猫になったイモウト

 髭猫は、全部の足を延ばして横たわっている。
 両目は瞑ったままで、しっぽの先だけがピクピクと動く。
 完全に眠る気でいるだろ、この猫。何しに来たんだ。
「なんでも有りにすると、あとが大変じゃからの。ふぁぁー」
 と欠伸のついでに付け足した。

「その辺、はっきりしてくれないと、お願いできないんだけどなぁ」
 と皮肉たっぷりに言ってみる。
 どうせ聞いてないだろうけど。

 すると、髭猫は私の方に顔を向けて
「それなら、願いの言葉の中にネコが入っておれば良いことにしよう。とりあえず」
 と大義そうに口を動かした。

『叶えられる願いは三つ』
『お願いの言葉の中にネコが入っていること』
 纏めると、こういうことね。

 さっき、「人間が望むことなら大概できる」とか言っていたけど、願い言葉の中に
ネコを入れるとなると、大したお願いできないじゃない。
 これじゃ、さっぱり恩返しの意味なんか無いじゃないの。まったく、もう。

 って、怒ってもしょうがないか。夢だから…。
 そうだ。どうせ、夢なんだ。
 一夜限りの、夢物語。
 なんでも構わない。好き勝手なことを願おう。
 そうだ。
 翠に猫になって貰おう。
 それなら、私たち喧嘩しなくて、仲良くできる。
 翠だって、いっぱい私に甘えられて、うれしい筈だよ。
 私も、翠のこと沢山可愛がれるし。
 それがいい。

「ネコさん、ネコさん。願い事が決まりました」

「はいよ。どっこらしょ」
 と髭猫が大儀そうに起き上がって姿勢を正す。
 といっても、猫座りだけど。

「私の妹の翠を、猫にしてくださーい」
 軽やかに願い事を唱える。
「妹を…猫にね…。そりゃ、あんまり感心はせんの…」
「えっ」
「本とにそれで良いんじゃな?」
 念を押されて、ちょっと後ろめたい気持ちが湧いてきた。
 だけど、どうせ夢なんだからと思い直し。
「それで、お願いします」
 と元気よく答えた。
「それなら…」
 その言葉を残して、髭猫は目の前から消え去った。
 まるで黒板消しで、黒板に書かれた文字が消えるように。

「あれ? 願い事は…」
 猫の居なくなった部屋はいつもの私の部屋。
 電灯の豆球の明かりだけの薄暗い部屋。
 あれ、もう夢から覚めた?
 なんだ、つまんないの。

 と思っていたら、私の部屋が白っちゃけてきた。
 暗い部屋がすべて灰色に変わる。
 ベッド、壁、勉強机、カワセミのポスターやぬいぐるみ。
 すべての物の色が灰色。そして白へと変わっていく。
 そして、私の意識さえも…。

 なに。なにが起こってるの…。
 その疑問も…
    やがて…
       白い闇の中に…
          掻き消え…
 全てを思い出した。

 胸の辺りが苦しく冷たい。心臓が氷の刃で貫かれたように痛む。

 私は、何て事をしたのだろう。なんという事を願ってしまったのだろう。
 止めどなく涙が流れる。私は、机に突っ伏して泣き続ける。
 机の上に、涙の滴が溜まっていく。

―お姉ちゃん―
 そう、呼ばれた気がした。
 顔を上げると、ノートに書いた翠への伝言が目に入った。
『ごめん 翠 お姉ちゃんが悪かった どこにも行かないで』

 そうだ、泣いている場合じゃない。
 翠を人間に戻さないと。
 すぐに、お母さんにこの事を伝えよう。
 椅子から立ち上がり、部屋のドアに手をかけた。
 そこで、私は体の動きを止める。

 だめだ、だめだ。
 さっき、お母さん達と翠の話をしてて、私はいつの間にか翠のことを忘れていた。
 猫のミドリが現実と思っている人に接すると、その影響を受け、私も翠の事を忘れ
てしまうのに違いない。
 翠の事は、私独りで解決しなくてはいけないんだ。
 冷静になって、自分のしなければならない事を考える。
 まず一番に、猫のミドリを見つけること。
 次に、あの謎の髭猫を見つけること。
 よし!
 そう決めると、私は外出できるように、高校の制服に着替えた。
 猫のミドリが、制服についた私の匂いを嗅ぎ取ってくれるかもしれない、そう期待
したからだ。
 それから私は、飾ってあるカワセミの缶バッチを一つ取り、スカートのポケットに
しまい込んだ。
 何かの拍子に、翠の事を忘れてしまった場合の用心だ。
 カワセミ ⇒ 翡翠 ⇒ 翠 の連想で、翠を思い出せるようにしておこう。 

 準備良し。それでは早速。
 そう、思って部屋を出てから大変な事に気がついた。
 私は、猫のミドリの姿を知らないのだ。
 猫の種類も、体の色も柄も、何もかも。
 困った、これじゃ探しようがない。

 お母さんに尋ねてみようか?
 でも、翠の事を忘れてしまうかもしれないし…。
 ええい、考えていても仕方がない。
 階段を下りて、ダイニングに入る。
 すると、お母さんがダイニングテーブルの傍らにボンヤリと立っていた。
 昨日まで翠が食事をしていた場所に、右手の掌を置きながら…。

「どうしたの、お母さん?」
「…ん。何だか、ここにいると不思議な気持ちになるの。寂しいような、何か大事な
事を忘れているような。何とも言えない、変な気分…」
 お母さんも、心のどこかで翠の事を覚えていて、寂しさを感じているんだ。
 ごめんなさい、お母さん。私のせいで…。
 私はお母さんを背中から抱きしめる。
「どうしたの。美寿穂?」
 私は、母に気づかれぬよう涙をぬぐい、
「何でもない…」と答える。
 お母さんを抱きしめながら、私は出来るだけ平静さを装い、
「ミドリって、どんな猫だっけ」
 と訊いてみた。
「どんな猫って、ミドリはミドリでしょ。覚えてないの?」
「それが…、居なくなったら、思い出せなくなっちゃって…」
「あんなに仲が良かったのに?」
「いいからぁ。早く教えて」
「そうねぇ。細身の白猫で、毛は短め、尻尾は長め、目は黄色で瞳の周りがグリーン
ぽくなってた」

 私の頭の中に、ミドリのイメージが鮮やかに蘇る。
 寝床でくつろぐミドリ、餌をねだるミドリ、足に纏わりつくミドリ。
 そうだ、ミドリは華奢で繊細な、まるでお姫様みたいな猫だった。

 はっ、いけない。
 猫のミドリを強くイメージすると、翠の方を忘れてしまう。

「ありがとう。お母さん。きっと、きっと、翠を連れて戻るからね」
 私は、そう言い残して、ダイニングを後にする。

 私は、翠を取り戻す。かならず。何に代えても。
 そう誓って、家をでた。
 さて、家を出てはみたけれど、どうやってミドリを探そうか。
 いきなり、途方にくれてしまう。

 妹の翠が家出したのなら、向かう先はだいたい見当が付いている。
 従姉の咲穂里《さほり》姉ちゃんの所だ。
 咲穂里姉ちゃんは一人暮らしだし、翠には甘甘だから、暫く泊まってけとか言うに
違いない。
 でも、咲穂里姉ちゃんの所は電車で30分はかかる。
 猫では電車に乗れないし、歩いてはとても行けそうもない。
 そうなると、ミドリはどこを目指しているのだろう。
 猫になったのだから、当てもなく彷徨っているのかもしれない。

 とにかく、何かしないわけにはいかない。
 家の近くから、シラミつぶしに探していこう。
 今までの経験からして、猫が車の行き交う大通りを闊歩する図は想像できない。
 狭い路地の奥、人気のない駐輪場、空き地。
 そんな人目の無いところに屯しているのが、私の猫に対する印象だ。
 馴れ馴れしく他所の家に上がりこんで、餌を頂戴する猫もいるのだろうが、ミドリ
ならそんな事はしなと思う。全然、根拠は無いけれど…。

 自宅の周辺を探し回る。
 細身の白猫。毛は短め、尻尾は長め。目は黄とグリーン。
 ミドリのイメージを思い浮かべながら探す。

 あっ、白猫。…でも、体の反対側に黒ブチがあった。
 あっ、…とあれは太りすぎ。
 あの猫は、毛足が長いから別な種類の猫だ。

 むむむ。細身のしろねこ。もしやっ。
 と、おもって近くによってみたら、目の色が違った。それに顔が間延びしている。
 やはり、簡単には見つからない。
 それに、ミドリのイメージばかり思い描いていると、翠の事を忘れそうになる。
「翠は妹。翠は妹」と唱えながら、猫のミドリ探し続ける。

 だんだんと不安になってくる。
 自分は全く見当違いの場所を探しているのではないか。
 こうしている間にも、ミドリはどんどん遠くへ行っているのではないか。

 このままミドリが見つからなかったら。
 ミドリが帰って来なかったら。
 そう、想像すると目頭が熱くなってくる。涙で視界が霞んでくる。

 袋小路の路地を探し終え、路地を見返りながら表通りに出ようとしたときだった。

 キーッ。
 突然、横から現れた自転車に驚き、私はその場に転んでしまった。 
「すいません。大丈夫ですか? あっ」
 と自転車の主の声。

「す、すみません。探し物に気をとられてて…」
 謝りながら、立ち上がろうとして、左膝に痛みが走った。
 転んだ拍子に擦りむいてしまったようだ。少し、血が滲んでいる。

 よろけながら立ち上がり、顔をあげて自転車の主の顔を見る。
「えっ!? 三笠くん…」
 な、なんで三笠くんが。
 昨日に続いて、二日連続でこんな醜態さらすなんて…。
 と、思う間もなく。顔が燃えるように熱くなってくる。
 うわぁ、いま私の顔、リンゴ並みに赤くなってるよ、きっと。
「ほんと、すみませんでした」
 三笠くんに背をむけ、その場を立ち去ろうとする。

「待ってよ、濱野さん。怪我してるじゃないか」
 いきなり右手首を掴まれて、引き止められた。
 三笠くんの手が熱い。
 私の顔が強力な赤外線を発し始める。
 何をしていいか分からなくなった。
 黙ったまま、三笠くんに背をむけて立ちつくすしかない私。
「あそこの公園のベンチで手当てしよう。ぼく、傷絆《きずばん》もってるんだ」
 三笠くんは私の手を放すと、自転車を押しながら、先にたって歩いていく。

 恥ずかしくて、ここから逃げ出したいくらいだ。
 けど、昨日のように無言で立ち去ったら、あとで後悔することになる。
 私は、三笠くんのあとに付いていくことにした。 恥ずかしくて、ここから逃げ出したいくらいだ。
 けど、昨日のように無言で立ち去ったら、あとで後悔することになる。
 私は、三笠くんのあとに付いていくことにした。
 公園のつくと、三笠くんから傷を水洗いするように促された。
 言われた通り、水道水で擦り傷の周りの汚れを落とす。

 ベンチに座るように言われたので腰を下ろすと、三笠くんが自転車の前籠にいれた
リュクから絆創膏を取り出す。最近流行りの、湿潤療法の絆創膏だ。

「これだと、傷のあとが残りにくいんだって。けど、女の子の足には触れないので、
自分で張って貰えるかな」
 と恥ずかしそうな顔で、その絆創膏を手渡された。
 どうやら、三笠くんの中では、私は女の子の部類になっているらしい。
 ちょっと安心。

 絆創膏を貼ると、ヒヤッとして何だか痛みが薄らいだ感じだ。
「ありがとうございます」
 三笠くんの目を見ながら、素直にお礼が言えた。
「よかったよ。リュック持ってきて。役にたった」と三笠くんが笑う。
 私もつられて笑顔になる。

「三笠くんて、いっつもリュックに傷絆入れてるんですか?」
 と、ここで私は素朴な疑問を口にだす。
「僕、歴史が好きなんで…」
 と、答えになってない答えを返された。
 私が、首を傾げると。
「それじゃ分かんないよね。僕が好きなのは、地方の民間伝承とか、そんなの」
 まだ、言っている意味が分からない。
 なんだか、三笠くんもアセアセしてるように見える。

「それで、人が寄り付かない古い神社や遺跡とかを訪ねることがあるんだけど、藪の
中や雑木林に入り込む事があるんで、よく引っ掻き傷をこさえるんだ」
 なるほど、ようやく納得。