そこは確かに在った。
路線図を片手に、新幹線と在来線を乗り継いで約七時間。ケンは、呆気ないくらい簡単に、幻の町にほど近い駅に降り立ってしまった。
駅からしばらく歩き、やがて海岸沿いの道路に出た。ひと月ほど前にトラックに揺られながら通ったのは間違いなくこの道だ。地図によれば、ここを北に向かって十㎞も行けば例の演習場がある。だとすれば、その途中にあの町もあるはずだ。
日本海を左手に臨みながら、海に沿って歩き続けるケンは、やがて見覚えのある景色に出会った。
正確には見覚えのある景色ではない。自分の記憶にあったものとは明らかに違った印象である。しかし手元の地図も、そして自分の直感も、間違いなくあの町に到着した事実を告げている。
駅に着いた時点でかすかに感じた落胆は、実際に町に足を踏み入れてみて、確かなものとなった。
幻の町でも何でもない、どこにでもありそうな田舎町である。
ケンがトラックの荷台から見た幻想的な祭りはとっくに終わっていた。それと同時に魔法が解けてしまったかのようだ。
ありふれた日常の弛緩した空気が町を覆っていた。
早朝に東京を出発していたため、目的地に着いてもまだ陽は高かった。先ほど、駅前に古びたビジネスホテルがあるのを見かけていたから、今夜の宿泊先は心配ない。せっかく来たのだ、この小さな町をちょっと散策してみよう。
そう決めたケンは、当てもなく小さな路地を歩いてみた。
一週間も休暇を取ったのは、ここを探し当てるのが困難だろうと予想したからだが、こうもあっさり目的を遂げてしまっては、どうしてみたものか。明日には早々にここを出て、沖縄に帰る前に、東京観光でもしてみようか。
そんなことを考えながら、何とはなしに歩くケンの目の前に、一軒の喫茶店が現れた。
祭りが終わった後も、そこだけが魔法の解けないままの姿で日常の中にひっそりと、しかし堂々たる存在感で佇んでいる。そんな雰囲気を漂わせる個性的な店だった。
入り口のドアを挟んで、左右に二つずつある窓は、カラフルなステンドグラス製だった。それらは、同じ樹木のモチーフを異なるデザインと色使いで表現した作品のようだった。
ステンドグラスの美しさにすっかり魅了されたケンは、気がつくと入り口のステップをゆっくりと上がっていた。
ドアの上に吊り下げられた木製の看板は、潮風に吹かれ続けた結果、辛うじて木目は見えるが、ほとんど石のような風合いになっている。その吊り看板には一本の木の輪郭と、日本語による店の名前が焼き印で記されていた。
ケンには、その「ゲルニカの木」という日本語は読めなかった。日本語の下に小さくラテン文字でGernikako Arbolaと刻印されている。きっと店の名前だろうが一体何語なのだろうか。ケンは緊張しつつ店の扉を開けた。
客のいない店内には静かなクラシック音楽が流れ、コーヒーの香りが立ち込めていた。
左手奥に見えるカウンターの上には、コーヒーミルやドリッパーが並んでいる。
カウンター内の壁に取り付けられた木製の棚には、種類ごとに分けられたコーヒー豆を密封したガラス製のポットがずらりと並ぶ。恐らく自家焙煎のコーヒー豆だろう。
この店の主が、コーヒーに対して拘りを持っているのはすぐに分かった。
カウンターの向こうに立つ店主は女性だった。
歳は五十代前半位だろうか。それなりに人生の年輪を刻んだ顔ではあるが、今もある種の気品と美貌を備えており、若い頃はさぞかし美人だったであろうと容易に想像できる。