会場の公民館には、人だかりができていた。と言っても五十人もいないが。それでも一箇所にこんなに人が集まるのは、田舎では珍しいことである。
伊都が人の多さに戦いている間に、誠はどんどん中に入っていく。意外と積極的である。まあ興味があることとなれば、自然と勇み足になるのも不思議ではない。伊都は慌てて着いていく。
中にも人は沢山いたので、冷房がついているのにも関わらず、熱気でとても暑い。
よく見ると伊都たちと同じ年代の人はほとんど居ず、大半は大人であることに伊都は気がついた。そして心無しか女性マダムが多い。もしかしたら、誠が行きにくそうだったのはこれが原因かもしれない。
会場にはパイプ椅子が用意されていた。誠が座った隣に伊都も座る。まあまあ前である。やがて場内の照明が少し落ち、それまでざわついていた聴衆も静まる。
「本日は、『木下 渡講演会〜不老者とは何か〜』にお越しくださり、誠にありがとうございます」
マイクを通した司会の声が、場内に響き渡る。いくつかの諸注意を言い並べ、いよいよ本日の主役が登壇する。
「それでは、木下教授が登壇されます。拍手でお迎えください」
柔らかな拍手に合わせて、白衣を纏った木下は登壇した。年齢は三十代前半だろうか。顔が整っており、高身長。艶がある黒髪が爽やかさを醸し出している。伊都は、女性が多い所以を理解した。
「ありがとうございます。まさかこんなにたくさんの方に来ていただけるだなんて思っていませんでしたので、とても嬉しい反面、少し緊張しています。温かい目で見守ってくださると嬉しいです」
聴衆の若干の笑いを誘い、「早速ですが」とプロジェクターの画面に資料を映し出した。
そこからは、不老者についての説明が主であった。不老者とは何か、不老者についての歴史、その他諸々を木下は丁寧にかつわかりやすく説明していった。
伊都は、兄の影響で「不老者」という言葉は聞いたことがあるものの、初めて知ることばかりであった。だがこれは、遠い遠い昔の、どこか知らない町での話だろう。どうしても他人事であると思ってしまうのだった。
「さて、本日私がこの宿木町で不老者についての講演会を行ったのには、訳があります」
不老者の一通りの説明を終え、木下はこう切り出した。そして、「こちらをご覧ください」と映像を切り替えた。
伊都は目を疑った。
整った顔立ち、抜けるように白い肌。セミロングの髪。華奢な体に纏った青色のパーカー。紛れもない。そこに映し出されていたのは、先程まで一緒にいたフーカだったのだ。
「彼女は『立花久美子』。今現在、生き残っている最後の不老者とされています。三年前、私たちはこの宿木町に施設をつくり、そこに不老者たちを集め保護していたのですが、何らかの理由で彼女は逃げ出してしまいました。そして現在、行方がわからなくなっています。ですが、最近この町に居るという噂を聞きました」
立花久美子……?
聞いたことの無い名前、そして聞いたことのない話。フーカと一致するようでいてしないのだ。
「不老者が一人で生きていくのには様々な危険が伴います。彼らは普通の人間に比べて、大変身体が弱いのです。もし流行りの病にかかろうものなら、すぐに命を落とします。私はそれを防ぎたい。彼女に生きてほしいのです」
木下は必死で聴衆に訴えかける。
「お願いします。もし彼女を見かけましたら、どうか私共にご一報ください」
深々と頭を下げ、懇願する木下。聴衆からは自然と拍手が巻き起こる。隣の誠も力いっぱい手を叩いていた。だが、伊都はそれどころではなかった。『立花久美子』のことで頭がいっぱいであった。どういうことであろう。フーカと立花久美子は関係があるのだろうか。それとも全くの別人……? 考えれば考えるほど、訳が分からなくなってくる。
「……伊都!」
「おあっ! え? あ、誠」
「五回くらい呼んだけど……。どうしたの、考えごと?」
「あ、まあそんな所」
「ふーん。……あ、ねぇねぇ、立花久美子さんって、フーカちゃんにそっくりじゃなかった?」
「……やっぱり、誠もそう思うか?」
「うん。ちょっと記憶が曖昧だけど、すごく似ている気がして。もしかして……立花久美子さんなのかな」
「いや、それはないだろ」
咄嗟に否定した伊都に、誠は目を丸くする。
「どうして? だってかなりそっくりだよ?」
「いや、でも顔だけで判断するのはなんかな」
「他にどうやって判断するんだよ。とにかく一回聞いてみたら? 違ったら違ったでいいし」
「でも……」
嫌だった。彼女が不老者かもしれないと疑うのが、伊都はたまらなく嫌だった。どこからどう見ても謎すぎる家出少女。何か秘密があるとは思ってはいた。それがなんなのか知りたかった時期もあった。だが、今は、どうでもよかった。彼女と一緒に過ごせる、ただそれだけで伊都は幸せだった。
もし、彼女が不老者だと分かったら、きっと遠くに行ってしまうだろう。もう二度と会えないかもしれない。
しかし、そんな伊都の思いを断ち切るかのように、誠は続ける。
「確かめてみた方がいいと思う。伊都のためにも、彼女のためにも」
そうだ。それが良いに決まっている。もし彼女が不老者だとしたら、すぐに知らせた方が、彼女のためでもあるのだ。
「……分かった。確かめてみる」
伊都は渋々了解した。
誠と別れ、伊都は帰宅した。手洗いうがいをして、二階へと上がる。
もちろん部屋にはフーカがいた。ゴロンと寝転がり、本を読んでいる。完全にくつろぎモードである。
「ああ、帰ったの。おかえり」
「ただいま」
いつもの挨拶なのに、やたら早口で言ってしまう。もう、早めに終わらせよう。伊都は思い切って、話を切り出した。
「あのさ」
「なに」
フーカは本から目を離さずに面倒くさそうに返事をする。大丈夫、いつものフーカだ。何気ない動作や反応を見て気を落ち着かせながら、なるべく淡々と話し出す。
「お前ってさ、不老者なの?」
いきなり過ぎただろうか。だが、答えやすい質問である。選択肢は、「はい」か「いいえ」だけなのだ。
「……は? なにその、フロウシャって」
「え、不老者知らねぇの?」
「うん」
「なんだよ〜」
伊都は思わず座り込んだ。今までの緊張が嘘のように解ける。
「いやー、あのな、さっき講演会で聞いてきたんだけど、不老者が、一人行方不明なんだってさ。それで、その人の顔写真が映し出されて、それがお前にそっくりだったから、もしかしてって思って、聞いてみたんだよ。でも違うんだよな。なんだー良かった」
そうだ、フーカはフーカであり、ただの家出少女だ。「ただの」とは語弊があるかもしれないが、ここまで来たらどうでもよかった。
ほっとしたら喉が渇いた。伊都は冷蔵庫がある下の階に向かおうと、立ち上がって部屋の扉を開けた。
「待って!」
背後からフーカの声が聞こえる。振り向くと、フーカは小刻みに震えながら伊都を見上げている。いつもの彼女ではない。伊都は瞬時にそう思った。
「どうした?」
そう聞いたものの、なかなかフーカは口を開こうとしない。いや、実際には話そうとはするのだが、声にはならないのだ。伊都はあぐらをかいてフーカと同じ目線になった。
しばらくの沈黙のあと、フーカは声を発した。
「私ね」
そこまで言ってもなお、震えが止まらないようだ。小さな手でぎゅっと洋服を握りしめ、彼女は、意を決したようにしっかりと伊都を見つめた。

「私ね、不老者なの」

不老者……?
伊都の思考は停止した。フーカの言っていることが分からなかった。わかりたくなかった。
「……嘘だろ? だって、さっき違うって……なぁ、冗談やめろよ」
嘘だと言って欲しかった。だが、フーカは静かに首を横に振った。
「嘘じゃない。私の名前は、立花久美子。最後の……不老者」
先程、木下が言っていた名前だ。もう間違いない。立花久美子は、フーカである。
「……全部話すわ。今まで隠してきたこと」
フーカは過去を語り始めた。
フーカの本当の名前は、立花久美子という。彼女はごく普通の家庭に生まれ、平凡な生活を送っていた。
しかし、十二歳の時に異変は起きた。身体が全く成長しないのだ。身長は伸びず、体重も変わらない。流石に変だと思った両親が、久美子を病院に連れていったが、医者に「原因が分からない」と言われ、あちらこちらの病院を回った。最終的には久美子は地元で一番大きな病院に連れていかれた。
そこでの様々な検査の結果、久美子の身体には「不老」という現象が起こっていると判断された。原因はもちろん不明。今のところは治療法はないと医者から告げられた。
信じられなかった。いや、信じたくはなかった。このまま、ずっと、この身体で生活していかなければいけないだなんて、考えただけで気が狂いそうだった。
生活はガラリと変わった。当時、「不老者」は世間にあまり認知されてなかったからか、差別されていた。案の定、久美子が不老者だということは、あっという間に周囲に知れ渡り、立花家は差別の対象となった。久美子は学校で毎日のようにいじめられ、不登校になってしまった。
家族を最も悩ませたのが、近所からの嫌がらせである。いたずら電話、落書きはもちろんのこと、窓ガラスが割られたり、「出てけ!」と連呼されたりと、そんなことは日常茶飯事であった。立花家は何度も引越しを強いられた。
人は、弱者を攻撃することで、安心感や満足感、仲間意識を得るのだと、久美子は幼いながらに悟った。
なぜ、こんな目に遭わなければいけないのだろう。あまりの自分の惨めさに、毎日毎日泣いていた。
年月は経ち、少しずつ嫌がらせは無くなってきた。だが、久美子の身体は一向に成長しない。十五歳になった彼女の身体は、未だに十二歳の時のままだ。その反面、心は成長していた。きちんと反抗期も訪れたし、考え方や価値観も年相応だった。
ある日、白衣を纏った男性が、家に数人でやってきた。彼らは研究者であると名乗り、その中の「不老者研究グループ」に属しているという。
「私たちは、不老者の皆さんがいつか元の身体に戻れるよう研究しています。そこでこの度、不老者の皆さんを施設に集め、研究、治療を行おうと考えました。そうして現在、不老者の方がいるご自宅を回っている次第です」
始めはその話に乗る気などなく、家族は断ろうとしていた。おそらくいい話だとは思ったものの、久美子が家族と離れなければいけないこと、そしていつ戻ってこられるのかが不明瞭であることが嫌だったのだろう。しかし、次の言葉で、家族は考えを百八十度変えた。
「もちろん、タダとは言いません。もしこの『研究プロジェクト』にご協力いただけるのなら、お礼の方はきちんとさせていただきます」
その時に聞いた額は、久美子は詳しく覚えていない。思い出したくもない、自分に付けられた値段など。とにかく高額だったことは覚えているが。
度重なる引越しで、家にはあまり金がなかったため、その額が貰えるのならと、家族はプロジェクトへの協力をすることにしたのだ。
久美子は、家族の元を離れ、施設へ預けられた。日当たりも悪く、じめじめとした森の中に建てられており、あまり生活には適していないように思えた。
建物の中に入ると、廊下が二手に分かれていた。片方が研究棟でもう片方が寮棟に行く道だと案内役の研究者から説明を受け、寮棟に行くように久美子は促された。階段を登った先に、部屋がずらりと並び、長い廊下が奥まで続いていた。「部屋はどこでもいい」と研究者は言い捨て、去っていった。
久美子は部屋を選ぶべく、薄暗い廊下を歩いた。すると、一つだけ明かりがついている部屋を見つけた。誰かいるのだろうか。気になって、ドアに近づく。中から微かに女性の歌声が聞こえてきた。すごく透き通っていて、きれいな声である。聞いていて心地が良い。久美子はドアに耳を近づけ、しばらくその歌声に陶酔していた。
しばらくして、歌声は聞こえなくなってしまった。歌うのをやめてしまったのだろうか。もっと聞きたい。久美子は気が付けばノックをしていた。ドアが開いて、中から十五歳くらいの少女が顔を覗かせた。一瞬「?」という表情をしたものの、すぐに状況を理解し、
「ああ、あなた今日からここに入るのね。よろしく」
と笑顔を見せた。「よ……よろしく、お願いします」とタジタジになりながら返す。
「部屋はどこなの?」
「あ、えっと、まだ決めてなくて」
「え、そうなの? じゃあ……なんの用でここの部屋に?」
少女が不思議そうな顔をするのも無理はない。普通はいきなり他人の部屋を訪ねたりはしないからだ。
「あ、あの……歌……」
「歌?」
「歌の……続きが聞きたくて……」
ますます不思議そうな顔をする少女。
「さっき、歌ってた歌、実は聞いてて……すごく良かったから、もう一度聞きたいって思って……」
久美子の鼓動が早まる。迷惑だっただろうか。もう一度出直した方が良いだろうか。しかし、少女は突然笑いだした。
「やだ、さっきの聞いてたの? もう、恥ずかしいー! ここって、結構音漏れするんだね」
「で、でも、すごく上手だった」
「本当? 嬉しい、ありがとう」
 少女は照れながらお礼を言った。
「あの、良かったら、もう一度……聞かせてください」
「私なんかでよかったら、いくらでも歌うよ。せっかくだから、上がって」
少女は手招きした。「お邪魔します」と言い、久美子は部屋に入る。女の子らしい部屋であった。六畳ほどの部屋が可愛らしくデザインされている。
「すごい……! これ、どこで……?」
「ああ、この施設からは出ちゃいけないんだけど、欲しいものは何でもここの人が買ってくれるの。で、その結果」
「そうなんだ……」
センスの良さに思わず脱帽する。
「それで、なんの歌を歌えばいい?」
「えっと……さっきのがいいです」
「さっきかー、何歌ってたっけな」
「うーん」と少女は考え込んだ。いちいち何を歌っていたのか覚えていないところを見ると、彼女はいつも歌っているのだろう。
「あ、思い出した。これじゃない?」


 大丈夫 私はひとりじゃない

 そう信じて生きていくの

 だから涙なんかふいて

 いつものように笑ってみせるんだ


「すごくいい歌……」
「本当!? 初めて言われたよ。ありがとう!」
少女は屈託のない笑顔を見せた。
「ちなみに、なんていう曲なんですか?」
「これね、私が作った曲なんだ」
「え! すごい……!」
「そんなことないよ。題名もまだ決まってないし、少ししか考えられてないんだ。あ、そうだ。良かったら付けてくれない、題名?」
「え、私が……?」
「うん、お願い!」
素敵な曲に、自分などが、題名をつけても良いのだろうか。久美子は酷く戸惑ったが、とりあえず考えてみることにした。
題名か。久美子は必死に考えた。歌の世界観を壊さず、なおかつ自分の見解も入れなければいけない。題名を付けることのなんと難しいことか。久美子が考え込んでいると、少女はあわてて、
「そんな考え込まなくてもいいよ。軽い感じで、適当につけてもらって構わないから」
と言った。久美子は首を横に振った。
「そんなこと、しませんよ。せっかくの素敵な曲、私のせいで壊したくはないから……」
久美子はもう一度、先程の歌を頭の中で繰り返した。
「あの、『大丈夫』って題名はどうでしょうか」
「大丈夫、か……。うん、いいかも! 歌詞にぴったりな気がする」
少女は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、今日からこの歌の題名は、『大丈夫』! これで続きも考えられそう。ありがとう、考えてくれて」
「いえ、すごく楽しかったです」
他人の歌に題名を付けるなんて、なかなかない経験である。
「敬語じゃなくていいよ。どうせ同じような年齢なんだし」
「あ、う、うん……」
「そういえば、名前、なんていうの?」
「あ、えっと……立花久美子」
「へぇ、かわいい名前だね! 私は、田沢理恵。よろしくね!」
「うん、よろしく……!」
「ここに来たってことは、久美子は不老者なんだよね?」
「うん。本当は十五歳なんだけど、身体は十二歳なの。り、理恵は……?」
「私はね、見た目は十五歳だけど、中身は十八歳。一応もう大人なんだよね。全然大人っぽくないけど」
理恵が苦笑する。だが、久美子から見たら理恵は十分大人に見えた。
それから何週間かに分けて不老者が施設に入ってきた。久美子が来た時はひとつしか埋まってなかった部屋も、気が付けば全て埋まっていた。世の中にこんなにも同じ境遇の人がいるのかと、久美子は驚いた。彼らと過ごすことで仲間意識が芽生え、心が少し軽くなり、以前ほど自分の運命を恨むことはなくなった。もちろん理恵とは相変わらず仲が良かった。
だが、平凡な生活は長くは続かなかった。異変を感じ始めたのは、久美子が施設に入ってきて二年目の冬のことだった。次第に不老者の数が減ってきていたのだ。彼らは、ある日研究者に呼び出されたきり、もう二度と戻っては来なかった。
始めは、何らかの事情で家に帰されているのだと思っていた。しかし、段々と数が減るにつれ、流石に変だと思い、理恵に尋ねた。
「ああ、あれはね、実験を行っているの。二年周期でやる、危険な人体実験。行ったら最後、命の保証はない」
衝撃だった。研究棟でそんな恐ろしいことが行われているなんて、思ってもいなかった。
「だから、ここにいれば、死ぬのは時間の問題ってこと。私だって、久美子だって、いつかはあの実験で死ぬの」
理恵は、洗濯物を畳みながら淡々と話す。彼女は生きることに執着していないのだろうか。死ぬのが、怖くないのだろうか。
私は、怖い。久美子は震えた。
「……逃げよう」
 そして気が付いたら、口にしていた。
「ここから、逃げようよ」
「……なんで?」
「なんでって、ここにいたら死んじゃうんだよ……? そんなの嫌だよ、私。ねぇ、逃げよう、理恵」
久美子は理恵の両手を掴んで説得した。しかし理恵は表情を曇らせて下を向いた。
「……私は、行かない」
「ど、どうして……!」
「私はもう、生きてたくないの」
「り、理恵?」
「…………」
ただならぬ雰囲気に、久美子は理恵の手を離した。理恵は、立ち上がり、背を向け窓の外を見た。
「私ね、さっきの実験、前に一回受けてるの」
「えっ……!?」
つまり理恵は、久美子より二年早く、この施設に入ってきているということだ。
「でも、私、奇跡的に生き残っちゃったの。ほかの子たちは、皆死んじゃったのに、私だけ……死ななかった」
衝撃的な事実に、久美子は言葉が出ない。
「私だって実験の話を初めて聞いた時は、生きたいって思ってた。不老者ってだけで、研究の材料にされるなんて、そんなの嫌だったから。どんなに不幸な人生歩んで来たとしても、あんな奴らのために死にたくなかった。それで私は、自分の望んだとおりになった。望み通り、生き残った」
仲間が亡くなり、二年間、孤独に耐え、悲しみに打ちひしがれながら、生きてきたというのか。久美子は彼女の想像を絶する過去に息を飲んだ 。
「でも、でも……こんな、こんなのひどいよ。こんな思いするくらいなら、私、みんなと一緒に死にたかった……。そしたら、今頃、向こうでみんなと笑っていられたのに……!」
理恵はその場に座り込み、肩を震わせた。泣いているのだろうか。嗚咽が聞こえてくる。
「だから、もう生きてたくなんか、ない。生きていたって、いいこと、無いもん。いじめられるし、差別は受けるし、人間扱いされないし……仲間は死んじゃうし……一人ぼっちになっちゃうし」
鼻を啜りながら、理恵は笑った。
「よく、人間は幸せになるために生まれてきたんだ、なんて言うけど、そんなの嘘だよね。私は生きててちっとも幸せじゃなかった……。なんで? 人間じゃ、ないから? 不老者だから……?」
理恵の気持ちは痛いほど分かった。久美子だって、理恵と同じように、生きる中でたくさんの苦しみを味わってきたから。
「……もうなんだっていいよね。死ぬんだし。私が死んだら、今度こそ、みんなに会える……。今度こそ、みんなと笑える……」
理恵は、久美子の方を向き、
「だから、私は死を受け入れる」
と言い放った。
涙で煌めいている瞳は、しっかりと久美子を見つめていた。意志が固いのだろう。だが、それに負けじと久美子は強い眼差しで理恵を見つめ返した。
「……そんなの、ダメだよ。理恵。死ぬことにどんな理由を付けても、実験で死ぬことに変わりはないんだよ。そんなことしたら、研究者たちの思うツボだよ」
「…………」
「そんなの嫌だよ、私。……ねぇ、理恵。やっぱりここから逃げよう? 一緒に生きよう?」
「……だって、生きていたって、どうせ幸せになんかなれない。今までも、これからもずっと……」
理恵は頑なに生きることを拒否する。それでも久美子は続けた。
「それは違うよ、理恵。私たちは一生不幸なんかじゃない……。辛いことがあったあとは、必ずいいことが待っている。だから、理恵。これからは、きっと幸せになれるよ……!」
「そんなの……嘘だ。私は、ずっと不幸だもん」
「そんなことない。理恵は……幸せを見逃しているだけだよ」
「……見逃している?」
「うん。……多分、人は誰でも一度は幸せを経験している。でも幸せって、不幸なことに比べて、地味というか、インパクトがないから……気が付かないことの方が多いと思うの。……だから、理恵だって絶対に、幸せを経験しているはず……!」
「……私も、幸せを?」
「うん……!」
久美子は満面の笑みで、首を縦に振った。そんな彼女を見て、理恵は昔を思い返してみることにした。
まだこの施設に来たばかりの頃、理恵の他にもたくさんの不老者がいた。彼らとはすぐに友達になり、一緒に話したり、歌を歌ったり、時には悩みを相談しあったりしていた。
たくさん笑った。たくさん泣いた。辛いこともいくつもあったが、それでもお互いに励ましあって、皆で生き抜いてきた。
そんな彼らと過ごした時間。それが、理恵の幸せだったのかもしれない。
「……なんだ」
理恵は、困ったように笑った。
「私、ちゃんと幸せだった」
こんな簡単なことにも気がつかなかったのか。理恵は可笑しくなって、思わず笑ってしまったのだ。
「うん。理恵は、生きていても幸せになれてるよ! 今までも、これからも」
幸せには、種類がある。大きな幸せと小さな幸せ。
大きな幸せは、どう頑張ったとしても一生のうちに指で数えられるくらいしか経験できないだろう。
反対に小さな幸せは、たくさん経験している。当たり前の日常の中に、または不幸の裏に、常に存在するものなのだ。
人間は、大抵その小さな幸せを見落としがちだ。ようやく気がついた時にはもう失ったあとなのである。
しかし、たとえ失った後だとしても、小さな幸せに気がついた人間は、どんな幸せも見逃すことはないだろう。だからきっと、多くの幸せを掴めるはずだ。
「私、生きるよ。みんなの分まで、生きてみせる!」
理恵は、久美子の両手を包み込んだ。
「久美子。私も一緒に逃げる。逃げて、生き延びて、幸せになる!」
理恵の瞳には、強い意志が宿っていた。久美子は、満面の笑みで答えた。
「うん! 一緒に幸せになろう!」
二人は急いで脱出の作戦をたてた。研究者に怪しまれぬよう、久美子が理恵の部屋に通いっ放しというのは止め、交互に部屋に通うことにした。チャンスは一度きり。失敗すれば、命の保証はない。
作戦をたて終え、いよいよ明日が決行という時に、理恵は久美子に「渡したいものがある」と部屋に呼んだ。
「これ、あげようと思って」
理恵から折られた一枚の紙を手渡された。
「『大丈夫』の歌詞の完成版。いつか渡そうと思って書いてたんだけど、遅くなっちゃった」
「くれるの……?」
「もちろん! まあ多分、持ってても邪魔だろうし、売ってお金にもならないけど。でもこれから、どうなるか分からないからさ、せめて形に遺しておこうと思って。私たちが一緒にいたっていう証」
理恵は頭をかきながらはにかんだ。
「……!」
確かに、この曲は二人が出会い、共に生きてきた証である。詩は理恵が書き、題名は久美子が考えた。たったそれだけの事かもしれないが、これがなかったら、もしかするとここまでの絆は生まれていなかったかもしれない。
久美子がどきどきしながら、中を開いて見ようとすると、「あ、今見ないで〜」と理恵がそれを制した。
「なんか恥ずかしいからさ……。そうだ、脱出成功したら、とかにしない?」
「えー?」
「お願い!」
「うん、分かったよ」
二人で笑い合った。
「ありがとう、理恵。……大切にするね。ずっと、ずっと」
久美子は、紙をお気に入りの青いパーカーのポケットに入れた。これがあれば大丈夫だ。きっと、脱出は成功する。

決行当日。研究者たちが寝静まったであろう夜に、二人はこっそり部屋を出た。窓から差し込む月明かりを頼りに、進んで行く。
脱出経路は、以前理恵が実験のため連れていかれた際に、通った裏道を使うことにしていた。理恵によれば、そこは遺体を回収するトラックが出入りしている車庫に繋がっているらしい。その車庫のシャッターは、夜のみ開いているのだそうだ。世間にバレないよう夜に回収しに来ているのだろう。
つまり、シャッターの開いた車庫から逃げようというのが、二人のたてた作戦であった。
裏道は明かりが一つもなく、手探りで進んでいかねばならなかった。だが、幸いにも一本道であったので、迷うことなく進んでいけた。
やがて、車庫につく。車庫も真っ暗であったが、出口の方から月明かりが差し込んでいた。理恵の言った通り、シャッターは開いていたのだ。二人は顔を見て頷き、静かに出口の方へと歩いていった。
刹那、ぱっと明かりがつき、目の前が真っ白になった。明るさに目が慣れたと同時に、背後から声が聞こえてきた。
「居たぞ! シャッターを閉めろ! 絶対に逃がすな!」
見つかった。ここまで来たら走るだけである。二人は、猛スピードで走り出した。しかし、出口まではかなり距離があり、シャッターはみるみる閉まっていく。
もう間に合わない! 久美子がそう思った時、後ろから背中を押された。久美子の体はその勢いで閉まる寸前のシャッターの隙間から、外に出た。その瞬間、後ろでシャッターが閉まる音がした。

「え……?」

何が起こったかわからず、呆然としていたのも束の間。隣に理恵がいないことに気づき、状況を理解した。
「理恵!!」
素早く後ろを向き、シャッターの向こうに呼びかけた。だが、聞こえてきたのは銃声だった。理恵の苦しむ声が聞こえる。そんなことはお構いなく、何度も何度も理恵を撃つ音がする。
「やめて! やめてよ!!」
シャッターを叩き、叫び続けた。銃声は鳴り止まない。やがて、理恵の声も聞こえなくなる。同時に、銃声も鳴りやんだ。
「……り、え………?」
殺された。理恵が、ころされた。
そういうことだと分かってはいたが、頭の中を整理できず、久美子はその場から動けなかった。
「理恵………理恵、理恵! 返事をしてよ、理恵!!」
一緒に生きるって言ったのに。
一緒に幸せになろうって、約束したのに。
「どうして……どうして……!!」
数多の思いが溢れ出て、思い切り泣き崩れた。しかし、シャッターの向こうから、
「外にもう一人いるはずだ! シャッターを開けろ!」
という声が聞こえてきた。
久美子はあわてて立ち上がり、ふらつきながらも体制を整え、走り出した。
まだ悲しみに打ちひしがれていたかった。
まだ理恵のそばにいたかった。
まだ、泣いていたかった。
それでも久美子は走った。足を止めれば殺される。それだけは、何としてでも避けなければいけない。だから、走った。生きるために、走った。
どのくらい走ったのだろう。
気がつけば森の中にいた。夜の森は本当に暗い。そして、寒い。さすが冬である。汗だくだったが、吹く風が身体を冷やしていく。それでも久美子は足を動かし続けた。
「……!」
暗闇の中で、久美子はぼんやりと光る明かりを見つけた。近づくと、家であった。久美子は、急いで近づき、ドアを叩いた。
「助けて! 追われてるんです! 殺されちゃう! 助けて!!」
何度も何度も、壊れるくらいにドアを叩いた。ドアが開き、中から背の高い男が出てきた。
「何の用だ」
男性はかなり不機嫌そうである。いつものフーカなら怯んでしまうところだが、今回はそうはならなかった。
「あの! わ、私、施設から逃げてきて……それで、ここに……!」
男は怪訝そうな顔をしたが、「よく分からないが、とりあえず入れ」と家の中へ入れてくれた。
家の中へ入ると、まず壁にかけてある時計が目に入った。時刻は深夜一時だった。こんな真夜中に電気がついている家が、しかも森の中にあったということが奇跡である。思わずほっとして、玄関で座り込んだ。
「……そんなところに座り込まれると、中に入れないだろう」
後ろから男の声がする。
「ご、ごめんなさい」
久美子はあわてて立ち上がった。しかし、足の力が抜けて、立ち上がることが出来ない。
「え? な、なんで……」
どうやら、腰が抜けてしまったようである。
「…………」
男は、ため息をつくと、久美子の靴を脱がせた。そして彼女を持ち上げ、ダイニングテーブルの椅子へと座らせた。
「えっ! あ、あの」
その動作があまりにも突然のことだったので、反応した時にはもう座っていた。
「……あ、ありがとう……ございます」
「礼には及ばない。あんなところに座られていたら、何も出来ないからな」
男はぶっきらぼうに答えると、奥のキッチンへと向かった。コーヒーメーカーを作動させて、コーヒーを作り出したようだ。部屋に香りが充満する。
男は二人分のマグカップを持ってきて、久美子と自分の前にひとつずつ置いた。
「あ、あの……これ……」
「お前のはココアだ。それなら飲めるだろうと思ったが、苦手か?」
「え、あ、そうじゃなくて、私の分までいいんですか……?」
「そんなことか。気にするな」
向かいの席に座り、男は涼しい顔をして答えた。久美子は「ありがとうございます」と言い、早速一口飲んだ。温かい。程よい甘さが染み渡り、疲れた体を癒していく。その時、玄関のチャイムがなった。
「全く、今度は誰だ」
男は不思議がっていたが、久美子は来客が誰なのかすぐに察した。自分のことを追ってきた研究者である。その事を男に伝えたかったのだが、恐怖からか声が出せなかった。
「……どうした」
そんな久美子を見て、彼は驚いた顔をした。
「……まさか、先程言っていた追っ手か?」
久美子は何度も縦に首を振った。状況を理解した男は、再び久美子を持ち上げ、棚の影に移動させた。
「そこにいろ。玄関からは死角のはずだ」
それだけ言うと、男は玄関に向かっていった。確かにここからは、玄関は見えない。久美子は息を潜め、耳をすませた。
「夜分遅くにすまない。君にちょっと聞きたいことがあるのだが」
「……何ですか」
「ちょいと前に、ここに女の子が訪ねてこなかったか? もしくは、見たとか」
「いえ、来てませんし、見てもいませんが」
「そうか……。もし見つけたら、すぐに木下さんへ報告してくれ。それでは失礼する」
久美子は耳を疑った。ある程度話が通じている。それに研究者との接し方的に、明らかに知り合いである。ということは……。
扉が閉まる音がして、男が戻ってきた。久美子は彼を睨みつけた。
「もう大丈夫だ。……なんだ、その目は」
「…………」
久美子は勢いよく立ち上がった。
「お前、足治ったのか」
「……あなたは、研究者なんですか?」
「だったら、なんだ」
男はさらりと認めた。やはり、そうであった。
「あなた方は、いったい何が目的なんですか?」
「何って、もちろん不老者が元の身体に戻れるようにすることだ」
「嘘つき」
憎悪の念をこめて、久美子は言った。
「施設に閉じこめて、人間扱いしないで、挙句の果てに容赦なく殺していったくせに」
ふと理恵の笑顔が脳裏を過った。また涙が溢れそうになったが、必死で飲み込み、じっと男を睨み続ける。しかし彼は表情を変えなかった。
「……それは、恐らく闇研究者の仕業だ」
「闇研究者?」
「ああ。私たちはそう呼んでいる。本来、不老者研究グループに属する研究者たちは、不老者を救うために存在する。だが、彼らは違う。不老者を使って金儲けすることしか考えていない。前は「不老」の秘密を暴こうとしていたみたいだが、諦めてそちらに変更したようだ。私は噂にしか聞いたことがなかったが、まさか本当にいたとはな」
「……!」
「ということは、さっきお前を追いかけてきた奴も、彼が言っていた『木下』という人物も、その類いだな」
男は淡々と語った。
「彼らにとって、不老者は獲物だ。だからお前のことは、これからもきっと、追ってくるだろう」
「……なんでそんなに闇研究者のこと、詳しいんですか?」
「不老者の研究とは別に、個人的に調べているからだ。将来的に、彼らの撲滅するために」
これが本当のことなのだろうか。疑わしい話だが、筋は通っている。彼を信じてもいいのだろうか。
「……その顔は、半信半疑だな。まあ無理もない。私が闇研究者ではないという証拠などどこにもないからな」
男はため息をついて、椅子に座った。
もし彼が闇研究者だとすれば、ここにいるのは危険だ。いつ施設に送り返されてもおかしくない。果たして彼は嘘をついているのだろうか。
久美子は机の上の二つのマグカップに目をやった。彼は、自分の分も用意してくれた。しかも、同じものではなく、久美子のことを考えて、違うものを。
口数も少なく、表情もほとんど変えず、返事もぶっきらぼうだが、本当は優しくて思いやりのある人なのだろう。
また、瞬時に久美子の状況を理解したのか、先程訪ねてきた研究者に嘘をつき、彼女を守った。下手をすれば、敵を作りかねないのに。
何より、不老者の自分と普通に接してくれている。何もかもが、施設にいた研究者たちと正反対だ。だから、久美子は彼が嘘をついているとは思えなかった。
「……信じます。あなたのこと」
「そうか。それはありがたい」
 久美子が急に考えを変えた理由も尋ねず、男はそう言った。人から信頼されるとかされないとか、もともとそういったことに執着がないのだろう。そう思うことにした。
「……本当に、元の身体に戻してくれるのが目的なんですよね?」
「まだ疑ってるじゃないか」
「いえ、そうじゃなくて……。そんなこと、本当に可能なのかなって……」
「いつかそうなれるように、日々研究している」
「いつかって……」
「仕方ないだろう。生憎、私には協力者がいない。一人でやっていれば、それだけ時間もかかる」
男は元いた椅子に座った。それに続き久美子も向かいに座る。
「じゃあ、私があなたに協力すれば、可能性は増えますか?」
「協力してくれるのか?」
「本来の身体に戻れる日が、少しでも短くなるなら」
「協力者が増えれば、格段に短くなるとは思うが」
「それなら、協力します」
「本当に、いいのか? お前が嫌だと思うことも聞いたりするかもしれないが」
「はい」
覚悟の上だった。彼に協力するということは、そういう事だ。久美子は力強く頷いた。
「……分かった。感謝する」
こうして、久美子は彼に協力することになった。同時に、彼のところでしばらく匿ってもらうことになった。その提案を彼から聞いた時、久美子は驚いた。「いいんですか?」驚きながら久美子がそう聞くと、「当たり前だろう」と彼は言った。
二日後。久美子は男に、彼女に何があって、どうやってここに来たのかを聞いた。さすがにまだ記憶は鮮明だった。久美子は、出来る限り細かく話した。
自分が不老者だということ。家族と別れ、施設に入っていたこと。実験のことを知り、友達と逃げ出してきたこと。その友達は殺されてしまい、自分だけが逃げてこられたこと。
「……それでここに至ります」
話し終えると同時に、久美子の瞳から涙が溢れた。
「すみ、ません……」
「……いや、謝るのはこちらだ。早速辛いことを思い出せてしまって、すまなかった」
久美子は泣きながら首を横に振った。とめどなく溢れる涙は、一向に止まる気配はない。懸命に涙を拭き、止めようとしている久美子を見て、男は言った。
「辛い時は、思い切り泣いた方がいい。無理をして我慢する必要はどこにもない」
「っ……!」
「私は構わないから、気の済むまで泣くといい」
淡々としているが、優しさを感じた。
「私の……せいでっ……。ごめんなさい。ごめんなさい……!」
どれ程泣いても、何度後悔しても、どうにもならないことは分かっていた。しかし、たった一人の親友を失ってしまった悲しみは、泣くことでしか埋められる気がしなかった。
十七歳の久美子は、まるで幼い少女のように泣きじゃくった。
大切な親友の名前を呼びながら。
「……落ち着いたか?」
涙が枯れ果て、泣き止んだ頃、男に声をかけられた。
「……はい」
いったいいつぶりだろう。あんなに大きな声で泣いたのは。男にずっと見られていたかと思うと途端に恥ずかしくなった。
「あの、ごめんなさい。覚悟はしてたのに……泣き出したりして」
「謝ることはない。……少しは気持ちが楽になったか?」
「あ、はい……」
確かに、いくらか気持ちは楽になった気がした。すると、男は初めて微笑んだ。
「それでいい。自分の気持ちに正直になることは、大切なことだ」
久美子は、彼の顔を見た。黒髪に切れ長な目、笑うと左側に出来る片えくぼ。
「……どうした、人の顔をじっと見て」
「え! あ、ごめんなさい!」
そんなにまじまじと見つめていたのだろうか。恥ずかしくなって、あわてて目を逸らす。
「なぜ謝る。別に責めてはいないが」
「あ、そうじゃなくて……その、なんというか……」
ああ、自分はこんなに口下手だっただろうか。うまく言葉が出てこない。そう言えば、初対面の人には、大抵このような感じであったことを久美子は思い出した。彼はもう初対面では無いが。久美子は頭の中で必死に話題を探す。
「あ、あの!」
「なんだ?」
「な、名前……」
「名前?」
「名前、教えて……ください」
言ってから久美子は後悔した。何ともしょぼい話題だ。もう少しマシな話題はなかったものか。
「そういえば、会ってから二日も経つのに言っていなかったな。深瀬唯斗だ。よろしく」
在り来りな話題で心配だったが、唯斗は、嫌がる素振りも見せずさらりと答えた。
「あ……よろしくお願いします、フカセさん」
「名前でいい」
「あ、はい。それじゃあ……ユイト」
「……極端だな」
「え?」
「いや、なんでもない。それと、良かったら、お前の名前も教えて欲しいのだが」
「……あれ、私、言ってませんでしたっけ」
「聞いてないな。親友の名前は何度も聞いたが」
今度は自分に呆れた。助けてくれた命の恩人に名前を尋ねた挙句、まだ自分の名前も名乗っていなかったとは。
「立花久美子です。よろしくお願いします」
「よろしく。……それで、久美子はこれからどうするつもりだ?」
「……分からないです。何も考えないで逃げてきたから」
久美子はただ生き延びる為に、施設を脱出したのだ。これからのことなど、何一つ考えていなかった。
「それなら、これからどうしていきたい?」
「私は……幸せになれればそれでいいです」
「幸せか。お前にとっての幸せはなんだ?」
「私にとっての幸せは……普通に生活出来るようになること……です」
それは、久美子が不老者になった時から思っていたことだった。それまでは出来ていた当たり前の生活が突然出来なくなってしまったのだ。やっと気がついた。その生活こそが久美子の幸せだったのだと。
「普通に家族と一緒に暮らして、学校に行って、勉強して、友達と話して、遊んで。たまには家族で出かけたりして、写真撮って、それでまた日常が戻ってくるようなそんな生活……。今の私にとっては、全部普通の事じゃないけど、でも、いつかそれが普通のことになったら、私は幸せなんだと思います」
「なるほど。それならその家族の元に戻ることができたら、お前は幸せになれるか?」
「それは……多分無理です」
「なぜだ?」
「……家族は、私を、売ったから」
あの時、研究者たちが家に「プロジェクト」の話をしに来た時。それまで全く話に応じなかった両親が、多額の金が手に入ると知った瞬間、「プロジェクト」への参加を決めたことを、久美子は覚えていた。
「あの人たちは、もう私を子どもとは思ってない……。当たり前ですよね。だって私、不老者だから。私がいるだけで、家族は不幸にせなるから……」
「…………」
「私、あの場所に戻りたいとは思っていません。でも、いつか、あの時のような、平凡で穏やかな生活が出来るようになったらいいなって」
久美子は微笑んだ。悲劇のヒロインにはなりたくなかった。明るく話そうと努力した。
「だから、あなたに協力しようって思ったんです。元の身体に戻って、闇研究者がいなくなったら、きっとそれが叶うから」
唯斗はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……そうか。なら良かった」
「なんでこんなこと、聞いたんですか?」
「実は迷っていた。実際に久美子を目の前にして、私がやっていることが本当にお前が望むことなのかと」
唯斗は安堵の表情を浮かべた。
「だが、そう言ってもらえて安心した。これで私は心置き無く研究を進められる」
そして唯斗はパソコンの前の椅子に座り、作業をし始めた。久美子はそんな彼の後ろ姿を見ながら、ふと思った。
彼は、どうして不老者を救いたいと思ったのだろう。そもそもどうやって不老者の存在を知ったのだろう。家族や親戚、または友達にいたのだろうか。
でもたとえ居たとして、不老者を救いたいと思っている人間が存在したのが不思議だった。不老者は今のところ差別の対象だ。そのような者を守ってくれるというのだ。いったい何がきっかけでそう思ったのだろう。
謎だらけの彼に聞きたいことは山ほどあったが、久美子は聞くのを止めた。何となく、謎だらけの方が彼らしいと思ったからだった。