妹尾は、自分が何者なのか、その正体も含めて全てをケンにさらけ出したくなった。
その上で、自分にも手伝えるかもしれないと告げたくなった。
唐島興行との契約などこの際どうでもいい。掃除屋稼業からは足を洗ってこの天ヶ浜に定住し、ケンの望みを叶えるべく自分も力になる。
これはもしかすると、新たな自分の生き方が見つかったのかも知れない。
妹尾は、そんな考えを無理やり封じ込めると、ケンに言うともなく言った。
「これで魚が釣れてれば、ケンさんの願い事も叶ったかも知れないんだがなぁ。いや、まだこれから釣れるかもしれないな。雨も上がったし」
ケンは、振り向いて妹尾に笑いかけた。
「それより、腹が空いたな、妹尾さん。舞が作ったサンドイッチで腹ごしらえでもしようか」
「ああ、いいね、腹が減っては戦はできぬってね」
ケンがリュックサックから取り出したサンドイッチの包みは、残念ながら雨でぐっしょりと濡れており、手作りのサンドイッチはとてもじゃないが食べられる代物ではなくなっていた。
気まずそうに妹尾を見るケン。
「ダメにしてしまったよ。せっかく舞が作ってくれたのに・・・舞には、ダメにしたなんて言えないよ、申し訳なくて」
「仕方ない。空腹は我慢するとして・・・そのサンドイッチは持ち帰るわけにもいかないから、魚にでも食べてもらおう」
ケンは頷くと、サンドイッチの包みを沖合に向かって力いっぱい放り投げた。包みは回転しながら千切れて波間に消えた。
「妹尾さん、舞がかわいそうだから、彼女には美味しかったよって言ってあげよう」
「ああ、もちろんさ」
そんなケンの優しさを見た妹尾の中に、何とかこの男の力になりたいという思いが再び湧き上がった。ほんのさっきまでは、殺そうとしていた相手であるにもかかわらず。
妹尾は、今自分は何をすべきなのかが完全に分からなくなっていた。
今では、雨が降っていたのが嘘のように空はすっかり晴れ上がっていた。それとともに急激に気温が下がり、十月下旬本来の気候が戻ってきた。
雨に濡れた体で、風邪でもひいたらかなわない。結局釣果もないまま、二人は釣りを止めて帰路についた。
天候の回復とともに、祭りは徐々に活気を帯び始めていた。防波堤をとぼとぼと歩いて戻る二人の耳にも祭ばやしが聞えてくる。
「ところで妹尾さん、ここには祭りの取材で来てるんだろ。写真は撮らなくていいのか?」
「え?ああ、写真ね。まぁ、明日でいいよ。今日はこれで引き上げるとするよ」
妹尾は、偽りの身分を演じるのが馬鹿らしくなっていた。
その夜、妹尾はホテルの部屋でベッドに横たわりながら、昼間の出来事を反芻した。
ケンの口から語られた壮絶な戦場での経験は、かつて兵士として生きた妹尾には、十分に衝撃的であり、その心情を推し量ることができた。
そして、それ以上に気になっているのが、チャンスがありながらケンを撃てなかった自分自身だった。
あの話を聞かされて同情したのか。
そんな、いかにも人間的な甘ったるい感情はとっくに捨てたはずではなかったか。
わざわざ祖母との思い出の場所で、血なまぐさい殺しの依頼を請け負うようにしているのも、そのためだったはずだ。
それでも自分は今日、ケンを撃てなかった。
明日なら撃てるだろうか・・・。
かつて、失意のままに外人部隊を去り日本に帰国した妹尾は、その後、外人部隊や自衛隊の日々を忘れるべく、軍人だった過去とは無関係な職を探して歩いた。
柔道の指導員にでもなれないものかと町道場の門を叩いた。
警備員として深夜のオフィスビルの見回りをした。
工事現場に派遣されて肉体労働に汗を流したこともあった。
だが、何をやっても妹尾の心は満たされなかった。一度でも、生死を賭けて自分の能力の限界に挑んだ者にとっては、平穏な日常は味気ないだけだった。ただ時間が流れて行くだけで、生きている実感がなかった。
やがてそんな日々に対する不満が、夜の盛り場で爆発した。飲み屋の立ち並ぶ狭い道を、偉そうに肩で風を切りながら歩いてくるチンピラ三人組とのすれ違いざまに、わざと肩をぶつけていた。案の定、相手は妹尾の胸倉を掴みながら因縁をつけてきた。
「殺すぞ、こら」
「その言葉、待ってました」
そう言うなり、妹尾は胸倉を掴む相手の手首をねじり上げた。
三人を相手に乱闘を演じる妹尾は、久々にはつらつとした気分を味わっていた。
誰かが警察を呼ぶ前に、片足を引きずりながら駆け付けたのはチンピラたちの兄貴分だった。それが鳴海だと気づく前に、鳴海の方が妹尾に気づいた。
偶然の再会を経て、二人は再びつるんで飲み歩くようになった。鳴海がヤクザになっていたことなど全く気にならなかった。鳴海に頼まれて取引現場について行くことも、むしろ退屈した日常の中で、ちょっとしたスリルを味わえる気分転換くらいにしか考えていなかった。
ある取引現場でのこと。敵対する組の者が、鳴海に向かって銃を抜いたことがあった。撃つつもりだったのか、ハッタリだったのかは判らないが、隣にいた妹尾は、ほとんど本能的に相手を組み伏せてその腕をへし折ると銃を取り上げていた。鳴海の方をみると、妹尾に向かって頷いた。妹尾は奪った銃で男を射殺した。
初めて人を殺した瞬間だったが、そこには何のためらいも、後悔もなかった。すべきことをしただけだと確信していた。
この事件をきっかけに、妹尾は花山一家の用心棒になり、やがてフリーランスの殺し屋になった。
以来、その手で始末してきた人間はそれなりの数に上るが、全てが暴力団絡みの仕事というわけでもなかった。
とある会社の重役を殺したこともあった。その男は「もうじき孫が生まれる。金はいくらでもやるから助けてくれ」と命乞いをしたが、そんな言葉は妹尾には通用しなかった。
それでも、微かに心の片隅に残る良心らしき感情が疼く時もあったが、そんな自分を抹殺し、別人に生まれ変わったという意識で仕事に臨んでいた。
そのため、この稼業に首を突っ込んでから十年、殺しを躊躇したことなど一度たりともなかった。
だが今日、ケン・オルブライトを撃つことができなかった。
きっと明日も撃てないだろう。その思いはすでに確信に近かった。
奉納祭が本番を迎える日曜日は晴天に恵まれた。昨日は、昼頃まで雨天に見舞われたため祭りも賑わいを欠いたが、その分まで取り返そうとするかのように、今日の天ヶ浜は朝から活気に満ちていた。祭り特有の浮かれたムードが町全体をすっぽりと覆っており、年に一度だけ姿を変える天ヶ浜がそこにあった。
カルチャースクールがあるため、一時間後には出勤しなければならない悦子だが、舞子の頼みで浴衣の着付けを手伝っていた。数年前、高校三年生の舞子のために悦子が用意した秋浴衣は、ワインレッドの深く落ち着いた色合いだった。半襟には一見そうとは分からないが繊細な刺繍が施されている。幾何学模様の帯は程よいアクセントになっており、巾着や下駄も帯に合わせた色使いがなされている。
「蝶結びなら、あなた一人でできるんじゃない?」
姿見の前に舞子を立たせて、帯を締めながら悦子は言った。
「あー、無理むり。かわいい一人娘の晴れ舞台なんだから、しっかりお願いしますよ」
「ったく、調子いいわね。出るんだか出ないんだかハッキリしなかったくせに。今年は手伝ってあげるけど、そろそろ自分一人で出来るようになりなさい」
「はぁい」
気の抜けた返事を返しながら、舞子はふくれっ面でおどけてみせた。
「やれやれ。まるで覚える気ないな、こいつ」
「ちょっとちょっと。それよりさ、自分で言うのもなんですけど、わたしったら、かなりいけてない?」
姿見に映る舞子の美しさは、自分でもここ数年見たことのない輝きを放っていた。
「そりゃ、あなた。私の娘ですもの」
「あ、そうきたわね」
「冗談でなく。あなたほんとに美人よ。ケンさんも喜ぶんじゃない?」
「いや、そんなことは別にどうでもいいんですけどね」
照れ臭い時ほど、そっけなく言い捨てるのはいつものことだ。
「かんざしはこれにしなさい」
そう言って悦子が小箱から取り出したのは、透明なガラスの中に色彩の複雑な模様が浮かぶ、繊細で美しい逸品だった。
「へぇ、きれい」
「トンボ玉。私が昔使ってたの」
「え、かあさんが?」
「ええ。私が造ったのよ」
母の手から生まれたトンボ玉のかんざしが、時を経て受け継がれ、今夜、娘と共に天懇献呈の儀の舞台に立つ。その事実に、悦子は大きな満足感を覚えた。
「さてと、どうやら大丈夫ね。夜は冷えるから羽織、忘れちゃだめよ」
着付けを終えて、悦子はほっと一息ついた。
「ところで、ケンさんとは何時に出かけるの?」
「え?決めてないけど。あんまり早く出て、この格好で歩き回っても疲れちゃうしな」
「そう。まぁ、緊張しないで楽しんできなさいね」
「うん、これが自分でもびっくりなんだけど、全く緊張してないの。献呈の儀って見たことないからよく知らないけど、所詮は田舎の祭りだしさ。十二遣徒だって十二人もいる中の一人だからね」
舞子が緊張してないというのは本当だった。むしろその前のケンとのデートの方がちょっと心配だった。
ケンが天ヶ浜にきて三週間ほどが経つが、仕事を終えたケンをマウンテンバイクで迎えに行って一緒に帰ってくる以外で、ケンと二人の時間を過ごすのは初めてだ。しかも今回はれっきとしたデートである。何を話せば良いのやら、間が持たなくなったらどうしようと、心配事はたくさんある。
そんな舞子の気持ちを、悦子はお見通しだった。
「楽しんできなさいって、ケンさんとのデートのことよ」
「ああ、まぁ・・・その辺は適当にね」
そっけない返事は、それが重要事項である証拠だ。舞子は、大切なことほど、それとは裏腹な口ぶりになる自分の癖を、母がとっくに見抜いていることに気づいていない。
それはそうと、かあさんは天懇献呈の儀は観にこないつもりだろうか?舞子は、悦子が観に行くと言ってくれないことに、実はちょっとがっかりしていたが、そんな本心を知られるのは嫌なので、自分の口からそれを聞く気にはなれなかった。
そして、もう一つ。今舞子の心の大部分を占めているのは、今夜の祭りが終わった、その後のことだった。この二週間、工房に籠ってこの日に間に合わせたステンドグラスを、とうとうケンにお披露目するのだ。
結局、しっくりくる作品の題名を決めることはできなかったけれど、ケンさんにつけてもらってもいい。あの幻の狼をモチーフにしたステンドグラスに込めたわたしの思いが、彼に伝わるかどうか。
これを見た時のケンの反応を想像しながら、それを原動力に頑張ってきた舞子だが、いよいよお披露目の日を迎えた今では、むしろ恐さの方が勝っていた。
ステンドグラスをみせた後も、時は流れる。
その後に続く日々や、ケンさんとの関係は果たして今まで通りなのか、それとも何かが変わるのか。
新しい何かが始まるのか、あるいは終わってしまうのか。
自分でもよく分からない不安は措いておくとして、先ずは今日の祭りを楽しもう。何と言っても祭りなんて子供の頃以来なのだから。舞子はそう言い聞かせた。
北の日本海の日差しは、この時期ともなると午後三時を過ぎれば赤みを帯びてくる。
どこか遠くの方から祭囃子が聞こえてくる中を、ケンと舞子は、天懇献呈の儀が執り行われる神社に向かってのんびりと歩いた。
舞子の浴衣姿を見たケンは「キレイだねー、ステキだねー」と屈託なく褒めてくれた。照れくささを押し殺して、目を合わさずになんとか一言「ありがと」というのが舞子の精いっぱいだった。
通りの両側に連なる無数の提灯が、二人が歩く道を彩ってくれているかのような錯覚を、舞子は楽しんだ。
昼間に神輿を担ぎ終えて役目を終えた町の男たちが、法被姿でビールを飲みながら楽しそうに酔っぱらっていた。ケンは興味深そうに男たちの法被を眺めた。
「ケンさんも法被着てお神輿、担げばよかったね」
法被もお神輿も分からずに曖昧な表情を舞子に向けるケン。
「まぁ、また来年があるね、来年が」
舞子はそう言いながら、果たして来年の奉納祭の頃にも、まだケンは天ヶ浜にいて、一緒に祭りを楽しむことなんてできるのだろうかと考えた。そして、確信はないけれど、何となくそれはあり得ない気がした。一瞬、暗い影が差したが、そんなことを考えて今のこの幸福な時間を台無しにしたくなかった。とにかく一分、一秒、今この瞬間を大切にしよう。
天懇献呈の儀が執り行われる天ノ神社は、小高い山の中腹を切り開いた場所にあった。神社へと続く石段は二八六段あり、その入り口には長年潮風に洗われ続けてきた石の鳥居が堂々と佇んでいる。鳥居をはさむようにして、その両側に綿アメやたこ焼き、りんご飴といった食べ物から、風車や水ヨーヨーなどのおもちゃまで、祭りの定番を売る露店が並んでいた。
地元の子供たちが、先を競ってお目当ての品を買っている。大きな声で笑いながら金魚すくいに興じるカップル。長椅子に腰を下ろして、何をするでもなくぼーっと祭りの景色を眺めるお年寄り。小さな子供を肩車して石段を上がって行く父親。天懇献呈の儀を見物するために、遠くから足を運んだ旅行者。この場にいるみんなが幸せそうに見えた。
舞子は、こんなことならもっと前から素直に祭りを楽しんでおけばよかったと、少しだけ後悔した。
ケンが、露店に陳列されている子供用のお面に興味を示した。
「面白いマスクだね」
「お面のこと?欲しい?」
「被ると、別の人にチェンジできる。楽しいね」
「ケンさん、別人になりたいわけ?」
そう言いながら、舞子は笑った。
マスクを被ったくらいで別人になれるのならば、人生どれほど楽なことだろうとケンは思った。
人間は簡単には変われない。変わろうとしても記憶や過去が、亡霊のように絡みついてくる。やがて、過去に囚われることが普通になり、自らの意思で過去に生きてしまうから人間とは厄介な生き物だ。それはまさに今の俺だ。
それでもフェスティバルの最中なら、もしかしたら別人になれるかもしれない。そんなマジックが起こり得るかもしれない。ケンはそう信じたかった。
「イエス。別人になりたいね、全く違う人になる」
きっぱりと言い切るケンに、舞子はちょっと驚いた。
「了解。じゃあ、買おうか。どれがいいですか?」
しばらく迷っていたケンが、舞子に聞いた。
「あれは何のマスク?あのレッドの・・・」
「ああ、あれ。よく知らないけど、多分テレビでやってるヒーローのお面かな」
「ヒーロー?」
「そう、正義の味方。悪い連中をやっつける強いヒーロー」
あの時、俺にもそんなヒーローみたいな強さがあれば、フォース・リーコンの仲間たちを救うことができただろうか。
結局、ケンは赤色のヒーローのお面を、舞子は大きな耳とふっくらしたほっぺが特徴的なネズミの坊やのお面を選んだ。
ことお金に関しては貸し借りが嫌いな性格のケンは、自分のお面の代金を払おうとした。そこで財布を持たずに出てきたことに気がついた。
「あー、舞、ごめん。やっぱりやめとくよ」
「え?何で」
「財布。持ってないね」
「なんだ、そんなことか。大丈夫、わたしが買ってあげるよ」
「あー、舞、では、帰ったらお金返すからね」
「いいって、高い買い物じゃないし」
「金額の問題じゃないからね」
露店の兄さんは、こんな玩具のお面を買うの買わないので何を揉めているのやらと、不思議そうに二人を眺めていた。
「あら、そう?分かった。じゃぁ、とりあえずわたしが立て替えておくってことでいいね」
「サンキュー、舞」
ようやくケンも納得したようだった。
二人は早速、買ったばかりのお面を被ってお道化てみた。
お面越しなら、ケンさんのこと、しっかり見られるのにな。舞子は自分の中でますます大きくなる気持ちを持て余した。でも、それを口に出して相手に伝えられる気は到底しなかった。だからこそ、そんな思いも一緒に込めて狼のステンドグラスを造ったのだ。
「さてと、上りますか」
舞子はお面を額の上に斜め掛けにしてケンを見た。
「OK。舞、なんならピギーバックで行く?」
「なあに、ピギーバックって」
「あぁ、えーっと、こうやって後ろに・・・」
ケンは、人を背中に背負う身振りをした。
「ああ、おんぶ。どうせならお姫様抱っこがいいなぁ」
「おひめ・・それ何ですかぁ?」
「へへ、何でもない。いいから行こう」
石段は幅が四メートル近くもあるため、ゆったりとしており、中央にはステンレス製の手すりが設けられていた。
ルールで決められているわけでもないのに、一様に左側通行で石段を登ってゆく人々。ケンもそれに倣って舞子と一緒に左側を歩きながら、改めて日本人の生真面目さを感じた。これがアメリカなら、みんな好き放題に歩いただろう。
だが、日本人のこうした協調性ゆえに奉納祭は、祭りでありながらアメリカの陽気なバカ騒ぎとは別種の、おごそかで神秘的なムードが漂っているように感じられる。ケンにとって、単なる異国情緒以上のものを意味するそうしたフィーリングは、石段の両脇に吊り下げられた赤い提灯が演出する非日常性によっていや増した。
日が暮れて提灯の明かりが灯る頃になると、石段はますます幻想性を帯びる。海岸の防波堤からは、山肌を走る赤い光の二本線に見え、入り口から山頂を臨むと、まさに天に続く光の階段のように見える。
二八六段を上りきった先にあるのは、それほど広くない境内だが、それ以上の何か、異世界が開けているのではないかといった幻想を抱かせるに十分な美しさだった。
ケンはその光景に、幻の町の現出を確信した。かつて軍用トラックの荷台から眺めたあの、白昼夢のような町とは趣を異にするが、その時に感じた得体の知れない憧れのような感情が、今再び湧き起こり、そのことが嬉しくて仕方なかった。
俺は今、ありはしないと諦めていた幻の町の真っ只中にいる。あの場所に帰ってきたのだ。この瞬間が永遠に続いて欲しい。リックや仲間たちにはすまないが、この地で新たな人生を歩み始めたい。どうか許してくれ、とそう願った。
ほとんど同時に、俺はマヌケか、何を軟弱なことを考えているんだ、とそんな自己嫌悪が湧き上がり、初めの希望を塗りつぶすのだった。
石段の中腹に一ヶ所、平らに開けた広めの踊り場があった。八メートル四方のそこは、普段は参拝者が一服するための場所だったが、今日は露店が出ており、祭りの雰囲気を盛り上げるのに一役買っていた。神社の境内における出店は禁止されているため、何かを買うならここが最後の場所となる。
「ケンさん、お腹空かない?」
「そう、空いたねぇ」
「そしたら、たこ焼き食べようか。知らないでしょ、たこ焼き」
「そう、知らないね」
「これを食べなくちゃ、日本のお祭りを経験したことにはならないよ」
そんな舞子の言葉も聞こえないかのようにケンは、的屋のおやじが器用な手つきでたこ焼きをひっくり返すのを興味深そうに眺めていた。
「いい匂い。おいしそう。面白いね」
ケンの言葉に、おやじは思わず顔をほころばせて言った。
「お、兄さん外人さん?うまいよ、これ。美人の彼女と食べたらなおさらだ」
「そうねぇ・・・」
そう言いながら、ケンは申し訳なさそうに舞子の方を見た。
「二つ、下さいな」
舞子は、笑いながら支払いをすませた。
「お、彼女のおごりか、だったらおまけしなくちゃね」
「え、いいんですか?いぇ~い、やったー」
「美人だから特別だよ。二つで六百円」
初めて食べるたこ焼きは、ケンにはそれほどうまいものではなかったが、その横でさも美味しそうに頬張る舞子を見ているだけで充分だった。
これから人前に立つっていうのにたこ焼きなんか食べちゃって、歯に青のりでも付いてたらどうしよう。舞子はちょっと不安になりながらも、空腹には勝てなかった。ケンに見えないように、こっそりと手鏡で歯や口の周りをチェックして安心した舞子は、空腹も満たされてほっと一息ついた。
「提灯の明かりがきれいだね」
そう言いながら、気持ちに余裕が出てきた舞子は、辺りを見渡す振りをしつつ隣に立つケンの方を盗み見た。
ケンも、日本の祭りというものに心を奪われているようだ。それは彼の表情からも見て取れた。初めて会った頃の、若い海兵隊員だったケンを思い出させるような、どこか無邪気な印象だった。あの時のケンが戻ってきたような気がして、舞子は嬉しくなった。
湧き上がる喜びが、自分を衝動的に大胆な行動に駆り立てそうだった。だが、それでもケンと腕を組むほどの度胸はなかった。ケンの方だってそんな素振りは見せようとしない。
もし、彼の方から腕を組んできたら、それはそれで嬉しいけど、でもびっくりしてしまう。その後、どうケンさんに接していいのかも分からなくなってしまうし、変に積極的なケンさんは、なんだか彼らしくないとも思う。やっぱり、今のわたしたちの距離感が丁度いいのかな。
舞子は、あれこれと妄想しながら、頭でっかちでいつでも考えすぎてしまう自分に毎度ながらうんざりしていた。でも、これがわたしなのだから仕方ない。
「そこのお二人さん」
ケンと舞子が揃って声の方を向くと、そこには一眼レフカメラを手にした妹尾が立っていた。
「あ、妹尾さんだ。こんばんわ」
舞子の言葉と同時に、妹尾はシャッターを切った。
「あ、やられた」
その言葉にも答えずに、連続してシャッターを切る妹尾。舞子は照れながら顔を背けた。
「モデル料、高いんですけどぉ」
「まぁ、そう言わずに。せっかくお似合いの美男美女を見つけたんだから」
「いい写真、撮れてますか?」
「うん、もうバッチリ」
「良かった。タウン誌でしたっけ・・・完成したら送ってくれませんか?」
「もちろん送るよ、お楽しみにね。それよりケンさん、昨日はどうも。雨の中頑張ったのに残念でしたね」
そう言いながら妹尾は、片手で釣り竿をあやつるような身振りを示した。
「妹尾さん、どーも。フィッシング。天気よくなかったからダメね」
昨日、雨の防波堤でケンが妹尾に語って聞かせた話など、何もなかったかのように振舞う妹尾に対し、ケンもあくまで自然に返した。
「まぁ、あの雨だったから。それでも舞子ちゃんの作ってくれたサンドイッチのおかげでちょっとしたピクニック気分になったね。雨の中のピクニック」
「そう。おいしかった。舞のサンドイッチ」
「ほんと?良かった」
妹尾とケンが軽く視線を合わせたのを、舞子は見逃さなかった。
「え、何なに?その意味深な・・・ほんとに美味しかった?」
「うん、そりゃもう、ねぇケンさん」
ケンは笑いながらサムズアップで答えた。
辺りを夕闇が包み込むと、明かりの灯された提灯が、長い石段を光の階段へと変えた。
石段を登りきると赤さび色の鳥居があり、その先の境内には、天懇献呈の儀が執り行われる舞台が整っている。
特等席で見たい見物客が、早くも持参したござを広げて待っていた。本堂の手前には三段のひな壇が組まれており、その周りを囲むように提灯が吊るされている。ひな壇の上段には、お供え物が献上される木製の台が、中段の左右には太鼓が設置されている。ひな壇の四隅には薪の乗ったかがり火が用意されており、本番ではこれに火がともされるのだ。
本堂の横から大きくコの字を描くようにしてひな壇へと続く花道は、人が入れないようにロープで仕切られている。十二遣徒は、見物客の間を通るようにこの花道を歩いて、お供え物の魚を運ぶことになる。
明かりに照らされて暗闇に浮かび上がる天懇献呈の儀の舞台は、すでに幽玄ともいえる雰囲気を漂わせていた。
「すごいね」
舞子は思わず声を漏らした。
ケンは黙ったまま見惚れていた。石段を上って鳥居をくぐった瞬間、本当に異世界に足を踏み入れたような錯覚を覚えた。かつてないほどに厳粛な気持ちとなり、歩んできた過去も、これから進む未来も全てが頭の中から消え去っていた。今この瞬間があるだけだった。
妹尾も、この光景に思わず心を奪われていた。年に一回、名もない北の町に、こんなにも美しい空間が現出する事実に打ちのめされた。同時に、今、シャツの下に拳銃を隠し持っている自分がえらく場違いに思え、居心地の悪さを覚えた。
ケン・オルブライトを殺るチャンスは、まだ完全に失われたわけではない。プロとしてのプライドが辛うじて、妹尾自身にそう語りかけていた。だからこそ危険を冒してもP7M8を携行している。
だが昨夜感じた、自分にケンを撃つことはできないという予感は、今や確信へと変わっていた。
「さて、そろそろ集合時間だから行こっかな。妹尾さん、このお面、預かってもらっていいですか」
「うん、いいよ。はは、可愛いネズミの坊や。『トムとジェリー』だっけ」
「じゃなくて、トッポ・ジージョっていう・・・」
「ああ、いたよね。懐かしい。いい歳したオヤジが被ってたら怪しすぎるから、大事に持っとくよ」
「後で、わたしが花道通る時にそれ被って下さいよ。ケンさんと二人でお面つけてたら、わたし、遠くからでも二人のことが分かるもん」
「でも、舞子ちゃんが真剣にやってるのに、笑わせたら悪くないかね」
「大丈夫。わたし、小さい頃から睨めっこで負けたことないから」
「はは・・・それ、関係あるかね。どうするね、ケンさん」
「もちろん。やろうね、それ楽しいね」
今まで黙って聞いていたケンは、ちょっとしたおふざけに大いに乗り気だった。
「分った。じゃぁ舞子ちゃんがここを通る時に、いい歳こいたお面の二人組が見守ってるから。どうぞ安心して魚、お供えしてください」
「あは、やったー。じゃあさ、願い事教えて。わたしが代わりにお願いしてくるから」
「いや、いいよ。舞子ちゃんが自分の願いをちゃんと伝えてきなさい。なぁ、ケンさん」
「そう。それがいいね。舞、あなたの願い事を叶えるのがいいね」
「わたしの願い事ねぇ・・・」
そのまましばらく押し黙った三人だったが、各々の願いは、実はそれほどかけ離れたものでないことを、本人たちは知る由はなかった。
「舞子ちゃーん、時間だよ、時間」
慌てた様子で実行委員の相沢がやってきた。
「お、さすがだね。天ヶ浜一の別嬪さんだ。彼氏の方も楽しんでる?」
そう言いながらケンを肘で小突いた相沢は、返事も待たずに妹尾に向かって言った。
「あんた、カメラマンだったよね。今日は頼むよ」
妹尾が何か言おうとする前に、すでに相沢は舞子を急かしていた。
「さぁ、舞子ちゃん。みんな待ってるから早く行こう、行こう」
「はいはい。じゃぁケンさん、妹尾さん、また後でね」
闇の中に、山の中腹にあるこの神社の境内だけが、無数に吊るされた提灯の明かりで浮かび上がっていた。海の方から見たら、空中に浮かぶ異空間と、そこへと通じる道しるべのように見えたとしても不思議はない。
今や、境内は見物人でぎっしり埋まっており、期待混じりの喧騒に包まれている。
「そこのお二人さん」
妹尾とケンが揃って振り向くと、悦子が立っていた。
「あ、これはどうもこんばんは。もうじき始まりますよ。舞子さんもう行っちゃいましたから」
「ええ。ほんとはもっと早くに来れたんですけど。舞子に見つからないようにって思って、ギリギリに来たんです」
「そうなんですか。でも舞子さん、お母さんが来てるって分かっても気にしないんじゃないかなぁ。全然緊張してないって言ってましたし」
「そう?でも、あの子の性格からすると、少なくとも事前に行くわよって言ったら、きっとダメって言ったと思うの・・・それより、なあに、二人してそのお面」
悦子は、妹尾とケンが頭にお面を斜めがけにしているのを見て言った。
「あ、いや、これにはちょっとした理由がありまして、な、ケンさん」
「そうね、変身、楽しいね。舞が喜ぶよ」
「へぇ、そうなの。変なの」
悦子は嬉しそうに笑った。
そこに小鼓の乾いた音が響き渡った。続いて太鼓が大きな音で打ち鳴らされて空気を震わせた。一瞬で人々のざわめきは止み、水を打ったように静まり返った。
ひな壇の方に目をやると、いつの間に現れたのか、和装に身を包んだ四人の男が小鼓と太鼓を打ち、横笛を吹き始めた。あちらこちらからカメラのシャッター音が響きストロボが焚かれる中、ひな壇へと続く花道からは、精巧な木彫りのお面をつけて神様を演じる者と、二人の従者がゆっくりと歩いてきた。従者の手には松明が握られており、たっぷり時間をかけてひな壇までたどり着くと、四隅に置かれたかがり火に火を灯した。
元々、天懇献呈の儀は能楽をベースにしており、屋外で行われるため薪能に近いものだった。演目は天ヶ浜に伝承されている民話で、地元の者なら誰もが知っている内容のため、能楽の知識がなくても楽しめるものになっている。
ケンは、演じられる内容は一切理解できなかったが、それでも日本の伝統芸能に触れているという事実が嬉しく、風変わりな舞台に目が釘付けとなった。
妹尾は、今さらカメラマンを演じるのもバカらしいと思いつつも、カメラのシャッターを切った。舞子が花道を歩いてきたら、とっておきの良い表情を撮ってあげようと、自分でも気づかぬうちに張り切っていた。
天懇献呈の儀は終盤に差し掛かり、いよいよ十二遣徒の登場となった。提灯で照らされた花道を歩く十二人は、子供から青年、壮年、中年、熟年とそれぞれの世代の男女が選ばれておりバラエティに富んだメンバーで構成されていた。
衣装も自前なのでバラバラだが、全員が十二遣徒の証である赤いショールのような布を肩から掛けていた。手に持ったヒノキのお盆には燻製や缶詰、生の魚まで様々な魚介類が乗せられていた。