急いで着替えを済ませて教室へ戻ると、まだ誰もが興奮冷めやらぬ感じで盛り上がっていた。

1番、苦手な雰囲気かも。

ウチのクラスはサッカーチームが優勝したらしく、その武勇伝を語る男子達の声が響いている。

「まず俺がコーナキックから一点決めたんだ」

一際目立つ大きな声で話しているのは、私を絵描きマンと言い放った彼だ。開会式ではあんなにダルそうだったのに。ほんと、分かりやすいんだから。

「ウチらもさ、一回戦は勝ったんだよねー?虹!」

「ああ、うん」

奥本くんの後ろの席の女子が、急に私に振るから一瞬焦ってしまう。近くには私しかバレーボールに出た子はいないから仕方なく、だけど。

「私、運動苦手だからさぁ。めっちゃ緊張したよ、ほら、腕が真っ赤!」

「うん、私も」

運動苦手、緊張もしたし、腕も真っ赤。一緒だよ。

「ホント、虹も真っ赤!虹は絵描いてるイメージしかないからなぁ、意外によく動いててびっくりしたよ」

「へぇ、そうなんだ」

自分の武勇伝の話しが逸らされてしまい、若干不服そうな奥本くんが適当に相槌をうっている。

こんな風に私の話題が会話に出てくるのはこのクラスでは初めてかもしれない。一応、褒めてくれてるみたいだし。
クラスで私に話しかけてくるのは、席が近いこの木下さんくらいだ。

別にいじめられているわけではないし、無視されているわけでもない。

ただ何となく馴染めず浮いている、何を考えていのか分からない。きっと私はそんな存在だ。

ほら、もう2人は私のことなんか忘れて違う会話をしている。

どうせまた、くだらない動画の話しでもしてるんだろう。私には何が面白いんだかさっぱりわからないけれど。


私はまた1人。


1人に慣れてしまったのか、さっきみたいに突然話しかけられると戸惑ってしまう。だから相手が満足するような言葉が出てこない。

だから、誰も私に話しかけて来なくなる。

そんな感じで、いつの間にか1人が楽になっていた。ヘタにコミュニケーションを取り嫌われるより、マシ。

こんな時私がすることはタブレットをいじることか、絵を描くこと。

今は描きかけのデッサンがあったことを思い出し、机の中のスケッチブックを取り出す。

柔らかめの鉛筆を画用紙の上にすべらせると、その滑らかな感触が腕から伝わってくる。

集中すると、スッスッスッと流れるように手は動く。スッスッス……ふと気がつくとその手の動きは止まっていた。


そうだ……そうだよね。何でこんなことに気づかなかっんだろう。

私が絵を描くことが好きだなんて、きっとこのクラスの誰もが知っている。

私を絵描きマンだと言った奥本くんが特別なわけじゃない。

私はいつでもここでこうして絵を描いているんだから。


やっと帰りの学活も終わり、私は急いで美術室へと向かう。先生の話しがいつもより長かったから少しイライラしていた。

美術室のドアはいつものように重く、ガラガラと大きな音を立てて私を中へと導いてくれる。

そこには、先輩が何人かと、一年生の女子が2人、道具も出さずに座ってしゃべっていた。

人数の少ない部活らしく、上級生との壁はあまりない。

部活に来ているならしゃべってないで絵を描いたらいいのに。そうは思うけど、もちろん声には出さない。

「おはようございまーす」

私が入って来たことで、一瞬だけその会話がとまる。

みんなは一斉に挨拶を返してくれるが、次の瞬間にはまた、たわいない会話の世界へと戻ってゆく。

私はというと。

そんな会話には目もくれず、いつもの指定席へ。

窓際の1番後ろ。

一階にある美術室は運動場に面していて、私の位置からはよく見渡せる。見渡せると言っても、私は何かを見ているわけでもなく、ぼうっとただ、なんとなく眺めてるだけだ。

でも、日差しの輝きや木々の緑。

サッカーだか野球だかの部活の掛け声。晴れている日は特に、そこに座って外を眺めながら絵を描くのが好きだ。
外を見ながら。

そうは言っても、私が描く絵は風景画でも、練習に励む生徒達の人物画でもない。

私はいつも、私の気持ちを絵にする。


その中に太陽のようなものや花のようなもの、泣いているような顔が描かれることもある。

他の部員は、何かテーマを決め、モチーフを元に描いていることが多い。私も絵を描き始めた頃はそうだった。

でも私の絵は特に、気持ちよって色やタッチが変わってくる。

昨日の穏やかな気持ちの時のタッチと、今日の悶々とした気持ちの時のタッチが全然違ってしまうのだ。そうなると、自分の思い描いていた仕上がりにはならない。

それが嫌で、結局抽象画に落ち着いた。

自由な抽象画だと、タッチや色の違いが気にならないのだ。むしろそれがよい味となったりもする。

イーゼルにキャンバスを乗せ、まずは昨日までに仕上げた部分を確認する。

油絵ではなく、アクリル。その鮮やかな色が所狭しと私に迫ってくる、元気のよい絵だ。

うーん……。

私にしては原色に近い色使いが多い。きっと、気分が良かったのか、元気をつけたかったのか。

まだ絵の具の乗っていない真っ白な部分に気持ちを集中させる。

素直に、自分の気持ちに任せて。
今日はあまりいい気分ではない。

そりゃそうだ。嫌いな運動をさせられて、奥本くんにはからかわれて。

どうでもいい相手だと分かっているのに、あんなちょっとしたことを今になっても気にしている自分がイヤで。

大好きな青い色を何色か混ぜ合わせ水をたっぷり含ませた筆に取る。それを真っ白なキャンバスに。何の色もなかったそこには、グラデーションのように複雑な青の太い線が現れる。

うん、やっぱり今日の気分は複雑だ。

何度か同じ色の線が描けた時。

ガサガサと外から聞こえる音。おそらくここまでボールを飛ばしてしまった上手いのか下手なのか分からないサッカー部か野球部が、ボールを取りに来たんだろう、よくあること。

それでも、今日みたいな日はそんなことで集中が途切れてしまう。

ふぅ、とため息をひとつついて筆を置く。


「その青、すごく綺麗」


私の集中が切れたのが分かったのだろう、いつのまにか隣でデッサンをしていた朱里が、今描いたばかりの青い線を指差して言う。

「ああ、うん」

そういう朱里のキャンバスには、真ん中に大きな魚が描かれている。一瞬、えっ魚?と思ったが突っ込んで聞くのはやめる。

彼女も可愛らしい見た目とは違って、なかなか癖のある絵を描く。それにももう慣れたし。なにしろ私は、彼女の描く絵が大好きだ。

こうした、お互いを理解してるからこその距離感が心地よい。
朱里とは中学の美術部で出会った。朱里は明るくて誰とでもすぐに仲良くなれる。それなのに、朱里はいつも私の隣りにいた。私の描く絵が素敵だと、言ってくれた。

クラスではボッチだけど。部活に行けば大好きな絵を描ける。大好きな朱里に会える。私は絵と、朱里のおかげで、中学生活を乗り越えられた。

そして、なんだかんだで高校も同じで、琥太郎というオマケまで付いてきて。相変わらずのコミュ障だけど、入学からもう少しで2ヶ月経つけれど、大きな不安もなく高校生活を送れている。

「どうした?珍しく筆が進んでませんな」

言われて初めて気付く。今日はまだ青い色しか使ってない。

「ん?そうだね、何でかな」

青い色は眩しくて。真っ直ぐに引かれた線がまるで長方形に切りとられた海のように見える。

もう一本線を足して正方形にしてみようかと筆を取ったが、やめた。無理矢理描いたものはやっぱり、後々後悔することが多いから。

諦めて筆を置いた時。ドンドンと窓を叩く音がする。

のぞいていたのは琥太郎だった。

朱里が面倒くさそうに立ち上がり窓を開ける。

「朱里、水分が足りねー。何か買ってきて」

暑さで少しバテた様子の琥太郎。

「は?何?あたしパシリ?」

「ごめんって、何でもいいからさ、頼むよ」

朱里はぶつぶつ言いながらも財布を取り出して部室を出て行く。
2人の息の合った会話が好きだ。

2人は幼稚園からの幼馴染で、腐れ縁、なんてお互い言ってるけど。なんだかんだでいつも一緒にいるし、朱里に彼氏ができた時もその関係はあまり変わらなかった。

「どした?虹。描かないのか?調子悪い?」

いつもなら琥太郎が訪ねてきたことも気にせずに描き続けていることが多い私。

「ああ、うん。今日はちょっと……」

「球技大会で張り切りすぎたか?」

張り切るわけ、ない。手は抜いてないけど。

「相変わらず何描いてんのか分かんねーけど。その青、スッゲーいい色だな」

窓の桟に腕を乗せこちらを覗いている琥太郎を見る。ディスられてるのか褒められてるのか微妙なとこだけど。

その背後には透き通るような青い空が広がり、琥太郎の野球帽の上に乗っかっているように見える位置にある小さな雲。まるで窓枠によって切り取られた絵のようで。

「あはは、頭に雲乗っけてる」

「は?」

琥太郎は不思議そうな顔をして帽子を取り頭を払っている。

「くくくっ」


「どうした?何かおかしい?」

いつのまにか戻って来ていた朱里が琥太郎にペットボトルの水を渡しながら私に聞く。

「いや、大したことじゃない」

「ふーん……あ、虹も飲む?」

差し出されたオレンジジュース。

「うん!ありがとう」
「ぷはぁ!あー生き返った!」

窓の外からは琥太郎の大きな声。静かな美術室に響く。他の人には少し迷惑だけど、誰も気にする人はいない。そんな部活だから、私も気兼ねなくやっていけるんだろうな。

「だからさ、今日は水分多めに持って来なって言ったじゃん」

クルリと琥太郎の方を向き、いつものお説教。ほら、始まった。

「持って来たさ。でも足りなかったんだよ」

「甘いんだよ。球技大会ナメてんの?」

「いや、ナメてないけど……来年はちゃんと持って来るって」

まるで夫婦だな。いや、親子?

そんなテンポのいい会話を聞いていると、いつのまにか私の手は絵の具を取り、明るいオレンジをパレットに乗せていた。

さっき塗った青い長方形の周りをぐるりと囲むように丸く描くオレンジ。

そう。私の少しくすんだ気持ちを暖かな笑顔で包んでくれた2人。まるで太陽のように。

「お!調子戻ったみたいだな」

「うん、だね」

「じゃ、俺戻るわ、サンキューな!」

そんな2人のやり取りも気にせず私は、いつものように筆を動かす。

その後も薄暗くなり、部活の最終時間になるまで、時々朱里と言葉を交わしながら描き続けた。

私の、大切な時間。

「さ、帰るよ虹」

そう言って笑顔を見せる朱里の髪が、夕日にあたってオレンジ色に見える。


「ご馳走さま」
晩ご飯を食べ終え、食器をキッチンのカウンターに乗せると。

「ねーちゃん、俺が先に飯食い終わったからサッカーの試合見るからな」

リモコンを片手に小6になったばかりの弟がドヤ顔で言う。

小さい頃はよく、テレビの取り合いでケンカもした。今でもたまにはあるけれど、もう面倒だから弟に譲ることが多くなった。

「はいはい、どうぞ。私は宿題するよ」

やったーという弟の声を聞きながら私は自分の部屋に向かう。弟よ、おまえは勉強しなくて大丈夫なのか?

そうは言ったものの、タブレットの画面に複雑に並ぶ英語を見ていると、頭がクラクラしてくる。

勉強は苦手じゃない。特別成績が良いわけではないが、普通レベルにはこなしている。

やっぱり今日はなんだか調子が良くないな。

英語の問題は諦めて、私は学校専用アプリのSNSを開く。

うちの学校では生徒1人1人、専用のタブレットを使って授業を行っている。

教科書はほぼ、このタブレットに内蔵されている。今日も英語の授業で課題が出され、明後日までにそれを解いて送らなければならない。

今どきの授業方法に最初はみんな戸惑ったけど、今では先生の方が生徒に教えてもらっていたりするだから、やっぱり私たちは今どきの若者なんだろう。

パッと明るなった画面には、その日に呟かれたいくつかの投稿が見える。