その夜は、最後まで気まずい空気が流れたままだった。その後、二人の関係は自然に消滅し、二度と会うことはなかった。
妹尾は、なぜあの夜、徳子の言葉に対して、自分があれほどむきになってしまったのかを考えるようになった。徳子と別れたことよりも、それが気になって仕方なかった。
やがてその理由を理解した。ほとんど無意識のうちに自分自身が感じていたことを、あの夜、彼女はずばり突いてきたのだ。
自分は毎日、辛い訓練に汗を流してがんばっている。死ぬ思いをしてレンジャー徽章まで手に入れた。そこには、自らを厳しい環境に追い込み、それを乗り越えることによってのみ持ち得る自己肯定感がある。常にそれを追い求める人生だったことは間違いない。
だが一方で、第1空挺団で数年間を過ごしてきて、結局いま自分がやっていることは何に役立つのかという考えが、薄っすらとではあるが打ち消しようもない確信として芽生えいていたのだ。
自衛隊員であるかぎり、戦地に赴き実際の戦闘に加わることはあり得ない。にもかかわらず、戦闘プロフェッショナルとして技量を磨き続ける。
決して料理を作らないシェフが、包丁を研ぎ続けるバカらしさや、絶対に野球の試合に出られない選手が、必至で素振りの練習をする虚しさと、一体何が違うというのだろうか。
妹尾は、そんな思いを同僚の隊員に話してみた。
答えはこうだった。
「俺たちの存在が単なる保険だというのなら、俺は、それでいいと思ってる。保険があることによって政府や国民が安心できるのなら、それは立派な仕事じゃないかな。彼らに大きな安心感を与えるためにもますます頑張るのみさ」
疑問を挟み込む余地もない回答ではあるが、その時の妹尾には詭弁に聞えた。もちろんその考えに異を唱えるようなまねはせずに、なるほどと頷いてみせたが、妹尾は納得したわけではなかった。
次に妹尾は、栗岩のもとを訪ねて率直に悩みを打ち明けた。
栗岩は言った。
「まったく妹尾君らしいなぁ。そんな高度な悩みに僕は答えられないよ」
弱ったなぁ、とういう風に頭を掻きながら栗岩は続けた。
「誰が言ったんだったかなぁ、確か武道の先生の言葉だったと思うんだけどね。厳しい修行を積んで身に着けた技をね、生涯一度も使うことがなかったとしたら、まさに修業は成功だったということだ・・・そんなようなことを言ったらしいよ」
一見、禅問答のような言葉に釈然としない様子の妹尾を見た栗岩は、頭を掻きながら笑って付け加えた。
「ごめん、ちょっと違ったかな」
今の妹尾なら、この時の栗岩の言葉の意味が分かる気がする。本当の意味で「強くなる」ということは、単純に武術のスキルを磨くことではなく、むしろ衝突を避けるための知恵や技術を習得することである、きっと、そんな意味なのではないだろうか。
だが、自信が漲り、血気に逸る二十代の妹尾には、それを理解することはできなかった。いや、例え理解できても納得して大人しく従うことができなかった。

もし妹尾があと二十年遅く生まれていたら、迷うことなく陸自特殊戦群に挑戦していただろう。
陸上自衛隊初の特殊部隊である特殊戦群は、レンジャー有資格者を中心に選抜された精鋭自衛官三百名によって編成される防衛庁長官直轄の部隊である。
九十年代に入り、長らく続いた東西冷戦の構図が崩れる中で、超大国同士が正面からぶつかる戦争とは別種の、不正規戦、低強度戦の可能性が急増していった。
日本に於いては、それまで自衛隊の第一仮想敵国だったソ連が崩壊する一方で、北朝鮮の脅威が具体性を帯び、そうした新しい形の戦争に対応できる特殊部隊の必要性が叫ばれた。