花火の夜に、もう一度

 世の中には、物語の主人公になれる人間と、なれない人間がいる。

 十七歳にもなれば、栞(しおり)にも自分がどちらなのか、さすがに理解することができた。

 街を歩いていても芸能事務所のスカウトに声をかけられることはないし、模擬試験で全国上位になることもない。運動も芸術も、人より優れた特別なものなんて何もない。

 主役になれない、その他大勢。

 それでも、頑張ってめいっぱいおしゃれをして、友だちと花火大会や遊園地にでも行けば、少しは楽しい夏休みになったはずだ。

 彼氏がいなくたって、クラスの中心でキラキラ輝いている子たちのようになれなくたって、きっとそれなりに楽しい夏は過ごせたはず。

「何が悲しくて、こんな田舎に来なくちゃいけないんだろう……」

 品川駅から新幹線で一時間半。そこからさらに在来線を乗り継いで、乗り継いで、一両編成の鈍行列車に揺られること二時間。

 窓の外は延々と続く緑、緑、緑。ビルどころか、民家さえ一軒も見えない、奥深い山のなかだ。

「もう嫌。あと何駅だっけ」

 スマホで調べようとして、アンテナが一本も立っていないことに気づく。

「嘘。スマホも使えないの?!」

 思わずそう叫び、栞はおんぼろな車内に掲げられた路線図を見上げた。

「さっきの駅がここで……あと五駅もあるの?!」

 ありえない。いったい何分かかるというのだろう。乗り換え前に、トイレに行っておくべきだった。さすがにそろそろ限界だ。車両にトイレがついていないのが、たまらなく恨めしい。栞はぎゅっと拳を握りしめ、硬い座席にぐったりと脱力した。



『夏休み、おばあちゃんのようすを見に行って欲しいの』

 女子大で准教授をしている母からそう告げられたのは、今から二十日ほど前。七月の頭だった。

『おばあちゃん……? おばあちゃんって、去年、死んじゃったよね。お墓参りに行ってこいってこと?』 

 首を傾げた栞に、母はいつになく真剣な声音でいった。

『父方のおばあちゃんだよ。あなたのお父さんのお母さんがね、病気を患って困っているの』

 物心がついたときには、この家には母と栞しかいなかった。父親の話を聞いたことは今まで一度もないし、アルバムにも栞と母の写真しかない。父親というものは、栞には存在しないのだと思っていた。

 だから父親に会いたいなどと思ったことも一度もないし、それ以前に常にすっぴんでショートカット、色気のない服装で研究に没頭している母に、そんな相手がいたこと自体、驚きだ。

『私にもお父さん、いるの? てっきり精子バンクかなにかで作られた子どもかと思ってた』

 栞の言葉に、母は苦い笑みを浮かべる。その目尻に皺が寄って、「老けたな」となんとなく思った。毎日顔を合わせているからあまり気づけないけれど、栞の背が伸びるのと同じように、母は少しずつ年を取っている。若く見えるけれど、もう四十代も終盤なのだ。

『いたよ。籍は入れていないし、一緒に暮らすこともなかったけどね』

 過去形、ということは、すでにこの世にはいないのだろうか。入籍も同居もせずに子どもを産ませるなんて、いったいどんな男だったのだろう。不倫とか、遊びで抱いただけとか、そういう酷い男だったのだろうか。

『どうしてそんな男の、母親のようすを見に行かなくちゃいけないの』

『お義母さんにはね、ほかに頼れる人がいないの。あなたのお父さんは一人っ子だったし、お義父さんも他界してしまったから。本当なら私が行くべきなんだけど、どうしても仕事、休めなくてね。このとおり、お願い』

 母はそういって、拝むように両手を合わせる。

『おばあちゃんのところに行くことで、私になにかメリットある?』

『夏休みの間、おばあちゃんの家で過ごしてくれたら、あなたが欲しがっていた最新型のタブレット、買ってあげる』

 その言葉が決め手だった。私は新品のタブレットを手に、つい先日まで存在さえ知らなかった亡き父の母親のもとに行くことになったのだ。



 鈍行列車はゆるゆると山道を進んでゆく。

「まだ次の駅、着かないの?!」

 都内の電車と違って、駅と駅のあいだが物凄く遠い。このままでは、膀胱が破裂寸前だ。ガタンゴトンと揺れるたびに、逼迫したピンチが訪れる。

「あぁ、もう、なんでトイレないのよ!」

 もじもじと膝を擦り合わせ、必死で尿意をこらえつづける。

 こんなことをあと五駅分もしつづけるなんて、絶対に無理だ。

「毎度ご乗車ありがとうございます。次の駅は――」

 間延びしたしゃがれ声の車内アナウンスが流れる。祈るような気持ちで、栞は窓の外をのぞき込んだ。

 あった。駅だ。やっと次の駅に着く。

 いくら田舎の駅だって、トイレくらいあるだろう。とりあえずいったん降りてトイレを借りて、次の電車に乗ればいい。

 はやく。はやく。駅に着いて。両手を胸の前で組み、涙目になって祈りつづける。

 やっとのことでおんぼろ電車は駅に到着した。扉に駆け寄ったけれど、いつになっても開く気配がない。

「うそ、壊れてるの?!」

「ああ、ここいらの電車はな、ボタンを押さんと開かんよ」

 優先席に座っていたおばあさんが、扉の脇にある開閉ボタンを指さし教えてくれた。

「ありがとうございますっ」

 そう叫び、電車の外に飛び出す。その瞬間、鼓膜を破られそうなほど盛大な蝉の声に包まれた。ゆらりと視界が揺らぐような熱気と、むせかえるような木々の匂い。

 立ちくらみを起こしそうになりながら、周囲を見渡す。

 日よけさえない、駅名を記した看板が立っているだけの簡素なホーム。その先に、改札と思しき鉄製のゲートが立っていた。

「あっちだ!」

 よろめきながら駆け寄り、栞は絶句する。そこには切符を回収するための鉄の箱と物置きのような小屋があるだけで、駅舎が存在しなかった。

「嘘でしょ?!」

 電車に戻ろうとしたそのとき、発車を報せるベルが鳴り響く。ぷしゅーと音をたて、無情にも扉が閉まってしまった。

「どうしよう。この駅、トイレないよ……!」

 泣きそうになったそのとき、ゲートを抜けた先の雑草の生えた砂利道に、工事現場にあるような簡易トイレが置かれていることに気づいた。

 酷いにおいがするけれど、この辛さから逃れられるなら、匂いなんか気にしている場合じゃない。

 息を止め、栞はそのトイレに駆け込んだ。

 やっとのことで平穏を取り戻し、ふたたびホームに戻る。駅名看板の隣に立つ時刻表に目をやり、栞は悲鳴をあげてしまいそうになった。

 さっきの電車が、十一時二十分発。そして次の電車は、十三時三十分発。次の電車が来るまで二時間以上もある。

「こんなところで、二時間も待たなくちゃいけないの?!」

 ぐったりとうなだれ、スマホの画面を確認する。相変わらずここも圏外だ。ネットなしで二時間。いったいどうやって時間を潰せというのだろう。

 タブレットは新幹線内で使ってしまったから、すでに電池残量がゼロだ。途方に暮れた栞をあざ笑うかのように、蝉たちの大合唱が響き渡る。

「もう、やだ……」

 額をダラダラと汗が伝う。とりあえず何か飲んで落ち着こう。そう思い、仮設トイレの向かいに立つ自販機に向かったけれど、電子マネーが使えない旧式の機械だった。

「嘘でしょ。電子マネーも万札も使えないなんて。何も飲めないよ」

 ふだん電子マネーしか使わない栞は、小銭を持ち歩く習慣がない。財布のなかには、母がお小遣いとしてくれた一万円札が二枚あるだけだ。

 ぐったりと肩を落とし、栞はホームに戻った。

 バックパックを開き、スケッチブックと鉛筆を取り出す。スマホやタブレットが使えない以上、スケッチをするくらいしか、時間を潰す方法がない。

 どこまでも続く線路。生い茂る緑。改札ゲートの先になにもない、シュールな駅。いつか、なにか田舎の絵を描くときにでも使えるかもしれない。そう思い、栞は周囲の景色を描き始めた。

 栞は絵を描くのが好きだ。物心がついたときから、何にでも絵を描いてしまう子どもだった。母は栞が勉強をせずに絵を描くのを止めなかった。それどころか、休みの日には美術館に連れて行って名画を鑑賞させ、絵画教室にも通わせてくれた。

 もしかしたら、芸術家にさせるつもりだったのかもしれない。けれども、どれだけ描いても、栞はあまりよい絵を描けるようにはならなかった。

 デッサン力がないとか、そういう問題ではない。栞の描く絵には、華がないのだ。美大進学を考えたことがないわけではないけれど、絵で食べていけるとは、とてもではないけれど思えなかった。

 プロにはなれない。そのことが分かっていても、描くことをやめられるわけではない。

 絵を描くのは趣味にして、普通に大学に入って、普通に就職しよう。そう思い、高校もそこそこのレベルの進学校を選んだ。

 集中して鉛筆を走らせているうちに、意識が朦朧としてきた。ぐにゃりと視界がゆがむ。まずい。そう思ったときには、鉛筆が地面に転げ落ちていた。すうっと目の前が暗くなる。どうにかしなくちゃ――そう思ったけれど、脱力する身体をどうすることもできず、栞は意識を失ってしまった。



 

「おーい、大丈夫ー?」

 遠くで誰かの声がする。身体にジンと響く、低くて甘い声だ。かっこいい声だなぁと思い聞き惚れていると、額に冷たいなにかを押し当てられた。

「ひぁっ!」

 慌てて目を見開くと、すぐそばに薄茶色の瞳があった。

 長いまつげに覆われた、大きな瞳。栞と目が合うなり、すっと優しく細められる。

「よかった。意識が戻ったようだね。――起き上がれるかい」

 手を差し出され、おずおずとその手に触れる。白くてほっそりした手のひら。触れると、驚くほど冷たかった。

 きゅ、とその手を掴むと、しっかりと握りかえしてくれる。細いのに、思いのほか力が強いようだ。もう片方の手で背中を支えるようにして、抱き起こされた。

 ふわりと、変わった匂いが鼻先をくすぐる。なんの匂いだろう。どこかで嗅いだことがあるような気がするけれど、思い出せない。

 まばゆさに瞬きを繰り返し、目の前の男の姿を見あげてみる。

 面長の優しげな顔だちに、透き通るように白い肌。男性にしては少し長めの色素の薄いさらさらの髪に、鼠色の作務衣をまとったそのひとは、思わず見惚れてしまうほど、美しい顔だちをしていた。

「ぁ……っ」

 かっこいい男のひとに抱き留められている。その事実に気づき、慌てふためいて身体を離そうとする。

「危ない!」

 ベンチから転げ落ちそうになった栞を、彼はますます強く抱き留めた。細身に見えるその身体は、思いのほか逞しい。すらりと長い腕や華奢に思えた胸がしっかりとした厚みのある筋肉に覆われていることに気づき、かぁっと栞の頬が熱くなった。

「だ、大丈夫、です。大丈夫ですからっ……」

 慌てて身を離そうとした栞に、彼は心配そうな顔を向ける。

「本当に大丈夫? 救急車、呼ばなくていい?」

「呼ばなくて平気です! 救急車なんて、必要ないです」

 さりげなく彼の手を退け、彼との距離を広げる。改めて見ると、とてつもなくきれいな人だ。百八十センチ以上あるだろうか。すらりとした長身に、驚くほど長い手足。顔がとても小さくて、直視するのをためらうくらい整っている。寂れた田舎町には不釣り合いな、垢抜けて洗練された容姿だ。

 剃り残しどころか毛穴さえまったく存在しないように感じられる、透明感溢れる肌。中性的な顔だちをしているのに、作務衣からのぞく形のよい鎖骨や筋張った手のひらは男らしくて、そのギャップが妙になまめかしく感じられる。

 こんなにきれいな男性は、ネットやテレビ、雑誌でも一度も見たことがなかった。

「これ、飲みなよ。最近の暑さは異常だからね。若い子でも熱射病で死んでしまうこともあるんだよ」

 差し出されたペットボトルを、おずおずと受け取る。まばゆい夏の日差しにキラキラ光る水滴をまとったスポーツドリンクは、からからに喉が渇いているせいか、今までに飲んだどんな飲み物よりもおいしく感じられた。

「これ、きみが書いたの?」

 地面に落ちたスケッチブックを拾い上げ、彼は栞の瞳をのぞき込む。

 あまりにもまっすぐなその眼差しに、どうしていいのかわからず、栞は狼狽えた。

「は、恥ずかしいです。あんまり、いい絵じゃないからっ……」

 慌ててスケッチブックを取り上げた栞に、彼は穏やかな声音でいった。

「いい絵かどうかは、描いた本人じゃなく、その絵を見た人が決めることだよ。――僕には、とてもいい絵に見えるけどな。派手さはないかもしれないけれど、優しくてあったかな、素敵な絵だ。僕は、きみの描く絵が好きだよ」

 お世辞でいってくれているだけだと思う。そのことが分かっていても、ばくばくと心臓が暴れて、どうにもできなくなる。

「きみ、この辺の子じゃないよね? ひとり旅かい?」

「いえ……祖母に、逢いに来たんです……。あ、電車っ……」

 慌ててスマホの時計を見ると、一時四十分だった。意識を失っている間に、貴重な電車が行ってしまったようだ。

「どうしよう。電車、行っちゃった……」

 途方に暮れた栞に、彼はにっこりと笑顔を向ける。

「このまま放っておくのは心配だし、車で送ってあげようか」

「いえ、そういうわけにはっ……」

 否定したけれど、彼は栞の荷物を拾い上げ、素早く肩に担いでしまう。

 知らない男の人の車に乗るなんて、危険すぎる。そう思う反面、こんなにもかっこいい男の人が、自分なんかに手を出すわけがないという確信が頭をよぎる。

「立てないのなら、おんぶするけど?」

「や、だ、大丈夫ですっ!」

 差し出された手から慌てて身体を離し、栞はいそいそと立ち上がった。
 こんなにもかっこいい人なのに。彼の車は軽トラックだった。おんぼろな軽トラックのボディには、七星煙火工業と書かれている。高級外車が似合いそうな彼の麗しい容姿と軽トラックのギャップが、なんだかとても変な感じだ。

 思ったよりも座席の位置が高い。よじ登るようにして、栞は助手席に座った。

「シートベルト絞めた? じゃあ、行こうか」

 エンジンをかけると、カーステレオから夏らしい爽やかな洋楽が流れてくる。栞の知らない曲だ。声も、聞いたことがない柔らかな男性の声。もしかしたら、少し古い曲なのかもしれない。

「きみが今から逢いにいくのは、七星村(ななほしむら)の米穂佐和子(よねほ さわこ)さんで間違いないかな」

「え……?」

 祖母のことなど、まだ何も話していないのに。どうしてわかるのだろう。

 怪訝に思い首を傾げた栞に、彼は穏やかな声音でいう。

「佐和子さんが、今年の夏は孫が逢いに来てくれるんだって、凄くはしゃいでいたから。それに――きみは、きみのお父さん、米穂弘嗣(ひろし)さんにそっくりだ」

「父を、知っているんですか」

 唐突に出てきた父の名前に、栞はぎゅっと拳を握りしめる。

「小さな村だし、きみのお父さんは有名な花火絵師だったからね」

「はなびえし?」

 初めて聞く単語だ。聞き返した栞に、彼はやさしく教えてくれた。

「打ち上げ花火っていうのは丸い玉のような形をしているんだけれど、この地方では神社に奉納する花火の玉に絵を描く習わしがあってね、その絵を描く職人のことを、『花火絵師』と呼ぶんだよ。佐和子さんの家には、今も彼が遺した作品が飾ってあるから、見せて貰うといい。とてもよい絵を描く職人さんだったんだよ」

 父が絵を描く人だった。その事実に、栞は戸惑わずにはいられなかった。

「僕が作った花火に、彼が絵をつけてくれたこともあったんだ。凄くきれいな、あじさいの絵だった。今でもはっきり覚えているよ」

「父は、最近まで生きていたんですか?」

 彼が幾つなのかわからないけれど、おそらく二十代前半くらいだろう。その彼の作った花火に絵を描いたというのだから、最近の出来事なのではないだろうか。

「いや。弘嗣さんは、十七年前に亡くなったよ。僕が叔父から、今の役目を継いだのがちょうど十七年前だったから。彼の最後の仕事は、僕の作った花火への絵付けだったんだ」

「あなたは、花火職人さんなんですか」

「主に神社に奉納する花火を作っている、職人だよ。今は『迎え人』も担っている」

 むかえびと。なんのことだろう。よくわからないけれど、ちょっと意外だ。普段は都会でモデルをしていて、たまたま田舎に遊びに来ているだけ、そういわれても信じてしまいそうな外見なのに。片田舎の村で職人として働いている人にはとてもではないけれど、見えそうにない。

「七星では夏のあいだ、毎週水曜日に奉納の花火を上げるんだ。数は少ないけれど、どれも職人が丹精こめて作った自慢の一品だ。とてもきれいだから、よかったら水曜日は夜空を見上げてみて。ちなみに花火の上がる日、神社の境内には毎回、夜店が出るよ」

「毎週、ですか?」

「うん。七月と八月は、毎週欠かさずに出るんだ」

 何の娯楽もない田舎町だと思っていたけれど、毎週夜店があるなんて、ちょっと楽しそうだ。大した規模ではないだろうけれど、田舎の神社に並ぶ屋台なら、少し寂れている方が風情があっていいかもしれない。

 五駅も先だから、当分たどり着けないのかと思ったのに、その駅から七星村までは、曲がりくねった急な坂道を登ると、意外と近かった。

「ついた。ここだよ」

 そういって彼が指さしたのは、山間にある集落の外れに建つ、一軒の古い民家だった。石垣に囲われた広々とした敷地に、立派な日本家屋が建っている。緑の溢れる庭先には、都内ではすっかりしおれてしまったあじさいが色とりどりの花を咲かせていた。青、紫、薄紅、濃淡さまざまな花が咲き乱れるさまは、うっとり見惚れてしまうくらいに美しい。

「まだあじさいが咲いているんですね」

「この地域は平野部と違って、あじさいが花をつけるのが遅いんだ。七月いっぱいは咲き続けるよ」

 花火の玉にあじさいの絵を描くなんて不思議だったけれど、この地域ではあじさいは初夏の花として親しまれているようだ。

「そのぶん、朝顔やひまわりは少し遅くて、八月に入るとようやく咲き出す感じかな」

 さっき栞が倒れた駅よりも、ここはかなり高度が高いようだ。蝉の声も、心なしか涼やかに感じられる。

「ごめんくださーい。佐和子さん、お孫さん、お連れしましたよー」

 彼が声をかけると、小柄な女性が駆け寄ってくる。おばあちゃんという言葉から栞が想像していたよりも、かなり若々しい女性だ。顎の辺りで切りそろえたボブヘアと、くりっと大きな瞳。栞を見るなり、感極まったように抱きついてくる。突然、初対面の人に抱きつかれ、栞はどんな反応をしていいのかわからなくなった。

「あ、あのっ……」

 ぐずっと彼女が鼻をすする音が聞こえる。泣いているのだと気づき、栞はさらに困惑した。

「――今日から、お世話になります」

 ぺこりと頭を下げた栞を、彼女はぎゅーっと抱き締める。

「ありがとう。来てくれて、本当にありがとう」

 泣きじゃくる佐和子に躊躇いながらも、栞はポケットからハンカチを取り出して差し出す。彼女は泣き笑いの顔で「ありがとね」といってくれた。

「それじゃ、僕はこの辺で、失礼します」

「あ、待って――ジュース代っ……」

 引き留めようとしたけれど、花火職人の青年はひらりと手を振って玄関を出て行ってしまう。名前すら聞くこともできないまま、栞は彼を見送ることになった。
「よく来たねぇ。東京からじゃ、遠かったでしょう」

 机の上に、ずらりと並ぶごちそう。もしかしたら朝からずっと、支度をしてくれていたのだろうか。チューリップの唐揚げに、ハンバーグに海老フライ、彩り鮮やかなサラダに、いなり寿司に巻き寿司、だし巻き卵。ちいさな子どもの好きそうな料理に偏っている気がしなくもないけれど、おいしそうな料理が所狭しと並んでいる。

 どう考えても二人で食べきれる量ではないけれど、逢ったこともない孫娘を精いっぱい歓待してくれているのだということだけは、しっかりと伝わってきた。身体の具合は大丈夫なのだろうか。病気の佐和子に無理をさせてしまったかもしれない。

「ありがとうございます。凄いごちそうですね」

「暁美(あけみ)さんから、栞ちゃんは唐揚げが好きだって訊いたから。好みに合うといいんだけどねぇ」

 暁美というのは、栞の母親のことだ。嬉しそうにニコニコと微笑む彼女は、母とどれくらい交流があるのだろう。色々と聞いてみたい気もするけれど、なんとなく触れるのが怖い。

 栞はあえて何も聞かず、「いただきます」と手を合わせた。ふだん、唐揚げといえば我が家の食卓では駅地下の唐揚げ専門店で購入してきた唐揚げのことを指す。多忙な母は家では揚げ物をしないし、栞も怖くて出来ないため、久し振りに食べる揚げたての唐揚げは、とてもおいしく感じられた。さっくりとした衣の下から、しっかりと下味のついたジューシーな肉が現れる。口いっぱいに広がるうま味たっぷりの肉汁に、今日だけはカロリーのことは忘れてしまおうと栞は思った。

「おいしい!」

「よかったわ。最近の若い子が、どういうものが好きなのか、さっぱり分からなくて。弘嗣は小食だったしねぇ」

 突然出てきた父の名前に、思わず箸が止まる。佐和子の瞳が、微かに潤んでいるのがわかった。

「私……弘嗣さんに似ていますか」

 お父さん、とは呼べなかった。ぎこちなく訊ねた栞に、佐和子は言葉を詰まらせる。

「――もし、嫌じゃなかったら、後でお線香あげてね。あの子の写真、仏間に飾ってあるから」

 自分の身体の、半分をかたちづくる人。

 その人が今はこの世に存在しないのだと思うと、なんだかちょっと不思議な感じだ。生きていたら、母と同じくらいの年令だったのだろうか。

 どうして亡くなったのかわからないけれど、若くして亡くなるのは、きっと本人も遺された家族も、とても辛いだろう。

 しんみりしてしまった食卓。どうしていいのかわからず、栞はいなり寿司を頬張り、「こんなにおいしいいなり寿司、初めて食べました!」とできる限り明るい声で叫んだ。

「そう? そんなふうにいってもらえると、本当に嬉しいわ。この辺りはね、お揚げを甘めに煮て、なかを具だくさんにしたいなり寿司が主流なの」

 佐和子のいうとおり、じゅわっと甘いタレがしみ出す揚げのなかには、人参や椎茸、胡麻がたっぷり混ぜ込まれた酢飯がふんわり優しく詰まっている。

「すっごく好きな味です」 

 そう告げると、佐和子は目に涙を浮かべて、顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。

 

 夕飯を食べ終わると、風呂に入るように勧められた。

 佐和子は食後にたくさん薬を飲んでいたけれど、肌つやもよく、日常生活に困るほどの重病ではなさそうに見える。とはいえ、これだけ広い家だ。明日以降、風呂掃除や庭の手入れなど、手伝えることは手伝うべきだろう。

 浴室は大きな檜風呂で、扉を開けるなり森のようないい香りがしてきた。

「凄い、おっきい……」

 手足を伸ばして入れるお風呂なんて、いったいいつ振りだろう。

 感動しつつ、熱めのお湯に浸かる。初めての祖母との対面で、緊張していたのだろう。身体が温まってくると、ほっとして急に全身の力が抜けてしまった。

 少しのぼせはじめた頭に最初に浮かんだのは、父のことでも祖母のことでもなく、先刻、自分を助けてくれたきれいな青年のことだった。

「連絡先どころか、名前も聞けなかったな……」

 きちんとお礼をしたかったのに。もう二度と逢うことも出来ないのかもしれない。

「かっこよかったなぁ……」

 クラスでも決して華やかな部類には入らない自分には、普通に生活をしていたら、会話を交わすことさえできないタイプのひとだ。

 そんなひとと一緒に過ごせただけでも、ありがたいと思わないといけないのかもしれない。

 彼のことを、記憶のなかから消し去ろうとする。けれども、どんなに頑張っても、あの艶やかな笑顔を、忘れることができそうになかった。



 浴室から戻ると、佐和子が冷たい麦茶を用意して待ってくれていた。

「お布団、敷いたから。客間で寝てね」

 そういって案内されたのは、広々とした和室だった。柱も欄干も年期の入った飴色の輝きを放っているけれど、室内は新しい畳の匂いで満たされている。

「ゆっくりおやすみなさいね」

 去って行く佐和子を見送った後、真っ先に目に入ったのは、床の間に飾られた丸い玉だった。小振りな西瓜くらいのサイズの玉に、見事なあじさいの花が描かれている。繊細なその色使いに、栞は一瞬で心を奪われた。

「凄い。これが、弘嗣さんの描いた絵なのかな……」

 吸い寄せられるように駆け寄り、おそるおそる玉に触れる。火薬がぎっしり詰まっているのだろうか。おずおずと両手で持ち上げてみると、それは驚くほど軽かった。

「なか、空っぽなのかな……」

 もしかしたら、花火の玉を模した置物なのかもしれない。導火線を出すためのものと思しき突起もあるけれど、その突起からは線らしきものは出ていない。

 自分の顔の位置まで持ち上げて、じっと観察してみる。日本画の顔料のようなもので描かれているのだろうか。遠目に見たときにはやさしい色使いに感じられたそのあじさいは、近くで見ると花びら一枚一枚の質感さえ生々しく伝わってくるような、生命力に満ちあふれた力強い絵だった。

「こんな凄い絵を、描けたんだ……」

 この絵を描いたひとの血が、自分の身体に流れている。そのことが栞には、とてもではないけれど、信じられなかった。

 芸術家は決して世襲ではないけれど、やはり優れた絵師の血が流れていれば、それなりに適性もあるはずだ。それなのに、自分は人の心を掴む絵を描けない。そのことに、押し潰されてしまいそうだ。

「生きていたら……色々と教えて貰うことができたかな……」

 栞の脳裏に、絵画教室の先生からいわれた言葉が蘇る。

『あなたの絵には、心がないの。どんなにリアルな絵を描けたって、心のない絵は、誰の心にも響かないわ』

 先生に指摘されなくても、なんとなく自覚があった。

 自分よりもデッサン力のない子の絵でも、物凄く力強い魅力に溢れている作品は、沢山ある。人の心を鷲づかみにし、激しく揺さぶる魅力に溢れた絵。

 そう――父が描いたと思しき、このあじさいのような絵を、自分は絶対に描くことができない。

 じっとあじさいの花を眺めた後、それを、丁寧に床の間に戻す。

 手のひらが微かに震えているのがわかった。

 ごろんと布団の上に寝転がる。

 病気なのに、栞のためにわざわざ干してくれたのだろうか。ふかふかの布団からは、おひさまのとてもいい匂いがした。

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