改札を抜ける。街灯が不安げに光を発し、周囲を虫が囃し立てるように回っていた。
「最近は日も伸びたと思ったんだけれど、やっぱりまだ暗いよな」
当然のように隣を歩く一馬が言う。
「本当にこの駅に用があるのか?」
「ついてきたと思っているのか? 自意識過剰だな」
「じゃあ、どこに行くんだよ」
「百井も知っているよ」
彼の口が言うより先に、正解は、記憶が見つけた。察した一馬が僕の腕を掴んで、引っ張った。この路線、この駅を降りて、西口から、ずっと真っ直ぐ。
「ここを左に少し行けば」
「天田ダンススクールだ」
一馬は慣れた手つきで鍵を開け、スイッチを入れた。電球の明かりが、一回の点滅の後についた。
照らされたのは、平凡な家だった。あの頃は、先生の家というだけで、特別に思えたのに。玄関の段差ももっと厳かで、フローリングなんて城のようにピカピカで、僕らはいつも、ちょっと大人しく靴を脱ぐのだ。学校帰りの靴下で階段をリズミカルに踏みつけて、二階のレッスン場に上がる頃には、そんな謙虚さは忘れているのだが。
「スクール、もうやっていないっていうのは聞いた?」
「聞いている。先生から連絡がきて」
「そう。だから、空き家なんだよね、ここ。いつでも練習に使っていいって言われている」
「一馬もダンス続けているんだな」
「大学のサークルだけれど。とにかく、そんな訳で、百井も好きに使えばいいよ」
「いや、お前の許可だけじゃ駄目だろう」
「別にいいんじゃない。既に俺、サークルの奴にここ貸したりしているし。おばさんも百井が来るのは喜ぶよ」
二階のレッスン場は、当時、十人以上と共に練習できていたことが疑わしかった。それほど狭く、小さかった。
視覚化された時間の長さは、失ったものの数を教えるようで、胸がきゅっとなる。
報いたかった。幼少期の夢も、過去に選んだ行動も、捨てた選択肢全てにきちんと別れを告げられるように、前に進みたかった。
「さっき、電車の中で話したこと、本気なんだけれど、どう?」
「うまくいく保証はないだろ」
こんな言葉は、きっと、肯定と何ら変わりないのだろう。
「それでも、やらないよりはマシだろ」
「そうだけれどさ、仮に、作品じゃない、仕事じゃないもので、バズって、それって、評価されるのかな」
「何を馬鹿なことを言っているんだ?」
馬鹿なことか、そうだろうか。
努力をしてきた。その内容で報われてほしいなんて願望は、邪魔だろうか。
テレビには、歌番組が映っている。次に楽曲披露を控えるバンドは、一か月ほど前に解散を発表しており、過去の栄光のダイジェストに、歌以上の時間が与えられていた。一馬は、「どうせ、ボーカルのワンマンさにメンバーがうんざりしたんだよ」と決めつけ、「お前は、そもそも、バンドを組むことさえできなさそうだ」と僕を指差して笑った。
スクールに通っていた頃も、互いの家に行ったことはなかった。この歳になって、彼が自分の部屋にいるのは違和感がある。
「ソロ活動のメリットは価値観の相違が起こらないことだな」
「デメリットは?」
「特徴を打ち出せないことかな。対比だよ。例えば、二人なら、女と男だとか、眼鏡の方と眼鏡じゃない方とか、一つの画で比較ができて、キャラ設定も見せられるだろ」
生身の人間に対してキャラ設定とは。
「今、キャラなんていらないって思っただろ」
「こういうときだけ、俺の気持ちが考えられるんだな」
「個性は大事だ」
「とはいっても」
「どうせ、アーティストが本業以外で躍起になる必要はないとか思っているんだろ。でも、これは、別に芸能界に限った話じゃない。平均的なルックスの女は、ブスな女を隣に置けば相対的に美人になるし、美人の隣に立てばブスになる。お前だって、きっと、そうやって判断している」
そうかもしれない。キャラクターを決定するのは、きっと、その人の周囲や背景だ。
「赤い髪だって、黒髪の中にいるから特筆されるんだ」
彼が、テレビの中を、弾く様に指差した。派手な髪色のバンドメンバーが、ようやく席を立つところだった。ステージへ向かっていく。
初めて見るバンドだった。この業界にいるくせに、僕は流行に疎かった。小学生の頃は、毎クール、見ることはなくとも主要なドラマの内容くらいは把握していたはずだ。推されるアイドルの新曲のフリだって、ふざけて真似て、笑っていた。けれども、すぐに、つまらなくなったのだ。僕の世界が広がってしまったのだ。抜群にうまいダンスを一度見つけてしまえば、可愛いと思ったグループのダンスは、あまりに不揃いで、幼かった。六十分のドラマよりも、四分の音楽が展開する物語に魅かれた。高校生の頃には、既に死んだ海外のアーティストに心酔していた。
「インプットがずれているから、アウトプットもずれるんだよ」
棚に並べたCDやレコードを睨みながら、一馬が言う。
「エンタメって、時代や場所ごとにある程度括られるけれど、百井は仲間外れだ。そりゃ、取っ付きにくいよ」
「自分だとわからないよ」
「自分を囲んでいるものは、自分の趣味嗜好に沿っているんだから当然だ。見ておけよ。このバンドとか、わかりやすく現代的だ」
画面に目線を戻した。照明が落ちたステージで、ドラムの彼が手を掲げ、スティックが鳴らされる瞬間を待った。それが、僕の知るバンド音楽だからだ。しかし、楽曲はギターの不穏なアルペジオから始まった。降り飽きた雨にも似ていた。やがて朗読するように歌が始まる。静かで美しく、悲しい曲だった。
「ダウナーだな」
「音楽って、時代の反対側にいると思わないか?」
言わんとすることはわかった。兵士を鼓舞する曲は壮大で力強いが、本当に無敵であれば、戦争などしない。身近な人間が戦死するわけでもない、そこそこ恵まれた僕らの時代に、こんな寂しい曲が胸を刺している。音楽が、欠けているものを補う役割を担うとすれば、そうなることは妥当だと思った。
「今、お前みたいなEDM系のパーティーミュージックは流行りじゃない。少なくとも、日本で今ウケているメジャーなジャンルじゃない。売れた音楽に群がる馬鹿に聞かせても無駄だ。ああいう奴らは、知らない音楽が苦手だからな。重要なのは、何回公共の電波を通って自分の耳に届いたか、だ。ドラマ主題歌になれば、虫の羽音でも喜んでダウンロードしそうだよな」
「お前の言葉、汚なくて嫌いだ」
「俺も綺麗ごとを言うお前が嫌いだ。とにかく、お前の音楽は万人ウケじゃないってこと。客層を絞って、合ったやり方で打ち込まなきゃ、空振りだ」
開設したSNSは、見る度にフォロワーが増えていた。
事務所のエレベーターに乗って、届いている通知を確認する。
スマートフォンを触る時間が増えた。比例して、俯くことは増えたが、健康的で文化的な生活の波を直視するより、心はずっと健全にも思えた。かといって、それを現実逃避と呼ぶことには違和感があった。仮想世界の代名詞と思われたインターネットの世界は、観客が実在していることを知らせる点で、何よりもリアリティを持って僕に迫るからだ。この端末の中もまた、僕の生きる現実だった。
学校や職場が距離や年齢に縛られたうえでの選択ならば、SNSは趣味と嗜好によって棲み分けられた世界だった。僕に関心を持つ人間の声が、澄んで届いた。この柔らかな世界が、そのまま、実生活に拡張することなどないだろう。
けれでも、嘘ではないのだ。日々の生活を送る傍ら、僕に夢を見る人間が実在し、同じ時間を生きているのだ。僕はこれほど愛されているのだ。
身体機能としての視野と、価値観を意味する視野が、必ず一致するとは限らないらしい。一馬に感謝するつもりはないだが、この手の中の機械一つが、世界を広げ、僕の覚悟を強めたことは認めざるを得なかった。報わなければならない。見えない観客の、興味の賞味期限が切れるよりも早く。
目的階に到着する。開ききったドアの横に、見慣れた人影を見つけて、声をかけた。
「二神さん」
彼は顔を上げ、僕の顔を確認すると、融解するように笑った。彼と会うのが、レッスン室で叱られたとき以来だと思い出した。
「帰るところですか?」
「うん。打ち合わせが終わって」
「ライブの?」
「知っているんだね」
公式での発表は先のようだが、彼がワンマンツアーを開催することは耳に届いていた。地方三都市を回った後、東京でラストを飾る。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
「東京公演、今までで一番大きな会場じゃないですか? カッコいいですね」
「うん、まあ、大きい会場は凄いと思うけれど、それは、そうじゃないステージをカッコ悪いって定義しているわけじゃないし」
「俺のことを、気にしていますか?」
「あ、いや、そんなつもりじゃない」
「小さいとか大きいとか、それは、選べる人間が言える言葉ですよ」
瞳が揺れるのを確認して、息が漏れた。
「すみません、大丈夫です」
「ごめん」
彼は、インディーズからメジャーに移行した、数少ない栄光の持ち主だった。ドラマ主題歌に起用された楽曲とともに爽やかにメジャーデビューしたのは、彼が二十歳の頃のこと。今年の冬、誕生日を迎えれば、僕は二十八になる。
不甲斐ないのは彼ではない。
危機感や焦燥感というものは、なぜ、それを対処できないときほど暴れるのか。
布団に潜りながら、暗闇に慣れた目で、自室の天井を見つめる。
あのとき、二神と話した直後に、正しく沸騰すべきだった。その足でレッスン場に向かえば、そのエネルギーを練習に充てられるし、少なくとも日の当たる時間であれば、陰鬱とした感傷も太陽光に誤魔化されるのに。現在時刻、それと戦うには体が疲れているし、飼おうにも心が疲れている。
枕もとをまさぐり、発掘したイヤホンを機械へ繋ぐ。分かれた二つで、耳を塞いだ。
数秒後に、体内へ音楽が流れ込んできた。無意識に海外のグループを選んだのは、身近なアーティストを選べば、劣等感に潰されそうだったからだろうか。
音楽は不可視だ。鼓膜に到達するまでに触れる空気、映す思い出。たとえ隣に立っていても、同じ歌を同じ思いで聞くことなど叶わないだろう。
僕の歌はどうだろう。届いているだろうか。聞いてくれる人が欲しい。既存のファンは有り難かった。けれども、何の気休めにもならなかった。圧倒的な数に焦がれていた。キラキラとした世界を見て、評価される快感を知ってしまった今、表現するだけで完結できるほど、無欲ではいられなかった。
じきに再生したアルバムは、六曲とも回り終えてしまった。感情の音だけが、未だ、胸の内でドグドグと鳴っていた。そのリズムに、窓を嫌う風の音と耳鳴りが絡まって、音楽のようだった。
体を起こし、パソコンを起動する。拾った音を、忘れないように記録する。一度暗闇に微睡んだ目に、画面の光はひどく痛々しくて、もう二度と、眠りに落ちることができないような失望を感じる。
このまま、夜はどこまで続くのだろう。
「お前のファン層って、どんな感じ?」
「多いのは二十代かな」
「男女比率とか、ファンの人たちが持っている他の趣味は?」
「女性の方が多い気がする。他の趣味なんて知らないけれど、まあ、音楽じゃないのか?」
「じゃあ、ファンレターはどんな便箋でくる?」
「色々」
「お前に聞いても収穫がないな」
天田ダンススクールのレッスン場である。あの日以来、どうにも事務所のレッスン室に足が遠のいており、この場所で練習することが増えていた。時間の制限も、利用料金の掛け算も、騒音も気にせず、使うことができる。GPSでも付いているのか、もれなく一馬も現れる仕様だが、好条件の前では大した問題ではない。
「そういえば、見てほしいものがあるんだけれど」
「何?」
僕は自分のスマートフォンを彼に見せた。この前撮ったダンス動画だ。好きな曲に振りをつけたのは、単なる遊びだった。けれども、持ち曲ではないせいか、無駄な力が入らないことが気に入って、身の入らないときに軽く流すようになった。停止ボタンを押し忘れた機械が一日中レッスン場を映して、休憩時間をも捉えたのは偶然だった。
「これを動画投稿のSNSに載せるのはどうかなって」
僕の持ち曲ではない分、ファン以外にもキャッチーだろう。
約五分間の沈黙を終えた瞬間、待ち構えていたクラッカーのように一馬が言う。
「撮り直そう」
僕のスマートフォンをひったくり、動画を冒頭から再生し始める。
「遊びで踊るな、本気でやれ。お前、アクロできただろ? イントロに入れられないか? というか、オリジナル曲じゃないなら、もう少しメジャーどころを攻めろよ。そもそも、フルで踊っているけれど、データのサイズを考えろ。ちなみに、この長さじゃ、再生ボタンを押すにも勇気がいるからな。三十、いや、二十、うん、三十秒以内をピックアップしよう。あと、投稿するなら、こっちのSNSの方がいい。おい、笑え」
「は?」
止めるより先にシャッター音が響く。
「動画の前にこれを貼って投稿しろ」
「なんで?」
「ダンスの投稿を見たあと、興味がわけば、お前のアカウントのトップページに飛ぶ。その時に、直近の投稿が数個は見られる。先に整えておくぞ。お前のそこそこの顔面はこういうときに便利だな。うんこって書いてあるのは消しておけよ」
「書いていない」
「いや、でも、消すと詮索されるか」
「書いていないから消す必要はない」
撮られた写真を確認する。驚いたせいか、目がぱっちりと開かれ、幼い顔立ちが強調されているように思えた。あまり好きではない写りだ。セットもしていない前髪と、いつ買ったのか覚えてもいないキャラクターもののTシャツが、ますます僕を大人から遠ざけている。
「今日は、私の為に集まってくれて、本当にありがとう。今、この会場にいるみんな。あと、ライブビューイングを見ているみんな。みんなのお陰で、今日、このステージに立つことができました。ああ、涙が出ちゃう」
「泣かないでー」
「うふふ。ありがとう。いつまでも、この景色を見ていたい。でも、楽しいときはあっという間だね。次が最後の曲です」
「早くしてー」
「やだー、だ」
「やだー」
「うん、私もやだよ。でも、また会えるようにこれからもっと頑張るから。最後に、みんなが大好きなあの曲を歌って、笑って、バイバイしたいな。じゃあ、『せーの』で曲名言うよ。いい?」
「はーい」
「せーの、かんぱーい!」
ペンライトとハンドマイクがぶつかり、各々が、ジョッキの形を取り戻す。
「ふざけた音頭とりやがって」
「よかっただろ。女子アイドルの武道館ライブ風」
彼はにやにやと笑い、仰け反って、生ビールを流し込んでいった。
平日の居酒屋は、客もスタッフも大学生らしき人間が多い。声域は高く、声量は大きく、自然と愉快な気分に掻き立てられる。それというのも、そもそも、僕たちの機嫌が良いせいだ。
舞台の仕事が決まった。海外で好評だったミュージカルを、日本人キャストでリメイクするという。主演は戦隊ヒーロー出身の人気役者で、世間の注目度が高いことは言うまでもない。
「おい、お前のアカウント見せろ」
「自分のスマホから見ろよ」
「誰がお前の投稿を見たいんだよ」
反論するのも怠く感じて、僕は自分のスマートフォンを彼に放る。受け取った彼は、人のものとは思えないほど滑らかに、それを操作していく。満足そうに頷き、画面を僕の方に見せた。見れば、グラフと数字が並んでいる。どうやら、アクセス数の解析をしたらしかった。
「いいね。やっぱり、他の投稿と比べて、ダンス動画への反応が多い」
「そうじゃなくちゃ困る。この数字っていい方なのか?」
「芸能人の平均値なんて知らないから、わからない。ただ、フォロワーに対して、視聴者が圧倒的に多いのはいい傾向なんじゃないか」
「フォローするほど興味がないってことなのに?」
「とりあえずは見られている数の多さを喜べよ」
確かにそうだ。ライブをする会場のキャパシティよりも、ずっと多くの人間が、僕のダンスを再生している。同じ人間が繰り返していることを考慮しても、観客の数は何百何千という単位だろう。
「写真なら、全身より、顔のアップの方がウケがいいっていうのも、予想通りだな」
「よく言われる。顔が好きですって」
「俺はそれを言ってしまう、お前の性格が嫌いです」
「顔じゃなくて、能力で判断されないと、意味がない」
「アドバンテージであることに変わりはないし、いいじゃん、程よく頼れば。お前だって、テレビから流れてくる歌を聞いて、うまいなって思って、画面を見たとき、そのアイドルが顔も良かったら嬉しいだろ」
「そんな経験ないからわからない」
「嬉しいんだよ、俺はね。で、そのまま、画面を見ていようと思うだろ」
「そんな経験ないから」
「俺は思うの。そうして、見ている時間が長ければ、当然、テロップを見る余裕だって生まれて、アイドルの名前を覚えたりするわけ」
「お待たせしました、ポテトフライです」
中央を細い腕が横切り、皿を置き去りに、すぐに消える。
「ほらな」
「何が?」
「今の子が可愛くて、俺はネームプレートを確認したぞ。花ちゃんだってさ」
「気持ち悪い」
「人に興味を抱くことの何が悪い。こういう人間のお陰で、お前らの仕事があるんだからな」
「全部を結び付けて話すな」
「全部結び付くんだよ」