映画の後、僕たちは日比谷公園の中にあるカフェで遅いランチをとった。圭美はフレンチトーストと紅茶、僕はピザトーストとコーヒーを選んだ。三十度を超える暑さにもかかわらず、窓の外のテラスでは外国人が楽しそうに食事をしている。阿佐谷では見ない風景だ。
「この前、私がなんで水泳部に入ったか話したでしょ」
「うん」
「賢介はなんで水泳部に入ったの?」
 圭美が思い出したかのように訊ねた。
「なんとなく、かな」
「えっ、そんなはずないでしょ?」
「でも、なんとなくなんだよ。同じ中学出身の岩岡というやつに誘われて、しかたがなく入部した。岩岡は入学してすぐに秋吉が好きになってさ。二五メートルしか泳げないのに水泳部に入った。理由が理由だからそいつは一人で入部するのが嫌で、一か月でいいから一緒にやってくれ、ってオレに頼んできたんだ」
 一年生の時、岩岡は秋吉と同じクラスだった。
「岩岡君って、私、知ってる。いつも騒いでいるにぎやかな人だよね」
「うん。で、岩岡、すぐにクラスの別の子が好きになって。それで辞めちゃった」
「なんで賢介は残ったの?」
「タイミングを逃したというか……。一年生が一人辞めると、退部が連鎖しないように、先輩のマークが厳しくなるからね。授業が終わると、教室に毎日二年生が迎えにきたんだ」
「そんな理由?」
「あと、青木先輩がまだ三年生で、練習の帰りに毎日メシ食わせてくれたんだ。OBから金を集めてきて。それで、辞めづらかったというのもあるかな。青木先輩、三年生の時にもう下級生に泳ぎを教えていてさ。高校生なのにおっかない顔で、厳しくて。でも練習が終わると優しくて、メシ行くぞ! って。オレも、堀内や野波もだけど、腹減ってるから、付いて行っちゃうだろ。で、辞めづらくなったわけ」
 競泳の経験がない上に体ができていない一年生の頃は、練習がきつくてよく嘔吐した。毎日「今日で辞めよう」と思っていた。でも、練習の後みんなで食事をしていると「もう一日だけ泳ぐか」とあきらめる。そのくり返しだった。
「鞭と飴だね。暴力団の懐柔策みたい」
 圭美があきれた表情で言う。
「二年になると後輩が入ってくるだろ。辞めづらい雰囲気になって、その頃になると体もできてくるから、練習にも前向きになるし、速くなりたくなるし。だけど……、水泳部を辞めちゃいけないというか、辞めたら自分がだめになる気はしていたかな」
 それは、この日圭美と話して気づいたことだった。
三年間、さんざんしぼられて、「もう泳げません」という言葉が何度も口からでかかった。しかし、練習中、自分では「もう無理」と思っていても、青木は「あと十本行け」と言う。すると、意外にも十本泳げてしまう。さらにもう十本も泳げてしまう。
人間は自分で限界を感じていても、実はまだかなり頑張れることを体で覚えこまされた。そうしているうちに、水泳部を辞めたらこの先の人生で待っているあらゆる困難に耐えられない自分になるんじゃないかと怖くなってきた。
「私、練習中青木先輩と一緒にいること、多いでしょ。すごく優しいよ。水泳が大好きだから。私が質問すると、わかりやすく教えてくれるんだ。賢介の泳ぎのことも、いろいろ。賢介、午後になって疲れてくると、泳ぎが変わるでしょ?」
「うん、肘が落ちてくる」
「それに、体の下じゃなくて、少しだけだけど、手が外側に流れて、体から離れた水をかくようになるの、気がついてた?」
「いや。でも、言われてみると、そんな気がする」
 クロールは、体の外側の遠い水をかいてもあまり進まない。体に近い真下の水をかいてこそスピードにのる。
「私、青木先輩に、賢介の水をかく軌道が変わったら報告するように言われているの」
「それで、オレ、夕方が近づくころになると、青木先輩に呼ばれてフォームを修正されるのか。なんでこのタイミングで呼ばれるんだろう、っていつも思ってた」
圭美が僕の泳ぎの変化を逐一報告していたのだ。
「青木先輩、水泳も好きだけど、賢介たちのことも好きだよ。堀内君のことも、野波君のことも、津村君のことも。厳しいけれど、本気で怒ったところは見たことないでしょ。この前の練習試合のリレーで、野波君、トイレに行っちゃったじゃない。それで負けて、私、どうなることかと心配してた。でも、あのときだって、青木先輩、怒らなかったもんね」
 あのとき確かに青木はあきれた顔をしただけだった。

 五時くらいにカフェを出たが、夕方なのに、一気に汗が噴き出した、日比谷公園の中はまだ爆音のように蝉が鳴いていた。
国鉄の有楽町駅に近い門へ僕たちは並んで歩いた。まもなく公園の出口に着いてしまうという時、僕は勇気をだして圭美の手を握った。拒まれなかったことにほっとし、この時間を少しでも長く味わいたくて、歩くペースをゆるめた。
圭美ともっと親密な行為をしたい願望と、手をつなぐだけでも幸せとだという思い、相反する気持ちの間で心が揺れた。
暑さのせいなのか。緊張のせいなのか。てのひらが汗ばむ。自分の心臓の音が聞こえた。圭美は嫌がっていないだろうか。そればかりが気になった。
「もしも全国大会に行かれることになったら圭美も福島まで来てくれる?」
 いよいよ公園を出るとき、立ち止まって僕は訊いた。
「もちろん」
 僕の手を握る力がかすかに強まった気がした。今が永遠に続いてほしい。それまで味わったことがない幸せを感じた。
「あー、福島、行きてえなあー!」
 日比谷公園の輝くばかりの緑と蝉の鳴き声に向かって、僕は堀内のお決まりのせりふを叫んでみた。