十六歳、春。
すっかり春休みの堕落した生活に慣れてしまった体に鞭を打ち、家を出る。まだ寝たいと言っている目をこすりながら電車に揺られ、三つ隣の駅で下車。改札を出て北を見ると、いくつかの大きな山が連なっている。その中の駅から一番近くにある山の中腹あたりにみえる丘には白い建物が異彩を放っており、そこに向かってのびる緩やかな坂道を登っていく。空には雲一つなく、朝日がまぶしく輝いており、時折吹く風が道の両脇に生えている木々の間を通り抜けて優しく肌を滑っていく。
周囲には、紺のブレザーに赤いネクタイを首元から垂らし、灰色に白い線が格子状にデザインされているズボンかスカートをはいた、僕と同じ格好をした人間が同じ場所を目指して歩いている。
五分ほど歩くと建物の輪郭がはっきりと見えてくる。比較的きれいで大きく、周りが一面緑なので白色が余計に目立つ。一見、病院のようにも見えるそれは、去年から僕が通っている高校だ。
校門に咲く満開の桜に出迎えられ、僕は高校二年生になろうとしていた。
慣れ親しんだ下駄箱で靴を履きかえ、いつもの順路で、去年と同じ教室へ向かう。僕が教室に着く頃には、そこはすでに賑やかだった。
「よぉ、久しぶりー」
「また一年間、よろしくね!」
「またお前らの顔、一年間も見なきゃいけないのかよ!」
教室では、クラスメイト同士のあいさつや、冗談めかした言葉が飛び交っていた。
クラス内の顔触れは、一年生の時と全く同じだ。
というのも、そもそも僕が通うのは文系科目に力を入れていることで有名な高校で、当然、それを学ぶことを目的とした生徒が多く入学してくる。だけど、家から近いからなどの理由でここを選ぶ理系コース志望の生徒も少なからずおり、僕が入学した年は、そんな人達が僕を含めて四十人弱だった。そのため僕たちは全員同じクラスにまとめられ、三年間クラス替えもなく、教室が変わることもないと、入学時に説明されていた。
そうなると必然的に、仲の良い友達や集まってワイワイやるグループなんかも去年と変わらないわけであって……。
「……もう、いいかな」
誰にも聞こえない程度の小声でぼやきながら、僕は窓際の最後尾にある自分の席に座った。
僕が着席して間もなく、二十代後半ほどの、見るからに優しそうな顔をした女性が教室に入ってきた。クラスの誰もが見知った顔の女性だ。立ち話をしていたクラスメイト達はその女性に気づくと、それぞれ自分の席へと戻っていく。
教室内はまだ若干騒がしかったが、その女性は気にする様子もなく、慣れた足どりで教壇に上がり、笑顔で話を始めた。
「皆さん、おはようございます。担任の大森です。また一年間、よろしくお願いします。」
大森先生のあいさつとともに、教室からは疎らに拍手が上がる。
それから大森先生はきれいな一礼を披露し、話を続ける。
「早速だけど、始業式がもうじき始まるから、みんな体育館に移動してください…あ、最後に教室を出る人は鍵をかけてきてくださいね」
そう言い残すと、大森先生は少し慌てたように教室を出ていった。
職員会議でもあるんだろうか、新学年の新学期は教師陣も何かと忙しいんだろうな、なんてどうでもいいことを考えながら窓の外を見てぼーっとしていると、気づけば教室は僕一人になっていた。
誰もいなくなった教室に鍵をかけ、僕は一人で体育館へ向かった。聞きたくもない校長の長話を淡々と聞かされたり、興味もない部活動の表彰式なんかを見せられたりするのかと思うと、自然と足どりが重くなる。
案の定、始業式は僕の想像通りのものだった。校長の話に関しては一ミリも覚えてない。
始業式が終わりすっかり本日の使命を全うした僕は、教室内の雑音の波を感じながら、机にうつ伏せになっていた。
眠たい。少し寝よう。
目を閉じると、魂だけが下に沈んでいくような感覚とともに、意識がどこかへ消えていく。この感覚が、僕はたまらなく好きだ。
夢を見た。
一面暗闇の世界に、男の子と女性が立っている。
男の子は、中学生くらいだろうか。とても怒っている。
その隣には、くたびれた顔の女性が、申し訳なさそうな笑顔をみせている。
男の子は女性に何か言い残し、暗闇の中へ消えていった。
残された女性の表情は、見えなくなっていた。
最悪の夢だった。
「はい、皆さん、着席してください」
元気な声とともに教室に入ってきた大森先生によって、僕の意識は現実に引き戻された。
教室は静まり、先生の話を聞く状態になった。僕も顔を上げて、教壇に立つ先生を見た。
「始業式、お疲れ様でした。それで早速だけど、今日のうちに学級委員長だけ決めようと思います。これが終わったら帰れるから、みなさん、協力してくださいね」
大森先生が笑顔で告げると、教室は再び音をとり戻す。
ある程度ざわついたところで誰かが言った。
「成瀬さんがいいと思います!」
「私も賛成です」
「俺もそれがいいと思いまーす」
賛同するように、他の生徒も声を上げる。
成瀬花菜(なるせかな)、クラスの誰もが一目置くほどの秀才だ。テストでは常に上位をキープし、授業中の発表なんかでも彼女が間違った姿を見たことがない。成瀬の父は総合病院の院長を務めており、彼女自身も将来はそこで医者として働くことを目標としているという話を、噂程度だけど聞いたことがあった。
それと、彼女はとても美人だ。整った輪郭に透き通るような肌。長いまつ毛とぱっちりとした二重まぶたの目元には、どこか優しさが感じられる。鼻筋はしっかり通っており、唇は八重桜のように鮮やかな桃色をしている。肩にかかるほどの長さをした艶やかな黒髪がその美しさをより一層引き立たせている。
おまけに性格もいい…らしい。友達は多く、いつ見ても彼女の周りには人がいる。
つまるところ彼女は、僕とは正反対の人種ということだ。
平凡な顔つきに、平均のぎりぎり下を攻め続ける成績、学校に友達は一人もいない。このクラスにカースト制度があったなら、僕と彼女は対極に位置するだろう。
「成瀬さん、じゃあ今年もお願いしてもいいかな?」
こうなることが最初から分かっていたかのような笑顔で、先生は成瀬さんに訊いた。
成瀬さんは去年も学級委員長を務めていたし、教室内の誰もが彼女を認めている。断る理由もないだろう。
「私でよければ、よろしくお願いします」
成瀬さんは躊躇う様子も見せず、快く引き受けていた。教室からは拍手が上がる。
正直僕は、成瀬さんのことをあまり好ましく思っていなかった。彼女のように、今まで人生で失敗を経験したことがないような自信に満ち溢れた人種は、うらやましいとも思うが、それ以上に、僕の中の何かが受けつけたくないと言っている。
だからといって、彼女の委員長就任に反対するといったことではなく、僕も拍手の一部となる。
「はい、じゃあ今日はこれで終わりです。明日、四月九日の金曜日は一年生の振り返りテストがあるので、みなさん、休まないようにしてくださいね」
先生の一言で、帰宅できることに対する歓喜と、明日テストがあることに対する悲哀とで、教室は不思議な色に包まれた。
そんな時間も束の間、教室からは次々と人がいなくなっていく。丁度他のクラスも終わったようで、今下駄箱に行っても混雑に巻き込まれそうだったので、僕は席に座ったまま窓の外を眺めて時間を潰した。
やがて教室には僕と大森先生しかいなくなっていた。先生は何か作業をしているようだった。
「そろそろかな……」
中身がほとんど空っぽのリュックサックを背負い、僕は教室を後にしようとした。
「山野くん」
教室を出かけたところで、僕は背後からの声に引きとめられた。
声のした方を向くと、先生はいつの間にか作業を中断させ、じっと僕を見つめている。そして案じるように尋ねてきた。
「もう、大丈夫?」
一瞬、僕の周囲から酸素が失われた気がした。
「もう大丈夫です」
先生の目を見ずにただそれだけを答え、僕は教室を出る。
学校を出て、校門の桜に見送られながら駅に向かう。少し教室でのんびりしすぎたようで、登校してきた時とは違って僕の周囲には学生が全然いなかった。いつの間にか空には分厚い雲がかかり、太陽は顔を引っ込めている。今にも雨が降りだしてきそうな空だ。
歩いていると、僕の脳裏に一つの思い出が浮かびあがってきた。
僕がまだ小学生だった頃、「もし、明日死ぬって言われたら、何をする?」という正解がない問題について、道徳の授業で考えさせられた時のことを。
あの頃の僕は、お金を使いまくるだとか好きなものを食べまくるだとか、好きな子に告白するだとか、とにかくくだらない考えばかりを思いついていた。
今考えると本当にくだらないことばかり思いついていたなと、我ながらに幻滅する。
ただそれでも、あの時の僕にはやりたいことややり残したくないことが、確かに存在していた。
僕は、「明日」に希望をもっていた。
なのに、いつからだろう。そんなものに期待することをやめたのは。
毎日毎日、意味のないような同じ日々を繰り返し。朝起きた瞬間から今日の終わりが目に浮かんで、その道をたどるように一日という時間はあっという間に過ぎ去ってく。
かといって何か行動してこんな日々を変えてやろう、という気にもならず、自分の行動に責任すらもてない僕は、ただただこの世界への不満を心の中でささやくだけ。
後悔することからも逃げ出して、逃げて逃げて逃げ続けて、気づけば僕は死んでいく。
じゃあ、僕がこの世界を生きることに何の意味があるんだろうか。
僕は、本当にこの世界に必要な人間なんだろうか。
僕は、生きていてもいいのだろうか。
もし今、あの質問をされたとしたら僕はなんて答えるだろう。
少し強くなった風が、木々を揺らし葉っぱがざわめいている。まるで僕のことをあざ笑うかのように。
気がつくといつの間にか駅に着いていた。丁度、雨が降り始めた。
僕は改札を抜けホームへ上がった。ここはとても小さな駅で、駅の北側には 線路沿いに続く交通量の乏しい道路と、僕たちの高校へとのびる緩い坂道が一本、南側には少しの住宅が建ち並ぶだけの、なんとも人気のない場所に位置していた。そのためこの駅を利用するのは、高校に通う生徒か駅周辺に暮らす人に限られている。
いつもならホームに学生の姿がちらほらと見えるのだけど、今日は僕の下校時間が少し遅れていたこともあり、ホームには誰もいなかった。そこはまるで、客が一人もいない舞踏会のように暗くて寂しい場所だった。
激しくなった雨が、ホームの屋根を激しく打つ音だけが鳴り響いている。
等間隔に三つ並ぶ年季が入った木製ベンチの一つに腰掛け、僕は再び自分の内側に入り込んだ。
その時ふと、黒くて小さな何かが頭の中に落とされた。透明な水にインクを垂らしたように、その黒い何かはじわじわと広がっていく。やがて、頭の中は黒に覆われた。
「まもなく、当駅を急行電車が通過します。危険ですので、白線の内側までお下がりください」
駅の構内アナウンスが流れる。
僕は、見えない何かに体を引っ張られるようにベンチから立ち上ちがった。
下を見ると、一歩、また一歩と、足が勝手に前へ進んでいく。
やがて僕は、白線の半歩手前まで来ていた。この白線を超えるともう戻れない気がした。振り返って後ろを見る。さっきまで僕が座っていた古びたベンチがある。そして再び前を見た。そこには、何もなかった。
僕は一歩踏み出し、白線を超えた。
「電車が通過します。ご注意ください」
再びかかるアナウンスとともに、駅構内には陽気な音楽が流れ始めた。 その音楽が雨音と混ざり合い、どこか悲しんでいるようにも聞こえた。
電車が見えてきた。僕はホームぎりぎりの淵に立っている。もう少し足を踏み出すだけで線路に落ちることができる。
あと数秒で電車はやってくるだろう。
僕は一つ大きな深呼吸をして、目を閉じた。
「今日死んだら、明日は変わるのかな」
右足を上げ、踏み出そうとした。自然と恐怖はなかった。
「山野くん、山野…啓くん!」
鼓膜に突き刺さるような叫び声に僕は思わず目を開き、右足をホームにもどす。そして名前を呼ばれた方へ顔を向けた。
そこでは、同じ高校の制服を着ている女の子が雷にでも直撃したような表情で僕を見つめている。
見覚えがある顔のその少女は、必死の形相でこちらに駆け寄ってくる。
その時、僕がなんでそれを言ったのかは分からない。
分からないんだけど……。
「ありがとう、成瀬さん」
僕は笑顔で彼女に、そう告げていた。
電車はスピードを緩めることなく、数十メートル先まで迫っている。
なんで成瀬さんはここにいるんだろう。
なんで僕の名前を知っているんだろう。
なんで、僕を助けようとしているんだろう。
そんな疑問をホームに残し、僕は再び前を見て、目を閉じる。
目の前が真っ暗になり、世界からは音が消えていく。
そして、僕は足を前に踏み出した。
何かが背中に触れる感覚とともに、僕の意識は光の中に消えていった。
カーテンの隙間から差し込む優しい光と、少しうるさ過ぎる携帯のアラーム音によって僕は目を覚ました。手を伸ばしてアラームを止めてから、上半身だけ起こして周りを見る。六畳ほどの小さな部屋。中央に四角いテーブルが置かれ、隅のほうには大きな本棚の中に教科書や小説が並べられている。それと、僕が今寝ていたベッドがあるだけの、なんとも殺風景なこの部屋は、間違いなく僕の部屋だ。
それから僕はもう一度寝ころび、仰向けになって真っ白な天井を眺めた。
体はどこも痛くないし、手足も自由に動く。まるで昨日のことが夢だったかのように。まさか本当に昨日のあれは夢だったんだろうか……。いや、僕は昨日確かに、線路に飛び込んで自殺しようとしていた。それでなぜか成瀬さんがいて、僕を助けようとしてきて……。
「だめだ、ここから先が思い出せない」
寝ころんだまま携帯を手に取り、今日の日付を確認する。
「四月九日か…………あ、っていうか今日、テストだ!」
慌ててベッドから起き上がり、制服に着替え身支度を済ませる。そして、顔を洗おうと洗面台へ向かおうと部屋を出たところで、僕は家の中にある違和感に気づいた。
「音?」
僕が暮らす家は二階建ての一軒家で、僕の部屋は二階にある。階段を降りるとすぐ右手側には、リビング、食堂、キッチンがまとまった空間があり、どうやら音はそこから聞こえているようだった。
「まさか……泥棒?」
僕は一度自分の部屋へ戻り、ハサミを手にしてから、音をたてないように一段一段、階段をゆっくりと下りていく。頭は熱くなり、心臓の鼓動が速くなる。まるで、僕の体の中で爆弾が爆発し続けているかのように、体が内側から揺れている。
それでも僕は、緊張と恐怖が入り混じった体を必死に前へ進める。
階段を下り、扉の前に立った僕は、地獄への門を目の前にした気分だった。深呼吸を繰り返し、覚悟を決め、ドアノブに手をかけた。
もう片方の手にはハサミをかまえ、もう一度深く深呼吸をし、そして僕は一気に扉を押し開けた。
一瞬、時が止まったように感じた。
呼吸も瞬きも、時間の経過すらも忘れていた。
それほどまでに僕は、ただただ目の前の光景にすべてを奪われていた。