遠い日の記憶。かつての虻川は夢を追いかけていた。理想を持ち、夢という大きい白紙の地図にひとつ、またひとつと理想の地図を描いていた。

 都内の有名私立大学に現役で合格した虻川はサークルに明け暮れ、勉学に没頭した。サークルは軽音同好会。彼はドラムとしてバンドに加入した。父親が政治家として活動し、お金には困らなかった。部屋にはドラムセットがあり、独学で練習した。父親は厳しく、なにかと〝俺の期待に応えろ〟〝俺に恥をかかせるな〟という言動が口癖だった。

 虻川はそれが嫌だった。なにがなんでも父親の期待には沿わない。親子二代で政治家にしようとする父親に彼は反発した。

 それでも父親は、「光国。音楽なんていいから。勉強しろ」、部屋にいてもプライバシーがあったものでない。勝手にッ部屋のドアを開け、自分勝手な言い分を父親は虻川に放って来た。

 だから大学と同時に家を出た。一人暮らしをし、アルバイトをし、学費の半分は自分で出すようにした。

 大学では経営学を選考した。将来は起業したい。雇われる生き方もあるが、雇う側に回り、従業員が生き生きと働ける会社を目指した。どの分野で起業するかは既に決めていた。IT分野だ。計算もデータ管理もコミュニケーションも全てコンピューターがやってくれる。そういう時代が必ず来る。彼はそう思った。日本では徐々にパソコンが普及されていたが、その用途は主にラベル作りや年賀状など。重要性をあまり占めないものだった。

 その為には大学で日々勉強した。勉強に疲れ、ストレスを発散したいときはサークルに顔を出し、ドラムを名一杯叩いた。

 そのサークルに同年代でギターボーカルの海原透が在籍していた。痩せ形で、なで肩。猫背がトレードマークの飄々とした風情を醸し出すが、ギター弾きながらの歌声は甘くもとろけさせ、女性を虜にする。淡い茶髪で、サイドが癖っ毛になり少しカールしている。そこに女性の母性本能が刺激されるらしい。が、その歌声の反動か、はたまた性格的欠陥からか、海原の喋り方は独特だ。〝ねえ。これはどう思うかい〟と〝ねえ〟を多用する。

「ねえ、虻ちゃん。ビートルズの曲で何が好き?」

 抑揚のない口調で海原が言った。背後には大学の名物である噴水がジャージャーと激しく水しぶきをあげている。今年は冷夏だった。二人とも長袖のチェックシャツを着ていた。

「逆に海原は何が好きなの?」

「『サムシング』だね」
 海原が簡潔に言った。

「アビー・ロードの?」
 虻川は訊いた。噴水の音が止んだ。定期的に起こる調整の時間帯に入ったようだ。

「そう。アビーロードの。あのアルバムの流れはいいね。トラックが後半に進むにつれて哀しくなってくる」

 海原は俯きながらサイドの癖っ毛を指に巻いた。彼の癖だ。

「哀しくなるのがいいの?」

 虻川には理解できなかったので訊いた。

「ねえ。虻ちゃん。人生と一緒だよ。今は若いからいい。でもいずれ僕らも歳をとる。徐々に孤独になっていくんだ。アビー・ロードからはそれが伝わる。虻ちゃんも聴いたからわかるだろ?」と虻川に視線を移し、「前半部分は明るく、楽しい、何も考えずにいられた幼少期や青年期を思い出させる。でも、後半は孤独への階段を昇っているのか哀しみの感情に支配される。その頃にはビートルズの仲が悪くなっていた、というのにも原因があるかもしれないけど」と言った。

 実を言うと虻川の好きな曲も、『サムシング』なのだ。しかし、海原のように『アビー・ロード』全体を聴いたことがない。ただ純正に虻川は音楽を聴いていた。その海原の感性が羨ましかった。
「で、虻ちゃんは、何の曲が好きなの?」
「『ゲッド・バッグ』かな」
 なぜか虻川は嘘をついていた。

 不思議そうに虻川を見つめる海原の視線と共に噴水がジャージャーと音を上げた。調整が終わったのだ。
 虻川が見た限り、飄々としている海原は勉学、スポーツ、もちろん芸術に関して非の打ち所がなかった。なんでもそつなくこなしていた。それが虻川には羨ましかった。女性には無縁の虻川も海腹とキャンパスを歩いていると意識せざるをえない。

 海原は女性にモテる、さらには本人が興味ないのかそっけない。そこに女性の闘争本能ともいうべき海原が醸し出すフェロモンに惹き付けられる。虻川は羨望の眼差しと嫉妬が入り組んだ目で海原を見つめていた。

 ある日、教室で簿記の予習と復讐を虻川はしていた。そこに柑橘系の匂いが漂った。脳内が疲れていた彼にとってそれは癒される匂いだった。身体の芯が軽くなり、空へ浮上するのではないか、と彼は思った。

 虻川は振り向いた。そこには一際目を惹く女性がいた。白のワンピース。腰の辺りに刺繍が縫いつけてある。すらりとした体型は細身で。控えめな美しさだった。
「あれ、ここは文化人類学って休講かな?」
 つぶやくように女性が言った。
 思わず、「休講ですよ」と言った。
 彼女は少しびっくりし、閉じられたふっくらとした唇を開き白い歯を覗かせた。

「あっ!文化祭でドラム叩いて方ですよね」
 彼女は明るい口調で言った。

 こんなに可愛く綺麗な女性に覚えられているのが、虻川は嬉しかった。心臓が早鐘を打つ。女性と喋れないわけではないが、いつも傍に誰かしら友達がいた。おどおどしていると、「勉強も得意なんですね」気づけば虻川の半径一メートル以内に接近していた。彼女から漂う、ほのかで清潔な匂いが虻川の鼻孔をくすぐる。シャンプーなのか石鹸なのか判断できないが、とりあえず清潔感が彼女から漂っていた。
 その次に彼女から飛び出した言葉に衝撃が走る。

「あのお、せっかくなんで簿記教えてもらいません?苦手なんですよ」
 少し悩ましげな表情で言った。そして彼女は香苗と名乗った。素敵な名前だと、虻川は思った。
 こうも読み取れる。〝叶え〟、と。

 おそらく担当教授の教え方が悪かったのだろう。虻川の熱心な教えに香苗は簿記の理解を深めていった。たかだか一週間に一回の講義では内容はすぐ忘れる。一時間に多大な量を詰め込むのだ。それでは意味がない。もちろん虻川のように予習復習を怠らない人間は別だが、それは稀に等しい。

 その香苗との出会いから一週間が経過した。虻川は部室にいた。ドラムを孤独に叩く。ビートルズ『アビー・ロード』を一曲目あら順繰りに。ハイハット、スネア、タム、バスドラ、一叩きに気持ちを込めた。
 二曲目は、『サムシング』だ。スローテンポな曲だが、異性界に放りこまれたかのような不思議な哀愁が漂う。それに、虻川の現状にピッタリの曲だ。



 Something in the way she moves  彼女の仕草がかもし出す不思議な魅力が)
 Attracts me like no other lover   ほかのどんあ恋人よりも僕を惹きつける
 Something in the way she woos me 愛してとせがまれればいやとは言えないよ
 I don't want to leave her now    彼女のそばを離れたくない
 You know I believe and how    それでいいと感じるんだ


 その歌詞が当てはまりすぎてドラムを激しく叩き、思わず首まで振っていた。慣れない首振りなんかをしてしまい、少し首関節を痛めた。
 あれ以来、香苗が頭から離れない。

 虻川は〝恋〟とは無縁だった。人を好きになるというのは、こういうことなんだろうか。いても立ってもいられない。胸の圧迫感、どことない不安。単調な毎日に彩りが生まれ、華やぐ。それもこれも香苗と出会ってからだ。

 そのせいか毎朝鏡で自分の顔を入念にチェックするようになった。笑顔の練習もした。表情筋がたるんでることは明白で、次の日には顔面が筋肉痛になり、食事をするのも困難になった。キャンパス内で、友人に会おうものなら、「アブさん。表情が豊かになりましたね」だとか「アッブ、なにかいいことでもあった?口元がだらしないぞ」と周りも虻川の変化に気づいているようだった。女性というのはここまで男という一個体に影響を及ぼすものなのか、と今まさにドラムスティックを握りながら思う。

 さらに嬉しいのは。キャンパス内で香苗に出会うと、むこうから手を振って、挨拶をしてくれることだ。その度に虻川は手をちょこんと挙げて、応える。それだけで嬉しかったが、もう一段、距離を縮めたいと虻川は思う。そのチャンスはくるのか、いやチャンスというのは自分で掴むもの、だ。今までしっかりとやってきたんだ、香苗を射止めたい。虻川の目に恋の光が宿った。
 部室の扉が開いた。

 虻川の願いが通じたのか、これがチャンスというものなのか、神が光の道筋を示してくれたのか定かではないが、香苗がひょこりと顔を出した。
「どうも」と彼女は顔をくしゃっとさせ部室に入ってきた。手には缶が握られていた。
「香苗さん」と虻川は上気する。それは当然だ。目の前に恋する相手がいるのだから。
「香苗でいいですよ」
 と彼女は言った。
「なんか呼び捨ては緊張するなあ」
 ドラムスティックをクルクルと回す。
 虻川の言葉を無視し、ドラムスティック指で回してる光景を見て、「すごい」と香苗は目を輝かせた。その表情には新鮮な息吹が感じられた。

「今日はどうしたの?」
 虻川は訊いた。

「見学ですよ」と簡潔に言い、「どうぞ飲んでください」と缶コーヒーを虻川に手渡した。

 虻川は缶コーヒーを受取り、椅子を二脚出し、一つを香苗に与えそこに彼女は座った。虻川は彼女と向かい合うように座り、「では」と缶を掲げ、「乾杯!」と言った。カンと小気味よい音が部室に響き渡った。

「他の人はこないんですか?」
 香苗が口を開く。

「もうそろそろ来ると思うよ。今日はトレーナーなんだね」
 虻川は言った。

「なんか寒くて。そういえば数年前にNASAが『氷河期』が来る、みたいなこと言ってたよね」

 香苗は缶コーヒーを飲む。彼女は飲むときに目を瞑った。そこには彼女だけの世界観が存在していた。虻川は見惚れている自分に気づき、足で床を一回鳴らす。

「そういえば、言ってたね。でもたしか氷河期は温暖と寒冷の時期があるから、どうなんだろう、ね。地球を管理するのは難しいよ。僕ら人間には」

 虻川も缶コーヒーを一口飲んだ。微糖なのにやけに甘く感じる。それは目の前に香苗がいるからかもしれない。

「地球を管理、って凄い言い回しだね。ドラムスティックを回すみたいな言葉の言い回しも多彩だね」

 香苗は虻川を見つめながら言った。見つめているのではなく、視線を合わせているだけなのはわかっているが、それでも彼の胸はドキドキだった。

 そのドキドキを掻き消すように、扉の方からガヤガヤと声が聞こえた。

 海原と他のメンバーが部室に現れた。各々楽器を持参している。
「あれ、虻ちゃん。そこの女性は誰?」
 海原が言った。

「ええと、なんていったらいいのかな、色々あって、それで、香苗さんです」としどろもどろに言った。

「香苗です」
 慣れた動作でお辞儀を彼女はした。

 その洗練された動作に海原含め、他のメンバーも丁重にお辞儀をした。その光景を見て、自然と虻川も笑みがこぼれる。

 ふと虻川は香苗を見た。海原がギターを取出す姿を彼女は見ていた。その海原を見つめる香苗の視線は、虻川のものとは少しばかり違っていた。



 一人暮らしをしている虻川の住まいは足立区西新井。人情溢れる街と言われているが、窃盗や空き巣が多発している。治安が悪い。足立区長の議事レポートによると都市開発が進んでいるらしいが、まだまだ先らしい。

 それでも嬉しいことに、海原と香苗が足立区に住んでいるということだ。海原は保木間に、香苗は青井に住んでいた。だからよく三人で行動し、食事にでかけることが多かった。海原が、「あと一人いればビートルズになれる」と冗談めかしたことを言えば、香苗が、「じゃあ、横断歩道で『アビーロード』のジャケットみたいに写真撮ろうよ」と言い、「それは名案だ」と虻川が締める。

 さっそく西新井駅から徒歩五分ほどにある尾竹橋通りにある横断歩道で三人並んで、通りすがりのサラリーマンに頼み撮影してもらった。

 虻川は撮影した写真を人数分現像した。一枚一枚確認した。しかし彼の表情は曇った。横断歩道に一列で三人が並んでいる。先頭が虻川、その後ろに海原、さらに後ろに香苗。だが香苗の両手はさりげなく海原の腰付近に添えられていた。それを見たとき、なにかいい知れぬ不安が込み上げてくる。
 もしかして香苗は海原のことが好きなのでは?

 虻川の脳裏にその文脈がテロップとして明滅する。

 一度深呼吸をして冷静に彼は考えた。そう、たしかに海原は女性にモテるが女性に興味がないのか誰かと付き合うという行為には及んでいない。だから大丈夫だ、絶対に。そう、大丈夫だ。虻川は自分に言い聞かせた。
 それでも心臓の鼓動は速かった。


 
 現像した写真を機に、虻川は香苗に対して積極的になった。二人で食事にでかけ、ときには映画を観にいった。ラブストーリーの映画で、男二人が女の一人を好きになってしまう三角関係の内容だった。
 その帰り道、「三角関係って難しいよね」と香苗は言った。
「どちらかが諦めなきゃいけないからね」

「そうよね。哀しき結末。でもあの映画は・・・・・・」
 と香苗は言いかけたがやめた。というのも虻川の住んでいる屋上で突風が吹いたからだ。

 その時、香苗がよろけ虻川にもたれかかり、咄嗟の反応でやさしく受け止める。風がやみ、空には満点の星空が輝いていた。辺りは静まり、どことなく雰囲気がそうさせたのか、虻川の次に出た言葉は、

「香苗のことが好きなんだ。付き合って欲しい」だった。

 虻川の心臓が早鐘を打つ。心臓がバスドラになったかのように、ドンドンと打ちつける。勢いあまって言ってしまったその言葉は取り返しがつかない。消しゴムも使用できない。夢でもない。起きたら、ああ、夢ですね、というアニメ的展開もない。

 それは長い沈黙だった。果てしない荒野を彷徨っているかのように。もしくは水のない砂漠を彷徨っている旅人のように。長い長い時だった。

 香苗は屋上のフェンスに顔を寄せて。星空を見上げた。

 そして運命の時が訪れ虻川にこう告げた。
「ごめんね、虻ちゃん。その気持ちには応えられないの。私、海原君のことが好き」
 わかっていたことだった。
 そう、それは決められたことだった。
 誰がなんと言おうと虻川光国という人間が美女を手にすることは許されないのだ。それは決定された事実だった。

 この機を境に虻川は勉強に打ち込み、起業を志す決意をより一層強めた。もう、恋にかまけてはいられない。そして海原と香苗が付き合ったということを風の便りで知った。友情と恋情は彼の中で崩壊したのだ。
 そう、崩壊。脆く儚く崩れさる。
 見事に敗れ去った虻川は香苗に振られた日、大粒の涙を流した。流してはいけない男が流した最初で最後の涙だった。
 過去の思い出を封印し、虻川は三十歳になっていた。大学は無事卒業したが就職はしなかった。古びた、屋上で香苗に振られたマンションの一室で細々と作業を進めていた。インターネットを使った売買サイトの構築に務めていた。それが形になり、会員数も次第に増えていった。売買といってもオークションサイトだ。無駄が多い世の中でその無駄を循環させたら面白い、という発想から生まれた。サイト登録は無料で、オークション内で売買が成立した場合、一定の手数料を頂く。あとはサイト内に貼られた、ポップ広告をクリックするとお金が入る手はずになっている。サイトが次第に成長してきたからか、広告をサイトに載せて欲しい、という依頼が急増し、一人で事業を行うには難しくなり法人化した。

 そこからは三年で急成長し、その時点で上場の誘いがあったが、もう少し事業の根幹を図太く固めたいと思い断り、虻川が二十九歳のときに見事、東証一部上場を果たした。オフィスには多数の花が届けられた。その中に、忘れ去られた名前があった。
〝海原透〟と。

 空気の読めないやつだ、蛇川は思った。彼との友情は終わっている。住む世界が違うんだ。気安く花なんて送ってくるな、その思いを込め秘書に、「これは送り返してくれ。不快、だ」と言った。秘書は驚いていたが、「かしこまりました」とロボットのようにマニュアルどおりにいつもと変わらぬ受け答えをした。

 秘書が花を持ち去ろうとし、それを眺めていた虻川にあるものが目にとまった。なにかのカードだ。

「ちょっと待て」

 虻川が秘書を呼び止め、彼女が振り向いた。彼は秘書が手に持っている花に歩み寄り、二つ折りのカード引っこ抜き、中身を確かめた。そこにはメッセージが書かれていた。

〝元気かい虻ちゃん。僕は設計技師になったよ。ねえ、虻ちゃん。僕らの友情は戻らないの?〟と記入されていた。読み終わったと同時にメッセージカードを虻川は破り捨てた。その一部始終を見て驚いている秘書に向かって、「早く行け」と彼は怒鳴った。

 虻川は苛立った。好調なときに限って邪魔な思考がよぎりだす。あの日、屋上で振られた香苗との思い出、その後、付き合い出した、海原と香苗。
「ふざけるな!!!」

 虻川は誰もいない社長室で怒気を飛ばした。何に対しての怒気か明白だった。香苗を取られたからだ。彼ではなく海原に。

 社長室は虻川のパーソナルスペースだ。ここは絶対領域。お気に入りのONKYO製のコンポの電源ボタンを押し、再生ボタンを押した。
 その流れてきた曲に虻川は舌打ちをした。

『アビーロード』に収録されている、『サムシング』が流れてきたからだ。
 いやでも香苗に振られた日を思い出す。禁煙しているが、デスクの抽斗からマルボロを取出し、一本に火をつけた。何年ぶりからの煙に脳内がマヒし、クラっとする。都心の高層ビル最上階の窓から地上を見下ろし、街の風景を眺めた。
 夏だというのに雪が降っていた。その雪は香苗の肌のように白く、虻川の心は黒く淀んでいた。
〝なにが氷河期、だ〟
 彼は不適な笑みをもらし、気分を落ち着かせ、次の人生ステップの戦略を練りはじめた。


 その五年後に虻川はあれだけ嫌がっていた政界に進出した。父親が大臣を務め評価が高かったためか、比較的に簡単に当選した。最初、選挙に出馬した際に方々から、「親の七光りが」とか「事業と政治は別物だぞ」という揶揄とも蔑み、嫉妬ともとれる発言があったが、虻川もこの十年で学んだことがある。

 そう、人間というのは挑戦し結果を人間を応援するのではなく、嫉妬し批判するのだということ、を。自分たちも本当は喝采を浴びたい、だが批判するやつらに限ってリスクをとる勇気がないのだ。小さい円を描いてその中で大半がどうしようか、と考え蠢いている。その間に時を刻み、歳をとり、あのときこうしておけばよかった、という自己回想にふける。

 くだらない、彼は率直に思った。そんな負け組に合わせるより、そんな雑念を振り払い、挑戦し突き進めばいい、それでこそ生きた甲斐があるというものだ。事実その熱意に動かされ、創業した会社は成功し、既に次世代の人間に社長の座を譲った。時折、アドバイザーとして意見することもあるが、ごく稀だ。株主でもあるのだから、それぐらいっちょっと顔を出すぐらいはいいだろう。

 父親と同じ、というのは癪だがあっという間に大臣まで昇りつめた。極秘資料の閲覧も可能で、過去の汚職や陰謀論などのデータも閲覧した。それにしても政治家といのは女好きなのか、女性スキャンダルで全てのキャリアが消し飛んだ人間があまりにも多い。まあ、政治家に限らずどの世界でもいえることだが。女性には気をつけろ、というのは父親の口癖であったが、長年政治家として活動しただけはあり、あながち間違ってはいないらしい。

 そんな虻川も選挙で当選した際に結婚した。某財閥の社長令嬢だ。由美子と言った。どことなく香苗に似ていた。すらりとした体型。黒髪のショートカット。耳朶には、ほくろがあり、そこに神聖なるものを虻川は感じとった。視力が悪く、目を細める仕草も彼には好感触だった。どことなく芸術的な視点で人を見てしまうのは、かつてドラムに明け暮れた日々があったからだろうか、それともビートルズのストーリー性高い音楽に魅入れられたからであろうか、彼にはわからない。

 由美子と結婚した一年後には男の子が生まれた。名は、「雪人」母親に似て、小柄で色白だ。まあ、虻川に似なくてよかった、と自分で思う。育児はもっぱら由美子に任せ、政治活動に精を出した。
 そしてあの男と再開する。
 極秘である計画が持ち上がった。『氷河期』対策のために地下施設を作るという計画と共に、いずれ備蓄が尽きたときに群衆パニックを想定しての『ファイヤージェノサイド』という計画だ。
『ファイヤージェノサイド』に関しては、賛否がわかれたが、あらゆる専門家の意見で合意に達していた。というのも彼らの懐には賄賂が流れている。そういう人の命を顧みず卑しい人間が多いのである。この世は。

 その施設を制作するに辺り、総理大臣の強い要望によりある設計技師が呼ばれた。それが、海原透だ。

 公館にあの頃と変わらず飄々と現れた海原は、「ねえ、虻ちゃん。久しぶりだね」と言って笑顔を見せた。〝ねえ〟と前にもってくる喋り方に変化は見られなく思わず虻川は苦笑した。

 虻川は海原を見た。癖っ毛は短髪にしたからか影を潜め、精悍な顔つきで、そこからは自信が伺えた。体型も大学時よりも五キロほど増えているが無駄な贅肉はなかった。服をぬげば筋肉質であることは、シャツを捲り上げた腕を見ればわかる。

「虻ちゃんはやめてくれないか。あの頃とは違うんだ」

 虻川はぴしゃりと言い放った。一瞬、海原は驚きの表情を浮かべたが、すぐにあの頃と変わらず笑みを覗かせ、「ああ、ごめん、ごめん。そうだよね。今は有名人だもんね。香苗も、大出世だよね、と喜んでたよ」と海原が言った。

 香苗、という名前を聞くだけで虻川の苛立ちが募る。この男と話すと、かつての不甲斐ない自分を思い出し、感情を揺さぶられる。
〝感情をコントロールすることは仕事の基本だ〟

 またもや父親の言葉が虻川の頭の過った。思わず、「うるさい」とつぶやいていた。
「えっ!」と海原が言い、「いや、なんでもない。三年で完成させてくれ。以上だ。私は忙しい」と虻川は踵を返した。

 が、「ねえ、虻ちゃん。ドラムはまだやってるの?僕にも子供が生まれたんだ。虻ちゃんも生まれたんでしょ?いずれ親子で演奏競演できるといいよね」と海原が彼の背中越しに言った。その言葉を無視し、彼は赤絨毯の上を闊歩した。

 想像を上回るスピードで海原は現場で指示を出し、彼が描いた設計図を元に『氷河期』になった場合に国民が収容される施設が出来上がっている、という報告が上がっていた。 
 虻川は現場を見ない。海原と顔を突き合わせたくないからだ。
 が、海原の方から電話が掛かって来た。妙に切迫した有無を言わせぬ口調で、

「逢いたい。今からそちらに行く」とだけ言い電話が切れた。
 三十分もしない内に、海原は公館に現れた。作業着で公館に入れるのは彼ぐらいだろう、と虻川は思う。

「なにか、飲むか?」
 虻川は訊いた。

「いや、いらない」

 海原のその言葉は半ば予期していたことだ。彼は昔からあまり酒を飲まなかった。虻川はブランデーを取出し、ロックグラスに氷を三個入れ、そこにブランデーを注いだ。人さし指で浮かんでだ氷を突き、一口飲んだ。
「で、話とは?」

 壁にもたれかかりながら虻川は訊いた。グラスをマホガニー材の執務机に置く。
「あの施設のことだ」

 海原の眉間には皺が寄っていた。

「施設?」虻川は一瞬とぼけ、「ああ、『氷河期対策』の」と意地悪い笑みをこぼした。

「あの、熱資源装置はなんだ?あれは、まるで人を焼着殺すために設計するじゃないか」

「焦るな、海原。冷静になれ」

「僕は充分冷静だ。あの装置は取り外す」

 海原が座っていた椅子から立ち上がる。

「まあ、落ち着け」虻川が制し、「これは決定事項なんだ。あらゆる可能性を考慮してのね」と言った。
「パニックが置きると思っているのか?」海原は床に敷いてある赤絨毯を見下ろし、また虻川を見た。「ねえ、虻ちゃん。昔の虻ちゃんはそんなんじゃなかっただろう。そんなに権力や地位やお金が大事なの?それしか信じられるものってないのかな。たぶん、虻ちゃんが思っている程、人は、人々は、思いやりに満ちあふれていると思う。たしかに過去の歴史は悲惨なものだった。でも、そこから学べないほど人間って愚かじゃないはずだ。あの施設にある、熱装置は人間がやることではない。血の通った人間がやることじゃない。あんなことで命を、もしかしたらあの施設で赤ん坊を産むかもしれない人がいるかもしれないんだよ。これから生き抜こうとする赤ん坊が、僕はあの装置には賛同できない」

 ここまで海原が多くを語り、熱を帯びたのは虻川にとってはじめての経験だった。それと共に自分とは真逆の思想だとも思った。

 俺が、昔は善良ある人間だった?って。こんな人間じゃなかった?徐々に虻川の怒りは沸点に達した。

「綺麗事ばかり言うなよ」

「これは綺麗事とかそういう次元の話ではない。命の問題だ。人間としての」と海原は言い、表情を柔らげ、「ねえ、虻ちゃんどうしたんだよ。ドラムを叩いてる虻ちゃんじゃなにのかよ。ビートルズを語りあった仲だろ。友達だろ」と言った。

 その最後の〝友達〟という一言に虻川は非情になり、過去を封印してきた自分を思い出し冷徹に、「お前が香苗と付き合ったからだ。俺の気持ちを知りながら」と言い放った。

 海原は狼狽し、「香苗?虻ちゃんまさか」と一歩後ずさった。
「とぼけやがって。そうやって常に飄々としてるところが腹に立つ。海原!さっき友達といったが、俺の中では友達ではない。お前らが俺の目の前で仲睦まじげに接しているのを見て、俺は距離を置き、その怒りをバネに、ここまで這い上がった」

 沈黙が訪れた。その沈黙を掻ききるように、「だから、か。香苗は言ってたよ。君が僕との距離を置いたり、人ではなく実体のないものに信頼を寄せるようになったのは、私のせいだ、って」

 海原はか細い声で発し、「酒もらえるか」と言った。虻川は海原にブランデーをロックにグラスに注いだ。それを彼は一気に飲み干した。思わず、「やめとけ」と虻川が止める。酒に弱いものがブランデー一気は、身体に毒だ。
「そうか。だからか。俺は何も知らなかったのか。君の気持ちも、香苗の言っていることも、何も見えてなかったのか」
 海原は項垂れた。

 目の前の男が虻川には哀れに見えた。愛だの友情なのは、何の役にも立たない。信じれるのは己のみだ。それに香苗のことを好きだったのを知らなかった、だと?白々しい。こういう男が大量にはびこっている世の中の方がクズだ。彼はそう考える。 
 海原は立ち上がり、よろよろとした足取りで扉を開けようとした。

「おい、少し休んでいけ」
 虻川は言った。

「大丈夫だ。すまなかった。俺は本当に知らなかったんだ」
 と言って扉を開け、海原は部屋を出た。

 ただ一人虻川は取り残され、公館の一室から窓を覗き、海原が前庭を歩いているのを眺めた。そして、彼は舌打ちをした。海原が車に乗り込んだからだ。折しも酒気帯び運転の法案を成立したばかりだった。あの野郎。

 虻川は急いで、自家用車のキーを抽斗から取出し、急いで駐車スペースへ向かった。あのよろよろ歩きでは、車の運転なんてままならない、虻川の直感がそう告げていた。というより誰の目から見ても明らかだった。
 ベンツSクラスのエンジンを急いでかけ、海原を追った。

 海原の車はワゴン車だった。これから子供をたくさん作る計画でもあるのか、海原は背後から追走し、クラクションを鳴らす。
 が、一向に海原の車は停車する気配を見せなければ、ぐんぐん加速する。

 虻川の計算が狂い始めた。

 そのまま海原は霞ヶ関インターから首都高へ入った。なぜこんな真夜中にカーチェイスを。虻川は再度クラクションを鳴らす。海原は気づいているはずだ、なのにあの蛇行運転はなんだ。危なっかしい。そのまま首都高を一蹴するのではないかと思ったが、気づけば小菅インターまで来ていた。そこで海原の車が小菅インターから一般道へ合流する。虻川も速度を緩め、それにならった。

 虻川の住まいは足立区西新井にあるマンションだ。足立区長に進言し、都市開発を急ピッチで進め、西新井は生まれ変わる。大型ショッピングモールに、高層マンション、人々の暮らしを豊かに、より住みやすい街に、生まれ変わる。その神の手は虻川に委ねられている。

 その思考を掻き消す速度で、海原が乗る車の速度が加速する。土手沿いとはいえ、どこに覆面警官が潜んでいるかはわからない。犯罪が多い足立区なら尚更だ。そして尾竹橋通りに差しかかった。

 それでも海原のスピードは緩まない。虻川は追い越車線に向かい、一気にアクセルを踏み込み、海原と並走する。そしてクラクションを鳴らす。さrない鳴らす。左方向を見て、海原の方を確認する。虻川と目が合う。
 そして海原は笑った。

 その直後、左折しようとした大型トラックが、思いのほか大きくハンドルを切りすぎ、曲がりきれず、バックしようとしていた。
 虻川は思わず車内から、「海原、危ない!ブレーキ!」と叫んだ。唾を飛ばし叫んだ。
 が、遅かった。いや、遅過ぎた。

 加速をともなった海原が乗るワゴン車が大型トラックにベジャンという激しい音を立てて追突した。その勢いで大型トラックは横転し、海原のワゴン車も衝撃から後方へ数十メートル弾き飛ばされた。
 虻川はすぐにブレーキを踏み、シートベルトを外し、ワゴン車へ歩み寄る。バンパー部分がアコーディオンのように縮み、運転席の状態は賛嘆たる状態だった。というのもウ穴原の胸ポケットから下は完全に潰されていた。
「海原!」
 虻川は叫ぶ。
「うっ、ぷっ」
 海原は口から血を吐く。
「今、救急車を呼ぶ」
 虻川はポケットから携帯を取出した。
「あぶ、ちゃん・・・・・・いいんだ。もう、だめだとおもう。じぶんのことだからわかるんだ」
「喋るな」
「胸ポケットにあるものを受け取って欲しい」
 虻川は海原の苦悶の表情と胸ポケットを交互に見る。たしかに胸ポケットに何かが入っていた。
「さあ、早く。君はここから立ち去った方がいい。君のキャリアに傷がつく。それに、またあの横断歩道で写真が撮りたかったなあ。せっかくお互いに子供がいるんだから」
 それ以降、海原は声を発することはなかった。

 虻川は海原の胸ポケットを探った。なんとそこには、

 虻川、海原、香苗、の若々しい写真が入っていた。それは今まさに事故起きた横断歩道で撮られたものだった。『アビーロード』のジャケット写真を模して撮ったものだ。

 虻川の脳裏に過去の断片がふと蘇る。
〝あと一人いれば、僕らもビートルズになれるね〟

 そう、海原の言葉が。
 写真の裏を見た。そこには〝息子の時宗もこの中に〟と達筆な字で書かれていた。
 あと一人とは、子供?

 そう思った矢先、大型トラックの燃料タンクに引火したのか激しい爆発が起きた。虻川は写真を手に取り、その場から立ち去った。そして携帯電話で救急車を呼んだ。



「嘘だね」
 虻川の話を聞き、時宗は動揺しているように見えた。その証拠に目の焦点が合っていない。

「本当だ」
 虻川は断言する。

「たしかに私にも罪はある」と虻川が言った瞬間、「お前は罪だらけだ。罪の権化だ」と時宗が言い放つ。その言葉には眩いばかりの輝きを放ち、虻川の心に突き刺さる。

「あの日はな。父さんの帰りを母さんと一緒に待っていたんだ。なんでかわかるか?」時宗が涙を流し、虻川が首を横に振り、「母さんの誕生日だったんだ」と言った。

「香苗の?」
「そうだ。お前のよくわからない、この施設建設のせいで、父は命を失い、バースデープレゼントが父の事故死、だ」
 時宗は床に座りこんだ。

「香苗はどうしたんだ?」
 虻川は身を乗り出して訊いた。縄が腕に食い込んだ。

「父が死んだ後、体調を崩して、ノイローゼ気味になり、精神病院に入退院を繰り返してる」
 あの香苗が?

 あの明るい香苗が?
 精神病院に。虻川は気分が沈むのを感じた。
 その時だった。

「父さん!」
 どこからか聞こえる声が空間に反響する。

「父さん!」
 この声は雪人。虻川の思考がフル回転した。しかしなぜ雪人が。

「ねえ、光国さん。あなたの息子さんは頭がいいよ、あなたと違って。光国さんは子供のことをちゃんと見てた?ねえ、見てた?見てないでしょ。ねえ、見てた?」

 時宗の言葉に気が狂いそうになる。思考を重視する虻川にとって感情を揺さぶる。それにしてもなぜ雪人の声が?
「疑問でしょ?」時宗は狡猾な笑みを見せ、「実はこの計画は雪人君の提案なんだ。僕らは偶然に、何かに導かれるように、見えない糸で繋がっているかのように、インターネットの掲示板で知り合ったんだ。そこではビートルズ好きの交流が盛んでね。そこで息が合って雪人君がドラムをやっているってことで」
「雪人がドラム?」
 虻川は訊いた。

「ねえ、光国さん。知らなかったでしょ。あなたは何も知らないんだ。何も見えてないよ。見えてるようでいつも霧の中に迷い込んでる」

 時宗は先ほどの涙が嘘のように表情が晴れ渡っていた。さらには虻川の周囲を歩き回る。そうすることでより一層言葉を浸透させるように。

「俺はちゃんと職務を全うしただけだ」

「もう、そういう職務がどうとかという時代じゃないよ。人はね手を繋いでその一人ひとりの思いを連鎖していくんだ」と時宗は穏やかに言い、「僕の父親が横断歩道でビートルズのジャケットを真似たのも、一列に並んで思いを繋げていきたかったんじゃないかな。こうして僕が生まれ、雪人君が生まれたように。次は僕らの子供がって。列が増えていく」

 虻川の人生は思い起こせば孤独だった。人がついてきているようで、ついてないのはわかっていた。結局は金と権力という、まがい物の実体のない彼自身の虚像に周りがちやほやされていただけだ。それには気づいていた。気づいていてもそれが崩されると、自分が自分ではなくなる気がして怖かった。
 そう、怖かった。 

 雪人のことを思った。俺は雪人を見ていなかった?おそらくその通りだろう。ドラムをやっていたことを知らなかったのが良い例だ。いや、本当に知らなかったのか。
「あなた、雪人がドラム始めたらしいわよ」

 由美子が言う。
「悪い。重要なプロジェクトの最中なんだ」

 そうだ。あの時、既に聞いていた。この施設プロジェクト建設計画で忙しかったのだ。いや、もう忙しかったがいい訳になるとは思わない。そうか、愚かだった。犠牲にしたものが多過ぎた。
 虻川は項垂れた。

 彼の背後で扉が開く音がした。そして虻川の目の前に現れたのは、
 雪人だった。

「父さん、僕ねドラム結構上手いよ。今度、見てよ」
 雪人は屈託のない笑みを見せた。しかしその笑みは他の者に孤独を隠す為に悟られないようにするためのものに虻川は見えた。
「じゃあ、時宗君のお母さんが精神病院に入院しているっていうのは嘘なの?」
 早絵は訊いた。

「そうだよ。むしろ過去を受け入れ未来を見てる人だよ、あの女性は」
 僕はしれっと言った。
「そうだよ、って。時宗君は何の為に?」

「時宗君の父親はお酒に弱いんだ。それに家では一滴もお酒を飲まなかったみたいだし、それに仕事終わってもまっすぐ帰るような人だったんだ。それで、なぜお酒を飲まなきゃいけなかったのか?とうい点に疑問を抱いたらしい」

「なんで雪人が、あなたのお父さんの昔の写真を持ってるの?」

 早絵は疑問点を着実に埋めて行く。ジクソーパズルののピースを一つひとつはめていくように。

「父さんの書斎に入ったんだ。ドラムスティックが折れてさ、書斎に予備があるのかなった思って抽斗とか漁ってたら、一枚の写真を見つけた。それに写真には少しばかり血がついてたしね」

 僕は、あの写真を見つけたとき、父の過去に興味を抱いた。人が傲慢に、金や権力にしがみつくには、それなりの過去に縛られているからだ。それを解き明かせば父親の正確な人物像が浮かび上がるかもしれない。そう思った矢先に、時宗君とインターネット掲示板で知り合い、なんの運命か、親同士が知り合いだった。まあ、それが父親監禁に至ったわけだが。
「『ファイヤージェノサイド』だっけ?あれはどうなったの?」
 早絵はもう答えを知ってるかのように、ニヤッとした。

「極秘裏に熱装置を除去したらしいよ。あんなのが公になったらパニックどころか、疑心暗鬼を誘発する要因になるからね」

 そう言って、空を見上げた。気温は下がり、太陽は陰を潜め、空全体が氷河期準備に向かっている。僕はダウンジャケットを着て、早苗はボア付きコートを着ている。それを着ていても若干、寒い。

 僕は父親のことを考えた。彼が施設に監禁された日、最後は深く項垂れ、抜け殻のようだった。監禁を解いた後は千住付近で、「俺は間違っていたのかあ」と叫びまわり、選挙演説さながら、「申しわけありませんでした」と誰にいうでもなく、自分に言い聞かせるように声を出していた。

 たしかに何かを犠牲にしなければ、父親のように第一線で活躍することは難しいだろう。

 が、しかし一つ成し遂げたのならば、他の部分にも目を配るべきだ。母親だって寂しそうだった。先が見えない氷河期という地球サイクルの中で、人類が存続できるかわからないという不安はある。

 そう、僕の家族はバラバラだった。氷河期が起こり穴ぐらの中で関係を修復していくのではなく、その前に、この地上の風景を見ながら関係を修復したかった。そのことに父親に気づいて欲しかった。
「ねえ、雪人」
 早絵が言う。

「なに?」

「雪人のそのポーカーフェイスって感情を隠すためだったんだね。私は、本当は凄いやさしい人だと思ってたけど。名前のように冷たい印象を人に与えてる、って陰でいるじゃない」
 早絵は言った。

「本当にやさしい人は、表には出てこないよ。陰にいるんだ。そして誰かが困ってるときにひょっこり現れて手を差し伸べる。そしてまた陰がさす」
 僕は言った。

「表には出てこない、か。じゃあ、太陽がこれから出ないってことは、やさしすぎたんだね」
 早絵は笑みをこぼす。

「そうだね。やさしすぎて、たまには不貞腐れてみようかな、と思ったのかも」
 僕は太陽が出ていた方向を見上げた。もうそこには太陽のかけらもなかった。あるのは灰色の空だった。排気ガスで染まったような、どんよりとしたものだった。
「なんか、音楽聴きたいね」

「鳴るよ。もうすぐ」

「えっ!」
 早絵は訊き返す。

 それが合図だったかのようにドラム音が静寂の街に響き渡った。リズムの取れた八ビートを刻んでいる。ハイハットを足でカチカチ鳴らし、リズムに歯切れをもたらしてる。
「どこから聞こえるんだろう?」

 早絵はどこか不思議がっている表情をした。
「あそこじゃない」

 雪人は向かいのマンション屋上を指差した。そこには男が一人、半袖でドラムを叩いていた。
「もしかしてあれって」
 早絵は目を細めながら、向かいのマンションを見た。

「そうだよ。父親だよ」
 僕は断言した。

 やはり父はドラムをしている姿が似合う、僕は思った。時宗君の母親にお願いして父親の当時の大学文化祭での映像をみせてもらった。若々しいのは当然だが、表情はやさしく、生き生きとしていて、楽しそうだった。いつしか大人は、あの頃の無邪気さを忘れてしまう。別に忘れなくていいのに。だから変な計算が働いてつまらない人間関係を構築してしまう。楽しまなきゃ人生は。
「半袖って」

 早絵は苦笑した。
「気合い入ってるなあ」
 僕はその光景を眺めた。

 その時だった。千住方面からベース音が響いた。なにか陰鬱なものを吹っ切ったかのように明るく滑らかなベースライン。
「なんで?なんでベースが」
 早絵は驚いた。

 さらに梅島方面からはギターが呼応する。ギター音に幸福が詰まっている。やさしく穏やかに奏でている。恋人や家族のそばで弾いているのかもしれない。愛が詰まった音色だった。
「これは凄いね。ドラムに呼応されて、なにかが一つになろうとしている」
 僕は辺りを見回した。足立区全体が音に包まれている。

「ライブハウスっていらなかったんだ」
 そう早絵は漏らした。

「どういうこと?」

「街全体で取り組めば一つになることができるってことよ」

「なるほど」僕は頷き、「もうそろそろ君の出番じゃないかな」
 僕は早絵は見て、そのそぶりをした。

「指揮?」

 早絵の問いに僕は頷いた。彼女はゆっくりとフェンス越しに向かい、二本の足をしっかり地につけ、膝関節をバネのように揺らし、両手を翼のように広げ、指揮を振った。そして梅田付近から歌声が聞こえた。

 どうやらビートルズ『アビーロード』をA面から順繰りに演奏しているらしい。その演奏に触発されたのか、灰色に染まった空から太陽が微かに顔を覗かせた。僕は、彼らも最後のやさしさを見せているのだなと思った。

「こんなに音が離れているのに、演奏が合うって奇跡だよね」
 早絵は興奮しながら言った。その後ろ姿を僕は眺める。姿勢にブレがないことを確認した。

「ああ、奇跡だね」
 僕は空を見上げながら言った。
 この音がいつまでも鳴り響いてもしかしたら氷河期を掻き消すかもしれない。もしかしたら太陽も人間が争うのではなく、一つになるところを期待し、それを見つめていたかったのかもしれない。その勇姿を活動を休止する前に見届けたく、姿を垣間見せたのかもしれない。
 気づけば顔を出していた太陽はくっきりと研磨された綺麗な弧を描いていた。
 太陽ってやさしいな、僕はそう思い、音に耳を傾けた。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

Who are you?
nana/著

総文字数/72,714

ミステリー16ページ

本棚に入れる
表紙を見る
蜘蛛の終末
nana/著

総文字数/30,372

ミステリー7ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア