俺と過去と小さな天使

 正面には勿論、金髪+四人がいる。
「たぁ~。感動の別れだったなぁ、おい。涙がでてきたぜ」
 わざとらしく、大げさに泣き真似なんかしやがる。
「さて、どうすんだ金髪。一気に来るか?」
「女みたいな顔して意外と好戦的じゃね~か」
「顔は関係ないし、好戦的でもない」
「じっくりいたぶってやるからよ、まずは一対一だ。まあ無理だと思うが、抵抗してみろよ」
「そうさせてもらう」
「いい返事だ。よし、お前行け。最初だからかるーくしてやれよ?」
 最初の相手はモヒカン。下品に「へへへっ」と笑うと、指をバキバキ鳴らしながら歩み寄ってくる。
 一目見ただけで分かる。こいつは、こいつ等はケンカ慣れしてやがる。それに対して俺はケンカなんて一度もない。格闘技だって観たことないレベルだ。
 最初から結果なんて分かっている。もちろん俺のストレート負け。だから一気に、なんて言った。
 でも……俺は、一発だけはお返しをしないといけない。もちろん、二人に怖い思いをさせた分だ。
 だが……素人の俺がそれを実行するには、ある条件が整わないといけない。で、その条件を満たすため、俺はノーガードで突っ立っている。
「? 何やってんだ?」
 当然、モヒカンは不思議そうな顔をする。だが、それも一瞬のこと。ヤツはニヤリとし右拳を作った後、ゆっくりと腕を引き――俺にパンチを打ち込む。
「おらぁ!」
「がっ!」
 左頬を、激しい痛みが襲う。
 覚悟していたものの、気を抜くと首ごと持っていかれそうな威力。慣れていない俺にはなおさら堪える。
 しかし――。この瞬間こそが条件!
 俺は殴られる前から準備していた右拳に力を込め、全力でモヒカンの頬に叩き込んだ。
「ぐぽっ!?」
 恐らく、油断していたのだろう。モヒカンは悲鳴にも似た声を上げると、ヨロヨロしながら数歩下がり、崩れ落ちた。
「…………」
 起き上がる気配がない。倒したのだ。
「お、おいっ」
 自分で殴っておいてなんだが、声をかけてしまった。さすがに死ぬことはないが、大丈夫なのだろうか。
 仰向けにしてやってもいいが、あいつらが勝手にするだろう。そう思っていた。が、だ。アイツらはなんと、笑っていた。
「ひゃはは。見たかよ? 『ぐほっ』だぜ」
「いやいや。ありゃ『ぐぽぅ』だった」
「そーかもなっ。しっかし、アイツもよえーなぁ」
 ……なんだ、コイツらは。
 俺の目には、この光景が異常に見えた。どうして仲間がやられたのに笑っていられる。どうして、楽しそうにする。
 俺には、苦痛にしか感じない。殴られてジンジンしている左頬より、心が痛い。
「……なあ。お前達は、仲間じゃないのか?」
 無意識に、そんな言葉が出ていた。
「あ? よえーやつは仲間じゃねぇよ」
「……そうか」
「なんだその面、あんま調子に乗ってんじゃねーぞ! たく、このバカは邪魔だから誰か引っ張って来い」
「あいよ~」
 奴の合図でモヒカンがずるずると引きづられ、空き地の端へ捨てられた。まるでゴミを扱うように。
「はぁー、仕方ね~な。次はお前行け。あれ、使っていいぜ」
「おう。OK~」
 次の相手――スキンヘッドが金髪の後ろに置いてあった黒の大きなバッグを開き、中から『あれ』を取り出した。
「コイツを使うのは、久しぶりだ」
 コンコンと叩くと空き地に響く金属音。『あれ』とは、金属バットのことだった。
「さ~て、てめぇの言う『仲間』のあだ討ちだ。覚悟しとけぇ」
 見せ付けるように地面に振り下ろす。すると鈍い音と共に、地面にめり込んだ。
「……っっ。なんだよそれ」
 おもわず、一歩後退してしまう。
 まさか、ケンカで武器が出てくるとは思わなかった。しかもソレはところどころへこんでいて、こいつらは普段から使ってやがる……っ。
「お、どうした? こないのか?」
 振りかぶったままじりじりと距離を詰めてくる。それにあわせて俺も、後退する。
 こいつは、ヤバイ。俺の中の危険センサーが鳴り響いている。
 金属バットなんてのを腕でガードしたら骨の一、二本は覚悟しないといけないだろう。おまけに、それでも止められる可能性はない。
 となると、避けるしかないのだが……。スキンヘッドは扱いが慣れていて、スイングが早い。数回は避けれても、いずれ当たってしまう。
(逃げる……)
 という選択肢は、ない。
 もし逃げたら明日以降、愛梨達が酷い目に遭う。こういうヤツらは絶対に待ち伏せすると、俺が経験済みだ。
「おいおい、どうした? 逃げるのか?」
 くっ、どうする……。どうする……っ。
 何かっっ。何か、この状況を打破できることが――
「右に跳べっ!!」
 不意に、声がした。
 それが誰が言ったのか、分からない。もしかすると、罠かもしれない。
 けれど俺は直感に従い、即座にその方向に跳ぶ。
「今のはっ。一体なんなんだっ?」
 着地した直後、俺は急いで周りを見た。すると――数秒前まで自分が居た場所を、高速の自転車が通過。そのままスキンヘッドにぶつかった。
「ごべっ! ふがぇ……っっ!」
 スキンヘッド野郎は抵抗もできず、ただ自然体で後方へ飛ばされる。そして音を立てて地面を滑ったあと沈黙し、さすがに今回は金髪達が駆け寄っていった。
「こ、これは……? 何が、どうなったんだ……?」
「いや~。クリティカルヒッツ!」
 呆然としている俺の横に自転車が止められ、一人の男が降り立った。その男は、俺がよく知る人物。
「ま、正樹?」
「はい。正樹でございまーす☆」
 悪友でクラスメイトの、木本正樹だった。
「…………。…………」
「およ? どうしたよ?」
 正樹に3回肩を叩かれて、ようやく戻ってこられた。
「ちょっ! なんでお前ここにいるんだ!?」
「いやぁ~。キュートな子達に、ヘルプを要請されたから来たってわけよ。まあ僕も、修がいるとは思わなかったけどね。あの子、『おにーちゃんが……』って言ってたしさ」
 そっか。愛梨達が……。
「ん? でも、お前の家ってここと反対だろ。どうして近くに居たんだ?」
 正樹の家は、ここから結構離れている。なぜにここにいる?
「いや~。修にDVDを返すの忘れてて、家に行ったんだけど留守でさ~。もしかして寄り道とかしてるんじゃないかな~て思って、来た道とは別ルートで進んでたってワケさ」
 なるほど。だから、愛梨達と会うことができたのか。
「しかし、修も困ったさんですなぁ。何をやってたんだい?」
「ああ。それなんだけ」
「てめえ何者だ!?」
 俺の声を遮り、金髪が叫んだ。
 その様子はまさに怒髪天を衝くで、目は禍々しく剥かれている。
「あ、こんにちは。僕は木本正樹です。どうぞよろしく」
 悪友は、爽やかに自己紹介を行う。
 こ、コイツは……。空気が、読めないのか?
「なっ。オメーは、この野郎の仲間なのか?」
「修は僕の相棒なんで、答えはイエス。そういうことになるね」
 相棒って。恥ずかしいことを言ってくれるじゃないか。
「…………そうかよ。じゃあ二人まとめて、ぶっ殺したってかまわねぇな? おい、てめぇら!」
「「おうよ!」」
 残り三人が、バット、竹刀、鉄パイプを握る。
「手加減なんて、しねぇ。骨どころじゃ済まさねーからなぁ」
 全員が、本気。殺す気、満々でいる。
「はぁー、仕方ないな。修、僕も助太刀するよ」
「すまない。でも、無理は、する……な……ぁ?」
 俺は、愕然とした。
 隣で正樹は片足を上げ、両手を真上に伸ばす変な構えを取っているのだ。
「お、おい。それ何?」
「これは『鶴の構えその1』だぜぃ。これは格ゲーで、強くて可愛いオススメの女の子が使う技だっ!」
 そ、そか。
 ただ、強くて可愛いを強調するのは止めて欲しい。
「さあ修っ。共に戦おうぞ!」
「……いや。正樹、アンタはやっぱり逃げて」
 この人、ダメ。俺よりケンカは不向きだわ。
「へ? なんで?」
「だって、お前さ。ケンカしたことないよね?」
「もち」
 だよねぇ。
「だったら、お前にまで迷惑はかけられない。時間を稼ぐから逃げろ。あと顔隠せ。覚えられたらまずいから」
「ちっちっち、僕は大丈夫さ。主人公はどんな時でも逃げない。勇猛果敢に立ち向かい、勝利を手にするのさ!」
 え、えーと。正樹くん。キミは、何の主人公なのかな?
「僕は、どんな窮地でも恐れない。閃きが全てを解決してくれるのさっ!」
「じゃあ主人公、この場を戦闘なしで乗り切れる方法ってあるのっ? 時間がないから十秒以内で閃いてっ!」
 金髪達が殺す目でこっち来てるから。早くお願いっ!
「待っていろ! え~と…………」
「頼むっ。頼むぞ……っ」
「え~とだな~。え~と………………………………えへっ☆」
 可愛く舌出してんじゃないよっ。やっぱ無いんじゃないか!
「もういいから正樹は逃げろ。場を和ませてくれただけで充分で、あとは俺がなんとかするから」
「え~、でもでも。何かあるはずなんだけどなぁ」
「無理っ! 絶対に無理だから!!」
「あ、ちょっと。修の口から――」
「ビーム出すってか?」
 あいにく俺は普通の高校生だ。ビームなんて出ない。
「違う、違うって。だから――おおおう! ナイスアイディア!」
「ど、どうした?」
「ふっふっふっ、まあ見てな。僕がキミを守る!」
 は、はぁ、そうですか。
 それなら、うん。とりあえず任せてみよう。
「金髪君たちっ。ちょいと待たれぃ!」
「な、なんだ?」
 ビシッと手を出され、思わず金髪達の足が止まる。
「キミ達は、東坂高校だね?」
 東坂高校? あぁそうか、この制服はあそこのものか。
 でも、それと何が関係あるんだ?
「そうだが、なんだ? 教師にチクロウってのか? 俺らは教師なんて怖くないぜ?」
「ノーノー、そうじゃない。キミらは、霧神輝ってご存知かい?」
 霧神? 初めて聞く名だけど、それにどんな力が――
「《眠れる獅子》、のことか……?」
 あれ?金髪が怯えてる。
「正解正解。ソイツだよソイツ」
「てめぇ、ソイツとはなんだ! 東坂の裏番舐めんなよ!」
 裏番? 裏の番長ってこと? てか、まだ番長っていたんだ。
「まあまあ、いいじゃん。で、アイツは元気ぃ?」
「お前…………それ以上言ったら、どうなるか分かってんのか? 今から呼んできて、ぶっ殺してもらうぞ!」
「いやいや~、そんな必要はないよ。代わりに、僕が呼んであげるよ」
「「「へ!?」」」
 おお。金髪達が、見事にハモった。
「実はね、アイツには貸しがあるんだよ。だから僕が呼べば、そっこーで来るよ?」
「ばっ、バカいってんじゃねぇ! あの人ら――人が、お前ごときに貸しを作るはずがねー……っっ」
 途中で噛んだ。物凄い焦りようだ。
「も~、信じなよ。これが電話番号で、こっちがアドレスとかIDね」
「ぜ、全部偽もんだろ? 何ならかけてみろよ。できもしねぇくせによ」
「…………あ、もしもし? 僕だよ僕」
 コイツ、もうかけてた! 話し始めちゃったよ!
「ん~、いやね、輝の電話番号って信じてくれなくてさ。あ、そうそう。輝の学校にさ、金髪の人いるでしょ? 声がしゃがれてて、背はそんなに高くない人」
「ちょっ。まっ」
 金髪野郎は引き続き、酷く狼狽している。
「あ、そう? 多分それ。おけおけ、分かった。じゃ~ね、また連絡する」
 ここで通話終了。正樹はスマホをポケットにしまった。
「なんだ、キミって輝と同じクラスなんだね。二年六組だってね」
 ということは、俺達と同じ年か。金髪だから分からなかった。
「ま、まさか……。お前は本当に、《眠れる獅子》と連絡を?」
「だーかーらー。そう言ってるじゃん」
 主人公、と言っておきながら、悪キャラ並みの悪い笑みを浮かべた。
「……な、何が狙いだ? 俺達を殺る気か?」
「まさか。ただ、この場を引いて欲しいってだけだよ。どうかな?」
「そ、そんなことできるわけ――」
「電話しよっと♪」
「わ、わかった! わかったからヤメテくれ!」
 か、完全に正樹が場を支配してしまった。どんだけ恐れられてんだよ、その輝って人。
「そっか、ありがとう。じゃあ、もういいかな?」
「あ、ああ。……い、行くぞお前らっ」
「「おっ、おう!」」
 倒れている二人を担いで、三人は猛ダッシュ。脱兎の如く空き地を去ってしまった。
「お、おお……。これって……」
「ほい。無事に収まりましたっ」
 敵が、一人もいなくなったんだもんね。どうやら俺は、助かったらしい。
「………………」
「あれ? 修どったの?」
「いやさ。あまりに簡単に解決しちゃったから、拍子抜けしちゃったんだよ」
 変に、身体の力が抜ける。
 無論すごく有難い出来事で嬉しいんだけど、不思議な気持ちになってしまう。
「いやはや。やっぱり困った時は輝だね」
「まさかアンタが、そんな人と知り合いだったなんてな。いつからの付き合いなんだ?」
「幼稚園、からだね。僕達は幼馴染で――そうだっ。ついでに輝のことを教えておこうではないかっ!」
「そ、そう? じゃあ聞こうか」
 この人のおかげで助かったんだから、どんな人か知りたい。それに勝手に名前出しちゃったから、あとでお詫びもしないといけないしね。
「うんうん。っとその前に、口をゴシゴシーってしてみな~」
「ゴシゴシ? こうか?」
 正樹の真似をして、口元を左袖で擦ってみる。これが何を――
「うおっ!?」
 擦った後、袖には血が付いていた。結構な量で、べったり、という感じ。
「ずっと、口から血が出てたんだよ。言おうと思ったけど、タイミングが悪くてね」
 そっか。殴られた時に口の中が切れたんだろうね。唾液と混じるから量が多く感じたのか――ってまてこら!
「知ってるなら、擦れって言うなよ!」
 服についたじゃないか。血が取れなくなったらどうすんだ。
「ちょっと、アニメの再現をしたくて。血を拭うのって格好いいじゃん?」
 まったく……。こいつは……。
「はぁ、まあいいや。じゃあ話を聞こうか」
「オッケー。まず、輝と出会ったのは幼稚園の入園式。その時に――」
「チョイ待ち! そこから?」
 あまりに前すぎる。現在に到着するまで何時間かかるか分からないぞ。
「えー、じゃあ短くして……。実は、輝には秘密があるっ」
 いきなり飛んだなおい。秘密って……。
「信頼できる修にだけ、教えてあげよう。実は輝はね、ケンカが強くない!」
「は!?」
 確かに、秘密だけど! どゆことっ?
「さっきの金髪君が言った、《眠れる獅子》って覚えてるでしょ? あれって、どういう意味だと思う?」
「意味ねぇ……」
 前に……どっかで聞いたことがあるような……。え~と…………ああ、世界史だったっけ。確か……『清』とかいう国のことを、先生がそう言ってた記憶がある。
 で、その意味は……
「本気を出せば凄く強い。でも十分に力を発揮していない。そんな感じだったと思う」
「ビンゴ! ズバリ、ヤツは言葉通りなのさ!」
「はぁ。と、仰りますと?」
「輝は身長が190以上あって、体格がいい。そんでもって、顔がめっちゃ怖い。で、それが相まって、歩くだけで恐れられるのよ。でもケンカなんてしたことない――というより暴力沙汰は怖いから、何もしない。だから《眠れる獅子》って呼ばれるようになったのさ」
 なるほど……。見掛けで圧倒してるってことね。
「って待て。だったら、ヤバイんじゃないのか? そんな人に押し付けちゃってさ」
「たまには、いいんだよ。貸しがあるからさ」
 そういや、さっきも言ってたな。
「なあ。貸しって?」
「初回版の、DVD」
「んん?」
 DVD? アニメの?
「輝もかなりのオタクでさ。昔の作品の初回版が欲しいって言い出した時に、オークションやらを探しまわってあげてようやくゲットしたんだよ」
 そっかそっか。輝さんもオタクだったのか。
「だから問題ないし、あの称号は伊達じゃない。印籠並みで、ノープロブレムだよ」
「正樹がそこまで言うのなら……。納得しておこうか」
 それに金髪野郎は、かなり怯えていた。あの様子なら、心配はないか。
「そうそう、そうしておいて。ということでこの話題は終わりにしてっと。僕としてはとにもかくにも、修が無事でよかったよ」
「…………さっきはありがとな。ホントに助かったよ」
「なんなのなんの。大したことないさね」
「いいや、お前は大したことをしてくれたよ。俺は、何にもできなかったからさ」
 偉そうなこと言っておきながら、大きなことは何一つできてない。
 まったく、情けないな……。
「もう、何落ち込んでるんだよ。武器持ってたらしょうがないって。僕が中学生の時にうっかり怒りを買っちゃった大学生だって、武器は持ってなかったしね」
 おいおい。今、サラッと凄いこと言ったぞ。
「しかし、だね。俺は約束をした――」
「修」
 ちょんちょん、と肩を突っつかれ、正樹が指差す方を見る。
 すると遠くから、愛梨と綾音が走ってきてた。二人とも、帰れって言ったのに様子を見に来てくれたんだ。
「あの子達は、すっごく心配してたんだぜ~? だから修君、YOUはさいっこーの笑顔で迎えてあげなYO」
「……ああ、そうだな。そうするよ」
 少しすると二人が空き地に入って、俺のもとへ。でも愛梨はスピードを緩めずに、俺に飛び込んで、
「おにーちゃん!!」
 そのまま抱きついてきてくれた。
「おにーちゃん。大丈夫? お怪我は?」
「心配してくれてありがとう。俺は大丈夫だよ」
 頭を撫でてから、ゆっくりと引き離す。
「鈴橋さん……。服に、血が……」
 ありゃ。隠そうとしてたけど、綾音に見つかっちゃったか。
「血? おにーちゃん、痛いの?」
「口が切れただけだから、心配しなくても大丈夫だよ。それに、正樹――俺の友達が助けてくれたからさ」
 正確には、友達の友達が、だけどね。
「あ、この方とお知り合いでしたか。同じ制服だとは思っていましたけど」
「偶然ってあるんだね。彼は木本正樹で、すごくいいヤツだよ」
 ここで、正樹に挨拶をするように促す。
「紹介されました正樹です。よろしくね」
 コイツ、早速手なんて振ってる。さすが正樹で、溶け込むのが早い。
「あの、木本さん。ありがとうございました」
 綾音が、深々と頭を下げる。
「いえいえ、これはこれはご丁寧に」
 正樹も真似をして、深々と頭を下げる。
 こういうのは、とても和む風景だよね。
「おにーさん。どーもありがとう」
 正樹が頭を下げている間に愛梨が近づき、正樹の右手を両手で握った。
「い、いいいいいいのよ。キニシナイ」
 ん? なんか変だぞ。
「おにーさん?」
「ハイ。オニーサンデスヨ」
 誰だ、コイツは?
「???」
「……ちなみに、キミの名前は何てお名前?」
 名前を二回言ってる。やっぱり正樹が変だ。
「愛梨。橘愛梨だよ。おにーさん」
「おおうっ。えっと、あい、り、ちゃん。おててをお放ししていただけるかな?」
「? うん」
 愛梨が両手を離した瞬間、正樹ダッシュ。俺の手を掴み、一気に空き地の真ん中に移動した。
「ちょっ。何してんだ?」
 いきなり走るからビックリしたじゃないか。
「いやね……。ヤバイ」
「ヤバイ?」
「愛梨ちゃん、俺のストライクど真ん中」
 ストライク? 気に入ったってことか。確かに愛梨と綾音、可愛いからな。
「でも正樹って、妹系には興味がないって言ってたじゃん。なぎさちゃんがいるし」
 妹がいるとそういうのはグッとこない。特になぎさと同じ小学生は駄目、と熱く語ってた。
「なぎさは、今年から中学生だもん。だから小学生はアリ」
 なんだよそれ。
「ってか、今『おにーさん』って言われた! まさか現実で言われる日が来るなんて夢にも思わなかった! これはキタ――――!!」
「待て待て待て。なぎさちゃんは『おにい』って呼んでるだろ?」
「馬鹿者! 実の妹に言われて何が嬉しいんだよぉ!!」
 ダメだ、コイツ。壊れてやがる。
 さっきのが、余程嬉しかったんだな。
「まあまあ。どーどー。落ち着けって」
「……修よ。僕は、帰る」
「え? どうして? 愛梨がいるのに?」
「これ以上この場にいると、完全に頭が狂ってしまう」
 なるほど。だとしたら、それは正しい判断だ。
「ということで、さらばっ!」
 多分、もう限界なんだろう。止めてあった自転車に飛び乗ると、愛梨を見ることなく全力で走り去った。
「おにーさん。どうしちゃったの?」
「何か、苦しんでいるような顔でした」
 綾音、正解だ。
「慌しくてごめんね」
 とりあえず、誤魔化しておこう。
 あまりにバカすぎる理由だから。
「ううん。でも、もう少しお話したかったなぁ」
 これを聞いたら、正樹は欣喜雀躍だろうな。
 ははははは。ははははは……。
「私もそう思っていたのですが、自分の意思で帰られたのなら仕方がありませんね。鈴橋さん、鞄です」
「うん。ありがと」
 預けていた鞄を、なんとも言えない気分で受け取る。
 ……悪友の誤魔化しは、この辺でいいだろう。小学生にとっては遅くなっちゃってるから、そろそろ帰るとしよう。
「愛梨、綾音。日が暮れちゃうから、帰ろうか。今日は送っていくよ」
「はい。よろしくお願いします」
「うん。ありがとー」
 というわけで俺は二人を連れて、空き地を出た。
 彼女達の家は分からないので、ここからは綾音が先頭。この子の先導で、道を進む。
「………………」
「………………」
「………………」
 無言。静かな時が、続く。
 普段なら愛梨が話しかけてくるはずなんだけど、なぜかこっちをチラチラ見るだけで、話しかけてはこない。
 なので、これはしょうがない。更に数分歩いた後、俺から話しかけてみることにした。
「ねえ、愛梨。どうしたの?」
「ほえっ!? な、なんでもないのっ」
 この子は、明らかに動揺している。
 なんでもないは、嘘だ。
「愛梨。何でも言ってごらん」
 もしかしたら、二人が黙っているのは、さっきのことがあるからかもしれない。小学生には怖かっただろう。引きずらないといいんだけどな。
「………………うん。あのね」
 愛梨には珍しく、奥歯にものが挟まったような感じ。
 本当に小さく返事をしたあと、彼女はふと立ち止まった。
「ん? どうしたの?」
「えっとね……。おにーちゃん、すごく辛そうなお顔をしてる」
「えっ!?」
 それは、まったく予想していなかったことだった。
「そ、そんなことないよ。ねえ綾音」
「………………」
 綾音から、返事がない。
「おにーちゃん、さっき……あの……あの、イジ、メられたってこと、言ってから、少し違うの。笑ってくれるけど、やっぱり、違うの」
「え~、まさかぁ。気のせいだよ」
「ううん。愛梨にはわかるの」
 俯き、ズボンを掴まれた。
「愛梨にはね、わかるの」
「……………………」
 俺は、返事ができずにいた。
 自分でもそんな顔だってことに気付かなかった。もちろん、意識もしてなかった。だけど――確かに、あの時から、ずっと胸がモヤモヤしている。
 理由はすぐに分かる。あれしかないからだ。
 正樹と話している時は、できるだけ気にしないようにしていた。時間が経てばなくなるだろうと思ったから。けど、それは、消えなかった。徐々に、大きくなっていく気さえする。自分の中で抑えていた部分が、あれをきっかけにまた出てきてしまった。
 それを、愛梨は――愛梨達は、見抜いてたんだ。
「あのね――」
 そんな俺を、愛梨はしっかりと見つめる。
「――おにーちゃんがお話してくれるなら、嫌じゃなかったら、愛梨、おにーちゃんの辛いお話を聞きたいの。あのね、愛梨はね、京助君のことをおにーちゃんにお話したら、身体がかるくなったの。だからね、おにーちゃんも、おんなじことしたら、かるくなる、と思うの。だからね、少しだけでもいいの。愛梨もね、えっと……えっと……」
 途切れ途切れだったけど、愛梨の気持ちがよく伝わってきた。
 それに――愛梨の瞳には、憐みや同情という感情が一切なく、ただただ純粋だった。
 もしかして……俺が愛梨を幼いと思っていたのは、純粋だからではないのか。もしかしてこれが、人間の優しさなんじゃないだろうか。そんなことまで考えさせられるような、真っ直ぐな瞳だった。
 だから――

「俺の、過去を聞いてくれるかな?」

 勝手に口が動いていた。
「うん。うんっ、お聞きするー」
 そうしたら愛梨の大きな瞳が、少しだけ細くなった。
 …………。ありがと、ね。
「あの。私は……」
「綾音にも、嫌じゃなかった聞いて欲しい」
 慮ってくれて、離れようとしていた綾音を引き止める。
 そうしてから俺は、ゆっくり一歩踏み出しながら、続けることにした。
「小学校五年の時だった。丁度、今と同じ時期。突然にその…………イジメが始まった。男子全員から。理由は分からない」
 声が震えかけたが、愛梨が右手を握ってくれた。
「最初は無視から始まった。それが一ヶ月続いた後、今度は俺を触ると菌がうつると言われた。別に俺が病気なわけじゃない。けど、そう言われた。机も、離された。
 それでも、我慢して、我慢して……そしたら、今度は靴を隠されたり、ノートを破られたりした。バッグを川に投げられそうになったこともある」
「今日の……。愛梨と同じ……」
 ポツリ、と呟いた。
「でも、耐えて耐えて耐えて、六年生になった。六年生になったら、そんなことなくなるんじゃないかって思ってた。でも、違った。それどころかもっと酷くなった。一部の女子まで加わり始めた。
 給食当番の時、汚いからって、俺が触った皿には誰も手をつけなくなった。おまけに珍しく俺の机に給食が置かれてると思ったら、ご飯に埃が入ってた。後で聞いたら、床に落ちたのを渡したんだって。
 俺は、精神的にボロボロになってた。でも、さらに酷い事件が起きた。俺がトイレから帰ってきたら、クラスメイトの筆箱がなくなったって騒いでいた。その時間は勉強を中止して、探すことになった。俺は必死で探した。自分がよく隠されてたからね。で、一時間後に筆箱は見つかったんだけど、見つかった場所が信じられない場所だった。それは、俺の鞄の中だったんだよ!!」
 つい声が大きくなってしまい、二人の身体がビクッとした。
「……ごめん。もちろん、俺は盗ってない。トイレに行った間に起こったことだから。でも、誰も信じてくれなかった……。先生ですら、話を聞いてくれなかった。結局、俺は全員の前で謝らされた。学年集会の時も謝らされた。……悔しかった。俺は、盗ってないのに。けど、仕方なかった」
 もう、この人達に何を言っても無駄、抵抗するだけ時間の無駄だ。

 ……この時だった。俺が全てを諦めたのは。

「そしてイジメは、俺が卒業するまで止まることはなかった。……これが、俺の過去のお話だよ」
 結局、全部話してしまった。
 途中――盗みのことは、小学生にはキツ過ぎる部分もあったから、そこはしないつもりだったんだけど。
 どうしてそこを言ったか分からない。もしかしたら、愚痴を言いたかった、誰かに『俺は無実だ』ってことを認めて欲しかったのかも、しれない。
「おにーちゃん」
 そんなことを考えていると、愛梨が俺の胸に顔を埋めてくれた。綾音は何も言わず、俺の手をそっと握ってくれた。
「愛梨……。綾音……」
「おにーちゃん。おにーちゃん。おにーちゃん……」
 シャツに、水分が染み込んでくる。
「……愛梨、綾音、俺の話を聞いてくれてありがとな。……確かに、愛梨が言ったとおりだ。楽になった気がする」
 少なくとも、モヤモヤが収まった。
 そういえば、こんな話をしたのは初めてだ。
 父さんと母さんにも、話したことはない。当時は共働きだったから、心配かけたくないってのがあったから。それに……話したところで、変わることはないと知っていたから。
「おにーちゃん。ホント?」
「うん。ホントだよ」
 顔をまじまじと覗き込んだ後、少しだけ笑顔が戻った。
「綾音も。ありがとうね」
「……いえ。……あの」
「ん?」
「……私が、鈴橋さんに助けを求めてしまって……。軽はずみな行動で、その、嫌なことを思い出させてしまって……」
 ああそっか。どうしていいか分からないから、ずっと黙って……。
「綾音、いいんだよ。俺が知らないところで二人が危険な目にあってた方が、もっと辛いからね」
 確かに思い出してしまったのは事実だけど、それと引き換えに二人が無事だった。今はそれで充分だ。
「あのさ、二人とも。俺は、今は楽しいからね。中学で新しい友達もできたし、高校に入ってからは相棒もできた。だから今は平気だよ」
「相棒って、あのおにーさんのこと?」
「そうそう。アイツね、変わってるけどいいヤツなんだよ」
「私達が困っている時も、すぐに止まって話を聞いてくれました。それまでに、何人かの方に話しかけたのですが…………全員、笑いながら素通りだったんです……」
 素通りは仕方ないにしても、笑いながらってのは酷いなぁ。ソイツらの心境が、全く理解できない。
「あ、それとさ。こんな話をしておいてなんだけど、二人には楽しい小学校生活を送って欲しい。もちろん、送れるだろうけどさ」
 あの時の俺とは違って、信頼し合える存在がいるからね。きっと大丈夫だ。
「うんっ」
「はい」
「うんいいお返事ですで、じゃあ帰ろうか。随分話に集中してたけど……そろそろ?」
 結構歩いたからなぁ。もう着くの、かな?
「はい。私の家は、そこを曲がったところにあります」
 綾音の後に続いて百メートルほど進み、角を曲がる。そして少し歩き、綾音の足が止まる。
「ここが、私の家です」
 なんと、綾音の家は三階建て。ここ、何LDK? マンション暮らしの俺とは雲泥の差だ。
「で、でっかいお家だね……」
「愛梨もね。初めての時は、ビックリしたよ」
 つい『お』がついてしまうほど、立派だった。周りにも家があるけど、間違いなくトップ。門だけでも他の追随を許さない。
「あ……。父が、小さな会社を経営していまして……」
 ちょっぴり恥ずかしそうに、教えてくれた。
 そうかそうか、会社をねぇ。
「鈴橋さん、愛梨ちゃん。どうぞ」
 ボケーっとしていると、綾音は門を開けて微笑んでいた。
 もしかして、入れってこと?
「えっと……」
「今は母が居ると思いますが、気にせずどうぞ」
 いやいやいや。俺が気にしなくても、お母さんが気にするでしょ。
「ぅーん、今日は遠慮させてもらうよ。お母さんも、突然俺が来たら驚くだろうしさ」
「そう、ですか……。すみません」
「いえいえ。お気になさらずに」
「…………はい。ではまた、鈴橋さん、愛梨ちゃん」
「あっ。ちょっと待って!」
 チャイムを押そうとしていた綾音を、愛梨が制止する。
「? 愛梨ちゃん?」
「今ね、思いついたんだけどね、明日お休みだから皆で遊ぼーよ。絶対楽しくなるから――あ、でも。おにーちゃん、お暇かなぁ?」
 突然の提案。愛梨はニコニコしてるけど……もしかしたら、俺に気を遣ってくれてるのかもしれない。
 えっと、明日は…………土曜だから休みだ。そりゃ高校生も小学生も一緒か。
「うん。俺は、暇だよ」
 休日はいつも、ダラダラしてる。年から年中暇人だ。
「よかったぁ。そだ、おにーさんもお誘いできないかな? 急に帰っちゃったから、お礼言えてないの」
 う~ん。正樹を呼ぶのは別の意味で危険なんだけど、礼を言いたいって気持ちは大切だからね、とりあえず電話してみるか。
「ちょっと待ってね」
 スマホを取り出し、タップ。履歴から正樹の番号を選んだ。
『はいよっ! ダーリン☆』
 すごいなコイツ。ワンコールで出やがった。
「おいおい。ダーリンって誰だ……?」
『細かいことはいいから。ワイに何用だい?』
「明日愛梨達と遊ぶことになったんだけどさ、愛梨がお前を誘ってるんだよ。どうする?」
 さて、どんな反応するかな?
『………………』
 あれ? 反応なし? 予想では、歓声が聞こえるはずなんだけど。
「おーい。まさ」
『ジ――――ザス――――――――!!』
 うおっ。ビックリした。
「ど、どうした?」
『か、神は……。神はいないのか……』
「ん? 無理、なのか?」
『……明日は買い逃した同人誌の委託があったり、色々と買い漁る日なんだ。先週修の父ちゃんに、一緒にどうですかって話してたでしょ』
 ああ、そういえば。そんな話をしてたな。
『そんで修パパが駄目だったから、輝と行く約束してんのよ。あうあう……。せめて、日曜だったら行けたのに?』
 疑問系で聞かれても困るんだけど。
「じゃあ、あれだ。明後日にしてもらおうか?」
『ノンノン! 誘いをずらすなど言語道断! 修、僕の分まで楽しんできてくれ。僕は想像で遊ぶから』
 え~、それはかなり気持ち悪い。けどまあ、そう言うならそうしておくか。
「なら、仕方ないな。じゃあまた」
『はいよ。僕はこれから、アニメに慰めてもらうよ。(くすん)』
 通話終了。というか、最後の『かっこくすん』って自分で言うなよな。
「おにーちゃんおにーちゃん。。おにーさん、どうだったの?」
「正樹は、都合が悪いってさ。楽しんでって行ってたよ」
「そう、なんだ……。残念。綾音ちゃんは、大丈夫だよね?」
「……う、うん。大丈夫」
 ん? 一瞬、戸惑ったように感じた。けど今はいつもの表情だから、気のせいかもだ。
「愛梨ちゃん。明日はどこで遊ぶ?」
「え~とね~――」
「詳しいことは、愛梨を送りながら考えるよ。愛梨、それでいいよね?」
 いつまでも玄関前に居たら、お母さんに見つかってしまう。
 早くこの場を去るとしよう。
「ん、それでいーよ。綾音ちゃん、夜にスマートホンに連絡するからね」
「うん。じゃあバイバイ」
 ここで俺達は別れ、ここからは二人で行動。次の目的地は、愛梨の家だ。
「ねえ。愛梨の家は、ここから近いの?」
「うん。こっちだよー」
 今度は愛梨に案内され、三分ほど歩くと愛梨の家に着いた。
 少し前に綾音が言っていたけど、確かに近い。予想より早かったから、まだ集合場所と時間しか決まってないぞ。
「じゃーん、ここがお家だよー。どーかなどーかな?」
「うん。愛梨の家も綺麗だね」
 二階建てで、白を基調とした外観がお洒落で良い。表札も建物に合わせたデザインで――あれ? 表札には、名前が二人分しかない。愛梨は、お母さんと二人で暮してるのか。
「おにーちゃん。どうぞー」
 またお誘いが、やってくる。
「いやいや、いいですいいです。ご迷惑になるから、俺はもう帰るよ」
「? お母さんの帰りはいっつも夜だから、愛梨と二人だけだよー?」
 おい。お母さんがいるよりやばいじゃないかっ!
「ってのは、さて置きだ」
「??? さておき?」
「ごめん、なんでもない。それより、お母さんっていつも遅いんだね」
 ちょっと、気になってしまった。
「うん。お母さんね、お仕事が忙しいの」
「そうなんだ。ご飯とかはどうしてるの?」
「愛梨、お料理苦手だから……お母さんが作ってくれてるの。それに時々、綾音ちゃんのお家で一緒に食べさせてもらうこともあるの」
 そうなのか。ご飯があって、時々は友人宅に行っているなら安心だ。
「ふふ。二人は、仲がいいんだね」
「うんっ。愛梨のお母さんと綾音ちゃんのお母さんは、小さい時からずっとお友達なんだって。だからね、綾音ちゃんとはずーっと前から、一緒だったんだよ」
「へ~。なんか良いね、そういうの」
「うんっ」
 俺にはそんな存在が居なかったから、ちょっと羨ましいな。まぁ、今は家以外では殆ど一緒にいるヤツがいるんだけどね。
「さ~、おにーちゃん、どうぞー」
 うおっ。話してる間にドアが開いてた。
「いやね、俺はいいんですよ。また今度に」
「でもでもー。まだ明日、何するか決めてないよ?」
「えー……あ、そうだ! じゃあ、何をするかは、明日になってのお楽しみってことで、愛梨が一人で考えて。俺達をビックリさせれたら愛梨の勝ち。ミステリーツアーっぽくていいよね?」
 息継ぎなしで、言い切りました。
「みすてりー……。みすてりー……。面白そう」
 なんか、『ミステリー』に興味を持ってくれたみたいだ。よかったよかった。
「じゃあ、愛梨。お願いできるかな?」
「うんっ。お願いされましたー」
「では、よろしくね。俺はこれで――」
「あら? 愛梨ちゃん、おかえり」
 突然背後から、声がした。
 なのでギギギギギッと錆びた人形のように振り向くと、おばあさんが立っていた。
「んっ。ただいまですーっ!」
 えっと、どなた? もしかして、お母さん――ではないよね。歳が離れすぎだ。
「あのね、おにーちゃん。お隣さん、なの」
 ああ、お隣さんか。それなら見られても――駄目だっ! 隣人さん、こっちみて訝しんでるよ。だって、知らない高校生(男)がいるんだもん。
「お、俺っ、もう遅くなったから帰るね。バイバイまた明日」
 踵を返し、走る。背後から「おにーちゃん?」と聞こえたが、振り向かない。

(神様、お願いします。隣人さんが愛梨のお母さんに言いませんようにっ。面倒臭いことになりませんようにっ)

 俺は心で何度も祈りながら、今来た道を走り続けたのだった。
 土曜日。
 八時四十五分、家を出発。今日は寝坊してしまった。約束の時間、九時まであまりない。猛ダッシュする。
 このように説明がつい箇条書きっぽくなるくらい慌ててしまったが、どうにかセーフ。八時五十五分に、待ち合わせ場所――例の、いつもの場所に到着した。
「あっ。おにーちゃん!」
 俺の姿を発見すると、ワンピース姿の愛梨が元気に手を振ってくれた。
「おはよ、愛梨。待たせたみたいだね」
 まずは、挨拶をする。
 むぅ……。五分前に着いたんだけど、愛梨はもっと早かった。人を待たすなんて情けない。
「んーん。愛梨もね、今来たばっかりだよ」
 笑顔で、そう言ってくれる。
 いつもいつも。優しい心遣い、ありがとうね。
「おにーちゃんのお洋服、初めて見た~。格好いい」
「お、俺の?」
 服、ということは私服の意味だよね。普段は制服だから、愛梨には新鮮に見えるのだろうね。でもこの服適当に着てきたから、まじまじ見られると恥ずかしいなぁ。
「そういう愛梨の服も、可愛いよ。大人っぽく見える」
「えへへ~。ありがとー」
 はにかみ、両方の頬っぺたに手を添える。
 うん。初々しい反応だなぁ。
「お世辞じゃなくて、とっても似合ってるよ。旅行中のお嬢さんって感じで――ってそうそう。ところでその荷物はなにかな?」
 さっきからずっと気になってたことを質問する。
 今日の愛梨は何故か、旅行用の大きなバッグを持っていたのだ。まさか本当に、『ツアー』に行くつもりなのだろうか。
「これはね、内緒だよー。でもでも、楽しみにしててね~」
「そっか、なら楽しみにしてるよ。それにしても、綾音は遅いね」
 もうそろそろ時間だし、来てもいいはずなんだけどなぁ。
「あれ? おにーちゃん、綾音ちゃんからお電話なかったの~?」
「電話? どういうこと?」
「あのね、昨日ね。綾音ちゃんにお電話したら、明日用事ができたから少し遅れる、って言ってたの。愛梨はスマホを持ってないから、おにーちゃんに連絡するって言ってたよー」
 俺に、ねぇ。
 あの子からの連絡は一度もないから、かけてみるか。
「愛梨。ちょっと待ってね」
 スマホを取り出して、タップ――あれ、綾音から不在着信が5件ある。どうやら走ってたから、バイブに気付かなかったんだ。
「…………もしもし、修です。ごめんね、気付かなかった」
『いえ。何度もすみません』
「いえいえ。ところで、何時くらいになりそうかな?」
『あの……。今日は、行けないんです』
「ええっ!? おっと」
 大声を出したから、愛梨がこっちを見てしまった。とりあえず、このことが悟られないように背を向けた。
「えっと。どういうこと?」
 ここからは、小声で話す。
『実は……昨日から、今日は家の用事があることが分かってたんです。けど、愛梨ちゃんが楽しそうにしてたから……。私が行けないと知ったら、多分止めてしまうから……』
 昨日の違和感は、それだったのか。やっぱり綾音も、優しいな。
「なるほど。じゃあ残念だけど、今日は俺と愛梨で遊ぶことにするよ」
『お願いします。ご迷惑をおかけしてすみません』
「いいっていって。帰りも、家まで送るから心配しなくていいよ」
『ありがとうございます。何から何まですみません』
「これに関しても、「いっていって」、だよ。綾音も、気を付けて出掛けてね」
『はい。失礼します』
 こうして、俺達の通話は終了となった。
 うあ~、意外な展開になってしまったぞ。俺一人で、大丈夫か? まあ、とりあえずは愛梨に説明をしないとだな。
「綾音は家の用事が長引くみたいで、今日はこれなくなっちゃったって。すごく残念がってたよ」
「……にゅ。そーなんだ」
 ああ、しゅんとなってしまった。楽しみにしてたから、がっかりも大きいよね。
「あのさ、綾音の代わりにはならないけど……。俺とじゃ駄目かな?」
「ううんっ。おにーちゃんと一緒だと楽しいよー!」
 良かった。綾音がいないから帰る、なんて言われたらどうしようかと思ったよ。
「綾音がいないのは、ホントに残念だけどさ。折角だから今日は楽しもうね」
「うん! 綾音ちゃんは、今度お誘いする~。その時は皆一緒だよー」
「………。そう、だね」
 ――今度って、いつだろう? その時まで、俺は一緒にいるのか?
 なんてことが、一瞬頭を過ぎった。
「? おにーちゃん?」
「ご、ごめん何でもないよ。あ、そのバッグ持つよ。重そうだからさ」
「んーん、大丈夫だよー。これは愛梨が持つの」
「そ、そう? 大きいから、キツくなったら遠慮なく――」
 グリュリュリュリュ!
 すっごい音がした。
 こいつは俺の、腹が鳴った音だ。
「……どうもごめんなさい」
 とりえず、謝っておく。
 聞き苦しいものを、すみません。
「おにーちゃん、おなかペコペコ。朝ごはんは?」
「実は、食べてないんだよね。寝坊しちゃってさ」
 起きたのは、八時三十五分だしね。そんな時間はありませんでした。
「やっぱり、九時って早かったのかなぁ。おにーちゃん、高校生だから忙しいよね……」
「違う違う、俺が寝すぎただけだよ。忙しくないし、年中暇人だからっ」
 言えない。深夜にテンションが上がった正樹から電話がかかってきて、5時まで寝かせてもらえなかったなんて。
 愛梨。高校生って、こんな生き物なんだよ。
「あ、でもでもっ。そうそうっ。おにーちゃん、お腹が空いてるんだよねっ?」
「ん? ま、まあそうなるね。お昼まで時間があるから、コンビニで何か買っていくよ」
「あのねあのねっ、愛梨ねっ、お昼ごはん作ってきたの! だから――あ……」
 言いかけて、慌てて両手で口を塞ぐ。
 今、お昼って。そのバッグの中身は、お昼ご飯だったんだ。
「……あぅ」
 あ~。ミステリーをばらしてしまったから、がっくりしてる。
 えーと。こういう時、俺はどうすればいいのだろうか。聞こえなかったフリをするのか、それとも続けるのか。
 ……やっぱり、聞こえないのは不自然だよな。この距離だし。
「へ~、お昼作ってきてくれてるんだ。楽しみで早く食べたいなっ」
「ほんとっ? じゃあおにーちゃんのために、あそこに着いたらお昼にしようよっ。『ぶらんち』って言うんだよね」
 おお、機嫌が戻ったみたい。てか、目的地は山なんだ。指差してるからそうだよね。
「そりゃあ有り難いっ。それじゃあ行こうかで、今日はしっかり遊ぶぞー!」
「おー!!」
 かなり強引にテンションを上げてから、出発。
 目的地は今居る場所から真っ直ぐ一キロ程歩き、左へ。そこから更にに五百メートル進むと、山の入り口に到着となる。
 山っていっても、ここはかなり小さい山。てっぺんまで車で行けるし、道も舗装されているから、歩いてでも楽勝。今回は一番上ではなく途中の、休日には親子連れで賑わう『アスレチック広場』がゴールだった。
「わぁ。お休みだから、人いっぱいだねぇ」
「うん。そうだね」
 午前中だというのに、親子連れで大盛況。長さが自慢(県下一らしい)の滑り台では、子供が頭から滑っていた。
 ……親は笑ってるけど、大丈夫なのか……?
「おにーちゃん。こっちこっち」
 心配していると腕を引っ張られ、人ごみから離れた場所にある大木の下に案内された。
 なるほど。ここで寛ぐのか。
「ここでお昼にしよっ。あのね、ちゃんと準備してきたのっ」
 愛梨はバッグを探り、青色のレジャーシートを取り出した。
 あーね。旅行用バッグはそのためだったのか。
「おおっ! 愛梨、ナイスだよ」
「えへへ~。えっと、ここをもって、あれれ?」
 五月の爽やかな風が、シート敷きを阻止している。そのため一人では到底無理なので俺も手伝い、飛ばないよう四隅に石を置いて完了となった。
「ふぅ~。座ったら足の疲れがどっときたなあ」
 日ごろの運動不足を露呈してしまった。やっぱりもう少し、運動しないとだな。
「おにーちゃん。大丈夫?」
「ちょっと疲れただけだで、問題ないよ。愛梨は平気そうだね」
「うん。愛梨ね、お散歩が大好きなの」
 やっぱり、普段から鍛えていると元気だなぁ。まあ、一キロちょっとで疲れた俺が異常なんだけども。
「ではではっ。お疲れのおにーちゃんに、お昼ごはんです」
 バッグを開け、中からお絞り、大きめのバスケットを取り出す。そして――彼女は、固まった。
「えっ。ど、どうしたのっ?」
「あぅ。水筒、忘れちゃった……」
 がっくり、としていた。けど、大丈夫だぞ愛梨。ここには先人の英知がある!
「待っててね。俺が買ってくるよ」
 アスレチックの近くにある、四角くて大きな機械。自動販売機を指差す。
「でも、愛梨……。お財布もって来てないから……」
「心配ないよ。そこは俺が出すから」
「んっ、んーんっ、大丈夫。愛梨、喉は渇いてないよ」
「お金は、気にしなくていいんだって。足りないけどお昼のお礼だから」
「…………。…………」
 まだ躊躇っている。
 この子はホント、真面目だな。正樹だったら即答だよ。
「俺に遠慮は、不要だよ。さってと、行ってくるね」
「あのっ! 愛梨が、いきますーっ」
 愛梨が先に、立ち上がった。
 これは、買ってもらうならせめて自分が、ということなんだろう。
「そっか。なら、お願いするね」
「うん。おにーちゃんは、何にするの?」
「そうだね、俺は…………愛梨と同じもので。はい、これお金です」
 両手で五百円を渡して、笑顔で愛梨を見送る。
 そうして雲が浮かぶ空をぼんやりと仰ぎ見ていたら、愛梨が戻ってきて対面に座った。
「おにーちゃん、ありがとー。はい、お釣りです」
「はい。どうも」
 丁寧に出された硬貨を受け取って――おや? お釣りが、多いぞ?
「これー。おにーちゃんのジュースですー」
 手渡されたのは、炭酸の500ミリペットボトル。愛梨の右手には、350ミリの缶。
 ああ、そういうことね。
「愛梨。そっちの缶、見せてくれる?」
「うん。いーよ。」
 俺は右手で缶を受け取り、左手でペットを渡す。
「??? おにーちゃん?」
「あのね、自分だけ小さいやつにしなくてもいいんだよ? 俺はこっちにするから、愛梨はそっちね」
「で、でも……。でもでも……」
「ぷはっ。生き返るぅ」
 有無を言わせないよう、開けて一気に飲んだ。
 ふふふ。これでも、遠慮はできないぞ?
「…………おにーちゃん。ありがとぅ」
「何度も言ってるけど、俺には気を遣わなくていいからね。あんまり遠慮してると、怒っちゃうぞ~?」
「……うん。わかった」
「はいよくできましたで、そろそろその中身を拝見したいなぁ。さっきから、何が入ってるかワクワクなんだ」
「ぇへへ。喜んでもらえるといいんだけど………………はい、どうぞー」
「おおっ! サンドイッチだ!」
 バスケットには二種類のサンドイッチがぎっしり。内容は定番のタマゴサンドとハムレタスサンドで、どっちも美味しそうだ。
「一人で作るの、初めてなの。上手にできてるか心配」
「十分、いや十二分の出来だよ。早速だけど食べていいかな?」
「うんっ。あ、おにーちゃん、お絞り」
 そうだそうだ。ちゃんと手を拭いて、まずはタマゴサンドを頂く。
「いただきます。…………うん、美味しい!」
 タマゴとマヨネーズの組み合わせ、素晴らしい! マヨネーズが多すぎず少なすぎず、タマゴの切り方、混ぜ方も丁度いい。
「はう~。よかったぁ」
 俺を見ながら、愛梨は安堵の笑みを浮かべてた。
「全然、心配する必要ないって。お先に頂いたけど、愛梨も食べてみなよ。すぐに分かるからさ」
「うん。でも、その前に……。おにーちゃんのお隣に、座っていい?」
「? いいよ」
「っ。ありがとーっ」
 パッと笑みを浮かべ、トテトテトテ。可愛らしく俺の右隣に移動して、ちょこんと座る。
「?? どうしたの?」
「えへへ~。おにーちゃんと一緒~」
 こ、こういうの、なんかこっちが恥ずかしくなるんだけど……。そんなとびっきりの笑顔を見せられたら、滅茶苦茶照れちゃうじゃないかっ!
「ふにゃ? おにーちゃん?」
「な、何でもないよ? ほ、ほら、タマゴサンドをどうぞ」
「ありがとー。…………ん、美味し。上手に出来た」
 自分で言って、小さく頷いてる。
「ね。美味しいよね。こっちのハムレタスも美味しい」
 薄く塗られたマヨネーズがハム&レタスを引き立てる。また、ハムの柔らかさとレタスのシャキシャキがなんとも言えない。
「嬉し~。沢山あるから、いっぱい食べてねっ」
「うんっ。じゃあ次はタマゴ――」
 ブーン ブーン ブーン
 スマホが、メッセージの受信をお知らせした。
 こんな時間に送ってくるのは……。まあ、正樹しかいないよね。
「ごめんね愛梨。えっと、内容は……」

《欲しいもの、ゲトゲトゲトゲトゲトゲトゲトゲト!》

 ゲシュタル崩壊かこれは。あいつめ、興奮しやがって。
 俺はしばし考えた後、
《おめおめおめおめおぬおめおめおめ》
 と返信した。
 ポイントは、一文字だけ『ぬ』になってるとこだ。正樹が相手だと面白い返事をしないといけないから、頭が疲れる――
 ポスッ
 突然、右腕に柔らかい感触があった。
「ん?」
 スマホを仕舞いながら確認すると、そこには愛梨がもたれ掛かっていた。
 こ、これは……。どういうことだろう……?
「愛梨、どうしたの? あい……」
 俺は途中で、呼ぶのを止めた。なぜならこの子は、
「すー。すー……」
 気持ちよさそうに、寝ていたから。
 まさか、数分の間に寝るなんて。どうして――ああ、そうか。
 愛梨は、朝早くからこれを作ってくれてたんだ。三人分だから量も必要だし、一人では初めてだって言ってた。時間も結構かかったんだろうな。
 ……この子は、俺が寝坊したこと心配してくれてたけど……。自分が一番、寝不足だったんだ。
「愛梨。ありがとうね」
 頭を撫でると、サラサラの髪の毛が少しくすぐったい。
「いつもいつも。ありがとうね」
「………………んにゅ? あれ、愛梨……」
 しまった! 起こしてしまった!?
「……………っ、おにーちゃん!? ご、ごめんなさいっ!」
 さすがにもたれたのは恥ずかしかったのか、少し顔を赤くして慌てて離れる。
「あぅ~。愛梨、眠ってた……」
「いいんだよ。俺達のために朝早くから作ってくれて、ありがとう」
「愛梨、お料理に時間かかるから……。でもね、楽しかったから平気だよ。おにーちゃん、もう一つどうぞっ」
「うん。気持ちがこもったお昼ご飯、たっくさん食べさせてもらうね」
 俺は三つ目のサンドイッチを受け取り、俺もまたサンドイッチを渡して、二人仲良く口に入れたのだった。
「ご馳走様でした」
 お昼ご飯、完食。頑張って手作りしてくれたおかげで、今日のお昼は最高の一時となtった。
「えと、おそまつさまでした。おにーちゃんに喜んでもらえて嬉しい」
 ペコッと頭を下げてくれたあと、満面の笑みになる。
 う~ん。こんな物を貰ってこんな笑顔を見ていたら、俺にも何かしてあげられることはないかな、と思ってくる。
 何かお返しを、したいよね。
「ねえ、愛梨は欲しいものとかある? やってみたいことでも、いいよ」
「ふぇ? 愛梨は、ないよ?」
「ちょっとしたことでも、いいんだよ。何かない、かな?」
「やってみたいこと……。やってみたいことは……。………………テニスを、やってみたい」
 うっ。テニス、か……。
「? おにーちゃん?」
「と、ところでさ、どうしてテニスがやってみたいの? 他にも色んなスポーツがあるのに、どうしてそれなのかな?」
「んとね。お母さんテニスが大好きで、よく一緒にテレビで観てたの。でね、すっごく格好いいなぁって思ってたの」
「あー。そっかぁ……」
 これが、愛梨の希望なら……。でもなぁ……。
「愛梨が大きくなったら一緒に始めよう、ってお話してたんだけどね、お母さん忙しいから、まだ出来てないの」
 ぁ~。そんなこと聞いちゃったら、一度体験させてあげたくなる。
 …………まあ一回なら、大丈夫。うん、多分。
「も、もし、俺で良かったら、一緒にする?」
「えっ……」
 目をパチクリさせていた。気を遣ってくれる愛梨でも、まさか俺がこんなこと言うとは思ってなかったんだろう。
「テニス、やってみる?」
「え、と……やってみたい。けど……愛梨、何も持ってないよ」
「それは、大丈夫。相手がお母さんとじゃないけどいいかな?」
「お、おにーちゃんとなら、楽しいよ」
 嬉しいことを、言ってくれる。
 悩んだけど、こんな反応を見たら提案してよかったと思う。
「なら、オッケーだね。今からテニス、やりに行こう」
「で、でもね、愛梨ね。お金、持ってないよ?」
 それは、想定済み。小学生だから、お小遣いだって少ないだろうからね。
「心配要らないよ。お礼に俺が出すからさ」
「だっ、ダメだよ。さっき、ジュースをもらったもん」
「今から行く場所は、割と安いんだ。だから気にしないで」
「うー……」
「悩まなくていいから。じゃあ直行だね。あ、でもその服じゃできないから、一旦家に帰ってからにしよう。さ、行くよっ」
「あ、おにーちゃ」
 さっさと片付けて、多少強引に行くことにした。
 こういう子にはこういうやり方をしないと、色々考えてくれちゃうからね。

                   ☆

「じゃあ、外で待ってるから」
「うん。急ぐねーっ」
 現在は愛梨の家の前で、愛梨には動きやすい服に着替えてもらう。
 なお途中で『今日はお家にどうぞ』と言われたけど、正樹に電話するからと言い訳してここにいる。
 なので言い訳を事実にするために、電話をしてみるとしよう。
 プルルルル プルルルル プルルルル ガチャ
『きゃほー!』
 いきなりそれはないだろう。鼓膜が破れそうになったぞ。
「はぁ、まったくお前は。随分と調子がいいみたいだな」
『もう絶好調で、もうウハウハ! 財布はスカスカよ!』
 そか。ドヤっているが、別に上手くないからな。
「正樹。あんま買いすぎると、来週厳しくなるぞ?」
『ふっふー、大丈夫よぅ。計算していて、ノープロで――お、そうだっ。隣に輝がいるから話してみ。はい、輝』
 ちょ、いきなり!?
 し、しかし昨日のことがあるから、いい機会かもしれないな。
「あ、どうも。俺、正樹の友達の鈴橋修です」
『あ、ご丁寧にどもでごあす。わて、霧神輝なのよね。以後お見知りおきを』
 ほぉ、随分とユーモア溢れる人だな。それに幼馴染だけあって、俺の知り合いに声がそっくりだ。
「……なりきるなら声も変えろ。あと、口調が怪しすぎるぞ」
『あら、ばれた? さすが修ちゃん』
「ばれるに決まってんだろ。本人に失礼だし。てか本人近くにいるんじゃないの?」
『隣で爆笑してる』
 さすが幼馴染ってか。
「あーもう。ったく……」
『まあまあ。ところで、そっちはどうなのよ?』
「こっちは愛梨お手製のサンドイッチ食べて、今からその……。テニスをしに行くこと」
『手作りイベント!? テニスぅ!?』
「別に、イベントじゃない」
『サンドイッチ、旨かったのか? 美味だったのかっ? グッドテイスツ! だったのかっ?』
 おいコラ。全部一緒じゃないか。
「ああ。美味しかったよ」
『くそ、僕も行きたかったぜ……! お土産として、僕にもいただけませんかね?』
「悪いが、お土産はない」
 二人で、全部食べちゃったからな。もう残ってないんだよね。
『そ、そう、だよね……。だったら百歩譲るんで、修がサンドイッチを作って――』
「おにーちゃん。お待たせしましたっ」
 悪友がおかしな発言をしていたら、愛梨が返ってきた。
 服装はそのままで、右手には体操服袋を持っている。着替えはその中で、言ってから着替えるようだ。
「ううん、全然待ってないよ。正樹と話してたから」
「おにーさんと。愛梨、おにーさんにお礼言えてないから、お話していい?」
 う~ん。今の正樹と話すのは心配だが、感謝の気持ちは大切だからね。
「はい。どうぞ」
「ありがと~。…………あのあの、橘愛梨です。昨日は、ありがとうございましたっ」
 見えないのにお辞儀してる。微笑ましい光景だ。
「……うん。そうだよ。うん。うん。アニメ?」
 おや? これは……。
「アニメは、あんまり見ないかなぁ。……ぇ、すっごく面白いアニメがあるの? 愛梨におすすめ? 絶対に楽しい、の……? タイトルは――」
「おっと電池が切れたみたいだ。さあ行こうか」
 アイツのオススメするアニメは、小学生には早すぎる。
 俺はスマホを超高速でタップして、残念そうにポケットに捻じ込んだ。
「あや、切れっちゃったんだ。残念……」
「そうだね、残念だね。それよりここから二十分くらい歩くけど、いいかな?」
「うん!」
 元気一杯の、いい返事だ。
 運悪く(?)電池切れになったことだし、出発するとしましょう。
                   ☆

「うわ~、すっごい! プールもあるんだぁ」
「そうなんだよ。ここはねテニス場以外にも、大きなプールがあるんだよ」
 あれから仲良く歩いて、無事到着。個人経営だけどなかなかの規模がある、所謂レジャー施設にやってきた。
「それじゃ、まずは受付をしよう。こっちだよ」
 俺は正面にある建物のドアを開け、揃って中へ入る。
「すいませーん」
 なぜか内部に誰もいないので、呼ぶ。
 ………………。
 けど、誰も来ない。シーンというやつだ。
「??? 今日は、お休みなのかな?」
「そんなはずは、ないんだよなぁ。すいませーん!」
 大き目の声で挑戦すると――お。奥からやっと、女性が出てきた。
「はいは~い。こんな時間に何――おおっ! しゅ~ちゃん!」
 俺の姿を確認するや、女性の眠たそうな顔に活力がみなぎる。
「しゅ~ちゃん! しゅ~ちゃんよねっ?」
「はい、どもですおばちゃん。お久しぶりです」
 とりあえず、俺も挨拶をする。
「はえ? しゅ~ちゃんの、おばちゃんさん?」
「ああいや、違うんだよ。この人は他人で、ちょっとした知り合いなんだよ」
「そうなんだぁ。でもでもどして、おばちゃん? 愛梨、おばちゃんには見えないよ?」
 それはもっともだ。
 俺が『おばちゃん』と呼んでいる目の前の人は、24歳。腰まで伸びた茶色の髪が印象的な、お姉さんなのだから。
「あのね。この人は『おばちゃん』って響きが気に入ってて、そう呼べって言われてるんだよ」
 本人から聞いた話だと18の時、歳が離れた兄の子供――甥っ子に「おばちゃん」って言われて、ソレが気に入っちゃったらしい。普通ならば十代の女子がおばちゃん呼ばわりされたら怒るはずなんだけど、この人は楽しければどうでもいいタイプだからいいのだろう。
「ふぇ~、そーなんだ。すごく綺麗なおばちゃんさん、お名前はなんですか?」
「おっ、あたし綺麗って言われちゃったよ。にこっ」
 にこっ、じゃないよ。ピースはやめてください。
「おにーちゃん。お名前は?」
「え~と。名前は…………あれ? なんだっけ?」
 そういえば初対面の時からこう呼んでって言われて、まだ本名を聞いてない。苗字は知ってるんだけどな。
「あたしのことは、おばちゃんって呼んでくれていいよ。あたしはそっちが気に入ってるからさ」
 おばちゃんは、ニッカリと笑う。
「うん、わかりましたー! おばちゃんさん、よろしくですっ」
「ははっ、可愛い子じゃないか。え~と……」
「愛梨っ。橘愛梨ですーっ」
「愛梨ちゃんね。いい名前じゃないの。……ところで、おにーちゃん? 彼女とはどういったご関係なのだね?」
 うぐっ。な、なんと答えればいいのやら……。
 ええいにやけるな!
「まあ、色々あってね。友達になったんだ」
「ふ~ん。で、今日は何しに来たの? プール?」
 アホか! 今は五月だぞ!
「しないって。寒いし」
「え~。今なら、ミジンコとかアオミドロと泳げる特典つきなんだけどなぁ」
「それは単に掃除してないだけでしょ。……今日は、その……。テニスをしに来た」
「おほぅっ、テニスぅ! なになに? しゅ~ちゃんまたテニス始めたの!?」
 ああっ、おばちゃん余計なこと言わないでっ。このことは内緒に
「おにーちゃん。テニスしたことあるの?」
 あぁ、遅かった。
 愛梨が興味津々で、俺を見上げてくる。
「おにーちゃん。テニスしたこと、あるの?」
「う、うん、たしなむ程度にね。最後にしたのは一年以上前だけどさ」
「もう、な~に謙遜してんのさ。あの頃はガンガンやってて、スクールの先生より強かったくせに~」
「おにーちゃん、すごいんだぁ。愛梨、教えてもらいたいな~」
「しゅ~ちゃん、教えてあげなー。そうかそうか。優しいね、さすが紳士。高校生になったら余裕がでてくるね~」
 いやいや。俺、まだ一言も喋ってないんだけど。
「ま、まあ、その話は置いといて、とりあえずラケットとボールのレンタルを」
「はいよっ。けど……それのレンタルはないよ? 持ってきてる?」
 それ? おばちゃんの指の先には、シューズ。あっ、しまった!! 久しぶりだから、テニスシューズの存在を忘れてた!
「あ~あ~。持ってないんだね?」
「……はい」
「なら、仕方ない。ハードコートなら使っていいよ」
「へ!? いいんですか? 普通の靴だけど?」
 俺と愛梨はスニーカーだけど、いいの?
「まあ一年ぶりの、しゅ~ちゃんの頼みだからね。それに近々ハードコートを大幅に改造するから、気にしない気にしない」
 改造ってなんだろう。整備のことかな?
「あーもう、俺はなにやってんだか。本当にすいません」
「ふっ、問題なしさ。じゃあラケットを持ってくるから、チョイ待ちね~」
 彼女は颯爽と奥へ消え、約一分後、大量のラケットを持って帰ってきた。
「す、すごいラケットの数。なぜそんなにある?」
 レンタルっていっても、これは多い。二十本以上あるのは驚きだ。
「実はしゅ~ちゃんが来なくなった後、テニスブームってのが来たらしくてさ。お客が増えまくって増やしてて、売り上げはウハウハなのよ~」
 最近は日本人選手も、ランキングの上位に入ってるもんなぁ。ここもその恩恵を受けていたのか。
「あははー。そりゃ良かった良かった」
「気持ちが入ってないわっ!! ってな感じで突っ込んで、さて愛梨ちゃん。ラケット選びなんだけど、テニス初めてかな?」
「うん、はじめてですー。おにーちゃん、どれがいいかなぁ?」
「愛梨にはそこの、ソレ。フェイスが大きいやつがいいんじゃないかな」
 端っこに置いてある、ピンク色のラケットを手に取ってみる。
 …………うん。広さも重さも丁度だ。
「そなんだっ。愛梨、おにーちゃんが選んでくれたのにするー」
「これが、はぴったりだと思うよ。はいどうぞ」
「おやおや~、ラブラブですにゃ~。そんなしゅ~ちゃんは、これでいいよね」
 おばちゃんが持ってきたのは、俺が愛用していたラケットと同じモデル。しかも色まで一緒だ。
「いや、今日は違うやつで……。え~と、これにしよう」
 俺は、赤のラケットを選んだ。理由は、まあ色々。
「そうかそうか。では、ボールはコート脇の物置にあるやつを使いたまえ。今日は何時間やってく? 十時間かこの野郎っ」
「十時間って、夜になるでしょ。そうだなぁ、二時間で」
 愛梨は初めてだから、これくらいが丁度だろう。
「おけー。じゃあ、愛梨ちゃんはこっちにおいで~。更衣室に案内するよん」
「おばちゃんさん、お願いしますーっ。」
「はいよっ。しゅ~ちゃんは、先にコートに行ってなよぅ。それとも、ウォーミングアップに泳ぐ?」
「だから泳ぎませんって! 愛梨、先に行ってるね」
 俺は二人分のラケットを持って、プールの隣にあるハードコートへ向かう。
 そこに着くと物置をガラリと開けて、おっ。中にはスーパーマーケットで使うカゴとカートを再利用したボール入れと大量のボールがあったので、今回はそれを使わせていただこう。
「よっし準備完了。……この景色、久しぶりだな」
 コートを眺めていると、自然とそんな言葉が漏れる。
 そして、愛梨が来るまで暇だからという理由でボールを手に取り、地面に落としてバウンドさせてみる。
 そうしてそれを数回繰り返していると、今度は打ちたくなってきた。
「……うん。少し、サーブをやってみるか」
 俺はラケットを右手に持ち、ベースラインの後ろに立つ。
 そこでボールを3回バウンドさせてから高く上げ、それと同時にラケット振り上げ、膝を曲げ、力を溜める。そしてボールが打ちごろの高さに落ちてくるタイミングにあわせ、力を開放。跳び上がりながら背面に回していた右腕をしならせ、全身を使って――ボールを叩く!
「はっ!」
 順回転の掛かったボールは、センターに一直線に飛び、反対のコートに突き刺さった。
 今のは僅かにフォルトだったが、スピードはまずまず。自分でも驚くほどに、フォームを覚えていた。
「ボールを捉えた時の、あの、何ともいえない――ガットに吸い付くような感覚。久しぶりに、思い出した」
 けど。それと同時に余計なことまで蘇る。余計なこと、それは小学生の記憶。
 テニスを始めたのは、小5の6月頃。つまり、イジメが始まった時期と近い。だから、どうしても思い出してしまう。
 テニスとはまったく関係ないのに、思い出してしまう。
「……俺がテニスから離れたのも、これが原因の一つ、なんだよなぁ」
 引越しが決まった、高校入学前。俺は嫌な思い出を切り離したい、置いていきたい、という理由で止めた。
 無論そんなことで切り離せはしないし、置いていくこともできない分かってる。それにテニスには、良い思い出もいっぱいある。おばちゃんと出会えたし、ここで知り合った友達もいる。
「けど……」
 人間ってのはやっかいな生き物で、楽しいことより嫌なことを記憶する。思い出してしまう。
 こうなる可能性があったから、逡巡していた。
 だから、俺は――って何を言ってるんだ。
「ぃつっ!」
 余計なモヤモヤを追い出すべく、ラケットで頭を叩く。
 今日は、愛梨のために来てるんだ。俺がこんなこと考えてたら、楽しめないだろ。今日は、今日は大丈夫。ラケットも違うし、愛梨もいる。今日は俺も、純粋な気持ちでテニスをしよう。
「………………さってと。チェックでもしとくか」
 そう自分に言い聞かせてから打ったボールを回収し、コート&ネットのチェック。丁度ネットの高さの確認を終えた頃、背後から「おにーちゃん」と声がした。
「待たせしましたー。遅くなってごめんなさい」
「ううん、全然待ってないよ。こっちも色々準備をしてて、終わったところだよ」
 学校指定の体操服――紺色のズボンと半袖スタイルの愛梨に顔を向け、ゆっくりと首を左右に振る。
 そういえば体操服姿を見るのは初めてで、こちらもすごく新鮮だ。
「だったら、よかったぁ。おにーちゃん、まずは何をすればいいかなぁ?」
「まずは、準備運動だね。さあ始めよう」
 二人で屈伸、柔軟など一通りこなして身体を温め、準備運動は終了。いよいよ、テニスを行う。
「おにーちゃん。どんなことをやるの?」
 待ちきれない様子で、覗き込んでくる。
 そうだなぁ。愛梨は今日が初めてだから、時間も考えると、打ち方とか基本的なことを教えて終わりかな。
 最後に、軽くでもラリーができたら上出来だ。
「じゃあはじめに、ボールを打ってみようか。まずは素振りしてみて」
 本当は握り方から教えたほうが良いんだけど、今回は楽しむことが前提だからね。そこは飛ばしておく。
「はいっ。えっと、こうっ、かなっ!」
 おお、様になってる。握りは、イースタンに近い。テレビで見てただけあって、自然と身についたのかもだ。
「では、次はバックハンド――。今と反対に振ってみて」
 テニス用語が分からないかもしれないので、身振り手振りで説明する。
「うん。えいっ、えいっ」
 バックは両手打ち。
 握りも問題ないし、スイングも結構滑らかだ。これは、意外にいけるのではないか?
「とっても上手で予想以上だから、ボールを打ってみよう。まずは俺を見ててね」
 打つ構えをして、自分でボールを落とす。そして、バウンドしたところを打つ。俺は最初、これでひたすら練習した。
「うわぁ~。きれーに飛んだー」
「分かったかな? 愛梨もやってみて」
「はいっ。やってみまーすっ」
 ボールを受け取った愛梨は、ベースラインに立ち、構え、ボールを落とし、打った。
「ありゃ」
 スイートスポット――ラケットの真ん中では打てなかったけど、ボールはコート内に飛んでいった。
 うん。いい感じだ。
「愛梨、もう一回。今度は、インパクト――ボールを打つ瞬間まで目を離さないようにね。それ以外は良いからさ」
「んっ。わかったーっ」
 しっかり頷いてから行われた二回目は、パアンという良い音でボールが飛んだ。
 う~む、愛梨は筋が良いのかもしれない。左手も上手に使えているし、やはり小さい時からプロの動きを見ていると違うのだろうか。
「ナイスっ。すごくいいよっ」
「えへへ。えへへぇ」
 自分でも驚いているみたいで、照れ笑いを浮かべてる。
「本当に上手で、折角だ。ついでにトップスピンとスライスというのも、やってみる?」
「とっぷ? うん、やってみる!」
 良い返事。では、まずはトップスピンから。
 まず俺が、手本をみせる。
「ふぅー。はっ!」
「わわっ、高く跳ね上がった~。おにーちゃん、テレビの人達みたい!」
 いや、その人達の足元にも及びません。あっちはプロで、こっちは高校生だしね。
「これが、トップスピン。これは、さっき愛梨が打った――フラットって言うんだけど、それより順回転、こっちむけの回転を多めにかけて、入りやすくする。落ちた後は、高く跳ねるから、簡単に言うと攻撃用だね」
「ふぇー、そうなんだ~。愛梨も、やってみるね」
「うん。コツとしては、さっきより、斜め上にスイングする感じで」
「斜め上、斜め上……。えいっ」
 さすがに、こっちは難しい。コート内に飛んだものの、あまり回転は掛かっていなかった。
「あのね、もう少し膝を使って…………伸び上がるイメージで。あと、身体全部を使って打つといいよ。今愛梨は手だけで打ってるから、身体の回転を意識したらきっと上手くいくよ」
「お膝と回転だね。えっと、お膝お膝、回転回転……やあっ!」
 なんと!? 僅かだが、トップスピンになっていた。
 この子はやはり、センスがある。
「次は、スライスいってみようか」
 もっとトップスピンを練習してもいいけどそれは後にして、良い流れのままスライスに移る。
「スライスは今までの二つとは違って、逆回転、こっちの回転を加えるんだ。これの特徴は、速度が遅く時間が稼げること。体勢を崩されたり、戻れない時はこれで凌ぐんだ。さらにスライスは落ちた後、滑る。だから、こっちは防御メインだね」
 手でボールを回転させながら、説明をする。
 出来るだけ難しい表現は使いたくないんだけど、こうとしか表せないんだよねぇ。
「ふや~、こっちは難しそう。さっきまでと違って、こう、下向きになるから」
「注意するのは、面、ラケットを上向きにしすぎないことと、振り下ろしすぎないこと。こっちの回転だからそうしたくなる気持ちがでてくるんだけど、そうしちゃったらボールがネットに引っかかったり、叩きつけたりしちゃうからね。それを気をつけて、一度やってみて」
「うん。上向きにしない、上向きにしない……。振り下ろさない、振り下ろさないで……。あうぅ」
 意識しすぎたせいか、ネットに掛かってしまった。
 でも、いい感じだ。
「もうちょっと、押し出す感じで。良い線いってるからね」
「押し出す、押し出す。せーの……」
 今度はコートに入ったけど、ロブ気味になった。しかし回転は掛かっていて、もう一歩だ。
「おにーちゃん。どこを直せばいいのかな?」
「そうだね……もう少し、さっきみたいに全身を使ってみよう。でも今回はトップスピンほど身体の回転は必要ないから、特に膝を柔らかく…………えっと、こういう感じで」
 俺が実践して、見て覚えてもらう。
「これを守っていれば、できるよ。やってみて」
「うんっ。えーと、全体、柔らかく、柔らかく、柔らかく……はあっ」
 回転量は少ないけど真っ直ぐゆっくり飛んでいき、ベースラインの向こうに落ちた。
「アウトになったけど、今のいいよ!」
「やったぁ! おにーちゃんに教えてもらったとおりにやれば、できたよ! おにーちゃん、他にも教えて!」
「OK。もう一回おさらいした後は、色々教えるね」

                   ☆

「これで、基本的なことは全部終了だよ」
 その後、バックハンド全種、ボレー、スマッシュ、フラットサーブを教え、不完全ではあるけど、習得した。
 ……うん。わかってます。
 愛梨が熱心だから、つい詰め込みすぎてしまいました。
「愛梨と一緒だったら、我を忘れてやっちゃったよ。ラリー――一緒に打ち合う時間が無くなっちゃって、ごめんね」
「愛梨もおにーちゃんと一緒で、すっごく楽しかったーっ。いっぱい教えてもらえたから、面白かったよー」
 そう、ですか。
 それならよかったよ。
「ではクールダウンを行って、用具を戻そう。お疲れ様でした」
「お疲れさま、でしたー!」
 俺達は笑い合って、軽くストレッチ。身体を落ち着かせたあと倉庫にボールなどを返して、おばちゃんが待つ受け付けに戻った。
「お、お帰り~。愛梨ちゃんは、どうしたのん?」
「汗を沢山かいてたんで、着替えてもらってます。道具、ありがとうございました」
 俺は改めて礼を言いながら、ラケットをカウンターに置く。
 準備不足だったのにコートを貸してくれて、感謝っス。
「いいってことよ~。しっかしキミは、ダメな子だね!」
「へ?」
 は?
 いきなり怒られたぞ。
「俺……。何か、しましたかね?」
「したともさ! 何で二時間ぴったりに戻ってくるんだね、キミは?」
「は? だって、二時間の約束だから……」
「はぁ~、しゅ~ちゃんは真面目だねぇ。普通2時間の約束だったら、3時間くらいしてくるもんだよ? 1時間の遅刻は認めてあげるのに」
 おいおい。経営者がそんなこと言っていいのかよ。
「もう。そんなこと言ってたら、潰れちゃいますよ?」
「いいのいいの。これはしゅ~ちゃん限定のサービスだ・か・らっ。きゃはっ」
 きゃはって……。勝手に照れられても困ります……。
「と、とりあえず会計お願いします。いくらでしたっけ?」
「え~と~。二時間+ラケット二本+ボール+あたしのはーとで……」
「チョイ待ち! 最後の関係ないでしょ!?」
 あたしのはーと、って何さ。怖い怖い。
「も~。軽い冗談なのにぃ」
「分かりましたから。いくら、でしたっけ?」
「全部合わせて、千円ね」
 ほぅ、千円ね。え、千円!?
「それ、間違ってますよ? 二時間だけでも千円越えてるのに」
「いいのいいの」
「いや……。しかし……」
「今日はね。楽しそうにテニスするしゅ~ちゃんが見れたから、それでいいんだよ」
 からかうような笑顔が、ふっと変化。とても優しく温かい笑顔になった
「……………おばちゃん。見てたんスか?」
「うん。ちょっとだけ、だけどね~」
「そうっスか……。…………俺、そんなに楽しそうでした?」
「うん? 楽しくなかったの?」
「いや……。楽しかった」
 途中から、嫌なことなんて完全に忘れてたくらい。
 楽しかった。
「あたしも嬉しかったから、見学料ってことでさ。それに、これからも来てくれるんでしょ?」
「あー……。それは……」
 愛梨と一緒にいるのは、役目を終えるまでだからな。早ければ来週には――
「痛っ!?」
 不意にデコピンされた。
「なっ。何を……?」
「こういう時は嘘でもいいから、はいっ、って返事するんだよ。まあ嘘だと残念なんだけど。さ、細かいことはもういいから、千円だしなさい!」
 ……。この人には敵わないな。
「すみません」
「いいのいいの。はい、丁度頂きました~」
 ホント。本当に、感謝です。
「……あ、そうだ、スポーツドリンク貰えます?」
 レジの下に、『一本 100円』の張り紙を発見した。
 このお礼と、愛梨のため。二つの意味で買わせてもらおう。
「おっ、売り上げに貢献してくれるのかね。偉い偉い」
「今日はお客さんもいないみたいだし。微力ながら支えさせてもらいますよ」
「いや~、そうかいそうかい。それはとっても有り難いけど、ここを見てみ」
 ここ?
 あ、レジに張り紙がある。なんだろ?

『今週の土、日はお休み致します』

 あれ? これって……。
「そ、人がいなくて当たり前。改造するから、今日明日はお休み。今日はしゅ~ちゃんのために特別営業よぅ」
「ぜっ、全然気付かなかった。すいません!」
 先に呼んでしまったから、見てなかった。
 だからカウンターにいなくて、最初眠そうにしてたんだ。
「ごめんなさい! とにかくごめんなさいっ!」
「いいのよ~、どうせ暇だったし。で、スポーツドリンクだっけ?」
「は、はい。二本いただきます」
「はいよ。毎度あり~」
 平謝りをしつつお金を渡し、ペットボトルを受け取っていると、愛梨が来た。
「遅くなりました~。あの、おばちゃんさん、タオルありがとうございましたっ」
「はいはい。愛梨ちゃん、楽しかった?」
「うんっ。おにーちゃんにね、テニスを教えてもらったの。おにーちゃんはすっごく上手で、また一緒に来たいなぁ」
「そっかそっか。だってさ、おにーちゃん?」
「や、止めてくださいよ」
 照れるでしょうが!
「あの……お金、まだだよね? これ少ないけど、愛梨のお小遣い」
 体操服袋から、可愛らしいピンクの財布を取り出していた。
 途中から、お金のことを言わなくなったと思ってたら……。こういうことだったのか。
「あのね。それなら――」
「愛梨ちゃん。お金なら、おにーちゃんが払ってくれたよ」
「ええっ!」
「あのね愛梨ちゃん。おにーちゃんが出したいって言ってる時は、素直に聞いてあげてね。なんならさっ、もっともっとみつがしなっ。あはははは」
 ぉぉ。折角の良い台詞が、最後で台無しにしちゃったよこの人。
「ま、そういうことだから。愛梨そろそろ帰ろ?」
「……うん」
 愛梨は俯きがちに、控えめに微笑んでくれた。
「おばちゃん。ありがとうございました」
「どーもありがとうございましたー」
「はいよっ。また来なさいよ~」
 俺達は並んで挨拶してから、建物から出る。
 そうして涼しい風を浴びながら少し歩き、冷えたスポーツドリンクを渡そうとしていた時だった。愛梨がクイクイっと服を引っ張ってきた。
「はい? なにかな?」
「おにーちゃん、今日はすっごく楽しかったよ。また今度遊んでくださいっ」
 俺を覗き込むその顔は、眩しく輝くくらいの笑顔。
 だから俺も、おもわず頷いてしまったのだが――。

 なぜ、なのだろう。

 どういうワケか一瞬だけ、頷いている最中に、原因不明の不安が過ったのだった。
 日曜の大半を筋肉痛との戦いで過ごし、今日は月曜日。
 だらだらと登校。眠たい目を擦りながら我がクラスのドアを開けると、なぜか正樹が妙な笑顔で待機していた。
「おはよ、修ちゃん。待ってたよ~」
「お、おはよ」
 朝からテンション高いな。
 しかし、ドアの前に立ってるって……。何分俺を待ってたんだろう。
「さささっ。こちらへどうぞ」
 高級料理店の店員の如く丁寧に案内され、自分の席に座る。
「? 正樹、どうしたの?」
「ちょっと、修に聞きたいことがあるんだよ」
 ああ、だから待ってたのか。聞きたいことってなんだろ?
「何?」
「プチハーレムは楽しかった?」
「……。は?」
 ぷちはれーれむ?
「愛梨ちゃんと、あの落ち着いた女の子と過ごしたんでしょ? だったらプチハーレムじゃねぇですか」
「うるせぇこのキモオタ。なんでもかんでもそういう目で見るんじゃねーよ」
「え~。でもでも、事実ですしぃ」
「バーカ。その日は綾音は、家の用事で来れなかったんだよ。俺は愛梨と、一緒だったんです」
「ありゃ、そうかそうか。……あれ、でもそれはそれで、愛梨ちゃんに集中できていいよね」
 俺はおもわず、嘆息してしまう。
 月曜だってのに、いきなりこれ。精神を削ってくるから話を変えよう。
「ところで、正樹。そっちはどうだったんだ?」
「そりゃあもうバッチリよ!」
 あっさり成功。この活き活きとした様子、水を得た魚のようだ。
「ふーん。良かったな」
「うんうん。色々買えたしね~、あ、そうそうっ。ふらっと寄ったお店で、買い逃してた本の初回限定版があってさ~。予定外の出費だったよ、まいったまいった」
 口ではそういいながら、充実の表情。ものすごい生き生きとしている。
「その本って先月、お金が足りなくて諦めてたやつだろ? 確か人気って言ってたのに、よく残ってたね」
「そうなんだよ! 僕も発見した時は、幻かと思ったくらい。いや~、あのお店は穴場だわ。今度、一緒に行こうぜ~」
「ああ。全力で拒否するよ」
 どうして興味のない俺がいかないといけないんだ。
 誘うなら、同類の父さんにしろ。
「…………ああ、でもあれか……。同じ時間に修は、愛梨ちゃんと遊んでいる……」
「だから俺は不参加だと言ってるし、自分の話が終わったらまた戻るのかよ。どんだけ残念がってんだ」
「だって……。愛梨ちゃんのサンドイッチ、食べたかった」
 とてつもなく、シュンとなる。今の正樹ほど『うな垂れる』という言葉が似合うやつもいるまい。
「ったく、仕方ない。実は、愛梨と綾音から、お前にプレゼントがあるんだよ」
 絶対に騒ぐから放課後に渡すつもりだったんだけど、あまりにも落ち込んでるからな。ここで渡しておこう
「はえ?」
「はい、これ」
 鞄から青色のリボンでラッピングされた袋を出し、手渡す。
「隊長。これは……何で、ありますか?」
 隊長って誰だ?
「これは、カップケーキ。金曜日のお礼したいってことで、昨日二人で作ったんだって。あと、これ手紙。ちゃんと話せなかったからってことらしいよ」
「…………」
 おおぅ。ものすごい勢いで取って、ものすごい勢いで手紙を読んでるよ。
「昨日の夜――七時くらいに綾音からメールがあって、取りに行ってたんだよ。んでその日に渡そうと思ったけどさ、お前は留守だったってわけだ」
「…………。ウレシ」
「え?」
 読み終えた途端、ウレシ? 嬉しいって、こと?
「キマシタヨキマシタヨ。ボクニモキマシタ。フタリトモアリガト」
 おいおい……。日本語がカタコトになってる。
「ちょっ。大丈夫か?」
「……ありがとう! 僕なんかのためにっ! よっし、これは家宝にするぞっ! 絶対に食べないグヘヘ」
 まさに、狂喜乱舞。袋を抱きしめたまま回転してる。
「おい、その辺にしとかないと、そろそろ――」
 ガラガラ!
「席に着け。HR始めるぞ」
 言おうとしたら、坂本先生きちゃった。
「正樹。早く隠さないと没収されるぞ」
「はいはい。分かってまするよ~。あははははははは~」
 ヤツは回転しながら、器用に自分の席へと戻っていった。
 ぅーん。やっぱり、渡す時間、間違えたかなぁ。

                   ☆

 全ての授業が終わり放課後。
 やっぱり、朝渡すべきではなかった。
 頭のネジが外れかかった正樹は、授業中、鞄に入れたカップケーキを見ては「クケー」と奇声を発した。しかも毎時間。
 だから一時間ごとに先生に怒られる、心配されるの繰り返し。そしてついに六時間目・坂本先生の授業では、バケツ(水入り)を両手に持って廊下に立たされた。
 まさかこの時代で見れるとは思ってなかったし、やらせる人がいるとも思っていなかったよ。
「いや~、今日は酷い目に遭ったぜぃ。疲れた疲れた」
 落ち着きを取り戻した本日の主役が、肩を竦めながらやってきた。
 こいつは、全く反省していない。明日になるまで廊下に立たせておいた方が、いいかもしれないな。
「オメーは、自業自得だ。それより正樹、急いで帰らないのか? カップケーキが待ってるぞ?」
「そうなんだけど、その前に修に渡すものがあるのだよ。ほれっ」
 机の上に置かれたのは、女の子が表紙にいる薄い本。これは、同人誌と呼ばれるものだ。
「ユーのパパに、プレゼント。夜にでも差し上げといて」
「あ~、了解了解。……しかしいつもながら、無駄に露出が多いイラストだな……」
 今回のは特に、肌が出ている。
 もしも偶然一般的な女性が見たら、嫌悪してしまうレベルだぞ。
「そう? このくらい普通だよ?」
「いやいや、これはほぼアウトだろ。あまり破廉恥なのは、どうかと思うなぁ……」
「も~。相変わらず修は、純情さんだね~」
「純情、ねぇ。お前から見たら、普通が純情なんだろうな」
「ノンノン、紛れもなく純情クンさ。そんなんだから修は、皆に『BL大好き男子』疑惑をもたれるんだよ」
「は!?」
 今さりげなく、信じられないこと言ったぞ!
 BLって……。男同士が色々するジャンルだよなっ。
「まてっ。おれっ、そんな噂聞いたことないぞ!?」
「二年生の間では、有名だよ? 自分のことに疎くてどうするの」
 いやいやいやいや。疎いとか疎くないとかそういう問題ではなくて。
「どうしてそんなことになってんだよ。俺が何かしたか?」
「いやほら、休み時間は僕とずっと一緒だし、ふざけて抱きついたりしてるでしょ」
 ああね、確かに。二日に一回は抱きついて――
「てめえが原因かコラァ!!」
 おもいっっきり巻き舌で言ってやった。
「てへっ☆」
 ……。こいつ、殴りたい。
「てことは、あれか……。俺達は、そういう風に見られてたってことかよ」
「そゆことになるね♪」
 何を楽しそうに……。
 今、ようやく合点がいった。数日前のエロDVD騒動、あの時全力否定した俺を皆が信じてくれたのは、そういう理由だったのか。
「まあまあ、人にどう思われたっていいじゃん。僕は二次元美少女にしか興味なくて、修はノーマル人間なんだから」
「まあ……。そうだけども……」
「それに、いいこともあるしね」
「いいこと? それって?」
「隣のクラスのSさんが、同人誌を作ってた。もちろん『修×正樹』で♪」
「それってBL本じゃねぇかよ!! しかも何でキャラじゃなくて俺達なんだよ!!」
 これは、あれか? 新しいタイプの嫌がらせか?
「僕達、みてくれはいいじゃん?」
「自分で言うなバカ野郎!」
「冗談だってばぁ。まあまあ、Sさんは絵が上手いよ。コミケにも参加してるから」
 上手い下手の問題じゃなくてね、描いてること事態問題なんだってば。てかそのSさんってどんだけ物好きなんだよ。
「そういや、上手いって。お前見たの?」
「3作目をちょこっと。内容は……僕の部屋で、修が優しく僕のシャツのボタンを――」
「だぁっ、もう止めろ! お前恥ずかしくないのかよっ、よく言えるなそんなこと! もういからこの話はおしまい! もう二度とするな」
 精神が崩壊してしまう。
 3作目、って部分は聞かなかったことにする。さてと、脳内データを消去消去っと。
「は~。修がそういうなら、仕方ないなぁ~」
 なぜに残念がる。そういうの、やめろ。
「あのさぁ。お前が責任持って皆、特にSさんとやらに説明しといてくれよ?」
「う~ん。分かったけど……」
「けど、何?」
「原因の一つにはさ~、先月に行われた『第一回 エロ本(二次元と三次元)観覧大会』にクラス男子で唯一参加しなかったってのもあるんだよ?」
「そんなの知るか」
 何が大会だ。実際は、教室の後ろに固まって本読んでるだけだったくせにさ。しかも女子にすぐ見つかって激怒されて、次回の開催は未定になってるってのに。
「前から聞こうと思ってたんだけどさ。修は、何でエロ嫌ってんの?」
「別に。大した理由はない」
「え~、聞きたいな。どうしても、秘密?」
「……しつこい。どうしても秘密なんだよ」
 つい、声のトーンが低くなってしまう。
 たくよ、言えるわけないだろ。俺がそんなのを嫌いなのは、小学校の時のことが関係してるんだから。
 まあ、なんつーか……六年の時に学校行ったら、机の中にその……エロい本が入ってたんだよ。もちろん、俺のじゃない。恐らく、クラスの誰かのにーちゃんが買ってたやつなんだろう。
 で、それを捨てようとしてるところを偶然――いや、その瞬間を狙ってたんだろう、見つかって、クラスの男子が大騒ぎ。
 そんな出来事があってから、どうにもそういう本が苦手になったんだよね。
「うーむ、そっかぁ。したらばこの話は厳重に封印で、帰りますか」
 思ってたより、暗くなってしまっていたのだろう。気を遣われてしまった。
「ちょいと調子に乗りすぎた。ごめごめ」
「別にいいよ。そうだな、いつか話すよ」
「親しき仲にも礼儀ありで、もういいってば。それより今日も、愛梨ちゃん達と会うんでしょ?」
「うん。そうだけど、どうした?」
「じゃあさ、僕も一緒に行っていい? 直接感謝の意を伝えたいんだよ」
 手紙を書いたけど、二人も直接会ってお礼をしたがってた。これは丁度いい機会だ。
「いいよ。ちょっと待って、学校出る前にメールしとくから」
「はいは~い」
 えっと、スマホは…………あったあった。ポンッとタップをして――あれ、綾音からメールが来てる。
「もしかして、用事か何かがあるのかな……?」
 正樹のおかげでああいう事件は起きないから、きっとそう。
 とりあえず開封して、確認してみよう。
「えっと……。なになに……?」

《こないで》

 え?
 たった四文字。スマホの画面には、無機質な文字だけが表示されていた。
「おん? どしたの?」
「あ、いやね。綾音からメールが着てたんだけど……」
「どれどれ? みせてー」
「おいこらっ、覗くな! お前みたいなやつがいるから、世界中でトラブル発生していて――」
「あははははっ、嫌われたー。修先生、お主一体何したの?」
 こいつ、勝手に見て爆笑してやがる。さっきは、しまった的な顔をしてたくせに。
「人聞き悪いこと言うな。そりゃこっちが聞きたいよ」
「でも、それって絶対怒ってない? 何か失礼なことしなかった?」
「するわけないと、断言できる。それに昨日会ったばかりで、その時はカップケーキ貰ったんだぞ。もちろん美味しかったありがとう、ってメールした。これを見てみ。怒ってるように見えるか?」
 正樹に、昨日綾音とやり取りしたメールの一部を見せる。
「う~ん…………確かに、わざわざ来てもらってありがとう的なことを書いてるね。怒ってるどころか、感謝されてる」
「だろ? だから変なんだよなぁ。それに、なんか違和感があるんだよなぁ」
「違和感? それって、ひらがなだからじゃない?」
 ひらがな? ひらがな……ああそうか。そうだ! 違和感の理由はそれだ!
「分かった! 綾音のメールはきっちり変換するし、必ず丁寧語を使ってくれるし、最後には『。』を付ける。つまり全部が変なんだよ」
「そう言われると、そうだね。となると…………理由は…………緊急を要する事態が起きた、とか」
「緊急!? まさか、またアイツら」
「それは、ないよ。輝が言ってたけど金曜の部活帰りに、金髪+その他が『お友達によろしくお伝えください』って平身低頭で言ってきたみたい」
「そ、そうなんだ」
 となると、やっぱり違う。その可能性はないな。
「もしかしたら、単に途中で送っちゃっただけかも?」
「そうだといいんだけど……」
「そんなに気になるんだったら、今から行ってみようよ。何もなかったらそれでよし。僕はついでに修の家で、パパのアニメを観ていく」
「そうだな。よっし、今から行こう!」
 俺達は頷き合い、教室を飛び出した。
                   ☆

「うーん。いないねぇ」
「だな」
 待ち合わせ場所に来たものの、二人の姿はなし。周りを見回しても、見慣れた少女の姿はない。
「初めての二人乗りなのに修ちゃんが全力で飛ばすからぁ。まさき、ぎゅーってできなかったぁ☆」
「唐突に何言ってんだ。お前もう帰れよ」
 何がぎゅーだ。僕は自分の自転車の後ろには嫁以外乗せない、とかいう理由で俺がこぐ羽目になったってのによ。しかも途中「いけないことしてる……」とか耳元で呟くから鳥肌が立ったぞ。コイツ、実は俺が好きってことないよな?
「んもぅ、つれないなぁ。あの子にメール送ってみたら?」
「メールは、とっくに送ったよ。返事はないけどな」
「そっかぁ。じゃあ折角だし、召喚術をしてみる? 昨日ゲームで覚えたんだ」
「よっし。やってやろうじゃないか」
 色々と意味不明だが、暇つぶしには丁度いい。ほら、やってみろ。
「では僕の手を握って。両方しっかりとね」
「おっけ」
 大の男が公衆の面前で手を握り見つめあう。これ、本当は男女でする召喚術じゃないのか?
「次は、呪文だ。えっと……『古よりこの地に封印されし伝説の勇者よ、我が呼びかけに答えよ』。これを同時に」
「よし、覚えた。いつでもこい!」
 こうなったら、とことん付き合ってやる。人の目なんて、気にしない。
「いくよ、せーのっ」
「「古よりこの地に封印されし伝説の勇者よ、我が呼びかけに答えよ」」
 シーン クスクス
 何も起こらなかった。
 ううん、違う。歩いていたおばさん方に、笑われた。
「おい、どうしてくれるんだ。何も――」
「すいません」
「「おわあっ!?」」
 声をかけられ、俺達は飛び上がる。もしかして、本当に勇者召喚した?
 そんなはずはなく、振り向くと知的な雰囲気の男の人が立っていた。簡単に説明すると、エリート会社員って感じ。
「えっと。俺達に何か用ですか?」
 これ、不審者と勘違いされたか?
「キミが、おにーちゃん、ですか?」
「え?」
 その人は、俺に向かってそう言った。……俺はこんな弟を持った覚えはないんだけどなぁ。
「ああ、間違えた。私は橘愛梨さんと寿綾音さんの担任なんです。キミは、二人と面識があるよね?」
 なんだ、学校の先生か。
「はい。でも、それが?」
「ちょっと、学校まで来てくれるかな? 大切な話があるんだ」
 俺に、話?
「それは……。愛梨達と関係があるんですか?」
「そうなるね。分かったら付いてきてくれるかな?」
「…………。分かりました」
(ちょっと、簡単に返事していいの? 不審者かもよ)
 正樹が、耳打ちをしてくる。
(愛梨達のことなら仕方ないだろ。メールのことも気になるし、それにこの人が俺に何するっていうんだよ)
(もしかしたら……。BL的展開で、あんなことやこんなこと……)
 この野郎。いい加減、その話題から離れやがれ。
「ああそうだ。そっちのキミも、橘さん達の関係者かな?」
「僕? 僕はおにーさんだ!」
 バカだ……。自信満々に胸を張って、バカがバカなこと言っている。
「良く分からないけど、関係があるなら一緒に。色々と聞きたいからね」
 色々? 何を聞く?
「あの。ところで何を――」
「さ、待たせているから急いで」
 質問を遮られ、理由もハッキリしないまま俺達はついて行くことになった。
 一体……。何が起きてるんだ……?

                    ☆

 まずは昇降口で来客用スリッパに履き替え、南校舎に案内される。この学校は南と北校舎があって、南校舎が後から建てられた、とのこと。
 俺らは手すりが付いた階段を上って二階へ。そしてしばらく三人で廊下を歩いていると、とある部屋の前で立ち止まった。
「ここです」
 プレートには、『応接室』とある。
 応接室とは文字通り、応接をするための部屋だ。
(ねえねえ。ここで何すんのかな?)
(さあ? ちょっと聞いてみる)
「あの、担任の先生さん。ここで何を?」
「全ては、入ってから説明します。さあどうぞ」
 そう言われたら従うしかない。なのでとりあえずガラガラと扉を開けてみると、眼鏡をかけたおばさんがいた。しかもなんかこっちを睨んでるような気がするけど、まあ入れと言われたから入る。
 そして一歩踏み入れ、右を見ると――
「おにーちゃん!?」
「鈴橋さん!?」
 愛梨と綾音がいた。
 二人は来客用の肘当てがついたソファーに座っているんだけど、なんだろう? 愛梨も綾音も、なんで来てしまったのっ? という感じの顔をしてる。
「お待たせ致しました」
 背後で扉が閉まる音がした後、愛梨達の担任が俺の横を通っておばさんの傍へ。
 えーと、これはなんだろう。部屋にはおばさんと先生と小学生二人、高校生が二人。目的が分からない。そもそも、このおばさんは誰だ? 可能性としては、愛梨か綾音のお母さんなんだろうけど、如何せん似ていない。それに……何ていうか、ヒステリックな感じがする。分かりやすく言うと、怒るとハンカチを噛みそう。
「あー、あの……。これは、何の集まりですかね?」
「っっ! アンタなに言ってんの!?」
 うおっ、質問しただけなのにおばさんがキレた。やっぱりこの人、ヒステリックだ。
「先生。この子が、そうなの?」
「はい。そうみたいですね」
 先生とおばさんが、なにやらヒソヒソ話をする。
 むぅ、さっぱり分からん。愛梨達は苦虫を噛み潰したような顔してるし、斜め後ろでは正樹が壁に張られている『西美小学校の歴史』を頷きながら見てる。
 ……コイツ、本当になんなんだろうね。
「ちょっとすみません。俺達は、何のため呼ばれたんですか?」
 ずっと相手にされないので、大きな声で尋ねてみた。
 すると二人は話すのをやめ、先生が俺の方を見て、静かに口を開いた。
「キミが京助君に暴力を振るった件で、話を聞きたいと思ってね。ここに呼んだんだよ」
「「は!?」」
 俺と正樹は思、わずユニゾンする。
 なっ? はあっ? 俺が、暴力?
「こちらは、京助君のお母さん。お忙しいところをわざわざ来てもらったんだよ」
「は、はぁ……」
 京助、といえばあのツンツンか。で、あいつの母親、と。
 うん、それは分かったけど、暴力って何だ?
「一つ質問なんですけど。暴力って、俺が何をしたんです?」
「っっ! 何ですって!?」
 たったコレだけのことで、親の仇かってくらい睨まれる。こっちはまだ何も理解できてないんだから、止めて欲しい。
「お母さん、落ち着いて。白を切るつもりか知らないけど、まあいいや。キミは先週の火曜日の放課後、京助君と会ってるね?」
「……はい」
 色々と気になる言い方だけど、ここは返事をしておく。
「そこまでは、いいよね?」
「はい」
「ではそこで、キミは京助君に暴力を振るったね?」
「……暴力って……。覚えがないんですが……」
「……正直に、言って欲しいんだけど。本当に、何もしなかった? 京助君に触れなかったのかい?」
 触れなかったって……。あいつは精密機械かよ。
「触れなかったって、まあ……。チョップはしましたけど、でも――」
「やっぱり京ちゃんに暴力を!!」
 俺の声を遮り、おばさんが激昂した。
 えっ! 暴力ってチョップのこと!?
「お母さん、ここは私が。やっぱりキミだったんだね」
「やっぱりって、何ですか。確かに俺はチョップしたけど、それはツンツン――京助が愛梨にちょっかいを出したから、助けるためです」
 まあ、暴力といえばそうなるけど……。これは、違うだろう。
「暴力を振るったことは、認めるんだね?」
「……まあ。でも――」
「ほらね、先生。もう、うちの京ちゃんが……。怖かったでしょうに」
 おいおいおい。何か、俺が悪者みたいな雰囲気になってきてるぞ。
「ちょっと待て。確かにそうかもしれないけど、さっき言ったように理由があったんだ。京助が、愛梨にちょっかいだしてたからなんだよ!」
「……はぁ。証拠は?」
「は?」
 今。この先生、ため息のになんつった?
「橘さん達も同じこと言ってたけど……。キミさ、言い訳はよくないよ?」
「待てよっ、証拠ってなんだよ? 俺は見てんだぞ? それを止めたんだぞ?」
「でもね、それを見たって人はいないんだよ?」
「いや待て、それならそっちの暴力だって証拠はないだろ? てか何を言ってるか分かってます?」
 こいつ、頭が狂ってるんじゃねえか? 支離滅裂だ。
「証拠って。キミが自分で、『暴力を振るった』って言ったでしょ?」
「何言ってるんだアンタは! だ・か・ら、それは京助を止めるためで――」
「あーもー、そんなガキ放っておきましょ。ちょっと先生」
 またもや遮られ、二人でヒソヒソ話を始めた。
(修も、厄介なのに絡まれたね。まさかあの有名人が相手だなんて)
 イライラしていると、正樹が俺にしか聞こえない大きさの声で話しかけてきた。
 あの、有名人……?
(あの人はさ、最近流行のアレ。モンスターペアレントってやつなんだよね)
 そのワードは、ニュースで聞いたことあるな。何でも、相当酷い要求を学校側に突きつけてくるらしいね。
(そこにいるオバサン。そんなに酷いの?)
(去年の文化祭では、自分の子供が主役じゃないって知ったら学校に抗議しに来たらしいよ。あと、去年の運動会。その時は百メートル走で一番になれなかったって理由で、先生と一緒に走った子供に文句を言ってた)
 うわぁ……それって、滅茶滅茶酷いじゃないか。
 自己中だし、子供にまで文句言うなんて。絶対その子達は泣いてるよ。
(あのオバサン、サイテーだな。最悪な生き物だ)
(しかも抗議があまりにしつこいもんだから、一人の先生は長い間お休みすることになったらしいよ)
 それって、精神を病んだってことだよな。
 なるほど……それであの先生は、おばさんに従順なのか。自分の身が大切だから、多少のことは強引に通すつもりなんだろう。
(しかし、アンタ。そんなことまでよく知ってるな)
(妹のなぎさが、去年まで通ってたからね。文化祭のことはなぎさから聞いた。そんでもって運動会は――目の前で、起こったからね)
 正樹にとっても、嫌な記憶なのだろう。苦笑いをしていた。
「ちょっとアンタ達、何コソコソしてんの!! どうせまた悪巧みなんでしょ!」
「違いますよ。はい、止めたからいいでしょ?」
 自分がコソコソしてたくせに、ホント自己中だ。よくこんな人間が、大人になれたもんだ。
 しっかし…………ここからどうするかな。公平なはずの担任が掌握されてるから、絶対的な証拠がないとひっくり返せない。というか、それ以前にちゃんと話を聞いてくれない。
「あの、ところでお母さん? このことは……」
「分かってますよ。私は京ちゃんを守りたいだけなの」
「では、」
「SNSで言いふらしたりたりはしないわよ。正しい判断をしてくれる、いい先生ですものね。これから何かあった時はよろしく頼むわよ?」
「もちろんです」
 目の前で繰りひろげられる、まるで上司と部下のような会話。
 この先生、自分のクラスであった問題を大きくしたくないんだ。だからおばさんの機嫌をとって……。
「じゃあキミ、学校と名前を。まずは先生に連絡するから」
「おいおい待てよ。そっちの意見だけで進むのはおかしいんじゃないのか? こっちの意見だって聞けよ」
「意見、といってもねぇ」
「俺が初めて愛梨を見た日、京助以外にも背が高い坊主のヤツ等が愛梨を囲んでた。そいつらは証拠じゃないのか?」
「その子達にも、ちゃん聞いたよ。けれど、何もなかったと言っているんだ」
「ソレ、ちゃんと聞いたのかよ! じゃあ、これはどうだよっ。金曜日の――」
 と言いかけて、止めた。あの事件は京助の兄が加わっているから絶対的な証拠なんだけど、空き地だったから目撃者もいないし、黙秘されたら終わりだ。
「金曜日がどうかしたのかい? もう、この辺でいいかな?」
 早く面倒事を終わらせたい。という考えが、態度に滲み出ている。
「……まあこれは証拠にも何にもならないけど、良く考えてみろよ? 俺が何もしていない、ただ歩いている小学生にチョップすると思うか? そんなの、大げさに言えば通り魔と一緒だろ?」
「そうっ、アンタは通り魔と一緒よっ! どうせイライラしてて、小さな子に八つ当たりをしただけなんでしょっ!」
「なっ……っ」
「もしくはアレよアレ。小さな子が好きな、ロリータコンプレックスってやつ。弱い子を攻撃して、『俺は強いぞ~』という風に気を引こうとしてたんでしょっ」
 こ、このババア……っっ。人をなんだと思って――
「おにーちゃんは違うよ!」
「鈴橋さんはそんな人ではありません!」
「小さい子が好きで何が悪いんだ! 若さにひがむなよクソババア!」
 ずっと黙っていた愛梨と綾音が、抗議してくれた。正樹は、なんか開き直ってくれた。
「まあ、俺のことをどうこう言うのは勝手だが……このままじゃ愛梨達も納得できない。とりあえず、問題の京助を呼んでもらえませんか? というか、普通はこの場にいるべきじゃないのか?」
 それは、話し合いの基本のはずだ。そもそも、子の代わりに来ている時点で出しゃばりすぎだ。
「それは……。京助君にも都合ってものが」
「京ちゃんは塾の時間だから、アンタ達とバカ話をしてる暇はないの!」
 塾、だって?
「ほぉ、たかだか塾なんかのために、ここに来てないっていうのかよ」
「たかだかじゃないわよ! アンタ達みたいな――そういえば、その制服……。アンタ達は、近くの西園高校でしょ?」
 俺達を見下したよな、意地の悪い笑みを浮かべやがった。
「そうだが……。それがどうしたんだ?」
「やっぱり。西園なんていう低レベルの学校に通う人間には、勉強の大切さが分からないでしょうね」
「「…………」」
「京ちゃんには、良い学校に行ってもらいたいの。だから、つまらないことに時間を割いてる暇はないのよ」
「「…………」」
 俺も正樹も、一切反論しなかった。
 確かに、俺達の学校は県内でも下のほうだ。けど、自分が通う学校を馬鹿にされて気分がいい訳はない。
 けど、けどだ。俺達は何も言わない。それは、分かっているから。そういう人間が沢山いるということを。
 実際に、俺達の周り――学校の先生の中にも、こんな考えの人はいる。例えば去年の英語の先生。この人は、成績によって生徒との接し方を変えていた。俺は中の下くらいだったからまだましだったが、下の方の正樹は結構酷いことを言われていた。
 まあ少しは、そういう気持ちが分からないわけでもない。親は自分の子供に良い大学、良い仕事に就いてもらいたい、楽してもらいたい。そう思うのは当然だ。自分が苦労したからこそ、なおさらだろう。
 でも、この場合は違うんじゃないか? 勉強とかそういうモノ以前に、人としてどうかと思う。
「じゃあ、あれですよ。この話は、日を改めて――」
「その必要はない。まずは連絡をさせてもらう」
 都合が悪くなったら、すぐそれだ。
「ねえちょっと先生。そっちよりも、先にこの子の親を呼んだほうがいいんじゃない?」
「えっ……」
 その言葉に、愛梨がピクッと反応した。
「それも、そうですね。橘さん、お母さんに連絡してもいいよね? この時間はお仕事してるのかな?」
「だ、ダメっ!!」
「あらあら、何を慌てているのかしら? もしかしてアナタも仲間で、共犯だから焦っているんじゃないでしょうね?」
 いや、それは違う。
 愛梨が困っている理由は、親に心配をかけたくないからだ。
 なんつーか…………イジメを受けてることってのは、家族には知られたくない。
 俺も、そうだった。エロい本のことで、一度だけイジメが発覚したことがあった。で、先生から親を呼べ、と言われたが、あれこれ理由を考えて断った。家に来ないように、強引に出かけたりした。電話をかけられないように、こっそり電話線を半分抜いてたこともある。
 結局最後は先生に、連絡帳に親の気持ちを書いて、と言われて、こそこそ自分で書いて持って行った。下手な字を、出来るだけ上手く見せるように何度も何度も書き直して。
 そんなことまでしても、知られたくないんだ。
 だから。まるで、あの時の俺を見ているよう。
 だから。俺は、愛梨を助けてやりたい。
 そのためには、今すぐ解決する必要がある。
 あのババアの性格だ、自分の子に非があると分かればすぐ黙る、もしくはうやむやにするだろう。そうすればそこで終了。
 でも、それは難しい。可能性は皆無だろう。事実を知っているのは、俺、愛梨、綾音、正樹だから。身内が何を言っても信じてもらえない。
 今となっては、つい認めてしまった自分自身に腹が立つが、後の祭り。
 ババアがうっかり事実を吐いてしまえば、という可能性もあるにはあるんだけど、これも厳しい。普通の人ならまだしも、コイツは人の話を聞こうとはしない。さらに京助が都合の良いことだけを話している可能性もあるから、期待度は0だ。
 だとすると…………他に方法は一つしかない。けれど……それをやると、色々とリスクがある。下手したら……俺は――いや、でもこれしかないんだ。
 浮かんだのは自分でも呆れる作戦なのだが、覚悟はあっさりと決まった。だって、俺は愛梨を守る騎士だから!
「……ったくよ、もう面倒だから、正直に話してやるよ!」
 印象を悪くするために、出来る限り言葉遣いは悪くがポイントだ。
 愛梨、見ててくれ。俺の、人生最大の演技をな。
「正直に? キミ、どういうことかな?」
「俺の動機はほぼ、そこのクソババアが言ったとおり。俺は偶然見かけた愛梨に興味を持った。だから、ちょっかい――愛梨のスカートを捲っていたあのガキをチョップして追い払い、気を引こうとしたってわけだ」
「……。暴力を、認めるんだね?」
「ああ。全部ホント。いや~、偶然愛梨のスカートを捲ってたガキがいて助かったぜ。近づく切っ掛けができたんだからな」
「っっ、ちょっと待ちなさい! 京ちゃんがそんな下品なことをするわけないでしょ!」
 おーおー、顔真っ赤にしちゃって。高血圧か?
 ……でもなぁ。今日はもっともっと、血圧を上げてやるぜ?
「おいおい。そこだけ嘘ついたって、仕方ないだろ?」
「黙りなさい! 言うに事欠いて!!」
「言うに事欠いて? 何もかも事実なんだよなぁ、これが」
「っっっ! アンタみたいな鬼畜と一緒にするんじゃないっ!!」
 鬼畜、ときたか。まさか鬼畜に鬼畜と罵られる日が来るとはなぁ。
「はぁー、自分の子供は可愛いでちゅねぇ。認められまちぇんねぇ」
「うるさい! アンタみたいなゴミが存在してるから犯罪が起こるのよ!! もうっ、もう警察呼ぶわよ!」
「ちょい待てよ。ゴミはそっちで――」
「黙りなさいっっ!!」
 これ以上叫んだら倒れてしまうんじゃないか、というほどにエキサイトしている。
 ま、挑発はこの辺でいいか。
「……ふぅ、この人とは話にならないなぁ。さあて、どうする先生?」
 捨て身に出たんだ。お前はどうするよ?
「…………それに関しては、後日詳しく聞きます。今は暴力問題が先で、今すぐ学校に不祥事として連絡します」
 ちっ、やっぱりだめか。
「先生っ。おにーちゃんは――」
「学校は、分かってるよな? 二年四組の鈴橋だ!」
 危ない危ない。愛梨の気持ちは嬉しいけど、ここは黙ってもらわないと。
「…………分かりました。では連絡をしておきます。あ、そこのキミは」
「コイツは関係ない。偶然に俺と一緒にいた、ただそれだけだ。アンタ達だってコイツのことは何も聞いてないだろ?」
「……確かに」
「じゃあ、俺は帰らせてもらう。勝手に連絡でもしてろ」
 ここで話を終わらせないと、ややこしくなってしまうから。片方の目的だけでも達せただけでも充分だ。
 もう片方は…………諦めよう。
 踵を返し、愛梨達と視線を合わせないようにして、歩き始める。
 …………愛梨達は、どんな顔しているんだろう。怖くて見れない。ホントごめんな。こんなバカなことしか思いつかないヤツで。
(修。いいの?)
 通りすがり。正樹が呟いたけど、小さく頷いて返事した。
 いいわけないけど、仕方ないじゃんかよ。
 俺は扉までゆっくりと歩くと、荒っぽく扉を開け、バンと音がするほど強く閉めた。
 廊下に出たあと扉を一発蹴ってやろうかと思ったけど、止めた。これをすると、自分が止められなくなりそうだから。
 結局俺はそのまま階段を降り、靴を履いて学校を出た。
「あぁ……。くそっ……っっ」
 校門を出たところで、無意識に出てしまう言葉。
 無能な自分に対しての怒り。理不尽な状況に対する怒り。その他にも、言い出せば山ほどあるけど、それを押し殺して家に帰ることにした。


 なんだよ……。結局、あの時と何にも変わらないじゃないか……っ。
 一睡もできないまま、次の日の朝を迎えた。
 朝食をとる気にもなれず、部屋で時間を潰してからいつもより早めに学校へ向かった。
 風に当たれば気分が良くなる、と聞いたことがあったから実行してみたものの、どうやら効果はなかったらしい。
 学校に着いたのは、8時丁度。靴を履き替えて、人影もまばらな廊下を歩いて教室に向かう。だが、階段を上ったところで生徒指導担当とかいう先生に捕まり、襟をつかまれ職員室に連行された。
 原因は、まあ昨日のこと。で、今は――
「だからお前は駄目なんだ!」
 職員室の真ん中に位置する生徒指導担当の先生の机で、説教されている。かれこれ、十分は過ぎただろうか。
 しかも、この間に隣に座っていた女の先生まで参加してきて、二対一になった。
「ちょっと、鈴橋くん。聞いていますかっ?」
「はいはい。聞いてます」
「鈴橋! なんだその態度は! はい、は一回だ!」
「……はい」
 正直、話を聞くのは疲れた。
 この人達の口から出てくるのは、余計なことをしてくれたな、的なことばかり。まあ連絡が来てるから仕方ないんだけど、俺の話を聞いてくれてもいいだろうに。
 それに、この先生方は人のことを『駄目駄目』言い過ぎな気がする。もう三十回以上はその単語を聞いた。
「はぁ、この歳になって返事もできないなんて……。いつも注意してるでしょ?」
 いつもって、何だろう。この先生方とお話するのは今日が始めてなんだけど……。
「はい、すみません」
「まったく。本当に困ったやつだ」
 もうこの二人、仕事のストレスを俺にぶつけてるだけじゃないのか? とすら思ってくる。時々、関係のないこと挟んでくるし。
 ――ところで――。ここの職員室には、3タイプの先生がいることに気がついた。
 まず1タイプ目は、珍獣を見るような眼でこっちを見てる先生。2タイプ目は、ちらちらこっちを見ながら、隣の机の先生と談笑する先生。3タイプ目は、不安そうにこっちを見る先生。
 1と2は置いておくとして、3の先生は心配してくれているのかもしれない。けど、若いから口出しできないんだろう。この世界も年功序列なのだから。
「あれ~。先生、どうしたんですか?」
 ここにきて三人目の先生がやってきた。しかも運が悪いことに、小太り眼鏡で髪を後ろでお団子状にした中年女性。俺達が最も忌み嫌う、去年の英語の先生だ。
 やはりこの先生は、たちが悪い。さも知らないを装っているが、すでに薄笑いを浮かべてる。
「ああ先生、実はですね――」
 なぜか大きな声で、俺が小学生に手を出した、ということを改めて説明された。自分で言った時は咄嗟だったから気にならなかったけど、人から聞かされるとキツイな。
「ははぁ。そうなんですか」
 聞き終えると彼女は、ポジションを俺の右斜めに移す。やはり、本格的に参戦するつもりらしい。
「先生からも何か言ってやってくださいよ」
「そう、ですね……」
 顎に手を当てて真剣に考えてるふりしてるけど、眼が笑ってる。この人、確実に楽しんでるよな。
「だから、私はいつも言ってるんです。成績は生活態度と比例するって」
 でたよ。それは去年何回も聞いた。
「成績が良い生徒はみんな真面目。授業態度だっていいし、服装の乱れもない。けど、この鈴橋君のように成績が芳しくない人に限ってそんなことするの」
「確かに。その傾向はありますよね」
 この人達、裏ではそんなこと思ってたの? そりゃ、成績が良いに越したことないけどさ、成績が悪い人=不良みたいなこと言われても困る。
 てか、絶対に間違ってる。成績悪くても良いヤツや、良くても悪いヤツはいた。だから、結局その人次第なんだって。
 まあ、成績が良くない俺が言ったら、ひがみにしか聞こえないけど。
「鈴橋君。聞いてます?」
「……はい」
 その後も、まだまだ続く。
 三人に増えた分、説教パターンも増えた。
 ……はぁ。あと何分、この拷問は続くのか。何か気を逸らせることはないかと思い、視線を移動させていると、
 ピーンポーンパーンポーン
 連絡事項を知らせる放送のチャイムが鳴った。とりあえず、これでも聞いておこう。
《二年四組 鈴橋修君は、至急校長室まで来てください》
 うあっ、また俺のことだ。しかも校長室!? あでも、ここよりはましかもしれない。
「皆様。お聞きの通り呼ばれましたので、失礼します」
 俺は礼をして、さっさと脱出する。背後で、停学かも、という声と笑い声が聞こえたけど、無視しよう。
 スタスタ、トコトコ。
 先生方の興味の視線を浴びながら職員室を歩き――ふと、妙なことに気がついた。
 放送は職員室か放送室にあるマイクを使ってできるんだけど、今回は放送室からだった。
 なぜわざわざ放送室を使ったのか? おじさんの声だったから、生徒に頼んだってワケじゃなさそうだし……。何か理由があるのだろうか?
「まあ、いいや」
 とりあえず、職員室から出るためにドアを開けた。すると数メートル先の部屋の前――校長室前で俺の担任、坂本先生が仁王立ちしていた。
 どうやら先生も呼ばれたみたいで、あ~。こっぴどく怒られるんだろうな。
「お、おはようございます」
「おう。おはよう、鈴橋」
 あれ? 今、鈴橋って……。
「ん、どうした?」
「あ、いや……。その、そういえば、校長室に入るのって初めてです」
「そうかそうか。じゃあこの機会に見ておくといい。さあ入れ」
 ガラガラと扉を開けてもらったので、先に入ることに。
「失礼しま~――。………………」
 職員室に入って、呆然となった。
 これは昨日の、再現だろうか。入ってすぐの三人掛けのソファーに、俺のよく知っている女の子達が座っていた。
「愛梨、あや――」
「おにーちゃん!!」
 俺が言い終わらないうちに、愛梨が胸に飛び込んできた。
「えっ。愛梨、これは……」
 どうして……? 何が起こってるんだ?
「すみません。私達、来てしまいました」
「は? え? どうして――」
「おにーちゃんが、嘘付いてくれて……。愛梨を、庇って、くれたから……」
 愛梨の声が、震えていた。そしてシャツ越しに、生暖かい水気が伝わってくる。
「愛梨……」
「あのね、おにーちゃ、が……酷いこと言わ……のは、嫌なの。愛梨もね、違うってお話してもね、信じてくれない……。だから……」
 それは、搾り出すような声だった。
「………………」
 俺はようやく、俺は馬鹿だと悟った。
 自分が良いと思って勝手にやったことで、愛梨を悲しませてしまった。余計に悲しませて、涙を流させてしまった。
 まったく……。俺は何やってたんだよ。
「ごめんね。そして、ありがとう」
 そっと抱きしめて、空いている右手で頭を撫でた。
「ん~ん、いいの。愛梨も、何もできなくてごめんなさい」
「それこそ、いいんだよ。わざわざ来てくれてありがとうね。それにしてもよく、ここまで来れたね」
「あのね。おにーさんがね……」
 おにーさん? おにーさんって……
「僕のことだよ!」
 待ってましたとばかりに視界の端で、校長仕様の背もたれが高いイスが回転。ふんぞり返ってイスに座っていたのは、俺の悪友だった。
「正樹……」
「修の気持ちは分かってたんだけどさ、愛梨ちゃんと綾音ちゃんの悲しむ顔見ちゃったらこうするしかないでしょ。余計なお世話かと思ったけど、正解だったみたいだね」
「ああ。サンキュ」
 ホント、大正解だよ。そうしてくれなかったら、俺は自己満足で勘違いをしたままだったから。
「ところでどうだい? 似合うでしょ?」
「いや、似合うというか、何で正樹が座ってんの? もしかしてお前、校長の関係者?」
「木本正樹! 誰が座っていいと言った!」
 坂本先生に怒鳴られ、しぶしぶ立ち上がる正樹。まあそうですよね。
「先生。ところで、校長先生はどちらに?」
 見たところ、校長先生はいませんが。
「ああ、校長先生は放送室だ。俺が頼んで、この部屋を空けていただいた」
 放送室……。さっきの放送は校長!?
「な、どうして?」
「いやねー、実はさー。学校に案内したのは僕だけど、ここに入れたのは先生のおかげなんだよね」
「先生が? どうして?」
「それは、な……」
 先生が俺の傍までゆっくり歩いてきて、少し間を空けてから、再び口を開いた。
「お前が下手な芝居をうつからだ」
「はっ!? どういうことです!?」
「鈴橋。大変だったな」
 ポン。肩にそっと、手を置かれた。
「えっ、ええ!?」
「鈴橋。何を驚いているんだ」
「い、いや……。まさか、そんなこと言われるとは……」
「思ってなかったか」
「はい」
 殴られるかも、と思ってたくらいだからね。予想だにしていなかった。
「例の話は、この子達から聞かせてもらった」
「え……。全部、聞いたんですか?」
「ああ。呆れるような内容だったが、評価はするぞ」
 再度、今度は強めに肩を叩かれる。
「それはどうも――ってちょっ! 先生は信じてるんですか!?」
「そうだが。それがどうした?」
「いや、だって、さっき職員室では……。殆どの先生は、小学生に手を出したって」
「昨日学校に、連絡があったからな。殆どの先生方の意見は、確かにそうだ」
「でしょ? だったらなんで、俺達みたいな子供のことを信じて……」
「何だ? 違うというのか?」
「いやいやっ。そうその通りなんですけどっ!」
 思わず、声が大きくなってしまう。けど、俺には分からない。どうして先生はそこまで信じてくれるんだ?
「……だって、証拠、ないんですよ? なのにどうして」
「…………はぁ。お前は何もわかってないな」
 坂本先生は大きなため息を付き、呆れたような顔をした。
「先生?」
「あのな、俺は去年の一年間、担任としてお前を見てきたんだぞ。お前がそんな下らんことをする人間じゃあないことくらい、すぐに分かる。それにな、信じるに子供も大人も関係ない!」
 そして言い終えた後、優しい目で微笑んだ。
「…………」
「どうした?」

 なんだろう、この気持ち。
 なんつーか、嬉しかった。俺を見ててくれたことが、分かってくれてたことが。
 初めてだ。今まで生きてきて、先生からこんなこと言われたのは。
 やべ。たったこれだけの言葉のはずなのに、涙でそうになってきたぞ……っ。

「………………。ありがとうございます」
 これが精一杯の感謝の言葉。月並みだけど、これ以上のこと浮かんでこないや。
「何ガラにもないこと言っているんだ。俺は当然のことをした、言っただけだ。感謝される覚えはないぞ」
「……はい」
 先生、ありがとう。
「あの~、ちょっといい雰囲気のところ悪いんだけど。僕、ずっとここにいたから状況が掴めてないんだよね。先生、今どんな感じになってんです?」
「そうだな……。中には、退学、停学、なんてことを仰る方もいるのが現状だ」
「そんな……。おにーちゃん、どうなっちゃうの?」
「どうにか、ならないのでしょうか?」
 愛梨と綾音が、先生をじっと見つめる。
「大丈夫。まだ話は終わりじゃないから、心配しなくてもいいんだよ」
 二人を安心させるように、笑顔を交えながら話す先生。なんだか、先生の意外な面を見た気がする。背後から「おお、新種のツンデレ!」と聞こえたから、正樹も同じ考えみたいだ。
「でだ。その処遇を決めるために今日の放課後、西美小学校で会議が開かれることになった。向こうは……自称被害者とその母。後は担任と校長、教頭だったか」
 なるほど。相手はやる気満々ってことか。
「ほほぅ、修を潰す気だね。で、こっちの先生陣は誰が行くんです?」
「今のところは俺が一人だ。本当は数人で行く予定だったのだが……どの先生方も都合が悪くてな」
 珍しく歯切れが悪い。
 もう、先生も演技が下手だね。正直に、『味方がいない』って言ってくれていいのに。
「先生。迷惑をかけますが、よろしくお願いします」
 せめてもの感謝の気持ちを込めて、頭を下げる。
 出来の悪い生徒の尻拭いを、よろしくお願いします。
「ん? 何を言っているんだ。鈴橋、お前も来るんだろう?」
「えっ!?」
 俺、も……?
「何だその間抜けな顔は? 自分の無実が証明できる最後の、絶好の機会なんだぞ?」
「はぁ、でも……。俺、呼ばれてないですし……」
「それに関しては先生が責任を持つから、遠慮はするな。お前らしくもない」
「いやぁ……。でも、ですね……」
「さっきから、中途半端な返事ばかりだな。まさかお前は、このままにしておくつもりじゃないだろうな?」
「………………」
 すぐに、返事をできなかった。
 そりゃあ、俺だって正しいことを言いたい。けど、もう何を言ったってアイツらには無駄なんだ。
「気持ちは有り難いんですけど、もういいんです。俺が何を言ったところで、信じてもらえないですから」
「だっ、ダメだよおにーちゃん! 大丈夫だよ!」
「そうです鈴橋さん。まだ……っ」
「不安なら、僕も一緒に行くけど? また自転車で突っ込んでみる?」
「いいや、気持ちだけ受け取っておくよ。先生。そういうワケなので、すみません」
 愛梨達が励ましてくれるけど、ごめん。これでいいんだ。
「…………。周りがこれだけ説得しても、気持ちは変わらないのか?」
「…………はい」
 力なく、言葉を返す。
 そうすると訪れるのは、静寂。愛梨達は俯いたままで、俺はただただ天井を見ることしかできない。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………なあ」
 そんな時間が、一分ほど続いた頃。先生が、その沈黙を破った。
「お前がそういうなら仕方ないが、一つ、これもお前を見ていてずっと言おうと思っていたことがある。それを言っていいか?」
「は、はあ。なんですか?」
 視線を天井から先生に移すと、しっかりとこっちを見据えていた。
 なん、なんだ……?
「鈴橋。あのな」
「は、はい」

「お前は、すぐに『諦めてしまう』ところがある」

 低い声で、ゆっくりと発せられたその言葉。それを聞いた瞬間、俺の全身に鳥肌がたった。
「この前のテストの時もそうだったが、なぜ最後まで足掻いてみせない。なぜそこで終わりにしてしまう。特に今回は、大切なものがかかっているはずだ」
「そ、それは……」
「失敗を――先のことを考えて恐れるのは当然だ。だがな、お前はまだ若い。たまには後先考えずに、全力でぶつかっていく、というのも必要じゃないのか?」
「…………。言うのは、簡単ですよ……」
「そうだ、言うのは簡単だ。だが、諦めてしまうのも簡単なこと。考えがどうであれ、逃げているのだからな」
「俺は逃げてなんか! ……ない」
「ならば、今、一度だけでも、最後まで立ち向かっていけ。ここでやらないと、お前は一生そのままだぞ」
「…………そんなの、分かってますよ。けど……俺は……以前……」
 あの時に――小学生の時に、嫌というほど実感したんだ。
「俺はお前に何があったかなんて知らないが、一度や二度失敗したからと言ってそれが絶対ではない! 時は流れている! 日々変わり続けているんだ!」
「………………」
「鈴橋。今、お前の周りには仲間がいるんだぞ? 人間の心理として『きっと同じことになる』という不安があるだろうが、一人で背負い込むな。確かに肝心な部分は自分次第ではあるが、サポートはできる」
「…………。サポート?」
「そうだ。困った時は周り頼れ。この子達、木本もそうだ。それに、俺はお前の担任なんだぞ? お前のことは、最後まで責任を持って見守る。それが先生というものだ。だから、お前の思いを残らずぶつけてみろ! めちゃくちゃにしてみろ! 何度も言うが、後のことは気にするな! 逃げるんじゃないっ! 一度でいいから、自分が納得できるまで向き合ってみろ!!」

 先生の言葉一つ一つが、まるで電流のように身体を走っていった。
 そうか……。俺は、恐れていたんだ。諦めることでこれ以上、傷つかないようにしていたんだ。
 今、それにようやく気が付いた。……いや。実際はあの時から知ってたんだ。けど、気付かないフリをしていた。
 そうだ。俺は――あの時のまま、止まっていた。自分の殻に閉じこもって、現実から逃げていた。
 愛梨を助けたのだって、ただの自己満足だったのかもしれない。もしかすると、心のどこかに、自分は変わったと自分自身に認めさせたい、気持ちがあったのかもしれない。
 なにもかも、先生の言う通りだ。
 今回も、形は違えどあの時と同じようになっている。
 俺は……。俺は、また繰り返してもいいのか? このまま『諦めて』、『逃げて』しまってのいいのか?
 ………………その答えは決まってる。

「先生、俺を一発、ぶん殴ってください」
 これが、鈴橋修の答えだ。
「おにーちゃん!?」
「鈴橋さん!?」
「……鈴橋。いいのか?」
「はい。遠慮せずに、全力でお願いします」
「………………よし。歯を食い縛れよ、鈴橋っっ!!」
 パアン!
 そんな乾いた音がした後、左頬に激しい痛みが走った。
 当たり所が悪かったのか、目がチカチカする。フラフラもする。
 だけど――。スッキリした。
「ひゅー♪ やるねぇ♪」
「おにーちゃん。大丈夫?」
「とても、赤くなっていますが……。大丈夫、ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。……正樹は、余計な反応するなっての」
 まったくコイツときたら。嬉しそうに口笛なんか吹きやがって。
「坂本先生。どうもありがとうございました」
「うむ、目が変わったな。ようやく吹っ切れたか」
「はいっ!」
 吹っ切れたというか、眼が覚めましたよ。六年間の眠りから。
「よし! それじゃあもう授業が始まるから、鈴橋と木本は教室へ帰れ。俺はこの子達を学校まで送ってくる」
「はい。よろしく頼みます」
「あいよ~。アイアイサーってね」
「決戦は、放課後だからな。うっかり忘れるんじゃないぞ?」
「もちろん、ですよ」
 俺は先生に一礼し、愛梨達に手を振ってから、正樹と共に校長室を後にした。
 今の修は、さっきまでの修とは違うんだ。今更、うっかり忘れるはずがありませんよ。
                   ☆

 放課後。俺は坂本先生の車で西美小学校へ移動。昇降口で愛梨達と落ち合い、会議が行われる3階の視聴覚室を目指す。
 ちなみに正樹だが、ヤツは英語の小テストの追試に引っかかった。正樹も来る気満々だったのでかなり悔しがってたけど、気持ちはしっかり受け取った。だから安心して、待ってて欲しい。
「「「「…………」」」」
 俺達は下校する小学生とすれ違いながら階段を上り、3階へ到着。そこからは進路を右へと変えて、トイレ、音楽室前を通り、視聴覚室に着いた。
「へぇ。扉にはご丁寧に、『子供を守る会議』って張り紙がありますね」
「恐らくは、自称被害者の母親が付けたものだろう。……鈴橋、入るぞ」
「はい。お世話になります」
 俺は改めて先生に一礼し、4人揃って中へとお邪魔する。そうして円卓状に設置された机を目指していると、担任教師とバアアと京介が立ち上がった。
 これは――。歓迎のリアクション、ではないよな。
「ちょっと! なんでアンタが来てんのよ!」
 ババアが開口一番、そう叫んだ。
 まあ、やっぱりそうだよね。こう、なるわな。
「まあまあお母さん。彼は、自分の処遇が気になったんでしょう」
 この台詞は、当然担任。うん、相変わらずウザイ二人組みだ。
 んで、京助はというと…………今日は、やけに大人しい。嫌味の一つくらい言ってくるかと思ったが、ババアに手をつながれたままじっとこっちを見てる。
「先生、どうも初めまして。私が橘さん達の担任の、谷見(たにみ)です」
「こちらこそ、どうも初めまして。この子の担任の、坂本です」
 とりあえず、二人が握手する。
 あの担任野郎は、谷見っていうのか。昨日は名乗らなかったから知らなかったよ。
「橘さん達も、見物に来てくれたみたいですね。さ、どうぞこちらです」
 早速、席に座るように促す。が、だ。先生は動かない。
「??? どうされたのですか?」
「その前に、うちの生徒が言いたいことがあるそうです。お時間よろしいですかな?」
「は、はぁ。言い訳なら時間の無駄ですが――」
「とても、大切なことです。……鈴橋」
「はい」
 ちらりとこっちを見た先生に頷き、一歩前へ出る。
 その位置でまずは、深呼吸。ゆっくり呼吸をして落ち着けた俺は、はっきりと部屋全体に響き渡る声量で――

「俺は昨日、嘘をついた。一部――愛梨に興味があったから京助に暴力を振るったってのは、嘘です!」

 真実を、口にした。
 そうすれば担任の谷見とバアアは、もちろん仰天。バカみたいな驚いた顔を作り、会に同席していた小学校側の教師3人はキョトンとした。
「ふっ、ふざけないで! 今更何言ってるのよ!!」
 だがそれも数秒のことで、即座にヒステリックな声が上がる。
 やはり、コイツが真っ先に突っかかってきたか。……さあて、ここからが本当の戦いだ……!
「何って、俺は決めたんだよ。昨日は『証拠がない』と言われて諦めたけど、今日は例え絶対的な証拠がなくても、真実を貫き通す」
 もう、逃げるわけにはいかないから。
「はっ! どうせ退学、停学が怖くなっての言い訳でしょっ。無駄よ無駄! もう何言っても代わりはしないわよ。ね、先生」
 バアアは大げさなリアクションで同意を求め、谷見も「はい」と返事をする。
「無駄かどうかは、一度、俺の話を聞いてからでも遅くはないんじゃないか? 詳しく、丁寧にお話すすぜ?」
「今更アンタの話を聞いたって、意味はない。時間の浪費となるだけよ!」
「おやおやぁ? 本当のことを言われるのが、嫌なんですか? どうせ事実を知ってるから、話を聞こうとしないんですかねぇ?」
「はっ!? 何を言ってるのよ! 先生方っ! こんな暴力学生の相手はしないで、会議を始めましょ!」
「…………キミ、話してみなさい」
 突然、だった。イスに座っていた三人の一人――白ひげをたくわえた小太りの男性が、そう言った。
「こ、校長先生っ! な、何言ってるんですか!」
 たまらず、谷見が大声を上げる。
 へぇ。この人が、校長先生なのか。
「そこまで真剣になるということは、何かがあるんでしょう。話くらいは聞いてあげてもいいじゃないですか。ねえお母さん」
「そ、そこまで仰るのなら……。時間の無駄と思いますけどっ」
 校長の提案に、ババアもしぶしぶ了承した。
 よし。まずは話す機会を得た。
「我儘を受け入れてくださり、感謝します。では高校生くん、どうぞ」
「はい」
 俺は校長先生の声に頷き、いよいよだ。全てを話すことにした。
「まず。俺が愛梨を初めて見たのは、先週の月曜日の放課後。その時愛梨は、そこの京助と何人かの男子にイタズラされていた。俺が発見した時は、京助がスカートを捲っていたんだ」
「っっ! うちの京ちゃんが破廉恥なマネをするはずないわよ!」
「いいや、していた。で、俺はそのあと京助の腕を掴んで、追い払った。これが、愛梨との出会い」
 愛梨は女の子で『スカートを捲る』というのは恥ずかしいだろうけど、今は我慢して欲しい。これは、大切なことなのだから。
「でだ。次の日、俺はその後が気になって帰りに昨日の場所に行った。そしたら愛梨と綾音がそこにいて、昨日のお礼にってクッキーをくれた。これはアンタがいう、暴力を振るう前の出来事。俺がチョップをしたのはそのあとで、京助が一人で走ってきて愛梨のスカートを捲り上げたままにしたから。小学生のやることだから大目に見てたけど、さすがにやり過ぎだろう――。そう思ってのチョップだった」
「何よ! 理由はどうであれ、暴力を振るったのは事実じゃないの!」
「確かに、暴力といわれたらそうかもしれない。けど、俺は間違っていたとは思ってない。子供だからって好き放題していいはずないんだ。だから、それを止めてやる、叱ってやる人間がいないといけない。俺は、自分のストレスを解消するためにチョップをしたわけじゃないんだ!」
 俺の話を聞いて、イス組みがざわつき始めた。恐らくこの人達は、聞いていた内容とまったく違うから困っているのだろう。
「がっ、ガキが何を偉そうに……っ。あのねっっ! アンタがやってることは自己満足なのっ! 暴力を正当化してるだけなのよっっ! 適当な嘘までついて…………自分が子供を守ってる、とでも言いたいわけ!?」
 ほぉ。まさか、コイツからそういうことが出るとはな。
「アンタだけには、言われたくない。さっき扉を見たけど、なにが『子供を守る会議』だ。アンタが守ってるのは、子供は子供でも『自分の子供』だけじゃないか!」
「い、言うに事欠いて……。私はそこの子もアンタの魔の手から救ったじゃないの! ほらっ、どこが違うっていうのよ!」
 ふーん。よくもまあ、そんなでたらめを平気で言えるな。
「てめえが、愛梨を救っただと? ふざけるのも大概にしろ! 先週の金曜日に、自分の子供――京助の兄を使って、愛梨達を襲わせたくせによ!!」
「…………え!?」
 この部屋の人間で真っ先に反応したのは、京助だった。しかも、どんどん顔の色が悪く――青白くなっていく。
 これは、どういうことだ? まるで、初めて聞いたような……。まさか、京助は知らなかった? 俺はてっきり二人が仕組んだことと思っていたが、違うのか?
「ま、ママ。兄ちゃんが? 本当に?」
「ち、違うわよ。そんなの嘘に決まってるでしょ」
 この反応……。どうやら、俺の考えは間違っていたようだ。
「残念だが京助、本当のことだ。あの日の放課後、俺のスマホに綾音から着信があった。酷く慌てて、『助けて』ってな」
「た、たす、けて……」
「このように…………俺のスマホに記録がある。で、俺は急いで二人が捕まっている、ここの近くにある空き地に行った」
 コイツにもしっかりと、あの日の事実を知ってもらわないといけないからな。当時の着信履歴を――証拠を見せながら、伝えた。
「京ちゃん騙されないで! 相手にしちゃ駄目よ!」
「…………。続けて」
「そこでお前の兄と仲間が待っていた。そして、愛梨のバッグを捨てると酷いことを言い出した。理由は、ママから小遣いが貰える、それだけなんだと。まあそこから色々あって丸く収まったけどさ、愛梨も突き飛ばされたり大変だったんだぜ?」
 この場では、ここまでにしておこう。京助も相当戸惑っているようだし、殴る蹴るの話は子供にも悪いからな。
「さて。これで、京助にも理解してもらえ――」
「いい加減にしなさい! これ以上言うと訴えるわよ!」
 はぁ。大事なところで台無しにしてくれる。
 もう少し、空気を読めないのだろうか? まあ微塵も読めないから、こうなってるんだよな。
「おいおいおい。訴えるのなにも、事実なんだから仕方ないだろ?」
「しょ、証拠は! 襲われたという確かな証拠はあるの!?」
 出ました、バカの一つ覚え。言うことがなくなったら、すぐ証拠だ。
「アンタの子供は、金髪だろ? 仲間にはスキンヘッドやロン毛なんかがいる。学校は東坂高校。これだけ知ってると真実味があるだろ?」
「そ、そんなの偶然見かけたら分かるわよ! 証拠にもならない!」
 偶然見かけて、アンタの子だって分かるはずはないんだが……。まあいい。じゃあこれはどうだ?
「訴えるとか物騒なこと言うから、こっちも言うけどさ。アンタの子供が愛梨のバッグを投げたから、指紋がついている。これを警察で鑑定してもらったら、証拠になるよね? まさか高校生の男が小学生のバッグを事前に偶然触ってるはずないし、通りすがりに掴むってこともありえないしねぇ」
 ほら。そっちが希望した、言い逃れできない証拠だぞ。
 さあ、どうする?
「そっ、そんなこと何の証拠にもならないでしょ! 偶然、ホント偶然落としたのを拾ったかもしれないでしょ? そもそも、警察がそんな事実かどうかも分かりもしないことで動くはずないのよ!」
 さすがは、モンスターペアレント。動揺しているせいか支離滅裂ぎみだけど、絶対に認めはしない。なんというか……こうなったら、このババアに認めさせる、証拠というものはこの世にないような気がする。例えば現場の写真を撮ったとしても、「合成」とか言い張りそう。
 モンスターとは上手く言ったものだ。
「そっすか。でもねー、まだあるんですよ。綾音のスマホにだって触ってる――」
「黙りなさい黙りなさい!! もうアンタの戯言はたくさんよっ! まったく、なんなのアンタは! この期に及んでありもしない嘘ばかり! 先生方! もう十分ですから、早く処分を決めましょっっ! 謝罪するならまだしも、私や京ちゃんに罪をなすりつけようとするなんて言語道断よ!!」
 俺に話す隙を与えまいと、一気に捲くし立てる。
 だが、こんな有様だ。谷見以外の先生は頷かない。
「あのさ、そろそろ認めたら? 別に俺は――愛梨達も、大事にするつもりはない。解決すればいいだけなんだからさ」
 少しでも言いやすい状況にしてやろうと思って、そう言った。のだけれども、モンスターには逆効果。逆鱗に触れてしまったらしい。
「っっっ、一体何様のつもり!? あーもーやだやだ! だから元イジメられっ子は嫌よっっ! ホントしつこい! そんな態度だからイジメられてたのよっっ! イジメられる側にも問題があって――あ、そっか、イジメられていたからここまでしつこいのね。過去の自分が何もできなかったから、抵抗できない京ちゃんを標的にして、自分は強いぞ~ってヒーロー気取りをしてるんでしょっ?」
「違うっ! おにーちゃんは違うよ!」
「酷い想像です! 鈴橋さんに謝ってくださ――」
「やかましい! だれがアンタ達に喋れって言ったのよ!!」
 即座に二人が抗議してくれて、そんな声をババアが掻き消す。
 しかしこのババア、人が言えないことを平気で、しかもほくそ笑みながら言ってくる。
 ったく、あの金髪が言いふらしやがったな。絶対にアイツは、表立っては言えないから家族に話してる。
(そうそう、ああいうヤツはするんだよなぁ。強い者の前ではペコペコしてるけど、内心は真逆なんだ)
 滅茶苦茶苛立ってて、こっそりと憂さ晴らしをしようとする。家でイライラしながらババアに話している、金髪野郎の姿が目に浮かぶ――待てよ。
(これは……。そうだ……。間違いない)
 墓穴を、掘ったな。
「あー、ちょっといいです? 俺と会うのは、今日が二回目ですよね?」
 もちろんこれは、ババアに向けての言葉だ。
「ここはしっかり、お答えください。俺と会うのは、今日が二回目ですよね?」
「当たり前でしょ! 何が楽しくてアンタなんかと会うって言うのよっ!」
 よしよし。これで、条件1はクリア。
「ではもう一つ。愛梨、綾音とは、話をしましたか?」
「一度も話してないわよ! アンタ、さっきから何が聞きたいのっ?」
「いえいえ。ちょっと参考にね」
 よしよし。条件2、クリア。
「それでは今度は、谷見先生。アナタは、愛梨達からどんなこと聞きましたか? 例えば……俺についてとか」
「キミに関しては、何も。橘さん達は話してくれなかったから、橘さん達が立っていた場所でキミを待ってたんだよ」
「ほぉ、そうですか。どうも」
 よしよしよし、条件は全て揃った。
 これで、充分だ。
「アンタ、何のつもりっ? しょうもない時間稼ぎなら――」
「時間稼ぎなんかじゃ、ないですよ。ではでは最後に、一つだけ質問いいですか? これで終わりですから」
「はぁ、いいわよ。諦めるのなら聞いてあげるわ」
 そうですかそうですか。では、俺の最後の質問をしっかり聞いてくださいね?
「ところで……。どうして俺が、元イジメられっ子だって知ってるんですか?」
 わざと、ゆっくりかつ大きな声で、ほくそ笑みながら言ってやった。
「なっ……」
「俺は愛梨のバッグを守るのと引き換えに、アンタの子供にそのことを話しました。つまり、このことはあの場にいた人間――アンタの子供とその仲間、愛梨達しか知らないんですよ」
「…………っ」
「愛梨達が言いふらすはずないし、今ちゃーんと確認も取った。……あれあれ? おかししいですよね? アンタの話だと、アンタの子供はその場にいないはずなのにね」
「そ、それは……」
 おーおー、口ごもっちゃって。さっきまでの勢いはどうした。
「それは? なんですか?」
「ぐ、偶然! 偶然聞いたのよ!」
 またつまらない、すぐ分かる言い訳を吐く。
「偶然? 誰からです?」
「あっ、アンタの家のご近所さんよ! アンタを調べたら、ここの近くのマンションに住んでるって分かったわ! 私はね、交友関係が広いのよ! そんな情報はすぐに入ってくるわよ!!」
「へ~、それは随分おしゃべりな方がいたもんだ。まあ、いいや。それは、間違いないんですね?」
「もちろんよ! ……まあ、プライバシーで誰か、とはいえないけど」
 誰かから聞いた、なんてことはどうでもいいんだよ。
 だって、もう詰んでるんだから。
「いや~、随分広い交友関係なんですね。違う学校のことまで知ってるなんて」
「違う? アンタ何言ってんのよ!?」
「あのですね。俺は高校に入る前に引っ越しをしていて、通っていた小学校はここから結構離れた場所にある。なのに俺の近所の人が、そんなことまで知ってるんですねぇ」
「なっ…………っ」
 もう言い逃れはできないぞ? それとも、まだ抵抗するのか?
「そっ、そうだった! 今思い出したわっ! 私の知り合いに――」
「もうやめて!!」
 狼狽するババアの声を遮ったのは、京助だった。
「京ちゃん、ママの味方をしてくれるのね。いい子――」
「違う! ……俺が言ったことは、嘘なんだ! この人の言ってることが本当のことなんだよ!」
 京助の声は、震えていた。
「なっ、何言ってるのよ京ちゃん!」
「兄ちゃんがそんなことしてるなんて知らなかった。それに、怖かったんだ! どんどん話が大きくなってって……学校を辞めさせる、みたいな話になって……。俺がついた嘘のせいでこんなことになっちゃって、怖い。だから……もう……」
「あっ、京ちゃん!?」
 ババアの手を振りほどき、俺の目の前まで駆け寄ってくる。
「……………………ごめん」
 聞こえるか、聞こえないかの声で、そう呟いた。
 これがコイツなりの、精一杯の謝罪なのだろう。
「いや。気にしてないさ」
 だから俺も、京助に答えてやった。
「……全然、そんなつもりじゃなかったんだ。最初は、軽い気持ちでやってただけなんだ。だから、こんなことになるなんて、思ってなかって……」
「京助。俺は、お前が正直に話してくれて嬉しいぞ」
「……でも、俺のせいで――」
「京ちゃん! 戻ってきなさい! 京ちゃんは優しいから、周りに気を遣ってるだけなのよ!」
 ……たくよ。話の腰を折りやがって……。
「ババアお前は黙ってろ! あのな、お前が今やってることは、京助を駄目にしてるんだ! 守ると甘やかすは違うんだぞ! 折角こうやって正直に話したのに、そうやってまた道を外させるのか!?」
「なっ! 何を知ったような――」
「京助、邪魔が入った。あのな? 俺はもう怒ってないからいいんだけど、一つだけ聞いてくれるか?」
「……うん」
「お前が『軽い』『遊びのつもり』でやっていたことでも、受ける側は感じ方が違う時もある。そのことだけは覚えておいてくれ。いいな?」
「…………うん。ごめん、なさい……」
 この様子だと、もうあんなバカなことはしないだろうな。
 話してみたら、こいつだって真面目なやつじゃないか。ただ少し、間違ってただけだったんだ。
「俺に謝るのはもういいって。それよりも、ちゃんと謝らないといけない相手は他にいるだろ?」
 目で、後ろだと合図を送ってやる。
「うん」
 京助は目に溜まりかけていた涙を服で拭いて、愛梨のもとへ行った。
 ここからは何を言っているのか分からないけど、愛梨の表情――笑顔を見ると、大体は想像できる。
 ちゃんとゴメンナサイをした京助は愛梨が出した手を握って、少し恥ずかしげに親の傍へと戻っていった。
「…………そんな……。京ちゃんが……」
「ふぅ。京助のお母様、貴方からも何かありますよね?」
 呆然としているババアに、声をかける。さすがに懲りただろうから、少しは反省をして――
「ふんっ、ふざけないで! 今日のところは帰るわ!!」
 少しも、反省してはいなかった。
 ヤツは京助の手を掴むと大きい歩幅でガンガン歩き、荒っぽく扉を開け、荒っぽく閉めた。
 ま、まああの歳になると、性格なんてのはそうそう変わりはしないか。別に謝罪の言葉が欲しかったワケじゃないし、まあいいだろう。
 とりあえず。これで一件落着したことだし――
「いや~。誤解だったみたいだね」
 いや、まだ終わりじゃない。ヘラヘラと俺に話しかけてくるバカ担任――谷見が、まだ残ってる。
「鈴橋、好きにしろ。多少のことは俺が許す」
 先生から許しがでた。
 じゃあ、心置きなく。
「てめぇ。なに笑ってんだよ!」
 俺は谷見に詰め寄り、胸倉を掴んだ。
「な、なにするんだっ!?」
「なに、じゃねーよ。もとはといえば、お前が正直に言わないからいけないんだろ!」
「しょ、しょうじき……? なんのことだか――」
「お前は、愛梨が普段からちょっかいを出されてたことを知ってたんだろ? 『学校では他の子達も助けてくれる』ってのを、愛梨から聞いたことがあるんだよ!」
「そ、それは……」
 目を、逸らした。
 それは言い逃れをするためか、他の先生に助けを求めるためなのか。どちらか分からないが、どちらも無駄だ。言い逃れはさせないし、傍に坂本先生がいるから他の先生は静観している。
「京助の親が、怖かったんだろ? 聞いた話だと、休職している先生もいるって話だ。アンタは事実を知っていても、自分の身、評判が大事だから黙ってたんだよな?」
「ち、違う。ただ……あれくらいのことで、そこまで困っているとは……」
「あれくらい? ほお、どうしてそんなことが分かる」
「そ、そりゃあ。担任だから、だよ」
 俺は、似たような言葉を言われたことがあるけど――。こっちは何て重みがない、薄っぺらい言葉なんだ。
「なら、お前は担任失格だ。自分の生徒のことも理解できてないヤツに、そんな資格はない。それにな、今『あれくらい』と言ったが、いいことを教えといてやろう。殴られたり蹴られたり、そんな傷は時間が経てば治るんだよ。けどな、『心の傷』ってのは時間が経っても治らない、それどころか大きくなっていく可能性だってあるんだよ!!」
 それは、俺がよく分かっている。
「お、大げさな……」
「大げさ? どうしてお前がそう言える? 根拠はなんだ! そのまま意地悪がエスカレートしていって、愛梨がもし、もしも最悪の事態になったとしてもそんなことが言えるのかよ!!」
「そ、それは一種の被害妄想だよ。飛躍しすぎ」
 コイツ……。笑いやがった。
「この子に、何かあってからじゃ遅いだろ!! それともなんだ? アンタに責任が取れるって言うのかよ! 一体どんな方法でとる気なんだよ! 言ってみろ!」
「そ、れは……」
「アンタは、根本から間違ってんだよ! 教師ってのは、生徒と向き合うもんだろ! それがなんだ、保護者の機嫌ばかりとって、肝心の子供の話には耳を貸そうともしない。お前は何のために教師になったんだよ! こんなんだったら、一般の人がやっても大差ないじゃないか!」
「………………」
「黙ってるってことは、心のどっかでは分かってるんじゃないのか? 俺みたいなただのガキに偉そうに言われて腹立つだろうけど、もう一度、自分の立場ってものをしっかり考えて、思い出してみろよ」
 掴んでいた手を離し、踵を返す。
 これで、改心してくれるか、このままなのか。あとは本人しだい。俺には分からない。けど、言いたいことは全部言った。
「先生。終わりました」
「ああ。あとは俺に任せろ。帰っていいぞ」
「……はい。ありがとうございます」
 ここにいても俺ができることはもうない。けどその前に、愛梨達と話しておこう。
 愛梨と綾音のもとへ行き、顔の高さが合うように少し膝を曲げる。
「二人とも、驚かしてごめんな。怖かったかな?」
「んーん。怖くないよ。愛梨、嬉しい」
「……そっか。綾音は、大丈夫だった?」
「はい。勿論です」
 そっか。二人の微笑みを見て、少し安心できたよ。
「愛梨。もう今までみたいなことは絶対にないから、安心してね」
「うんっ。ありがとう、おにーちゃん」
「礼はいいよ。じゃあ、俺は先に帰るね。二人とも気をつけて帰るんだよ、バイバイ」
「……はい」
「え、あ、うん。バイバイ……」
 二人に別れを告げて、視聴覚室から出る。
 そうして廊下を歩いて一歩目、自分の違いに気が付いた。なんだか、身体が軽くなっている。それに、心も軽い――スッキリしている。
 理由はすぐに分かった。

 自分なりに、過去にけじめをつけれたからだ。

 あの時から、止まっていた時間が、ようやく動き出した。そんな感じ。
 俺は、最後まで逃げずにやりとげた。
 本当の意味で、愛梨を守ることができたんだ。