入り口に立ちつくす外国人。
珍客の突然の来訪に驚いた女主人だが、すぐに気をとり直した。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
了解した印に、にっこり微笑みながら頷いたケンは、窓から射し込む午後の陽が、色とりどりの影をほんのりと落とす窓際の席に腰掛けた。
日本の飲食店に入ると、なぜか必ず出てくるコップの水。それをトレーに乗せて運んできた女主人に、ケンはブレンドコーヒーをオーダーした。メニューの日本語は読めないが、どこの喫茶店にだってブレンドはあるだろう。
「うちは豆を挽いて淹れてるから、時間がかかるけど・・・良いかしら?」
「大丈夫。OK。いーですよ」
「あら、日本語。お上手なんですね」
「はい、ありがとぉ」
女主人はホッとした様子で、カウンターに戻っていった。
コーヒーを待ちながら、ケンはあらためて店内を見回した。
それほど広い店ではないが、落ち着いた雰囲気が心地よい。来たばかりなのに、もう寛いだ気分の自分がいる。常連客はきっとカウンターで素敵な女主人とおしゃべりを楽しんだりもするのだろう。
窓だけではなく、店内にもいくつかステンドグラスの作品が飾られていた。ランプの笠や立体造形まで芸術品と言っていい代物だ。
壁には絵画の複製がかかっていた。カラフルな色ガラスの作品とは対照的に、その絵はモノトーンだった。
描かれているのは、家の中なのか外なのか、マネキンなのか人間なのか。さらに馬や牛らしき姿もあるが、そのいずれもが奇妙に歪んだ形状をしている。
芸術全般に全くと言っていいほど縁のないケンでも、この独特なタッチは知っていた。ピカソだ。
この絵に関して、それ以上のことは何も知らないケンにも、不気味でどこか恐ろしい印象ながら鑑賞者の心を捉える魅力があるのは分かった。それは魔力と言っても良いような、抗いがたいパワーでケンの視線を釘付けにした。
「ピカソはお好き?」
淹れたてのブレンドコーヒーをトレーにのせて運んできた女主人が、壁の絵に見惚れているケンに声をかけた。
何と答えていいか分からず、ケンはあやふやな笑みを浮かべた。
女主人は、コーヒーカップをテーブルに置きながら先を続けた。
「『ゲルニカ』は私の好きな絵なんです。本物は八メートルもある大きな絵でね。スペインの美術館に飾られてるの」
ケンは黙って聞いていた。
「今では、他の美術館に貸し出されることのない絵だから、本物を観たければスペインに行くしかないんです」
沖縄に駐留しているお陰で、ケンはおおよその日本語は、聞き取って理解することもできる。しかし喋りとなるとまだまだ難しく、敬語はほとんど使いこなせない。だから日本人との会話も、適当に相槌を打ってごまかすことが多いのだが、今回は何とかがんばって意思疎通を試みる気になった。女主人とこの店の魅力的な雰囲気が、そうさせたのかも知れない。
「大きい絵。これは恐い絵?」
「恐い絵・・・と言えば、そうとも言えるわね・・・」
パブロ・ピカソの代表作『ゲルニカ』は、スペイン内戦時のドイツによる無差別爆撃が描かれており、反戦絵画としても世界的に有名な作品である。
パリ万博の壁画制作を依頼されていたピカソが、ゲルニカ爆撃の報を受け、急遽テーマを変更すると、怒りを込めながら描いたこの歴史的大作は、1937年の発表当時から賛否両論を巻き起こした。
七十年代にニューヨークのアーティストが、当時激化するベトナム戦争への抗議としてスプレーで落書する事件が起きて以降、『ゲルニカ』が展示される場には警備員が常駐するようになった。
完成から数十年を経た現在では、反戦のシンボルとして芸術史上に揺るぎない地位を確立している。
「あ、ごめんなさい。コーヒー冷めないうちに召し上がれ」
ケンはこくりとうなずいて、一口すすった。想像以上に豊かなコーヒーの香りに、心地よい驚きを味わった。
「おぉ、おいしい・・・です」
「よかったわ。ありがとうございます」
珍客の突然の来訪に驚いた女主人だが、すぐに気をとり直した。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
了解した印に、にっこり微笑みながら頷いたケンは、窓から射し込む午後の陽が、色とりどりの影をほんのりと落とす窓際の席に腰掛けた。
日本の飲食店に入ると、なぜか必ず出てくるコップの水。それをトレーに乗せて運んできた女主人に、ケンはブレンドコーヒーをオーダーした。メニューの日本語は読めないが、どこの喫茶店にだってブレンドはあるだろう。
「うちは豆を挽いて淹れてるから、時間がかかるけど・・・良いかしら?」
「大丈夫。OK。いーですよ」
「あら、日本語。お上手なんですね」
「はい、ありがとぉ」
女主人はホッとした様子で、カウンターに戻っていった。
コーヒーを待ちながら、ケンはあらためて店内を見回した。
それほど広い店ではないが、落ち着いた雰囲気が心地よい。来たばかりなのに、もう寛いだ気分の自分がいる。常連客はきっとカウンターで素敵な女主人とおしゃべりを楽しんだりもするのだろう。
窓だけではなく、店内にもいくつかステンドグラスの作品が飾られていた。ランプの笠や立体造形まで芸術品と言っていい代物だ。
壁には絵画の複製がかかっていた。カラフルな色ガラスの作品とは対照的に、その絵はモノトーンだった。
描かれているのは、家の中なのか外なのか、マネキンなのか人間なのか。さらに馬や牛らしき姿もあるが、そのいずれもが奇妙に歪んだ形状をしている。
芸術全般に全くと言っていいほど縁のないケンでも、この独特なタッチは知っていた。ピカソだ。
この絵に関して、それ以上のことは何も知らないケンにも、不気味でどこか恐ろしい印象ながら鑑賞者の心を捉える魅力があるのは分かった。それは魔力と言っても良いような、抗いがたいパワーでケンの視線を釘付けにした。
「ピカソはお好き?」
淹れたてのブレンドコーヒーをトレーにのせて運んできた女主人が、壁の絵に見惚れているケンに声をかけた。
何と答えていいか分からず、ケンはあやふやな笑みを浮かべた。
女主人は、コーヒーカップをテーブルに置きながら先を続けた。
「『ゲルニカ』は私の好きな絵なんです。本物は八メートルもある大きな絵でね。スペインの美術館に飾られてるの」
ケンは黙って聞いていた。
「今では、他の美術館に貸し出されることのない絵だから、本物を観たければスペインに行くしかないんです」
沖縄に駐留しているお陰で、ケンはおおよその日本語は、聞き取って理解することもできる。しかし喋りとなるとまだまだ難しく、敬語はほとんど使いこなせない。だから日本人との会話も、適当に相槌を打ってごまかすことが多いのだが、今回は何とかがんばって意思疎通を試みる気になった。女主人とこの店の魅力的な雰囲気が、そうさせたのかも知れない。
「大きい絵。これは恐い絵?」
「恐い絵・・・と言えば、そうとも言えるわね・・・」
パブロ・ピカソの代表作『ゲルニカ』は、スペイン内戦時のドイツによる無差別爆撃が描かれており、反戦絵画としても世界的に有名な作品である。
パリ万博の壁画制作を依頼されていたピカソが、ゲルニカ爆撃の報を受け、急遽テーマを変更すると、怒りを込めながら描いたこの歴史的大作は、1937年の発表当時から賛否両論を巻き起こした。
七十年代にニューヨークのアーティストが、当時激化するベトナム戦争への抗議としてスプレーで落書する事件が起きて以降、『ゲルニカ』が展示される場には警備員が常駐するようになった。
完成から数十年を経た現在では、反戦のシンボルとして芸術史上に揺るぎない地位を確立している。
「あ、ごめんなさい。コーヒー冷めないうちに召し上がれ」
ケンはこくりとうなずいて、一口すすった。想像以上に豊かなコーヒーの香りに、心地よい驚きを味わった。
「おぉ、おいしい・・・です」
「よかったわ。ありがとうございます」