ステンドグラスの狼

雨は海面を打ち、波が沖に向かって「くの字」形に伸びる防波堤にぶつかっては白く砕けた。のんびり釣りなどできる状態ではなかった。
幸い風はなく、寒くないのが救いだった。むしろ、雲が昨日の暖気を閉じ込めているため、この時期にしては珍しく蒸し暑く感じるほどだった。
こんな状況の中、傘を差しながら防波堤の突端に向かって歩く妹尾とケン。
その姿は、傍目にはきっと奇異に映っただろうが、海岸に人の姿はなく、海上に船もない。異様な二人組を気にする者は誰もいなかった。
9ミリ弾の発射音は確実に波の音にかき消されるはずだ。
悪天候の中を釣りに出かけた二人が戻らなければ、やがて警察による捜索が始まるだろう。
そして、遅からずケンの遺体が発見されるだろう。
それでも、ケンは防波堤から転落して溺れ死に、死体が上がらず行方不明の妹尾も海に沈んでいる。
誰もがそんな風に考えるに違いない・・・しばらくは。
妹尾にとっては望み得る最高の状況だ。

妹尾の後について歩きながら、ケンは不思議で仕方なかった。
こんな雨にもかかわらず、妹尾はなぜ釣りにこだわるのか。
一昨日の飲みの席では、天ヶ浜の伝説に惹かれて、自分もちょっと釣りを楽しみにしていたのは確かだ。
しかし、悪天候に見舞われるとは予想外だった。
今となっては、わざわざ雨に打たれながら釣りなどやりたくない。
とは言え、釣り具まで用意されては仕方ない。
小一時間も釣り糸を垂れて、それで釣果がなければ切り上げよう。
妹尾だってきっと諦めるに違いない。

二人は、防波堤がくの字に折れたさらに先の突端までやってきた。
「さて、ケンさん、この辺で始めようか」
ビニールシートを敷いて荷物を置くと、すぐさま釣りの準備に取り掛かった。
妹尾が仕掛けを作っている間は、ケンが傘を差し、次はお互いの役割が入れ替わる。そんな風にやってみたが、いかんせん二人とも釣りは素人のため、仕掛けを準備するだけでも大いに手こずった。
妹尾が今朝、天ヶ浜の釣具店から調達した生餌のゴカイは新鮮で活きがよく、濡れた手で釣り針に刺すのは一苦労だった。そして、この雨では傘など差してもたいして役に立たないことも早々に理解した。
雨に濡れながら、二人がどうにか海面に釣り糸を垂れるまでに二十分が過ぎた。
ケンは比較的波の穏やかな防波堤の右側に、陸地の方を向くかたちで腰を下ろした。意味をなさない傘を使うのはとっくに諦めていた。ベースボールキャップは雨水を含んで早くも重たくなり始めていた。
「ケンさんがそっち側なら、自分はこっちで釣ってみるか」
妹尾は沖を向くかたちでケンの反対側に腰を下ろした。打ち寄せる波がもろに防波堤にぶち当たる側である。そんな場所で釣りなどあり得なかったが、妹尾があえてこちらに陣取ったのは、ケンに背を向ける形で腰を下ろしたかったからだ。これなら気づかれることなくケンの背後に立てる。
傘を差しながら、荒波に向かって釣り竿を握る妹尾。その背中に向かってケンが「幸運を」と声を掛けた。

無言のまま十分以上が過ぎていった。
防波堤を激しく叩く波音と傘を打つ雨音。それに混じって、岸辺の方から微かに太鼓の音が聞こえる。こんな天候だが祭りは無事に始まったらしい。
ケンを背後から襲うタイミングを慎重にうかがう妹尾の中で、シャツの下に隠したP7M8が徐々に存在感を増していった。
その時、ケンがおもむろに立ち上がる気配がした。
妹尾が振り返ると、ケンは脱いだばかりのびしょ濡れのシャツを雑巾のように絞っていた。雨に打たれる上半身は、元兵士らしく無駄な肉が一切ない。まるで野生の動物を思わせる佇まいだった。
「これで今日のシャワー、必要なしね」
ケンの言葉に、妹尾は軽く笑いながら頷いてみせた。
ケンの左腕に彫られたドクロと短剣のタトゥーが目に留まった。海兵隊時代の名残に違いない。妹尾は、あえて英語でケンに話しかけてみた。
「そのタトゥーは?」
いきなり妹尾の口から出た英語は、ワンフレーズとはいえ流暢だった。発音は日本語訛りだが、それでもケンを驚かせるには十分だった。
絞ったシャツを再び着こみながら、ケンも不自由な日本語をやめて英語で返した。
「英語しゃべれるなんて知らなかったよ」
「こう見えて、実はフランス語だって少しいけるんだ」
にこにこしながら妹尾は続けた。
「そのタトゥーは軍隊で?」
なぜ、そんなことを聞いてみたくなったのかは、妹尾自身分らなかった。これから殺そうとする人間のことを詳しく知ったところで良いことなど何もない。それでもなぜか今、ケン・オルブライトにターゲット以上の興味を持ち始めている自分がいる。
「そうなんだ。言ってなかったと思うけど、俺は昔、海兵隊にいてね。その時のチームのタトゥーさ。沖縄にもしばらく駐留してたから、そのおかげで日本語もちょっとだけね」
そう言いながら、ケンはタオルで濡れた顔をごしごし拭いた。
「ほぉ。ケンさん海兵隊にいたのか。で、今はなぜ天ヶ浜に?」
舞子が、除隊の理由はちょっと聞けない雰囲気とか言ってたな。
そう思い返しながらケンの方に向き直った妹尾は、しっかりとあぐらで座りなおしてから改めて尋ねた。
「差支えなければ聞いていいかな、海兵隊を辞めた理由」
顔を拭く手を止めたケンは、タオルに埋めていた顔をゆっくり上げると、しばらく無言で妹尾の顔を見据えた。
ケンの表情から、その考えを推し量ることは難しかった。険しい表情で妹尾を睨み返しているようにも思えるが、単に雨に濡れてそう見えるだけかもしれない。
やがてケンは、肩をすくめてみせると、何も言わずに釣れる見込みもない釣りを再開した。
釣り竿を握ったまま無言で佇むケンの背中を見ながら、妹尾はしばらく待ってみた。
・・・話す気はなしか。では、この辺で終わりにしよう。
妹尾は、傘を差したまま、空いた右手を懐にそっと差し入れると、拳銃のグリップを握り込んで安全装置を解除した。
P7M8をシャツの下から取り出し、銃口をケンの後頭部に向ける。
妹尾がみせた一連の動きは一切の無駄がなく、動作の気配さえ感じさせないほど滑らかだった。
微動だにしない銃口からケンまでの距離は1メートル強。
左後方の死角ギリギリの位置から狙うは左耳の付け根。
弾丸の入射角およそ四十度はこの条件ではベスト。
しくじることは先ずない。
トリガーにかけた妹尾の人差し指に力が入った。
その刹那、ケンがおもむろに口を開いた。
「仲間が死んだんだ。戦いの中で・・・兄弟同然の連中だったんだが」
ケンの視線は、釣り糸を垂れた海面に向けられていたが、その目には何も見えていなかった。
物音一つ立てずに拳銃をシャツの下に隠すと、妹尾は静かに次を待った。
「俺の兄貴も死んだ。頭が吹っ飛ぶのが見えたんだ。まさかリックが死ぬなんて、そんな事あるわけないって思ってたんだがな」
「ケンさん」
妹尾の呼びかけも耳に入らないかのように、ケンは話し続けた。
「リックや仲間たちの遺体は、今もコロンビアのジャングルに置き去りにされたままだ。国のために戦ったっていうのに野ざらしで・・・無念だろうよ。俺は連中に約束したんだ。必ず戻るって・・・だが、もう二年が・・・」
「分かった。もし気が進まないなら話はそこまでにしてくれ」
妹尾の言葉を受けて、ケンは振り返るそぶりをみせた。
「だがな、ケンさん。話すことで少しでも楽になるんなら、聞いてやることくらいはできる」
妹尾は、雨に濡れるのもお構いなしに、差していた傘をわざわざ畳んだ。ケンの話を聞かせてもらうにあたって、なんとなく同じ位置、条件に身を置かねばならないと、そんな風に感じたのだ。だから、先ほどから傘も差さずにタオルを頭に巻いただけで、雨に濡れているケンをまねてみた。
ケンは軽く頷くと再び海の方に向き直って、しばらく無言のまま雨に打たれていた。
あの時も雨が降っていた。今みたいに生暖かい雨だった。
目に焼き付いて、消すことのできない映像。
鼻の奥に、今もはっきりと蘇る匂い。
耳を聾する炸裂音。
脳みそにこびりついて、絶対に一生涯忘れられない出来事。
それらを反芻しながら、ケンは静かに話始めた。
それは、二年前の夏に南米コロンビアで麻薬組織を壊滅すべく極秘裏に実行された「神の鉄槌作戦」の顛末だった。

二年前の1992年。その夏は記録的な猛暑で今も人々の記憶に残っている。そしてケン・オルブライトにとっては、人生を大きく変える特別な夏となった。
南米コロンビアでは、七十年代より麻薬密売組織が勢力を拡大しはじめていた。
組織の巨大ネットワークは、コカインを中心とした麻薬の生産から加工、販売までをも手掛け、ドラッグビジネスで生み出される莫大な資金が、警察や治安組織の買収を可能にした。
巨万の富を築いた麻薬王たちは、強力な武器を有する私設軍隊で武装し、軍や敵対グループとの抗争に明け暮れた。麻薬王の私設軍は、欧米からフリーランスの優秀な兵士を顧問に迎えることで練度を上げ、その能力はコロンビア正規軍を凌駕するほどになっていた。
中でも最大の組織メデジン・カルテルを創設したパブロ・エスコバルは、強大な麻薬帝国を築き、警察官をはじめとする敵対人物四百名以上を殺害。絶対的な恐怖でコロンビアを支配していた。
世界最大の麻薬消費国という汚名を冠するアメリカにとって、パブロ・エスコバルの存在は長年、頭痛の種だった。
八十年代後半、コロンビアから大量に流入するコカインの元を絶つべく、アメリカの諜報機関が行動を開始。パブロ・エスコバルの殺害とメデジン・カルテルの壊滅を最終目的とするアメリカの麻薬戦争がここに幕を開けた。これはDEA(米国麻薬取締局)、CIA(中央情報局)、特殊作戦群直属の情報部隊ISA、さらに特殊部隊、海兵隊が参加する、アメリカが国家の威信をかけた総力戦に発展した。
それから数年後の1993年には、米軍特殊部隊の協力を得たコロンビア警察特殊部隊が、遂にパブロ・エスコバル殺害に成功する。長年に及ぶ麻薬戦争の大きな区切りとなったその出来事は、世界的にも大々的に報道された。
だがその前年に、ジャングルの奥地にあるパブロの麻薬精製工場を破壊すべく、非公式軍事作戦「オペレーション・ゴッズ・ハンマー(神の鉄槌作戦)」が実行されたことを知る者は、米軍の関係者でも多くはない。

1992年の夏。作戦実行の三ヵ月前から、コロンビア在中のDEA捜査官が身分を隠して工場に潜入していた。この勇敢な捜査官は周囲の目を盗みながら、メデジン・カルテルの誇る強大なネットワークに関する情報をアメリカに送り続けた。
これらの情報は、パブロの巨大帝国崩壊の決め手となる非常に重要なものだった。捜査官は、潜入してからの三ヵ月間で工場から盗み出せる情報のほとんど全てを入手していた。そろそろ姿をくらますべき時期だった。
だが、さすがにメデジン・カルテル最大規模の工場だけあって、365日、二十四時間を通じて警戒態勢が敷かれていた。周囲は見渡す限り広大なジャングルに囲まれており、捜査官が自力で工場を脱走することは不可能だった。
この状況を考慮した結果、立案された作戦は二段階の複雑なものとならざるをえなかった。
第一段階は捜査官の救出。陸軍の極秘部隊デルタフォース(第1特殊作戦部隊デルタ分遣隊)がその任務につく。
第二段階は工場の爆破。捜査官の救出が終了しデルタが現地を離脱した直後に、海兵隊のF/A-18ホーネットが空対地ミサイルで工場を爆破する。
こうして大まかな骨子が整った作戦だが、詳細を具体化してゆくのに必要な情報は現地でしか入手できない。そこで作戦実行に先駆けること一週間、ジャングルに極秘裏に潜入し、偵察及び情報収集活動を行っていたのがリック・オルブライト上級曹長率いるフォース・リーコンのチーム、コードネーム・ヴァイパー(毒蛇)だった。そこにケンも、そしてロバート(ボブ)・ワナメイカー一等軍曹もいた。

深夜、人気のない海岸に上陸を果たしたリック率いるヴァイパーは、そのまま二日間に渡って細心の注意を払いながらジャングルの中を移動。三日目の夜明け前には、工場にある唯一のゲートまで百五十メートルの位置に迫った。
ゲート近辺を見渡せる場所に三メートル四方の監視所(アルファ・ツー)を設営し、カモフラージュネットと野生植物の葉などで完璧な偽装を施す。こうした技術もフォース・リーコンが得意とするところだった。
蒸せるような湿度で自然のサウナと化す日中のジャングルでは、目標の監視以外にできることはほとんどない。アルファ・ツーでは、所せましと体を寄せ合う十二人の海兵隊の猛者が、ジャングル特有の虫たちに耐えながら、ひたすら日が暮れるのを待っていた。
夜になり、辺りが漆黒の闇に包まれてからが彼らの本領発揮となる。行動最小単位となるツーマンセル(二人一組)の計三組ブラヴォー・ワン、ツー、スリーが静かに動き出すと、三十分後には全セルが工場を三方から監視可能な位置についた。
リーダーのリックを含む残りの六名ブラヴォー・ゼロは、引き続きゲートを監視しながら、各セルから送られてくる情報をまとめ、それらを特殊作戦群(SOCOM)司令部に送信する。
その情報をもとに、どのような具体的計画が立案されるのかは、リック達の知るところではない。彼らに与えられた任務はあくまで敵地の偵察、情報収集とデルタによる救出作戦のバックアップだった。
フォース・リーコンがもっとも得意とするのが、そうした縁の下の力持ち的な任務であるため、作戦の「おいしい部分」は、特殊部隊に持っていかれることが常であり、それはやむを得ないと理解しつつもボブ・ワナメイカーは、時折そんな現状に愚痴をこぼしていた。
ケンが、ボブとのコンビで工場の北側面の監視任務についていたこの時も、ボブはひそひそ声で「デルタの連中なんかに頼らなくたって、俺たちだけで救出できるぜ。なぁ、ケンよ」とぼやいていた。

監視任務の三日目には、工場の警備体制を完全に掌握していた。
鉄壁の要塞であろうという予想に反して、工場の周囲を守るのは高さ二メートルにも満たない塀と、その上にめぐらされた鉄条網だけだった。その塀も丸太を組んで作られた簡素なものである。これは急襲作戦にとっては吉報だった。
そもそもジャングルの奥地に部外者がやってくることなど先ずあり得ず、外敵に対する厳重な警備を必要としないのだろう。
ゲートのすぐ内側に二人の見張りが待機しているほか、敷地内をさらに三名の武装兵士が壁に沿って巡回しているが、これは外からの侵入者ではなく内部からの脱走者に目を光らせているのだ。おそらくコカインを盗んで姿をくらます作業員対策だろう。
実際、パブロ・エスコバルの麻薬を盗んで生き延びられるはずもなく、そんなハイリスクを冒す愚か者などいはしない。その意味では、この敷地内の警備は作業員への警告、威嚇以上の意味はないと考えられる。
二十四時間の警備体制とは言え、とりわけ夜間は兵士の態度もだらけ気味で警備がおざなりになってくる。作戦は、この隙に付け込んで深夜に実行されるはずだ。
たまに寝付けない作業員がタバコを吸いに、トタン屋根の宿舎から出てくることもあるが、不確定要素を完全に取り除くことは不可能なので、そこはやむを得まい。
むしろこの状況は有利に利用できるはずだ。DEA捜査官が、タバコを吸う振りをして建物の外に出て、救出にくるデルタを待つよう仕向けることも可能だろう。
大きな不安要素は、敷地内の南側に確認できた倉庫の存在だった。そこに武器、弾薬が詰まっていると考えられる木箱が大量に運び込まれるのを目撃した。パブロが強力な私設軍隊を持っているのは聞いている。おそらくあれが武器庫に違いない。
この事実からも、正面突破は選択肢から消える。万一、戦闘になった場合は、相当厄介な事態に陥ることは確実だ。司令部がその点を十分に考慮した作戦を立案することを、リック・オルブライトは祈った。

工場の警備状況を把握したリック率いるヴァイパーは、続いてデルタのLZ(降着地域)となるアルファ・ワンを選定のための偵察任務を開始した。
工場のすぐ近くに、ジャングルを切り開いて作られた簡易滑走路がある。ヘリの離着陸には理想的だが、ここを使うのは自殺行為だ。滑走路とは別に、北側一㎞ほどに直径百メートル程度の開けた台地があるのは、偵察機が撮影した航空写真で分っていた。そこが現実的にアルファ・ワンとして、LZおよび離脱時のLDVZ(集合地)に使える場所なのかを確認しておく必要があった。
偵察の結果、幸いなことにリックの目から見て、その場所は潜入及び離脱には理想的だった。デルタがHALO(高高度降下低高度開傘)降下可能なだけでなく、離脱時のヘリコプターの離着陸も、腕利きのパイロットであれば楽勝といえる広さだった。
問題があるとすれば、工場からこの開けた台地までのおよそ一㎞の道のりが、歩行も困難なジャングルであるということだ。敵に気づかれることなく捜査官を奪取し、その後、道なき道を踏破してここに辿り着かねばならない。
万一、交戦となった場合には、この一㎞が間違いなく死のロードと化すだろう。
リックはアルファ・ワンの状況を司令部に連絡すると、次にケンたちに脱出経路沿いの数か所にクレイモア指向性対人地雷の設置を命じた。使われないに越したことはないが、万一に備える必要がある。
クレイモア地雷には特殊な周波数の電波発信機が付属しており、受信機を持った隊員が地雷の半径三メートル以内に接近すると点滅して知らせてくれる仕組みになっている。この装置のおかげで、暗闇のジャングルであろうとも地雷の位置を見失うリスクは大幅に減少するのだ。
リックたちは、再び工場のゲートを前方に臨むアルファ・ツーまで密かに戻って待機した。後は司令部からの連絡を待つだけだった。

一週間前にコロンビアに潜入し偵察任務についたフォース・リーコンのチーム、ヴァイパーから送られてくる情報は、専任の情報分析士官が吟味し作戦が具体化された。
総指揮はSOCOMの司令官が執り、実働部隊として陸軍のデルタフォースが出動する。
デルタチーム=コードネーム・アルバトロス(あほうどり)は、深夜未明コロンビアの上空四千メートルを飛行する輸送機からHALO降下。
アルファ・ワンで待機するヴァイパーと合流後、彼らの先導でアルファ・ツーまで移動。
隠密裏に工場敷地内に侵入し、見張りを処理。
救出対象である捜査官(タンゴ)の身柄を速やかに確保。
ヴァイパーと共にアルファ・ワンを目指し、そこに待機するヘリで離脱する。
捜査官の確保後にUH-60ブラックホークヘリコプターを呼び出し、アルファ・ワンに待機させておくのだが、このタイミングは非常に難しいことが予想された。
アルファ・ワンは工場から一km離れているとは言え、ヘリのローター音は深夜のジャングルの遥か彼方まで轟くだろう。すなわちヘリの到着が早過ぎては、敵にその存在を気づかれる危険がある。
とは言え、遅すぎてもまずい。というのも作戦の第二段階である空爆は実行時間が厳密に決められているからである。
作戦自体が機密のため、空爆は夜明け前に密かに実行されなければならない。そのためには、現地が夜明けを迎える0430時より前に、カリブ海沖に展開する空母からホーネットが発進する必要がある。これは本作戦において、変更できない条件の筆頭だった。
そこから逆算すると、0400時には米軍チーム、アルバトロスとヴァイパーはヘリに乗って現地を離脱しているのが望ましい。逆に言えば、敵地脱出の遅れはすなわち空爆の中止を意味する。
司令部では、米軍チームの離脱に時間的余裕を持たせるため、作戦開始時刻を前倒しにする案も検討された。だが、それでは作戦の第一段階である急襲が危険にさらされることになると結論。その案は速やかに却下された。実際、捜査官の救出は工場が寝静まった深夜だからこそ遂行可能なのは事実だった。
そのため神の鉄槌作戦のタイムスケジュールは非常にタイトにならざるを得なかった。

デルタの隊長、マット・ダニエルズ少尉は、融通の利かないタイムスケジュールに不満を感じてはいたが、自分の部下たちならば問題なくやってのけると確信していた。何といってもデルタは世界最高水準の訓練で鍛え抜かれた超エリート集団であり、ソルジャーではなくオペレーターと呼ばれる隊員たちが最も得意とする任務こそ、まさに今回のような人質救出なのだ。
ダニエルズが不安視していたのは、作戦にコロンビア陸軍士官を同行させなければならない点だった。
コロンビア国内でアメリカ軍が単独軍事行動を行うわけにはいかない。そこで、デルタに同行するかたちでコロンビア陸軍の士官が作戦に加わることになっているのだ。これで、パブロ・エスコバルの麻薬工場を壊滅させたのはコロンビア軍という建て前を保つことができる。
パラシュート降下の経験もない士官を作戦に参加させるなど言語道断だと一度は食って掛かったが、その決定事項が覆されることがないのは、ダニエルズ自身がよく分かっていた。それが軍隊というものだ。
作戦開始は三十六時間後に決まった。0100時にはコロンビア上空を飛ぶハーキュリーズから闇夜に飛び出し、明かり一つないジャングルの上空を時速320㎞で自由落下していることだろう。

決定された作戦計画を受け取ったリック・オルブライトは、チームメンバーに詳細を説明しながら考えていた。
デルタは困難もなく捜査官救出に成功するだろう。気になるのは時間的余裕のない作戦スケジュールだった。不測の事態に陥ることなく、計画通りに遂行されてちょうど良いという程にタイトで余裕がない。敵との交戦だけは絶対に避けねばならない。
作戦は成功させる。そして必ず全員を無事に帰還させる。それがリーダーとしての責任だ。
その時、リックの脳裏に浮かんでいたのはケンの顔だった。大切なチームの仲間に上も下もない。だから、極力ケンのことを特別扱いしないように努めてもいた。だが本音は違った。この世界でただ一人、血を分けた弟だけは自分や他の仲間たちがどうなろうとも、決して死なせはしない。それが兄としての責任なのだ。
ふと、幼き頃、母が自分たちの前から姿を消した時に言い残した言葉が蘇った。
「リック、あなたはお兄ちゃんなのだから、ケンを助けてあげてね」
リックの双肩に重圧がのしかかってきた。胃の辺りに鉛を飲み込んだような不快な感覚が湧き上がる。だが、こうしたプレッシャーに対処するのもまたリーダーの、そして兄としての義務なのだ。

太陽が沈み、それからさらに四時間後。工場もすっかり寝静まった頃、ケンをはじめとする四名のリーコン隊員が暗視ゴーグルを装着すると、監視所を後にしてアルファ・ワンに向かった。
生い茂る樹木によって月光が遮られるため、夜のジャングルはまさに漆黒の闇だった。暗視ゴーグルが微かな明かりを増幅し、緑色の平面的な視界を提供してはくれるが、この装置は目に極度の負担をかけるので、ときおり外して目を休める必要があった。
デルタとの合流までにはまだまだ時間があるので、あえて急ぐことはせずに、昨夜設置したクレイモア地雷の位置を再確認しながら慎重に前進した。
ケン達がアルファ・ワンに到着したのは、アルファ・ツーを出発して一時間近く経ってからだった。密林の先に開けた台地は月光に照らされており、暗視ゴーグルの必要はなかった。
ボブの指示のもと、早速二手に分かれて目印となるストロボマーカーを設置する。これは肉眼では分からないが、赤外線暗視ゴーグル越しには点滅して見え、デルタフォースはこれを目印に降下してくるのだ。
すでに複数回の実戦を経験しているケンだが、これほど大掛かりで、しかも他の部隊との合同作戦は今回が初めてだった。交戦の可能性はこれまでの実戦でもあったが、今回ほどタイムスケジュールが細かく決められている任務はなかった。
ケンは急に不安に駆られ、一瞬パニックに陥りそうになった。だが、隣でリラックスして瞑想にふけるボブに、そんな弱気な自分を感づかれたくなかったので、規則的な呼吸を繰り返して極力平静を装った。
他の二人の隊員も、各々が物思いに耽りながら作戦の開始を待っていた。あと二時間もすれば夜空にパラシュートの花を咲かせながらデルタが舞い降りてくる。

0030時。カリブ海上空を飛行するハーキュリーズの中で、八名のデルタフォースがリラックスしつつも、間もなく始まる作戦にむけて意識を集中していた。
同乗しているコロンビア軍士官はパラシュート降下の経験がないため、ベテランジャンパーの隊員と一緒にタンデムジャンプ(一つのパラシュートで二人が降下すること)で降下することになっているが、恐怖による緊張は隠しようもなく、そのせいかやたらと喋りまくっている。「アメリカ軍は立派」「デルタフォースは最強」などと、おべっかを使って隊員の機嫌を取ろうとしているが、そんな態度こが真っ先に軽蔑されることに気づいていないのは哀れでしかない。
やがてハーキュリーズはコロンビア上空に到達した。
デルタの八名は、赤外線ゴーグルを装着しながらゆっくりと立ち上がった。
輸送機の後部が開き、機内が轟音に満たされた。
ぽっかりと口を開けた後部ランプドアの先には、月明かりで思いのほか明るい夜空が見えている。
スロープをゆっくりと進む隊員たち。
時刻は0100時きっかり。
降下合図のランプが緑色に変わると、彼らは一切の躊躇もなく、まるで近所の散歩に出かけるかのような調子で、夜空に向かって飛び出していった。

生い茂る樹木と開けた台地。その境目に身をひそめながら上空を見守るケン達、四名のリーコン隊員。
やがて、パラシュートを巧みに操縦しながら降下してくるデルタの姿が見えてきた。
八名のデルタオペレーターは、台地のど真ん中にほとんど音もたてずに着地するやいなや、パラシュートを回収。すぐさまコルトM733アサルトライフルを構え、四方を警戒するフォーメーションをとった。どう動くべきか分からずに立ち尽くして、間抜けな姿をさらしているのはコロンビア軍士官だった。
デルタに合図を送り安全を確認後、ボブを先頭にリーコンの四人が木々の間からそっと姿を現した。
ボブがダニエルズ隊長と最小限の会話を交わし、この後の行動を確認する。
デルタ隊員全八名のうち、狙撃兵を含む四名がこの場に残って離脱時の援護とヘリの誘導につく。
ダニエルズ隊長を筆頭とする後の四名とコロンビア軍士官は、リーコンの先導でリックらの待つアルファ・ツーを目指す。
無駄に出来る時間は一秒たりとなかった。暗視ゴーグルを装着したケンを先頭に、一行はジャングルの闇に姿を消した。

デルタ隊員はさすがにプロの兵士で、道なきジャングルを移動する要領を心得ていた。だがコロンビア軍士官はそうはいかない。すぐに隊列から遅れ始めただけでなく、歩く度に無駄に大きな音を立てていた。いっそ殴って気絶させ、担いで進んだ方が利口なのではないかと真剣に考えたくなるほどだった。
そんな状態で一㎞の道のりを進み、アルファ・ツーに到着したのはアルファ・ワン出発から一時間以上後だった。
リックがダニエルズ隊長と状況及び作戦行動の確認を行った。
その間にリーコンの六名はツーマンセルでブラヴォー・ワン、ツー、スリーそれぞれが、三方から工場を監視できる位置に再び向かった。各セルは、デルタの四名が敷地内に潜入し捜査官を連れ出す間、それぞれの位置から現場を監視し、必要とあらば援護を行う。
ブラヴォー・ワン、ツー、スリーが全て位置に着いた。
救出対象の捜査官には、最後の通信時に作戦の段取りが伝えられており、今夜0240時過ぎに、タバコを一服するふりをして外に出くることになっていた。もう五分もすれば姿を現すはずだ。

四名のデルタ隊員は二手に分かれて、迂回するようなルートで工場のゲートまで慎重に歩を進めた。
工場の明かりが点々と灯っているため、暗視ゴーグルが必要ないのはありがたかった。月のない闇夜さえ昼間のように浮かび上がらせる利器ではあるが、視界が限られて遠近感も曖昧になるため、ゴーグルを使用しないに越したことはなかった。
数分後には、中からは死角となるゲート両脇に待機して潜入のタイミングを待った。
ゲートの扉は閉まっており、この位置から敷地内は一切見えないが、捜査官が表に出てきたら、アルファ・ツーで監視中のリーコン隊員から連絡が入ることになっている。
ここから扉一つ隔てたすぐ内側には、二人の兵士が名ばかりの警備についている。奴らを仕留めるのにはサプレッサー付きの拳銃を使用する。各隊員の好みに合わせてカスタムメイドされた世界に一丁のコルトM1911である。ゲートの扉を乗り越えて、敷地内に着地すると同時に兵士を倒す。連中は何が起こったかを把握する前に絶命するだろう。
そこからタンゴを連れて脱出するまで、早ければ二十秒でケリがつく。あとは音もなくジャングルの闇に紛れ、アルファ・ワンで待つブラックホークヘリに乗り込んで帰投する。朝には美味いコーヒーと温かいベッドがお出迎えだ。
ダニエルズ隊長は、溢れ出すアドレナリンを自在にコントロールするかのような冷静沈着さで、その時を待った。
傍らに待機する隊員も、ゲートの反対側で位置につく二人も冷静そのものだった。
彼らの技量を誰よりも知るダニエルズは、この極限の緊張状態においても落ちつき払い、むしろ安堵さえ感じていた。

工場内の宿舎から、一人の男がふらりと出てくるのが、ケンとボブの位置から確認された。
捜査官=タンゴだ。
男は煙草に火をつけると、門を警備する二人の方に向かって歩きながら、気楽な感じで何事か話しかけている。
塀の向こう側で待機しているデルタから極力、注意をそらせるための行動だった。
ボブはその状況を、骨振動マイクでささやくようにリックに告げた。
リックはそれをダニエルズに伝えた。
いよいよ始まる。

その時、不意に一発の銃声が鳴り響いた。
「馬鹿な!」
悪態をつきながらダニエルズは、この最も重要なタイミングで一体何が起ったのかを把握すべく辺りを見回した。
敵か、味方か。撃ったのは一体誰だ。

工場の三方から監視していたフォース・リーコンの各セルにも、その銃声ははっきりと聞こえた。
工場内で警備につく兵士の耳にも届いたであろうことは、先ほどまでの弛んだ雰囲気から一変した彼らの動きをみれば明らかだった。
銃声から三十秒後には、敷地内の至る所で明かりがつき始め、辺りはにわかに活気づき始めた。
塀の周りを巡回していた兵士も、サブマシンガンを胸の前に構えながら慌ててゲートの方にやってきた。
救出を待つ捜査官は、デルタが突入してくる気配がないのは一体どうしたことだ?と内心ひどく困惑しながらも、かろうじて芝居を続けた。

ボブとケンが見張りに着く位置からは、宿舎からわらわらと人が出てくるのが見えた。
「なぁ、やばいぜ、ボブ」
「ああ。一体デルタの連中はなぜ入ってこない」
ボブは、正面でゲートを監視しているはずのリックに向かってマイク越しに囁いた。
「こちらブラヴォー・ツー。おい、一体どうなってんだ。何が起こってる」

だが、その問いに答えている余裕はリックにはなかった。なにしろ銃声が自分のすぐ横で鳴り響いたのだ。