カラカラ、カラカラ、カラカラ、カラカラ。
水面でコースロープが揺れている。
七コースあるプールの第六コースが、僕が練習するレーンだった。淡い水色に塗られたプールの内壁には白いタイルが埋め込まれ、昨年までは黒く「6」と書かれていた。しかし、冬の間にタイルの上部が欠け、今はいびつな「0」に見える。
プールサイドには、一年生から三年生まで、二十人を超える水泳部員がいた。全員が水着の上にブルーのジャージをはおっている。背中には濃紺の糸で「ASAGAYA HIGH SCHOOL SWIMMING TEAM」と刺繍されていた。
部員は第六コースのスタート台を中心に集まり、僕を応援する体勢を組んでいる。
誰も、ひと言も、声を発しない。姿勢を崩すこともしない。
風がかすかにコースロープを揺らす音と、ジージーという油蝉の声と、ほかの運動部の掛け声が遠く響くなか、僕は集中力を高めていく。
「石神、あと五秒」
ストップウォッチを手に一人だけ立っている二期上のOB、青木の声が響く。「石神」と言うのは僕の名字だ。フルネームは石神賢介。水泳部ではおたがい名字で呼び合っていた。
プロの水泳コーチを目指す青木は、高校卒業後も毎日練習メニューを作って僕たちを指導していた。
青木の日焼けした裸の上半身は剛毛に覆われている。無秩序にからまる胸毛は、まるでバリケードの有刺鉄線だ。
胸にも肩にも筋肉が太く浮き上がる仁王像のようなこの先輩が、一年ちょっと前には高校生だったとはとても思えない。瞳はビー玉のように大きく、まつ毛がひさしのように長い。旧石器時代のクロマニヨン人のような風貌が部員に威圧感を与えた。
僕は肺一杯に酸素を取り込んで呼吸を整える。プールに溶けている塩素の匂いがツンと鼻腔を刺激した。
「よーい、GO!」
青木の野太い声を合図に、水の中で僕は壁を思い切り蹴った。
「それっい!」
沈黙していた水泳部員全員が水面に向かって気合の声を上げる。
一回、二回、僕は水中でドルフィンキックを打つ。
いい感じだ。
体が水面に浮かぶと左右二回ずつ交互に大きくバタ足を打つ。姿勢が安定する。まず右手から、前腕で体の下に水を思い切り引き寄せた。
四ストロークに一回、右後方に顔を上げて呼吸をすると、チームメイトたちの声援が耳に響いた。
僕は自分の腕を励ます。
〈もっと、もっと〉
僕はぐんぐん加速する。
〈もっと遠くの水をつかめ〉
体が水にのってくるのがわかる。
大丈夫だ。しっかりと水をキャッチしている。
二五メートルのターンは十五ストローク目。いつもどおりだ。利き腕の右手からターンに入った。
ぐいと水を寄せて思い切り体を折り曲げて回転し、壁を蹴る。折り返してからは前半よりもピッチを上げる。後半は十六ストロークで五〇メートルの壁にタッチした。水飛沫をあげ、プールから顔を上げる。
「二十九秒八。よし。上がっていいぞ」
青木が居残り練習の終わりを告げ、僕の体の緊張がほどけていく。
顔を上げ、肩で呼吸をしながら、ほんの二十秒ほど前に折り返した向こう岸をふり返る。陽が沈みはじめ、水面は熟れるような紅色で揺れていた。
その夏、東京の平均気温は平年よりも一度以上も高く、観測史上最高を記録した。陽の光を反射させるアスファルトの路面を歩くと足が沈み、靴底の跡が残る。プールではぬるい水がオイルのように体にまとわりつく。中杉通りの欅並木の油蝉は狂ったように鳴いていた。
この夏、ローリング・ストーンズは「ミス・ユー」、ザ・フーは世界一手数の多いドラマー、キース・ムーンの遺作「フー・アー・ユー」をヒットさせた。
東京都立阿佐谷高等学校で三年目の夏休みが近づき、僕は毎日二五メートルのプールを往ったり来たりしていた。
杉並区にある阿佐谷高校は、中央線阿佐ヶ谷駅(土地の名は「阿佐谷」で、駅名は「阿佐ヶ谷」だった)から中野区と杉並区を結ぶ中杉通りを南へ歩き、住宅街に入ったところにある地味な中堅進学校だ。一九七〇年代の都立高校の入試は学校群制度で、受験生は自分が住む学区の高校しか選べなかった。阿佐谷高校は、同じ学区の宮前高校、弥生高校という都立の名門進学校に学力が及ばない中学生が受験する学校である。
阿佐高には制服はなく、Tシャツにジーンズで通学する生徒も多い。「自主」「素直」「気魄」「文武両道」を教育方針に掲げているが、学力が中途半端だと“素直”とか“気魄”といった精神性を強調するしかないのだろう。つまり、中学時代をぼおーっと過ごし、受験前だけちょこっと勉強した者が進む学校である。それでも合格した時、僕の両親は大喜びした。学費が一か月わずか二千円だったからだ。
阿佐高は都内にありながら敷地だけは広い。面積が約三万五〇〇〇平方メートルもあり、プロ野球の読売ジャイアンツがホームゲームを行っていた後楽園球場のグラウンドがすっぽりと三つ収まる。学校はこの無駄に広い土地をもてあましていたのだろう。大部分は雑木林で、雑草は生えるがまま、夏になると生徒たちの腰のあたりまで伸びた。
そんな敷地の隅、草に埋もれるように、水泳部が練習するプールはあった。コンクリートブロックが積まれた外壁にはひびが入り、そこがプールだと知らなければ、貯水池としか思えないたたずまいだ。
「あー、福島、行きてえなあー!」
練習後に部室で着替えていると、同期のキャプテン、堀内が大声で叫んだ。
この年、水泳の全国大会は、福島県の会津若松で行われることになっていた。
「毎日声に出して言うからこそ、願いは現実になる」
叫んだ後、堀内は必ず付け加える。きっと何かの本で読んだのだろう。
こいつの専門は自由形の中距離、二〇〇メートル、四〇〇メートルだ。しかし、上腕の力でぐいぐいと水をかくスタイルで、短距離の一〇〇メートルも僕より速い。野性児のような男で、部室ではいつも全裸だ。
水泳部は毎日放課後に四〇〇〇メートル近く泳ぐ。夏休みに入ると練習量は一気に増え、一日一万メートルを超えた。その時期になると、部員の体からは脂肪がきれいにそぎ落とされ、筋肉の塊になる。
そんな中で、堀内の体は個性的だった。腰の位置が妙に低いのである。つまり、脚が短い。中学生まで水泳部と掛け持ちで柔道部にも所属し、内股ですり足で歩く習慣が重心の低い体型をつくった。
水泳部はプールの更衣室を部室にしていた。コンクリートブロックの部室の広さは十畳くらい。壁面にはぐるりとグリーンの木製の棚が作りつけられ、木調のエレキギターが立てかけられていた。堀内の愛器、SGだ。名画座で観たロックフェスティバルのドキュメント映画『ウッドストック』に刺激されて、このギターを手に入れた。映画の中でザ・フーのギタリスト、ピート・タウンゼントが演奏し破壊したのがSGだったのだ。
ただし、ピートが愛用していたのはギターの名門ブランド、ギブソンのSGである。一方、堀内のギターはグレコという日本のブランドが作ったコピーモデルだ。ヘッドにあった「GRECO」のロゴを削りとり、彫刻刀で器用に「Gibson」と彫っていた。
「ピート・タウンゼントは世界中のSGを破壊したって言ってるけど、ここに一本残ってまっせ」
そう言って、練習の後、いつも、ザ・フーの「マイ・ジェネレーション」のイントロをかき鳴し、でたらめな英語でメロディラインを歌う。堀内はイントロのリフしか弾けなかった。
部室のコーナーからコーナーの対角線にはロープが一本張られ、部員たちの濡れた水着やTシャツが吊るされていた。照明は天井から裸電球が一つだけだ。のぞきの防止で窓がないので薄暗い。だから、グラウンド側とプール側の両扉は開けたままで、外光を入れていた。扉から扉へは、光とともに涼しい風も駆け抜けた。
部室の棚には高音ばかりが響く旧式でモノラルのラジカセが一台あり、練習後はロックを大音量で鳴らしていた。この日はストーンズの『サム・ガールズ』である。
「カァマ~ン! カァマ~ン!」
ミック・ジャガーが叫ぶ。アルバム一曲目の「ミス・ユー」だ。リズムに合わせて堀内が体を揺らす。髪に残っていた滴が飛び散る。ディスコ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が世界的にヒットした影響で、一九七八年の洋楽のチャートにはディスコ調のナンバーが並んでいた。ストーンズの「ミス・ユー」もそんなディスコブームに乗って大ヒットした曲だ。
踊りながら、堀内は器用にコーンフレークを食べている。口のまわりをミルクが濡らす。昼食は毎日これだ。午前の練習が終わると堀内は阿佐高の正門前にある近藤商店へ走り、トラのキャラクターが描かれている大箱のコーンフレークと一リットルパックのミルクを買う。
部室には、自宅から持参したプラスティック製の器と大きなスプーンが常備されていた。僕たちが「エサバコ」と呼ぶその器に堀内はコーンフレークを山盛りにして、ミルクをどぼどぼ注ぐ。
エサバコは一度も洗っていない。底にパテ状にたまった牛乳の層は日に日に厚みを増し、腐ったチーズのような異臭を放っていた。しかし、堀内はまったく気にせず、昼休みにコーンフレークを大箱の三分の二ほど食べる。残りの三分の一は練習後までとっておく。ミルクもきっちり三分の一を残す。
今日も練習が終わるとすぐに残ったコーンフレークにぬるいミルクをからめてかき込んでいた。
「石神、お疲れさん。居残り練習、何日目?」
あまいミルクの臭いをただよわせ、堀内が近づいてきた。
「明日で二週間。きっついよ」
僕は焼けた素肌にはじかれてころがる滴をバスタオルで叩いて払い落とす。プールの塩素で脱色した体毛が金色に光っている。
「もうそんなだっけ。石神の居残り練習を応援してるとさ、チームの団結が固くなっていく感じがしていいね」
にやにやしながら言って、服を身につけていく。こっちは気絶しそうなくらい苦しいのに、いい気なものだ。
堀内はいつも穴だらけのジーパンと洗いさらしたTシャツを着ている。
「オレはプロレタリアートだからさ」
ジーンズの破れを指摘されると、うれしそうに語る。
しかし、実際には阿佐谷の隣町の荻窪で五十年近く続く和菓子屋の長男として、裕福に育った。堀内家のリビングには立派なシャンデリアがあり、トイレには市販されはじめたばかりの尻洗い用シャワーが付いていた。豊かな者は清貧や無頼に憧れる。顔をまばらに覆う無精ひげがミルクで濡れているが、陽焼けした顔は彫りが深く、きれいなつくりをしていた。
「石神しゃ~ん、今日も居残りお疲れさまあ~」
背後からやはり同期の、野波が抱きついてきた。
「やめろ」
体を押し付けてくる野波を払いのける。
まぶたが腫れぼったい野波はいつも眠そうな表情だ。しかし、顔と不釣り合いな肉体美の持ち主だった。中学生の時に少林寺拳法の道場に通っていて、大胸筋、上腕筋、大臀筋、大腿筋……といった太くて大きな筋肉が発達し、不要な贅肉はまったくない。腹筋も六つに割れ、ミケランジェロのダビデ像のような体をしていた。本人もそれが自慢で、機会を見つけては服を脱ぐ。脱いだら、筋肉を誇示する。
今日も濡れたままの隆起した大胸筋を僕に押し付けてきた。妙に大きい野波の乳頭が僕の裸の背中にこりっとあたり、必死に逃れた。
「ミス・ユー」の間奏部、ストーンズのビル・ワイマンが弾くベースのうねりに合わせ、BVDの真っ白いブリーフ一枚で野波が卑猥に体をくねらせる。
「今日のオレ、どう?」
近くで着替えている後輩たちに体を見せつける。ボディビルダーを真似て両手を腰にあて、大胸筋を上下に動かす。
「野波先輩の肉体は僕たちの憧れです」
一年生の一人が答える。
「まっ、それほどのものでもないけどね」
野波は満足げだ。
このやり取りは、練習後の儀式のように毎日行われている。
野波の専門は一〇〇メートルと二〇〇メートルの平泳ぎだが、腕力があるのでクロールも速い。五〇メートルと一〇〇メートルは、自由形専門の僕もかなわない。
しかし、野波には弱点があった。競ると負けるのだ。たくましい体に似合わず気が小さい。大切な試合であればあるほど実力を発揮できない。隣の選手と競り合って勝ったことは一度もなかった。ところが、一緒に泳ぐ組に恵まれて有利な展開になると、ほかの選手をぐんぐん引き離した。強い者に弱く、弱い者に強いのである。
「石神、明日はオレのベストパンツ、貸そうか?」
コーンフレークを食べ終えた堀内が、脱いだままくるくるっとねじれた競泳用パンツを右手人差し指にひっかけて左右に揺らした。
「いや、いいよ」
即断る。
「遠慮するなって」
「気持ちだけありがたくもらう」
堀内はいつも「ベストパンツ」と自ら命名した青い競泳パンツをはいている。
水泳部員はみな、「ARENA」や「Speedo」といったメジャーブランドの競泳パンツを愛用していた。生地の質がよく、薄くて泳ぎやすい。しかし、堀内のベストパンツはそのどちらでもない。「ア・レーナ」という怪しげなブランド名がカタカナでプリントされている。腰部の両サイドには綿で厚手のラインが刺繍され、その部分がたっぷりと水を吸う。当然重くなる。どう考えても速くは泳げない。
ところが、二年生の春の公式戦でそのパンツをはき、次々と自己ベストを記録した。タイムを縮めるために泳ぎ込む水泳選手にとって、自己ベストは努力と成長のあかしで、励みでもある。
「このパンツのおかげでっせ」
更衣室で、堀内はおおいにはしゃぎ、脱ぎたてのパンツに口づけをした。以来ゲンを担いで大切な大会にはベストパンツをはいた。
三年生になってからは練習でも毎日はくようになった。全国大会の予選となる東京都大会が近づき、プールに指導に来るOBたちから練習でもプレッシャーをかけられていたからだ。しかし、毎日自己ベストで泳げるはずはない。それでもはき続け、生地は薄くなり、今では尻の肌が透けて見える。
「このパンツがなくなったら、オレは終わりだ」
そう言って、堀内は練習後にパンツを隠す。ラグビー部やサッカー部のワルたちが夜のプールに忍び込んで部室に干してある水着を勝手にはいて泳ぐ事件が続いたからだ。
パンツの隠し場所は、一斗缶の上部を切り取って作ったゴミ箱だった。練習が終わると、箱の中からスナック菓子の袋や食べ残しのパンなどをすべて外へ出す。そこに脱いだままねじれたパンツを入れ、上からまたゴミをかぶせる。
「これで明日も大丈夫!」
無精ひげがまばらに散らばる満面の笑みで言う。
水泳部の同期には、もう一人、もの静かな男がいた。野波と同じ平泳ぎが専門の津村だ。細身で、顔が小さく、贅肉はもちろん筋肉も少ない津村は、一年生のシーズンも終わろうとしている九月に、ほとんど水泳経験を持たずに入部した。
プールサイドにぼうっと立っている童顔の津村を見た部員たちは、最初、練習を見学に来た近所の中学生だと思った。
「種目は何を泳ぎたい?」
入部希望者だとわかって青木が訊いても、無表情のままつっ立っている。それでも、何にしようか必死に思案はしていたのだろう。
「ヒラ……」
表情を変えずにぼそっと答えた。
こいつ、大丈夫か――。
僕たち同期も、先輩たちも、まわりにいた部員は皆顔を見合わせた。
「わかった。今日から泳げ」
青木が着替えるようにうながした。
そんなふうに入部した津村だったが、筋肉の質がよかった。関節も柔らかく、水の抵抗の少ないフォームで、めきめきタイムを縮めた。二年生の春には一〇〇メートルでも、二〇〇メートルでも、同じ平泳ぎ専門の野波のタイムを抜いた。しかも、練習後に遊び半分で泳いだ一〇〇メートルのクロールで、当時の僕よりも速いタイムを記録した。
津村は毎日黙々と泳ぐ。休憩時間に話しかけても「うん」とか「ああ」とか最小限の言葉しか返ってこない。練習帰りにはいつも阿佐ヶ谷駅近くの「花壇」というパチンコ屋へ寄り、何時間も無言で球をはじいていた。
パチンコのほかにもう一つ、津村には熱心な趣味があった。一か月に一度、週末の夜にストリップ劇場へ行くのだ。僕も一度新宿にあるON劇場という有名な劇場に連れて行かれた。歌舞伎町のラブホテル街の奥にあり、入場料は一般が五千円で、学生は三千円だった。かび臭い入口には小窓があり、そこで生徒手帳を見せると、十八歳未満入場不可なのに、三千円で入れてくれた。
薄暗い客席に入ると僕の鼓動は速くなった。津村の後について客席最前列に座る。場内には、井上陽水の「青空ひとりきり」が大音量で響いていた。どう解釈してもストリップには不似合いな男の孤独をつづった歌詞だ。目が慣れてくると、客席は七分の入りで、おそらく僕たちより若い客はいない。
青いピンスポットがステージを照らし、和服姿のダンサーが井上陽水の歌に合わせて今まさに脱ごうとしている。油絵具を塗ったような厚化粧だ。年齢不詳だが、顔は整っている。左右の目の焦点がそろっていないところが妙にエロティックだった。
するすると布が落ち、白い肌が露わになる。波打った腹にある盲腸の手術の痕が僕の性欲を刺激した。直射する照明に素肌が汗ばんで光っている。
母親と祖母以外、生まれて初めて目にする女の裸を僕は食い入るように見た。今目に焼き付けておかないと、一生見るチャンスが訪れない気がしたのだ。乳頭は黒くて大きい。野波の乳頭を思い出し、あわてて頭から追い払う。
突然ダンサーの股間が迫っていた。砂浜に打ち上げられたワカメのように黒々とした毛が波打っている。思わず前のめりになると、ダンサーは焦点の合わない目で微笑みかけてきた。
「石神、楽しいだろ」
津村の声で我に返った。津村の顔は舞台を向いたままだ。目がきらきら輝いている。
次のショーでは四十代くらいのダンサーが登場し、劇場の男性従業員が最前列に座る客の何人かに正四面体のプリズムを渡していく。
「これ、どうするんだ?」
受け取った僕は津村に訊く。
津村はにやにや笑うだけだ。
舞台でパフォーマンスをしていたダンサーがこちらに向かってきた。すでに服はつけていない。やはり化粧は濃く、甘酒の匂いがした。乾燥したヘチマのようにだらりとぶら下がる二つの乳が妙に白い。
ダンサーは微笑みながら気前よく脚を開き、そのまま僕の頭を大腿部で抱え込んだ。ふさふさした陰毛の真ん中が光沢を放つ。堀内のエサバコと同じ臭いがした。
どうしていいかわからずにじっとしていると、横からいきなり津村の手が伸びてきた。
「貸せ」
津村はダンサーの股間にもぐりこみ、僕から奪ったプリズムを通してのぞいた。津村が見やすいように、ダンサーがさらに大きく股を開く。二つのヘチマが体の左右にこぼれ落ちる。客席後方から股間に照明があたり、津村が目を細めた。
「お上手ね」
舞台の上からダンサーが津村の頭をひとなでした。
こいつはいったいどれだけここに通っているんだ。
津村の横顔をまじまじと見る。ダンサーの右のヘチマが津村の頬をペタペタとビンタしている。
津村がプールではけっして見せない幼児のように無邪気な笑顔になった。
そんな同期の中で僕ばかり居残り練習をさせられるには理由があった。四〇〇メートルリレーのメンバーで一番遅かったのだ。
三年生になり、堀内、野波、津村は、一〇〇メートル自由形で安定して一分を切っていた。しかし、僕一人が一分三秒かかっていた。
全国大会へ進むには、都道府県別の大会で優勝するか、水泳連盟が定める標準タイムを切らなくてはならない。強豪私立高校がひしめく東京都で優勝するのは至難の業なので、多くの学校は標準タイムを目標に毎日練習を続けている。
この年の四〇〇メートルリレーの標準タイムは三分五十六秒だった。一人平均五十九秒で泳がなくてはならない。それには、僕がタイムを縮めることが最大の課題だった。三人よりもタイムの遅い僕には、まだ伸び代がある。それで青木は僕に特に厳しい練習を課していたのだ。
圭美と初めて会話を交わしたのは夏休みが近づいた七月。月曜日の午後、授業の間の十分間の休憩時間だった。
「石神君、ちょっといいかな?」
教室で机に突っ伏してまどろむ僕の背中を彼女は遠慮がちに叩いた。顔をあげると、ぼんやりした視界の中、憐れむような表情がのぞきこんだ。それが同じクラスの星野圭美だった。肩に触れるか触れないかの髪からかすかなシャンプーが香り、僕の鼻をくすぐる。
「なに……?」
僕は露骨に迷惑顔をしたと思う。部活前の五時限と六時限はエネルギーを体にためこむ大切な睡眠時間だった。一度はまぶたを開いたものの、景色はまたゆっくりと遮断されていく。
阿佐高は一応受験校なので、三年生になると、午後は文系と理系に分かれての選択科目になる。十分の休憩時間は教室の移動時間でもあった。
僕はいつも五時限目をフルに眠り、チャイムが鳴るとすぐに六時限目の教室へ移動する。そして、睡眠をとりやすい後方の席を確保したら、授業が始まる前に眠りについた。
「石神君、午後はいつもお昼寝だね」
その声に閉じかけたまぶたをふたたび開く。圭美とはその日まで、たぶん話をしたことはない。彼女に限らず、僕はクラスのほとんどの女子と会話を交わしたことがなかった。教室にいる時はいつも眠っていたし、授業が終わるとすぐに部活へ向かったからだ。
「君に何か迷惑をかけたかい?」
「石神君は部活をしに学校に来ているのかな」
「そっとしておいてくれよ。この時間に眠れるかどうかはすごく重要なんだ」
午後の授業になると、僕のアタマには水泳部のことしかなかった。
昼食後にしっかり体を休めておかないと、いいコンディションで練習に臨めない。睡眠が足りない日はタイムが悪く、居残り練習がさらに遅くまで続いた。
練習でくたくたになるまでしぼられる自分を想像すると、情けないくらい緊張してくる。眠っていれば、その苦しさを忘れられるし、何よりも体力を温存できた。
「相談があるんだけど」
彼女にあきらめる様子はない。
「授業が終わってからじゃだめかい?」
「六時限目が終わると、石神君、すぐに部活に行っちゃうでしょ?」
脳が覚醒して、圭美の顔がはっきり見えてくる。僕の口の右端から細く線を引くよだれが机を濡らしていた。
初めて圭美の容姿を間近で見て、息を呑んだ。小さな顔に不釣り合いにくっきりと横に広がる口。黒目がかった大きな瞳とその間にある鼻はすっと整っていた。机に体を預けた僕の目の高さにある腰は細く、生きるために必要な内臓がそこにすべて収まっているとは思えない。
いったい何の用だろう? わいてきた喜びを態度には表さないように上目づかいで見た。
圭美はまだ横に立ったままだ。白いブラウスの中に淡いブルーのブラジャーが透けて見える。僕は自分の口のはしを濡らすよだれをあわてて手でぬぐった。
いつだったか、野波と一緒に部活に向かう時、廊下で彼女とすれ違ったことがある。
「今の女、石神のクラスだろ? ああいう気の強そうな女、やっちゃいたいなあー。尻をペンペンって叩いてさ。オレもペンペンって叩いてもらって。アッアッアッ……って」
そう言って野波はいつものように腰をくねらせた。気が小さい野波は、ないものねだりで気が強そうな女が大好きだ。
「野波の理想のセックスは、ペンペンペンって叩き合って、アッアッアッって気持ちよくなるのか?」
「なんだよ。じゃあ、石神、お前はどういうのがいいんだよ?」
「とりあえず手をつないでさあ……」
「はあ? なに小学生みたいなことを言ってんだろうねえ。童貞君が」
「お前は童貞君じゃないのか?」
「童貞ですよー。でも、オレの場合は、最初の相手を選んでいるだけで、お前みたいにもてないわけじゃないからね」
野波は強がって胸を張り、大胸筋を上下に動かした。こいつはなにかにつけて筋肉を誇示する。
しかし、一度も会話をしたことのない僕に圭美は何の用だろう。心あたりがなかった。
「僕に相談って?」
つい、「僕」などとよそ行きの一人称を使ってしまう。
「水泳部でマネージャーを募集していないかな?」
マネージャーはすでに二人いた。一年生と二年生で、どちらも元気溌剌の健康優良児系女子だ。それでも、練習をサポートしてくれる部員は何人いてもありがたかった。ダッシュの時に選手全員のタイムを測ったり、大会にエントリーする書類を作ったり、仕事はいくらでもある。
「希望者って何年生?」
「三年生」
意外な答えが返ってきた。受験を控えた三年生になってから運動部に入部するなんて聞いたことがない。
「三年かあ……」
ほとんどの運動部員は事実上二年生で引退して受験勉強に勤しむ。三年になっても練習するのは、推薦入学で進路が決まっているか、自衛隊に入るために体を鍛えているか、あるいは全国大会を目指しているか、いずれにしても少数派だった。三年では部活に毎日は参加できないだろう。
「三年生じゃだめ?」
「健康優良児タイプだったら、もう間に合っている。観賞用になりそうだったら、かろうじて、枠が残ってるかな」
「入部希望者は私。健康優良児枠? 観賞枠?」
僕は圭美をなめるように見た。
「わかった。僕が推薦しよう」
「ありがとう。一次面接は合格ね」
彼女はにっこりとうなずいた。
「でも、なんで水泳部なの?」
「石神君を見てると、楽しそうだから。ほかのクラスの堀内君や野波君も。それが理由じゃだめ?」
とりつくろったような志望動機だ。
「楽しそうっていうけど、オレ達、遊んでるわけじゃないからね。夏休みは二五メートルプールを二百往復以上、往ったり来たり、仁王像のような先輩に朝から夕方までバカみたいに泳がされてさあ。受験勉強してたほうがいいんじゃないの?」
落ち着きを取り戻した僕はいつもの調子で話せるようになった。
「まさかマネージャーはしごかれないでしょ? それに、たぶん私、推薦枠で東京女子学院大に入れるから」
そういうことか。中堅進学校でも、部活に時間をつかわずに一年生からこつこつ勉強して、優秀な成績を積み重ねていくと、ちゃんとご褒美をもらえる。
都心部にあり、お嬢様大学として知られる東京女子学院大は毎年学年の成績上位者から一人しか行くことができない。圭美はその枠をほぼ確保しているらしい。入学してからずっとまじめに勉強に励んできたのだろう。
「進路も決まって、卒業前の思い出づくりって感じ? うちの部なら、まだ三年生が活動してるからね」
「私、しっかり働くわよ」
「ふうーん……」
それから一週間が過ぎた夏休み初日、朝九時からの練習へ向かうと、校門を入った横に、小さなスポーツバッグを手に圭美が立っていた。
「水泳部、連れていってくれる?」
僕の姿を認めると小走りに駆け寄ってきた。
「本気だったんだ?」
「もちろん。冗談だと思っていたの?」
「冗談には感じなかったけど、すぐに気が変わるとは思ってた」
「さっき、堀内君たちもプールのほうへ行ったよ」
「ああ」
めんどうくさそうな対応をしながらも、この美形のクラスメイトと毎日会えると思うと、顔がほころんだ。
圭美を連れて部活に行くと、プールサイドで堀内と野波が胸倉をつかみ合っていた。二人とも、まだジーンズにTシャツ姿だ。少し離れたところで、すでに水着姿の津村がニヤニヤ眺めている。
「あっ、石神君、何とかして!」
同期の女子のキャプテンで個人メドレーを泳いでいる秋吉と二年生で背泳ぎの今泉という女子部員が堀内と野波のシャツをそれぞれ背後から必死につかんでいる。
秋吉と今泉は水着の上にTシャツをかぶっていた。女子とはいえ、朝から夕方まで毎日泳いでいるので、上腕や大腿筋はたくましく陽焼けして光沢をもっている。それでも、もちろん女の力で抑えられる堀内と野波ではない。
「おっ、石神、ちょっと聞いてよ。野波の野郎、オレのベストパンツを砂場に埋めやがったんだよ」
堀内がこちらを向いてうったえる。そのすきに、野波が思い切り堀内の胸を突いた。
「お前がゴミ箱なんかに入れておくからだろ」
堀内がよろけながら、野波のすねに蹴りを入れようとするが、届かない。
「野波、オレがゴミ箱に大事なパンツを隠してるの、知ってただろうが!」
「あれっ、そうだっけ。お前がどこにパンツをしまっているかなんていちいち見ちゃいないね」
「とぼけんなよ」
どうやら、前日の練習後、野波が部室に一人でいたら、運動部を統括する体育教師の見回りがあったらしい。野波は荒れ放題の部室の掃除を命じられた。
自分だけが叱られ、一人で掃除するはめになった野波はおもしろくない。だだっ広いグラウンドの反対側にある焼却炉へ行くのが面倒で、プール横の陸上部が幅跳びの練習をする砂場にゴミ箱の中のものをぜんぶ捨てて砂をかぶせた。そのゴミ箱の底には、いつもように堀内の青いベストパンツが隠されていた。
つかみ合う二人の近くには砂まみれになったベストパンツがくるくるくるっとまるまったまま落ちている。それはちょっと、砂糖をまぶした揚げパンを思わせた。
「ベストパンツベストパンツって、堀内、三年になってベストタイムなんて一度も出してないじゃないか」
「お前、オレが一番気にしてることを言いやがって」
圭美が唖然と、二人の争いを眺めている。
「水泳部の男の子たちはおバカだって噂では聞いていたけど、いつもこうなの?」
あきれた表情を僕に向ける。
「堀内と野波はいつもこんなかな。マネージャー志望の件、やめるなら今のうちだけど」
堀内と野波のけんかは毎回迫力がある。柔道対少林寺拳法だからだ。二人は感情的になりながらも、明らかに、この頃プロレスラーのアントニオ猪木がプロボクサーや空手家や柔道家とさかんに行っていた異種格闘技戦を意識していた。かまえが芝居がかっている。
二人のけんかを仲裁しようとして僕はひどい目にあったことがある。傍観者でいたのに、一学年下のちょっとかわいい顔をした女子部員に「石神先輩、止めてください!」とアニメのキャラクターのような声で言われ、ついいいところを見せようとした。
二人の間に割って入ると、堀内を狙った野波の蹴りが僕のすねを直撃し、内出血で夜脚がぱんぱんに腫れ上がった。翌朝病院へ行くと、すねに馬の尻に打つような極太の注射針を刺され、どす黒い血液が長さ二〇センチほどもあるシリンダーいっぱいにたまった。
「石神君、止めないの?」
圭美がとがめるような目を向ける。
「こいつらのけんかは止まらない。オレ、止めようとしてけがしたことあるし。けがしたら、泳げなくなるし。それに、ああ見えて、堀内と野波は仲がいいんだ。けんかもするけれど、入学してからずっと二人はベタベタ一緒にいる」
「それって、なんだか気持ち悪いわね」
「そう、あいつらは気持ち悪いんだよ。止めるのはばかばかしい」
その間も堀内と野波はにらみ合い、依然秋吉と今泉が後ろから抑える状況が続いていた。練習に集まってきた後輩たちが遠巻きにしている。
「お前ら、何ぐずぐずやってる? 早く水着に着替えてこい」
不機嫌そうな声にふり向くと、青木が立っていた。
「あっ、先輩、野波がオレのベストパンツを砂場に埋めやがったんですよ」
堀内が訴える。
「早く着替えろ」
青木はとりあわない。
「いや、だから野波がですね」
「お前の大切なパンツは見つからないのか?」
「砂掘ったら出てきました」
「だったら、早く着替えろ」
「そうだよ、堀内、見つかったんだから、ぐずぐずいうなよ」
野波が勝ち誇ったように追い打ちをかける。
「野波! お前も着替えろ」
青木の声がワントーン上がり、二人はふてくされて部室に消えていった。
堀内も野波も、青木の言うことだけは素直にきいた。クロールも、バタフライも、すべての種目でかなわないからだ。
それに、入学して間もない頃、青木に窮地を救われている。二人は三年生のラグビー部員五、六人に取り囲まれたことがあった。昼休みに、グラウンドに置かれたままになっているスクラム強化用のマシンに上ったり、タックルをしたり、遊んでいるところを見つかったのである。
高校生で二学年違いの体格差は大きい。しかも、相手はラグビー部のフォワードで、毎日スクラムを組んでいる猛者たちだ。堀内は物腰低く謝り、その場を収めようとした。ところが、野波は自分たちの非を認めずにつっぱった。
「小っちゃいことでうだうだからんでくるんじゃねえよ」
強がって抵抗した。堀内と二人ならばけんかに勝てるとあまい判断をしたのだ。
一年生になめられて怒った三年生のラグビー部員に二人はどつかれた。堀内はボコボコにのされる覚悟をしたそうだ。
そこに青木が通りかかった。
「うちの一年が何かしたか?」
青木が二人の腕をつかんでラグビー部から引き離し、ことなきを得た。それ以来、堀内も野波も、青木の前では猫のようにおとなしく、一日一万メートルを超える練習も、ぶつぶつと弱音を吐きはしたが、毎日こなした。
「石神、お前も早く準備しろ」
そう言ってこちらを見た青木が、僕の横に立つ圭美に気づく。
「先輩、彼女、うちのクラスの星野圭美です。マネージャーをやりたいというので、連れてきました」
圭美は青木に向かって教師に挨拶をするように一礼した。
「三年で入部するのか?」
一瞥した青木は意外そうな表情で訊いた。
「はい。観賞枠です」
「観賞枠?」
青木が怪訝な顔になり、僕はあわてた。
「しっかり働くと言ったので連れてきました!」
そう言うと、圭美がいたずらっぽい表情をこちらに向けた。
「わかった。動ける服装に着替えてこい。プールサイドでは、マネージャーも選手と同じだ」
青木はそれ以上質問せず、圭美はマネージャーとして水泳部員になった。
「秋吉!」
青木に呼ばれて女子キャプテンの秋吉が走ってくる。
「はい!」
「新しいマネージャーの星野だ。女子の部室に案内してやれ。石神によると、観賞枠だそうだ」
「観賞枠……?」
秋吉は理解できず、困った表情を見せる。
その様子を、津村が肩のストレッチをしながらにやにやと眺めていた。
「マネージャーの星野さん、きれいだね」
練習の後、Tシャツを着てプールにカルキーを放っていると、秋吉が話しかけてきた。僕の持つビニール袋に横から手を突っ込み、自分もカルキーをつかんで投げる。
塩素を白いラムネ玉状に固めたカルキーは、水に沈むと少しずつ溶けてプールを浄化する。
僕は、練習後にカルキーを投げるのが好きだった。白い塊が水の中で形をくずしながら沈んでいくのを見ていると、厳しい練習で張りつめていた心がゆっくりとほどけていく。
「ああ」
カルキーを手にしたまま秋吉を見る。
「石神君が誘ったの?」
「まさか。夏休み前に向こうから言ってきたんだ。それまでは一度もしゃべったことないよ」
「そうなんだ……」
たくましい上腕や広背筋を持つ秋吉は身長が一七〇センチ近くあり、横を見るとほとんど僕と同じ目線だ。阿佐高水泳部でただ一人の個人メドレーの選手だった。「個(こん)メ(め)」とも言われる個人メドレーは、一人で、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールとスイッチしながら泳ぎ、タイムと順位を競う。
秋吉のことを野波は陰で「鋼鉄女」と呼んでいた。
一年生の時、練習後に野波と一緒に秋吉の家に行ったことがある。
その日、僕たちは阿佐ヶ谷駅前の「エル」というパーラーに入ったものの、ふところがさみしくて、コーヒーゼリーだけでがまんしていた。コーヒーゼリーは、ゼラチン状に固めたコーヒーの上に生クリームがのった洋菓子で、エルのそれは他店よりもかなり量が多い。
「野波、腹減ったなー」
「オレもぺこぺこだ」
隣のテーブルで大学生らしいカップルが食べているスパゲッティナポリタンがうらやましくてしかたがなかった。
「だから、牛丼屋にしようって言ったじゃないか。コーヒーゼリーなんていくら食べても腹はふくれない」
「なんだよ、石神、お前の空腹はオレのせいか?」
「秋吉の家に行こう」と言い出したのは野波だ。秋吉の家は阿佐ヶ谷駅から徒歩で行かれる住宅街にあった。野波は堀内と訪れたことがあり、その時、秋吉の母親が出前のカツ丼を頼んでくれたという。
野波はなけなしの十円玉でエルから秋吉の家に電話をして「背泳ぎの入水のことでアドバイスがほしい」と頼んだ。もちろん口実に過ぎない。野波も僕も背泳ぎはやらない。それでも快く応じてくれた秋吉の家に一時間ほど居すわり、僕たちはねらいどおりカツ丼にありついた。
その時通された秋吉の部屋には、鋼鉄のダンベルや鉄アレイがごろごろ転がっていた。秋吉が一人でダンベルを持ち上げている姿を想像して、野波と僕は顔を見合わせた。
「秋吉、お前、家でこんなの振り回してるの?」
僕は四キロの鉄アレイを握り上下してみる。傍らでは野波がやはり物珍しげにダンベルを試している。
「けっこう重いな」
野波がつぶやく。
「水をかく力がつくよ。二人もやりなよ」
「やりなよ」と言いながら、その口調は「やれ!」というトーンだ。
それ以来、野波は秋吉を鋼鉄女と呼んでいた。
秋吉のクロールのフォームは芸術的だった。体の軸が安定していて、ピッチを上げてもまったく姿勢が崩れない。
秋吉のフォームが美しいのは、足首が軟らかくて水をしっかり蹴ることができるからでもあった。下半身が浮くことで上半身も安定し、水面をすべるように進む。
練習後の遊びで、水を入れた小さなコップを秋吉の背中に置いてクロールを泳がせたことがある。水面にぽっかりと浮いた背中はまったく沈むことなく、コップの水がこぼれることもなく、片道二五メートルのプールを移動した。
「星野のことで何か気になるの?」
僕は秋吉に訊いた。
「特にはないけど……」
彼女はそっと目をそらした。
秋吉は華やかなタイプではないが、整った顔をしている。クールな見た目のとおり、人に媚びるところがまったくない性格で、後輩からもリスペクトされていた。
どんなに練習が厳しくても表情一つ変えず、黙って泳ぎ続ける。
僕たちは並んでカルキーを投げ続けた。
高校生とは思えないほどいつも毅然としている秋吉でも、恋をすることはあるのだろうか――。
ふとそんなことを思った。
誰かを好きになって苦しむ彼女の姿を思い浮かべようとしたが、まったくイメージできなかった。
「石神君、星野さんのこと、何も知らないのに水泳部に連れてきたの?」
秋吉はあきれたような視線を向けてきた。
「うん。なあーんにも。オレ、教室ではずっと眠ってるから、クラスのことはほとんどわからないんだ。水泳部のマネージャーになりたいって言われた時も、すぐに気が変わると思ってた。そしたら、今日校門の横に星野がいたんだ。秋吉は星野と 同じクラスになったこと、あったっけ?」
「ううん」
「そっか。まあ、三年の女子同士、面倒見てやってよ」
「うん……」
カルキーの袋がからになった。秋吉は僕にまだ何か言いたそうだったけれど、それでも笑顔をつくって女子の部室に着替えに行った。
水泳部の夏休みの練習は、朝九時の準備体操から始まる。
水に入ると、それぞれ自分のコンディションを確かめながらのウォーミングアップで、ゆっくり二〇〇メートルを泳ぐ。その後、四〇〇メートルを五本、五〇メートルのキックを二十本、五〇メートルのプルを二十本、二〇〇メートルを十本、一〇〇メートルを二十本、五〇メートル二十本を二セット泳ぎ。最後はクールダウンで、体をほぐしながら二〇〇メートル。これが一日の練習の骨格をなすメニューだ。キックはビート板を使って脚で進む練習、プルは両脚の間にビート板を挟んで腕で進む練習である。上半身と下半身を別々にフォームを矯正する。
水泳の練習は単調になりがちなので、「スロウ&ファスト」や「ラング・バスター」といった負荷の大きい練習も加えられる。スロウ&ファストは往きの二五メートルはゆっくり、帰りの二五メートルを速く泳いでペースアップを体に覚えこませる。ラング・バスターは呼吸の回数を六ストロークに一回とか八ストロークに一回に減らすことで心肺機能を強化する。英語で「ラング」は肺、「バスター」は破壊の意味だ。
練習は途中に一時間の昼休みを挟み、毎日夕方五時くらいまで続いた。午前はみんな比較的元気だが、昼食後は疲労で口数も少なくなる。
長距離や短距離、プルとキック、選手には得手不得手はあるが、誰もが顔をゆがめるのが一日の最後に待っているインターバルトレーニングだ。
五〇メートルを一分サークルで二十本二セット、計四十本泳ぐ。一本を一分以内に泳ぎそれをくり返すことを一分サークルといった。つまり、三十秒で泳いで来れば、次の一本まで三十秒間休め、四十秒で泳げば二十秒休める。
このインターバルトレーニングは二セット目の二十本が特に苦しい。制限タイムが課せられるのだ。青木に「制限三十二秒」と命じられたら、二十本すべて三十二秒以内で泳がなくてはいけない。制限タイムをオーバーすると、その一本は泳いだ数に加えてもらえず、トータルの本数が増える。増えた分を僕たちは「利息」と呼んでいた。
誰だってコンディションの悪い日はある。僕は二十本泳いだ時点で利息が二十本加算されたことがあった。一本も制限タイムを切れなかったのだ。がっくりして空を仰いだ。その日、一セット目からのトータルの本数は八十本を超えた。
夏休みに入り練習量は増えたものの、僕のタイムはなかなか縮まらなかった。キックが弱いからだ。足首の関節が硬いために可動域が狭く、効果的に水を蹴ることができない。
蹴る水の量が少ないと、下半身が沈む。すると、姿勢を水平に維持できず、体が斜めになり、上半身で水の抵抗を大きく受けてしまう。それが、背の低さや手足の短さと相まって自由形の選手としてはマイナス要因になっていた。
姿勢を安定させるために、青木は自由形専門の僕と堀内にはキックの練習を多めに与えた。これがつらい。クロールの主な推進力は腕なので、脚だけではなかなか前に進まない。
平泳ぎの選手と並んで泳ぐ時は最悪だった。平泳ぎはクロールとは逆で、脚で進む泳法だ。膝から下、ふくらはぎを尻に向かって目一杯引き、脚の内側の広い面積で水をとらえて蹴る。平泳ぎの選手たちは、自由形の選手がビート板にしがみついて水飛沫をあげながら必死に脚を動かしているのをあざ笑うかのように、効率よく水を蹴って前へ進んだ。
堀内はビート板に体をあずけ、キックを打ちながら、いつも意味不明の声を上げていた。
「アワワワワ……、グブグブグブグブ……」
口に水が入るらしく、吐く息で押し戻しながら進んでいるのだ。押し戻す水の量によって声は変わる。
さらに、よほど苦しいのか、あるいはキックの練習を恨んでいるのか、泳ぎながらビート板をかじった。
今にも泣きだしそうな表情でビート板をかじる様は断末魔の河童を想像させた。毎年夏休みを迎える頃には、水泳部のビート板は一枚残らず堀内の歯の形に欠けていた。
「石神!」
夏休みに入って一週間が過ぎた七月の終わり、アップを終えてキックのためにビート板を取りに行こうとすると青木に呼ばれた。
「はい!」
あわててビート板をつかみ、プールサイドのデスクで練習メニューをチェック中の青木のほうに小走りで向かう。
「ビート板はなしでいい」
思いもよらぬことを青木に言われ、立ち止まる。
「えっ?」
「お前は今日から別練習だ」
青木の横には圭美が立っていた。入部して一週間で、顔も、Tシャツから伸びた腕も、短パンの下の脚もきれいに陽焼けてしている。
「別練習って、何やるんですか?」
「腕と脚のコンビネーションだけにする」
「キックはいいんですか?」
大嫌いなキックだが、やらないのは不安だ。
「東京都大会まで一か月を切った。今のフォームのまま腕に力をつけてスピードアップしよう」
「はあ……」
「今日からは上半身の力で体を引っ張っていく意識で泳げ。キックは下半身が沈まない程度に軽く打てばいい。いいか、お前は疲れてくると、水中で肘が落ちて、てのひらだけでかこうとする。それでは水をしっかりとキャッチできない。上腕全部を使って水をとらえることだけ考えろ」
キックの練習を憎んでいる堀内がうらやましそうな表情をこちらに向けている。
「なんだか、不格好な泳ぎになりそうですね」
僕はサーフィンのパドリングのようなフォームで泳ぐ自分の姿をイメージした。
「気にするな。お前のフォームは、今のままだってお世辞にもカッコいいとはいえない。ただし、キックが弱いままで二〇〇以上のレースは戦えない。中距離は捨てて一〇〇にしぼろう。練習試合では二〇〇と四〇〇もエントリーはする。でも、いつも一〇〇を意識して泳げ。お前が全国大会に行く可能性があるのは、一人一〇〇メートルずつを四人で泳ぐ四〇〇メートルリレーだけだ」
「はい」
「練習するコースも変える。一番端の第一コースに移動しろ。内容は、午前に五〇メートルのインターバルを一〇〇本、午後にも一〇〇本。続けてではなく、一分サークル二〇本を五セットずつだ。もう一度言うぞ。前腕ぜんぶを使って水をキャッチして、キックは腕のストロークに合わせて軽く蹴るようにしろ」
「はい」
「それから、五〇メートルを二〇〇本も泳ぐと飽きる。単調だからな。とにかく集中が途切れないように心掛けろ」
そう言って、青木は傍らに立つ圭美に顔を向けた。
「星野、しばらく、一コースで石神について、二〇〇本全部タイムを測れ。集中力が切れて遅くなってきたら、オレに報告しろ。それが今日からの仕事だ」
「あっ……、はい」
圭美は少し驚いた表情を見せた。
「ああー、福島、行きてえなあー!」
自転車をこぎながらいつものように堀内が叫ぶ。叫んだ勢いで転びそうになり、ガードレールに足をひっかけて体勢を立て直す。夏の西日が塩素で脱色した堀内の髪を金色に染めている。
堀内の自転車は軋んだ音をたてていた。スポーツタイプだが、中学一年から六年近く毎日乗っているポンコツだ。上り坂でギアを切り替えると、二回に一回はさびたチェーンがはずれる。新しい自転車のために親からせしめた金はぜんぶロックのレコードを買ってしまった。
「ひっ、ひっ……」
さびたギアの音に気色の悪いしゃっくりが重なる。
堀内はさっきまで、途中の電柱の下にうずくまって、嘔吐していた。
この日は練習後に同期の男四人で、阿佐ヶ谷駅のガード下にある「牛友」でカレーライスを食べた。運動部員に人気の大盛自慢の食堂だ。カレーライスも牛丼も、並盛一杯一〇〇円で、阿佐高の学食よりも安い。堀内は洗面器のようなプラスティック製の器にのるカレーの大盛りと牛丼の大盛りをかき込み、さらにカレーの並盛を注文した。合わせて一・五キロくらいの量である。
体力を消耗しつくす練習の後とはいえ、そこまで食べなくても食欲は満たされる。僕たちは堀内が三杯目の並盛カレーを頼む前に一応とめた。しかし、大量に食べることに男の無頼性を見出している堀内はやめない。その結果、嘔吐した。
自転車を止めては吐き、また止めては吐き、吐瀉物を食べに来た野良犬を追い払い、今また自転車をこいでいる。
胃の内容物はほぼ吐き出したのだろう。状態はかなり回復してきた。
「石神はいいねえー。キックの練習がなくなってさあー! ひっ!」
堀内と僕はよく自転車をこいで一緒に帰った。
僕は練馬区の南田中という町から自転車通学だった。杉並区や中野区の生徒のほとんどは地下鉄丸の内線や中央線で通学している。しかし、このあたりには南北を結ぶ電車がないので、阿佐谷の北に位置する練馬区在住の生徒は自転車通学が多かった。
練馬区民は校内でもすぐにわかる。自転車通学のせいで大腿部が太く、「練馬人」と呼ばれていた。杉並区や中野区在住の生徒にはすらりと脚の長い体形が多い。服装もこざっぱりしていた。
堀内は杉並区民なのに、自転車通学なので、太ももが張っていた。住まいのある荻窪からは、丸の内線も中央線もあり、親からは通学定期代をもらっているが、定期券を買うはずのお金を貯めてグレコのSGを手に入れたのだ。
「石神、今年の公式戦が全部終わったら、オレは秋吉に交際を申し込む」
ふり向きざま、いきなり堀内は宣言した。
「急にどうしたんだ?」
「急じゃない、オレはずっと秋吉が好きだ。ひっ!」
しゃっくりはなかなか治まらない。
「いや、オレが訊きたいのは、なんで今いきなりそれをオレに言うんだ、ということだよ」
「お前に先を越されたくない。ひっ!」
「オレが先を越すのか?」
「石神、秋吉を好きじゃないのか?」
堀内は拍子抜けした顔になった。顎の無精ひげに、牛丼の白滝の切れ端がついている。
「いつそんなことを言った」
「この前だって二人で並んでカルキーを投げていただろ。ひっ!」
「あの時は新しいマネージャーの話をしていただけだ」
「そうなの?」
「お前にうそついてどうするんだ?」
「ジョン・レノンに誓えるか?」
「ピート・タウンゼントにだってジミヘンにだって誓うよ」
「そっか……」
「堀内は、秋吉のこと、やりたいなあー、とか考えるの?」
好奇心のまま訊いた。
「もちろんやりたい! でも、秋吉はまじめだから、させてくれないだろうなあ……」
「鋼鉄女だしな」
「体が鋼鉄だと、心も鋼鉄なのかな……」
秋吉は堀内が自分に恋愛感情を抱いていることなど気づいていないだろう。
「なあ、石神、オレは福島へ行きたい。ひっ!」
堀内は話題を水泳に戻し、またお決まりの言葉をはいた。
「それは毎日お前から聞かされている」
「個人種目では、もう無理だろう。でも、四〇〇リレーなら可能性はある。おそらく秋吉は二〇〇の個メで全国へ行かれる。その絶頂の時に交際を申し込む。どうだ?」
「青春恋愛ドラマみたいだな」
「ただ、ひっ! 秋吉が全国大会へ行って、オレが行けないと青春ドラマにもならない」
前を走る堀内はしゃっくりをしながらも自転車を止めてふり向き、威嚇するような目線を向け続けた。
「今のままではオレたちは東京都の予選を通過できない。お前があと二秒、いや三秒縮めなくちゃ、全国大会の標準タイムは切れない」
「お前に言われなくたってわかってるよ」
「オレも、今シーズンはまだ自己ベストがでていない」
うつむいて、悔しそうな顔になる。この男のしぐさはいつも芝居のようだ。今日僕に話すことはずっと前から考えていたのかもしれない。
「津村はまだ速くなるよ。なにしろ、平泳ぎの練習しかしていないのに、クロールで自己ベストを更新するやつだ。専門の平泳ぎでも全国へ行かれるかもしれない」
「ストイックだからな」
「野波はプレッシャーのない状況ならば、いいタイムで泳ぐだろう。でも、もし隣のコースと競る展開になったら、難しい」
「リレーで全国へ行けるかどうかは、あと一か月弱で自由形専門のオレ達がどれくらいタイムを縮められるかだだと思うよ」
「ベストパンツの状態も心配だ。布が薄くなって、尻がすけてきた。あれであと何回泳げるか……。ひっ!」
公式戦のルールでは破れた水着の着用は禁じられている。
「ほかのパンツじゃ泳げないの?」
「あれじゃないと、どういうわけか腰が安定しない」
「だったらベストパンツをはくのは試合の時だけにしろよ」
「そうだな……」
「堀内は大学でも泳ぐの?」
ふと頭をよぎったことを訊いてみた。
「やらない。大学の水泳部では、オレはマネージャーレベルだろ。石神は?」
「オレのタイムではマネージャーにもしてもらえないよ。そもそも大学に受からないと思う」
毎日泳いでいるだけの僕は、受験の準備はなに一つやっていなかった。
「だとすると、九月の東京都大会が、うまくすれば全国大会が、オレ達にとって人生最後のレースになるな」
「そっか、この夏の公式戦がラストになること、気づかずに毎日泳いでたよ」
「オレもだ。ひっ!」
「勝ちたいな……。水泳部での三年間の最後を勝った記憶として残したい」
「三十二秒三。タイム、落ちたよ!」
プールサイドで圭美が叫ぶ。
午前の練習メニュー、二十本五セットのインターバルの三セット目のラスト一本を泳ぎ、壁にタッチした時だった。
「もう少し小さい声で頼むよ。青木先輩に聞こえるだろ」
水の中で、肩で息をしながら僕は小声で抗議した。
「聞こえたら困るタイムなの?」
真っ白いTシャツからのぞく圭美の細い腕はさらに黒くなった。肌の色だけは選手と区別がつかない。ざっくりとしたU字型のネックから、下に着ている濃紺の水着の紐がのぞいている。
「あのさあ、言っておくけど、オレ、力を抜いているわけじゃないから」
「わかってるわよ」
「そう?」
僕がチームと別練習になってから、圭美の言葉は日に日に厳しさを増している。
「力を抜いてはいないけど、セーヴはしているでしょ? 朝から全力で泳いだら、体力が午後までもつか、そんなに心配?」
いらっとした。図星だったからだ。夕方まで練習が続くことを考えると、朝から全力でいくわけにはいかない。
「なんか、知ったようなこと言うじゃない」
「入部したてのマネージャーなんかに言われたくない?」
「そんなつもりはないけど……」
「私にはそう聞こえる。毎日夕方まで泳いでいる選手はえらい。泳いでいないやつにさしずされたくない」
選手はマネージャーよりもえらいと思っている、という指摘も図星だった。ただし、意識してはいなかった。圭美に言われて自分の気持ちに気づいたのだ。
「わかったよ。オレがわるかった」
素直に謝った。圭美の指摘が的を射ていたこともあるが、練習以外で自分を消耗したくもなかった。
「ごめん。私も言い過ぎたわ。実際、くたくたになるまで泳いでいるのは石神君たちだもんね」
しかし、なぜ、圭美はこれほど真剣なのか――。そもそも、なぜ、圭美は水泳部のマネージャーになったのか――。
僕の中に疑問はくすぶっていた。
「一コースは毎日白熱していますなあー」
午前の練習が終わり、食事をすませてプールサイドに寝転がっていると、野波がちゃかしにきた。
「別にけんかしてるわけじゃないよ」
僕は不機嫌な声で答えた。
第一コースでの圭美とのやり取りを離れた第六コースで泳いでいる野波がからかいにくるということは、ほとんどの部員は僕たちの小さないさかいに気づいているだろう。示しがつかないので、後輩たちにはあまり聞かれたくない。
「オレたちがどれほどきつい練習をしているか、マネージャーにもわかってほしいもんだね」
野波も横に並んで寝そべった。
「でも、しかたないよ。逆の立場になって考えると、自分じゃないだれかのために、クソ暑い夏休みに毎日学校に通うなんてオレにはできない」
「確かにその通りだけどな」
ひと呼吸おき、野波は続けて訊いてきた。
「それで、石神、調子はどうなんだ?」
「ほとんど変わらないさ。ただ、オレ達、練習量も疲労もピークだろ。それでもタイムが落ちていないから、もしかしたら泳ぎはよくなっているのかもしれない。希望的観測だけどね。野波はどう?」
「青木先輩から、明日からはクロール中心の練習にする、と言われたよ」
「そうか……」
「覚悟は決めたよ」
野波の専門は平泳ぎだが、その個人種目では全国大会へは進めそうにない。しかし、自由形のリレーはまだ可能性がある。
「平泳ぎは?」
「一〇〇にしぼって試合には出たい。一年からずっとやってきた種目だからね。最後の都大会では、なんとしても自己ベストで泳ぎたい。でも、全国大会に行くには、オレにはもう伸び代はない気がする」
野波は無念そうな表情を見せた。
「もう少し続けてみたらどうだ」
「津村と並んで練習してあきらめはついたよ。あいつ、体は細いけれど、筋肉の質は抜群だ。膝と足首の関節もものすごく軟らかい。かかとを尻にピタッと付くまで引きつけて、そこからポーンとしなやかに水を蹴る。あんなキック、オレには無理だ。フォームに無駄がなくて、水の抵抗が少ないからぐんぐん進む。オレは明日から、クロール中心でやるよ。自由形のリレーで全国大会へは行きたい」
「クロールはこれまで練習してこなかった分伸びるかもしれないけど」
「だから、一コースで泳いでいるお前の調子は気になるわけだ」
野波がこちらをさぐるような視線を向けた。
「それで、オレと星野のやり取りも見ていたのか」
「オレだけじゃないよ。堀内もお前のこと、すごく気にしている。津村だって、黙っているけれど、気になっているさ」
その時、女子の部室からプールサイドへ誰かが上がってきた。逆光で顔がよく見えない。細い肩。ベルトでキュッとしめたような腰。明らかに選手の体系ではない。濃紺の競泳用水着を着た圭美のシルエットだった。
「泳ぐの?」
寝転がったまま声をかけると、圭美はちょっとバツの悪そうな表情でうなずいた。彼女がプールに入るのはおそらく初めてだ。
圭美のことを僕はやせた女の子だと思い込んでいた。プールサイドでの彼女はいつも水着の上にTシャツと短パンを身につけていたが、そこから伸びる手足がすらりと長かったからだ。しかし、胸も腰も豊かに水着を押し上げていた。
「選手が休んでいる時間に少しだけ水に入らせてもらおうかと思って」
プールに圭美がゆっくりと脚を入れる。
「泳げるの?」
からかってみたくなった。
「石神君、私のこと、ばかにしてる?」
圭美は温泉につかるようにプールに体を沈めていった。
「いつものお礼に、オレがタイムを計ってやろうか?」
「けっこうです」
こちらをにらむと、プールの壁を蹴った。ゆっくりとしたストロークで、クロールを泳ぎ始める。どこかで習ったのか。スピードはないが、無駄のないきれいなフォームだ。
圭美の水着は濡れると色が変わる。体が美しい光沢をもち、陽の光をはじく。
「星野、気が強いよなあ」
泳ぐ圭美を野波が目で追う。
「気の強い女、野波、好きだろ」
「まあ、そうだけど、あの女はちょっと……」
「ちょっとって?」
「石神、知らないのか? 星野は弥生高の木下さんと付き合ってたらしいぜ」
同じ学区の弥生高は同じ地下鉄丸ノ内線沿線にある都立の名門進学校だ。木下はその水泳部の二学年上で、バタフライの選手だった。阿佐高の先輩、青木と同じ学年だ。
木下は一九〇センチ近い長身を生かしたダイナミックな泳ぎで、一〇〇メートルも二〇〇メートルも速く、特に一〇〇は東京都で優勝し、全国大会でも三位で表彰された。高校卒業後は現役で一橋大学経済学部に合格した。大学に入ると、選手としての競泳はきっぱりとやめて、弥生高水泳部でコーチをしている。
「野波、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「弥生高水泳部のOBにオレの中学時代の先輩がいて、木下さんと同期だったんだ。その人から聞いた。秋吉も知っていると思う。木下さんは秋吉と同じ中学で水泳部の先輩だからね。星野、木下さんと付き合っていたなら、同じ歳のオレ達なんて、子どもにしか見えないだろうな」
圭美が入部した日の秋吉のとまどった様子を思い出した。
目の前のプールでは、圭美がクロールを泳いでいる。二五メートルまで行きつくと、大きく弧を描くターンで折り返した。圭美の体はすでに大人の恋愛を知っているのだろうか。僕は息苦しさを覚えた。
「なんで木下さんと別れたんだ?」
「詳しいことは知らないけど、木下さん、女関係のうわさがたくさんあるからな。今は弥生高の二〇〇個メの岡林と付き合っているらしい」
岡林は三年生で秋吉のライバルだ。一七〇センチを超える長身の選手である。二〇〇メートル個人メドレーのほかに、平泳ぎも速い。ウェイヴのかかった長い髪と大人びた顔立ちで、私服姿は高校生とは思えない。
「木下さんって、相手が高校生でもやっちゃうのかな」
野波が好色な表情をこちらに向けた。
僕の頭の中に裸の圭美が木下の大きな体に抱きすくめられる姿が浮かぶ。猛烈な嫉妬心がわき、自分でも驚いた。
「星野が水泳部に入ったのは、木下さんとのことと関係があるのかな?」
頭に浮かんだ妄想を必死に打ち消し、野波に訊く。
「まあ、何の理由もなく、三年生で水泳部のマネージャーになるわけがないよな。星野のほうは、まだ好きなんじゃないかな。うちと弥生高は代々交流がある。練習試合も合同練習もやる。水泳部に入れば、間違いなく木下さんと会う」
「来週、弥生高で試合だよな?」
「ああ。あそこの四〇〇メートルリレーはオレ達より少し速い。全国大会へ行かれるかどうか、目安としてはいい相手だ」
弥生高とは、翌週、練習試合を予定していた。八月の初め、宮前高、弥生高という二大名門校になぜか阿佐高が加わった三校の練習試合は毎年恒例になっていた。
試合といっても、戦うモードではない。近い学校同士、親しい同士の合同記録会の雰囲気だ。
「競るかな?」
「競るだろうな……」
「野波、頼むぜ」
野波は競り勝ったことが一度もない。
「なあ、石神、オレはいつからか自分は競ったら負けると決めつけていた。でも、今シーズンは勝つよ。オレ達にとって最後だからな」
壁にタッチして見上げると、水飛沫の向こうで圭美が笑みを向けてきた。
「三十秒八。このタイム、午後も維持しよう!」
笑顔の向こうの雲一つない空の青を背景に、彼女の輪郭がくっきりと縁どられている。
「ふうー」
午前の五〇メートル一〇〇本が終わり、ほっとして、息を吐く。
「お疲れ様。じゃあ、ここで昼休みね」
圭美がストップウォッチをリセットする。
疲労が日に日に体に蓄積されるのを感じる。練習は一週間に六日。休みは日曜日なので、金曜日、土曜日はくたくたになる。ただ、疲れている体でも練習タイムは落ちていない。泳ぎはよくなっているのかもしれない。次の弥生高での練習試合では自己ベストをマークできるだろうか。
学食で定食をかき込んでプールへ戻ると、圭美が泳いでいた。昼休みに泳ぐのが日課になったようだ。
日中の気温は連日三十度を超え、水の中にいても、自分が汗をかいているのがわかる。水面やコンクリートの照り返しで四十度を超えるプールサイドでまる一日タイムを計ったり、記録をつけたりするマネージャーは厳しい仕事だ。昼休みの遊泳はつかの間のリフレッシュタイムなのだろう。
昼休み、女子部員たちは部室でにぎやかに弁当を食べていたが、圭美は一人でいることが多い。入部して日が浅いだけでなく、チームの中で明らかに異質な存在だった。水泳部は女子選手たちもみな筋肉質だ。肩幅は広く、腕はたくましく、肩から下、広背筋が盛り上がっている。女でありながら少年のような力強さを感じさせた。そんな集団の中で、圭美は首から肩へのラインがやわらかなカーブを描き、胸や腰のふくらみは女の匂いを発していた。
僕の姿に気づいた圭美がプールから上がり、近づいてくる。焼け焦げたコンクリートの上に濡れた足跡が残っていく。
「石神君、今週は調子いいね」
バスタオルで髪を絞るしぐさが大人びていた。圭美は木下とどんな交際をしてきたのだろう。水着の下に隠された体は大人の恋愛を体験しているのだろうか。野波の話を聞いてから、考えずにいられなくなっていた。
「水はキャッチできている気がする」
彼女に女の匂いを感じている自分をさとられたくなく、僕は肘を上げて水をかく動きを見せながら答えた。
「頑張ってるもんね」
圭美が微笑む。瞳と口がくっきりと大きいせいか、笑うと表情が華やぐ。
「星野には感謝してるよ。こんな記録的猛暑の夏にずっとプールサイドで練習を手伝ってくれてさ」
「石神君のためだなんて思っていないから、気にしないで」
はっきりと言われて、僕はかすかに傷ついた。そして、ずっと気になっていることを訊いた。
「星野はどうして水泳部に入ったの?」
二人の間につかの間の沈黙が生まれた。
「気になる?」
圭美の声のトーンが低くなる。
「毎日こうして、朝から夕方まで一緒にいるんだぜ。ほんとうのこと、教えてくれたっていいんじゃないのか。入部する時は、オレたちが楽しそうだから、とか言っていたけれど、そんな理由だけで三年生が入部しないだろ。しかも、マネージャーでさ………。やっぱり、弥生高の木下さん?」
圭美が一瞬視線を逸らした。
「石神君、知ってたんだ?」
「野波から聞いた。あいつの中学時代の先輩が弥生高で木下さんの同期にいたんだって。それに、木下さんのことは東京の学校で水泳をやっていれば誰でも知っているからね。あの人のバタフライ、一年生の時に初めて見て、びっくりしたよ。ダイナミックで、それでいて肩がものすごくしなやかに動いて、水の上を飛んでいるようだった。ほとんどの大会でぶっちぎりで優勝していた」
「彼と私が付き合っていたのはほんとうよ。あの人、うちのお兄ちゃんの同級生なの。でも、別れた。石神君たちも知っているかもしれないけれど、彼、私から岡林さんという後輩に乗り換えたの」
そこで、しばらく、圭美は口をつぐんだ。
「話したくないなら無理することないけど」
「ううん、平気。彼、最初は私に知られないように岡林さんとも会ってたんだけど、そういうの、女は気づくでしょ? 問い詰めたら、白状した。それでも彼は私のところに戻ってくると思っていた。ところが、彼、岡林さんと付き合うって言ったの。申し訳なさそうにね。自分がいないと、岡林さんは全国大会へ行かれないからだって。でも、それって、変でしょ? 恋愛と水泳は関係ないじゃない。私にはまったく理解できなかった。そんなの体のいい口実だと思ったわ」
圭美の恋愛の話は、女性と交際したことがない身には刺激が強かった。一年生、二年生と僕が二五メートルのプールを往ったり来たり泳いでいる時、このクラスメイトは年上の男と恋愛をしていたのだ。
そんな僕の心中などまったく気づかないふうで彼女は話を続けた。
「私、弥生高水泳部の練習をこっそり見に行ったの」
弥生高は中野区の雑居ビルが密集した地域にある。プールは校舎に囲まれた陽の当たらない谷間だ。圭美は勝手に学校に入って、校舎の四階の窓の隙間からそっとのぞいていたらしい。
「弥生高水泳部の練習を見たのは初めて?」
「一年生の時にも一度行ったわ。三年生だった彼と付き合い始めた頃。泳ぐ姿を見たかったから。水泳部体験のない私にも、彼がすごい選手だということはよくわかった」
一年生の頃、大会の度に見た木下の泳ぎを思い出す。木下が出場するレースになると、会場中が立ち上がって注目した。
「木下さんの泳ぎ、すごかったからね」
「うん。バタフライだけじゃなくて、クロールや背泳ぎでも、弥生高の水泳部で彼が一番だった。でもね、岡林さんも素晴らしいの。彼ほど圧倒的ではないけれど、弥生高の女子選手は誰もかなわない。女子で一番速くて、三年生なのに偉そうにしていなくて、一番厳しい練習をしていた」
「岡林は、二〇〇個メでは、このあたりでは秋吉と一位、二位を争う選手だ」
「そうらしいわね……。彼から聞いたことがある。私はチームの中で、彼と岡林さんがでれでれしているのを想像していた。それでチームメイトたちに冷たい目で見られていると思っていた」
気持ちはわかる。自分と別れた男がその後何かしらの罰を与えられている場面を期待したのだろう。
「でも、違ったんだ……」
「うん……。彼、岡林さんにものすごく厳しいのよ。五〇メートルのインターバルでも、たぶんちょっと気を抜いたら切れないような厳しい制限タイムを与えていた。岡林さん、速いのに、制限をなかなかクリアできないんだ。でも、彼はけっして甘やかさない」
阿佐高水泳部でも行われている制限タイム付きのインターバルが弥生高の水泳部にもあるのだ。
「制限タイムを切れないと、やっぱりその分泳ぐ本数が追加されるわけ?」
「そう。うちと同じ。制限を切るまでプールから上げてもらえないの。チーム全体が緊張していて、練習中、二人は目も合わせない。岡林さん、歯を食いしばっているのが遠くからでもわかった」
圭美の表情がゆがんだ。
「岡林は速いだけじゃなくて、強い。タイムがいい上に、最後まであきらめない。秋吉とはいつもほんのタッチの差で勝ったり負けたりだ。リレーでも、岡林は一年生の時から第四泳者だった。あの年は弥生高の三年生に自由形専門のもっとタイムのいい先輩がいたんだけど、アンカーは岡林だった。最後に競り合ったら負けないからだよ」
「そうなんだね……」
あの強さは、すごく厳しい練習をしてきたからだと、青木が話していた。
「水泳のセンスがあって速くなる選手もいるけれど、岡林は練習に練習を重ねて心も鍛え上げている」
「私、岡林さんに、ものすごく嫉妬した。彼、私にはいつも優しかったの。だって、私たちはいつも向き合っていればよかったから。でも、彼と岡林さんは違った、向き合うだけじゃなくて、二人で同じ方向を見て戦ってもいた。あんなに厳しくされて、それでも岡林さんが頑張れるのは、心から信頼しているからだと思う。私、岡林さんに負けたの? 私も水泳選手だったらよかったの? 運動部じゃない私には理解できない何かがある気がした」
「それで、うちの水泳部に来たの?」
「選手にはなれないけれど、水泳部の夏を体験してみたくて」
「木下さんとも会いたかった?」
「うん……」
圭美のまぶたがかすかに膨らんだ。
「まだ好きなんだ?」
「マネージャーになった時は、好きだったと思う。でも、今はよくわからない」
「わからない?」
うつむいて話していた圭美が顔を上げた。
「阿佐高の水泳部に入ってみて、びっくりしたんだ。だって、ほかの運動部の三年生はとっくに引退してるでしょ? それなのに、ここだけは三年生がまだ真剣に泳いでいる。最初は理解できなかった。だって、石神君も、堀内君も、あんなに速い秋吉さんだって、大学で水泳はやらないんでしょ?」
「秋吉はともかく、オレのレベルでは、大学では通用しないよ。そもそもこんな夏になってまで勉強もせずに一日中泳いでいて、現役で大学には受からないだろ。浪人して一年も体を動かさなかったら、大学の体育会の練習についていかれないと思う」
「それなのに、一日中泳ぐなんて。選手もだけど、毎日指導している青木先輩の存在も、私には理解できなかった。堀内君とか野波君とか、青木先輩の言うことは聞くでしょ。あの二人、私はずっと別のクラスだけれど、目立つから知ってたよ。一年生の時から無法者だと思っていたんだ」
無法者という言い方はどうかと思ったが、堀内と野波は自由だった。授業には出たり出なかったり。教師の言うことも何一つ聞かない。
「あいつらは、自分の意志でしか行動しないから……。青木先輩に泳がされる以外はね」
「私、二年の学園祭の時に、堀内君が気に入らない同級生の男の子をいきなり殴るのを見たの。相手は剣道部のキャプテンで、堀内君よりもずっと体の大きい人。いつも偉そうにしていて、感じが悪いやつだったからちょっと気持ちよかったけど」
堀内と野波は一年に何度か事件を起こす。学校行事や体育の授業中に、気に入らないやつを立ち上がる気力がなくなるまで痛めつける。衝動なのか、ずっと我慢していた怒りが沸点に達するからなのか、僕にはわからない。あの二人はいつも何かにいらいらしている。そして周囲の制止を振り切って、相手が戦意を失うまで叩きのめす。
「偉そうにしているやつと、ツッパリのまねをしているやつが大嫌いで、ときどき過剰な行動にでるんだ」
「石神君や津村君もだけど、水泳部は部室に寝泊まりしているという噂もあるでしょ」
「ああ……」
僕たちは夏休みにときどき部室に泊まった。練習の後、疲れ果てて、体が鉛のように重く、部室でごろごろしているうちに夜になり、帰るのが面倒になるのだ。
家に帰っても食べて眠るだけだ。朝が来たら、どうせまたプールに来て泳ぐ。ならば、このまま部室で眠ってしまえばいい。食事は学校の近くの定食屋か牛丼屋ですませて、ストレッチの時に敷く毛布にくるまって眠った。
両親は僕の外泊についてはあきらめていた。それに、僕がどこかの繁華街で遊んでいるわけではないことは明らかだった。どう見てもそんな体力は残っていなかったからだ。家にいない時は、ほぼ間違いなくプールにいた。
部室に泊まった夜は、月の光のもとで泳いだ。毎日昼間に泳いでいる同じプールなのに、夜の海で泳いでいるように感じた。
同期の男四人で泊まって泳ぐときは全裸だ。真っ黒に陽焼けした体が、深夜はさらに黒い。
コースロープが張られていない夜のプールでいろいろな泳法で縦横斜め自由に泳ぎまわる僕たちは野生のアザラシのようだった。上半身や脚の黒さのせいで、陽焼けしていない尻だけが月明かりで白く光った。
「部室に泊まってるって、ほんと?」
圭美に訊かれてわれに返った。
「うん……、夏休みに何度かね」
「やっぱり」
「疲れて帰るのがめんどうになるからだけど、ときどきプールから離れたくない日があるんだ。オレたち、毎日学校に通っているより、プールに通っている気持ちのほうが強いんだと思う。家よりも、教室よりも、水の中にいる時間のほうが長いだろ。溶けたカルキ―の匂いをかいでいると気持ちが落ち着くんだ」
水泳部は練習時間が長いので、クラスメイトとの関係は希薄になる。そんな僕たちのことが、圭美の目には珍種の生物に見えていたらしい。
「水泳部って、わけのわからない集団じゃない。行儀は悪いけど、不良というわけじゃない。理解できないから、クラスの女子はみんな近づかないようにしているよ。でも、そんな人たちが、青木先輩の言うことだけは素直に聞いて、統率がとれている。そして、一日に一万メートル以上泳いでる。石神君たちは当たり前だと思っているかもしれないけれど、一万メートルって、一〇キロでしょ。歩くのだっていやだよ。毎日そんなに泳いで、水泳と、水泳部と、仲間をとても大切にしてる。びっくりしたわ。この人たちとひと夏を過ごしてみたいと思ったの」
圭美がちょっと憧れをふくんだまなざしを向ける。気の強さが薄れたその優しい笑顔をたまらなく愛おしく感じた。