うまいコーヒーがケンの気持ちをリラックスさせ、同時に『ゲルニカ』に対する好奇心がますます膨れ上がった。
「あの恐い絵は」
「あ、そうだったわね・・・」
女主人はトレーを胸の前に抱えたままケンの隣に腰を下ろすと、しばし考えを巡らせた。
『ゲルニカ』については、基礎教養以上の知識を持ってはいるけれど、外国人相手に上手に説明できるかしら。とりあえず彼が理解できるよう、できるだけ平易な日本語で簡潔に伝えてみよう。
「昔ね、スペインのゲルニカと言う町に爆弾が落とされてね。それを題材にした絵なんです」
女主人は、ケンの表情から話が通じていると判断すると先を続けた。
「でね、その爆撃でゲルニカの町は廃墟になったんだけど、オークの木が一本だけ無傷で残ってたんですって」
「爆弾でも折れなかった木?」
ケンがつぶやいた
「そう。その後、占領軍から木を守るために義勇兵・・・自発的に兵隊が集まって見張り番までしたそうよ」
ケンの脳裏に、瓦礫の山の中に立つ一本の木と、その周りを囲む兵士たちのイメージが広がった。
「ゲルニカの木はね、昔からバスク地方の自由の象徴として、現代に受け継がれているの」
話ながら、女主人は若き画学生だった三十年ほど昔に思いを馳せた。
海外旅行が、今よりはるかに特別だったその時代。子供の頃から『ゲルニカ』に惹かれ、いつか実物をその目で観たいと思い続けていた彼女は、貯金と親からの借金で資金を工面するとニューヨークに飛んだ。
『ゲルニカ』はパリ万博での展示終了後、フランコ将軍の独裁政権下にあったスペインには返還されず、ニューヨーク近代美術館に収蔵されていたのだ。
遂に対面した初恋の絵画が与えた衝撃は強大で、ニューヨークにいる彼女に、そのままスペイン、バスク地方の町ゲルニカを訪れさせるほどだった。
今現在、バスク議事堂の脇に植わっているゲルニカの木は四代目になるが、当時はまだ初代がそのまま残っていたため、彼女は戦火を生き抜いた実際の木をその目で見ることができた。
そして隣のバスク議事堂のホールを飾るステンドグラスの美しさにも大いに感動した。ゲルニカの木の下で誓いを立てる人々をモチーフにした巨大なステンドグラスは、女主人がその後の創作活動に身を投じるきっかけとなった。
「うちの店の名前はそこからもらったのよ。『ゲルニカの木』」
「ゲルニカノキ」
「そ、英語でゲルニカ・ツリー」
「Oh、Guernica Tree・・・サインボード、イングリッシュじゃないねえ」
「表の看板のこと?」
「そう」
「あれはバスク語でゲルニカの木って書いてあるの。あの看板も、このテーブルもカウンターも、みんなオーク材を使ってるんです。あと、その窓あるでしょ。ここにあるステンドグラスは私が造ったものなんだけど、その窓はゲルニカの木をモチーフにしてるんです。自由の象徴をね」
女主人は説明しながら、誰にも、何をも強制されたくなくて、自由に生きてきた私らしいわね・・・と、心の中でつぶやいた。
無言のまま佇む二人。気がつけば陽はすっかり傾いていた。