「あっ、いや、友達と…ってことじゃなくて、家族とかの予定のことだよ、もちろん!」
その言葉に僕は自分の勘違いに気恥しくなり、少しだけ顔が熱くなった。
「今のところは家族での予定は特にないよ。母さんも最近、また仕事が忙しくなってきてるみたいだから。多分、どこかに出かけてる余裕はないだろね」
「そうなんだ、………」
成瀬さんはまだ僕に何か訊こうとしたけど、それをぐっと飲み込んだように見えた。
「どうしたの?」
「ん? 何でもないよ」
呑み込んだ言葉をすぐに消化した成瀬さんは、何事もなかったかのように笑顔をみせる。
「まぁとりあえず、山野くんは暇な日ばっかりってことだね」
「なんか悪意のあるように聞こえるけど、僕は別に、暇ではないよ」
「じゃあ何するの?」
「夏休みの課題を終わらせたり、受験に向けて勉強したり、読書したり、テレビ見たり。もう大変だよ」
「…山野くん、それを予定とは言わないよ」
情けないものを見るかのように、成瀬さんは眉尻を下げて僕を見てくる。
「でも、たしかに勉強はしないといけないよね。進学を考えてる人にとっては高校二年生の夏は大事な時期だしね。…てか、山野くん、進路はどうするの?」
「一応、進学を考えてるよ」
「へぇ、じゃあ就きたい職業とかは決まってるの?」
「それはまだだよ。今のところは、とりあえず勉強して、少しでも学費を抑えれるように国公立の大学に進学したい、くらいの考えだよ」
「まぁそういうのを見つけるのは、大学に入ってからでも遅くないしね」
こんなことを言いながらも、成瀬さんは現時点ですでに自分の将来を見据えていることを僕は知っている。
「成瀬さんは、夏休みはなにするの」
僕は、僕の未来の話から話題をそらしたくて、成瀬さんに尋ねた。
「あはは、かくいう私も勉強漬けの日々を送ると思うよ」
成瀬さんは笑って答えた。
僕たちは駅に着いて、五分ほど待ってやってきた電車に乗った。車内は冷房が効いていて、体にたまった熱を分散させていってくれた。
「でもね山野くん、勉強ももちろん大事なんだけど、私、この夏に一度だけでいいから出かけたい。行ってみたい場所があるの」
座席に並んで腰掛け、正面の車窓から流れゆく自然をながめながら成瀬さんがつぶやいた。
「行きたい場所?」
「そう。………私ね、海を見てみたいの」
そんな成瀬さんの瞳に反映されている憧れのような思いを、僕は感じとった。
「見たことないの?」
「もちろん写真とか映像では見たことあるよ。でも…、実物は見たことがないの」
僕たちが暮らしているこの地域は、半径約五キロメートルの周囲が山に囲まれており、高台に上っても海が見えない。さらに一番近くの海岸に行くのでも、バスと電車を乗り継いで片道約一時間半の道のりを進む必要があるので、よっぽどの海好き以外、この地域に暮らす大半の人間は実際にその目で海を見たことがないだろう。
ただ、僕は母方の祖父母が暮らす家が海岸の近くにあるので、帰省するたびに海を目にしていた。だから、別に海に行きたいとは思わない。
それでも、成瀬さんが今から言おうとしているセリフが読めた僕は、間違いなく海に行くことになるんだろうなと思った。
「だから山野くん、夏休み、私と一緒に海を見に行こ」
「……一応、念のために訊くけど、なんで?」
「もちろん、山野くんの生きる理由を探しに、だよ」
もうこの言葉と笑顔にはすっかり慣れた。
「…まぁ、一日だけなら」
「はやく見つかるといいね、生きる理由!」
それから一週間が過ぎ、僕たちは夏休みを迎えた。
「じゃあ、いってくるわね」
「うん、いってらっしゃい」
「啓も気をつけていってくるのよ。出るときは鍵かけ忘れないようにね」
「…うん」
リビングから仕事に行く母さんを送り出し、僕も外出するための身支度を始める。
洗顔と歯磨きを済ませ、母さんが用意してくれていた朝食を食べた後、寝巻を脱いで、半袖に胸ポケットがついているだけの白Tシャツと黒のジーンズを装着する。エアコンとテレビを切って玄関へ向かい、用意していたリュックサックを背負って靴を履いて、立ち上がってから一つ深呼吸をはさむ。背後からは、リビングからもれ出た冷気が僕の背中を後押ししてくれている。
覚悟を決めて扉を押し開いたと同時に、真夏の強い日差しと外界からの暖気が寒さを求めて一気になだれ込んできた。
扉を開いたまま、僕は少しの間、暖流と寒流に挟まれた魚の気分を味わっていた。
そんなことをしていても仕方がないので、僕は歩を進め外に出て、扉に鍵をかけた。それから自転車のサドルにまたがり、砂漠のような住宅街の中を進みだした。
着ていた服にはたちまち模様が浮かび上がってきて、それが徐々に範囲を拡大させていく。ジーンズと地肌との間には汗がたまり、足を動かすたびにヌメヌメと奇妙な不快感を与えてくる。
今身にまとっているものすべて脱ぎ去りたいという気持ちを抑えながら、暑さと雑音の中を僕はただひたすらにペダルをけり続けた。
そんな葛藤を繰り返しながら約十分、住宅街を抜けた僕の視界には田畑が広がってきて、その中にポツンと、クリーム色の大きな建物が見える。あそこが僕のゴールだ。
僕は建物の駐輪場に自転車を止め、顔ににじみ出た汗をある程度服でぬぐってから、入り口の二つの自動ドアをくぐった。
中に入った瞬間、僕の体は心地いい冷気に包まれた。
外の世界が嘘だったかのようにここは涼しく、静かな空間だ。周りをみわたすと、たくさんの本棚に数えきれないほどの本が並べられている。それと木でできた大きめのテーブルが縦に三つ、それが四列あり各テーブルには椅子が六つずつ備えられている。
僕は図書館に来ていた。
夏休みにもかかわらず、利用客はさほど見当たらない。
僕はテーブルと本棚の間を通り抜け奥へと進み、一番奥の壁面に備え付けられているカウンター型の横長いプラスチックの机と、その前に十席ほど座鎮する椅子の一番左端の席に腰掛けてリュックサックを下した。
服にしみこんでいた汗が冷気によって冷やされ少し寒くなってきたが、それも段々と乾いてきて、快適な時間を取り戻した。
僕はリュックサックから筆記用具と問題集を取り出し、夏休みの課題にとりかかった。
どれくらいの時間が経過しただろうか。
僕の体感時間では二時間ほど、でもおそらく実際は三十分も経っていないであろう時に、背後に人の気配を感じた。
僕は手を止めて視線を問題文からそちらへ移すと、膝より少し上までの長さをした灰色スカートの中に、袖まくりした長そでのデニムをいれて、白いスニーカーと黒リボンのついた麦わら帽子を装備した女性が微笑みながら立っていた。
「おはよ。今日も頑張ってるねー」
「おはよう。……なんでそんな涼しそうな顔してるの」
その女性、成瀬さんは、とてもあの灼熱の中をここまで来たとは思えないほどに汗一つかいていなかった。
「あぁ、今日はお母さんが車でここまで送ってくれたの」
「…それはずるいね」
「あはは」
素直にうらやましいと言えない僕は、再び視線を問題文に移してペン先を走らせた。
成瀬さんも空いていた僕の右隣りの椅子に腰掛け、僕が解いているものとは異なる問題集を広げ、手を動かし始めた。
夏休みに入って、はや二週間が経過していた。
八月に突入してから一層猛威を振るい始めた暑さは、気温が三十度を超えるほどの真夏日を生み出し続けていた。特に日中の時間帯はエアコンなしでは生きられないような暑さだ。この炎天下の下で部活動に勤しんでいる学生が多々存在しているのかと思うと、尊敬と心配の念を抱かざるを得ない。
そんな中で僕と成瀬さんはというと、夏休み前に宣言した通り、ほぼ毎日図書館に来ては朝から夕方まで勉強していた。
正直、僕はここまで勉強をするつもりじゃなかった。課題を終わらすのと多少の受験勉強ができればいい、くらいの考えだった。ただ、今も隣で頑張り続けている成瀬さんに充てられてか、それとも分からなかった問題を理解できた時の快感の味を覚えてしまったからなのかで、僕の勉強への集中はまだ保たれていた。
そしてこの二週間でまた一つ、成瀬さんについて分かったことがあった。
それは、成瀬さんは他人に勉強を教える能力が抜群に優れているということだ。
このことは一学期の定期試験前に成瀬さんと勉強した時にも少し思っていたことなんだけれど、この二週間でそれは確信に変わった。
成瀬さんの説明は非常に分かりやすいのだ。
よく、頭のいい人は他人に教えることが下手だなんて言葉を耳にすることがあるけど、成瀬さんの場合はそれに当てはまらない。
なぜなら成瀬さんは、普段の生活から他人の気持ちを汲みとりながら生きている人間なので、それは勉強面にも反映され、何が分からないかどう分からないのかをその人の立場になって考え、理解し、そして分かりやすく説明してくれるからだ。
だから僕は、どれだけ考えても本当に分からない問題があった時は、成瀬さんに教えてもらうようにしている。もちろん、そんなに頻繁に彼女を頼ってるわけではないけど、課題の問題集と一緒に配られた解説がザックリとしか書かれていなくて、どうしても理解できない部分が出てくる。
ただ僕が成瀬さんに教えを乞う際に、成瀬さんは自分の勉強を中断して教えてくれるので、そのたびに僕は申し訳なくなる。成瀬さんは、
「そんなの全然気にしなくてもいいよ。私自身の復習にもなってるからさ」
と笑顔で許容してくれるが、少しでも成瀬さんに頼らなくてもいいようにしたいと思っている。
もしかしたらこのことが、僕が勉強を続けられている一番の要因かもしれない。
「今日も分からないところあったら、遠慮しなくていいから訊いてきてね」
すでに五日ほど前に学校の課題を終わらせ、今は受験のための勉強に取り掛かっていた成瀬さんが、手を止めて小声でささやいてきた。
「今日こそはお願いしなくてもいいように、頑張るよ」
「あはは、その意気だよっ」
結局、夕方に成瀬さんが、
「今日はそろそろ終わろっか」
と言うまでに僕は三回も質問してしまった。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、明日」
母が迎えに来てくれるという成瀬さんとは図書館前で別れを済ませ、来る時よりもだいぶ涼しくなった道を、無心で引き返した。
家につき玄関を開けると、夕日の光があまり届いていない、暗い廊下が出迎えてくれた。
僕は洗面所で手洗いとうがいを済ませ、リビングでソファに寝転んだ。
薄暗い部屋の中、仰向けに天井をぼーっとながめてる内に、自然と瞼が吊り下がってくる。僕はそれに抗うことをせず、そのままそっと目を閉じた。
やがて意識は、いつか夢で見たことのある光景の中に沈んでいった。
目の前には一面真っ暗な世界が広がり、その中にひとりで座り込んで泣いている男の子を見つけた。
僕がその子に近づき、
「君は、何で泣いてるの?」
と尋ねても、男の子は僕を見ないで、ただひたすらに泣いてずっと誰かに謝っている。「ごめんなさい、ごめんなさい」と。
どれぐらいの時が流れただろう。何十時間、何百時間いや、何千時間だろうか。それくらいの時間が過ぎた時、ついに涙は枯渇し、男の子は泣くことをやめた。
そして男の子は僕に視線を向けてきた。僕も男の子の乾いた目を見つめた。
その瞳の奥には、悲しみもつらさも苦しみも何もない、虚無の空間だけが広がっていた。
男の子は何も言わないですっと立ち上がり、ゆっくりと歩きだした。
「……………い」
やがて男の子は再び
「…………よ、……い」
真っ暗な闇の中へと消えていった。
「……はんよ、起きなさい、啓」
遠くの方から僕を呼ぶ声が聞こえて、意識は体に引き戻された。
目を開けると、先ほどまで薄暗かったリビングはカーテンを閉められた代わりに電気がつけられ、明るさを得ていた。ソファの背もたれで姿は見えていないけど、キッチンの方からは僕をこの世界に引き戻した母さんの声が聞こえている。
「おかえり、母さん」
「あ、やっと起きたわね。帰ってたんならせめて電気くらいつけときなさいよ、母さん、電気つけた瞬間心臓止まるかと思ったわ………って啓?」
母さんはぶつぶつ言ってる途中に、ソファから起き上がった僕の顔を目視して、少し動揺した様子で訊いてきた。
「なんで泣いてるの、啓」
「えっ」
その言葉を聞いて初めて、僕は自分の両目から涙が出ていることに気づいた。
どこも痛くないし何も悲しいことなんてない。それなのに僕は泣いていた。
おそらく、これは僕が寝ている間に勝手に出てきていたもののようで、あふれているって程でもなく、零れ落ちたってくらいの量の涙だったので、頬に感じている生暖かい違和感を服でぬぐい取ると、それはすぐに消えてなくなった。
「いや、別に何でもないよ。多分あくびした時にでたやつだよ」
僕は涙が消えた顔で、母さんに弁解をした。
「……あくびってそんなに涙でてくるかしら」
間違いない。あくびの時に出る涙の量よりかは明らかに多い。
「五回連続であくびしたんだよ。あっヤバイ、六回目がきそうだ」
心配してくれる母さんを何とかごまかそうと、とりあえず聞き苦しい言い訳を並べてみた。というか、僕にはあの涙の理由が本当に分からなかったから説明のしようがなかった。
「ほんとにどこも悪くないの? 大丈夫?」
「ほんとに大丈夫だよ、心配しないで」
「……そう、ならいいけど」
「ごめん、驚かせて」
何とか母さんからの追及を免れることができた。
「じゃあ、晩ごはんにしましょ。啓がなかなか起きないから、若干冷めちゃったわよ」
「ごめん、いただきます」
僕は席について、母さんが作ってくれた晩ごはんを食べ始めた。向かいの席では母さんも同じものを食べている。
「そういえば、お友達とはうまくやれてるの?」
食事中に突然母さんが訊いてきた。
「…友達ができたなんて、母さんに言ったかな」
「あれ違った? 最近日中にどこか出かけてるから、てっきりお友達と遊んでるものだと思ってたんだけど」
「図書館に勉強しに行ってるだけだよ」
「一人で?」
「……一人だよ」
何か見抜かれたのか、母さんはふーんと言いながら不敵な笑みを浮かべている。
「まぁ、ちゃんと大切にするのよ。そういう時間を」
「…うん」
僕はたしかに一人で勉強してるってわけじゃないけど、友達と一緒にしてるって考えも間違っている。あくまで成瀬さんは『命の恩人』であり決して友達ではない。だから、僕は母さんに嘘をついているし、母さんもおそらく理解を誤っている。
それなのに僕がまるで心を読まれたような気分になっているのは、母さんが僕の母さんだからだと思う。
母さんは会話をしながらも僕より早く食事を済ませ、風呂にシャワーを浴びにいった。
五分ほどして再びリビングに登場した母さんは、シャワーを浴びる前と同じ、仕事着である女性用のスーツを身にまとっている。
「じゃ、いってくるわね」
「うん、頑張って」
「ありがと、我が息子よ」
おやすみなさい、と母さんは言い残してまた会社へ戻っていった。時計を見ると時刻はもう少しで二十一時を回ろうとしている。
僕はテーブルに戻り、食事を再開した。もうすっかり冷えきった豚の生姜焼きは、それでもおいしかった。
食事を終えて洗い場にたまった食器などを洗った後、汗が乾いて異臭を放っている衣服をまとめて洗濯機へ放り込み、粉末状洗剤と柔軟剤を適量いれてからスタートボタンをおして風呂に入った。ほかの季節だったら湯船にたまった残り湯を使って洗濯するんだけど、夏は基本的にはシャワーだけで済ませるので、洗濯にはきれいな水道水を使っている。
風呂からあがり洗濯機を見ると残り時間が三十分と表示されていたので、一度洗面所をあとにしてリビングへもどった。
読んでいた小説を昨日読みきってしまって手持無沙汰なので、仕方なくリュックサックから筆記用具と問題集を取り出し、食堂のテーブルの上に広げて勉強を始めた。この空間には僕以外誰もいないしテレビもついていないのでエアコンの稼働音がよく聞こえてくる。この音を聞いていると、僕は自然と手を動かす気になってくる。
やがて、ピーッという音が聞こえてきたのでペンをテーブルの上に置き、洗面場へいくと洗濯機が、親に「じっとしてろ」と怒られた子供みたいに動かなくなっていたので、ふたを開けて中から洗濯物を取り出して別のカゴに移してから、それをもって二階のベランダへ向かった。
二階はどの部屋も窓を開けているだけの状態だったけど、今夜は比較的涼しく、冷房をガンガンに効かせているリビングよりもほんの少しだけじめじめしている程度だった。
同じ夏なのに、空に出ているのが太陽か月かというだけでここまで気温が違ってくると、少なくとも八月の終わりまでは太陽には休んでいてもらいたいと思う僕を、誰が非難できるだろうか。
スリッパをはいてベランダに出ると、今日も夜空には満天の星たちが輝いていた。
世に言う「田舎」という部類に属するこの町がもつ、数少ない利点の一つでもあるこの夜空は決して都会では目にすることができないと思う。普段から見慣れているとあまりありがたみは感じられないが、それでも確かに、この光景が美しいということだけは十分に理解しているつもりだ。
夜空に鳴り響く虫たちが奏でる音色と、どこか懐かさが感じられる夏の夜風に吹かれながら、僕は洗濯物を一つ一つ丁寧にハンガーにかけ、それを物干し竿にぶら下げていく。
洗濯物はあまり多くなく作業はすぐに終わった。空になったカゴを洗面所へ戻しにいき、ついでに歯磨きを済ませた。
もう少し問題集を進めようかなとも思ったけど、そんな僕の思考を一瞬にして睡魔が覆いつくしてきたので、食堂に広げっぱなしの勉強道具一式をリュックサックにしまい込んで、エアコンの電源と電気を消して自室へ向かう準備を整えた。
二階へ上がる前に玄関の戸締りを確認し、その足で階段をあがった。
一歩進むごとに僕の意識は曖昧なものになっていき、部屋のベッドに寝転んだと同時に完全に意識が途絶えて眠りについた。
夏休みが経過してからの二週間、僕は大体今日みたいな感じの日々を繰り返していた。
休み、というものは過ぎるのが非常にはやく、気づくともうすぐ折り返し地点を迎えようとしている。
正直、僕にとっては休みを過ごすこと学校に行くことには大した違いはないから、夏休みが過ぎていくことに悲しみを抱いたりはしなかった。
ただ、僕はこの夏に一つだけやらなければいけないことがあった。
それは、一学期の学期末試験最終日、帰りの電車の中で成瀬さんとした『海に行く』という約束を果たすことだ。僕たちが未だにこの約束を成し遂げれていないのは、成瀬さんの「楽しむのは、やるべきことをやった後だよ」という、いかにも偏差値の高そうな言葉があったからだ。
そしてその「やるべきこと」というのは、言わずもがな勉強のことだ。最低でも学校から出された夏休みの課題を終わらせてから、というのが海に行く条件となった。
僕は別に海に行きたいと思っていないので、課題を夏休みの最終日まで終わらせなければ海に行かなくてもいいんじゃないかとも考えはしたけど、それは僕にとってデメリットしかないし、図書館であんなにも教えてくれている成瀬さんに申し訳ない。そして何より、あと一週間もすれば間違いなく僕は課題を終わらすだろう。
それに、成瀬さんは海で泳ぐことを目的としていない。あくまで「海を見る」ことが成瀬さんのメインの目的なので、最悪、夏休みの最終日に行くことになってもいいと成瀬さんは言っていた。そしてそのあとに、
「もちろん、山野くんのメインの目的は、生きる理由を探すことだからね!」
と、おまけのように言ってきた。
そんなわけで僕たちが海に行くのは、僕の課題が終わってから要相談というかたちで保留となっている。
翌日からも同じような時間を過ごし、僕の見立てより少し遅くなった十日後についに、僕も夏休みの課題を終えることができた。僕の記憶が正しければ、僕がこれまで経験した夏休みの中では、こんなにはやい時期に課題を終わらせれたことはない。
自然と達成感は僕の中に湧いてこず、どちらかというと脱力感の方が強い。もう終わらせた、ではなくやっと終わらせることができた、といった感じだ。
それでも、今の僕は過去の僕よりも優れているはずだ。
ただ、脱力感と少しの優越感に浸っている僕の隣には、僕の半分以下の日数で課題を終え、あの問題集なんかよりも確実に難易度が高いであろう問題を解き続けている成瀬さんがいるので、そんなちっぽけな感情は一瞬にして打ち消された。
僕の課題が終わり、とりあえずは二人ともノルマを達成できたということで、今日、僕たちは今後の予定決めを兼ねて繁華街のカフェに来ていた。
いつもの図書館ではあまり喋れないし、たまには休むことも必要だという成瀬さんの提案に僕もまんまとのった。
相変わらずの喧騒が立ち込めるこの地域は、成瀬さんと初めて映画を観に来た時から幾度となく足を運ばされているので、ちょっとは僕もここの空気に馴染んできたんじゃないかと錯覚してしまう。
去年までの僕じゃ絶対にありえないことだけど、この四か月の間にこの場所で、映画を観たりカラオケやボーリングに行ったりと、様々な娯楽を体験してきた。成瀬さんいわく、そんなことも全部生きる理由探しの一環らしい。
「とりあえずは、おつかれさまだね」
「………」
「あれ、どうしたの山野くん?」
「…僕は成瀬さんのおかげでこんなにはやく課題を終わらすことができたよ」
「うん」
「でも成瀬さんのおかげで『こんなにはやく終わらせられた』って気持ちになれないから、少し複雑な気分だよ」
「あはは、なんだ、そんなことかー」
成瀬さんは微笑しながら目の前に置いてあるカップの持ち手をつまみ、湯気が出ているコーヒーを一口すする。外はあんなに暑かったのに成瀬さんがホットコーヒーを注文しているのは、少し効力を発揮しすぎている店内の冷房が原因だろう。
「たしかに私もちょっとは助言したけどさ、それはあくまで『過程』を教えたに過ぎないんだよ。そこから答えを導きだせたのは、紛れもなく山野くん自身の努力の結果なんだから、私なんかと比較せずに、今は頑張った自分を素直に褒めてあげよ?」
にこやかな笑顔をみせる成瀬さんはおそらく、電車でお年寄りに席を譲った、くらいの感覚にしか思ってないかもしれないだろうけど、僕がその『過程』を教わるという行為にどれほど助けられ、そしてどれほど成瀬さんとの差を痛感させられたのかを、彼女は知る由もないだろう。
ただ、本人もこう言ってくれていることだし僕がこれ以上悩むのは時間の無駄でしかない。
「そうだね。じゃあ恐縮ながら、そうさせてもらうよ」
そう言うと、成瀬さんはご満悦な様子で頷いた。
僕は少し乾いたのどを、いつもスーパーで買うものより五倍の値段もするアイスコーヒーでのどを潤した。味の違いに全く区別がつかないけど、それは僕の味蕾が無能であるからだと信じたい。
コンクリートのブロックを茶色く塗装して西欧風のおしゃれな空間に仕上げられた内装と、アンティーク調の丸いテーブル、それと店内に優しく響き渡るクラシックを彷彿とさせるようなオルゴールの音色が、日本じゃないどこか別の国にいるかのように思わせてくれ、周囲の雑音でさえこの景観の一部と化している。
「それじゃあ、さっそく予定を決めよっか。山野くんはいつがいい?」
「僕はいつでもいいよ、成瀬さんの都合がいい日で」
「ほんとに? じゃあ八月の三十一日がいいな」
「…いいんだけど、なんでわざわざ夏休みの最終日なの?」
「最終日にご褒美が待ってるって考えたら、まだまだ勉強頑張れるでしょ?」
別に海に行くことは僕にとってはご褒美でも何でもないのだけど、その日に行きたいという成瀬さんの意見に反対する気もさらさらない。
「分かったよ、じゃあ八月三十一日で」
「よし! そうと決まれば、また明日からも勉強頑張ろうね」
成瀬さんは自身を鼓舞するように、カップに残っている湯気の消えたコーヒーを一気に胃へ流し込んだ。そしてまだ半分ほど残っている僕のグラスを確認した後、僕に視線を移して何かを促すような不敵な笑みを浮かべた。
僕はそんな成瀬さんの無言の要求の把握したうえで、成瀬さんみたく勿体ないことはしたくないので、相変わらずしっかりと味わいながら飲み進めた。
成瀬さんは、裏切り者と罵るような目で僕を見ていたが、気にせずゆっくり飲んだ。
予定が決まると時が過ぎる速度は、より一層はやまった。これまでは、過ぎた夏休みが後ろから背中を押してくるだけだったのが、今は正面からも引っ張られている感覚がする。
ただ、これくらいの時期になると多くの学生は夏休みの課題にも追われ始めることになるので、それに比べると、まだ僕はゆっくりとした時間を感じれていると思う。
それはそうと、いよいよ受験勉強を開始した僕だったが、これが予想以上に難儀の連続だった。とりあえずセンター試験に向けての勉強を始めてたのだが、ここで一つ目の試練があった。
それは、問題量の多さだ。それぞれ個別に問題を見ていくと、その難易度はたいして高いものではない。ただそんな問題が、とても六十分では解ききれないくらいの量で出題されるので、普通に考えながら進めると絶対に最後まで解ききれない。
そして二つ目の試練がマークシートの罠だ。一見、マークシートなら楽じゃないの?と思うかもしれない。実際、僕もそんな考えをもっていた。しかしそれは大いに甘かった。
たしかに、マークシートの方が答えやすい科目がほとんどだ。基本的にセンター試験の出題形式は選択問題だから、マークシートは非常に便利である。
ただ、数学においてその概念は全く当てはまらない。
これが大変厄介なもので、数学は選択問題ではなく、普通に答えの数字をマークシートに塗りつぶしていくという方式なので、計算して一度答えを出してから、いちいちマークシートに塗りなおさなければいけない。そして、その作業にものすごく時間を奪われる。ただでさえ問題数の多さと時間の少ないという苦境に立たされているのに、これ以上時間を奪われると、解けるものも解けなくなってしまう。
特に、僕は理系の国公立大学への進学を考えているので、センター試験で数学を失敗することは決して許されない。だから、是が非でもここで高得点を取りたいところであった。
さらにセンター試験の勉強が終わっても、次は学校ごとに行われる二次試験の勉強が待ち構えているので、これにそんなに時間をかけていられない。
夏の課題とは違い、受験勉強は手を進めるたびに終わりが果てしないものになってくる気がした。
ただ一つ救いがあったとすれば、道のりの長さを現時点で把握できたという点だろう。
そしてこんなに過酷な環境の中でも、流石というべきか、成瀬さんは順調にその実力を上げてきている。
一度成瀬さんと、センター試験の過去問を解いて自己採点までしてその結果を見せ合ったのだが、僕は全科目の平均が六割弱だったのに対し、成瀬さんは全科目八割をこえる高得点をたたき出していた。そして大層なドヤ顔で僕を見てきたので
「確かこの前は、他人と比較しなくてもいい、みたいなこと言ってなかったっけ」
と皮肉交じりの言葉を成瀬さんにぶつけると、
「ふっふっふっ、山野くん、受験とは戦いなのだよ」
と、勝ち誇った笑顔をみせていた。
そんな成瀬さんを見ていると、若干の悔しさが沸いてきた半面、成瀬さんがこんな表情を僕にみせるのは、僕がやっと彼女と同じステージに立てたと認めてもらえたからなのではないかと思うと、それは素直に喜ばしいことでもある。
僕は、僕自身の足でたしかに前に進めている気がした。
そして、そんな図書館での勉強漬けの日々も今日で終了となる。
明日は夏休みの最終日、この夏休み最初で最後の遠出であり、僕の生きる理由探しでもある、海へ行く日だ。