天ヶ浜奉納祭まで一週間となった土曜日の朝、「ゲルニカの木」のカウンター内には、コーヒーの生豆を焙煎する悦子の姿があった。
土日が定休日の「ゲルニカの木」では、土曜の午前中の焙煎作業は毎週の恒例である。
スペースの都合もあって、使用するのは一回で最大五百グラムしか焙煎できない小型ロースターだが、焙煎後一週間以内に使いきることをポリシーにしている悦子には、現実的にはこのサイズで充分だった。
何年この仕事をやっていても、客のオーダー傾向や豆の減り具合を読んで、効率よく補充していくのは難しい。次の焙煎日まで持たずに空になる豆もあれば、たっぷり余らせてしまう豆もある。悦子こだわりの自家焙煎豆なので、もちろん鮮度には気を配っており、二週間経っても余っている豆は、自分が飲むことにして店頭からは下げると決めていた。
カウンター内の木棚に並ぶガラス製ポットを見ながら、悦子はキリマンジャロとマンデリンの焙煎を行うことにした。
日曜日は、カルチャースクールで開催しているステンドグラス教室の講師として、電車で隣町まで出かけなければならない。そのため悦子がゆっくりと自分の時間を堪能できるのは土曜日だけだった。
悦子は、無人の店内で焙煎作業に没頭する一人の時間が大好きだった。
同じコーヒー豆を使っても火力や焙煎時間でいくらでも風味は変わってくる。焙煎してはカッピングを繰り返す試行錯誤の日々を送りながら、悦子自身が納得のゆく品質を、毎回ムラなく再現できるようになるのには、相当な時間がかかった。
失敗を繰り返して、使い物にならない豆を量産し、随分と無駄にしてしまった。一時は自家焙煎などやめて有名店の豆を仕入れることも考えた。
だが、徐々に色づくコーヒー豆と、店内にたっぷり満ちてくる香りの虜になった今となっては、苦労してでも自家焙煎の道を選んで正解だったと思っている。
焙煎作業のひと時が、悦子の人生における重要な部分を占めるようになっていた。
そんな大切な時間を、より心地よいものにするために悦子は音楽をかける。それも、普段は店の片隅でほとんど置き物と化しているレコードプレーヤーをわざわざ使うのだ。
営業時のBGM用には、レコードなんかとてもじゃないが面倒でかけてはいられない。A面が終わったら、いちいちひっくり返してB面に、などとやっていた日には客の相手などできはしない。
だがコーヒー豆の焙煎という、悦子にとっては一種、儀式にも似た作業に向かうにあたって、レコードをかけるのはムード演出としては重要だった。
それは、ただスピーカーから流れる音楽を聴くだけに留まらない。レコードを取り出す時に、ジャケットから漂う紙とインクの匂いを楽しむ時点で、すでにコーヒー焙煎の儀式は始まっているといっても過言ではなかった。
傍から見ればナンセンスかもしれない。だが、こんな自己流のこだわりがあってこそ「ゲルニカの木」の自家焙煎コーヒーは完成するのだ。
今日は、どのレコードを聴こうかしら。
ラックには、数はそれほど多くはないが厳選されたレコードコレクションが並んでいた。そんな中から悦子が取り出したのは映画『卒業』のサウンドトラック盤だった。
今やスタンダードナンバーとして知られるサイモンとガーファンクルの歌がふんだんに使われたこのレコードを聴くと、映画そのものだけでなく、公開当時の記憶や、あの時代の空気、そして匂いまでもが鮮明に蘇ってくる・・・。