初心者の愚問に対し、トゥワンコ師は穏やかな表情のまま優しく答えた。
「スローな動きでさえ満足にできないことが、早いスピードでできますか?」
返す言葉もない。ケンは黙って徹底したスロームーブをひたすら続けた。
今ではこの練習の意味がケンにも良く分かる。早い動きほど、正確さを欠いても気づきにくいものだ。ならば初めに、ゆっくりと完璧な動作を習得すべきなのだ。
そして動きが遅ければ遅いほど、体から脳へと送られる情報量は多くなる。その情報量の多さゆえに、ケンはゆっくりとした動きの中でストレスを感じたのだ。脳は受け取った情報を処理し肉体にフィードバックする。このサイクルが緻密なほど動きの完成度は高くなり、やがて意識せずとも、スピードと正確性を併せ持った動作が可能になるのだ。
・・・暗い部屋の中で、ひたすらシャドーを続けるケン。そのスピードは今や素人の目では追い付かないレベルになっている。余分な力みのない肉体から出される、流れるように滑らかな動きの繰り返しは、ケンの集中力を高め、五感を研ぎ澄まし、時間に対する感覚を麻痺させる。
ケンは思った。独りでシャドーに打ち込むことしかできないのが残念だ。何しろボブとのスパーリングはいつでも最高の訓練だった。
練習用でブレードの先端が丸く加工されているとはいえ、ナイフは金属性のため、それを持った者同士が対峙するとリアルな緊張感が走る。そんなプレッシャーの中でも、リラックスしてシャドーと変わらない動きができるかどうか。土壇場での胆力が試されるスパーリングだった。
そんな実戦的なスパーリングを数限りなくこなし、己の技術に磨きがかかるにつれてケンは、トゥワンコ師直伝のナイフ術が最強の武術であり、それを習得しつつある自分もまた無敵に近づいているように感じた。
だがトゥワンコ師は「実戦では、ほぼ役に立たないだろう」と言い切ってケンの錯覚を打ち消した。それはケンの技術ではなく、自らが教えているナイフ術に対する言葉だった。
師は屈強な猛者揃いの練習生たちを前に、いつも穏やかな表情で説いていた。
「みなさんに身に着けて欲しいのはナイフを使った格闘術ではありません。ここでの練習を通じて、重圧の下で平常心を保つ術を会得して欲しいのです。それがゴールです。おそらく皆さんが日頃、働いてらっしゃる場所は危険がいっぱいでしょう。そんな状況下で、果たしてナイフ一本で何ができましょうか。あなたたちを危険から守るのはナイフではありません。銃でもありません。冷静沈着な洞察力こそが最強の武器なのです」
いささか理想論めいてはいるが、その通りなのだ。進んで危険に飛び込む蛮勇は愚かでしかない。それが回避できる危険ならば、わざわざ立ち向かう必要などない。逃げればいいのだ。そして、用意された逃げ道に気がつくかどうかは冷静な洞察力、判断力にかかっている。
トゥワンコ師の教えは、その後のケンにとって一つの行動指針となった。あの頃の俺は、偉大な師や仲間たちから多くを学び、可能性に満ちていた。目の前には無限の未来が広がっていると信じていた。毎日が最高だった。
今日はことさら過去を振り返ってしまう。振り返ると言うよりも過去がケンを捕らえて離さないのだ。
それが良い思い出ばかりならば歓迎だが、忘れたい過去に限って執拗に追いかけてくる。どうやら逃げても無駄らしい。ならばここは腹を括って、過去という怪物に真っ向から勝負を挑んでみるか。
疲れを知らない精密機械のように暗闇でナイフを振り続けるケンは、自分をトゥワンコ師の元へと導いてくれた最高の戦友ボブ・ワナメイカー軍曹の最期に立ち向かった。
二年前の夏、南米コロンビアのジャングルで、米軍主導のもとに実行された秘密作戦、オペレーション・ゴッズ・ハンマー(神の鉄槌作戦)。
その目的は達成されたが、一方で人的損耗が大きく、けっして成功裡に終わったとは言えない、むしろ最悪の結果に終わったその作戦において、フォース・リーコンの小隊はケン・オルブライトとロバート・ワナメイカー一等軍曹を除く全員が死亡した。
「スローな動きでさえ満足にできないことが、早いスピードでできますか?」
返す言葉もない。ケンは黙って徹底したスロームーブをひたすら続けた。
今ではこの練習の意味がケンにも良く分かる。早い動きほど、正確さを欠いても気づきにくいものだ。ならば初めに、ゆっくりと完璧な動作を習得すべきなのだ。
そして動きが遅ければ遅いほど、体から脳へと送られる情報量は多くなる。その情報量の多さゆえに、ケンはゆっくりとした動きの中でストレスを感じたのだ。脳は受け取った情報を処理し肉体にフィードバックする。このサイクルが緻密なほど動きの完成度は高くなり、やがて意識せずとも、スピードと正確性を併せ持った動作が可能になるのだ。
・・・暗い部屋の中で、ひたすらシャドーを続けるケン。そのスピードは今や素人の目では追い付かないレベルになっている。余分な力みのない肉体から出される、流れるように滑らかな動きの繰り返しは、ケンの集中力を高め、五感を研ぎ澄まし、時間に対する感覚を麻痺させる。
ケンは思った。独りでシャドーに打ち込むことしかできないのが残念だ。何しろボブとのスパーリングはいつでも最高の訓練だった。
練習用でブレードの先端が丸く加工されているとはいえ、ナイフは金属性のため、それを持った者同士が対峙するとリアルな緊張感が走る。そんなプレッシャーの中でも、リラックスしてシャドーと変わらない動きができるかどうか。土壇場での胆力が試されるスパーリングだった。
そんな実戦的なスパーリングを数限りなくこなし、己の技術に磨きがかかるにつれてケンは、トゥワンコ師直伝のナイフ術が最強の武術であり、それを習得しつつある自分もまた無敵に近づいているように感じた。
だがトゥワンコ師は「実戦では、ほぼ役に立たないだろう」と言い切ってケンの錯覚を打ち消した。それはケンの技術ではなく、自らが教えているナイフ術に対する言葉だった。
師は屈強な猛者揃いの練習生たちを前に、いつも穏やかな表情で説いていた。
「みなさんに身に着けて欲しいのはナイフを使った格闘術ではありません。ここでの練習を通じて、重圧の下で平常心を保つ術を会得して欲しいのです。それがゴールです。おそらく皆さんが日頃、働いてらっしゃる場所は危険がいっぱいでしょう。そんな状況下で、果たしてナイフ一本で何ができましょうか。あなたたちを危険から守るのはナイフではありません。銃でもありません。冷静沈着な洞察力こそが最強の武器なのです」
いささか理想論めいてはいるが、その通りなのだ。進んで危険に飛び込む蛮勇は愚かでしかない。それが回避できる危険ならば、わざわざ立ち向かう必要などない。逃げればいいのだ。そして、用意された逃げ道に気がつくかどうかは冷静な洞察力、判断力にかかっている。
トゥワンコ師の教えは、その後のケンにとって一つの行動指針となった。あの頃の俺は、偉大な師や仲間たちから多くを学び、可能性に満ちていた。目の前には無限の未来が広がっていると信じていた。毎日が最高だった。
今日はことさら過去を振り返ってしまう。振り返ると言うよりも過去がケンを捕らえて離さないのだ。
それが良い思い出ばかりならば歓迎だが、忘れたい過去に限って執拗に追いかけてくる。どうやら逃げても無駄らしい。ならばここは腹を括って、過去という怪物に真っ向から勝負を挑んでみるか。
疲れを知らない精密機械のように暗闇でナイフを振り続けるケンは、自分をトゥワンコ師の元へと導いてくれた最高の戦友ボブ・ワナメイカー軍曹の最期に立ち向かった。
二年前の夏、南米コロンビアのジャングルで、米軍主導のもとに実行された秘密作戦、オペレーション・ゴッズ・ハンマー(神の鉄槌作戦)。
その目的は達成されたが、一方で人的損耗が大きく、けっして成功裡に終わったとは言えない、むしろ最悪の結果に終わったその作戦において、フォース・リーコンの小隊はケン・オルブライトとロバート・ワナメイカー一等軍曹を除く全員が死亡した。