「ふ……藤原……くん」
藤原くんの黒目がわたしの声に反応して左右に動いた。
まるでその声の主を探しているみたいに。
「……藤原くん……」
もう一度名前を呼ぶと、わたしの目から大粒の涙が溢れた。
藤原くんは顔を動かさずに黒目だけを動かしてゆっくりとわたしを見た。
目が合った。
ゆっくりと数回瞬きをしたあと、藤原くんは再び目をつぶってしまった。
「藤原……くん?」
心配になって藤原くんの顔を覗き込んだ時、藤原くんの目尻から一筋の涙が流れた。
その途端、体の奥底から沸き上がってきたのは感謝の気持ちだった。
「藤原くん……生きていてくれて……ありがとう」
わたしの言葉に藤原くんが再び目を開けた。
そしてわたしの方に視線を向けると、藤原くんは優しく微笑んだ。
「よかった……。本当に……よかった……」
まだ意識が鮮明ではないのか再び目をつぶってしまった藤原くん。
わたしは慌てて藤原くんの頭のそばにあるナースコールを鳴らして叫んだ。
「意識が……意識が戻りました!!」
意識が戻ってから1週間ほどで藤原くんは無事に退院した。
頭を強く打っていたものの後遺症などもみられなかったのは不幸中の幸いだ。
退院後、初めて教室に入った藤原くんはみんなに取り囲まれた。
お祭り騒ぎのどんちゃん騒ぎ。でも、その中には涙を流して喜んでいる子もいた。
藤原くんと一番仲の良い男の子がこっそり人目につかないように目に浮かんだ涙を拭っていたのも知っている。
藤原くんの人望を改めて見せつけられた気がする。
でも、みんなの輪の中にいる藤原くんの幸せそうな笑顔になぜかわたしまで無性に嬉しくて幸せな気持ちになった。
「暑くて溶けそう。まだ梅雨明け前だって言うのになぁ~」
藤原くんとわたしは放課後、揃って緑が丘公園へやってきた。
大きな桜の木の下の芝生の上に座りながらコンビニで買ってきたアイスクリームを食べ終えた藤原くんが大きく背伸びをする。
「明日から忙しくなるなー。今度のイラストは何がいいかな。やっぱ次は犬?」
わたしはにこりと笑って答えた。
「また猫でいいんじゃないかな?」
わたしはあの日以来、藤原くんとこうやって言葉を交わせるようになった。
でも、それは藤原くん限定。
しかも、一度教室内に入ってしまうと藤原くんとすら言葉を交わせなくなってしまう。
わたしの心の中のトラウマはまだ完璧には取り払われていない。
でも、わたしはしっかり前を向いている。
出来ないことを出来ないと嘆くのではなく、出来ることを出来ると認めてあげよう。
わたしはもう斜め45度に視線を落としたりしない。
「だなー。前の猫、メチャクチャ好評だったもんな~!」
得意げに鼻を鳴らす藤原くんがおかしくてくすりと笑う。
好評、とはまた違うかもしれないけど。口には出さずに心の中で呟く。
藤原くんとわたしは次号の図書館だより作りに立候補した。
明日から再び慌ただしい毎日が訪れるだろう。締め切りのことを考えるとちょっとだけ胃がキリキリしてくる。
「あの、さ」
わたしは思い切ってこう切り出した。
「ん?」
「わたしのこと……助けてくれて本当にありがとう。そのせいで藤原くんが苦しい思いしちゃったよね……。本当にごめんね」
藤原くんが退院した後、なんとなく言いそびれてしまっていた言葉。
わたしは藤原くんにビルから飛び降りて自殺する自分の姿を見たことを話した。
「わたしが自殺すること知ってたんだよね?だから、藤原くんは始業式の日に声をかけてきてくれた。そうだよね?」
わたしの言葉に藤原くんはうなずいた。
「あぁ。春休みに結衣が自殺する夢を見た。結衣のことは知ってたし、最初は戸惑ったけど……救いたいって思った。だから、始業式の日からできるだけ声をかけようって決めた。それで自殺を思いとどまってほしいって思ったから。でも、一緒にいればいるほど、俺は純粋な結衣に惹かれて……。結衣に笑顔も見られるようになったし、少し安心してた。きっと28日が来ても結衣は自殺なんてしないって」
「でも……、その夢が変わったの……?」
「あぁ。結衣と遊んだ日の夜にまた夢を見たんだ。その夢では工事用の足場が崩れて俺が巻き込まれてた。それで悟ったんだ。俺は4月28日に死ぬって。でも、結衣を救えるならそれでいいと思った。でも、残された結衣の気持ちを考えるとこれでいいのかって悩んだりもして……。だから、距離を置こうって考えた。でも、それが正解なのか俺にも分からなくて。余計に結衣を苦しめている気もして……」
藤原くんのおばあさんがいっていた。
藤原くんは不器用だって。藤原くんは何でも器用にこなすと思っていたけど、藤原くんも悩んだり迷ったりすることもあるんだ。
「でも、俺は自分の命にかえてでも結衣を守りたいって思った。だから、俺が死ぬ日は29日だって結衣に嘘の日を伝えた。28日だって本当のことを言えばきっと結衣はずっと俺と一緒にいるって言うだろうって思って。嘘ついてごめん」
そう言って謝る藤原くんにブンブンっと首を振る。
「謝らないで?わたしこそ藤原くんに辛い想いをさせてごめんね?」
わたしが知らないところできっと藤原くんは押しつぶされそうな不安や苦悩を抱えていたんだろう。
それに気付いてあげられなかったことに心が痛む。
「でも、結果的に俺達は今もこうやって生きてる」
「うん。そうだね」
「俺達にこれからできることは一日一日を大事に生きることかもな」
藤原くんの言葉に胸の中に染み込んでいく。
きっとそうだね。わたしはこれからを大切に生きる。
生きていることに感謝しながら。
二人そろって空を見上げていられる今この瞬間にもちゃんと感謝しよう。
「夏になったら何する?海?プール?」
「その前にタピオカミルクティー」
「あぁ、そっか。約束してたもんな。で、そのあと映画観に行って結衣の家で夕飯をごちそうになるんだよな」
「そこまで覚えててくれたの?」
「当たり前。楽しみなことはちゃんと覚えてるから。で、いつにする?」
藤原くんの言葉にうーんっと考え込む。
明日からは忙しくなるし、しばらくは無理かもしれない。
「善は急げ、だな」
藤原くんはそう言うとスッと立ち上がった。
「えっ?」
藤原くんにつられて立ち上がる。
「今から行けばいいんじゃん!タピオカミルクティー飲んでから映画館に行く。結衣の家には突然行くと迷惑だし今度にしよう」
「うちはたぶんいつでも喜ぶと思うけど……」
『藤原くんといつ会わせてくれるの?』
と母に耳にタコができそうなぐらい何度もそう聞かれた。
「マジで?じゃあ、今日は結衣の家にお邪魔しよう」
ニッと子供のように笑った藤原くんにわたしも微笑む。
そのとき、「あっ」と藤原くんが声をあげた。
「どうしたの?」
「いや、俺、一番大切なこと結衣に言ってなかった」
「大切なこと?」
「そうそう」
大切なことって、いったいなに?
首を傾げて藤原くんの言葉の続きを待つ。
「結衣」
「なに?」
真っすぐわたしを見つめる藤原くんの顔から笑みが消える。
「俺、結衣が好きだ。俺と付き合ってください」
藤原くんの言葉に心が震える。
わたしは真っ直ぐ藤原くんの目を見つめ返して微笑んだ。
数か月前のわたしだったらこうやって藤原くんのことを見つめ返すこともできなかっただろう。
でも、今のわたしは違う。
ほんの些細なことをキッカケに心を傷付けられることもある。
その逆に誰かの心を傷付けてしまうこともある。
けれど、たった一人に、たった一言に心が救われることもある。
わたしが藤原くんに出会えたように。大切な人と出会えたように。
「わたしも……藤原くんが好き。ずっと前から好きでした」
「結衣……」
「よろしくお願いします」
ちょっと堅苦しい言い方になってしまった。
苦笑いを浮かべるわたしに藤原くんはまだ何か言いたそうにしている。
「藤原くん……?」
「あのさ、そろそろ藤原くん、っていうのやめない?」
「えっ……?」
「名前で呼んでほしい」
名前、で。藤原くんの……名前。
「か……なた」
「そう」
「奏多」
「うん、よくできました」
奏多はニッと満足そうに笑うとわたしの頭をポンポンッと叩いた。
「よし、じゃ、行くか!」
「うん!」
差し出された左手に手を伸ばす。
ギュッとわたしの手を握った奏多に微笑む。
「結衣、幸せ?」
「うん。幸せだよ」
「ごめん、俺の方がその100倍幸せ」
奏多の言葉に微笑む。
風が吹いた。桜の木の枝と葉が風に揺られてバサバサと音を立てる。
まるで桜の木が拍手を送ってくれているみたいだ。
天国にいる奏多の両親とお兄さんが祝福してくれているような気がする。
思わず空を見上げると、雲一つない真っ青な空が視界に飛び込んできた。