極秘である計画が持ち上がった。『氷河期』対策のために地下施設を作るという計画と共に、いずれ備蓄が尽きたときに群衆パニックを想定しての『ファイヤージェノサイド』という計画だ。
『ファイヤージェノサイド』に関しては、賛否がわかれたが、あらゆる専門家の意見で合意に達していた。というのも彼らの懐には賄賂が流れている。そういう人の命を顧みず卑しい人間が多いのである。この世は。

 その施設を制作するに辺り、総理大臣の強い要望によりある設計技師が呼ばれた。それが、海原透だ。

 公館にあの頃と変わらず飄々と現れた海原は、「ねえ、虻ちゃん。久しぶりだね」と言って笑顔を見せた。〝ねえ〟と前にもってくる喋り方に変化は見られなく思わず虻川は苦笑した。

 虻川は海原を見た。癖っ毛は短髪にしたからか影を潜め、精悍な顔つきで、そこからは自信が伺えた。体型も大学時よりも五キロほど増えているが無駄な贅肉はなかった。服をぬげば筋肉質であることは、シャツを捲り上げた腕を見ればわかる。

「虻ちゃんはやめてくれないか。あの頃とは違うんだ」

 虻川はぴしゃりと言い放った。一瞬、海原は驚きの表情を浮かべたが、すぐにあの頃と変わらず笑みを覗かせ、「ああ、ごめん、ごめん。そうだよね。今は有名人だもんね。香苗も、大出世だよね、と喜んでたよ」と海原が言った。

 香苗、という名前を聞くだけで虻川の苛立ちが募る。この男と話すと、かつての不甲斐ない自分を思い出し、感情を揺さぶられる。
〝感情をコントロールすることは仕事の基本だ〟

 またもや父親の言葉が虻川の頭の過った。思わず、「うるさい」とつぶやいていた。
「えっ!」と海原が言い、「いや、なんでもない。三年で完成させてくれ。以上だ。私は忙しい」と虻川は踵を返した。

 が、「ねえ、虻ちゃん。ドラムはまだやってるの?僕にも子供が生まれたんだ。虻ちゃんも生まれたんでしょ?いずれ親子で演奏競演できるといいよね」と海原が彼の背中越しに言った。その言葉を無視し、彼は赤絨毯の上を闊歩した。

 想像を上回るスピードで海原は現場で指示を出し、彼が描いた設計図を元に『氷河期』になった場合に国民が収容される施設が出来上がっている、という報告が上がっていた。 
 虻川は現場を見ない。海原と顔を突き合わせたくないからだ。
 が、海原の方から電話が掛かって来た。妙に切迫した有無を言わせぬ口調で、

「逢いたい。今からそちらに行く」とだけ言い電話が切れた。
 三十分もしない内に、海原は公館に現れた。作業着で公館に入れるのは彼ぐらいだろう、と虻川は思う。

「なにか、飲むか?」
 虻川は訊いた。

「いや、いらない」

 海原のその言葉は半ば予期していたことだ。彼は昔からあまり酒を飲まなかった。虻川はブランデーを取出し、ロックグラスに氷を三個入れ、そこにブランデーを注いだ。人さし指で浮かんでだ氷を突き、一口飲んだ。
「で、話とは?」

 壁にもたれかかりながら虻川は訊いた。グラスをマホガニー材の執務机に置く。
「あの施設のことだ」

 海原の眉間には皺が寄っていた。

「施設?」虻川は一瞬とぼけ、「ああ、『氷河期対策』の」と意地悪い笑みをこぼした。

「あの、熱資源装置はなんだ?あれは、まるで人を焼着殺すために設計するじゃないか」

「焦るな、海原。冷静になれ」

「僕は充分冷静だ。あの装置は取り外す」

 海原が座っていた椅子から立ち上がる。

「まあ、落ち着け」虻川が制し、「これは決定事項なんだ。あらゆる可能性を考慮してのね」と言った。
「パニックが置きると思っているのか?」海原は床に敷いてある赤絨毯を見下ろし、また虻川を見た。「ねえ、虻ちゃん。昔の虻ちゃんはそんなんじゃなかっただろう。そんなに権力や地位やお金が大事なの?それしか信じられるものってないのかな。たぶん、虻ちゃんが思っている程、人は、人々は、思いやりに満ちあふれていると思う。たしかに過去の歴史は悲惨なものだった。でも、そこから学べないほど人間って愚かじゃないはずだ。あの施設にある、熱装置は人間がやることではない。血の通った人間がやることじゃない。あんなことで命を、もしかしたらあの施設で赤ん坊を産むかもしれない人がいるかもしれないんだよ。これから生き抜こうとする赤ん坊が、僕はあの装置には賛同できない」

 ここまで海原が多くを語り、熱を帯びたのは虻川にとってはじめての経験だった。それと共に自分とは真逆の思想だとも思った。

 俺が、昔は善良ある人間だった?って。こんな人間じゃなかった?徐々に虻川の怒りは沸点に達した。

「綺麗事ばかり言うなよ」

「これは綺麗事とかそういう次元の話ではない。命の問題だ。人間としての」と海原は言い、表情を柔らげ、「ねえ、虻ちゃんどうしたんだよ。ドラムを叩いてる虻ちゃんじゃなにのかよ。ビートルズを語りあった仲だろ。友達だろ」と言った。

 その最後の〝友達〟という一言に虻川は非情になり、過去を封印してきた自分を思い出し冷徹に、「お前が香苗と付き合ったからだ。俺の気持ちを知りながら」と言い放った。

 海原は狼狽し、「香苗?虻ちゃんまさか」と一歩後ずさった。
「とぼけやがって。そうやって常に飄々としてるところが腹に立つ。海原!さっき友達といったが、俺の中では友達ではない。お前らが俺の目の前で仲睦まじげに接しているのを見て、俺は距離を置き、その怒りをバネに、ここまで這い上がった」

 沈黙が訪れた。その沈黙を掻ききるように、「だから、か。香苗は言ってたよ。君が僕との距離を置いたり、人ではなく実体のないものに信頼を寄せるようになったのは、私のせいだ、って」

 海原はか細い声で発し、「酒もらえるか」と言った。虻川は海原にブランデーをロックにグラスに注いだ。それを彼は一気に飲み干した。思わず、「やめとけ」と虻川が止める。酒に弱いものがブランデー一気は、身体に毒だ。
「そうか。だからか。俺は何も知らなかったのか。君の気持ちも、香苗の言っていることも、何も見えてなかったのか」
 海原は項垂れた。

 目の前の男が虻川には哀れに見えた。愛だの友情なのは、何の役にも立たない。信じれるのは己のみだ。それに香苗のことを好きだったのを知らなかった、だと?白々しい。こういう男が大量にはびこっている世の中の方がクズだ。彼はそう考える。 
 海原は立ち上がり、よろよろとした足取りで扉を開けようとした。

「おい、少し休んでいけ」
 虻川は言った。

「大丈夫だ。すまなかった。俺は本当に知らなかったんだ」
 と言って扉を開け、海原は部屋を出た。

 ただ一人虻川は取り残され、公館の一室から窓を覗き、海原が前庭を歩いているのを眺めた。そして、彼は舌打ちをした。海原が車に乗り込んだからだ。折しも酒気帯び運転の法案を成立したばかりだった。あの野郎。

 虻川は急いで、自家用車のキーを抽斗から取出し、急いで駐車スペースへ向かった。あのよろよろ歩きでは、車の運転なんてままならない、虻川の直感がそう告げていた。というより誰の目から見ても明らかだった。
 ベンツSクラスのエンジンを急いでかけ、海原を追った。

 海原の車はワゴン車だった。これから子供をたくさん作る計画でもあるのか、海原は背後から追走し、クラクションを鳴らす。
 が、一向に海原の車は停車する気配を見せなければ、ぐんぐん加速する。

 虻川の計算が狂い始めた。

 そのまま海原は霞ヶ関インターから首都高へ入った。なぜこんな真夜中にカーチェイスを。虻川は再度クラクションを鳴らす。海原は気づいているはずだ、なのにあの蛇行運転はなんだ。危なっかしい。そのまま首都高を一蹴するのではないかと思ったが、気づけば小菅インターまで来ていた。そこで海原の車が小菅インターから一般道へ合流する。虻川も速度を緩め、それにならった。

 虻川の住まいは足立区西新井にあるマンションだ。足立区長に進言し、都市開発を急ピッチで進め、西新井は生まれ変わる。大型ショッピングモールに、高層マンション、人々の暮らしを豊かに、より住みやすい街に、生まれ変わる。その神の手は虻川に委ねられている。

 その思考を掻き消す速度で、海原が乗る車の速度が加速する。土手沿いとはいえ、どこに覆面警官が潜んでいるかはわからない。犯罪が多い足立区なら尚更だ。そして尾竹橋通りに差しかかった。

 それでも海原のスピードは緩まない。虻川は追い越車線に向かい、一気にアクセルを踏み込み、海原と並走する。そしてクラクションを鳴らす。さrない鳴らす。左方向を見て、海原の方を確認する。虻川と目が合う。
 そして海原は笑った。

 その直後、左折しようとした大型トラックが、思いのほか大きくハンドルを切りすぎ、曲がりきれず、バックしようとしていた。
 虻川は思わず車内から、「海原、危ない!ブレーキ!」と叫んだ。唾を飛ばし叫んだ。
 が、遅かった。いや、遅過ぎた。

 加速をともなった海原が乗るワゴン車が大型トラックにベジャンという激しい音を立てて追突した。その勢いで大型トラックは横転し、海原のワゴン車も衝撃から後方へ数十メートル弾き飛ばされた。
 虻川はすぐにブレーキを踏み、シートベルトを外し、ワゴン車へ歩み寄る。バンパー部分がアコーディオンのように縮み、運転席の状態は賛嘆たる状態だった。というのもウ穴原の胸ポケットから下は完全に潰されていた。
「海原!」
 虻川は叫ぶ。
「うっ、ぷっ」
 海原は口から血を吐く。
「今、救急車を呼ぶ」
 虻川はポケットから携帯を取出した。
「あぶ、ちゃん・・・・・・いいんだ。もう、だめだとおもう。じぶんのことだからわかるんだ」
「喋るな」
「胸ポケットにあるものを受け取って欲しい」
 虻川は海原の苦悶の表情と胸ポケットを交互に見る。たしかに胸ポケットに何かが入っていた。
「さあ、早く。君はここから立ち去った方がいい。君のキャリアに傷がつく。それに、またあの横断歩道で写真が撮りたかったなあ。せっかくお互いに子供がいるんだから」
 それ以降、海原は声を発することはなかった。

 虻川は海原の胸ポケットを探った。なんとそこには、

 虻川、海原、香苗、の若々しい写真が入っていた。それは今まさに事故起きた横断歩道で撮られたものだった。『アビーロード』のジャケット写真を模して撮ったものだ。

 虻川の脳裏に過去の断片がふと蘇る。
〝あと一人いれば、僕らもビートルズになれるね〟

 そう、海原の言葉が。
 写真の裏を見た。そこには〝息子の時宗もこの中に〟と達筆な字で書かれていた。
 あと一人とは、子供?

 そう思った矢先、大型トラックの燃料タンクに引火したのか激しい爆発が起きた。虻川は写真を手に取り、その場から立ち去った。そして携帯電話で救急車を呼んだ。



「嘘だね」
 虻川の話を聞き、時宗は動揺しているように見えた。その証拠に目の焦点が合っていない。

「本当だ」
 虻川は断言する。

「たしかに私にも罪はある」と虻川が言った瞬間、「お前は罪だらけだ。罪の権化だ」と時宗が言い放つ。その言葉には眩いばかりの輝きを放ち、虻川の心に突き刺さる。

「あの日はな。父さんの帰りを母さんと一緒に待っていたんだ。なんでかわかるか?」時宗が涙を流し、虻川が首を横に振り、「母さんの誕生日だったんだ」と言った。

「香苗の?」
「そうだ。お前のよくわからない、この施設建設のせいで、父は命を失い、バースデープレゼントが父の事故死、だ」
 時宗は床に座りこんだ。

「香苗はどうしたんだ?」
 虻川は身を乗り出して訊いた。縄が腕に食い込んだ。

「父が死んだ後、体調を崩して、ノイローゼ気味になり、精神病院に入退院を繰り返してる」
 あの香苗が?

 あの明るい香苗が?
 精神病院に。虻川は気分が沈むのを感じた。
 その時だった。

「父さん!」
 どこからか聞こえる声が空間に反響する。

「父さん!」
 この声は雪人。虻川の思考がフル回転した。しかしなぜ雪人が。

「ねえ、光国さん。あなたの息子さんは頭がいいよ、あなたと違って。光国さんは子供のことをちゃんと見てた?ねえ、見てた?見てないでしょ。ねえ、見てた?」

 時宗の言葉に気が狂いそうになる。思考を重視する虻川にとって感情を揺さぶる。それにしてもなぜ雪人の声が?
「疑問でしょ?」時宗は狡猾な笑みを見せ、「実はこの計画は雪人君の提案なんだ。僕らは偶然に、何かに導かれるように、見えない糸で繋がっているかのように、インターネットの掲示板で知り合ったんだ。そこではビートルズ好きの交流が盛んでね。そこで息が合って雪人君がドラムをやっているってことで」
「雪人がドラム?」
 虻川は訊いた。

「ねえ、光国さん。知らなかったでしょ。あなたは何も知らないんだ。何も見えてないよ。見えてるようでいつも霧の中に迷い込んでる」

 時宗は先ほどの涙が嘘のように表情が晴れ渡っていた。さらには虻川の周囲を歩き回る。そうすることでより一層言葉を浸透させるように。

「俺はちゃんと職務を全うしただけだ」

「もう、そういう職務がどうとかという時代じゃないよ。人はね手を繋いでその一人ひとりの思いを連鎖していくんだ」と時宗は穏やかに言い、「僕の父親が横断歩道でビートルズのジャケットを真似たのも、一列に並んで思いを繋げていきたかったんじゃないかな。こうして僕が生まれ、雪人君が生まれたように。次は僕らの子供がって。列が増えていく」

 虻川の人生は思い起こせば孤独だった。人がついてきているようで、ついてないのはわかっていた。結局は金と権力という、まがい物の実体のない彼自身の虚像に周りがちやほやされていただけだ。それには気づいていた。気づいていてもそれが崩されると、自分が自分ではなくなる気がして怖かった。
 そう、怖かった。 

 雪人のことを思った。俺は雪人を見ていなかった?おそらくその通りだろう。ドラムをやっていたことを知らなかったのが良い例だ。いや、本当に知らなかったのか。
「あなた、雪人がドラム始めたらしいわよ」

 由美子が言う。
「悪い。重要なプロジェクトの最中なんだ」

 そうだ。あの時、既に聞いていた。この施設プロジェクト建設計画で忙しかったのだ。いや、もう忙しかったがいい訳になるとは思わない。そうか、愚かだった。犠牲にしたものが多過ぎた。
 虻川は項垂れた。

 彼の背後で扉が開く音がした。そして虻川の目の前に現れたのは、
 雪人だった。

「父さん、僕ねドラム結構上手いよ。今度、見てよ」
 雪人は屈託のない笑みを見せた。しかしその笑みは他の者に孤独を隠す為に悟られないようにするためのものに虻川は見えた。