって暇なの! だから、行く」
「やっぱりそういうことかよ……」
「ねぇ、連れてって」
このまま言っていても埒が明かない。それに、頑固なフーカのことだ。伊都がなんと言おうと着いてきそうである。伊都は渋々連れていくことにした。
「……分かったよ」
フーカはウキウキとした表情を見せた。こんな表情もするのか。意外であった。
「その代わり、大人しくしてろよ。バレたら終わりなんだからな」
「まだそんなこと言ってるの? 大丈夫だって言ってるでしょ。大体、周りから見れば、家族にしか見えないわよ」
フーカはさも当然のような表情で言った。彼女の親が、宿泊を了承していると未だに信じていない伊都は、不安で仕方がなかった。
 伊都とフーカは電車に乗って、街にあるデパートにやって来た。本当は、伊都の家の近くにある唯一のコンビニで買い物を済ませたかったのだが、フーカがどうしてもデパートに行きたいと言うので、仕方なく隣街にやってきたのだ。弁当だけのためになぜこんな所まで……。伊都は不満だった。
 それに対し、フーカの目はキラキラと輝いていた。彼女は弁当のコーナーに行くまでにも様々な店に入っては、商品を眺めている。もちろん伊都も巻き添えを食らう。おかげで、伊都が弁当を買えたのは、デパートに入ってから一時間後だった。
「やっと買えた……」
 しかし、安心したのも束の間、伊都はその後もフーカに連れられ、様々な店を周回していた。
「なぁ、もう帰ろうぜ……」
 空腹と疲労で、伊都はもう限界だった。
「えー、なんでよ。まだ全部まわっていないじゃない」
「お前、今日一日で全部まわる気かよ!? 何店舗あると思ってんだよ、無理だわ!」
「だって、初めて来たんだもの、こんな夢みたいな場所。もう二度と来られないかもしれないでしょ」
「いやいや、偏見にも程があるだろ! こんな所、電車一本でいつでも来られるぞ」
 フーカは、目をぱちくりさせた。
「本当? 本当にまた来られる?」
「だから、来られるって。また行こうぜ」
「……約束よ」
 フーカは、小指を差し出す。「指切りげんまん」というやつだ。伊都は昔、母や兄とやった時のことを思い出したながら、自分の小指を絡ませた。
「おう。約束だ」
 フーカは安堵の表情を見せた。そしてすぐに解き、出口に向かって歩き出す。家ではデパートも連れていってはもらえなかったのだろう。だから、こういう所に対する憧れが強いのだ。そう考えれば、彼女の話も信じる気にはなってくる。
「あ。あれ……」
 フーカがいきなり立ち止まり、ポツリと呟いた。彼女の目は洋服のコーナーに向けられている。
「なんだよ、また来るって言っただろ。もう帰ろうぜ」
「でも、あれセール中よ。しかも今日まで」
「だからって、見てどうすんだよ。俺、買えねぇぞ? 弁当代しか持ってきてなかったから」
「でも……」
「大体、お前はあっちだろ?」
 そう言って伊都は、反対側にある子供服のコーナーを指さした。途端にフーカが鬼の形相で睨みつけてくる。
「ちょっと、子ども扱いしないでちょうだい!」
「いや、だって、サイズ……」
「もういい。帰るわよ」
 フーカはくるりと背を向けると、スタスタと出口へ向かった。
「ちょ、置いてくなよ!」
 伊都も慌てて着いていった。
「やっと食える……。疲れた」
計三時間にも及ぶ外出から帰宅し、二人で弁当を広げる。フーカは相変わらず、ご機嫌斜めだ。
「……」
「いい加減、機嫌直せよ。悪かったって」
「……ねぇ、私いくつに見える?」
急な質問に、伊都は戸惑った。
「いくつって……なんだ、身長のことか?」
「違うわよ」
「じゃあ、体重?」
「あなたに聞くわけないでしょ。違う、年齢よ」
「ああ、年齢か。そうだな、大体、十二歳か十三……」
「ぶっ飛ばすわよ」
「何でだよ! それくらいだろ、どう見たって」
「違うわよ! 私はっ……」
フーカは、バン!と机を叩き、伊都に顔を近づけた。
「いい? 今日から、私を二十歳だと思って接して」
「は? いやいや、無理あるだろ」
「思うだけでいいから! いいわね!」
「いや、無……」
「い、い、わ、ね!?」
「あ、はい……」
フーカのあまりの剣幕に、伊都は頷くしかなかった。この怒り方は、よくある子供扱いされて拗ねているとかいうレベルではない。
伊都が間違っているのだろうか。もしかして彼女は、こう見えて本当に二十歳なのだろうか。わからない。謎は深まるばかりであった。