第一章
1
朝、目が覚めて、生きていることに軽く絶望する。
ひどく懐かしい夢を見たような気がした。内容は全然憶えていない。ただ、彼女が出てきたことだけは確かだった。
目元を触ると、ほんの少し濡れていた。
「何で、死んだんだよ」
あの日から、僕は惰性で生きている。
唯一の女友達だった椎名恵(しいなめぐみ)が死んだのは、今からちょうど三ヶ月前のことだった。突然の出来事だった。でも、事故や自殺、病死ではない。もちろん、殺されたわけでもない。ただ、普通に死んだのだ。
朝、椎名はいつもの時間に起きてこなかった。心配になった彼女の母親が様子を見に行くと、彼女はベッドの中で死んでいた。たぶん、それが寿命だったのだろう。
そのことを知らされたとき、初めは理解が出来なかった。だって、まさか、そんな死に方をするなんて思わないじゃないか。それに、余りにも若すぎた。
僕は、椎名の傍で、椎名が生きていく様子を見ているのが、生きる意味だった。生きる理由だった。それしか、僕にはなかった。
だから、椎名が死んだことで、生きる意味を失ってしまった。
僕は椎名のことが好きだったのか。それは正直わからない。わからないけど、でも、傍にいたいと思っていた。とても、大切な人だった。そこだけは、絶対に譲れない。
椎名が死んで、僕は言葉も失ってしまった。何を話せばいいのか、わからなくなってしまった。今まで、普通に出ていた言葉が上手く出ない。元々寡黙気味だったのに、余計に話さなくなってしまった僕に、周りは怪訝そうな目を向けてきたが、そこはあまり気にならなかった。ただ、死んだ彼女に、言葉を奪われたみたいだと思った。こんなの、まるで人魚姫だ。
友達がいなかった。本当に椎名だけが、友達だった。その唯一の友達が死んだ。
そして、僕と他者との溝はより一層深いものになってしまった。
こんなことになるなら、僕も椎名と一緒に死んでしまいたかった。どうして、僕も連れて行ってくれなかったのだろう。そんなの、普通に死んだ人間に言ったところでどうしようもない。
だから、僕は死ぬことにした。
死んで、椎名の傍に行くことにした。
そう思ってからは、早かった。
まず、部屋の整理をした。なるべく綺麗に掃除して、荷物もまとめた。死んだ後、両親が片づけをしなくて済むようにした。僕の身勝手な理由で死ぬのだから、これ以上迷惑をかけないようにという、僕なりの最期の親孝行だった。自殺という最大の親不孝を選択した人間が、一体何を言っているのだとも思った。
次に遺書を書いた。
椎名が死んで、生きる意味がなくなりました
僕は椎名のところへ行こうと思います
正直にそのまま書いたのは、やっぱり、色々なところに迷惑がかかると思ったから。
そこまで自分が死んだ後のことを考えるのなら、死ななければいいじゃないか。確かにその通りだ。でも、僕は惰性で生きているような人間が、意味もなく生き続けているということの方が迷惑だと思った。世の迷惑にならないために死ぬのだ。
場所は、自宅からそれなりに離れた廃ビルを選んだ。いつの日だったか、椎名と肝試しに来たことのあるビルだった。そこの屋上から、頭から真っ逆さまに落ちて死ぬ。これが一番手っ取り早い。電車を遅延させることもないし、変に死に損ねることもない。最善策だった。
決行は、今日、これから。本当は、一年待って、椎名が死んだその日にしようかとも思ったけど、待つ気にはなれなかった。
廃ビルの、屋上の扉を開けようとしたとき、違和感を覚えた。
扉が、微妙に開いていた。
昨日、最終確認をしたとき、確かに閉めて帰ったはずだった。開いているわけがなかった。つまり、誰かがいる可能性がある。それは少しまずい。予定が狂う。もし、本当に誰かがいるのだとしたら、計画を中止しなければならない。
そっと、扉を開け覗き込む。
予想通り、誰かいた。
視線の先、淵の方に女が立っている。長めの髪に、制服。その後ろ姿には、見覚えがあった。
けど、それはありえないことだった。
「椎名?」
僕の声が聞こえたのか、彼女が振り返る。正面から彼女の姿を見て、僕はぞっとした。
その姿は、何処からどう見ても椎名だった。
おかしい。椎名は死んだのだ。こんなところにいるわけがない。それとも本当に幽霊になって、ここにいるのだろうか。
馬鹿みたいに目を擦って、もう一度、彼女の姿を凝視する。そして気付く。前髪の感じと制服が、椎名とは違っていることに。でも、それくらいよく見ないとわからないほどに、彼女は椎名と酷似していた。
「何?」
そう問いかける彼女の声は、椎名よりは若干低かった。けど、声質は何となく似ているような気がした。
「まあ、こんなところに来る人なんて、聞かなくても一緒よね」
その通りだった。立ち位置からして、彼女もまた僕と同じだということは明確だった。
「心中と思われそうで腑に落ちないけど、仕方がないか。じゃあ、お先に」
刹那、僕に嫌な考えが浮かんだ。
彼女が飛び降りた後、そこに残るのは、どう見ても椎名の死体だ。
僕は椎名の死体なんて、二度と見たくなかった。
彼女の片足が空を切ったその瞬間、僕は彼女の腕を掴んだ。
「離してよ」
「嫌だ」
「貴方も死ぬつもりなんでしょ?」
「そんなの、今は関係ない」
これまで、呪いのように出てこなかった言葉が、何故か、不思議と自然に出てきた。相手が、椎名の姿をしているからかもしれない。
「どうして邪魔をするの?」
「君が、死んだ友達に似てるから」
「それこそ、私には関係ないよね?」
「君に関係なくても、僕には関係がある」
完全に押し付けだった。でも、そんなのはどうでもいい。気味悪がられようが、嫌われようが、僕は目の前の彼女が生きてくれたら、それでいい。
「とりあえず、少し話し合おう。死ぬのは、それからでも遅くはないだろ?」
彼女は不機嫌そうな顔をしていた。けど、僕が掴んでいる手を離す気がないということに気付いたのか、次第に諦めの表情に変わっていった。
「わかった。少しだけ、貴方に付き合ってあげる」
「ありがとう。助かるよ」
一時的だが、ひとまずは、彼女の自殺を止めることに成功した。問題はここから。どうやって、彼女を説得するかだ。僕の目的は、彼女が生きること。ただ普通に会話をするだけだと、彼女は迷わず死を選ぶだろう。それを防ぐための話し合いだ。
「それで、貴方の名前は?」
「出口駆(いでぐちかける)。君は?」
「七緒日菜子(ななおひなこ)。まあ、精々頑張ってよ」
そう言った七緒の顔は、無表情だった。
七緒を内側まで引き込み、ようやくその手を離した。長い間、それなりの力で掴んでしまっていたため、彼女の腕には薄っすらと赤みを帯びた跡が残っていた。それを見て、少し申し訳ないなと思ったが、彼女は全く気にしていないようだった。
さて、ここからどうしよう。迷って、とりあえず、七緒の情報を集めることにした。
「七緒は、今何歳?」
「十八、高三。そっちは?」
「十六の高二だから、僕の方が年下…………ですね」
まさか、年上だったとは思わなくて、変な敬語になってしまった。七緒が呆れた顔で溜め息を吐く。
「年上とか、そんなのどうでもいいから」
確かに、ここまでで散々タメ口で話してしまっていたのだから、改めるにしても今更だと思った。僕は無言で頷いて、了承とした。
「七緒は、何で死のうと思ったんだ?」
「別に。生きていたって、何もないから。現実なんて、ただ生きづらいだけ。だから、全部捨てようと思った。それだけ」
ありがちだと思った。ありがちすぎて、誤魔化されたような気がした。いや、たぶん、そうなのだろう。自殺を邪魔されるとわかっていて、その理由を教えるわけがない。
「将来の夢とか、そういうのもなかったの?」
「あるよ。夢」
七緒は、さらっとそう言った。
「え、じゃあ何で?」
「将来の夢が、必ずしも生きる意味ではない」
そうかもしれないけど、普通は夢があれば生きようとするものだ。何故、その夢は生きる意味にならなかったのだろうか。そこが、よくわからない。
「夢って何?」
「……イラストレーター」
驚いた。いかにも現実主義ですっていう雰囲気を出している七緒のことだから、もっと現実を見ているものだと思っていた。いや、現実を見てしまったからこそ、死のうと思ったのかもしれない。
「私は、イラストレーターには絶対になれない」
決まり切ったかのように言うその姿に、少し腹が立った。七緒の絵を見たことはないが、それでも、そんな簡単に諦められるものではないはずだ。現実を知ったくらいで消える夢なら、夢じゃない。
「諦めるなよ」
「何も知らないくせに、簡単に言わないで」
「じゃあ、何があったのか言えよ」
「嫌」
七緒が、ここに来て初めて強情を張った。ずっと、受け答えをしているだけで、ほとんど感情を出さなかった彼女が、初めて、崩れた。
七緒、そんなんじゃ気付かれるよ。
そこに、全ての要因があるのだと。
「怖いのか? 他人から評価されないのが」
煽るようにそう言うと、七緒の目付きが鋭くなった。思惑通りだった。
「自分が描いたものに、自信がないんだろ」
「違う」
「最初から、本気じゃなかったんだろ」
「違う!」
七緒が手を振り上げる。それでも、僕は彼女から一瞬たりとも目を逸らさなかった。彼女の目を見ながら、来るであろう衝撃に備えた。けど、彼女は静かに手を下ろした。そして、小さく「ごめん」と言った。
「描きたくても、描けないの。いきなり、描けなくなった」
その言い草からして、どうやら一種のスランプに陥っているらしい。そんなの、誰でも通る道だろと思った。スランプなしに大成する人なんて、そういない。地道に取り組んでいれば、そのうち何とかなる。そういうものだ。
でも、それを七緒に言うことを、僕は躊躇った。彼女の声や表情が、事態は僕の思っている以上に深刻なのだと告げていたからだ。けど、ここで彼女の意見に同調するわけにはいかない。認めたら、彼女が死ぬということも認めるということになってしまう。言わなくてはならない。出来る限り、傷付ける形で。そうしないと、僕の計画は破綻する。
「七緒は絵が描けない自分が嫌いなだけだろ。絵が描けない自分が生きていることを許せない。だから死にたいんだろ」
「だったら何? だって、私、絵以外何もない。絵を描いているときが、生きている実感がする。絵が描けないくらいなら、死んだ方がマシ。描けない苦しみに悶えながら生きるなんて、そんなの嫌。それに、生きていたって、この先また描けるようになる保証はないじゃない」
その言葉だけで、七緒が、どれくらい絵に懸けてきたのか、痛いくらいに伝わってきた。
七緒には絵しかなかった。僕に椎名しかなかったように、彼女は絵だけが生きる意味だった。
でも、やっぱり、僕のそれと七緒のそれは全然違うものだ。
七緒のは、逃げだ。彼女は逃げたのだ。自分から、絵から。向き合うことをやめたのだ。本当は、描きたいと思っているくせに、もう二度と描けないと思い込み、逃げているだけだ。
「そうやって、七緒は、また次の人生でも逃げ続けるんだろうな」
「じゃあどうすればいいのよ」
「やりたいなら、やればいいだろ」
「だから」
「手伝うから」
七緒の顔が、驚きで満ちている。無視して僕は続ける。
「七緒が、絵が描けるようになるまで手伝う。何でもするって約束する」
「それで、描けなかったら?」
「そのときは、僕の目の前で死んだらいい」
初めから、この話し合いだけ終わらせるつもりなんてなかった。期間を設けて、七緒の信頼を少しずつ得て、問題も解決する。そうすれば、彼女が死ぬことはないだろう。でも、絶対に大丈夫なんて言えば、彼女は警戒するはず。だから、あえて死を選ぶことも出来ると提示する。これなら、断られることはないと思ったのだ。
「わかった。でも、何をやっても無駄だと感じたら、すぐに死ぬから」
「それでいいよ」
僕は七緒に気付かれないように笑った。
「死ぬときは、なるべく酷い死に方をしてあげる」
七緒の顔は本気だった。
「じゃあ、頑張らないとね」
「仮に、私が死なない未来が来たとして、そしたら、貴方はどうするの?」
「僕は死ぬよ」
七緒が生きる道を選んだ後、僕は死ぬ。初めから、その予定なのだから当然だ。僕は、椎名の姿をした人間に死んで欲しくないだけ。その人物が生きてくれるのなら、僕は心置きなく、本物の椎名のところへ行ける。
「じゃあ、私がみつけてあげる。みつけて、貴方を死なせない」
「は?」
「私は死にたいのに生かされようとしていて、貴方はそれが叶ったら死ぬ。そんなのおかしいじゃない。だったら、私が貴方を生かす。貴方だけ死ぬなんて、そんなのさせない」
その妙な迫力に、僕は何も言い返すことが出来なかった。そもそも、初対面の人間の説得に、こんなにも簡単に応じてくれたこと自体が奇跡なのだ。普通なら、無視して死ぬ。だから、これくらいのことは甘んじて受け入れないといけない。
「わかった」
本心では嫌だったけど、仕方がなかった。
「決まり。お互い、死ねるといいね」
「そうだな」
悪いけど、君に僕を生かすことは不可能だよ。
僕の生きる意味は、椎名だけなのだから。
椎名、必ず君のところへ行くから、もう少しだけ待っていてくれ。
こうして、僕と七緒の奇妙な関係が始まった。
クリスマスイブの夜のことだった。
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朝、目が覚めて、生きていることに軽く絶望する。
ひどく懐かしい夢を見たような気がした。内容は全然憶えていない。ただ、彼女が出てきたことだけは確かだった。
目元を触ると、ほんの少し濡れていた。
「何で、死んだんだよ」
あの日から、僕は惰性で生きている。
唯一の女友達だった椎名恵(しいなめぐみ)が死んだのは、今からちょうど三ヶ月前のことだった。突然の出来事だった。でも、事故や自殺、病死ではない。もちろん、殺されたわけでもない。ただ、普通に死んだのだ。
朝、椎名はいつもの時間に起きてこなかった。心配になった彼女の母親が様子を見に行くと、彼女はベッドの中で死んでいた。たぶん、それが寿命だったのだろう。
そのことを知らされたとき、初めは理解が出来なかった。だって、まさか、そんな死に方をするなんて思わないじゃないか。それに、余りにも若すぎた。
僕は、椎名の傍で、椎名が生きていく様子を見ているのが、生きる意味だった。生きる理由だった。それしか、僕にはなかった。
だから、椎名が死んだことで、生きる意味を失ってしまった。
僕は椎名のことが好きだったのか。それは正直わからない。わからないけど、でも、傍にいたいと思っていた。とても、大切な人だった。そこだけは、絶対に譲れない。
椎名が死んで、僕は言葉も失ってしまった。何を話せばいいのか、わからなくなってしまった。今まで、普通に出ていた言葉が上手く出ない。元々寡黙気味だったのに、余計に話さなくなってしまった僕に、周りは怪訝そうな目を向けてきたが、そこはあまり気にならなかった。ただ、死んだ彼女に、言葉を奪われたみたいだと思った。こんなの、まるで人魚姫だ。
友達がいなかった。本当に椎名だけが、友達だった。その唯一の友達が死んだ。
そして、僕と他者との溝はより一層深いものになってしまった。
こんなことになるなら、僕も椎名と一緒に死んでしまいたかった。どうして、僕も連れて行ってくれなかったのだろう。そんなの、普通に死んだ人間に言ったところでどうしようもない。
だから、僕は死ぬことにした。
死んで、椎名の傍に行くことにした。
そう思ってからは、早かった。
まず、部屋の整理をした。なるべく綺麗に掃除して、荷物もまとめた。死んだ後、両親が片づけをしなくて済むようにした。僕の身勝手な理由で死ぬのだから、これ以上迷惑をかけないようにという、僕なりの最期の親孝行だった。自殺という最大の親不孝を選択した人間が、一体何を言っているのだとも思った。
次に遺書を書いた。
椎名が死んで、生きる意味がなくなりました
僕は椎名のところへ行こうと思います
正直にそのまま書いたのは、やっぱり、色々なところに迷惑がかかると思ったから。
そこまで自分が死んだ後のことを考えるのなら、死ななければいいじゃないか。確かにその通りだ。でも、僕は惰性で生きているような人間が、意味もなく生き続けているということの方が迷惑だと思った。世の迷惑にならないために死ぬのだ。
場所は、自宅からそれなりに離れた廃ビルを選んだ。いつの日だったか、椎名と肝試しに来たことのあるビルだった。そこの屋上から、頭から真っ逆さまに落ちて死ぬ。これが一番手っ取り早い。電車を遅延させることもないし、変に死に損ねることもない。最善策だった。
決行は、今日、これから。本当は、一年待って、椎名が死んだその日にしようかとも思ったけど、待つ気にはなれなかった。
廃ビルの、屋上の扉を開けようとしたとき、違和感を覚えた。
扉が、微妙に開いていた。
昨日、最終確認をしたとき、確かに閉めて帰ったはずだった。開いているわけがなかった。つまり、誰かがいる可能性がある。それは少しまずい。予定が狂う。もし、本当に誰かがいるのだとしたら、計画を中止しなければならない。
そっと、扉を開け覗き込む。
予想通り、誰かいた。
視線の先、淵の方に女が立っている。長めの髪に、制服。その後ろ姿には、見覚えがあった。
けど、それはありえないことだった。
「椎名?」
僕の声が聞こえたのか、彼女が振り返る。正面から彼女の姿を見て、僕はぞっとした。
その姿は、何処からどう見ても椎名だった。
おかしい。椎名は死んだのだ。こんなところにいるわけがない。それとも本当に幽霊になって、ここにいるのだろうか。
馬鹿みたいに目を擦って、もう一度、彼女の姿を凝視する。そして気付く。前髪の感じと制服が、椎名とは違っていることに。でも、それくらいよく見ないとわからないほどに、彼女は椎名と酷似していた。
「何?」
そう問いかける彼女の声は、椎名よりは若干低かった。けど、声質は何となく似ているような気がした。
「まあ、こんなところに来る人なんて、聞かなくても一緒よね」
その通りだった。立ち位置からして、彼女もまた僕と同じだということは明確だった。
「心中と思われそうで腑に落ちないけど、仕方がないか。じゃあ、お先に」
刹那、僕に嫌な考えが浮かんだ。
彼女が飛び降りた後、そこに残るのは、どう見ても椎名の死体だ。
僕は椎名の死体なんて、二度と見たくなかった。
彼女の片足が空を切ったその瞬間、僕は彼女の腕を掴んだ。
「離してよ」
「嫌だ」
「貴方も死ぬつもりなんでしょ?」
「そんなの、今は関係ない」
これまで、呪いのように出てこなかった言葉が、何故か、不思議と自然に出てきた。相手が、椎名の姿をしているからかもしれない。
「どうして邪魔をするの?」
「君が、死んだ友達に似てるから」
「それこそ、私には関係ないよね?」
「君に関係なくても、僕には関係がある」
完全に押し付けだった。でも、そんなのはどうでもいい。気味悪がられようが、嫌われようが、僕は目の前の彼女が生きてくれたら、それでいい。
「とりあえず、少し話し合おう。死ぬのは、それからでも遅くはないだろ?」
彼女は不機嫌そうな顔をしていた。けど、僕が掴んでいる手を離す気がないということに気付いたのか、次第に諦めの表情に変わっていった。
「わかった。少しだけ、貴方に付き合ってあげる」
「ありがとう。助かるよ」
一時的だが、ひとまずは、彼女の自殺を止めることに成功した。問題はここから。どうやって、彼女を説得するかだ。僕の目的は、彼女が生きること。ただ普通に会話をするだけだと、彼女は迷わず死を選ぶだろう。それを防ぐための話し合いだ。
「それで、貴方の名前は?」
「出口駆(いでぐちかける)。君は?」
「七緒日菜子(ななおひなこ)。まあ、精々頑張ってよ」
そう言った七緒の顔は、無表情だった。
七緒を内側まで引き込み、ようやくその手を離した。長い間、それなりの力で掴んでしまっていたため、彼女の腕には薄っすらと赤みを帯びた跡が残っていた。それを見て、少し申し訳ないなと思ったが、彼女は全く気にしていないようだった。
さて、ここからどうしよう。迷って、とりあえず、七緒の情報を集めることにした。
「七緒は、今何歳?」
「十八、高三。そっちは?」
「十六の高二だから、僕の方が年下…………ですね」
まさか、年上だったとは思わなくて、変な敬語になってしまった。七緒が呆れた顔で溜め息を吐く。
「年上とか、そんなのどうでもいいから」
確かに、ここまでで散々タメ口で話してしまっていたのだから、改めるにしても今更だと思った。僕は無言で頷いて、了承とした。
「七緒は、何で死のうと思ったんだ?」
「別に。生きていたって、何もないから。現実なんて、ただ生きづらいだけ。だから、全部捨てようと思った。それだけ」
ありがちだと思った。ありがちすぎて、誤魔化されたような気がした。いや、たぶん、そうなのだろう。自殺を邪魔されるとわかっていて、その理由を教えるわけがない。
「将来の夢とか、そういうのもなかったの?」
「あるよ。夢」
七緒は、さらっとそう言った。
「え、じゃあ何で?」
「将来の夢が、必ずしも生きる意味ではない」
そうかもしれないけど、普通は夢があれば生きようとするものだ。何故、その夢は生きる意味にならなかったのだろうか。そこが、よくわからない。
「夢って何?」
「……イラストレーター」
驚いた。いかにも現実主義ですっていう雰囲気を出している七緒のことだから、もっと現実を見ているものだと思っていた。いや、現実を見てしまったからこそ、死のうと思ったのかもしれない。
「私は、イラストレーターには絶対になれない」
決まり切ったかのように言うその姿に、少し腹が立った。七緒の絵を見たことはないが、それでも、そんな簡単に諦められるものではないはずだ。現実を知ったくらいで消える夢なら、夢じゃない。
「諦めるなよ」
「何も知らないくせに、簡単に言わないで」
「じゃあ、何があったのか言えよ」
「嫌」
七緒が、ここに来て初めて強情を張った。ずっと、受け答えをしているだけで、ほとんど感情を出さなかった彼女が、初めて、崩れた。
七緒、そんなんじゃ気付かれるよ。
そこに、全ての要因があるのだと。
「怖いのか? 他人から評価されないのが」
煽るようにそう言うと、七緒の目付きが鋭くなった。思惑通りだった。
「自分が描いたものに、自信がないんだろ」
「違う」
「最初から、本気じゃなかったんだろ」
「違う!」
七緒が手を振り上げる。それでも、僕は彼女から一瞬たりとも目を逸らさなかった。彼女の目を見ながら、来るであろう衝撃に備えた。けど、彼女は静かに手を下ろした。そして、小さく「ごめん」と言った。
「描きたくても、描けないの。いきなり、描けなくなった」
その言い草からして、どうやら一種のスランプに陥っているらしい。そんなの、誰でも通る道だろと思った。スランプなしに大成する人なんて、そういない。地道に取り組んでいれば、そのうち何とかなる。そういうものだ。
でも、それを七緒に言うことを、僕は躊躇った。彼女の声や表情が、事態は僕の思っている以上に深刻なのだと告げていたからだ。けど、ここで彼女の意見に同調するわけにはいかない。認めたら、彼女が死ぬということも認めるということになってしまう。言わなくてはならない。出来る限り、傷付ける形で。そうしないと、僕の計画は破綻する。
「七緒は絵が描けない自分が嫌いなだけだろ。絵が描けない自分が生きていることを許せない。だから死にたいんだろ」
「だったら何? だって、私、絵以外何もない。絵を描いているときが、生きている実感がする。絵が描けないくらいなら、死んだ方がマシ。描けない苦しみに悶えながら生きるなんて、そんなの嫌。それに、生きていたって、この先また描けるようになる保証はないじゃない」
その言葉だけで、七緒が、どれくらい絵に懸けてきたのか、痛いくらいに伝わってきた。
七緒には絵しかなかった。僕に椎名しかなかったように、彼女は絵だけが生きる意味だった。
でも、やっぱり、僕のそれと七緒のそれは全然違うものだ。
七緒のは、逃げだ。彼女は逃げたのだ。自分から、絵から。向き合うことをやめたのだ。本当は、描きたいと思っているくせに、もう二度と描けないと思い込み、逃げているだけだ。
「そうやって、七緒は、また次の人生でも逃げ続けるんだろうな」
「じゃあどうすればいいのよ」
「やりたいなら、やればいいだろ」
「だから」
「手伝うから」
七緒の顔が、驚きで満ちている。無視して僕は続ける。
「七緒が、絵が描けるようになるまで手伝う。何でもするって約束する」
「それで、描けなかったら?」
「そのときは、僕の目の前で死んだらいい」
初めから、この話し合いだけ終わらせるつもりなんてなかった。期間を設けて、七緒の信頼を少しずつ得て、問題も解決する。そうすれば、彼女が死ぬことはないだろう。でも、絶対に大丈夫なんて言えば、彼女は警戒するはず。だから、あえて死を選ぶことも出来ると提示する。これなら、断られることはないと思ったのだ。
「わかった。でも、何をやっても無駄だと感じたら、すぐに死ぬから」
「それでいいよ」
僕は七緒に気付かれないように笑った。
「死ぬときは、なるべく酷い死に方をしてあげる」
七緒の顔は本気だった。
「じゃあ、頑張らないとね」
「仮に、私が死なない未来が来たとして、そしたら、貴方はどうするの?」
「僕は死ぬよ」
七緒が生きる道を選んだ後、僕は死ぬ。初めから、その予定なのだから当然だ。僕は、椎名の姿をした人間に死んで欲しくないだけ。その人物が生きてくれるのなら、僕は心置きなく、本物の椎名のところへ行ける。
「じゃあ、私がみつけてあげる。みつけて、貴方を死なせない」
「は?」
「私は死にたいのに生かされようとしていて、貴方はそれが叶ったら死ぬ。そんなのおかしいじゃない。だったら、私が貴方を生かす。貴方だけ死ぬなんて、そんなのさせない」
その妙な迫力に、僕は何も言い返すことが出来なかった。そもそも、初対面の人間の説得に、こんなにも簡単に応じてくれたこと自体が奇跡なのだ。普通なら、無視して死ぬ。だから、これくらいのことは甘んじて受け入れないといけない。
「わかった」
本心では嫌だったけど、仕方がなかった。
「決まり。お互い、死ねるといいね」
「そうだな」
悪いけど、君に僕を生かすことは不可能だよ。
僕の生きる意味は、椎名だけなのだから。
椎名、必ず君のところへ行くから、もう少しだけ待っていてくれ。
こうして、僕と七緒の奇妙な関係が始まった。
クリスマスイブの夜のことだった。