七、イタリア一の美女をさらえ
ある日、赤ひげは幹部を集めて重大決意を表明した。
「わしは、ぺニョン島の要塞をいつまでも許しておくことができない。スペインが作った要塞に睨まれていて、アルジェの港を自由に使用できないようでは、今後の大きな発展はのぞめない」
海賊船はアルジェ港に入港したとはいっても、実際はぺニョン島の要塞から少しはなれた港を使用することを余儀なくされていたのである。アルジェの市街地へ荷物を運び込むためには、馬やらくだを使って、余分な労力と手間賃をかけなくてはならない。ぺニョン島は堅固な要塞に囲まれていて、これを陥落させるためには、多大な犠牲を覚悟しなくてはならないことと、これを陥落させることによって、スペインの報復を恐れねばならなかった。赤ひげは続けた。
「ぺニョン島を落とせば、おそらくスペイン国王は怒って、大艦隊を派遣してくるだろう。しかし、いずれスペインとは本格的に事を構えなくてはならないのだし、そうなればスレイマン皇帝も力を貸してくれるはずだ。とは言っても、わしはまだトルコ海軍の司令官の一人にすぎない。今はわれわれの力だけでスペイン軍と戦わねばならない。賭けではあるが、大きな戦いの前にぺニョン島を確保しておきたいのだ。みんな、やってくれるか?」
幹部たちは全員が賛成だった。
「目の上のたんこぶは、はやく切りとった方がいい」
「カール五世が怒って、二百隻の艦隊で攻めてきたら、逃げればいいさ」
「イスタンブールに逃げこんで皇帝に助けを求めれば、海軍を出してくれるだろう」
「われわれを無駄死にさせたのでは、皇帝も損をするから、必ず助けてくれるさ」
赤ひげの力量を信頼している彼らは、みな楽観的だった。
「よし、では手筈については、シナンから説明してもらおう」
赤ひげは、後をシナンに任せて部屋を出た。ぺニョン島の守備兵は千五百人と少なく、島そのものも小さいため、補給がストップしさえすれば弾薬と食料がすぐに尽きるものと考えられた。しかしやってみると、実際はそう簡単なものではなかった。堅固な要塞を盾に、守備兵は十六日間も抵抗をつづけたのである。その十六日間は昼夜を分かたずに砲撃を加えたので、守備兵は不眠不休の戦いを強いられた。
十七日目に、赤ひげは千二百名の突撃隊を上陸させた。島の守備隊は約半数に減っていた。しかも、約半月にわたる過酷な重圧は彼らをほとんど病人にしてしまっていた。半死半生の状態で出てきた守備兵は全員投降した。赤ひげは、シナンの巧妙かつ慎重な作戦に感謝した。
「わし一人で考えた作戦だったら、兵を相当程度損じたであろう。お前はわしより気が長い。わしも今回はいい勉強をさせてもらったぞ」
「要塞は徹底的に破壊しましょう。二度とあんなものは作らせてはなりません」
「そのとおりだ。これで初めてオスマン帝国の領地になった、という実感だな」
「今まではなんとなく、仮の領地という意識でした。何かこう、借金をしているような感じでしたね」
「借金とはうまいことを言うな。大金を借りていて、いつ家を追い出されるかわからない心境とは、こういうものなんだろうな」
二人は顔を見合わせて笑った。
「しかしこれからは、大家さんが見回りに来るでしょうから、警戒は怠れません」
シナンが真顔に戻って言い添えた。ぺニョン島が陥落して二週間後に、要塞を増強するための兵隊と食料、弾薬などを満載した輸送船九隻がやってきた。驚くべきことにこの二週間の間スペインには、ぺニョン島のことが何も伝わってはいなかったのである。海賊たちは待ってましたとばかりに九隻を取り囲んで、二千七百人の乗員ともども捕獲してしまった。アウトローの面目躍如である。
赤ひげは、要塞を徹底的に破壊して巨大な防波堤をつくるよう、シナンに命じた。シナンはスペイン兵を中心とするキリスト教徒の奴隷を使役して、一年近くの歳月をかけて防波堤を完成させた。
八十一歳になった赤ひげは、健康そのものであった。平均寿命が極端に短かった時代である。わが国では、織田信長の時代が始まる頃の年代にあたる。酒が強く、毎晩のように宴会をやっても疲れを感じないという、側近たちがあきれるほどの体力を保持していた。春がきて海が穏やかになってくると、赤ひげは猟に出たがった。
参謀シナンは彼の体を気遣って止めさせようとするが、一向に耳を貸そうとしなかった。うららかな春の日差しを浴びて、六十隻の艦隊がアルジェを出港した。目指すのはメッシナ海峡である。メッシナ海峡とは、イタリア半島の最南端部とシチリア島の間を指す。スペイン、フランス、ジェノバ、ローマなどの船舶が、アドリア海の奥に位置するヴェネツィアをめざす場合など、通らざるをえない航路にあたるため海賊の恰好の猟場となっている。赤ひげはシナンを呼んで話しかけた。
「公爵夫人のジュリア・ゴンツァーラという美人がいるそうだが、知っているかな?」
「知ってますとも、イタリア随一の美貌をうたわれた美女ですから。イタリアでは二百八十人もの詩人が、彼女の美しさをたたえる詩を作ったほどです。」
「知らない男はいないか・・・、この女を手に入れたいと思うが、どうかな?」
「なるほど、提督夫人にしますか?」
「実は、イブラーヒム大宰相から頼まれたのだが、ジュリアをスレイマン皇帝に献上してくれないか、というのだ」
「ほう、何でまた」
「皇帝の第一夫人ロクセラーヌが皇帝の寵愛をいいことに、政治に嘴を突っこんできて、やりにくくて困っているので、ジュリアを捕えて献上すれば、愛情が移ると考えたようなのだ」
「なるほど、それは名案かもしれませんね」
「とくに困るのは、ヴェネツィアと戦うことを、皇帝につよく主張することだそうだ」
「ヴェネツィアとは、曲がりなりにもうまくやって来ているじゃありませんか」
「大宰相の並々ならぬ努力の賜物だと思うのだが、あのかみさんは欲張りで、ヴェネツィアを征服すれば、計り知れないほどの富が手に入ると考えているようだ」
「それは分かりますが、ヴェネツィアを倒すには、オスマン帝国もそれなりの犠牲を覚悟する必要があります。もし全面戦争になれば、ヴェネツィアと仲の良くないジェノバも協力するかもしれないし、ローマ教皇も黙ってはいないだろうし、チャンスとばかりにスペイン、ドイツも参戦してくるかもしれません」
「そのとおりだ。大宰相はそれを懸念して、わしに頼んできたのだ」
「女を攫うことは、皇帝はご存じないことなのですね?」
「もちろんだ、皇帝はそんな人じゃない」
「大宰相の命令だと知ったら、ロクセラーヌは何をするか分かりませんよ」
「あくまでもわしの一存で、やったことにしておかなくちゃならん」
「大宰相は、提督と同じギリシャ人だそうですね」
「そのよしみもあるが、彼はわしを強く押してくれている。もっとも、表面と腹の底は別かもしれんが。それはともかくとして、何とかしてイタリア一の美女を捕えて、大宰相の期待に応えたいものだ」
「提督に連合艦隊の司令長官になっていただくためにも、全力を尽くしましょう」
「うむ、わしも一度はオスマン帝国の海軍を指揮してみたいし、スペインの無敵艦隊と真っ向から勝負をしてみたいと思っている」
「早速、ジュリアの居所を調べさせましょう。しかしジュリアを攫ったら、イタリア中の男どもが怒り狂うでしょうな」
「怒るだろうな。しかしイタリアの男どもは、怒っても怖くないな」
「歴史的に見ても、ドイツとスペインは国民性が強くて、イタリアとフランスは優しいですね」
「個人はどこの国も同じだろうが、指導者の違いなのか、それとも文化の違いなのか」
「その国に長年住んでみないと、正確な答えは無理かもしれません」
六十隻にのぼる赤ひげ艦隊はメッシナ海峡を越えると、ジュリア・ゴンツアーラの住むフォンディの町へ直行した。フォンディの町は、ローマから少し南に下ったところにある風光明媚な沿岸都市である。ジュリアは広大な森に囲まれた屋敷に住んでいた。深夜を選んで、屋敷を囲んで一気に襲いかかったのであるが、ジュリアは地下通路から下男の馬で逃げてしまった。
森が広すぎてどこからどこまであるのか、海賊には見当がつかなかったことが失敗の原因、と考えられた。後日、街のうわさを小耳にはさんだ赤ひげは、腕を組んで考えこんだ。街の噂は、山の中を逃げまわるうちに、ネグリジェ姿のままのジュリアを、欲望をこらえかねた若い下男が暴行したために、フォンディの町に戻ってから下男が死刑に処せられた、というものであった。
「下男もジュリアも気の毒だったなあ,もうこういうことはよそう」
とつぶやいた。二日間の捜索で諦めた赤ひげはフォンディの町を離れると、メッシナ海峡で数隻の商船を拿捕し、数百人を捕虜にして溜飲を下げていた。上機嫌の赤ひげに、ドラグートが話しかけた。
「提督、スレイマン皇帝へのお土産に、チュニスを占領してはいかがでしょう」
「うん?」
赤ひげはけげんそうな顔をした。
「ジュリア・ゴンツァーラより、もっと大きなお土産です。これなら大宰相も、提督を司令長官に昇格させることに、同意してくれるでしょう」
チュニスは、積荷の売り捌き市場としてその価値を認めていたが、もともとスペインの領土であり、シチリア島とならんでスペインが、地中海における足場として最も重視している拠点である。チュニスを奪えばスレイマン皇帝は大喜びであろうが、スペインの報復は当然大がかりなものとなるであろう。
「この艦隊をもって襲えば、チュニスを奪うこと位訳はないのだが・・・」
さすがの赤ひげも即答はできなかった。
「スペイン国王の報復を、覚悟した上でなくてはできない相談だが、その点はどう考える?」
「すぐに無敵艦隊にやってこられたら、逃げるしか方法はありませんが、それまでにトルコ海軍を握ってしまえば、五分と五分だと思います」
「報復をすこし先だと見るなら、賭けをする手もあるが、ここは考えどころだな」
翌日赤ひげは、シナンとアイディン以下の幹部もまじえて会議を開いた。アイディンは賛成したが、シナンは慎重論を唱えた。
「商船を奪うくらいなら、さしたることもないでしょうが、チュニスを奪ったとなると、スペイン国王が怒って大規模な艦隊を出してくるでしょう。それは、あまりにも無謀な賭けといわざるを得ません」
「シナンの言うことはもっともだ」
赤ひげは同調した
「しかし、わしは一晩考えたのだが、国王が無敵艦隊を動かすには時間がかかる。少なくとも年内はないだろう。早くても来春と見てもいいように思う。とすれば、ここは賭けをしてみるのもいいかもしれないのだ」
シナンは赤ひげの表情をじっと見つめた。
「来春までに司令長官の座が来なかったら、どうなさいますか?」
「うん、まあそのときは逃げよう。何百隻もの軍艦が相手じゃ仕方がない」
シナンはそれを聞いて、にっこり笑った。
「人生はいつも賭けの連続です。トルコ海軍の総力をもってしても、無敵艦隊に負けるかもしれませんからなあ」
「そういうことだ。シナンが賛成してくれるなら、思い切ってやってみよう。チュニスのハッサン・ジュニアという王は、父親の死後四十四人の兄弟を全員殺して、玉座を手にいれた男だ。悪い奴をやっつけるのに斟酌はいらんだろう」
チュニス港の沖に艦隊を止めると、赤ひげは使者にハッサン国王に対する降伏勧告状をもたせて小船で行かせた。この勧告文の要旨はつぎのとおりである。
「おとなしく降伏するならば、国王並びに一族はスペインへ送還し、国民には一切の危害を加えない。われわれはチュニスをオスマン帝国の領土とすることだけが目的であって、国民の財産を奪うことは一切考えていない。また、使者を斬った場合は、チュニスの町が廃墟と化す覚悟をすべきである。すみやかに返答されたし。
オスマン帝国海軍連合艦隊司令官バルバロッサ・ハイルッディン」
これを見て、ハッサン・ジュニアは手勢をつれて内陸に向かって一目散に逃げてしまったので、艦隊は一日にしてこの国を占領してしまった。これで、スペインの地中海における拠点はシチリア島のみとなった。この報告を受けたスレイマン皇帝は大喜びであった。皇帝はチュニスを占領したことを、フランスに知らせるべく使節を派遣した。一五三四年十月のことであった。使節団はマルセイユに上陸した。フランス人がトルコの戦艦を見たのはこのときが初めてであった。
キリスト教国とイスラム教国は戦いつづけている。同盟を結んだとはいえ、フランスの敵であるスペインとドイツの敵だから、トルコは味方である、とする論法から、トルコとフランスは近づこうとしているが、国民はすぐには同調しなかった。異様な身なりをして、理解不能な言葉を話し、ブドー酒を飲まない異人たちをみて、国民は恐れ戦いた、と伝えられる。使節団は国王が待つシャテルローに到着し、国王に伴われてパリに着いた。パリでは盛大な歓迎をうけたが、一部のキリスト教徒は使節団に対して背を向けた。
ヨーロッパ中の国々が、異教徒と手を組もうとするフランス国王の挙動に注目している中で、トルコに大使を送ることを決めたときは、フランスに対して疑惑の目と非難の声が集中した。ヨーロッパ世界の裏切り者という印象であった。フランス国王は国民からの批判にも晒された。トルコとの協力関係が国家の利益になるとする主張と、キリスト教徒としての良識を要求する非難との間で、国内世論は大きくゆれ動いた。
八、スペインの無敵艦隊
イタリアの中に、二つの強力な都市国家があった。ヴェネツィアとジェノバである。ヴェネツィアはアドリア海の最奥部に位置していて、商人貴族が独占する商業都市である。この都市国家の繁栄は、海上交易に全面的に依存していた。したがって、海上から小麦粉が入ってこなければ国民は生きて行けない。そのため、戦争が長くつづくと食料の供給が止まってしまうので、ときには外国の貨物船を襲って穀物を横取りすることも辞さなかった。
一方ジェノバは、フランスとの国境にちかく位置する関係で、フランスとスペインの双方から保護される戦略上の要地である。貿易や封建制度のもとで得た所領や、特権などによって富み栄えた貴族階級と、中小商人や手工業などの大衆層との間に、たえず闘争がつづいている都市国家であった。
スペインの無敵艦隊司令長官は、アンドレア・ドーリアである。彼はジェノバの出身で、最初フランス海軍に所属した。一五二二年、彼はプロバンス沿岸でスペイン艦隊を撃破して名をあげた。しかし、フランソワ一世はドーリアを使うことによって、地中海の制海権を手に入れることの意味を、深く理解することができなかった。ドーリアは生まれ故郷のジェノバを深く愛していた。
そのジェノバに対するフランスの態度が良くないことに、彼は腹を立てていた。その上、自分の功績を高く評価しないフランソワ一世に嫌気がさしていた。そこで、決心してスペイン海軍に身を投じたのである。彼はカール五世にジェノバの自治権を認めさせ、フランスを追いだすことを条件にして、スペイン海軍の提督となった。フランスは、海上に覇を唱えることを可能にする、唯一の人材を失ってしまったのである。
ローマ教皇パオロ三世は、ヨーロッパをひとつに纏めるために、新しい軍事同盟の締結に一役買って出た。すなわち、スペイン、ポルトガル、ヴェネツィア、ジェノバ、マルタ島の騎士団、フィレンツェ、ローマ教皇などのカトリック大連合艦隊を編成して、ドーリアの手に委ねた。スペインのカール五世は、赤ひげに奪われたチュニスを奪還するためにこの連合艦隊を派遣することにした。
ローマ教皇がまとめてくれた連合艦隊と、スペインの無敵艦隊も含めて、合計六百隻にのぼる大艦隊を編成したカール五世は、フランスを誘ったが、フランソワ一世は中立を守って動こうとしなかった。チュニスを赤ひげに奪われて、スペインの地中海における拠点はシチリア島だけになってしまったが、東からも西からも脅かされて、シチリア島そのものも存続が危ぶまれる状態になっていた。カール五世はさすがに危機感を募らせて、提督ドーリアを呼んだ。
「赤ひげの行状は目にあまる。どうあっても、あ奴をひっ捕らえて、極刑にしてくれねば気がすまない。今回は、わしも旗艦に乗ることにした」
「陛下が御自ら座乗されるとなれば、兵の士気はこの上なく、高まるでありましょう」
大小合わせて六百隻にのぼる大艦隊は、史上最大であり、兵員は十万人にものぼった。一五三三年春、大艦隊は赤ひげを求めて一路チュニスへ向かった。当初、連合艦隊はローマに向かう、という情報が入っていたため、比較的のんきに構えていたのであるが、方向転換してチュニスに向かっているとの知らせに、さすがの赤ひげも頭を抱えこんだ。
船も兵員も十倍する敵を撃退できる、とは誰も考えないであろう。遠眼鏡で覗くまでもなく、すでにチュニス港の沖合は大艦隊に囲まれて、数十隻にすぎない赤ひげ艦隊が逃げだす隙はなかった。急拠幹部会議がひらかれた。ドラグートが最初に口をひらいた。
「提案したのは私ですから、責任を取らせてください」
「責任を取るって、どうする気なのだ?」
アイディンが目を剥いた。
「連合艦隊の上陸をわたしが食い止めている間に、提督には陸伝いに逃げていただきたいのです」
「たった一万の兵で、どうやって十万の敵を食い止める気だ?」
アイディンは皮肉な表情を浮かべた。そのとき、シナンが一足遅れて駆け込んできた。
「こんな事もあろうかと思って、爆薬をつめたボールを作っておきました」
「ほう、それはどんな物かね?」
赤ひげが身をのりだした。
「一個が五百キログラムもあるボールですが、これを投石器で千五百メートル飛ばします。スペイン国王とドーリア長官が乗った旗艦が、港へ入ってくるまでは、鳴りを潜めて待っていて、入ってきたらこれを大量に喰らわせるのです。船にあたらずに海に落ちても、このボールは爆発するように作ってありますから、国王の命にかかわるとなれば、いかな大艦隊でもいったんは港外へ退くでしょう。その間に提督には逃げていただきたいのです」
「ほう、そんな凄いものを作ったのか、ぜひ見せてもらいたい」
シナンは部下に命じて、そのボールを一個運んで来させた。真っ黒に塗られた大きな鉄の玉であった。ごく薄い鉄板で覆われているため、水圧でも爆発するという。
「攻城用の投石器があることは承知していたが、今まで使ったことがなかったな。このボールは何個あるのだ?」
「百個作りました」
「これが船の真ん中に当たったら、ギャリオット船くらいなら、一発で沈むだろうな」
「一番大きな旗艦でも、十発当たれば沈んでくれるだろう、と考えています」
「しかし、投石器というものは相手が巨大な城壁だから、何とか当たってくれるのだが、船が相手ではどうかな」
「あくまでも、提督が逃げるための時間稼ぎとしか考えておりません」
「よしわかった。まずやって見ようではないか。そして、逃げるときはみんな一緒に逃げるのだ。隣町のボナには、こんなときの用心にと思って、ギャリオット船の小さな艦隊を用意しておいたから、夜陰に紛れたら逃げきれるかもしれない」
三台の投石器が、港を見下ろす小高い丘の上に据えつけられた。海上からは見えないように遮蔽物も設置された。晴天に恵まれ、海は穏やかで海上から見るチュニスの町は美しかった。海賊に占領されたとはいえ、住民はキリスト教徒であり、数千名の同胞が奴隷として繋がれている町である。
連合艦隊もやたらに大砲を撃つわけには行かないため、海賊からの攻撃待ちを余儀なくされているが、数にものを言わせて艦隊はチュニス港へ続々と入ってきた。大小六百隻にのぼる艦隊はさすがに壮観であった。国王の座乗する旗艦はその中央に陣取って、はっきりそれとわかるスペインの国旗を翻していた。
「旗艦だけを狙うのだ。充分に引きつけて思いきり連射で行け!」
シナンは部下にそう命じて、天才的な勘で距離を測っていた。海賊からの攻撃がないので、陸上から他国へ逃げ去ったものと考えて、艦隊は次第に大胆になって陸地に近づいてきた。シナンは丘の上から旗艦をじっと睨んでいたが、やがて長剣を抜き放って高々と構えてから振りおろした。三箇所の投石器から鉄球が同時に飛んだ。二発は海におちて、恐ろしいほどの爆発音とともに二、三十メートルに達する高い波を作りだした。一発は旗艦の前をゆっくり走ってきたガレー船の舳先にあたって、大爆発を起こした。
艦隊の動きが一瞬止まった。動きが止まったのでさらに狙い易くなった。つづいて三発が、旗艦のすぐ傍の海面で巨大な爆音と高波をつくり、艦内は大騒ぎになった。飛んできたのが巨石ではなく、爆薬がぎっしり詰まった、巨大な鉄球であることを悟った提督ドーリアは、艦をすぐさま旋回させて、港外へ避難すべく全力で走り出させた。丘の上を目がけて大砲を撃ち捲りながら、ほかの艦もあわててそれに追随してバックして行った。要塞からは艦隊の後方を大砲が追撃した。
連合艦隊は、結局三日間をロスしてようやく港へ入ることができたが、チュニスの町に海賊は一人も残ってはいなかった。数千名にのぼるキリスト教徒の奴隷が解放された。奴隷にされていた人々は、解放された喜びと海賊に対する鬱憤をチュニスの住民に向けた。野に放たれた野獣の群れと化した男たちは、三日間に亘って町を略奪してまわった。強盗、強姦、殺人まで頻発した。キリスト教徒が同じキリスト教徒を、敵のように扱う姿を目のあたりにして、カール五世は言葉もなかった。
「人間とは、なんというあさましい動物なのだ。キリストの教えは、一体なんだったのだ。こんなひどいことがあり得て良いものなのか」
国王はドーリアに嘆いた。
「海賊のほうがましです。彼らは強奪はしますが、女を寄ってたかって強姦するようなことは決してしません。人間としてのプライドを持っているからです。そして、女を一個の人間として見ているからです。海賊を追いはらって、チュニスの町の人々に感謝されるどころか、逆に恨みを買ってしまいました。陛下、この町に長居は御無用です」
「わしもこの町にはいたくない、すぐに帰国しよう。ところで、ハッサン国王は戻ってきたのか?」
「昨日戻ってまいりました。ここへお呼びいたしますか?」
「いや、提督から話をしておいてもらおう。毎年年貢をきちんと支払うようにとな。わしはあのハッサンという男も、あまり好かんのじゃ。赤ひげが来たら、住民を置きざりにして、一族だけをつれて真っ先に逃げおったそうではないか」
「私も以前から見知っておりますが、彼の父親と同じでその程度の男です。私から話をしておきましょう」
「頼んだぞ。それと、赤ひげを追いかけて、奴の息の根をとめてくれ。あ奴が生きておったのでは、わしも気の休まるときがないのだ」
「かしこまりました。私の生涯かけての仕事にいたします」
国王は、ドーリアに二百隻の連合艦隊をあたえ、自らは、四百隻にのぼる無敵艦隊を率いて帰国した。赤ひげを追い払いチュニスを取り戻して凱旋した国王を、スペイン国民は歓呼の声をもって迎えた。国王自らの親征によって国威を発揚したのであるから、国民がよろこんだのは当然であった。国王も敢えてチュニスの惨状を国民に知らせなかった。
一方、ボナからこっそり逃げ出した赤ひげは、三十隻のギャリオット艦隊を率いて、スペイン領のミノルカ島へ向けて航行中であった。
「提督、スペイン国旗の用意ができました」
シナンが部下に、数十本の国旗を運ばせてきた。
「おう、できたか。これを掲げればミノルカ島の連中は、われわれを無敵艦隊の一部と思いこむだろう。連中を騙すのは後ろめたい気持ちだが、われわれも主力艦隊を失ってしまったのだから、敵から取り戻すしか方法がないのだ。早速掲げさせてくれ。もうそろそろ、ミノルカ島のマオン港につくころだ」
案の定、マオン港ではスペイン国旗を見て、無敵艦隊の一部が海賊に大勝して、凱旋帰国の途中に立ち寄ったものと思い込んで、要塞からは祝砲が轟いた。この返礼に、赤ひげ艦隊からは弾丸と矢が一斉に飛びだした。積荷を満載して停泊中の数十隻にのぼる大型のポルトガル船が、あっという間に赤ひげ軍団に占領され、驚くほどの早さでマオンの町が乗っとられてしまった。
後でこの事件を知ったドーリアは、地団太を踏んで口惜しがったが、その後の赤ひげの行方を掴むことができなかった。赤ひげは合計百隻にものぼる船団を率い、大量の商品と六千人をこす捕虜を伴ってイスタンブールに向かった。スレイマン皇帝はチュニスを失ったことに落胆していたが、赤ひげの凱旋を見て驚くと共に、彼のあざやかな手腕に賞賛を惜しまなかった。皇帝は大宰相イブラーヒムを呼んだ
「スペイン国王は、自ら六百隻の大艦隊を率いてチュニスを奪還したが、その後提督ドーリアに二百隻の連合艦隊を与えて、赤ひげを追跡させているそうだ」。
「カール五世も、とうとう本気で怒り出しましたな。赤ひげも少しやり過ぎたのですよ」
「赤ひげは、わが国のために大きく貢献してくれた。このまま放置したら、ドーリアの大艦隊にやられてしまうかも知れぬ。そこで、わしは以前から考えていたことだが、この際赤ひげを、わがトルコ海軍の連合艦隊司令長官に、任命したいと思うのだが、どうだろう」
「陛下、お気持ちはよく分かりますが、わが海軍に人材がいない訳ではありません。赤ひげを救うことと、わが海軍を強くすることは別問題であります。提督ドーリアがどれほど優秀か知りませんが、わが海軍にドーリアに対抗しうる人材がいない、と決めつけてお考えになるのは、早計ではございませんでしょうか」
「わしは赤ひげを救いたいから、長官にしようというのではない。彼ほどの人材がほかにいないから、放置して赤ひげを失ってしまっては、国家の損失になると考えているのだ」
「陛下が赤ひげを高く評価されるお気持ちはよく理解できますが、ここは冷静にお考えいただきたいのです。海賊を司令長官に据えたならば、まず世界各国の笑いものにされる恐れがございます。それに国民が怒り、あるいは陛下を笑いものにするかもしれません。私にはそれは耐え難いことです。どうかご再考をねがいます」
「世界各国や国民がわしを笑いものにするのは、赤ひげがわが艦隊を率いて敗れた場合であろう。しかし、勝てば官軍のことわざ通り、わしの英断をほめそやすであろう。イブラーヒム、戦いというものはすべてそうしたものなのだ。いかに周到な計画や作戦を立てても、負ければすべてが泡になる。いかにしたら勝てるか、勝つためには何をどうすることが最善なのか、それを考えることがわしとそなたの役目であろう」
「ごもっともでございます」
大宰相は頭を下げた。言い出したらきかない皇帝の性格はよく承知している。独裁者ではないが、自分の頭脳と力量に絶対の自信をもっているため、とことんまで自説を主張することにきまっているので、ここらで折れあった方が得策、と頭を下げることにしたのである。
「わが海軍に人材がいない、とは申さぬが、赤ひげはわしの見るところでは、最高の人材であろう。高齢に達してはいるが、健康は問題ないし、頭脳もますます明晰だ。第一、彼ほどのキャリアをもつ人間は他にはいない。イブラーヒム、わしは彼のもっている運のよさに、賭けてみたいのじゃよ。戦いというものは、実力がすべてではない。運のわるい奴は実力を発揮できない。わしの見るところでは、赤ひげという奴は最高の運をもっているな。どうだイブラーヒム、奴に賭けてみようではないか」、
「よくわかりました。さっそく明朝、赤ひげに伝えましょう」
赤ひげに異存は勿論ない。大艦隊と選びぬかれ、鍛えぬかれた将兵を与えられたのである。海賊を志願する、ならず者たちを使うには、利と力とをもってしなくてはならないが、海軍の将兵は国家のために命を投げ出そうとする、崇高な魂をもった人々である、と一応は考えてよい。完全武装した超大型ガレー船は、今までの海賊船にくらべて数段戦いやすい。しかも、常時百五十隻以上の大艦隊である。この大量の船舶と将兵を自分の意思ひとつで、自由に動かすことができるのである。
「長生きしてよかった」
と、つくづく思う。海賊になってすでに六十年の歳月が流れている。死んだ兄ウルージを時折思いだすが、今日のこの栄誉をともに分かちあえたら、と思うと、涙が溢れてくるのを禁じえなかった。
「無敵艦隊との戦いに命をかけよう。戦いはむろん勝たねばならないが、自分は敵の弾に当たって、甲板に倒れてもいい」
と彼は考えていた。プレヴェザ沖の大海戦の際に、彼は旗艦の甲板上で指揮をとりつづけた。すぐそばで大砲の弾が炸裂しても、彼は一歩も動かずに、敵の前に全身を曝し続けたのは、この決意があったからこそであった。
大宰相イブラーヒムの身に災厄が降りかかったのは、赤ひげが長官に指名された直後であった。ジュリア・ゴンツァーラを捕え損なったことが、イブラーヒムの寿命をちじめることに繋がるとは、さすがの赤ひげも考えがおよばなかった。スレイマン皇帝の第一夫人ロクセラーヌの権勢欲と嫉妬ぶかさは、いつしかイブラーヒムを邪魔者とみなすようになっていた。自らが権勢を振るうためには、イブラーヒムはあまりにも有能すぎるのである。
娘のミフリマの婿であるアヤスを大宰相に昇格させれば、彼は従順で大人しく、イブラーヒムにくらべれば凡庸な頭脳だけに、忙しすぎる皇帝の分身としてみずから腕を振るうことができると考えた彼女は、イブラーヒムの殺害を計画した。彼女が最初にとった行動は、皇帝の耳にある事ない事、大宰相の悪事を吹きこむことであった。
「外国の使節たちは、本来皇帝に差し出すべき土産物を、大宰相に渡してご機嫌をとりむすんでいる」
「皇帝の承認を経ずに、内外の諸問題を独裁している」
「外国の使節に対して、皇帝の首のすげ替えをするくらいの力を、自分はもっているなどと吹聴している」
「イエニチェリ(特殊親衛隊)を動かして、皇帝を廃位して自分が皇帝になろうとする動きが見える」
などである。さすがに皇帝は、ロクセラーヌの言に耳を貸そうとはしなかったが、何度も聞かされているうちに、多少の疑問をもつようになったことは、事実であろう。自分に対しては慇懃な態度ではあるが。たしかに独断的な行動が目立つのである。ロクセラーヌは、皇帝の心理の微妙な変化をじっと見すえていた。ロクセラーヌはあだ名で、「ロシア女」の意味である。本名はアレクサンドラ・フルレム。出自は不明である。シナンはアクの強い女だと評したが、策謀をもって第一夫人ギュルバハールを退けて、第一夫人にのし上がったことは事実らしい。
スレイマンとの間には、四人の息子と一人の娘をもうけた。ずば抜けた美人だったといわれるが、残された絵はいずれもきつい表情に描かれている。快活夫人とよばれ、音楽に才があったといわれる。ロクセラーヌは、皇帝の心が微妙に揺れ始めたことを見透かすと、行動を開始した。最初は毒殺しようとしたが、用心深いイブラーヒムに対しては無理、と悟って諦めた。
次に考えついたことは、宮廷に養われている唖者を使うことであった。口がきけず、しかも文字を教えられていない彼らは、真実を他人に告げる心配のない都合のよい存在であった。ある晩、宮殿の一室で熟睡している大宰相に、十人の唖者を差し向けた。イブラーヒムは、刃物をもった十人の敵を相手に勇敢に戦ったが、助けを求める余裕を与えられずに一命を落とした。
一五三六年二月のことであった。大宰相としての十三年間におよぶ栄華は、一瞬にして幕が降ろされた。彼の寝室の壁には、血痕が何年後にも見られた、と言われる。皇帝は第一夫人を疑ったが、確たる証拠がないために、事件は迷宮入りになってしまった。オスマン帝国にあっては、地位の世襲制は存在しなかった。子孫は何人かいたが、一からの出直しを余儀なくされた。
彼の死後、第一夫人の推薦によって、娘婿のアヤスが大宰相に登用された。彼もイブラーヒム同様、ヴェネツィアとは友好関係を保ってゆく考えをもっていた。しかし、トルコとフランスの接近が、ヴェネツィアを離反させる結果となった。フランスはヴェネツィアに対して、トルコ・フランス同盟に加わるよう説得に努めたが、フランスとの経済的な権益をめぐる衝突のため、ついにキリスト教国側へ接近していった。
ある日、赤ひげは幹部を集めて重大決意を表明した。
「わしは、ぺニョン島の要塞をいつまでも許しておくことができない。スペインが作った要塞に睨まれていて、アルジェの港を自由に使用できないようでは、今後の大きな発展はのぞめない」
海賊船はアルジェ港に入港したとはいっても、実際はぺニョン島の要塞から少しはなれた港を使用することを余儀なくされていたのである。アルジェの市街地へ荷物を運び込むためには、馬やらくだを使って、余分な労力と手間賃をかけなくてはならない。ぺニョン島は堅固な要塞に囲まれていて、これを陥落させるためには、多大な犠牲を覚悟しなくてはならないことと、これを陥落させることによって、スペインの報復を恐れねばならなかった。赤ひげは続けた。
「ぺニョン島を落とせば、おそらくスペイン国王は怒って、大艦隊を派遣してくるだろう。しかし、いずれスペインとは本格的に事を構えなくてはならないのだし、そうなればスレイマン皇帝も力を貸してくれるはずだ。とは言っても、わしはまだトルコ海軍の司令官の一人にすぎない。今はわれわれの力だけでスペイン軍と戦わねばならない。賭けではあるが、大きな戦いの前にぺニョン島を確保しておきたいのだ。みんな、やってくれるか?」
幹部たちは全員が賛成だった。
「目の上のたんこぶは、はやく切りとった方がいい」
「カール五世が怒って、二百隻の艦隊で攻めてきたら、逃げればいいさ」
「イスタンブールに逃げこんで皇帝に助けを求めれば、海軍を出してくれるだろう」
「われわれを無駄死にさせたのでは、皇帝も損をするから、必ず助けてくれるさ」
赤ひげの力量を信頼している彼らは、みな楽観的だった。
「よし、では手筈については、シナンから説明してもらおう」
赤ひげは、後をシナンに任せて部屋を出た。ぺニョン島の守備兵は千五百人と少なく、島そのものも小さいため、補給がストップしさえすれば弾薬と食料がすぐに尽きるものと考えられた。しかしやってみると、実際はそう簡単なものではなかった。堅固な要塞を盾に、守備兵は十六日間も抵抗をつづけたのである。その十六日間は昼夜を分かたずに砲撃を加えたので、守備兵は不眠不休の戦いを強いられた。
十七日目に、赤ひげは千二百名の突撃隊を上陸させた。島の守備隊は約半数に減っていた。しかも、約半月にわたる過酷な重圧は彼らをほとんど病人にしてしまっていた。半死半生の状態で出てきた守備兵は全員投降した。赤ひげは、シナンの巧妙かつ慎重な作戦に感謝した。
「わし一人で考えた作戦だったら、兵を相当程度損じたであろう。お前はわしより気が長い。わしも今回はいい勉強をさせてもらったぞ」
「要塞は徹底的に破壊しましょう。二度とあんなものは作らせてはなりません」
「そのとおりだ。これで初めてオスマン帝国の領地になった、という実感だな」
「今まではなんとなく、仮の領地という意識でした。何かこう、借金をしているような感じでしたね」
「借金とはうまいことを言うな。大金を借りていて、いつ家を追い出されるかわからない心境とは、こういうものなんだろうな」
二人は顔を見合わせて笑った。
「しかしこれからは、大家さんが見回りに来るでしょうから、警戒は怠れません」
シナンが真顔に戻って言い添えた。ぺニョン島が陥落して二週間後に、要塞を増強するための兵隊と食料、弾薬などを満載した輸送船九隻がやってきた。驚くべきことにこの二週間の間スペインには、ぺニョン島のことが何も伝わってはいなかったのである。海賊たちは待ってましたとばかりに九隻を取り囲んで、二千七百人の乗員ともども捕獲してしまった。アウトローの面目躍如である。
赤ひげは、要塞を徹底的に破壊して巨大な防波堤をつくるよう、シナンに命じた。シナンはスペイン兵を中心とするキリスト教徒の奴隷を使役して、一年近くの歳月をかけて防波堤を完成させた。
八十一歳になった赤ひげは、健康そのものであった。平均寿命が極端に短かった時代である。わが国では、織田信長の時代が始まる頃の年代にあたる。酒が強く、毎晩のように宴会をやっても疲れを感じないという、側近たちがあきれるほどの体力を保持していた。春がきて海が穏やかになってくると、赤ひげは猟に出たがった。
参謀シナンは彼の体を気遣って止めさせようとするが、一向に耳を貸そうとしなかった。うららかな春の日差しを浴びて、六十隻の艦隊がアルジェを出港した。目指すのはメッシナ海峡である。メッシナ海峡とは、イタリア半島の最南端部とシチリア島の間を指す。スペイン、フランス、ジェノバ、ローマなどの船舶が、アドリア海の奥に位置するヴェネツィアをめざす場合など、通らざるをえない航路にあたるため海賊の恰好の猟場となっている。赤ひげはシナンを呼んで話しかけた。
「公爵夫人のジュリア・ゴンツァーラという美人がいるそうだが、知っているかな?」
「知ってますとも、イタリア随一の美貌をうたわれた美女ですから。イタリアでは二百八十人もの詩人が、彼女の美しさをたたえる詩を作ったほどです。」
「知らない男はいないか・・・、この女を手に入れたいと思うが、どうかな?」
「なるほど、提督夫人にしますか?」
「実は、イブラーヒム大宰相から頼まれたのだが、ジュリアをスレイマン皇帝に献上してくれないか、というのだ」
「ほう、何でまた」
「皇帝の第一夫人ロクセラーヌが皇帝の寵愛をいいことに、政治に嘴を突っこんできて、やりにくくて困っているので、ジュリアを捕えて献上すれば、愛情が移ると考えたようなのだ」
「なるほど、それは名案かもしれませんね」
「とくに困るのは、ヴェネツィアと戦うことを、皇帝につよく主張することだそうだ」
「ヴェネツィアとは、曲がりなりにもうまくやって来ているじゃありませんか」
「大宰相の並々ならぬ努力の賜物だと思うのだが、あのかみさんは欲張りで、ヴェネツィアを征服すれば、計り知れないほどの富が手に入ると考えているようだ」
「それは分かりますが、ヴェネツィアを倒すには、オスマン帝国もそれなりの犠牲を覚悟する必要があります。もし全面戦争になれば、ヴェネツィアと仲の良くないジェノバも協力するかもしれないし、ローマ教皇も黙ってはいないだろうし、チャンスとばかりにスペイン、ドイツも参戦してくるかもしれません」
「そのとおりだ。大宰相はそれを懸念して、わしに頼んできたのだ」
「女を攫うことは、皇帝はご存じないことなのですね?」
「もちろんだ、皇帝はそんな人じゃない」
「大宰相の命令だと知ったら、ロクセラーヌは何をするか分かりませんよ」
「あくまでもわしの一存で、やったことにしておかなくちゃならん」
「大宰相は、提督と同じギリシャ人だそうですね」
「そのよしみもあるが、彼はわしを強く押してくれている。もっとも、表面と腹の底は別かもしれんが。それはともかくとして、何とかしてイタリア一の美女を捕えて、大宰相の期待に応えたいものだ」
「提督に連合艦隊の司令長官になっていただくためにも、全力を尽くしましょう」
「うむ、わしも一度はオスマン帝国の海軍を指揮してみたいし、スペインの無敵艦隊と真っ向から勝負をしてみたいと思っている」
「早速、ジュリアの居所を調べさせましょう。しかしジュリアを攫ったら、イタリア中の男どもが怒り狂うでしょうな」
「怒るだろうな。しかしイタリアの男どもは、怒っても怖くないな」
「歴史的に見ても、ドイツとスペインは国民性が強くて、イタリアとフランスは優しいですね」
「個人はどこの国も同じだろうが、指導者の違いなのか、それとも文化の違いなのか」
「その国に長年住んでみないと、正確な答えは無理かもしれません」
六十隻にのぼる赤ひげ艦隊はメッシナ海峡を越えると、ジュリア・ゴンツアーラの住むフォンディの町へ直行した。フォンディの町は、ローマから少し南に下ったところにある風光明媚な沿岸都市である。ジュリアは広大な森に囲まれた屋敷に住んでいた。深夜を選んで、屋敷を囲んで一気に襲いかかったのであるが、ジュリアは地下通路から下男の馬で逃げてしまった。
森が広すぎてどこからどこまであるのか、海賊には見当がつかなかったことが失敗の原因、と考えられた。後日、街のうわさを小耳にはさんだ赤ひげは、腕を組んで考えこんだ。街の噂は、山の中を逃げまわるうちに、ネグリジェ姿のままのジュリアを、欲望をこらえかねた若い下男が暴行したために、フォンディの町に戻ってから下男が死刑に処せられた、というものであった。
「下男もジュリアも気の毒だったなあ,もうこういうことはよそう」
とつぶやいた。二日間の捜索で諦めた赤ひげはフォンディの町を離れると、メッシナ海峡で数隻の商船を拿捕し、数百人を捕虜にして溜飲を下げていた。上機嫌の赤ひげに、ドラグートが話しかけた。
「提督、スレイマン皇帝へのお土産に、チュニスを占領してはいかがでしょう」
「うん?」
赤ひげはけげんそうな顔をした。
「ジュリア・ゴンツァーラより、もっと大きなお土産です。これなら大宰相も、提督を司令長官に昇格させることに、同意してくれるでしょう」
チュニスは、積荷の売り捌き市場としてその価値を認めていたが、もともとスペインの領土であり、シチリア島とならんでスペインが、地中海における足場として最も重視している拠点である。チュニスを奪えばスレイマン皇帝は大喜びであろうが、スペインの報復は当然大がかりなものとなるであろう。
「この艦隊をもって襲えば、チュニスを奪うこと位訳はないのだが・・・」
さすがの赤ひげも即答はできなかった。
「スペイン国王の報復を、覚悟した上でなくてはできない相談だが、その点はどう考える?」
「すぐに無敵艦隊にやってこられたら、逃げるしか方法はありませんが、それまでにトルコ海軍を握ってしまえば、五分と五分だと思います」
「報復をすこし先だと見るなら、賭けをする手もあるが、ここは考えどころだな」
翌日赤ひげは、シナンとアイディン以下の幹部もまじえて会議を開いた。アイディンは賛成したが、シナンは慎重論を唱えた。
「商船を奪うくらいなら、さしたることもないでしょうが、チュニスを奪ったとなると、スペイン国王が怒って大規模な艦隊を出してくるでしょう。それは、あまりにも無謀な賭けといわざるを得ません」
「シナンの言うことはもっともだ」
赤ひげは同調した
「しかし、わしは一晩考えたのだが、国王が無敵艦隊を動かすには時間がかかる。少なくとも年内はないだろう。早くても来春と見てもいいように思う。とすれば、ここは賭けをしてみるのもいいかもしれないのだ」
シナンは赤ひげの表情をじっと見つめた。
「来春までに司令長官の座が来なかったら、どうなさいますか?」
「うん、まあそのときは逃げよう。何百隻もの軍艦が相手じゃ仕方がない」
シナンはそれを聞いて、にっこり笑った。
「人生はいつも賭けの連続です。トルコ海軍の総力をもってしても、無敵艦隊に負けるかもしれませんからなあ」
「そういうことだ。シナンが賛成してくれるなら、思い切ってやってみよう。チュニスのハッサン・ジュニアという王は、父親の死後四十四人の兄弟を全員殺して、玉座を手にいれた男だ。悪い奴をやっつけるのに斟酌はいらんだろう」
チュニス港の沖に艦隊を止めると、赤ひげは使者にハッサン国王に対する降伏勧告状をもたせて小船で行かせた。この勧告文の要旨はつぎのとおりである。
「おとなしく降伏するならば、国王並びに一族はスペインへ送還し、国民には一切の危害を加えない。われわれはチュニスをオスマン帝国の領土とすることだけが目的であって、国民の財産を奪うことは一切考えていない。また、使者を斬った場合は、チュニスの町が廃墟と化す覚悟をすべきである。すみやかに返答されたし。
オスマン帝国海軍連合艦隊司令官バルバロッサ・ハイルッディン」
これを見て、ハッサン・ジュニアは手勢をつれて内陸に向かって一目散に逃げてしまったので、艦隊は一日にしてこの国を占領してしまった。これで、スペインの地中海における拠点はシチリア島のみとなった。この報告を受けたスレイマン皇帝は大喜びであった。皇帝はチュニスを占領したことを、フランスに知らせるべく使節を派遣した。一五三四年十月のことであった。使節団はマルセイユに上陸した。フランス人がトルコの戦艦を見たのはこのときが初めてであった。
キリスト教国とイスラム教国は戦いつづけている。同盟を結んだとはいえ、フランスの敵であるスペインとドイツの敵だから、トルコは味方である、とする論法から、トルコとフランスは近づこうとしているが、国民はすぐには同調しなかった。異様な身なりをして、理解不能な言葉を話し、ブドー酒を飲まない異人たちをみて、国民は恐れ戦いた、と伝えられる。使節団は国王が待つシャテルローに到着し、国王に伴われてパリに着いた。パリでは盛大な歓迎をうけたが、一部のキリスト教徒は使節団に対して背を向けた。
ヨーロッパ中の国々が、異教徒と手を組もうとするフランス国王の挙動に注目している中で、トルコに大使を送ることを決めたときは、フランスに対して疑惑の目と非難の声が集中した。ヨーロッパ世界の裏切り者という印象であった。フランス国王は国民からの批判にも晒された。トルコとの協力関係が国家の利益になるとする主張と、キリスト教徒としての良識を要求する非難との間で、国内世論は大きくゆれ動いた。
八、スペインの無敵艦隊
イタリアの中に、二つの強力な都市国家があった。ヴェネツィアとジェノバである。ヴェネツィアはアドリア海の最奥部に位置していて、商人貴族が独占する商業都市である。この都市国家の繁栄は、海上交易に全面的に依存していた。したがって、海上から小麦粉が入ってこなければ国民は生きて行けない。そのため、戦争が長くつづくと食料の供給が止まってしまうので、ときには外国の貨物船を襲って穀物を横取りすることも辞さなかった。
一方ジェノバは、フランスとの国境にちかく位置する関係で、フランスとスペインの双方から保護される戦略上の要地である。貿易や封建制度のもとで得た所領や、特権などによって富み栄えた貴族階級と、中小商人や手工業などの大衆層との間に、たえず闘争がつづいている都市国家であった。
スペインの無敵艦隊司令長官は、アンドレア・ドーリアである。彼はジェノバの出身で、最初フランス海軍に所属した。一五二二年、彼はプロバンス沿岸でスペイン艦隊を撃破して名をあげた。しかし、フランソワ一世はドーリアを使うことによって、地中海の制海権を手に入れることの意味を、深く理解することができなかった。ドーリアは生まれ故郷のジェノバを深く愛していた。
そのジェノバに対するフランスの態度が良くないことに、彼は腹を立てていた。その上、自分の功績を高く評価しないフランソワ一世に嫌気がさしていた。そこで、決心してスペイン海軍に身を投じたのである。彼はカール五世にジェノバの自治権を認めさせ、フランスを追いだすことを条件にして、スペイン海軍の提督となった。フランスは、海上に覇を唱えることを可能にする、唯一の人材を失ってしまったのである。
ローマ教皇パオロ三世は、ヨーロッパをひとつに纏めるために、新しい軍事同盟の締結に一役買って出た。すなわち、スペイン、ポルトガル、ヴェネツィア、ジェノバ、マルタ島の騎士団、フィレンツェ、ローマ教皇などのカトリック大連合艦隊を編成して、ドーリアの手に委ねた。スペインのカール五世は、赤ひげに奪われたチュニスを奪還するためにこの連合艦隊を派遣することにした。
ローマ教皇がまとめてくれた連合艦隊と、スペインの無敵艦隊も含めて、合計六百隻にのぼる大艦隊を編成したカール五世は、フランスを誘ったが、フランソワ一世は中立を守って動こうとしなかった。チュニスを赤ひげに奪われて、スペインの地中海における拠点はシチリア島だけになってしまったが、東からも西からも脅かされて、シチリア島そのものも存続が危ぶまれる状態になっていた。カール五世はさすがに危機感を募らせて、提督ドーリアを呼んだ。
「赤ひげの行状は目にあまる。どうあっても、あ奴をひっ捕らえて、極刑にしてくれねば気がすまない。今回は、わしも旗艦に乗ることにした」
「陛下が御自ら座乗されるとなれば、兵の士気はこの上なく、高まるでありましょう」
大小合わせて六百隻にのぼる大艦隊は、史上最大であり、兵員は十万人にものぼった。一五三三年春、大艦隊は赤ひげを求めて一路チュニスへ向かった。当初、連合艦隊はローマに向かう、という情報が入っていたため、比較的のんきに構えていたのであるが、方向転換してチュニスに向かっているとの知らせに、さすがの赤ひげも頭を抱えこんだ。
船も兵員も十倍する敵を撃退できる、とは誰も考えないであろう。遠眼鏡で覗くまでもなく、すでにチュニス港の沖合は大艦隊に囲まれて、数十隻にすぎない赤ひげ艦隊が逃げだす隙はなかった。急拠幹部会議がひらかれた。ドラグートが最初に口をひらいた。
「提案したのは私ですから、責任を取らせてください」
「責任を取るって、どうする気なのだ?」
アイディンが目を剥いた。
「連合艦隊の上陸をわたしが食い止めている間に、提督には陸伝いに逃げていただきたいのです」
「たった一万の兵で、どうやって十万の敵を食い止める気だ?」
アイディンは皮肉な表情を浮かべた。そのとき、シナンが一足遅れて駆け込んできた。
「こんな事もあろうかと思って、爆薬をつめたボールを作っておきました」
「ほう、それはどんな物かね?」
赤ひげが身をのりだした。
「一個が五百キログラムもあるボールですが、これを投石器で千五百メートル飛ばします。スペイン国王とドーリア長官が乗った旗艦が、港へ入ってくるまでは、鳴りを潜めて待っていて、入ってきたらこれを大量に喰らわせるのです。船にあたらずに海に落ちても、このボールは爆発するように作ってありますから、国王の命にかかわるとなれば、いかな大艦隊でもいったんは港外へ退くでしょう。その間に提督には逃げていただきたいのです」
「ほう、そんな凄いものを作ったのか、ぜひ見せてもらいたい」
シナンは部下に命じて、そのボールを一個運んで来させた。真っ黒に塗られた大きな鉄の玉であった。ごく薄い鉄板で覆われているため、水圧でも爆発するという。
「攻城用の投石器があることは承知していたが、今まで使ったことがなかったな。このボールは何個あるのだ?」
「百個作りました」
「これが船の真ん中に当たったら、ギャリオット船くらいなら、一発で沈むだろうな」
「一番大きな旗艦でも、十発当たれば沈んでくれるだろう、と考えています」
「しかし、投石器というものは相手が巨大な城壁だから、何とか当たってくれるのだが、船が相手ではどうかな」
「あくまでも、提督が逃げるための時間稼ぎとしか考えておりません」
「よしわかった。まずやって見ようではないか。そして、逃げるときはみんな一緒に逃げるのだ。隣町のボナには、こんなときの用心にと思って、ギャリオット船の小さな艦隊を用意しておいたから、夜陰に紛れたら逃げきれるかもしれない」
三台の投石器が、港を見下ろす小高い丘の上に据えつけられた。海上からは見えないように遮蔽物も設置された。晴天に恵まれ、海は穏やかで海上から見るチュニスの町は美しかった。海賊に占領されたとはいえ、住民はキリスト教徒であり、数千名の同胞が奴隷として繋がれている町である。
連合艦隊もやたらに大砲を撃つわけには行かないため、海賊からの攻撃待ちを余儀なくされているが、数にものを言わせて艦隊はチュニス港へ続々と入ってきた。大小六百隻にのぼる艦隊はさすがに壮観であった。国王の座乗する旗艦はその中央に陣取って、はっきりそれとわかるスペインの国旗を翻していた。
「旗艦だけを狙うのだ。充分に引きつけて思いきり連射で行け!」
シナンは部下にそう命じて、天才的な勘で距離を測っていた。海賊からの攻撃がないので、陸上から他国へ逃げ去ったものと考えて、艦隊は次第に大胆になって陸地に近づいてきた。シナンは丘の上から旗艦をじっと睨んでいたが、やがて長剣を抜き放って高々と構えてから振りおろした。三箇所の投石器から鉄球が同時に飛んだ。二発は海におちて、恐ろしいほどの爆発音とともに二、三十メートルに達する高い波を作りだした。一発は旗艦の前をゆっくり走ってきたガレー船の舳先にあたって、大爆発を起こした。
艦隊の動きが一瞬止まった。動きが止まったのでさらに狙い易くなった。つづいて三発が、旗艦のすぐ傍の海面で巨大な爆音と高波をつくり、艦内は大騒ぎになった。飛んできたのが巨石ではなく、爆薬がぎっしり詰まった、巨大な鉄球であることを悟った提督ドーリアは、艦をすぐさま旋回させて、港外へ避難すべく全力で走り出させた。丘の上を目がけて大砲を撃ち捲りながら、ほかの艦もあわててそれに追随してバックして行った。要塞からは艦隊の後方を大砲が追撃した。
連合艦隊は、結局三日間をロスしてようやく港へ入ることができたが、チュニスの町に海賊は一人も残ってはいなかった。数千名にのぼるキリスト教徒の奴隷が解放された。奴隷にされていた人々は、解放された喜びと海賊に対する鬱憤をチュニスの住民に向けた。野に放たれた野獣の群れと化した男たちは、三日間に亘って町を略奪してまわった。強盗、強姦、殺人まで頻発した。キリスト教徒が同じキリスト教徒を、敵のように扱う姿を目のあたりにして、カール五世は言葉もなかった。
「人間とは、なんというあさましい動物なのだ。キリストの教えは、一体なんだったのだ。こんなひどいことがあり得て良いものなのか」
国王はドーリアに嘆いた。
「海賊のほうがましです。彼らは強奪はしますが、女を寄ってたかって強姦するようなことは決してしません。人間としてのプライドを持っているからです。そして、女を一個の人間として見ているからです。海賊を追いはらって、チュニスの町の人々に感謝されるどころか、逆に恨みを買ってしまいました。陛下、この町に長居は御無用です」
「わしもこの町にはいたくない、すぐに帰国しよう。ところで、ハッサン国王は戻ってきたのか?」
「昨日戻ってまいりました。ここへお呼びいたしますか?」
「いや、提督から話をしておいてもらおう。毎年年貢をきちんと支払うようにとな。わしはあのハッサンという男も、あまり好かんのじゃ。赤ひげが来たら、住民を置きざりにして、一族だけをつれて真っ先に逃げおったそうではないか」
「私も以前から見知っておりますが、彼の父親と同じでその程度の男です。私から話をしておきましょう」
「頼んだぞ。それと、赤ひげを追いかけて、奴の息の根をとめてくれ。あ奴が生きておったのでは、わしも気の休まるときがないのだ」
「かしこまりました。私の生涯かけての仕事にいたします」
国王は、ドーリアに二百隻の連合艦隊をあたえ、自らは、四百隻にのぼる無敵艦隊を率いて帰国した。赤ひげを追い払いチュニスを取り戻して凱旋した国王を、スペイン国民は歓呼の声をもって迎えた。国王自らの親征によって国威を発揚したのであるから、国民がよろこんだのは当然であった。国王も敢えてチュニスの惨状を国民に知らせなかった。
一方、ボナからこっそり逃げ出した赤ひげは、三十隻のギャリオット艦隊を率いて、スペイン領のミノルカ島へ向けて航行中であった。
「提督、スペイン国旗の用意ができました」
シナンが部下に、数十本の国旗を運ばせてきた。
「おう、できたか。これを掲げればミノルカ島の連中は、われわれを無敵艦隊の一部と思いこむだろう。連中を騙すのは後ろめたい気持ちだが、われわれも主力艦隊を失ってしまったのだから、敵から取り戻すしか方法がないのだ。早速掲げさせてくれ。もうそろそろ、ミノルカ島のマオン港につくころだ」
案の定、マオン港ではスペイン国旗を見て、無敵艦隊の一部が海賊に大勝して、凱旋帰国の途中に立ち寄ったものと思い込んで、要塞からは祝砲が轟いた。この返礼に、赤ひげ艦隊からは弾丸と矢が一斉に飛びだした。積荷を満載して停泊中の数十隻にのぼる大型のポルトガル船が、あっという間に赤ひげ軍団に占領され、驚くほどの早さでマオンの町が乗っとられてしまった。
後でこの事件を知ったドーリアは、地団太を踏んで口惜しがったが、その後の赤ひげの行方を掴むことができなかった。赤ひげは合計百隻にものぼる船団を率い、大量の商品と六千人をこす捕虜を伴ってイスタンブールに向かった。スレイマン皇帝はチュニスを失ったことに落胆していたが、赤ひげの凱旋を見て驚くと共に、彼のあざやかな手腕に賞賛を惜しまなかった。皇帝は大宰相イブラーヒムを呼んだ
「スペイン国王は、自ら六百隻の大艦隊を率いてチュニスを奪還したが、その後提督ドーリアに二百隻の連合艦隊を与えて、赤ひげを追跡させているそうだ」。
「カール五世も、とうとう本気で怒り出しましたな。赤ひげも少しやり過ぎたのですよ」
「赤ひげは、わが国のために大きく貢献してくれた。このまま放置したら、ドーリアの大艦隊にやられてしまうかも知れぬ。そこで、わしは以前から考えていたことだが、この際赤ひげを、わがトルコ海軍の連合艦隊司令長官に、任命したいと思うのだが、どうだろう」
「陛下、お気持ちはよく分かりますが、わが海軍に人材がいない訳ではありません。赤ひげを救うことと、わが海軍を強くすることは別問題であります。提督ドーリアがどれほど優秀か知りませんが、わが海軍にドーリアに対抗しうる人材がいない、と決めつけてお考えになるのは、早計ではございませんでしょうか」
「わしは赤ひげを救いたいから、長官にしようというのではない。彼ほどの人材がほかにいないから、放置して赤ひげを失ってしまっては、国家の損失になると考えているのだ」
「陛下が赤ひげを高く評価されるお気持ちはよく理解できますが、ここは冷静にお考えいただきたいのです。海賊を司令長官に据えたならば、まず世界各国の笑いものにされる恐れがございます。それに国民が怒り、あるいは陛下を笑いものにするかもしれません。私にはそれは耐え難いことです。どうかご再考をねがいます」
「世界各国や国民がわしを笑いものにするのは、赤ひげがわが艦隊を率いて敗れた場合であろう。しかし、勝てば官軍のことわざ通り、わしの英断をほめそやすであろう。イブラーヒム、戦いというものはすべてそうしたものなのだ。いかに周到な計画や作戦を立てても、負ければすべてが泡になる。いかにしたら勝てるか、勝つためには何をどうすることが最善なのか、それを考えることがわしとそなたの役目であろう」
「ごもっともでございます」
大宰相は頭を下げた。言い出したらきかない皇帝の性格はよく承知している。独裁者ではないが、自分の頭脳と力量に絶対の自信をもっているため、とことんまで自説を主張することにきまっているので、ここらで折れあった方が得策、と頭を下げることにしたのである。
「わが海軍に人材がいない、とは申さぬが、赤ひげはわしの見るところでは、最高の人材であろう。高齢に達してはいるが、健康は問題ないし、頭脳もますます明晰だ。第一、彼ほどのキャリアをもつ人間は他にはいない。イブラーヒム、わしは彼のもっている運のよさに、賭けてみたいのじゃよ。戦いというものは、実力がすべてではない。運のわるい奴は実力を発揮できない。わしの見るところでは、赤ひげという奴は最高の運をもっているな。どうだイブラーヒム、奴に賭けてみようではないか」、
「よくわかりました。さっそく明朝、赤ひげに伝えましょう」
赤ひげに異存は勿論ない。大艦隊と選びぬかれ、鍛えぬかれた将兵を与えられたのである。海賊を志願する、ならず者たちを使うには、利と力とをもってしなくてはならないが、海軍の将兵は国家のために命を投げ出そうとする、崇高な魂をもった人々である、と一応は考えてよい。完全武装した超大型ガレー船は、今までの海賊船にくらべて数段戦いやすい。しかも、常時百五十隻以上の大艦隊である。この大量の船舶と将兵を自分の意思ひとつで、自由に動かすことができるのである。
「長生きしてよかった」
と、つくづく思う。海賊になってすでに六十年の歳月が流れている。死んだ兄ウルージを時折思いだすが、今日のこの栄誉をともに分かちあえたら、と思うと、涙が溢れてくるのを禁じえなかった。
「無敵艦隊との戦いに命をかけよう。戦いはむろん勝たねばならないが、自分は敵の弾に当たって、甲板に倒れてもいい」
と彼は考えていた。プレヴェザ沖の大海戦の際に、彼は旗艦の甲板上で指揮をとりつづけた。すぐそばで大砲の弾が炸裂しても、彼は一歩も動かずに、敵の前に全身を曝し続けたのは、この決意があったからこそであった。
大宰相イブラーヒムの身に災厄が降りかかったのは、赤ひげが長官に指名された直後であった。ジュリア・ゴンツァーラを捕え損なったことが、イブラーヒムの寿命をちじめることに繋がるとは、さすがの赤ひげも考えがおよばなかった。スレイマン皇帝の第一夫人ロクセラーヌの権勢欲と嫉妬ぶかさは、いつしかイブラーヒムを邪魔者とみなすようになっていた。自らが権勢を振るうためには、イブラーヒムはあまりにも有能すぎるのである。
娘のミフリマの婿であるアヤスを大宰相に昇格させれば、彼は従順で大人しく、イブラーヒムにくらべれば凡庸な頭脳だけに、忙しすぎる皇帝の分身としてみずから腕を振るうことができると考えた彼女は、イブラーヒムの殺害を計画した。彼女が最初にとった行動は、皇帝の耳にある事ない事、大宰相の悪事を吹きこむことであった。
「外国の使節たちは、本来皇帝に差し出すべき土産物を、大宰相に渡してご機嫌をとりむすんでいる」
「皇帝の承認を経ずに、内外の諸問題を独裁している」
「外国の使節に対して、皇帝の首のすげ替えをするくらいの力を、自分はもっているなどと吹聴している」
「イエニチェリ(特殊親衛隊)を動かして、皇帝を廃位して自分が皇帝になろうとする動きが見える」
などである。さすがに皇帝は、ロクセラーヌの言に耳を貸そうとはしなかったが、何度も聞かされているうちに、多少の疑問をもつようになったことは、事実であろう。自分に対しては慇懃な態度ではあるが。たしかに独断的な行動が目立つのである。ロクセラーヌは、皇帝の心理の微妙な変化をじっと見すえていた。ロクセラーヌはあだ名で、「ロシア女」の意味である。本名はアレクサンドラ・フルレム。出自は不明である。シナンはアクの強い女だと評したが、策謀をもって第一夫人ギュルバハールを退けて、第一夫人にのし上がったことは事実らしい。
スレイマンとの間には、四人の息子と一人の娘をもうけた。ずば抜けた美人だったといわれるが、残された絵はいずれもきつい表情に描かれている。快活夫人とよばれ、音楽に才があったといわれる。ロクセラーヌは、皇帝の心が微妙に揺れ始めたことを見透かすと、行動を開始した。最初は毒殺しようとしたが、用心深いイブラーヒムに対しては無理、と悟って諦めた。
次に考えついたことは、宮廷に養われている唖者を使うことであった。口がきけず、しかも文字を教えられていない彼らは、真実を他人に告げる心配のない都合のよい存在であった。ある晩、宮殿の一室で熟睡している大宰相に、十人の唖者を差し向けた。イブラーヒムは、刃物をもった十人の敵を相手に勇敢に戦ったが、助けを求める余裕を与えられずに一命を落とした。
一五三六年二月のことであった。大宰相としての十三年間におよぶ栄華は、一瞬にして幕が降ろされた。彼の寝室の壁には、血痕が何年後にも見られた、と言われる。皇帝は第一夫人を疑ったが、確たる証拠がないために、事件は迷宮入りになってしまった。オスマン帝国にあっては、地位の世襲制は存在しなかった。子孫は何人かいたが、一からの出直しを余儀なくされた。
彼の死後、第一夫人の推薦によって、娘婿のアヤスが大宰相に登用された。彼もイブラーヒム同様、ヴェネツィアとは友好関係を保ってゆく考えをもっていた。しかし、トルコとフランスの接近が、ヴェネツィアを離反させる結果となった。フランスはヴェネツィアに対して、トルコ・フランス同盟に加わるよう説得に努めたが、フランスとの経済的な権益をめぐる衝突のため、ついにキリスト教国側へ接近していった。