九、プレヴェザ沖の大海戦
キリスト教国側に傾斜していったヴェネツィアに対して、スレイマン皇帝は怒りを隠さなかった。大宰相アヤスが懸命にとりなしたが、皇帝は耳を貸さなかった。皇帝は赤ひげを呼んだ、
「エーゲ海における、ヴェネツィア領の島が合計二十五ある。これをすべて征服せよ」
「かしこまりました。なるべく短期間にやりとげましょう」
赤ひげの自信に満ちた表情を見て、皇帝は大きくうなずいた。エーゲ海はトルコの庭のようなものである。今までは友好関係があったればこそ、赤ひげはこの島々に手を出さなかったのだが、戦争状態となれば、何も遠慮することはなかった。気の毒なのは、政治とは無縁の島の住民であった。疾風怒濤のごとき赤ひげ軍団の襲来が島々を脅かし、数千名にのぼる男女キリスト教徒が捕虜として、オスマン帝国に運びこまれた。
この事態に対して、ヴェネツィア政府は直接反撃することができなかった。赤ひげ艦隊に対抗できるのは、スペインの無敵艦隊をおいて他にはありえなかった。カール五世は、提督ドーリアの力量を信頼してはいたが、それ以上に、赤ひげの神がかり的な力を恐れていた。そこで、艦隊同士が激突する前に、赤ひげを買収することを思いついた。極秘に使者を遣わして
「北アフリカのボーヌ、ブージ、トリポリを与えるかわりに、手持ちの艦隊をすべて引き渡してもらいたい」
と口上を述べさせた。スレイマンに知られた場合を懸念して、文書にはしなかった。それに対して赤ひげは
「全艦隊を引き渡すための条件としては、アフリカの北岸全域が欲しい」
と答えて、使者を適当にあしらった。カール五世はこれに対して、辛抱づよく交渉をつづけたが、赤ひげはもちろん本気で相手をする気はなく、のらりくらりと時間稼ぎをしていた。ドーリアとの決戦に備えて、艦隊運動の練習をかさねる時間がほしかったのである。赤ひげの態度が悪いことにようやく気がついたカール五世は、ついに怒り出した。プレヴェザ沖の大海戦が起こったのは、その直後である。ヴェネツィアはスペインに協力して、八十隻のガレー船を提供している。この間赤ひげは、本拠地のアルジェには戻らず、イスタンブールに居つづけた。八十三歳になった彼は、驚異的な体力を保持していた。
「こんな年寄りは、今まで見たことがない」
とスレイマン皇帝に言わしめるほど、酒量も食欲も落ちなかった。頭髪もひげもすでに真っ白に変わっていたが、赤ひげの名はそのままであった。けいけいと光る眼光は依然として鋭く、頭脳の回転も若いころと変わらなかった。皇帝は、連合艦隊百五十隻の全司令と船長を一堂にあつめて演説をした。彼らが赤ひげを海賊と馬鹿にして、心底から従わない場合があることを心配したからである。
「赤ひげは、皆のものがよく承知しているように海賊である。海賊をわが連合艦隊の司令長官に任命するとは何事か、と目を三角にする向きのあることは、余が充分に承知している。平和なときであれば、海軍軍人の中からそれに相応しい家系と、品位を有した人物を長官に据えることが、内外の批判をうけずにすむ最良の方法であることも、余は承知している。しかし、今は非常事態である。スペインは切り札のドーリア提督を起用して、わが国との決戦に臨もうとしている。
今はわが国の危急存亡の秋である。現在わが海軍の中に、赤ひげほどの経験と能力を有したものが見あたらない以上、彼を起用することは、どうあっても避けられないことである。余が赤ひげにわが海軍の全権を与えたからには、諸君は赤ひげの命令は余の命令である、と考えてもらいたい。赤ひげの命令に従わないものは、直ちに処刑されることを覚悟してもらいたい。諸君が、わがオスマン帝国の命運を握っているのである。各位の健闘を祈る」
やさしい言葉で、分かり易く説明をした皇帝の演説は短かった。しかし、この演説の効果は計り知れないほどのインパクトがあった。それまで、赤ひげ批判を陰でやっていた幹部たちは、ぴたりと口を閉ざし、一兵卒にいたるまでそれは浸透した。スレイマンの演説は一種の恫喝である。これが、国民や軍人たちから嫌われている指導者の演説であったならば、当然逆効果となった筈であるが、スレイマンという人は、国民の各階層から慕われる不思議な人気の持ち主であった。規律をきびしくするのに、軍人や役人からも好かれる、という稀有の皇帝であった。
赤ひげは、司令と船長たちを別の機会にあつめて何度も酒宴を催した。彼は教養もあり、航海術から砲術、測天儀そのほかの知識は、軍人たちに負けないだけのものをもっていた。それでも、彼らの意見に対して謙虚に耳を貸し、かつ彼らとうちとけて酒を飲み、愛嬌をふりまいたので、彼らの信望を短期間に勝ちとることに成功した。百五十隻の大艦隊が、たった一人の命令のもとに生き物のように艦隊運動をすることは、想像以上に難しいことである。
参謀たちの緻密な計画と打ち合わせがあっても、実践の場で、そのとおりに運動することができる保障は何もない。そのために、練習航海が何十回もくり返され、次第にまとまりが得られるようになって来た。二手に分かれての模擬戦闘も行われ、人命も艦船の損傷も少なく、敵に対して優位を築ける方法を将兵におぼえさせた。六十年をこす赤ひげの経験は、歴史の浅いトルコ海軍に大きな刺激をあたえ、将兵の信望を深めていった。カール五世との秘密交渉が決裂して、決戦のときは刻一刻と近づいていた。ある日、シナンが赤ひげの部屋にかけこんできた。
「提督、無敵艦隊二百隻以上が、アドリア海に入りました」
「アドリア海のどこだ?」
赤ひげは落ちついていた。
「ヴェネツィアに向かっているようです。おそらくヴェネツィアの艦隊と合同してから、わが軍に向かってくるものと考えられます」
「それならば我々はプレヴェザ港に入って、アドリア海の出口を固める手があるな」
「そうです。出口を固めて、ドーリアがどうあっても逃げられないようにすべきです」
「いよいよ決戦だな」
赤ひげは立ちあがって窓に近寄った。宮廷の一室からボスフォラス海峡が眺められる。海峡は午後の日差しにきらめいていた。おそらくドーリアの無敵艦隊は二百五十隻を超えるであろう。トルコ海軍は大型ガレー船百五十隻である。百隻の差をどう埋めるかが課題である。小型のギャリオット船は使いようはあるが、大艦隊同士の激突の場合はあまり役に立たない。砲撃戦に耐えられるのはなんといっても大型船である。砲撃戦の後に、敵艦に斬りこむには小型のギャリオット船が敏捷である、しかし、この戦いはギャリオット船の出番があるかどうか。
赤ひげは、ドーリアとの一騎打ちを頭に描いてみた。巨大な敵である。どんな戦い方をしてくるのか。この戦いはドーリアと自分との戦いであり、自分の気力が勝れば、百隻の差を撥ね退けて勝つことができるであろう。戦いは必ずしも数の問題ではない。自分には優秀な部下が数多くいる。気力で劣るようなことは決してないだろう。気力とはなにか。要するに、命を捨ててかかれるかどうかに過ぎない。
シナン、ドラグート、アイディン、ムラドたちの気力をかき立てねばならない。彼らに皆、死ぬ覚悟をしてもらおう。そのためには自分が真っ先に命を投げだそう。自分が死地に立てば、彼らも奮起して命を捨ててくれるだろう。赤ひげは、ボスフォラス海峡を眺めているわずかな間にそこまで決心した。振りかえると、シナンも後ろから海峡を見つめていた。
「シナン、わしはこの国のために、命をすてる決心をした。お前を、地獄の道ずれにしたい。ついて来てくれるか?」
「提督、いまさらなにを言うのです。私の腹はとっくに決まっています。ドラグートも、アイディンも、ムラドも、提督と地獄の底まで一緒に行く気でいます。ご安心ください。われわれだけではありません。主だった奴らはみなその気でいます。どうせ人間と生まれたからには、一度は死ぬことが決まっているのですから、無敵艦隊との決戦なら、よろこんで死んでくれますよ」
「シナン、ありがとう。お前がそう言ってくれると、わしも喜んで死ねるというものだ。お前たちより、わしは先に死ぬぞ」
赤ひげはシナンの手を握りしめた。
「いえ、一緒に死にましょう。提督と一緒に死ねるなら、私の人生も、少しばかり花が開いたことになります。たった一度の人生です、少しでも華が欲しいじゃありませんか」
シナンの目にも涙が光っていた。
一五三八年の夏のおわり、無敵艦隊との決戦にのぞむべく、赤ひげは皇帝に連合艦隊の出動を要請した。一方、無敵艦隊はヴェネツィアとローマ教皇の増援をえて二百数十隻に達し、六万人の兵と二千数百門の大砲を備えた大艦隊になっていた。
赤ひげは股肱の臣をあつめて意見をもとめた。
「ドーリアがスペイン随一の提督、といわれる所以は一体なんだろうか?」
最初に口を開いたのはシナンだった。
「ドーリアが理論派で、協調型の人間だからじゃないでしょうか」
「なるほど、皇帝に対して理論的に、戦術戦略を説明できることと、幹部たちと協調してゆける人間だから、トップに立てたということだな」
「そのかわり、協調型の人間の弱点は、決断力に欠けることです」
「わしとは正反対の人間で、秀才タイプなのだな」
「秀才タイプの人間は緻密な計画を立てますが,状況が裏目にでたときに、自分の理論をひっくり返すことができません」
「なるほど」
「戦いというものは、状況が変わったら変わったなりに、逆のことをやらなければならないことが出てきます。その点、会議を長々とやって決めたことは、簡単にひっくり返せませんから、そこがドーリアの弱点になると思います」
「ドラグートはどう思う?」
「ドーリアという男はカール五世の受けがいいだけで、戦いのトップに立つ人間ではないと思います。作戦を国王の前で弁じたてることは巧みでも、実戦は勘と度胸が左右することが多いものです。恐れることはないと思いますね」
「ムラドはどう見ているのだ?」
「私は、ドーリアという男を相当程度評価しています」
ムラドは先輩たちに気を使いながら、しかし決然と言い放った。ドラグートたちとくらべて一回り若い。浅黒い肌のおくに光る目は、利発そうな輝きを湛えていた。後に、彼はドラグートの後任として、赤ひげ軍団の長になる男である。
「少数対少数の戦いの場合は勘と度胸が左右しますが、百五十隻対二百五十隻の戦いでは、ドーリアの作戦を本気で推理する必要があると思います。スペイン随一の提督といわれるゆえんは、無視できないと思うのです」
「ムラドは、ドーリアがどう出てくると考えているのだ?」
「ドーリアは、プレヴェザ港の沖合いで風を待つだろうと思います。風を背に受けたときに、攻めてくることを覚悟すべきかと考えます」
この時代は、帆船時代にはまだすこし間があって、帆とオールの両方を備えていた。風を間切って、向い風を利用して進む技術がまだでき上がっていない。プレヴェザ港はアドリア海の出入り口にあり、トルコとは友好関係にあるギリシャの領土である。
「風にむかって漕いでも、なかなか進まないからのう。西風の場合は港内にこもって、大人しくしていることにするか」
赤ひげはのんきそうな口調で言った。アイディンがひと膝のりだした。
「東風をうけたら港をでて一気に攻めましょう。勢いさえあれば、百隻の差は問題ないでしょう」
シナンは、アイディンにうなずいて見せてから言った。
「ドーリアが沖にいて、われわれが港内にいるということは、絶対的な幸運でした。ドーリアは、風の流れを一瞬にして捕える能力をもっているでしょう。しかし、彼が決断しても、スペイン、ジェノバ、ヴェネツィア、ローマ教皇などの混成部隊ですから、全艦がいっせいに機敏な行動をとることは、かなり難しいと思います」
赤ひげは真っ白になったひげを、撫でまわしながら肯いた。
「数が多ければいいというものでもないな。ドーリアはその点で苦労しているだろう」
その後は、お定まりの酒宴になった。
九月二十五日、待ちにまった無敵艦隊がプレヴェザ港の沖合いに姿を現した。この日は朝から激しい雨が降りつづいていた。しかしほとんど風がないため、沖合いと構内で睨みあったまま、たがいに動かなかった。 先に港内に入っていたことが最高の幸運だったことを、赤ひげは噛みしめていた。敵艦隊が数だけでなく、艦の大きさでも圧倒的に有利であることを悟ったからであった。外海で出会いがしらに激突したら、どうなっていたか分からないと思った。
西風が吹いて、敵が湾内に攻めこんできた場合でも、前面には砂洲が横たわっていて、敵の重い主力艦はこの砂洲で立ち往生する可能性がある。両艦隊の、息詰まるような睨み合いがつづくなか、海軍の参謀たちが赤ひげの下に駆け込んできた。ドーリアが大砲を陸揚げして、海岸方面から攻撃してくることを懸念して、陸上に土塁をつくって防御する策を献言してきた。しかし、赤ひげは
「ドーリアは、おそらくそうはすまい。それより、風が吹きはじめた瞬間から戦いが始まるから、各位は持ち場を離れないようにしてもらいたい」
と言って、献言を退けた。一日おいて九月二十七日の夕方、激しい雨が降りはじめ、しだいに豪雨となっていった。やがて、東風が吹きはじめた。艦がそれまでの北風の影響で大きくゆれ動いていたが、八十五歳の老提督は、旗艦の甲板上に仁王立ちして動かなかった。シナンは少し離れてその後姿を見守っていた。赤ひげがこの戦いに命を懸けていることを、ひしひしと感じざるを得なかった。追い風が本物であることを、肌でたしかめた彼は
「敵陣へ突っ込むぞ!」
とシナンに声をかけた。
「行きましょう、この風に命をかけましょう」
シナンはそう答えると、後方へむかって片手をあげた。突撃命令である。後方でそれを見た副官たちが、顔面に緊張感をみなぎらせて四方に散った。砂州を迂回するようにして、右側からドラグート艦隊が、左側からアイディン艦隊が、全体の先頭をきって二列で整然と出港した。すぐに大砲の打ち合いが始まった。全艦隊の中央に位置する旗艦にも、大砲の弾は容赦なく飛来した。赤ひげの立っている甲板の十メートルの近さに、砲弾が炸裂したが、彼は微動だにしなかった。その姿を見て、全艦隊の将兵がふるい立った。
暗くなりはじめた夕方の豪雨の中に、長身の老提督の黒くしか見えない姿が、彫像のように浮かびあがっては、見え隠れしていた。雷鳴が轟き、さらに雨足が激しくなった。たたきつけるような豪雨の中で、一歩も動こうとしない赤ひげの姿は、トルコ海軍の守護神のように将兵たちには見えた。それに対して、無敵艦隊の旗艦の甲板上にドーリアの姿は見えなかった。赤ひげ艦隊は追い風に帆をいっぱい張ると、縦横に走りまわって大砲を撃ちまくった。ドーリア艦隊も数をたのんで懸命の応戦をしたが、次第に強まってくる向かい風をうけて、自在な動きを失っていた。
しかも、艦隊としてのまとまった動きがみられず、攻撃してくる艦と逃げ腰の艦が、ばらばらに展開しているように見えた。赤ひげ艦隊は三艦が一組になって、敵の一艦を取り囲んで砲撃をする、いわゆる海賊戦法をとった。敵艦が炎上するのを見きわめると、次の敵をもとめて機敏に移動するのである。この戦法は効率がよく、数でまさる敵が無差別に攻撃してくるのに対して、はるかに確実な戦果をあげていた。
艦隊の最後尾に位置して、船長室の窓から遠眼鏡で戦況を眺め渡していた提督ドーリアは、そのとき不吉な予感に襲われた。遠くばかりに気をとられていた彼は、ふと周囲を見まわして仰天した。いつの間にか敵艦が三隻、獲物をねらう狼のように周囲をかこみながら接近してきていたのである。ドラグート、アイディン、ムラドの三艦が三方から敵の旗艦を目指して、帆をいっぱいに孕んで矢のような勢いで突進してきていた。乱戦の戦場を抜け出して、この自分に戦いを挑んでくるのは、ドラグート以外に考えられない。
ドーリアの頭の中にドラグートの、あの精悍そのものの顔が浮かんできた。戦う相手として、彼ほどおそろしい敵はいない。砲術の天才として、世界中に知られた男である。しかも、砲撃戦のさなかに逃げだす敵には、ようしゃなく体当たりを喰らわせて、過去に何十隻のガレー船を沈めてきたことであろうか。ドーリアは、この男と直接激突することだけは、避けるべきであるとつねづね考えてきた。
しかるに今、僚艦二隻とともに三方から迫って来るではないか。ドーリアは、ふかく考える暇を与えられずに、反射的に逃げることだけを考えた。西、すなわちスペイン方面に回航を命じると、追い風にのって猛スピードで発進させた。連合艦隊司令長官としての立場を、一瞬忘れた。動物の本能としての恐怖心が、彼の行動をきめたのであろうか。
連合国であるポルトガル、フィレンツエ、ジェノバ、ヴェネツイア、ローマ教皇、マルタ島の騎士団、などを合わせた大連合艦隊であり、その中核をなすスペインの無敵艦隊を、カール五世から預かる身であることに思いをはせたのは、ドラグートの恐怖を見事に振りきった安堵感の後であった。
あと一歩で砲撃できる距離まで詰めたところで、ものの見事に逃げられてしまったドラグートらは、歯噛みして口惜しがったが、ドーリアの旗艦はその大きさとスピードの点で、トルコ艦隊をはるかに上回っていた。見る間に水をあけられた三艦は、追跡を諦めざるを得なかった。追跡を諦めた彼らは、ふたたび戦場に戻った。プレヴェザ沖の戦場は混乱をきわめていた。司令長官が艦隊を見捨てて逃走した事実にくわえて、しだいに炎上する僚艦がふえてゆく様を見せられて、闘志をうしなって逃げだす艦船が続出しはじめた。
豪雨は雷鳴をともなって、一向にやむ気配をみせなかったが、夕闇がせまる前に戦いは決着がついた。赤ひげは風雨に身をさらしながら、甲板上に立ちつくしていた。撃沈した艦がおよそ五十隻。今、炎上している艦も何十隻か沈没するであろう。投降してきた艦がおよそ七十隻を上回るだろう、と大雑把な計算をしながらドーリアのことを考えていた。
艦隊を放置して真っ先に逃走した彼は、国王になんと釈明をするつもりだろう。カール五世は烈火のごとくに激怒するであろう。多くの国民は彼の行動を酷評するだろう。この海戦で戦死した兵士の家族は、彼を死刑にするよう求めるかもしれない。彼はスペイン人ではない。ジェノバに生まれ、フランス海軍に身を投じたが、提督の地位を得た年になってフランスに見切りをつけて、スペイン海軍にスカウトされている。国民と友邦各国は、彼を司令長官に起用したカール五世に批判の目を向けるであろう。
逃げ帰ったドーリアに、居場所などあるはずがない。死に場所を失ってしまった彼を、赤ひげは哀れに思った。七十年も生きて、いまだ命をおしむ彼の気持ちは、どう考えても理解できなかった。しかし、突然三頭の飢狼に囲まれたトナカイの恐怖心と、そのあわてぶりは想像できた。この海戦の最大の功労者は、ドーリアであることに思いが至って、赤ひげのぬれた頬に皮肉な笑みが浮かんだ。
ドーリアの失敗は、欧州諸国間の相互不信と、それを調整しようとして会議や折衝に疲れ果て、なかば戦意を失っていたことも、原因のひとつと考えられた。赤ひげ側は風の援護があったとはいえ、豪雨と雷鳴と高波の中での壮烈な砲撃戦は、闘志がものをいったと考えられる。積極的な攻撃は、味方の損害も軽くした。撃沈された艦はわずか六隻で、破損した艦は二十数隻という、信じられないほどの軽微なものであった。八十五歳の老提督が、神業としか言いようのない大戦果を挙げたのである。スペインは当分の間地中海における制海権を、オスマントルコに譲り渡さねばならないのである。
イスタンブールに凱旋すると、赤ひげはすでに神格化された存在となっていた。彼が海賊出身であることは、さらに彼を人気者にする要因となった。オスマントルコを世界一の強国にのし上がらせたスレイマン皇帝と、世界一の無敵艦隊を破ってヨーロッパ諸国を沈黙させた、赤ひげの人気は双璧となった。
プレヴェザ沖の大海戦のあと、ヴェネツィアはオスマン帝国に単独で講和を申しいれた。赤ひげ艦隊に地中海を制圧されて、船舶の運航ができなくなると、たちまち食糧不足に襲われた。ヴェネツィアは、内陸交易をほとんど行わず、大半を海上交易に頼っていた。こういう結果になると、スペインを見捨てるほかなかった。スレイマン皇帝の前にひざを屈して、三十万ドゥカトという莫大な戦争賠償金を支払い、領土の中からナウプリー、モネムバシアの両島を割譲することを含めて、エーゲ海におけるすべての領土を失う結果となった。
ここまで、すべて順調にきていた赤ひげ軍団に突然不幸がおとずれた。大海戦から約一年後のことである。ドラグートがスペイン軍に不意に襲われて、死亡したと伝えられたことである。コルシカ島の港で、三十名ほどの部下をつれて食事をしていたところを、ドーリア提督の甥にあたるジャンネッティノ・ドーリアの軍隊に襲われた。生存者が一人もいないので詳細は不明だが、スペイン側は赤ひげ軍団隋一の勇将の首を取ったことで、大いに気勢が上がっているとの噂であった。赤ひげはがっくりと肩を落とした。自分の後継者として、期待していた最大の人材である。
「信じられない。どうしても信じられない。ドラグートなら、百人の敵からでも逃れてくる力がある。まだどこかで、生きているような気がしてならない」
側近に対して、何度も同じことを繰りかえした。
キリスト教国側に傾斜していったヴェネツィアに対して、スレイマン皇帝は怒りを隠さなかった。大宰相アヤスが懸命にとりなしたが、皇帝は耳を貸さなかった。皇帝は赤ひげを呼んだ、
「エーゲ海における、ヴェネツィア領の島が合計二十五ある。これをすべて征服せよ」
「かしこまりました。なるべく短期間にやりとげましょう」
赤ひげの自信に満ちた表情を見て、皇帝は大きくうなずいた。エーゲ海はトルコの庭のようなものである。今までは友好関係があったればこそ、赤ひげはこの島々に手を出さなかったのだが、戦争状態となれば、何も遠慮することはなかった。気の毒なのは、政治とは無縁の島の住民であった。疾風怒濤のごとき赤ひげ軍団の襲来が島々を脅かし、数千名にのぼる男女キリスト教徒が捕虜として、オスマン帝国に運びこまれた。
この事態に対して、ヴェネツィア政府は直接反撃することができなかった。赤ひげ艦隊に対抗できるのは、スペインの無敵艦隊をおいて他にはありえなかった。カール五世は、提督ドーリアの力量を信頼してはいたが、それ以上に、赤ひげの神がかり的な力を恐れていた。そこで、艦隊同士が激突する前に、赤ひげを買収することを思いついた。極秘に使者を遣わして
「北アフリカのボーヌ、ブージ、トリポリを与えるかわりに、手持ちの艦隊をすべて引き渡してもらいたい」
と口上を述べさせた。スレイマンに知られた場合を懸念して、文書にはしなかった。それに対して赤ひげは
「全艦隊を引き渡すための条件としては、アフリカの北岸全域が欲しい」
と答えて、使者を適当にあしらった。カール五世はこれに対して、辛抱づよく交渉をつづけたが、赤ひげはもちろん本気で相手をする気はなく、のらりくらりと時間稼ぎをしていた。ドーリアとの決戦に備えて、艦隊運動の練習をかさねる時間がほしかったのである。赤ひげの態度が悪いことにようやく気がついたカール五世は、ついに怒り出した。プレヴェザ沖の大海戦が起こったのは、その直後である。ヴェネツィアはスペインに協力して、八十隻のガレー船を提供している。この間赤ひげは、本拠地のアルジェには戻らず、イスタンブールに居つづけた。八十三歳になった彼は、驚異的な体力を保持していた。
「こんな年寄りは、今まで見たことがない」
とスレイマン皇帝に言わしめるほど、酒量も食欲も落ちなかった。頭髪もひげもすでに真っ白に変わっていたが、赤ひげの名はそのままであった。けいけいと光る眼光は依然として鋭く、頭脳の回転も若いころと変わらなかった。皇帝は、連合艦隊百五十隻の全司令と船長を一堂にあつめて演説をした。彼らが赤ひげを海賊と馬鹿にして、心底から従わない場合があることを心配したからである。
「赤ひげは、皆のものがよく承知しているように海賊である。海賊をわが連合艦隊の司令長官に任命するとは何事か、と目を三角にする向きのあることは、余が充分に承知している。平和なときであれば、海軍軍人の中からそれに相応しい家系と、品位を有した人物を長官に据えることが、内外の批判をうけずにすむ最良の方法であることも、余は承知している。しかし、今は非常事態である。スペインは切り札のドーリア提督を起用して、わが国との決戦に臨もうとしている。
今はわが国の危急存亡の秋である。現在わが海軍の中に、赤ひげほどの経験と能力を有したものが見あたらない以上、彼を起用することは、どうあっても避けられないことである。余が赤ひげにわが海軍の全権を与えたからには、諸君は赤ひげの命令は余の命令である、と考えてもらいたい。赤ひげの命令に従わないものは、直ちに処刑されることを覚悟してもらいたい。諸君が、わがオスマン帝国の命運を握っているのである。各位の健闘を祈る」
やさしい言葉で、分かり易く説明をした皇帝の演説は短かった。しかし、この演説の効果は計り知れないほどのインパクトがあった。それまで、赤ひげ批判を陰でやっていた幹部たちは、ぴたりと口を閉ざし、一兵卒にいたるまでそれは浸透した。スレイマンの演説は一種の恫喝である。これが、国民や軍人たちから嫌われている指導者の演説であったならば、当然逆効果となった筈であるが、スレイマンという人は、国民の各階層から慕われる不思議な人気の持ち主であった。規律をきびしくするのに、軍人や役人からも好かれる、という稀有の皇帝であった。
赤ひげは、司令と船長たちを別の機会にあつめて何度も酒宴を催した。彼は教養もあり、航海術から砲術、測天儀そのほかの知識は、軍人たちに負けないだけのものをもっていた。それでも、彼らの意見に対して謙虚に耳を貸し、かつ彼らとうちとけて酒を飲み、愛嬌をふりまいたので、彼らの信望を短期間に勝ちとることに成功した。百五十隻の大艦隊が、たった一人の命令のもとに生き物のように艦隊運動をすることは、想像以上に難しいことである。
参謀たちの緻密な計画と打ち合わせがあっても、実践の場で、そのとおりに運動することができる保障は何もない。そのために、練習航海が何十回もくり返され、次第にまとまりが得られるようになって来た。二手に分かれての模擬戦闘も行われ、人命も艦船の損傷も少なく、敵に対して優位を築ける方法を将兵におぼえさせた。六十年をこす赤ひげの経験は、歴史の浅いトルコ海軍に大きな刺激をあたえ、将兵の信望を深めていった。カール五世との秘密交渉が決裂して、決戦のときは刻一刻と近づいていた。ある日、シナンが赤ひげの部屋にかけこんできた。
「提督、無敵艦隊二百隻以上が、アドリア海に入りました」
「アドリア海のどこだ?」
赤ひげは落ちついていた。
「ヴェネツィアに向かっているようです。おそらくヴェネツィアの艦隊と合同してから、わが軍に向かってくるものと考えられます」
「それならば我々はプレヴェザ港に入って、アドリア海の出口を固める手があるな」
「そうです。出口を固めて、ドーリアがどうあっても逃げられないようにすべきです」
「いよいよ決戦だな」
赤ひげは立ちあがって窓に近寄った。宮廷の一室からボスフォラス海峡が眺められる。海峡は午後の日差しにきらめいていた。おそらくドーリアの無敵艦隊は二百五十隻を超えるであろう。トルコ海軍は大型ガレー船百五十隻である。百隻の差をどう埋めるかが課題である。小型のギャリオット船は使いようはあるが、大艦隊同士の激突の場合はあまり役に立たない。砲撃戦に耐えられるのはなんといっても大型船である。砲撃戦の後に、敵艦に斬りこむには小型のギャリオット船が敏捷である、しかし、この戦いはギャリオット船の出番があるかどうか。
赤ひげは、ドーリアとの一騎打ちを頭に描いてみた。巨大な敵である。どんな戦い方をしてくるのか。この戦いはドーリアと自分との戦いであり、自分の気力が勝れば、百隻の差を撥ね退けて勝つことができるであろう。戦いは必ずしも数の問題ではない。自分には優秀な部下が数多くいる。気力で劣るようなことは決してないだろう。気力とはなにか。要するに、命を捨ててかかれるかどうかに過ぎない。
シナン、ドラグート、アイディン、ムラドたちの気力をかき立てねばならない。彼らに皆、死ぬ覚悟をしてもらおう。そのためには自分が真っ先に命を投げだそう。自分が死地に立てば、彼らも奮起して命を捨ててくれるだろう。赤ひげは、ボスフォラス海峡を眺めているわずかな間にそこまで決心した。振りかえると、シナンも後ろから海峡を見つめていた。
「シナン、わしはこの国のために、命をすてる決心をした。お前を、地獄の道ずれにしたい。ついて来てくれるか?」
「提督、いまさらなにを言うのです。私の腹はとっくに決まっています。ドラグートも、アイディンも、ムラドも、提督と地獄の底まで一緒に行く気でいます。ご安心ください。われわれだけではありません。主だった奴らはみなその気でいます。どうせ人間と生まれたからには、一度は死ぬことが決まっているのですから、無敵艦隊との決戦なら、よろこんで死んでくれますよ」
「シナン、ありがとう。お前がそう言ってくれると、わしも喜んで死ねるというものだ。お前たちより、わしは先に死ぬぞ」
赤ひげはシナンの手を握りしめた。
「いえ、一緒に死にましょう。提督と一緒に死ねるなら、私の人生も、少しばかり花が開いたことになります。たった一度の人生です、少しでも華が欲しいじゃありませんか」
シナンの目にも涙が光っていた。
一五三八年の夏のおわり、無敵艦隊との決戦にのぞむべく、赤ひげは皇帝に連合艦隊の出動を要請した。一方、無敵艦隊はヴェネツィアとローマ教皇の増援をえて二百数十隻に達し、六万人の兵と二千数百門の大砲を備えた大艦隊になっていた。
赤ひげは股肱の臣をあつめて意見をもとめた。
「ドーリアがスペイン随一の提督、といわれる所以は一体なんだろうか?」
最初に口を開いたのはシナンだった。
「ドーリアが理論派で、協調型の人間だからじゃないでしょうか」
「なるほど、皇帝に対して理論的に、戦術戦略を説明できることと、幹部たちと協調してゆける人間だから、トップに立てたということだな」
「そのかわり、協調型の人間の弱点は、決断力に欠けることです」
「わしとは正反対の人間で、秀才タイプなのだな」
「秀才タイプの人間は緻密な計画を立てますが,状況が裏目にでたときに、自分の理論をひっくり返すことができません」
「なるほど」
「戦いというものは、状況が変わったら変わったなりに、逆のことをやらなければならないことが出てきます。その点、会議を長々とやって決めたことは、簡単にひっくり返せませんから、そこがドーリアの弱点になると思います」
「ドラグートはどう思う?」
「ドーリアという男はカール五世の受けがいいだけで、戦いのトップに立つ人間ではないと思います。作戦を国王の前で弁じたてることは巧みでも、実戦は勘と度胸が左右することが多いものです。恐れることはないと思いますね」
「ムラドはどう見ているのだ?」
「私は、ドーリアという男を相当程度評価しています」
ムラドは先輩たちに気を使いながら、しかし決然と言い放った。ドラグートたちとくらべて一回り若い。浅黒い肌のおくに光る目は、利発そうな輝きを湛えていた。後に、彼はドラグートの後任として、赤ひげ軍団の長になる男である。
「少数対少数の戦いの場合は勘と度胸が左右しますが、百五十隻対二百五十隻の戦いでは、ドーリアの作戦を本気で推理する必要があると思います。スペイン随一の提督といわれるゆえんは、無視できないと思うのです」
「ムラドは、ドーリアがどう出てくると考えているのだ?」
「ドーリアは、プレヴェザ港の沖合いで風を待つだろうと思います。風を背に受けたときに、攻めてくることを覚悟すべきかと考えます」
この時代は、帆船時代にはまだすこし間があって、帆とオールの両方を備えていた。風を間切って、向い風を利用して進む技術がまだでき上がっていない。プレヴェザ港はアドリア海の出入り口にあり、トルコとは友好関係にあるギリシャの領土である。
「風にむかって漕いでも、なかなか進まないからのう。西風の場合は港内にこもって、大人しくしていることにするか」
赤ひげはのんきそうな口調で言った。アイディンがひと膝のりだした。
「東風をうけたら港をでて一気に攻めましょう。勢いさえあれば、百隻の差は問題ないでしょう」
シナンは、アイディンにうなずいて見せてから言った。
「ドーリアが沖にいて、われわれが港内にいるということは、絶対的な幸運でした。ドーリアは、風の流れを一瞬にして捕える能力をもっているでしょう。しかし、彼が決断しても、スペイン、ジェノバ、ヴェネツィア、ローマ教皇などの混成部隊ですから、全艦がいっせいに機敏な行動をとることは、かなり難しいと思います」
赤ひげは真っ白になったひげを、撫でまわしながら肯いた。
「数が多ければいいというものでもないな。ドーリアはその点で苦労しているだろう」
その後は、お定まりの酒宴になった。
九月二十五日、待ちにまった無敵艦隊がプレヴェザ港の沖合いに姿を現した。この日は朝から激しい雨が降りつづいていた。しかしほとんど風がないため、沖合いと構内で睨みあったまま、たがいに動かなかった。 先に港内に入っていたことが最高の幸運だったことを、赤ひげは噛みしめていた。敵艦隊が数だけでなく、艦の大きさでも圧倒的に有利であることを悟ったからであった。外海で出会いがしらに激突したら、どうなっていたか分からないと思った。
西風が吹いて、敵が湾内に攻めこんできた場合でも、前面には砂洲が横たわっていて、敵の重い主力艦はこの砂洲で立ち往生する可能性がある。両艦隊の、息詰まるような睨み合いがつづくなか、海軍の参謀たちが赤ひげの下に駆け込んできた。ドーリアが大砲を陸揚げして、海岸方面から攻撃してくることを懸念して、陸上に土塁をつくって防御する策を献言してきた。しかし、赤ひげは
「ドーリアは、おそらくそうはすまい。それより、風が吹きはじめた瞬間から戦いが始まるから、各位は持ち場を離れないようにしてもらいたい」
と言って、献言を退けた。一日おいて九月二十七日の夕方、激しい雨が降りはじめ、しだいに豪雨となっていった。やがて、東風が吹きはじめた。艦がそれまでの北風の影響で大きくゆれ動いていたが、八十五歳の老提督は、旗艦の甲板上に仁王立ちして動かなかった。シナンは少し離れてその後姿を見守っていた。赤ひげがこの戦いに命を懸けていることを、ひしひしと感じざるを得なかった。追い風が本物であることを、肌でたしかめた彼は
「敵陣へ突っ込むぞ!」
とシナンに声をかけた。
「行きましょう、この風に命をかけましょう」
シナンはそう答えると、後方へむかって片手をあげた。突撃命令である。後方でそれを見た副官たちが、顔面に緊張感をみなぎらせて四方に散った。砂州を迂回するようにして、右側からドラグート艦隊が、左側からアイディン艦隊が、全体の先頭をきって二列で整然と出港した。すぐに大砲の打ち合いが始まった。全艦隊の中央に位置する旗艦にも、大砲の弾は容赦なく飛来した。赤ひげの立っている甲板の十メートルの近さに、砲弾が炸裂したが、彼は微動だにしなかった。その姿を見て、全艦隊の将兵がふるい立った。
暗くなりはじめた夕方の豪雨の中に、長身の老提督の黒くしか見えない姿が、彫像のように浮かびあがっては、見え隠れしていた。雷鳴が轟き、さらに雨足が激しくなった。たたきつけるような豪雨の中で、一歩も動こうとしない赤ひげの姿は、トルコ海軍の守護神のように将兵たちには見えた。それに対して、無敵艦隊の旗艦の甲板上にドーリアの姿は見えなかった。赤ひげ艦隊は追い風に帆をいっぱい張ると、縦横に走りまわって大砲を撃ちまくった。ドーリア艦隊も数をたのんで懸命の応戦をしたが、次第に強まってくる向かい風をうけて、自在な動きを失っていた。
しかも、艦隊としてのまとまった動きがみられず、攻撃してくる艦と逃げ腰の艦が、ばらばらに展開しているように見えた。赤ひげ艦隊は三艦が一組になって、敵の一艦を取り囲んで砲撃をする、いわゆる海賊戦法をとった。敵艦が炎上するのを見きわめると、次の敵をもとめて機敏に移動するのである。この戦法は効率がよく、数でまさる敵が無差別に攻撃してくるのに対して、はるかに確実な戦果をあげていた。
艦隊の最後尾に位置して、船長室の窓から遠眼鏡で戦況を眺め渡していた提督ドーリアは、そのとき不吉な予感に襲われた。遠くばかりに気をとられていた彼は、ふと周囲を見まわして仰天した。いつの間にか敵艦が三隻、獲物をねらう狼のように周囲をかこみながら接近してきていたのである。ドラグート、アイディン、ムラドの三艦が三方から敵の旗艦を目指して、帆をいっぱいに孕んで矢のような勢いで突進してきていた。乱戦の戦場を抜け出して、この自分に戦いを挑んでくるのは、ドラグート以外に考えられない。
ドーリアの頭の中にドラグートの、あの精悍そのものの顔が浮かんできた。戦う相手として、彼ほどおそろしい敵はいない。砲術の天才として、世界中に知られた男である。しかも、砲撃戦のさなかに逃げだす敵には、ようしゃなく体当たりを喰らわせて、過去に何十隻のガレー船を沈めてきたことであろうか。ドーリアは、この男と直接激突することだけは、避けるべきであるとつねづね考えてきた。
しかるに今、僚艦二隻とともに三方から迫って来るではないか。ドーリアは、ふかく考える暇を与えられずに、反射的に逃げることだけを考えた。西、すなわちスペイン方面に回航を命じると、追い風にのって猛スピードで発進させた。連合艦隊司令長官としての立場を、一瞬忘れた。動物の本能としての恐怖心が、彼の行動をきめたのであろうか。
連合国であるポルトガル、フィレンツエ、ジェノバ、ヴェネツイア、ローマ教皇、マルタ島の騎士団、などを合わせた大連合艦隊であり、その中核をなすスペインの無敵艦隊を、カール五世から預かる身であることに思いをはせたのは、ドラグートの恐怖を見事に振りきった安堵感の後であった。
あと一歩で砲撃できる距離まで詰めたところで、ものの見事に逃げられてしまったドラグートらは、歯噛みして口惜しがったが、ドーリアの旗艦はその大きさとスピードの点で、トルコ艦隊をはるかに上回っていた。見る間に水をあけられた三艦は、追跡を諦めざるを得なかった。追跡を諦めた彼らは、ふたたび戦場に戻った。プレヴェザ沖の戦場は混乱をきわめていた。司令長官が艦隊を見捨てて逃走した事実にくわえて、しだいに炎上する僚艦がふえてゆく様を見せられて、闘志をうしなって逃げだす艦船が続出しはじめた。
豪雨は雷鳴をともなって、一向にやむ気配をみせなかったが、夕闇がせまる前に戦いは決着がついた。赤ひげは風雨に身をさらしながら、甲板上に立ちつくしていた。撃沈した艦がおよそ五十隻。今、炎上している艦も何十隻か沈没するであろう。投降してきた艦がおよそ七十隻を上回るだろう、と大雑把な計算をしながらドーリアのことを考えていた。
艦隊を放置して真っ先に逃走した彼は、国王になんと釈明をするつもりだろう。カール五世は烈火のごとくに激怒するであろう。多くの国民は彼の行動を酷評するだろう。この海戦で戦死した兵士の家族は、彼を死刑にするよう求めるかもしれない。彼はスペイン人ではない。ジェノバに生まれ、フランス海軍に身を投じたが、提督の地位を得た年になってフランスに見切りをつけて、スペイン海軍にスカウトされている。国民と友邦各国は、彼を司令長官に起用したカール五世に批判の目を向けるであろう。
逃げ帰ったドーリアに、居場所などあるはずがない。死に場所を失ってしまった彼を、赤ひげは哀れに思った。七十年も生きて、いまだ命をおしむ彼の気持ちは、どう考えても理解できなかった。しかし、突然三頭の飢狼に囲まれたトナカイの恐怖心と、そのあわてぶりは想像できた。この海戦の最大の功労者は、ドーリアであることに思いが至って、赤ひげのぬれた頬に皮肉な笑みが浮かんだ。
ドーリアの失敗は、欧州諸国間の相互不信と、それを調整しようとして会議や折衝に疲れ果て、なかば戦意を失っていたことも、原因のひとつと考えられた。赤ひげ側は風の援護があったとはいえ、豪雨と雷鳴と高波の中での壮烈な砲撃戦は、闘志がものをいったと考えられる。積極的な攻撃は、味方の損害も軽くした。撃沈された艦はわずか六隻で、破損した艦は二十数隻という、信じられないほどの軽微なものであった。八十五歳の老提督が、神業としか言いようのない大戦果を挙げたのである。スペインは当分の間地中海における制海権を、オスマントルコに譲り渡さねばならないのである。
イスタンブールに凱旋すると、赤ひげはすでに神格化された存在となっていた。彼が海賊出身であることは、さらに彼を人気者にする要因となった。オスマントルコを世界一の強国にのし上がらせたスレイマン皇帝と、世界一の無敵艦隊を破ってヨーロッパ諸国を沈黙させた、赤ひげの人気は双璧となった。
プレヴェザ沖の大海戦のあと、ヴェネツィアはオスマン帝国に単独で講和を申しいれた。赤ひげ艦隊に地中海を制圧されて、船舶の運航ができなくなると、たちまち食糧不足に襲われた。ヴェネツィアは、内陸交易をほとんど行わず、大半を海上交易に頼っていた。こういう結果になると、スペインを見捨てるほかなかった。スレイマン皇帝の前にひざを屈して、三十万ドゥカトという莫大な戦争賠償金を支払い、領土の中からナウプリー、モネムバシアの両島を割譲することを含めて、エーゲ海におけるすべての領土を失う結果となった。
ここまで、すべて順調にきていた赤ひげ軍団に突然不幸がおとずれた。大海戦から約一年後のことである。ドラグートがスペイン軍に不意に襲われて、死亡したと伝えられたことである。コルシカ島の港で、三十名ほどの部下をつれて食事をしていたところを、ドーリア提督の甥にあたるジャンネッティノ・ドーリアの軍隊に襲われた。生存者が一人もいないので詳細は不明だが、スペイン側は赤ひげ軍団隋一の勇将の首を取ったことで、大いに気勢が上がっているとの噂であった。赤ひげはがっくりと肩を落とした。自分の後継者として、期待していた最大の人材である。
「信じられない。どうしても信じられない。ドラグートなら、百人の敵からでも逃れてくる力がある。まだどこかで、生きているような気がしてならない」
側近に対して、何度も同じことを繰りかえした。