二十年程前―。大学を中退した妹尾は、陸上自衛隊への入隊を希望し、隊員募集のポスターを頼りに出張所の扉を叩いた。
親に相談することもなく大学を退学した妹尾だが、自衛隊への入隊も、誰に相談することもなく自分だけで決定したことだった。
高校入学と同時に実家を出た時点で、経済面を除けばすでに自立していた妹尾だが、大学を中退し社会に出たことで、経済的に親を頼ることもなくなり、もともと疎遠だった両親と顔を合わせることはなくなった。
出張所で妹尾を出迎えてくれた栗岩一等陸尉は、穏やかで人好きのする年配の男性だった。屈強な自衛官の登場を予想し身構えていた妹尾は、肩透かしを喰らった気分で一瞬にして緊張が解けた。
以降、自衛隊入隊後も、妹尾は度々出張所に栗岩を訪ねては挨拶してゆくことがあった。
「君みたいな立派な若者こそ、日本の将来を託せる存在だな。妹尾君を自衛隊に入隊させたことが僕の誇りだよ」
当時、新隊員の確保に困窮していた自衛隊であるから、栗岩の立場としては、自ら入隊を希望してきた貴重な若者を逃してはならない、そんな思いからくるお世辞も含んだ言葉だったかも知れない。だが妹尾の言動から感じ取れる強い意志は、多くの若者を見てきた栗岩をして、紛れもなく本物であると言わしめるに十分だった。
入隊後、十週間に及ぶ前期教育課程でトップレベルの成績を上げた妹尾は、当初の目的通り新隊員を対象とした空挺枠に志願。その時、「君なら間違いなく立派な空挺隊員になれる、絶対に」と栗岩が太鼓判を押してくれたことは、妹尾にとって大きな自信となった。
適性検査の後、習志野駐屯地の第1空挺団に於ける九週間のハードな後期教育課程を経た妹尾は、続く空挺教育課程の五週間を無事にパスし、晴れて第1空挺団の主幹部隊である空挺普通科軍第一中隊の隊員となったのだった。
畏敬の念と共に「空の神兵」と呼ばれた大日本帝国軍の落下傘部隊を前身とする第1空挺団は、当時の陸上自衛隊における唯一の空挺部隊だった。
正規軍を相手にする防衛作戦だけでなく、日本領土に潜入し破壊工作活動を行うゲリラコマンドへの対応訓練も積んだ猛者の集団である。
九十年代には、山梨県上九一色村のオウム真理教施設に対する強制捜査の際に、教団の銃火器による抵抗に備えて近くに待機したのが彼らだった。
高い即応力と機動力を持って国防の最前線に立つ、陸上自衛隊が誇る精鋭集団。それが第1空挺団である。
空挺隊員として訓練に明け暮れる日々は、体育会系出身で、常に自己鍛錬の中に身を置いてきた妹尾にとっては、お馴染みの空気を感じさせるものだった。
だが、訓練の厳しさは、体力面で苦戦する心配は多分ないだろうという妹尾の自信を軽々と粉砕した。
筋骨隆々の坊主刈りの男たちの一団が、過酷を極める訓練に死に物狂いで励んでいた。妹尾はついてゆくのに必死だった。決して終わることがないかのように感じられるランニングや筋トレで、気絶寸前に追い込まれることもあった。実際に気絶する隊員もよく見かけた。
学生時代に柔道部であれほどやらされた腕立て伏せだが、ここではかつて経験したことのないほど多くの回数を課された。大胸筋と上腕三頭筋が悲鳴をあげて限界を迎えた体は、わなわな震えるばかりで全く持ち上がらない。
そんな妹尾に教官が「死んでも上げるんだよ!」と檄を飛ばす。それでも体は上がらない。根性で乗り越えられるレベルを超えた本当の限界なのだ。しかし教官の言葉は「上がらねぇなら死ねよ、辞めちまえ」と続き、甘えが入る隙は一切ない。
フィジカルエリートを自認していた妹尾は、ショックと悔しさで茫然自失となるほどだった。これが日本の自衛隊が誇るエリート部隊、第1空挺団か。