予定が決まると時が過ぎる速度は、より一層はやまった。これまでは、過ぎた夏休みが後ろから背中を押してくるだけだったのが、今は正面からも引っ張られている感覚がする。
ただ、これくらいの時期になると多くの学生は夏休みの課題にも追われ始めることになるので、それに比べると、まだ僕はゆっくりとした時間を感じれていると思う。
それはそうと、いよいよ受験勉強を開始した僕だったが、これが予想以上に難儀の連続だった。とりあえずセンター試験に向けての勉強を始めてたのだが、ここで一つ目の試練があった。
それは、問題量の多さだ。それぞれ個別に問題を見ていくと、その難易度はたいして高いものではない。ただそんな問題が、とても六十分では解ききれないくらいの量で出題されるので、普通に考えながら進めると絶対に最後まで解ききれない。
そして二つ目の試練がマークシートの罠だ。一見、マークシートなら楽じゃないの?と思うかもしれない。実際、僕もそんな考えをもっていた。しかしそれは大いに甘かった。
たしかに、マークシートの方が答えやすい科目がほとんどだ。基本的にセンター試験の出題形式は選択問題だから、マークシートは非常に便利である。
ただ、数学においてその概念は全く当てはまらない。
これが大変厄介なもので、数学は選択問題ではなく、普通に答えの数字をマークシートに塗りつぶしていくという方式なので、計算して一度答えを出してから、いちいちマークシートに塗りなおさなければいけない。そして、その作業にものすごく時間を奪われる。ただでさえ問題数の多さと時間の少ないという苦境に立たされているのに、これ以上時間を奪われると、解けるものも解けなくなってしまう。
特に、僕は理系の国公立大学への進学を考えているので、センター試験で数学を失敗することは決して許されない。だから、是が非でもここで高得点を取りたいところであった。
さらにセンター試験の勉強が終わっても、次は学校ごとに行われる二次試験の勉強が待ち構えているので、これにそんなに時間をかけていられない。
夏の課題とは違い、受験勉強は手を進めるたびに終わりが果てしないものになってくる気がした。
ただ一つ救いがあったとすれば、道のりの長さを現時点で把握できたという点だろう。
そしてこんなに過酷な環境の中でも、流石というべきか、成瀬さんは順調にその実力を上げてきている。
一度成瀬さんと、センター試験の過去問を解いて自己採点までしてその結果を見せ合ったのだが、僕は全科目の平均が六割弱だったのに対し、成瀬さんは全科目八割をこえる高得点をたたき出していた。そして大層なドヤ顔で僕を見てきたので
「確かこの前は、他人と比較しなくてもいい、みたいなこと言ってなかったっけ」
と皮肉交じりの言葉を成瀬さんにぶつけると、
「ふっふっふっ、山野くん、受験とは戦いなのだよ」
と、勝ち誇った笑顔をみせていた。
そんな成瀬さんを見ていると、若干の悔しさが沸いてきた半面、成瀬さんがこんな表情を僕にみせるのは、僕がやっと彼女と同じステージに立てたと認めてもらえたからなのではないかと思うと、それは素直に喜ばしいことでもある。
僕は、僕自身の足でたしかに前に進めている気がした。
そして、そんな図書館での勉強漬けの日々も今日で終了となる。
明日は夏休みの最終日、この夏休み最初で最後の遠出であり、僕の生きる理由探しでもある、海へ行く日だ。
もう段々と夕暮れの時間帯が早くなってきて、日中の気温もだいぶん落ち着いている。夜には肌寒ささえ感じる日もあり、あんなにうるさかったセミの代わりにコオロギの声が聞こえ始めている。
「じゃあまた明日。寝坊は厳禁だからね!」
「うん、明日」
今日も送迎を母に任せているという成瀬さんとは図書館の前で別れ、僕は自転車を進めた。
三十メートルほどペダルを漕ぎ進めたところで、ふと気になって僕は図書館の方に顔を向けた。
「明日、楽しみにしてるからねー」
そこには、笑顔で手を振りながら大声を出している成瀬さんがいた。
僕は何も言い返さず再び前を見て、足を動かした。
そういえば夏休みに入ってからは、一度も成瀬さんのあの表情を見ていない。果たしてそれがいいことなのか悪いことなのかは分からないけど、できればもう二度とあんな成瀬さんを見たくはないことだけは、たしかだ。
秋風が稲畑の黄金色の絨毯を揺らし、さわさわと音をたてて踊っている。
それが、夏の終わりを惜しむようでもあり、秋の訪れを歓迎しているようでもあった。
「じゃあ、いってきます」
「気をつけてね。晩ご飯いらなかったら、また連絡ちょうだい」
「うん、わかった」
僕は玄関に鍵をかけ、いつもの通学に利用している駅へ歩き始めた。
空にはわずかに薄い雲がかかっているが、それでも天気が崩れそうなほどではない。気温は高すぎず低すぎず、比較的過ごしやすくなっていると思われるが、風がほんのりと生暖かく、まだ夏は終わっていないんだということ教えてくれている。
今日は満を持して迎えた夏休みの最終日。
僕は成瀬さんとの待ち合わせのため、駅のすぐ隣にあるバス停に向かっていた。九時集合ということになっていたので、余裕をもって八時半に家を出たから万が一にも遅刻することはない。
今日は海に行くということなので、ロールアップしやすい紺のボトムスと脱ぎやすいランニングシューズを履いてきた。僕は海の中に入る気はないけど、もし成瀬さんに海へ入ろうと誘われた場合に備えて、その打開策として足だけは入れるようにしておこうという考えだ。
だからもちろん水着も持ってきていないし、リュックの中にはタオルと帰りに羽織るパーカーしか入れてきていない。さすがに帰りも半袖で過ごせるほど、今の時期は甘くない。
僕は駅に着くとそのまま駅中を横断し、バス停のあるロータリーに出た。ロータリーの真ん中に設置されている木で造られた古びた時計塔を見ると、八時五十分を少し過ぎたあたりだった。
辺りを見渡して成瀬さんの姿を探したが、まだ見えないのでバス停にある色の褪せた青いベンチに腰掛け、成瀬さんを待つことにした。成瀬さんの家からここまでは歩いてこれる距離ではないらしく、いつも成瀬さんが降りる駅から電車に乗って来ると言っていた。だから僕は駅の改札口を時折気にしながら、ぼーっと時計塔をながめていた。
ボーンという鐘をつくような音が鳴り響いたと同時に、時計の針は九時を指示した。
それなのに成瀬さんの姿はまだない。
五分ほど前に成瀬さんの駅方面からの電車がホームに入って停車していたが、そこから成瀬さんが出てくることはなく、そのまま次の駅へと進んでいってしまった。
成瀬さんは今まで一度も約束の時間に遅刻したことはなかったので、もしかしたら僕が認識している集合時間が間違っているのではないかと不安が生じ始めてきた。
そんな時、再び駅のホームに電車が入ってきて、扉が開かれた瞬間に中から白い影が飛び出してきた。その影は改札を抜けて一瞬立ち止まってキョロキョロと周囲を見渡すそぶりをしたあと、バス停にいる僕を見つけて、走って駆け寄ってくる。
それは白いワンピースに白い麦わら帽子、おまけに白い運動靴まで履いて、全身を真っ白にコーディネートしてきた成瀬さんだった。その姿はまるで、翼だけがない天使のようだ。
成瀬さんは僕の前まで来ると、少し上がった息を整えてから申し訳なさそうに口を開いた。
「本当にごめんね、遅刻は厳禁とか自分で言っときながら」
僕は視線を時計台に移すと短針は九を、長針は二と三の間を指していた。そして再び視線を成瀬さんへもどした。
「成瀬さんが遅刻なんて珍しいね。何かあったの?」
「ちょっと、電車の時間を勘違いしてまして……」
反省の色をみせながらも、成瀬さんは走って乱れた前髪を直している。
「まぁ、バスが来る時間はまだだし別にいいよ。…それに僕もさっき来たところだし」
「え、山野くんも遅刻したの?」
「…まぁね。少し焦ったけど成瀬さんもまだ来てなくて安心してたよ」
「……そうなんだ」
「だからそんなに気にしなくてもいいよ」
「…山野くん」
「ん?」
「ありがとね」
そう言って成瀬さんは今日初めての笑顔をみせてくれた。
それと同時に僕もその言葉の意味を理解し、顔に少しの熱を帯びた。
「……なに、もしかしてどこかで見てたの?」
成瀬さんは首を横に振る。
「んーん。見てなくも山野くんが優しいってことくらい分かってるよ」
「その優しさが、たった今、裏目に出てしまったよ。…できれば忘れてほしい」
「忘れないよ、絶対に」
こんなやり取りをしているうちに、バスがロータリーに侵入し、僕たちがいるバス停で停車して扉を開いた。二段の段差を上がって車内へ入ると空席だらけだったので、僕たちは一番後ろから一つ手前の二人用の座席に並んで座ると、それをミラー越しに確認していた運転手のおじさんが扉を閉め、車内アナウンスとともにバスを発進させた。
景色をよく見たいと言う成瀬さんを窓際の席に座らせたので、僕は通路側の席から反対側の窓から外を眺めた。
出発して十五分も経過するころには、バスは見慣れない風景の中を走っていた。
そこで初めて、僕は成瀬さんのとある違和感に気づいた。
「なんで手ぶらなの?」
「なんでって、特に持ってくるものなかったもん」
「水着とかは持ってこなくてもよかったの?」
「私、別に海に入りたいとは思ってないよ。この気温じゃ寒いしね」
そう言われると、たしかに成瀬さんは海に入ることよりも、見ることに強い憧れを抱いていたような気がする。
だからと言って、せっかくこんなに苦労してまで行くのに、見るだけというのもどうかと思うが、全く同じことをしようとしている僕が言うのもおかしな話なので、そんな成瀬さんを認めざるを得なかった。
「まさか山野くん、私の水着姿に期待してた?」
そう言いながら成瀬さんは自身の胸元を隠すように腕を組んで、僕から距離をとるように窓に寄りかかった。
僕は軽くため息をついてから、目を伏せて慈悲を込めながら言った。
「言いにくいんだけど……」
「うん」
「その考えは、ほんとに一ミリもなかったよ。……なんかごめん」
成瀬さんはヒドイ!と言いながら、照れくさそうに僕の右肩を小突いてくる。
こんな僕たちを腹の中に抱えながら、バスは山道を登って、下って、街並みの中を通り過ぎて、また豊かな自然の中を走っていく。
そうして約一時間の時が過ぎ、やっと僕たちが降りる停留所に到着した。
扉が開き久しぶりの地上に降り立つと、目の前には「都会」と呼ぶにふさわしい街並みが広がっていた。
大きなオフィスビルやデパートらしきものが場所を取り合うように建ち並び、交通量や見える人の数は、僕が経験したことのある「都会」よりも圧倒的に多い。自動車の排気ガスやエンジン音、クラクション、あらゆる方向から聞こえてくる人の話し声、そう言ったものすべてが、僕の知るものとは規模が異なるこの空間に僕は酔ってしまいそうになる。
「行こう」
一刻も早くこの空間から逃げ出したくて、僕たちは近くの駅に入って電車を待った。
ここから電車に乗って五駅進むと、今日の目的地である海岸につく。そこはけっこう有名な海水浴場で、毎年夏になると人であふれかえるので、その様子を取材しにテレビ局なんかも訪れるほどだ。僕もそこには行ったことがないけど、ニュースで流れている映像は目にしたことがあった。
ただ、僕たちがそこへに行くことを選んだのは別に有名なところだからではなく、単に一番近くて行きやすい場所だからだ。
「なんだか、違う世界に来ちゃったみたいだね」
バスを降りてから一度も口を開かなかった成瀬さんが、ホームで電車を待っている時にぽつりとつぶやいた。
「……そうだね」
ホームから街を見下ろしていると、澱んだ空気や真っ黒い喧騒が、ど真ん中で大きな渦を巻いているように見える。
携帯電話をいじりながら歩く人、友達と楽しそうに話す人、信号を待つ人、無視している人、腕時計を確認しながら走る人、車を運転する人……。
常にどこかで何かが動いて、音を出して、息をしている。
そしてそれらすべての要因が、この光景をつくりあげていた。
「ねぇ、山野くん」
「ん?」
「私が前にした宇宙人の話、覚えてる?」
悄然と目の前の光景をながめながら、小さな声で訪ねてくる。
「…覚えてるよ。成瀬さんは宇宙人を見たことがないから、それは存在していないことと同じっていう話だよね?」
「そう、そしてそれは時間にも同じことって仮説を立てたでしょ?」
「うん」
「それがたった今、立証されたよ」
「…どういうこと?」
成瀬さんは僕を見て、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも捉えられる表情で口を開いた。
「だって、ここに流れてる時間は、私の中には存在してなかったから」
その言葉に反応するように、僕の中で何かが大きく脈打った。
久しぶりの感覚だったがそれはすぐに落ち着いた。
「…僕も、こんな都会に来たのは初めてだよ」
僕は成瀬さんが言いたいことを理解したうえで、あえて的外れな感想を言うと、成瀬さんもすぐにいつもの調子に戻った。
「私も、こんな都会に来たのは初めてだよ。人の数がすごいよねー」
「これを見ると僕たちの知る都会が、完全に『田舎の都会』だってことがよく分かるよ」
「あはは、言えてる」
そうしていると電車がやってきたので、それに乗り込んで五駅先の目的地を目指した。
五分ほどすると街の中心部から抜け、窓の外の景色もビル群から住宅街に変化しだした。さらにそこから五分後が経過し、住宅街の中にある一つ目の駅に到着した。
この路線は各駅間の距離が非常に長いようで、一駅移動するだけでも十分もの時間を要し、距離もだいぶん進んだ。
再び電車は進行をはじめ、やがて住宅街を抜けると周囲には緑豊かな山々と稲畑が広がりだした。この光景にどこか懐かしさを覚えるのは、僕らが暮らす町とよく似ているからだろう。
そんな周囲の景色に見とれていると先頭車両の方が暗闇に覆われていて、それに気づいた時にはすでにこの車両も同じように真っ暗になった。
電車は、大きな山の麓を貫くトンネルの中を走っていた。
こうなると景色を楽しむ以前の問題なので、おとなしくトンネルを抜けるのを待った。
そしてこの暗闇にも目が慣れてきた時、電車の進行方向から微かな光が差し込んできたので僕は目をつむった。以前何かのテレビ番組で、明順応を早くするには瞼を透けてくる光に慣れてから、目を開けるといいと言っていたからだ。
電車はトンネルを抜け、おそらく車内には四方八方から光が襲ってきているだろう。
少しして僕は瞼を透ける光にも慣れたので、恐る恐る目を開けてみると、思わず息をのんでしまうほどの光景が、南側の車窓に広がっていた。
僕がそれを実際に見るのは初めてじゃない。
それでもこの瞬間だけは、僕はそれから目を離すことができなかった。
「これが……海……」
隣からボソッと聞こえてきた声で、僕はようやく自我を取り戻した。
しかし、その声をこぼした本人はというと、このオーシャンブルーに釘付けになっている。
僕ももう一度海に視線を戻すと、水面によって乱反射された日光がここまで届き、キラキラと目を刺激してくる。それを気にする様子もなく、成瀬さんは憧れていたものをじっと見つめている。
「山野くん!」
急に力強く僕の名前を呼んできた成瀬さんに驚き、体が少しびくっとなってしまった。
「…驚いた、どうしたの?」
「次で降りよう!」
「え?」
「いいから、行こう!」
僕の理解が追い付かないままに電車は減速を始め、三つ目の駅に停車した。そして扉が開かれたと同時に成瀬さんは僕の腕を引っ張り、一緒に外へ連れ出された。
高校の最寄り駅と比較してもだいぶんちっぽけで、周囲には家屋が一つも見当たらない。目に映っているものといえば、そびえたつ山々と海岸へ続いていると思われる獣道が一本だけ。そんな辺鄙な駅のホームに僕と成瀬さんは立っている。
たしか僕たちが目指していたのは、もう二つ先の駅だったはずだ。それなのになぜ今、僕たちはこんな場所にいるんだ。簡単だ、成瀬さんが僕の腕を引っ張って一緒に降ろされたからだ。じゃあなんで成瀬さんはここで降りたんだ。
今の状況を理解しようとこの夏で鍛え上げた脳をフル稼働させるも、僕の腕を離さないまま歩き出した成瀬さんによって、そんな僕の思考はホームに取り残され、体だけが海へと向かっていった。
「山野くん」
ようやく口を開いた成瀬さんは、正面を向いたまま歩いている。
訊きたいことがありすぎて言葉を選んでいると、僕より先に成瀬さんが口を開いた。
「ごめんね、こんなところで降りちゃって」
その言葉はすっと頭の中に浸透していき、オーバーヒートした僕の脳を冷やしてくれた。
それから一度深く深呼吸をして冷静さを取り戻したあと、今僕が彼女にすべき質問をした。
「ほんとにここでよかったの?」
「うん」
そもそも今日は、成瀬さんが海を見るということを目的としているので、彼女がここでいいなら……
「じゃあ、僕もここでいいよ」
「ありがとね、山野くん」
相変わらず正面を向いている成瀬さんの表情は見えないけど、多分、笑っているだろう。
そして道を抜け、砂浜へと足を踏み入れた僕たちの目の前に、電車から見えたあの光景が広がった。
「見て、山野くん! 海だよ!」
「ちゃんと見えてるよ」
水面が光り輝くオーシャンブルーと足元できらめく白銀の砂浜、右手側にはそれらが山の麓に沿いながら、隠れては現れての繰り返しで遠くの方まで続いており、左手側には断崖絶壁の崖が僕たちを見下ろしている。
さらに、砂浜からはいびつな形の岩石を積み上げて造られた足場のようなものが沖に向かってのびており、それらは一定の距離ごとに設置されていた。
周囲に人影らしきものは一切見えず、まるでプライベートビーチに来た気分だ。
ここらには建物などの遮蔽物が一切ないので、生ぬるい海風が直に肌を刺激し、塩でべたついてきたのが分かる。
そんなこと気にする様子もなく、成瀬さんはまるで雪の中を跳びまわるウサギのように波打ち際へ駆け寄っていった。僕はそんな成瀬さんの背中を見ながら、砂を力強く後ろに蹴り上げて一歩ずつ着実に歩を進め、横たわっていた大きな流木の上に腰掛けて海を眺めた。
波打ち際に立つ成瀬さんよりも奥の沖の方には小さく船が見え、さらにそのずっと向こう側にはうっすらと島のようなシルエットが見えている。
こうして景色を堪能しながら、穏やかな波の音と心地いい晩夏の日差しに晒されていると自然と瞼が吊り下がってこようとする。こんなところで寝てはいけないという自制心はしっかりと働いているけど、どうしても立ち上がる気力がわいてこない。
「おーい、山野くんもこっちおいでよー」
僕がそんな極限の戦いを繰り広げていた時に、波打ち際で成瀬さんが大きく手招きしながら僕を呼んできたので、その声の力を借りてようやく立ち上がることができた。
背負っていたリュックサックを流木にもたれかけさせて、成瀬さんのいるところへ向けてゆっくりと前進しだした。その途中に貝殻の死骸が散乱しているところがあったので、僕はその上をパキパキと音をたてながら進んだ。
成瀬さんに近づいていくと、波が届きそうにない場所に揃えられた靴とその中にしまわれた靴下が目に入ってきたので成瀬さんの足元を見ると、案の定裸足になっており、くるぶしの少し下ほどまでが海水に浸かっていた。
「海水って、ほんとにしょっぱいんだね」
「まさかとは思うけど、飲んだの?」
「飲んだよ?」
なんでそんなこと訊くの?と言わんばかりに首をかしげて不思議そうにしている成瀬さんに対して、僕は若干の優越感を抱いてしまった。
確かに、海に来たことがなかった成瀬さんにとっては理解しがたいことなのかもしれない。
だから僕は成瀬さんに、海の実体を教えてあげることにした。
「海水って見た目はきれいだけど、実際は、工場なんかから流出されてくる汚染物資を含んでる排水のせいで、だいぶん汚れてるんだよ」
「それは知ってるけど、別に一口飲んだぐらいじゃ健康に害はないよ」
「…あ、知ってたんだ」
なぜか一枚上をいかれた気分になった。
「あ、でも飲みすぎには注意だよ。海水の塩分にはマグネシウムが含まれてて、体質によっては下痢になる場合もあるから。だから山野くん、気を付けて飲んでね」
「……僕は飲まないよ」
一枚ではなく三枚くらい上をいかれてしまった。これみよがしにマウントを取りにいった数秒前の自分が本当に恥ずかしい。
成瀬さんはこんな僕の様子を見て少し微笑みながら、少し僕の方に近寄ってくる。
「ねぇ、山野くん」
「ん?」
「ちょっと歩こうか」
そう言うと成瀬さんは裸足のまま濡れた砂の上に沿って歩き始めた。波が押し寄せるたびに成瀬さんの足は海水に覆われる。
僕は靴を履いたまま、乾いた砂の上を成瀬さんと並行になるように歩き出した。
歩き始めると、お互いに無言の状態が続いた。波が砂の上をすべる音と時折聞こえてくるトンビらしき鳥の鳴き声だけが僕たちの間に流れていた。
やがて岩石の足場までくると砂浜が一瞬途切れたので、「もどろっか」とだけ成瀬さんが言うと、僕たちはUターンして元居た場所に引き返した。
僕は一足先にリュックサックを置いていた流木に座っていると、右手に靴をもった成瀬さんが海の方から歩いてきて、僕の横に並んで腰掛けた。それから両足を浮かせてまとわりついた砂を手で払い落とそうとし始めたので、僕はリュックサックからタオルを取り出して成瀬さんに差し出した。
「よかったらこれ、使いなよ」
成瀬さんはそれを見て一瞬驚いた様子を見せた後、少し眉尻を下げて微笑んだ。
「ありがとね、でも大丈夫だよ。これ、わりと簡単に落ちてくれるから」
「…それならいいんだけど」
成瀬さんはある程度砂を払い落とすとすぐに靴下と靴を履いた。
その様子を見て僕がタオルをカバンにしまい込んだところで、ふと思い出した。
「そういえば成瀬さん、お昼ご飯、食べなくて大丈夫?」
時計がないので分からないけど、体感時間的に今は丁度お昼時だろう。
僕は出店とかで買う予定だったので食べ物は何も持ってきていなかったが、この付近にはそれがないので、現在は何も持っていない状態だ。ただ、朝ご飯を食べてからあまり時間が経っていないので、特にお腹は減っていなかった。
「私はあんまりお腹減ってないから大丈夫だよ。山野くんは?」
「僕も大丈夫だよ」
「そう」
その会話を皮切りに、僕たちの間には再び無言の時間が訪れた。
ふと、来た時とは何か景色が違うなと思って上を見ると、空には灰色の薄い雲がびっしりと敷き詰められ、太陽は顔を引っ込めていた。そのせいで気温が下がって少し肌寒くなり、鮮やかな青色を魅せていた海は若干黒ずんで見えた。ただ、雨が降り出しそうな空模様とは異なるものだ。
こんな空を見ていると、どうも今の自分が抱える心境と重なってしまう。
正直なところ、僕にとってはどうでもいいことだ。興味もないし、特に知りたいとも思わない。それに僕は、こういうことはあまり得意じゃないので、できれば何もしたくない。
ただそれでも、太陽が見えていないと少し寒いし、いい気はしない。
だから僕は、口を開く。
「成瀬さん」
「ん?」
こちらに向ける成瀬さんの作り笑いは
「なにがあったの」
「……え」
僕の言葉によって一瞬で消え去った。
「……なにがって?」
「それは、僕には分からないけど。……でも、何かがあったってことは、僕にでも分かるよ」
思い返しても今日の成瀬さんは明らかにおかしかった。
今まで一度もしたことのない遅刻をし、海へ行くのに何一つ荷物を持ってこず、急に目的地を変更する。
そして僕を、今日の成瀬さんは普通じゃないと確信に至らせた最大の要因は…
「今日の成瀬さんは、僕によく似ているから」
こんなにもヒントを与えられると、逆に気づかない方が難しい。
成瀬さんは少しの間、頭の中で思考を巡らす様子で自分の足元をじっと見つめた後、一度大きく息を吸い込んで、微かにのどを震わせながらそれをはきだした。
「あはは、山野くんは鋭いなー」
悲しみしか感じられない表情で、成瀬さんは笑う。