「じゃあここを、日立」

 「はい」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で返事をして、日立さんは席を立った。
 黒板に向かっていく彼女の後ろ姿をつい目で追ってしまうのは、スカートがほかの女子生徒よりもずんぶんと長いからだ。のろのろとした足取りでたどりつくと、彼女はつまんだチョークを黒板の表面に立てた。

 チョークはさらさらと問題の答えを導きだし、先生を頷かせる。日立さんは頭がいいらしい。定期考査のたびに廊下に張り出される成績の順位表では、いつも3番とか4番とか、とにかく上位一桁にはランクインしている。
 
 クラスに1人はいるタイプの物静かな優等生。俺の目にはそんな風に映っている。

 「声ちっさ」

 「おい」

 イスをぐらぐらと傾かせて、凪都は「じょーだんだよ」と薄く笑った。片手でいじっている黒いくせ毛はパーマではなく天然物だ。抜き打ちの頭髪検査で先生に呼び止められることもしばしばあるみたいだが、凪都は昔から髪の毛にくせがある。きっと生まれつきなんだろう。
 が、振り向きざまにちらっと小さなピアスが見えたので、気持ちがチャラついていることに変わりはない。  
 ひらひらと右手を振って凪都は前に向き直った。そのときふと、俺は窓際のほうに目をやった。
 日立さんの横顔が見えた。
 彼女はシャーペンの花飾りをせわしなく揺らしている。先生が口頭で説明している間もずっと。一生懸命にノートをとる姿勢はまさしく、優等生だ。

 窓際から教壇へと視線を移した俺は、ぼーっと黒板を眺めた。黒板に残っている日立さんの字はやはりとてもきれいで、イメージにある優等生像を裏切らない。

 (そういえば、左手で書いてたな)

 俺は左手に握ったシャーペンを見下ろしながら、ふいにそんなことを思った。
 
 
 「蒼衣ー、放課後どっか行かね」

 SHRが終わり、クラスメイトたちが椅子を引く音にまぎれて頭上から降ってきたのは、そんな凪都の声だった。

 見ると凪都は、ぺたんこのスクールバッグを肩にかけていた。すでに帰る準備が万端のようだ。今週は凪都のいる班が掃除当番のはずだが、彼が掃除用具を手にしているところなんて見たことがない。

 「え、なんだよ凪都。今日はデートとかないのか?」

 「今日部活あんだってさ。発表会近いからサボれないって」

 「へえ。こういうとき部活入ってれば便利だよな。いっしょに帰れるし」

 「まあでもいまからはダルい」

 「だよな」

 「んで、どうなの」

 「ああ悪い。俺、これから用事あって。付き合えないわ」

 そう言うと凪都は怪訝そうな顔をした。

 「あ、そう。お前さ、部活に入ってるわけでもないのに、放課後なにしてんの?」

 「え?」

 「たまにあんじゃんそういう、用事の日」

 「い、家の手伝いだよ。ほら、兄貴が店やってるだろ? それで服作んの手伝ったりとか、いろいろ」

 「ふーん。まあいいけど」

 ぼっちさみしーなんてこぼしておきながら、凪都は颯爽と教室から出て行った。当番のないクラスメイトたちも、部活に向かったり下校したりとさまざまにいなくなっていく。その流れには日立さんの姿もあった。ほかの女子生徒よりほんの少し華奢な体躯が過ぎていく。

 腕時計を見ると、時刻はまだ3時20分を過ぎたところだった。この教室はどの部活や委員会にも使われないし、居残って勉強するなんていう熱心な生徒はごくまれにしかいない。いたとしても自習室が別に用意されているし、図書室という最適な環境もある。
 今日、この教室を使う生徒はいないだろう。

 つまり掃除が終わってしばらくすればおそらく、人ひとりいなくなる。俺はそれまで適当な場所をふらついて時間を潰すことにした。
 
 4時手前くらいに俺は2年3組の教室に戻ってきた。予想通り、教室にはだれも残っていなかった。
 グラウンドから「ファイオー、緑高」というかけ声が響いてくる。どこかの運動部がランニングでもしているんだろう。中学のとき、俺も似たようなことを部活でやらされていたけどあれは結構きつかった。

 いま一度教室内を見渡す。バッグを自分の机に置いてから、廊下にも人気がないことを確認すると前と後ろのドアをどちらも閉めた。
 だれかに見られでもしたらたまったものじゃない。
 俺は自分のネクタイに指をかけた。 
 
 ネクタイをしゅるりとほどく。その次にはジャケットを脱いだ。椅子の背もたれに投げるようにして引っかける。
 ブラウスについたボタンを、上からひとつずつ、ひとつずつ外していく。ジャケットとおなじようにまたブラウスも脱いで椅子にかけた。次はベルトだ。金具を外して、腰から引き抜く。

 ──これは"仕事"だ。

 凪都には『家の手伝い』と言ったけれど、あれはじつのところ完全回答じゃない。
 
 俺は着替えを済ませるとなにもない机の上に腰をおろした。これで準備は整った。スマホをやや上から構えて5秒後、自動的にシャッターが切られた
 まさにそのとき。
 
 
 「若嶋さん?」 
 
 
 俺以外にはだれもいないはずの教室でも、シャッター音と、小鳥がさえずるくらいの囁き声はよく響いた。


 「……ひ、たち、さ」


 日立七沙だ。
 面と向かって彼女と言葉を交わすのはこれが初めてだ。
 ついでに青と白の清純系セーラー姿を見られるのも。


 「…………」


 ピンクベースのナチュラル☆イマドキメイクに、
 黒のロングウィッグをツインテールにカワイク仕上げて、
 頭のてっぺんから足の爪先までばっちり性改造された男子高校生、若嶋蒼衣。彼はこうしてクラスメイトの日立七沙さんとのファーストコンタクトを迎えた──
 わけだが、


 正直穴があったら墜ちたい。どこまでも。
 
 セクシュアルに組んだ黒ニーハイ、にとどまらず全身が打ち震えた。今までで一番くらいに震えた。血の気が引いていくというのはなるほどこういう感覚か。あといやな汗がぶわっと噴きだした。

 「……え……と……その……」

 さて、こういった状況ではなにを言うのが正解なのだろうか。どうやって言い訳をしよう。──え? なにをしていたと言うべきなんだ、これは!?
 
 独特の長い前髪からじっと瞳を覗かせて、日立さんはこちらを見てくる。怖いもの見たさというやつだろうか。ぜんぜん目を逸らす気配がない。これならいっそのこと生き埋めにしてほしいくらいの心持ちだ。

 「えっと、これにはワケが、というかその……」

 「……」

 「あれ? そういえば、なんで俺ってわかったの?」

 自慢というほどではないけれど、この"女"の姿に自信がないわけでもない。

 ショップを営む兄に初めて女物を着させられたとき「現代の大和撫子!」と囃し立てられ、そのときは身内びいきもあるだろうと鵜呑みにしなかった。が、それ以来兄は新製品を作るとそのたびに、俺に着せるようになった。もちろん女物の服をだ。

 いまさっきやっていたみたいに実際に商品を着てみて、写真を撮る。服を着た感じがどんな風だとか、撮った写真も参考にしながら真面目に商品の改善を行っているみたいだが、まず男子高校生の弟に無理やり女物を着せるあたり正気ではない。

 しかし、店の外に貼ってあるポスターに目をやる通行人たちに「この女の子かわいい」と言われたり、俺自身「自分が自分じゃないみたいだ」と錯覚するくらいには"女"ができあがっているのではないかと、そう自負しているところはたしかに、ある。

 (……だけど)
 
 日立さんはさっき『若嶋さん』と俺の苗字をつぶやいた。このクラスに若嶋は俺しかいない。もしかしたら日立さんの知り合いに若嶋という名字の女の子がいて、人違いをしているのかも──なんてことを考えていたら、日立さんが小さく口を開いた。

 「……いつも、見てたので」

 「へ?」

 その言葉にまんまと心臓が踊らされる。それはどういう意味、と訊ねるまえに日立さんが大きなスケッチブックみたいなものを両腕でぎゅっとして、答えた。
 
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 「いい身体してるなって」

 「!?」

 思いもよらなかった言葉が返ってきて、俺は図らずも後ずさりした。

 「あ……。あの、いえ、大丈夫です。その、変な意味じゃないので」

 すん、と胸の内側でなにかが落ちていった。
 いい身体と言われて自分の格好を顧みた。胸元には華やかなピンクのリボン。そっと指先でつまむも、すぐに離した。

 俺と日立さんとの間で流れているこの微妙な空気の中でだっていい。いますぐにでも服を脱ぎたい。
 変な目で見られるだろうけどこの際構わない。うまくいったメイクも惜しくない。さっさと解放されたい──余裕を失いつつある俺をよそに、日立さんはくるりと足の向きを変えた。
 
 「では……」

 「あ! ちょ、ちょっと待って!」

 教室から出ていこうとする日立さんを、俺は慌てて呼び止めた。

 「この格好のこと、その……だれにも言わないんでほしいんだ」

 クラスメイトの男子が一目のつかない場所で女装をキメこみ、あろうことか自撮りまでしている、なんてゴシップをバラまかれたりしたら大変だ。その翌日から俺の姿を学校で見かける者はいなくなる。
 その事態だけはなんとしても避けたい。

 日立さんはぼうっとした顔つきで、なかば小首をかしげるように曖昧に返事をした。

 「はい……。大丈夫です」

 「……そ、っか。それならいいん──」

 「言われたくないんですか」

 小声でもぞっとするような迫力だった。いやな予感というやつが俺の脳を支配する。
 日立さんは、低いところから俺を見上げてこう言った。
 
 
 
 「あの、じゃあ若嶋さん」
 
 「は、はい!」

 「取引をしませんか」
 
 
 
 ──と……とりひき?
 
 
 「私は、あなたが特殊な性癖の持ち主であることを黙ってます」

 「え、ちょ、いや、それは誤か」

 「その代わりあなたの身体を私にください」


 芯のしっかりした声色だった。日立さんはスケッチブックを強く抱きしめて、続けた。
 
 
 「……っ、え?」
 
 「デッサンさせてほしいんです。私の、絵の──モデルになっていただけませんか」
 
 
 うららかな春の風が、夕焼けのとけた窓から吹きこんでくる。
 俺は、教室で静かに息をのんだ。
 
 初めて見た。

 ずいぶんと長いスカートと、前髪とが春風になびいて、ふわりと舞う。
 彼女の瞳は思ったよりずっと大きくて──力強かった。
 
 
 
 「ええ、っと……モデルって……?」

 「……だめなら、ぜんぜん。いいんですけど」

 「……」

 パシャ。独特のシャッター音が鳴り響いて肝が冷えた。見ると日立さんの顔は、彼女が手に持ったスマホの裏に隠れていた。

 「ただしあなたの所業をバラまきます」

 「ああわかった! やる! やるから!」
 
 あぶない。男としての尊厳と学校生活をうっかり失うところだった。

 それにしても意外だ。いままで接点がなかったとはいえ、日立さんがこんな風に取引を持ちかけてきたり、強引に迫ってくるような人だとは予想もしていなかった。

 「それじゃああの、さっそく明日の放課後とか、大丈夫ですか」

 「え? ああ、うん。いいよ」

 「ありがとうございます。じゃあ」

 日立さんは、小さな身体で大きな荷物を抱えて引き返し、俺の前から姿を消した。ドアはちゃんと閉めていってくれたみたいだ。

 「……」

 教室に1人、取り残された俺は、しばらくの間呆然としていた。
 そうしているうちにスマホを持つ左手がすうっと、勝手に持ち上がって、

 パシャリ、とシャッターを切った。
 
 
 ──こうして俺は、本日の任務を終えた。

          *

 「ただいまー」

 家の玄関で靴を脱いでいたら、廊下の先から兄がひょっこり顔を出した。

 「おー、蒼。今日のやつはどうだった? 新作だから着心地はサイコーだったろ」

 夕食の支度をしていたのか、着ていたエプロンの紐をほどきながら兄が近づいてくる。

 「俺、モデルになっちゃった」

 「はあ?」

 兄は素っ頓狂な声をあげた。しかしすぐに、「なに言ってんだよいまさら」と呆れたように切り返してくる。

 「おまえはまえから、この若嶋朱斗という天才デザイナーが店主を務める『kiss×miss』の専属モデルだろう」

 「うっ」

 俺の兄は美大を卒業してすぐに店を開業した。デザイナーとはいっても、デザインのみにとどまらず服の制作も手がけている。従業員も友人やその知人ばかりで店自体も大きくはないけど、一点ものを欲しがる若い女の子の層には人気を博していて、『kiss×miss』は近所ではちょっとした有名店だ。