ステンドグラスの狼

1994年秋―沖縄県、名護市。
地元で開催されるイベントやコンサート、祭りなどを取り仕切る(有)唐島興行は、実際のところ暴力団組織である。
イベント興行に関わることも確かにあるが、その数は年間を通じても片手で足りる程度だ。芸能事務所から、所属するタレントやその卵が巻き込まれたトラブルの解決を依頼されることの方がずっと多い。
唐島興行の主たる収入源はヘロインの密売であり、商売相手は多岐に渡っている。地元の一般人に始まって、有名無名のタレントを含む芸能関係者たち。解放感から冒険したくなっている観光客、時には沖縄駐留米軍の兵士まで様々だった。

金本はまだ二十代半ばだが、唐島興行の組員になってすでに十年近くが経っていた。普段は何か変わったことはないかと、縄張りを回るお目付け役。反社会的存在でありながら地域の安定を裏側から支える。そんな、杓子定規では割り切れない現実社会に必要とされる人間だった。
今日は、社長命令である男を迎えに行くことになっていた。場所は米軍基地キャンプ・シュワブの隣にある広い公園。入り口近くに設置されたベンチで落ち合う予定だ。
約束の時間より三十分前に到着した金本は、駐車場からベンチが見える位置に車を停めて中で待つことにした。
もう十月だというのに夏のように強い日差しだった。エンジンを切った車内の温度はすぐに上昇し、刈り上げた後頭部を汗が伝い落ちる。手に持ったスポーツ新聞は、顔も知らない面会相手と落ち合うための目印として持たされたものだ。
新聞の一面には大見出しで、ロシアの人工衛星が隕石と衝突し、日本海沖に墜落する可能性があるという記事が載っている。
金本には、そんな事はどうでもよかった。新聞越しに公園の方を見やりつつ、ベンチで居眠りしている男が邪魔だなと苦虫を噛み潰しながら考えていたのは、これから会う相手のことだった。
公園の上をかすめながら飛び立ってゆく米軍輸送機。
轟々たる騒音さえ気にならない程に、頭の中はその相手のことでいっぱいだった。
社長からは妹尾(せのお)と言う苗字しか教えられていないので、下の名前は分からない。年齢は三十代後半から四十歳くらい。職業はフリーランスのヒットマン。どこかの組織に飼われて働いているわけではなく、契約ごとに雇い主が変わる一匹狼の殺し屋だ。
もっとも、「殺し屋」などという物騒な響きの言葉は、その筋の人間でさえ口に出すのがはばかられるので、普通は「掃除屋さん」と呼ばれている。腕は一流で元自衛官という噂があるらしい。
やくざの世界に身を置く金本も、それなりに修羅場を経験してはいる。暴力沙汰で警察の世話になったことも一度や二度ではないし、自分の周りにいるのは裏社会で生きる連中ばかりだ。
それでも、殺し屋などという存在は映画や小説の中だけだと思っていた。殺しを生業とするような人間が本当にいるのだろうか。この期に及んでまだ半信半疑である。殺し屋に会うなどということは、二十数年の人生でもちろん初めての経験だ。
初めての経験に不安は付き物だ。どんな猛者が来るのだろうかと想像ばかりが先走って落ち着かない。だから三十分も早く来て、暑い車の中でこうして待っている。妹尾なる男がどんな奴なのか、こっそりと観察して心の準備をしてから対面したかった。
だが、今や金本は、早目に来たのは失敗だったと後悔し始めていた。約束の時間までがやけに長く感じる。まるで死刑執行を待つ囚人のような気分である。
恐れる必要がどこにある。凄腕のヒットマンだろうが同じ人間じゃないか。そもそもこちらは依頼主だ、いわば大切なお客なのだ。俺の仕事は妹尾という男を事務所に連れて行って、うちの社長に合わせるだけ。全くもって簡単な仕事だ。
自分に言い聞かせる言葉とは裏腹に、緊張がピークを迎えた金本は、鉛を飲み込んだような不快感を感じていた。

海岸に立ち尽くし、焼け落ちる天使たちに心奪われる男。
先程から聞こえている雷鳴が、いよいよ耐えがたいほどの轟音となってきた。
次の瞬間、男は目を覚ました。
目の前には真っ青な大海原が広がり、そこを悠然と泳いで行くクジラの黒い影が見えた。
浜に打ち上げられていたザトウクジラが息を吹き返したのか・・・バカな。
一度目をつむって再び開くと、十月とはいえ、まだまだ夏の気配を残す沖縄の青空が広がっていた。クジラに見えたその影はC‐130ハーキュリーズ。男もよく知る米軍の輸送機だった。
次にいつ眠れるかは分からない。だから、少しでも時間があればどんな環境にあろうとすぐに眠れる。それは戦場の兵士にとっては重要なスキルである。
それにしても、こんな場所で眠りこけて夢まで見てしまうとは。
やはり潮時なのだろうか。
そんな考えが近頃、頻繁に頭を過る。できることなら、今回の仕事を最後にしよう。見知らぬ土地で、警備員か何かの仕事に就いて堅気の生活を送るのだ。
そんな日は、多分来ないと分かっていながら、近ごろ別の人生に想いを馳せることが多くなった。決して良い兆候とは言えない。特に自分のような仕事をしている人間にとっては。
そんな風に、あてどない考えが脳裏をかすめながらも、男は目をつむったままでいた。体は微動だにしない。傍から見れば、ベンチに腰かけたまま、相変わらず居眠りしているように見えただろう。
だが、男は気づいていた。
斜め前方三十メートル程の距離に駐車している黒いセダンの中から、新聞を手にした男がこちらを見ている。依頼主がよこした使いだとすぐに分かった。
自分のやっている類の仕事では、依頼人との信頼関係が重要だ。信頼なくしては満足に仕事をやり遂げることが難しくなるばかりか、場合によっては自分の生活や、命までをも危険に晒す羽目になる。
だから、こちらから車に近づいて行って相手を不安にさせたり、警戒心を抱かせるようなまねはやめよう。約束の時間まではまだしばらくある。相手がこちらに来るのを待てばいい。

ふと気がついて腕時計を見れば、約束の二時は過ぎていた。だが妹尾の姿はどこにもない。
いぶかしみながら、蒸し風呂状態の車を降りた金本を、心地よい外の空気が包み込む。
金本は、辺りに注意を払いつつ、ベンチの一つに腰掛けて目印となる新聞を開いた。場所も時間も間違ってない。何か行き違いがあったのか。それとも事情があって遅れているのか。それにしたって、そんないい加減な人間に殺し屋が務まるのだろうか、などと考えていると、隣のベンチで居眠りしていた男が急に声をかけてきた。
「唐島興行の方ですね?」
驚いた金本は、慌てて振り返ったが言葉が出なかった。
口元に柔らかい笑みを浮かべて軽く会釈しながら、男は続けた。
「妹尾といいます。よろしくお願いしますね」
さっきからずっと居眠りしていたこの男だったのか。
「ああ、どうも。こちらこそ・・・。えっと・・・そこに車停めてあるんで。行きましょうか」
ようやく事態を把握した金本の声は、少し上ずっていた
妹尾をバックシートに座らせて、金本は車を発進させた。
「仕事は忙しいですか?」
殺し屋相手には間抜けな質問だったなと失笑しつつも、金本は社交辞令的な会話を適当に続けた。
妹尾は口数の多い人間ではないらしく、やがて会話は途切れ車内に沈黙が立ち込めた。
ジロジロと見るわけにもいかないが、好奇心には勝てない。金本はバックミラー越しに、外の景色を眺めている妹尾を観察した。
強面の男を想像し、胃の痛む思いまでしていたが、実際の妹尾はどこにでもいそうな普通の男じゃないか。四十歳近いというのが本当なら、確かに体つきは若い。ラフなシャツの下に隠れた体は引き締まっている印象だ。
一方で顔はどうだろうか。
髪は無造作に刈りっぱなしでやや短め。顎にかけてやや四角張った輪郭とそれに続く太い首は力強さを感じさせるが、顔の表面には細かい皺が刻まれていて歳相応といったところだ。唯一、印象的なのはギョウザのように変形した耳くらいか。
自分より一回りほど年上のはずだが、偉ぶった風でもないし、物腰は静かで威圧感もない。本当にこの男が殺し屋なのだろうか。それも一流の・・・。
金本には、自分の周りで見慣れたゴロツキ連中の方がよほど危険に思えた。あいつらはどこにいたってそれと分かる。町を歩いていれば、すれ違う人間は目を逸らしながら自然と道を開けるものだ。
一方で、バックミラーに映るこの男は、違和感なく通行人の中に溶け込むだろう。殺し屋だなどとは誰も思わないはずだ。
妹尾に抱いていた緊張感から解放された金本は、勝手に一人でビビっていた自分に苦笑した。だが、しばらくすると別の思いを抱き始めた。
こんな、どこにでもいそうな普通の男が人間を殺しているのか。しかも、それを生業としているのか。
珍しく謙虚な気持ちになっている金本は、自戒を込めつつ思った。
人間、見かけで判断していると、時にとんでもない目に遭うことがありそうだ。
1994年秋―日本海に面した北の町、天ヶ浜。
この町の港には中・小型船を造る造船所があるため、仕事を求めて多くの労働者が集まってくる。地元の者だけでなく、近隣の町や県から、派遣業者の仲介により入れ代わり立ち代わりやって来る出稼ぎ労働者。他にも韓国や中国などのアジア系外国人、数年前にソビエト連邦が解体され、混乱の渦中にあるロシアからやって来た労働者の姿も見られる。
重機の操縦や、鋼鉄の加工などを担当する専門職の技術者は、造船会社の社員たちだが、オートメーション化が進む造船業において、今なお欠くことのできない労働力として、もっぱら肉体労働に汗を流すのは、こうした臨時雇用の名もなき人々である。
十月に入ってからというもの、ここ天ヶ浜は、夕方ともなればすっかり気温が低くなる。
造船所のゲート付近に建つプレハブの二階は、休憩室と更衣室を兼ねており、ロッカーに、テーブルとパイプ椅子、今朝設置されたばかりの電気ストーブ、あとは灰皿くらいしかない殺風景で薄汚れた空間だった。
一日の労働を終えて一服したり、帰り支度をする労働者たちで混み合い、今日も雑然とした活気にあふれている。
その中の一人、アメリカ人のケン・オルブライトもまた、ほんの一週間前からこの造船所で働き始めた臨時雇いの外国人労働者だ。
造船や、それに近い現場で働いた経験のある者がほとんどを占める中、未経験者のケン・オルブライトも、ようやく仕事に慣れ始めていた。何より三十代を目前にして、体力面ではここで働く誰にも負けない自信があった。その証拠に、寝泊りさせてもらっている居候先から造船所までのおよそ四キロの距離を、ケンはランニングしながら通っているのだ。
労働者たちは、打ち解けようと自ら進んで会話をしたり、お互いのことを詮索したりしない。必要以上に慣れ合うことはなく、それで険悪な雰囲気になるわけでもない。重労働でクタクタな人間にとっては、無駄な気遣いは不要なのだ。
ひたすら体を動かして自分の世界に没頭できる、そんな労働環境をケンは好んでいた。
この町に来てからの日は浅いが、ケンは比較的長く日本にいるので、意思疎通に困らない程度には日本語ができた。造船所では新米だが、一切日本語の分からない外国人労働者に比べて、ケンの仕事の覚えは早かった。
臨時雇いの労働者が多い職場にありがちな、各々が壁を作って勝手に感じる疎外感。そんなものともほとんど無縁だ。
窓の外を見ながら、疎外感と無縁な理由がもう一つ目に留まった。
丸みのあるショートボブの髪を包むように、ニット帽をかぶった若い女性。乗っているマウンテンバイクは、彼女の体格からすると一サイズ大きめだ。
彼女は、門の前で自転車を降りると、寒そうに息をかけて指先を温めながら、帰路につく労働者たちの方をちらちら見て誰かを探している。
その整った目鼻立ちからは、ちょっとだけ気の強そうな印象を受ける。ユニセックスな服装のせいか、女の子らしさはそれほど感じさせないが、誰が見ても文句なしの美人と言える容姿だ。
そのため、労働者からはあからさまにジロジロと見られたり、声をかけられたりもする。ここに通うようになって一週間が経ち、彼女自身、そんなこともあまり気にならなくなっていた。ケンが天ヶ浜に流れ着いたのは、かれこれ半月近く前だ。それ以来世話になっている居候先は、喫茶店を営んでいた。そこに、母と二人で暮らすマウンテンバイクの女性は、ケンにとってかわいい妹のような存在だ。
仕事が終わる頃に、こうして四キロの道のりを毎日迎えに来てくれるのは嬉しいものだ。これで疎外感など感じていたら罰が当たるだろう。
そもそも、俺の心にぽっかり空いた空洞のような喪失感の前では、生ぬるい疎外感の入り込む余地などないのかも知れない。
そして今、俺は大金を必要としている。
ケンが、その理由に思いを巡らせる時、決まって気分は暗く沈んだ。だが行き着く結論はいつも同じだ。落ち込んで陰気になっていても仕方がない。それで金が入ってくるわけではないのだから。そんなことより今日は特に冷え込む。この寒い中、彼女をあまり待たせては可哀そうだ。
我に返ったケンは、慌てて身支度を済ませると足早に階段を下りて行った。
安全ヘルメットや着替えの入ったリュックサックを背負って、ケンが向こうから歩いてくる姿が、視界の隅に見えた。彼女は、何となく目を合わせるのが照れ臭かった。だから、わざと遠くに見える巨大なクレーンを眺めて、気づかないふりを続けた。
やがて、ケンが手を振りながら大きな声で言った。
「舞ぃ~、寒いは大丈夫ぅ?」
やれやれ。周囲の目を気にしないアメリカ人の言動にはいつだって戸惑ってしまう。わたしには、同じ調子で返事をすることは多分、一生無理かな。
そんな風に思いながら井口舞子は、はにかみ気味の表情でケンに応えた。
唐島興行の事務所は、繁華街の外れに建つ古いビルの二階にあった。
四部屋からなるフロアは、唐島興行が丸ごと借り切っていた。廊下は、建物の貧相な外観からは意外に感じるほど清掃が行き届いており、唐島興行が手掛けたイベントやコンサートのポスターが貼り出されている。名前こそ知らないが、妹尾にも見覚えのあるアイドルのポスターもあった。
実際の業績はともかくとして、れっきとした興行会社にみえる。

妹尾を案内してきた金本は、社長室の前に立つと、一呼吸おいてノックしながら言った。
「社長、お連れしました」
「おう、いいよ。入ってもらえ」
中から、かすれ気味の野太い声が聞えてきた。

室内は、これも暴力団の組長室と言うよりは、まずまず成功している中小企業の社長室と言った趣だ。
壁には油絵や日本画など、統一感を欠いた芸術作品の複製が掛かっている。窓際やキャビネットにも日本刀や壺、宝石を散りばめたロシアンエッグなどが所せましと飾られている。
いずれも高価な品々なのだろうが、あいにく互いの魅力を相殺してしまっている。この部屋の主には、作品個々の美しさや調和を尊重するよりも、価値あるものに囲まれているという事実の方が重要なのだろう。
表向きは興行会社の社長だが、実のところは地元暴力団の組長。仕立ての良いスーツを着て良く日焼けした男。一枚板の重厚な木製机の向こうに座って、がさつに音を立てながらキャビネットの中を探している唐島を、妹尾はさり気なく観察した。
「よぉ、暑い中ご苦労さん。まぁ突っ立ってないでそこに腰掛けて」
ようやくみつけた封筒を手に立ち上がった唐島は、背は低いが実際より大柄に見える。高圧的な態度がそのような印象を抱かせるのだろう。
「はい、失礼します」
妹尾は、革貼りのソファーに静かに腰を下ろした。
妹尾の対面に乱暴に巨体を沈めた唐島は、封筒をテーブルの上に放り投げて、あからさまに溜息をついた。
「いやぁ・・・うちの組も、これまでこんな経験なくてね」
唐島は、面倒くさそうに封筒から数枚の写真を取り出してテーブルに並べた。
「でなきゃ、はるばる沖縄くんだりまで、あんたに来てもらっちゃいないよ、分かる?」
不機嫌を隠そうとしない口調で吐き出される言葉を、妹尾は黙って聞いた。
「でなぁ、まぁ率直に言うと、このアメリカ人」
唐島は、写真を中指でトントン叩きながら続けた。
「こいつを片付けて欲しいんだわ」
写真には白人の男が写っていた。年齢は三十前後。身長はおそらく高い。細身だが引き締まった体躯は筋肉質。豹のようにしなやかで俊敏、かつ力も強い印象を受ける。
大きく引き伸ばした証明写真もあった。これは顔の特徴をつかむのに大いに役立つ。髪は茶色と金髪の中間。ブルーの目が印象的だ。まっすぐ通った鼻筋。頬は少しこけているが、やつれているわけではない。
伸ばした無精ひげで印象が異なる写真もあったが、どの写真の顔にも、屋外労働に従事する人間特有の細かい皺が刻まれていた。
なるほど。この類の男たちのことはよく知っている。そんな妹尾の予想を、最後の一枚が裏付けた。
そこには式典用の軍服を着用したクルーカットのアメリカ人が写っていた。黒の生地に金のメタルボタン。こちらも金のバックルがついた白のベルト。その軍服がアメリカ海兵隊のものであることを妹尾は知っていた。左胸の勲章が、この男が実戦経験者であることを語っている。
妹尾は、日頃より依頼者に対し、あまり立ち入り過ぎないよう心がけている。殺しを依頼してくるような人間が、あれこれ詮索されるのを好ましく思うはずがない。だから質問も必要最小限に留める。要点だけを極力シンプルに伝え、的確な答えを得られるよう努めている。
今回に関しては、ターゲットの経歴や容姿など欲しい情報が早速手に入った。この写真だけでも大した収穫だ。後は確認も含めて二、三質問するだけでいいだろう。唐島がこの男を殺したい理由は特に知る必要はない。むしろ知らない方が、ことはスムースに運ぶのを経験上知っている。
だが妹尾のプロとしての気遣いは不要だった。質問を待たずに、唐島は勝手に話を続けた。
「名前はケン・オルブライト。とんでもない奴でね。元々うちで用心棒をやってたんだけどな」
身内のトラブルか。
「クラブかどこかでうちの若いのと揉めてさ。うちのが殴られてケガさせられたのが始まりだったな」
徐々にリラックスしてきたのか、先程よりいくらか穏やかな口調で、唐島は続けた。
「でな、そこの基地で兵隊やってたらしいんだけど、今は辞めて仕事探してるって言うから雇ったんだよ。腕っぷしを買ってな」
社長室のドアを軽くノックする音が聞えた。
「失礼します」
体のラインが浮かび上がるタイトな服装の女が、お茶を運んできた。
「ユミちゃん。いつもありがとう」
唐島は表情を崩して、お茶をテーブルに置く女の尻を揉んだ。
何事もなかったように一礼して退出する女は、唐島の愛人をしながらモデルかタレントになる夢でも見ているのだろうか。
「で、どこまで話したっけ」
「このアメリカ人が、こちらで用心棒をしていたと」
饒舌な唐島とは対照的に、ほとんど感情を込めずに最小限の言葉を返す妹尾。それは事務的とさえ言える口調だが、相手に警戒心を抱かせもしない、丁度いい具合のトーンだ。これも経験に基づいた妹尾のテクニックだった。
「そうそう。で、こいつがな、うちの大切な商売道具を持って、いきなりドロンよ」
「ドロン・・・ですか」
「ヘロインだよ。五百グラム。末端価格で七千万。分かる?」
唐島は、挑むように妹尾の目をのぞき込んだ。その表情は、先ほど愛人の尻を撫でまわしていた好色漢のそれとは別人のように険しく、顔色は怒りで赤黒く変色していた。
事情は呑み込めた。どこから手をつけるべきか。
妹尾は素早く頭を回転させた。
これまでの経験からして、ターゲットの所在を特定するのに時間がかかりそうだが、それさえ分れば他は問題ないだろう。例え相手が元海兵隊員であろうとも。
そこで初めて、妹尾の方から口を開いた。
「持ち逃げしたのはいつでしょう?」
数日前か、数週間前か、あるいは数か月前か。逃亡から時間が経っている程、当然足取りを掴むのに手間がかかる。
「十日くらい前だな」
苦々しい表情で唐島は続けた。
「初めはこっちで解決しようとしたんだよ、身内の恥だしさ。それがそうも行かなくなっちまってよぉ。うちだけの話じゃなくなってな」
「と、言いますと」
「関東の花山一家から連絡があったんだよ。うちのシマで勝手なことしてくれんなって」
花山一家。その名前を聞いて、妹尾は自分がここに呼ばれた理由を察した。
意外な展開に心がざわつくのを抑えつつ、顔色一つ変えずにぬるいお茶を口に運ぶ。
「あのアメ公、ヘロインを花山一家のシマでさばこうとしたらしいんだ。しかもうちの名前使ってな」
今や憤りに加え、不安も入り混じった口調だった。
「花山の親分に詳しく事情を話したよ。持ち逃げした奴が勝手にやったことなんで勘弁してくれって。まぁ何とか誤解は解いたけどもさ・・・」
「そのアメリカ人は今、花山一家の元に?」
自分がここに呼ばれているのだから、そんなはずも無かろうと知りつつ、妹尾は聞いた。
「いや、逃げた。ブツを持ったままな」
一呼吸おいて、唐島は続けた。
「ま、あちらさんが言うには、だけどな」
やはりか。だが、思っていたより手掛かりを入手するのはたやすいかも知れない。
「でよぉ、花山の親分もまぁ、今回の件は不問に付すけど、勝手なことしたアメ公にはケジメをつけさせるのが筋だろうっていってな」
「で、自分が呼ばれたというわけですね」
「そういうこと。聞けばあんた、花山一家と親しいっていうじゃないか」
その通りだった。
関東北部を根城とする花山一家は、日本最大級の指定暴力団の下部団体だ。組の歴史はまだ浅く、現在の組長、花山譲二が初代である。
何度か花山一家の仕事を請け負ったことのある妹尾は、花山が情勢を読むのに長けた知略家であることを知っていた。押すべき時には大胆に押し、引くべき時は潔く引く。その的確な状況判断能力は称賛に値する。それゆえ歴史が浅い組でありながら、上部組織からの信頼も厚く、関東北部を足掛かりとして着実に縄張りを拡張している新興勢力である。
そして花山組長の右腕として、現場で陣頭指揮を執る若頭の鳴海は、妹尾がこの世界に足を踏み入れる切っ掛けとなった男だった。
今回の件に関しては、鳴海からも詳しく話を聞けるだろう。
妹尾にとっては上々の滑り出しだ。
「で、奴さんを殺ったらね、証拠として死体を写真に撮ってきて欲しいのよ。分かる?それを見せれば、花山の親分さんも納得してくれるだろうよ」
「あとは、持ち逃げしたヘロインの回収ですか」
冷めたお茶を一気に飲み干すと、唐島は諦め気味に答えた。
「いや、それは無理だろ。あいつはもう持っちゃいないさ」
「と、言いますと?」
「花山んところにあるんだろうよ、どうせ。この件に対するあちらさんの物分かりの良さからするとな」
こう見えて唐島と言う男は、思ったより状況に対する洞察力はあるようだ。妹尾は密かに感心した。
「もちろん、うちのブツお持ちでしょ?返して下さい、なんて言えるわけないけどな・・・高くついたよなぁ、おい。ヘロイン失くして面倒抱え込んでさ」
唐島は独り言のように続けた。
確かに唐島の言う通りだ。件のアメリカ人を始末したところで、ヘロインは消えたまま帰ってこない。唐島が得るものは何もないのだ。花山からの圧力がなければ、わざわざ自分を雇うこともしなかったはずだ。7千万円相当のヘロインを失い損害を被った上、さらに余計な出費がかさむのは是が非でも避けたいのは当然だ。
そんな妹尾の考えを読み取ったかのように、唐島は言った。
「あんたへの報酬もあるしな」
言葉に被さるように、低空を飛行する米軍機のエンジン音が響いてきた。窓際の小さな骨董品が細かく震えた。
日が傾き、辺りは暗くなり始めていた。
海沿いの国道に五十メートル程の間隔で設置されている街路灯は、潮風ですっかり錆びついており、弱々しい光で路側帯を照らしている。
時折、走り去って行く車も、すでにヘッドライトを点灯させている。
ケン・オルブライトは、一定のペースを守りながら走っていた。リュックサックを背負って、軽めのジョギングといった感じだ。
路側帯に散らばる細かな石や砂利が、踏みしだかれてリズミカルに音を立てる。規則正しく吐き出される息が、白く現れてはすぐに消える。
その横を、マウンテンバイクで並走する舞子がいる。
ゆっくりした速度で自転車を走らせるのはけっこう難しいものだ。初めの頃は、左右にフラフラ揺れてスピードも一定しなかった。ケンを追い越しては待ち、追い抜かれてはまた追いかけと言った調子で、四キロ先の家に帰りつく頃にはくたくただった。
でも、仕事を終えたケンを迎えに来て、一緒に帰るようになってもう一週間だ。すっかり要領を掴んだ舞子は、バランスを崩す前にサドルから腰を浮かせて体勢を整え直し、上手い具合に並走できるようになっていた
二人の間にこれといった会話はない。それでも舞子は、この新たな日課が楽しかった。
最初は、この辺りの地理に不案内なケンが道に迷わないよう、無事に帰宅させるという理由があった。だが造船所から舞子の家までは、基本的に海沿いの道路一本だ。大の大人が迷うことは先ずない。
それでも迎えに行くのを止めないのは、舞子が三十分程度のこの時間を大切に思っていたからだ。そんな彼女の気持ちを察してか、舞子の母も何も言わずに二人を見守っていた。
マウンテンバイクを器用に操りながら、舞子は時折、ちらりとケンの表情をうかがった。あからさまに顔を見るのは照れ臭いので、視界の端にこっそり盗み見るような感じだ。舞子の視線に気づいたケンが、にっこり微笑み返してくることもある。そんな時はバツが悪くて、つい目を逸らしてしまう。
でも、今日のケンは、ずっとうつむき加減で走っている。どこか暗い感じで、隣を走る舞子が存在しないかのように、自分の世界に没頭している。

造船所で働き始めてから一週間。ケンは、行き帰りのランニングを欠かしたことがない。例え一日の重労働を終えて疲労が蓄積されていても、この程度の距離とジョギング並みにゆっくりとしたペースは、彼にとって全く問題ではない。身体のコンディションを維持するのに丁度良い感じだ。
何しろ海兵隊時代は訓練に次ぐ訓練で、朝から晩までとにかく走っていた。もちろん基地の中のランニングだけではない。
海水でずぶ濡れのまま、潮風に吹かれて砂に足を取られながら海岸を走るのは普通のことだった。
重量が二十キロ以上ある、大きなリュックサックを肩に喰い込ませながら、軍用ブーツで道なき道を走るのも特別なことではなかった。
そんな過酷なランニングを含め、軍隊の厳しい訓練に明け暮れる日々が、ケンにとっての日常だった。
あれから半月が経つのか・・・昨日の出来事のように感じる時もあれば、遠い昔のように感じることもある。ケンは、隣に舞子がいるのを忘れて、あの日のことを思い出しながら走っていた。
それは、その場の思いつきとも言える無計画なものだった。自暴自棄になっていたケンが、深い考えも無しにとった行動だった。
失意のうちに軍を除隊し、やがて唐島興行の一員となって間もなくのこと。かつて共に戦火を潜り抜けた親友の、突然の訃報がケンの耳に届いた。除隊直後から徐々に荒れていったケンの生活に対する、とどめの一撃だった。
その知らせは、ケンを衝動的に突き動かした。組のヘロインをバッグに詰め込んで、沖縄から東京へと向かった。さらに東京から逃亡せざるを得なくなって、電車に飛び乗ったケンが、この地に辿り着いた日―