「よく来たねぇ。東京からじゃ、遠かったでしょう」

 机の上に、ずらりと並ぶごちそう。もしかしたら朝からずっと、支度をしてくれていたのだろうか。チューリップの唐揚げに、ハンバーグに海老フライ、彩り鮮やかなサラダに、いなり寿司に巻き寿司、だし巻き卵。ちいさな子どもの好きそうな料理に偏っている気がしなくもないけれど、おいしそうな料理が所狭しと並んでいる。

 どう考えても二人で食べきれる量ではないけれど、逢ったこともない孫娘を精いっぱい歓待してくれているのだということだけは、しっかりと伝わってきた。身体の具合は大丈夫なのだろうか。病気の佐和子に無理をさせてしまったかもしれない。

「ありがとうございます。凄いごちそうですね」

「暁美(あけみ)さんから、栞ちゃんは唐揚げが好きだって訊いたから。好みに合うといいんだけどねぇ」

 暁美というのは、栞の母親のことだ。嬉しそうにニコニコと微笑む彼女は、母とどれくらい交流があるのだろう。色々と聞いてみたい気もするけれど、なんとなく触れるのが怖い。

 栞はあえて何も聞かず、「いただきます」と手を合わせた。ふだん、唐揚げといえば我が家の食卓では駅地下の唐揚げ専門店で購入してきた唐揚げのことを指す。多忙な母は家では揚げ物をしないし、栞も怖くて出来ないため、久し振りに食べる揚げたての唐揚げは、とてもおいしく感じられた。さっくりとした衣の下から、しっかりと下味のついたジューシーな肉が現れる。口いっぱいに広がるうま味たっぷりの肉汁に、今日だけはカロリーのことは忘れてしまおうと栞は思った。

「おいしい!」

「よかったわ。最近の若い子が、どういうものが好きなのか、さっぱり分からなくて。弘嗣は小食だったしねぇ」

 突然出てきた父の名前に、思わず箸が止まる。佐和子の瞳が、微かに潤んでいるのがわかった。

「私……弘嗣さんに似ていますか」

 お父さん、とは呼べなかった。ぎこちなく訊ねた栞に、佐和子は言葉を詰まらせる。

「――もし、嫌じゃなかったら、後でお線香あげてね。あの子の写真、仏間に飾ってあるから」

 自分の身体の、半分をかたちづくる人。

 その人が今はこの世に存在しないのだと思うと、なんだかちょっと不思議な感じだ。生きていたら、母と同じくらいの年令だったのだろうか。

 どうして亡くなったのかわからないけれど、若くして亡くなるのは、きっと本人も遺された家族も、とても辛いだろう。

 しんみりしてしまった食卓。どうしていいのかわからず、栞はいなり寿司を頬張り、「こんなにおいしいいなり寿司、初めて食べました!」とできる限り明るい声で叫んだ。

「そう? そんなふうにいってもらえると、本当に嬉しいわ。この辺りはね、お揚げを甘めに煮て、なかを具だくさんにしたいなり寿司が主流なの」

 佐和子のいうとおり、じゅわっと甘いタレがしみ出す揚げのなかには、人参や椎茸、胡麻がたっぷり混ぜ込まれた酢飯がふんわり優しく詰まっている。

「すっごく好きな味です」 

 そう告げると、佐和子は目に涙を浮かべて、顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。

 

 夕飯を食べ終わると、風呂に入るように勧められた。

 佐和子は食後にたくさん薬を飲んでいたけれど、肌つやもよく、日常生活に困るほどの重病ではなさそうに見える。とはいえ、これだけ広い家だ。明日以降、風呂掃除や庭の手入れなど、手伝えることは手伝うべきだろう。

 浴室は大きな檜風呂で、扉を開けるなり森のようないい香りがしてきた。

「凄い、おっきい……」

 手足を伸ばして入れるお風呂なんて、いったいいつ振りだろう。

 感動しつつ、熱めのお湯に浸かる。初めての祖母との対面で、緊張していたのだろう。身体が温まってくると、ほっとして急に全身の力が抜けてしまった。

 少しのぼせはじめた頭に最初に浮かんだのは、父のことでも祖母のことでもなく、先刻、自分を助けてくれたきれいな青年のことだった。

「連絡先どころか、名前も聞けなかったな……」

 きちんとお礼をしたかったのに。もう二度と逢うことも出来ないのかもしれない。

「かっこよかったなぁ……」

 クラスでも決して華やかな部類には入らない自分には、普通に生活をしていたら、会話を交わすことさえできないタイプのひとだ。

 そんなひとと一緒に過ごせただけでも、ありがたいと思わないといけないのかもしれない。

 彼のことを、記憶のなかから消し去ろうとする。けれども、どんなに頑張っても、あの艶やかな笑顔を、忘れることができそうになかった。



 浴室から戻ると、佐和子が冷たい麦茶を用意して待ってくれていた。

「お布団、敷いたから。客間で寝てね」

 そういって案内されたのは、広々とした和室だった。柱も欄干も年期の入った飴色の輝きを放っているけれど、室内は新しい畳の匂いで満たされている。

「ゆっくりおやすみなさいね」

 去って行く佐和子を見送った後、真っ先に目に入ったのは、床の間に飾られた丸い玉だった。小振りな西瓜くらいのサイズの玉に、見事なあじさいの花が描かれている。繊細なその色使いに、栞は一瞬で心を奪われた。

「凄い。これが、弘嗣さんの描いた絵なのかな……」

 吸い寄せられるように駆け寄り、おそるおそる玉に触れる。火薬がぎっしり詰まっているのだろうか。おずおずと両手で持ち上げてみると、それは驚くほど軽かった。

「なか、空っぽなのかな……」

 もしかしたら、花火の玉を模した置物なのかもしれない。導火線を出すためのものと思しき突起もあるけれど、その突起からは線らしきものは出ていない。

 自分の顔の位置まで持ち上げて、じっと観察してみる。日本画の顔料のようなもので描かれているのだろうか。遠目に見たときにはやさしい色使いに感じられたそのあじさいは、近くで見ると花びら一枚一枚の質感さえ生々しく伝わってくるような、生命力に満ちあふれた力強い絵だった。

「こんな凄い絵を、描けたんだ……」

 この絵を描いたひとの血が、自分の身体に流れている。そのことが栞には、とてもではないけれど、信じられなかった。

 芸術家は決して世襲ではないけれど、やはり優れた絵師の血が流れていれば、それなりに適性もあるはずだ。それなのに、自分は人の心を掴む絵を描けない。そのことに、押し潰されてしまいそうだ。

「生きていたら……色々と教えて貰うことができたかな……」

 栞の脳裏に、絵画教室の先生からいわれた言葉が蘇る。

『あなたの絵には、心がないの。どんなにリアルな絵を描けたって、心のない絵は、誰の心にも響かないわ』

 先生に指摘されなくても、なんとなく自覚があった。

 自分よりもデッサン力のない子の絵でも、物凄く力強い魅力に溢れている作品は、沢山ある。人の心を鷲づかみにし、激しく揺さぶる魅力に溢れた絵。

 そう――父が描いたと思しき、このあじさいのような絵を、自分は絶対に描くことができない。

 じっとあじさいの花を眺めた後、それを、丁寧に床の間に戻す。

 手のひらが微かに震えているのがわかった。

 ごろんと布団の上に寝転がる。

 病気なのに、栞のためにわざわざ干してくれたのだろうか。ふかふかの布団からは、おひさまのとてもいい匂いがした。