ぼくらだけ眠れない

それならいっそ、あいつらの寝首をかいてやろうか。
今ならぜったいに、気づかれないだろう。

ぼくは、スーツのジャケットの右ポケットにそっと手を入れた。
それは思わず衝動買いした、小さな折り畳みナイフだった。
取り出した小さく細い刃に、青白い顔が映りこむ。
これは、ぼくのお守りだった。

けれど、ぼくは分かっている。と、ぼくにはできやしない。
別に、それはぼくが善良だからとか、まともだからとか、
そういうことじゃない。
ぼくにはもう、気力というものが残っていなかった。

雪が降り積もるで交差点で一人、呆然と空を眺める。
鈍色の空から次々とパウダースノーがひらりひらりと落ちてくる。

どこかで見た風景。そうだ、ケーキだ。


学生時代、時給がいいからという理由だけで始めた、ケーキ屋のバイト。

女性のオーナーパティシエは、優雅な手つきで丁寧に何度も粉をふるいにかけていた。
シェフがふるいにかけた粉が落ちてくるボールの中にいるみたいだ。

そう、ぼくは今、あのステンレスのボールの底にいるんだ。
もはや自力で這い上がるのが難しい、固く冷たい谷底に。

だからこうして、ふるいにかけられた小麦粉みたいなパウダースノーを
ぼんやり眺めているしかできない。凍え死ぬまで。
でも、それもいいかもしれない。
もう上司に罵られることもないし、会社に行かずにすむ。
ぼくみたいなダメ人間は、社会の邪魔らしいし。

ぼくはなんだか立っているのが面倒になって、
厚い層のように降り積もった雪の上にゴロンと身体を横たえた。
もう、ぜんぶどうでもいい。
絶え間なく落ちてくる紙吹雪みたいな雪を見ていたら、急に眠くなってきた。

不思議だ。というか、皮肉だ。

コートとスーツにじわじわと雪のつめたさがしみてくる。
けれど、それより眠気が優っている。

ああ、なんだか頭も身体もふわふわして、気持ちがいい。
いっそこのまま─。

その時だった。

ぼくのほおに、かすかに生暖かい風があたった。
なんだこれ……生き物? 犬でもいるのか?

どうしよう……。そういえば、犬って冬眠するんだろうか。
飼ったことがないからわからない。いや、それより、どうする、この状況。
ぼくは、死んだふりをして、犬が去ってくれるのを待った。
けれど、去る気配どころか、どんどん生暖かい息は近づいてくる。
そうしている間にも、背中の雪がコートとスーツに染みてくる。
もうだめだ。限界だ。
ぼくは、そっと目を開けた。

が、そこにいたのは犬なんかじゃなかった。

ぼくのすぐ目の前にあったのは、人間の顔だ。しかも、女の子の。

「うおおお!」

驚きすぎて、うなりごえみたいな叫び声をあげ、ぼくは跳び起きた。
ぼくの声に驚いて女の子は大きなアクションであとずさった。
人間……だよな。なんで起きてるんだ?

向こうも、同じような顔でこっちを見ている。
目をそらさずにお互いを見たまま、ぼくらは動けずにいた。

猫みたいな大きな目が、ぼくを見上げている。
その子は、ぼくよりほんの少し若いように見えた。
大学生くらいだろうか。
真っ白い肌に、アッシュカラーのセミロングと真っ赤なパーカーがよく似合う。
どこかで見たような気がするけど、かわいい子はみんな、
どこかで見たような気がする。ぼくの記憶なんて、その程度のものだ。

ぐいっと一歩、彼女がぼくに近づいた。

「なにしてるの?」

間近で見つめられて、ぼくは息が止まりそうになった。



ど、どうしよう。

ぼくは、息を止めたまま、ぎゅっと手を握りしめた。

その時だった。

じゅげむじゅげむごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ。

いきなり、頭の中で勝手に寿限無が流れた。
極度に緊張したり、不安になった時はいつも、こうなる。
意味のない言葉で頭の中を埋めないと、パニックになるからかもしれない。

うんらいまつ、ふうらいまつ。

「ねえ、なにしてるの?」

彼女がさらに一歩、ぼくに近づいた。

くうねるところにすむところ。やぶらこうじのぶらこうじ。

こら、寿限無、止まれ!

ぼくは耳を押さえ、「止まれ!」と叫んだ。

彼女がびくっと体を震わせ、一歩後ずさる。
けれど、その目はぼくをじっと見たままだ。

「あ……違うんだ。きみこそ、なに、してるの」

やっと絞り出した声は、ふるえている。なさけないくらいに。

「逃げようかと思って」

「え?」

ぽかんとしたぼくの目の前で、シャッター音が鳴った。
にやりと笑った彼女が手にしているもの。
それは、ぼくのスマホとおんなじものだ。

とっさにコートの左ポケットに手を入れる。

ない。
入れておいたはずのスマホがない。

「え!? それ、ぼくの…!?」

言い終わらないうちに、彼女はくるりと回れ右をして走り出した。

その細くて長い足をハードル走みたいに大きく動かして、
真っ赤なパーカーはぐんぐん走り抜けていく。

なんて速さだ。違う、僕の身体がなまっているんだ。

ときおり、ぼくを振り返る余裕すら見せながら、彼女は楽しそうに走っていく。
まるで、歩き始めて間もない子どもみたいに。

ぼくは必死に彼女の後を追った。
もはや、スマホなんてどうでもよかった。

いや、どうでもいいはずはないんだけど。
それ以上に、彼女を見失ったらいけない気がしたのだ。
車の通らない車道の真ん中を、彼女が走っていく。

ビルも道路も街路樹さえも沈黙した街の中に、
彼女の笑い声と、雪をかきわけるように走る音だけが響く。

この街で一番大きな川にかかる橋にたどり着くと、
彼女は思いっきりスマホを投げた。

真っ白な世界に大きな弧を描きながら、凍った川へと落ちて行くスマホ。
まるで、スローモーションを見ているみたいだ。

「ああっ!」

一歩、遅かった。
彼女に追いついたぼくは、橋の欄干から身を乗り出して、スマホを探した。

この時期、川面にはうっすらと氷が張り、その上に雪が積もっている。
スマホは雪に埋もれてしまったらしい。

なんなんだこれ。
なんで、こんなことされなきゃいけないんだ。

「は? え、ちょっとなにこれ、ちょ、意味が分かんないんだけど」
ぼくは半分、いやほとんどパニックになって彼女に詰め寄った。

なのに、彼女はぽかんとした顔で聞いている。
いや、なんなの、おかしいだろ、そのリアクション。

「いや、ありえないでしょ、ふつう。どうしてくれるんだよ!」

スマホがなかったらどうしようもないじゃないか。
だって、スマホがなかったら……
あれ? どうなるんだ?
誰に連絡とるっていうんだ、みんな冬眠しているってのに。

つか、そもそもあのスマホで誰かに連絡とってたっけ。

……取ってない。

かかってくるのは勝手な上司から一方的な電話だけだ。
今の会社に入って以来、ぼんやりできる時間なんて1分もなくて、
友だちなんていつの間にか消えてしまった。

そのことに気づいて、思わず口をつぐんだぼくに、
彼女は「大丈夫だよ」と笑った。
「は? なにそれ」

あきれるぼくの前で、彼女はよいしょ、と欄干によじのぼった。

「いやいやいや、いいから、そういうの」

冷たく言い放つぼくを、彼女は欄干の上からじっと見つめた。

「困るんでしょ?」

「困るよ。困るけど、飛び込まれたら、もっと困る」

「なんで?」

「なんでって、死ぬでしょ」

「そうだね」と彼女がへへへ、と笑った。

いや、なんでここで笑えるの。
意味わからないし、ハート強すぎ。無理だ、こういう人。

っていうか、冬眠期に起きてること自体、そもそもヤバイ。って、ぼくもか。

めんどうなことになる前に、逃げよう。
ぼくは無言で彼女に背を向けた。

それなのに。
背中から追ってくる彼女の「ねえ」という声に、
ぼくはつい振り向いてしまったのだ。
欄干の上の彼女が、大きく右手を振り上げた。
ぼくはほとんど反射的に頭をかばい、その場にうずくまった。

ギュッと身を固くしたぼくの耳を、風の音だけがかすめていく。

恐る恐る顔を上げると、彼女はストンと欄干から飛び降りた。

「はい」

彼女がぼくの手のひらに何かを乗せた。

それは、ぼくのスマホだった。

「え? じゃ、さっき投げたのは?」

彼女がぼくの右の脇腹を指さす。

彼女に指さされた場所に右手で触れる。

あれ? ない。
ぼくのお守りが、ない。
しまった、やられた。

「仲良くしようよ。この世界にはいま、きみと私しかいないんだから」

ちょっとむかつくけど、その通りだ。

彼女はずいぶん前からこっちを見ていたのだろう。
女の子にしてみれば、ナイフを持ってる男とふたりきりなんて、
確かに怖いだろう。

「じゃあ、いこっか」

「は?」

「ずっとここにいたら、死ぬでしょ」

そうだけど。なんだよ、それ。

とまどうぼくかまわずに、彼女はさっさと歩きだした。