危機感や焦燥感というものは、なぜ、それを対処できないときほど暴れるのか。

 布団に潜りながら、暗闇に慣れた目で、自室の天井を見つめる。

 あのとき、二神と話した直後に、正しく沸騰すべきだった。その足でレッスン場に向かえば、そのエネルギーを練習に充てられるし、少なくとも日の当たる時間であれば、陰鬱とした感傷も太陽光に誤魔化されるのに。現在時刻、それと戦うには体が疲れているし、飼おうにも心が疲れている。

 枕もとをまさぐり、発掘したイヤホンを機械へ繋ぐ。分かれた二つで、耳を塞いだ。

 数秒後に、体内へ音楽が流れ込んできた。無意識に海外のグループを選んだのは、身近なアーティストを選べば、劣等感に潰されそうだったからだろうか。

 音楽は不可視だ。鼓膜に到達するまでに触れる空気、映す思い出。たとえ隣に立っていても、同じ歌を同じ思いで聞くことなど叶わないだろう。

 僕の歌はどうだろう。届いているだろうか。聞いてくれる人が欲しい。既存のファンは有り難かった。けれども、何の気休めにもならなかった。圧倒的な数に焦がれていた。キラキラとした世界を見て、評価される快感を知ってしまった今、表現するだけで完結できるほど、無欲ではいられなかった。

 じきに再生したアルバムは、六曲とも回り終えてしまった。感情の音だけが、未だ、胸の内でドグドグと鳴っていた。そのリズムに、窓を嫌う風の音と耳鳴りが絡まって、音楽のようだった。

 体を起こし、パソコンを起動する。拾った音を、忘れないように記録する。一度暗闇に微睡んだ目に、画面の光はひどく痛々しくて、もう二度と、眠りに落ちることができないような失望を感じる。

 このまま、夜はどこまで続くのだろう。