どうして、環くんも病院に来ていたんだろう。
誰かのお見舞い?
そんな様子には見えなかった。
もしかして、環くんが背負っているものと関係があるの?
わたしの考え過ぎ、かな。でも、これが偶然だなんて思えない。
「矢崎さん。矢崎莉子さん」
考えに耽っていると、名前を呼ばれた。診察室に入るよう促される。
診察室に入室し、中にいた葉上先生に軽く一礼する。相変わらず白衣が似合っている。
「おはよう、莉子ちゃん」
「おはようございます」
挨拶を返しながら、葉上先生の前にある椅子に腰掛ける。
「左腕に違和感でもあったか?」
「いえ、そうではなくて……昨日の体育で左肩にボールが当たったので、念のため診てもらいたくて」
包帯が取れるのは、再来週の予定だった。それに合わせて、定期検診も再来週に指定したはずだった。
だけど昨日、環くんにあんなに心配かけてしまったから、なんともないことを証明するために今日病院に来たんだ。
葉上先生は「少し触るぞ」と告げて、わたしの左肩を指で軽く押した。角度を変えて、状態を確認していく。
「痛みは?」
「ありません」
「動かしにくいと感じることはあるか?」
「それもありません」
葉上先生の質問に、的確に答える。
肩は、痛まない。
もちろん左腕も。
ただ、環くんのことを意識して、胸がざわつく。霧がかかったみたいにモヤモヤして、混乱してしまう。
「一応左腕も診ておくか」
葉上先生の配慮で、大事をとって左腕の定期検診も行うことになった。
わたしはブレザーを脱いで、シャツの左袖をできるだけ上のほうまでまくり上げた。
包帯も一時的に外された。
ガラスの破片で負った傷の部分を重点的に、左腕を調べ始める。
「莉子ちゃん、恋してるだろ」
「えっ!?」
検診の途中。
葉上先生が唐突に放った発言に、過剰に反応してしまうのは仕方のないことだ。
「な、な、何を言って……」
「お、当たり?」
「ぅえぇ!?」
図星中の図星。ピンポイントで突かれ、間の抜けたリアクションを取ってしまった。葉上先生に笑われるのも無理はない。わたしだってあんな声が出るとは思わなかった。
なんでわかったんだろう。顔に出てた?わたしってわかりやすいの?
「それ、検査に関係あるんですか?」
「いんや?」
「ないんですか!?」
じゃあ、なんで聞いたんだろう。
「検査には関係ないが、莉子ちゃんが悩んでるように見えたから気になってさ」
「え……!」
「これも当たった?」
こくん、と小さく頷く。
以前からだけれど、葉上先生はわたし……というか担当している患者のことをよく理解しすぎている。言葉にしていなくても、全て汲み取られてしまうんだ。
葉上先生がいろんな患者さんに好かれているのも納得できる。良き相談相手に、そして良き理解者になってくれるんだ。
一つ悩みが解決すれば、また一つ悩みができる。
悩みは、尽きない。
環くんの力になりたいのに、何もできていない。むしろ、環くんの負担になっているんじゃないかと、ブレーキがかかる。
前に進むのをやめたくなる、非力な自分が嫌い。臆病な自分が、苦手。
葉上先生が検診しながら、ふっ、と浅く息を吐いたことをわたしは気づかなかった。肩を落とすわたしに、やわく瞼を伏せる。
「あるところに、とても美しい少女がおりました」
「……は、葉上先生?」
葉上先生が紡ぎ出したのは、とある物語……だろうか。
わたしはいきなりのことにびっくりして、目をぱちぱちと数回瞬きをする。
「少女は不治の病を患っていて、自分があとわずかしか生きられないと知り、外の世界に飛び出しました」
あぁ、やっぱり物語だ。何のお話だろうか。
唖然としていた脳内が整理された頃には、夢中になって物語を聞き入っていた。
「そこで少女は一人の少年と恋に落ち、二人は次第に惹かれていきました」
しかし、と。
低くなった声色のトーンとは裏腹に、葉上先生の表情は終始和やかだった。その差が何を示唆しているのか、わたしには読み解けない。
「運命には逆らえず、少女は永遠の眠りにつきました」
亡くなっちゃったんだ……。
ハッピーエンドだと勝手に思い込んでいたから、余計に悲しくなる。
「そして少年は、少女ように病に苦しんでる人を救いたいと決意し、医者になりましたとさ」
え。
医者になりました、って。
それって……!
「もしかして、今の物語……」
「そう、少年っていうのは俺のこと」
つまり、今聞いていたお話はどこかの物語じゃなくて、葉上先生の過去だったってこと?何かの童話だと思ってた。
それじゃあ、今の話は、何のフィクションもない葉上先生の人生なんだ。葉上先生が医者になったのは、一つの恋がきっかけだったんだ。
「話を聞いて、どう思った?」
「バッドエンドにならずに、二人に幸せになってほしかったって思いました」
「そうか」
左腕の検査を終えた葉上先生が、左腕から手を離し、椅子の背もたれにもたれた。重みに負けて、ギィ、と椅子が軋む。
「まあ、結末はバッドエンドだったけど、少女……俺の好きな人も俺自身も幸せだったんだ」
好き“だった”人じゃなくて、好きな人。
葉上先生は、今でもずっと、少女のことを想ってるんだ。きっと、これからも。
なんて一途で、儚い恋なんだろう。
「後悔とか、しなかったんですか?」
「そりゃあ、数え切れないくらいしたさ。振り返ってみれば後悔ばっかりだ」
じゃあ、どうして。
「どうして、ですか?」
「ん?」
「どうして、幸せだったって言い切れるんですか?」
純粋に、知りたかった。
悲しい最期だったのに、今こうやって朗らかに話せているワケを。
だって、それは簡単なようで、ちっとも簡単なことじゃない。幾度も悔いたのなら、なおさら。それなのに、どうして。
「“今”を精一杯生きたからだ」
葉上先生は答えに迷うことなく、真っ直ぐわたしを見据えた。
「そのせいですれ違ったり、苦しんで泣いたりもしたが……うん、やっぱり、そういう後悔も含めて、幸せだったよ」
あぁ、わたしも。
こんなふうになりたい。
逃げて、すくんで、もがいた日々を丸ごと全部抱きしめながら「幸せだ」って。
胸を張って言えるようになる日が、わたしにも来るのかな。
「莉子ちゃんも、」
骨ばった大きな手が、わたしの頭を優しく撫でた。
「“今”を精一杯生きろよ」
胸に熱く灯る。
それは、葉上先生なりに示した、悩んでるわたしへのエールだったのかもしれない。
“今”を、精一杯、生きる。
心の中で、何度も復唱した。
“今”を精一杯生きるって、どういうことなんだろう。
そう葉上先生に聞こうとしたけど、やめた。
自分で答えを見つけなければいけない。
わたしの人生なんだから。わたしがわたしの生き方を見つけて、決めていかなくちゃいけない。
頑張り方すら、まだ手探りで。
明瞭にわかっていない。
それなのに、精一杯生きることはできるの?
どうしたら、精一杯生きたことになるの?
わたしは、“今”をどう生きてる?
わたしを温めてくれたように
君を恋い慕う、この一瞬を
そばで、分かち合いたい。
Ⅴ.【 愛 】
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
診察結果は、異常なし。
バケモノだと噂の異質な左腕は、感覚を奪われたまま、通常運転らしい。
よかったな、と葉上先生は得意げに笑った。次いで、わたしも噴き出していた。
だけどそれは、葉上先生の破顔につられたからではなくて。
説明されたら、わたしの左腕はこんなにも矛盾だらけの不可思議なものだったんだと、改めて再確認したらおかしく思えたからだ。
「ありがとうございました」
わたしは葉上先生に一礼して、診察室をあとにした。包帯を巻き直した左腕を、制服越しにさする。
今では、わたし、こんなに前向きにこの左腕を受け入れて、向き合えている。少し前まで考えられなかったな。
そのきっかけをくれた環くんを連想してしまい、つい苦笑いした。
病院を去り、バスに乗った。最初は満員に近かったバス内は、次第に席が空き始め、下車する二つ前のバス停からは乗車客は数えられる程度になっていた。
次、降ります。
慣れた手つきで降車の合図のボタンを押すと、機械音が流れた。
自然色の豊かな田舎町でバスを降りる。家で昼食を摂ってから学校に行くつもりなので、まずは家を目指した。
家に到着したのは、正午ごろだった。
玄関の扉は、不用心にも鍵はかかっていない。いつものことだ。この町にいる人たちはほとんどが顔見知りのため、鍵をかけてもかけていなくても何ら変わりはないらしい。
「ただいま」
「莉子ちゃん、おかえり」
家に入ると、かっぽう着をまとったおばあちゃんが出迎えてくれた。台所のほうから、香ばしい匂いが漂ってきた。
「ちょうどお昼ご飯できたけど、食べるかい?」
「うん、食べる」
居間のちゃぶ台には、ずらりとお皿が並んでいる。
きのこの混ぜご飯、きゅうりの漬物とたくあん、こだわりの味噌を使ったお味噌汁、揚げたてのコロッケ。
出来立てほやほやの美味しそうなメニューに、お腹がぐうううと大きく鳴る。お腹の虫はもう我慢できないようだ。
わたしとおじいちゃんとおばあちゃんでちゃぶ台を囲み、合掌をして昼飯を食べ始めた。
大好きなコロッケを豪快に一口頬張れば、サクッといい音がした。中身が口の中で熱を持ったままとろける。
おばあちゃんの作る料理は、いつだって温かくて、懐かしくて。
葛藤しつくして、えぐってしまった心臓と涙腺を、刺激する。
「左肩はなんともなかったのかい?」
「うん、異常なしだって」
「そうかいそうかい。よかったねぇ」
おばあちゃんのほっぺが、ほろり、とゆるむ。その笑顔が好きで、大好きで、わたしのほっぺもふにゃりとほぐれた。
葉上先生には診断結果以上に大切なことを教えてもらった。恋の悩みに関するアドバイス……というか、一種の宿題のようなもの。
『“今”を精一杯生きろよ』
何をどうして生きたらいいんだろう。
バスの中でずっと考えていたけれど、結局明確な答えは思いつかなかった。
もし、“今”を精一杯生きられたら、こんな風にくよくよしたりせず、堂々と環くんの隣を歩けるようになるのかな。
「莉子ちゃん」
「なに?おばあちゃん」
「今、好きな人でもいるのかい?」
イマ、スキナヒトデモイルノカイ。
脳が理解するまで、数秒かかった。カタカナで読み取られた言葉を正常に変換する。
お味噌汁を飲んでいたわたしは、つい噴き出しそうになって咳き込んだ。慌てて、お茶を喉に流す。しかしお茶はあっつあつで、舌を火傷してしまった。
い、いひゃい。
「……と、突然、どうしたの?」
「ふふっ。莉子ちゃんがそういう表情をしておったから、ちょっと気になってね」
そういう表情って、どんな表情!?
さっき葉上先生にもバレたし、わたしってわかりやすいの?
自分じゃ鏡がない限り、自分の顔を見れないからわかんないや。でも、たぶん、わかりやすいんだろうな。もしくはこの世にはエスパーが多く存在しているのか。できることなら後者にかけたい。
「わたしたちにもこんなころがありましたね、おじいさん」
「ああ、懐かしいな」
おばあちゃんとおじいちゃんも、そしてお母さんとお父さんも、わたしみたいに恋をしてきたんだ。「好き」を募らせてきたから、今、わたしはここにいるんだ。
そんな当たり前は、本当は奇跡で。
何年経っても、積み重なっていく。
きっと、百年後も。
「二人はお互いのどんなところに惹かれたの?」
火傷を気にしつつ、素朴な疑問を投げかけてみる。
二人はどのような恋をして、結ばれたんだろう。どんなふうに生きてきたんだろう。
わたしみたいに余計なことまで悩んだのかな。胸が痛くなるくらい苦しんだのかな。
「そうだねぇ……」
おばあちゃんはお茶をすすって、ほっと肩を下ろす。背中をゆるく丸めると、おじいちゃんのほうを向いた。
「わたしは、おじいさんの太陽のような笑顔に惹かれたよ」
いたずらに目尻を細めたおばあちゃんは、とても可愛らしかった。ふふふ、とこぼれた笑みには、反すうさせた昔話が含まれているんだろうな。
「おじいさんはこう見えても、昔はいつも元気でね……」
「茜(アカネ)や」
話の途中で、おじいちゃんが遮った。
初めて見た。
おじいちゃんが、おばあちゃんの名前を呼ぶところ。
なぜかわたしがときめいてしまった。
「なんですか、おじいさん」
見つめ……いや、睨み合う二人。
睨み合いで負けたおじいちゃんは、プイッと顔をそらした。
「おじいちゃんは、おばあちゃんのどんなところを好きになったの?」
「……っ」
おじいちゃんは黙々と箸を進めるだけで、応えてはくれなかった。
怒ってるのだろうか。
そんなおじいちゃんを横目に、おばあちゃんはわたしにこっそり耳打ちする。
「照れてるんじゃよ」
え?照れてる?
試しにもう一度、おじいちゃんのほうをチラ見してみる。おじいちゃんの耳たぶは、珍しく赤くなっていた。
「本当だ」
わたしはおばあちゃんと顔を見合わせて一笑した。
二人は愛し合っているから結婚して、今まで仲睦まじく暮らしてきたんだろうけれど、今もずっとお互いがお互いに恋し続けてるようだ。恋と愛は違う。だからこそ、二人はとても幸せで、愛らしく感じる。
すると、おばあちゃんが思い立ったように「そうだ」と声を上げた。
「莉子ちゃん、アルバム見ないかい?」
その提案に、すぐ賛成した。
時間はまだちょっとある。
おばあちゃんとおじいちゃんの若いころの写真とか、お母さんとお父さんがわたしと同い年くらいだったころの写真とか見てみたい。おばあちゃんの話を聞いて、いっそう気になったし。
ご飯一粒残すことなく綺麗に食べ終えてから、おばあちゃんが居間にある棚からアルバムを取り出した。食器を下げたちゃぶ台に、大きくて重いアルバムが広げられる。
「わあ……!」
アルバムの初めのほうのページには、少し黄ばんだ古い写真が保存されていた。写真から鑑みるに、おばあちゃんとおじいちゃんの写ってるものだろう。
あ、この写真、高校生くらいかな。制服姿のおばあちゃんとおじいちゃんが、ピースしてる。
「おばあちゃん美人!おじいちゃんイケメン!」
おばあちゃんもおじいちゃんも、すっごく楽しそうだなあ。
ページをめくっていくと、お母さんとお父さんが産まれたばかりのわたしを抱いてる写真が貼られてあった。カメラ目線ではないが、二人のわたしを見る目が愛しさを物語っている。
その写真の角はどれもよれていて、若干シワが目立つ。まるで、手で握り締めたみたいだ。
先日わたしも保健だよりをそうやってくしゃくしゃにしかけて――あ、もしかして、お母さんとお父さんはこの写真をしばらくの間、持ち歩いていたのだろうか。
もし、本当にそうだとしたら。
こんなところにも愛が隠れていたなんて知らなかった。もう両親の愛が増えることはないと思っていたのに。
あれ?写真の下に何か、薄黒い汚れがある。いや、汚れじゃない。これは小さな文字だ。
『莉子、生まれてきてくれてありがとう』
同じ文章がふたつある。だけど、字は違う。
この字には見覚えがある。今でも憶えている。
お母さんとお父さんの字だ。
「お母さん、お父さん……っ」
涙ぐむわたしの背中を、おばあちゃんが優しくさすってくれた。
こんなの不意打ちだ。泣くに決まってる。
ねぇ、お母さん、お父さん。
わたし、生まれてきてよかった。
わたしの親になってくれてありがとう。
そう、二人が生きていたときに、たくさん伝えればよかった。
もしも天国で見守ってくれているなら、わたしの気持ちを受け取ってね。あふれんばかりの感謝を。伝えきれなかった愛を。
気づけばついに、このアルバムの最後のページとなっていた。
そこには他の写真より一回り大きなサイズのものが飾られていた。八年前、近くの小さな公園にある大きな桜の木を背景に、家族みんなで撮ったんだ。
“あのときの少年”に会った、その前日に撮影した家族写真。
まだ九歳だった幼いわたしと、お母さんとお父さんと、おばあちゃんとおじいちゃん。
みんな、笑ってる。
桜色に彩られながら。
写真を指先でなぞる。
懐かしい。
もう戻らない、かけがえのない思い出。
「あ、れ?」
その写真に写る、一人の通行人に目が留まった。たまたま公園の目の前の道を歩いてるときに写り込んでしまったのだろう。
おばあちゃんに一言ことわって、アルバムから八年前の写真を抜き取る。その通行人をじっくり凝視した。
……間違いない。
桜の木の奥を紛れるように、けれど確かに写っている。
“あのときの少年”が。