今では二種類あるブレンドに始まって、ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカ、ハワイのコナ等々、店にある自家焙煎のコーヒー豆を順番に楽しんでいた。軍人時代はコーヒーなどろくに飲んだことも無かったので、豆の個性を把握できるまでにはまだ程遠いが、それでも徐々にこの黒い液体を好きになり始めていた。そして、ちゃんと一杯数百円の代金を払ってコーヒーを注文していた。
最初は、悦子も「お金なんていいわよ」と言っていたが、ケンは代金を払うことに固執した。何かを無料で手に入れるのは確かに有難いことではある。だが一方で、その対象の本当の価値を見失わせる危険性もある。そして、何かを得る時は対価を払うのは当然のことである。むしろそれを払わないと真に堪能することはできない。
そんなケンの思考回路が発揮されるのは、もちろんコーヒーの場合だけではなかった。「ゲルニカの木」の上は井口家の自宅になっているが、三階の空き部屋にケンが居候することになった時も悦子は言った
「どっちみち空き部屋だし、お金の節約になるでしょ?食費だけ払ってくれたらそれで良いのよ」
だが、ケンの性格が親切に甘えることを許さなかった。頑固に家賃も払うと言って聞かないのだ。
「今、お金ないけどね。仕事みつける。働いて払うでお願いです」
「分ったわ。じゃあ一日三食分の食費込みで家賃一ヵ月・・・三万円でどう?」
悦子の提示した金額が破格の好条件なのは分かった。ケンはすぐに仕事を見つけて支払おうと心に決めて、有難く申し出を受け入れた。
こうして井口母娘とケン・オルブライトの共同生活は始まった。母娘二人の生活スタイルが染みついていた舞子にとっても、自分の人生への珍客の再登場、しかも一つ屋根の下での共同生活は予測不可能だったが、新たな生活のスタートに心が躍る自分を否定はできなかった。
「今日はどの豆にする?」
悦子は、返事をしないケンを促した。
ちょっと考えてからケンは答えた。
「疲れたので。今日は無しね」
「あら。そう・・・」
意外な返事に悦子はちょっと戸惑った。だが、今日のケンがいつもと違った様子であることに気づいていた舞子には、それは意外ではなかった。悦子がケンに気を利かせるつもりで余計なことを言い出す前に、舞子はケンに言った。
「じゃ、シャワー浴びちゃったら?私、店ちょっと手伝うから」
「そうね、夕飯の用意ができたら声かけるわね。汗を流してゆっくり休んで」
悦子が後を継いだ。
ケンは頷くと奥に消えていった。
「ねぇ、ママ。彼、造船所で働いてるんだっけ?」
三人のやり取りを聞いていた相沢が、オーク材のカウンターに空になったグラスを置いて言った。
「そうなの。一週間前から。日本語もできるし、うまく馴染んでくれるんじゃないかしら」
相沢は声のトーンを落とした。
「ほぉ・・・でも、いつまでも、ここに住まわすわけにもいかないんじゃないの?うら若き乙女に間違えがあったら大変だもん。でしょ?」
女性二人と、基本的には赤の他人である男が一人。相沢は、三人の共同生活に対して抱く、スケベな好奇心を露わにした視線を舞子に投げかけた。
全く、もぉ・・・エロおやじめ。舞子は内心で毒づいた。
舞子は学生の頃から、飲み屋の酔漢にありがちな猥談が嫌いだった。男に悪気はなく、女性と打ち解けるためのコミュニケーションのつもりでも、その手の話が女性を不愉快にさせることはままある。とりわけ田舎の小さな共同体でしか生活したことのない中年男は、その辺の線引きが下手なことが多く、相沢はその典型だろう。
最初は、悦子も「お金なんていいわよ」と言っていたが、ケンは代金を払うことに固執した。何かを無料で手に入れるのは確かに有難いことではある。だが一方で、その対象の本当の価値を見失わせる危険性もある。そして、何かを得る時は対価を払うのは当然のことである。むしろそれを払わないと真に堪能することはできない。
そんなケンの思考回路が発揮されるのは、もちろんコーヒーの場合だけではなかった。「ゲルニカの木」の上は井口家の自宅になっているが、三階の空き部屋にケンが居候することになった時も悦子は言った
「どっちみち空き部屋だし、お金の節約になるでしょ?食費だけ払ってくれたらそれで良いのよ」
だが、ケンの性格が親切に甘えることを許さなかった。頑固に家賃も払うと言って聞かないのだ。
「今、お金ないけどね。仕事みつける。働いて払うでお願いです」
「分ったわ。じゃあ一日三食分の食費込みで家賃一ヵ月・・・三万円でどう?」
悦子の提示した金額が破格の好条件なのは分かった。ケンはすぐに仕事を見つけて支払おうと心に決めて、有難く申し出を受け入れた。
こうして井口母娘とケン・オルブライトの共同生活は始まった。母娘二人の生活スタイルが染みついていた舞子にとっても、自分の人生への珍客の再登場、しかも一つ屋根の下での共同生活は予測不可能だったが、新たな生活のスタートに心が躍る自分を否定はできなかった。
「今日はどの豆にする?」
悦子は、返事をしないケンを促した。
ちょっと考えてからケンは答えた。
「疲れたので。今日は無しね」
「あら。そう・・・」
意外な返事に悦子はちょっと戸惑った。だが、今日のケンがいつもと違った様子であることに気づいていた舞子には、それは意外ではなかった。悦子がケンに気を利かせるつもりで余計なことを言い出す前に、舞子はケンに言った。
「じゃ、シャワー浴びちゃったら?私、店ちょっと手伝うから」
「そうね、夕飯の用意ができたら声かけるわね。汗を流してゆっくり休んで」
悦子が後を継いだ。
ケンは頷くと奥に消えていった。
「ねぇ、ママ。彼、造船所で働いてるんだっけ?」
三人のやり取りを聞いていた相沢が、オーク材のカウンターに空になったグラスを置いて言った。
「そうなの。一週間前から。日本語もできるし、うまく馴染んでくれるんじゃないかしら」
相沢は声のトーンを落とした。
「ほぉ・・・でも、いつまでも、ここに住まわすわけにもいかないんじゃないの?うら若き乙女に間違えがあったら大変だもん。でしょ?」
女性二人と、基本的には赤の他人である男が一人。相沢は、三人の共同生活に対して抱く、スケベな好奇心を露わにした視線を舞子に投げかけた。
全く、もぉ・・・エロおやじめ。舞子は内心で毒づいた。
舞子は学生の頃から、飲み屋の酔漢にありがちな猥談が嫌いだった。男に悪気はなく、女性と打ち解けるためのコミュニケーションのつもりでも、その手の話が女性を不愉快にさせることはままある。とりわけ田舎の小さな共同体でしか生活したことのない中年男は、その辺の線引きが下手なことが多く、相沢はその典型だろう。