ステンドグラスの狼

奉納祭前日、金曜日の午前。
半月以上かけて打ち込んできたステンドグラス制作。その最終仕上げを終えたばかりの舞子が工房にいた。椅子の背にもたれ掛かりながら、仕上がりに確かな手応えを感じ、久しく味わったことのない満足感を堪能した。
画面中央よりやや右寄りに描かれた狼は、精密な筆致でリアルに体毛が再現されており、フレーム狭しと圧倒的な存在感を放っている。精悍な顔つきは野生動物の特徴を的確に捉え、雄々しい迫力があった。隣町の図書館に出向いて、動物図鑑のハイイロオオカミの図版をカラーコピーしてきた成果の表れだ。
唯一、リアリティを損ねているのがブルーの目だったが、それこそ舞子にとっては重要な要素であり、最後までその色の再現に手こずった部分でもあった。この狼の目の色は、ケンと同じでなければならなかった。
狼の背景は色ガラスの組み合わせで構成されている。使われている色の系統が、二対一ほどの比率で上下に分かれている。上は夕闇の空のような濃いブルーをキーカラーに、下は明るめの暖色が複雑に噛み合って荒野の岩肌を表現している。
完成した自作を眺めながら舞子は、モノ造りで何かを表現することの喜びを長らく忘れていたことに気がついた。それを思い出す切っ掛けを与えてくれたケンには感謝しなくてはならない。まだ作品の題名は決めかねているけど、ケンに考えてもらうのもありかもしれない。
ともかく自分でも納得のゆく自信作ができた。今度の日曜日、お祭りをたっぷり楽しんで、帰ってきたらケンに見せよう。この作品のテーマが、昔ケンが話してくれた狼のエピソードであることに、すぐに気づいてくれるだろうか。ケンが砂漠の射撃場で見た幻の狼にどうか似ておりますように。ステンドグラスの中に威厳を持って佇む狼を見つめながら、舞子はそっと願った。
「明後日の夜まで待っててね」
わが子に言い聞かせるように、或いは恋人に囁くようにステンドグラスに声をかけてから、人の目に触れないようにカバーで覆い隠した。その上に例によって「ぜったいさわるな! 危険!」となぐり書きされたメモを置くと、舞子は工房を出た。今日の午後はもう一つ、やるべき用事があって町に出かけるのだ。あまりのんびりもしていられない。

同じ日の午後、妹尾は釣り具を用意するために電車で町に出かけていた。
デパートの釣り具売り場で、若い店員に自分が初心者であることを伝えて相談した結果、釣り竿にリール、仕掛けまで必要なものが一式揃った入門セットを二セット購入することになった。
あくまでケンを誘い出すための口実とはいえ、釣りのことが全く分らなくては困るだろうと考えた妹尾は、店員にあれこれ質問してアドバイスをもらった。暇を持て余していた店員は親身になって答えてくれただけでなく、釣り餌となる生きたゴカイを売っている天ヶ浜の店まで紹介してくれた。
「冷蔵庫ないんですか?」
「はぁ、旅行者なもんで。天ヶ浜のホテルに泊まってましてね」
「なるほど。でしたら、今から餌を用意するわけにもいかないですし・・・明日、釣りに出かける前にここのお店に立ち寄って買ってから行くのがいいでしょう。もし店が開いてなくても、声をかければ開けてくれますから」
「釣れると良いですね」と言いながら店の名前と電話番号、地図のコピーまで用意してくれたのには、さすがに妹尾も良心がとがめた。
次に妹尾は、同じデパート内にあるカメラ屋でポラロイドカメラとフィルムを購入した。明日、ケンを始末した後に証拠写真を撮るためのものだ。一眼レフカメラではその場で撮影結果を確認できないので、ポラロイドカメラが必要となる。
射殺、撮影、そして手際よく遺体を海に捨てるまで三分あれば十分だろう。本来ならば遺体に重しをつけて海面に浮いてこないよう細工したいところだが、状況からしてそんな時間的余裕はない。
遺体が発見された時、ケンの死因が海に転落して溺れた、いわゆる事故死ではなく、銃によって殺された事件であると判明するまでにどの程度時間がかかるだろうか。
その事件性から、容疑者として真っ先に浮かび上がるのが自分であることは百%確実である。
重要なのは、その時、すでに天ヶ浜を後にした自分が、痕跡を残さずにどこまで逃げおおせているかということだ。逃亡の時間稼ぎのためにも、遺体発見までに時間がかかることが望ましいのは言うまでもない。だがそれ以上に、発見されてもしばらくは溺死と思わせておくことの方が大事だ。
そのためには銃創が目立ちにくく、それでいて撃たれれば必ず死亡する部位、つまりは耳の後ろの付け根に正確な一発をお見舞いする必要がある。気配を消してケンの背後に立ち、銃を抜いて必殺の一発を撃ち込む。殺し屋としての技量が最も問われる瞬間はそこだ。
カメラ屋を後にした妹尾は、駅に向かいながら、頭の中でケン・オルブライト射殺のシミュレーションを繰り返していた。スポーツ同様に、殺しにもイメージトレーニングは欠かせない。だが、不測の事態に陥った時には、狼狽えて自滅するのではなく、素早く思考を切り替えて次の行動を選択しなければならない。柔軟な対応のためには、あまりイメージを固めすぎるのも良くないということも経験則から分かっている。
そんなことを考えながら、駅のホームで下り電車を待っている時だった。
「妹尾さん」
突然、背後から声をかけられた妹尾は、驚きのあまり手に持っていた買い物袋を危うく落としそうになった。
振り返ると、そこには舞子が立っていた。
「あ、ごめんなさい、驚ろかしちゃって」
妹尾の慌てふためく様があまりにも大げさだったので、舞子も驚いた。
「あ、舞子ちゃんか・・・いや、驚いた。こんな所に知り合いなんかいるはずないのに誰だろうって」
「何か、考え事してるなーって思ったから声かけるの、どうしようか迷ったんですけど。今日はお買い物?」
「ええ、そう。ほら、明日の」
妹尾は、釣り具が入った大きな買い物袋を掲げてみせた。
「舞子ちゃんは?」
「わたしも買い物。目当てのCD探してショップ何件もはしごしちゃったから、もうヘトヘト」
下り電車が速度を落としながら、ゆっくりとホームに入ってきた。
車内は下校中の学生や仕事帰りのサラリーマンで混んでいた。
つり革に掴まって並んだ妹尾と舞子はお互い、軽く緊張しつつも話しを続けた。
「その探してたCDってのは、あったのかな?」
「ありました」
「そいつは良かったね」
「でも大変でした。どこのCDショップにも置いてなくて、取り寄せだっていうんだけど。どうしても明後日までに必要だったから」
「ほぉ」
「で、諦めて帰ろうとした時に何気なく中古屋さんに立ち寄ったんだけど、何とそこにあったの、中古のCDが」
「へぇ」
「古着とか本とかしか売ってないと思ったんだけど、奥に少しCDも置いてあって。まさかそんなところにあるなんてね」
「ラッキーだったね、で、その探してたCDってのは?」
「映画のサウンドトラックなんです」
舞子は袋からCDを出してみせた。
「妹尾さん知ってます?『マッシュ』って映画」
「いやぁ、知らないなぁ、映画とかほとんど見ないもんでね」
「戦争映画らしいんですけどね」
「あ、舞子ちゃんも観たことないんだ」
「ええ、わたしも全然知らないんです。なんかね、ケンさんがこの映画の曲が好きなんですって」
「へぇ、そうなの」
舞子の言葉にちょっと興味をそそられた。
「ケンさんは戦争映画が好きなのかな?」
「ていうか、ケンさん軍隊にいたでしょ。その時に・・・」
「え、ケンさん軍隊にいたの?」
妹尾は、わざととぼけて聞いてみた。
「あ、言ってませんでしたっけ?」
「うん、初耳」
「彼、アメリカ軍にいたんですよ。その頃一度天ヶ浜にも来てるんです。まだわたしが高校の頃だから・・・もう七年くらい前かな」
「そうだったんだね。何で軍を辞めちゃったんだろう」
「聞いてないです・・・なんか、ちょっと聞けない雰囲気っていうのかな・・・」
そのまま二人の会話は途切れ、居心地の悪い沈黙がしばらく続いたが、やがて電車は天ヶ浜の駅に到着した。
二人は内心ほっとしながら電車を降りた。
改札を出ると妹尾が言った。
「じゃぁ、自分はここで」
「え?」
「泊ってるホテル、すぐそこなんで」
「あれ?今日は飲みに来ないんですか?」
「ははは、行きたいところだけど遠慮しとくよ。明日の釣りに備えてね」
「そっか、分かりました」
「ケンさんに伝えてもらえるかな。明日、朝九時にそちらに行くから、休みだからって寝坊しないようにって」
「了解です。わたし、このままケンさん迎えに行くので伝えときますね」
「毎日迎えに行ってるんだね」
「てへへ、ケンさん方向音痴だから・・・それじゃ失礼します」
照れ隠しに敬礼のポーズをとって舞子は去っていった。その後ろ姿は、ヘトヘトといっていた割りには軽やかな足取りだった。
ケンの好きな曲が入ったCDを探し求めて何件も店を回る舞子の健気さが、妹尾には縁のない感情で、それゆえに眩しかった。好きな者のために行動できる舞子が羨ましかった。
明日の昼以降、遅くとも夜には彼女も知るだろう。「井口舞子の人生」という舞台から大切な男が不意に退場し、彼女の物語は大きな変化を迎えるということを。
だが、「妹尾の人生」という自分の物語においては、舞子の物語がどう変わろうとも関係ない。そんなことに思いを馳せる暇があったら、銃のメンテナンスでもしていた方が、この稼業においては遥かに有益だ。
とにかく明日だ。ホテルに戻ったら明日の準備をして、今夜は早めに寝るとしよう。
天ヶ浜奉納祭初日の土曜日は、あいにくの天候で幕を開けた。昨夜半から降り出した雨は徐々に雨脚を強め、朝にはかなりの雨量となっていた。
悦子は狭いカウンター内を行き来しながら、週一回の焙煎作業の準備にとりかかっていた。最近ひらめいた新たなブレンドコーヒーのアイディア、それを具現化するための試作品に挑戦するのだ。
明日は晴れてくれるといいのだけど・・・悦子にとっては、毎年の恒例行事以上の意味を持たない奉納祭だが、舞子が急遽十二遣徒を務めることになったため、今年は特別な祭りになりそうだった。
明日は、講師を務めるステンドグラス教室のために、昼には町に出かけなくてはならないが、教室が終わってからでも天懇献呈の儀には十分に間に合う。舞子の性格を考えて内緒にしているが、もちろん娘の晴れ舞台を見に行かない手はない。悦子はこっそり隠れて天懇献呈の儀を見物するつもりでいた。

コーヒー焙煎に音楽は欠かせない。それはちょっと大げさに言えば悦子のコーヒー哲学だった。
音楽を聴くことで自分の心に揺さぶりをかけ、湧き上がる情感を焙煎作業を通じてコーヒー豆に浸透させる。焙煎された豆は、悦子というフィルターを通した音楽を養分とし、より美味しく生まれ変わるのだ。
そこに科学的根拠はなくとも、悦子は本気でそう信じている。というよりも、信じて焙煎することが重要だと理解している。
雨の降る祭りの日の朝に、レコード棚をざっと眺めて悦子が取り出したのは、先週の『卒業』に続いて、今週も映画のサントラ盤だった。
『ロング・グッドバイ』というその映画は、二十年以上前に映画館で観たきりで、今となってはどんなストーリーだったか全く思い出せない。でもジャジーな音楽があまりにも好みで、映画館からの帰りにレコード屋へ直行して買い求めたのはよく覚えている。
かすかにかび臭いレコードジャケットには、タバコをくわえた男が銃を構える姿が描かれている。レコードをターンテーブルに置いて、そっと針を落とした。
外から聞こえてくる雨音に混じって、かすかなノイズがプチプチと鳴る。
続いてスピーカーから流れてきたジャズピアノは、そのイントロだけでいともあっさりと悦子を七十年代初頭の、あの頃へと連れて行った。

まだ若くて、自由の何たるかも理解せず、なのに何ものからも自由でいたくて。
そんな気持ちとは裏腹に、子供を孕んで、男に逃げられて。
挙句、生活に行き詰まって、地元に戻って舞子を産んで。
それでも自由を求めて、子育ての合間の息抜きに町に出かけたりもした。
当時の悦子には、創作活動との決別がもっとも辛く、堪えた。
長い別れ、永遠の別れというものは、いつでもどこでも、誰の身の上にも起こり得るありきたりなものだ。別れのない人生こそむしろ不可能なのだ。そして、別れは唐突に、予想もしないタイミングで訪れることだって珍しくはない。
しかし、何事も自分に都合よく解釈する愚かしさこそが、人間たる証なのだろうか。こと自分の人生に関しては、そんな不可避な別れの予感にさえ気づかないことが多い。そんなことだから、いざ別れを目の前に突き付けられると、おろおろと狼狽えて取り乱すという無様を演じてしまうのだ。
悦子もそうだった。
もう二度と、ステンドグラスを造ることなんてできやしない。このまま、田舎に埋もれて人生を終えるのだろうか。舞子を幼稚園に迎えに行けば、自分と同世代やもっと若い女が、揃って「お母さん」という役割を担い、平凡な生活を守るために必死に生きている。彼女たちのように、人並みの人生を自分も送るべきなのだろうか。これまで生きがいとしてきた芸術に別れを告げなければならないのか。
そんな、当時の悦子の気分とマッチしたのが映画『ロング・グッドバイ』の音楽だった。当時は毎日のように聴いていた気がする。やがて舞子が小学校に上がり子育てがひと段落すると、悦子は本格的にステンドグラス制作を再開した。その頃にはこのレコードを聴くこともほとんどなくなっていた。
今日はうっかりするとかなり苦みの強い豆に仕上がりそうだ。「木霊 KODAMA」「雫 SHIZUKU」に続く新作ブレンドを、そんな単純な味にするつもりはないのだけれど。
過去を反芻しながらそんなことを思っていた悦子は、ここ二、三日、なんとなく離別の兆しを感じていた。それは、ほとんど自分でも気づかないほど微かなもので、何との別れなのか、どんな別れなのかもむろん分からない。それでも、心の内に生まれたそんな予感が、悦子にこのレコードを選ばせたのかもしれない。
悦子を現実に引き戻したのは、入り口のドアを叩く音だった。
うちが土日休みということを知らないお客さんなんていたかしら。いぶかしみながらドアを開けると、妹尾が傘をさして立っていた。手には釣竿を持っている。
「妹尾さん・・・」
「おはようございます。お休みのところ、朝早くからすみません。ケンさんを迎えに来ました」
「迎えって・・・」
「釣りですよ。一昨日の夜、約束した」
「え?この雨の中、行くんですか?」
「もちろんですよ」
「てっきり中止だと思ってましたから、ケンさんもそのつもりで・・・出かける準備してないですよ」
「あらら、そうですか・・・お邪魔でなければ、中で待たせて頂いていいですかね」
「え、ああ、良いですけども・・・ちょっと待ってくださいね」
強引な妹尾に戸惑いながら、悦子は奥のドアを開けると「舞子ぉ~」と二階に向かって声をかけた。
ややあって、階段を下りてくる足音が聞えた。
「何ぃ?」
「ちょっとケンさんに伝えてくれる?妹尾さんが迎えに来てるって」
「えぇ?この天気で釣りやるの?」
「舞子ちゃん、ごめんね。いや、ほら。釣り具も買っちゃったから、やらないわけにもいかないかなって」
「あ、妹尾さん。お早うございます」
店に出てきた舞子は、ぺこりと頭を下げた。
「今朝、起きたらこの雨だったから、ケンさんとも、釣りダメになっちゃったねって話してたんですけど」
やり取りを聞きつけて、ケンも店に下りてきた。
「妹尾さん、今日は釣りやるホント?」
「ケンさん、お早う。もちろんだよ。ちゃんと釣り具も用意してきたよ」
「OK。ではね、準備するね、待っててもらえますね」
ケンは出かける支度をするために上に戻っていった。
「じゃぁ、ほら舞子。作ったサンドイッチ、ケンさんに持たせて」
「はーい。良かったよ、食べちゃう前で」
そう言いながら舞子も戻っていった。
店内は再び悦子と妹尾だけになった。
「妹尾さん、コーヒーでも淹れましょうか?」
「あ、ぜひ頂きます。すみませんね、お忙しいところ」
「いえいえ。まだ作業前でしたから大丈夫。『木霊 KODAMA』で良いかしら」
そう言って、悦子は豆を挽き出した。
二人の間にしばらく沈黙が続いた。
豆を挽く音と外の雨音、そしてレコードの音だけが聞えていた。
「いい音楽ですね」
「え?」
「今、かかってるレコードです」
「ああ、これね。若い頃に観た映画の音楽なんです」
「へぇ、恋愛映画か何かで?」
「いいえ。ほとんど覚えてないんですけど・・・ハードボイルドっぽい映画だったかな、確か」
「ハードボイルド・・・お好きなんですか?そういうの」
「特にそういう訳じゃなくて。当時はたくさん映画を観に行ってたから。現実逃避したいだけで、内容なんて正直、何だってよかったの」
豆を挽き終えた悦子は、レコードジャケットを妹尾にみせた。
「この映画です」
「ロング・グッドバイ」
妹尾が声に出してタイトルを読み上げた。
「長い別れ・・・そんな内容だったのかしらね、やっぱり覚えてないわ」
悦子は苦笑いした。
長い別れ・・・か。
妹尾は考えた。ケン・オルブライトとの永遠の別れを数時間後に控えた今日という日を彩るには、あまりにもピッタリの題名ではないか。
昨夜ホテルで、最終確認ともいえる入念な殺しのシミュレーションを終えて以降、妹尾の精神状態はプロの掃除屋に相応しい状態にあった。ターゲットに接近し過ぎることの不安は杞憂に終わった。一切の後ろめたさもなく、自分はケン・オルブライトを始末できる。井口母娘もケンも知ったことではない。それが本来の妹尾だった。
悦子がペーパードリップでコーヒーを淹れ始めた。その所作はいつ見ても惚れ惚れするほど美しい。
「せっかくの祭りなのに、あいにくの天気ですね。中止になったりしないんですかね」
「ええ、明日の花火大会は分からないけど、奉納祭が雨で中止ってことはないと思いますよ。屋台の数が少なかったりはするでしょうけどね」
「そうですか」
「お祭は明日が本番ですから、今日のうちに上がってくれるといいんですけどね、雨。じゃないと妹尾さんだって写真撮るのに困るでしょ?」
「はい。今日はともかく明日は晴れてもらわないとね。編集長に怒られちゃいますよ、何しに天ヶ浜まで行ってきたんだって。ところで例の儀式ですが・・・」
「献呈の儀?」
「それです。楽しみでしょう?舞子さんの晴れ姿」
「ええ、それはもう」
嬉しそうに微笑みながら、悦子は小声でつけ加えた。
「見に行くの、あの子には内緒なんですけどね」

身支度を整えてキャプを被ったケンと舞子が下りてきた。
「お待たせ~。妹尾さん、ケンさんにバスタオル二枚持たせてあるから使ってね。あと、サンドイッチはお昼に食べて下さいね」
「お、そいつは嬉しいね。ありがとう」
「舞子が作ったんですよ、それ」
付け加えるように悦子が言った。
「おぉ、それはますます嬉しいな。舞子ちゃん、ごちそうさまね。ありがたく頂きます」
「そんな、サンドイッチ程度で褒められちゃ、逆に何だか悲しいわ。わたし、こう見えて結構色々作れるんですよ」
「そう、舞は料理上手いね。ハンバーグおいしいかったね」
ケンにそう言われて、照れ臭そうにしている舞子のはにかんだ表情は随分と幼く、まるで少女のように見えた。
そんな二人と、それを見守る悦子を見ながら妹尾は思った。ケンには、せめて恋人の手作りサンドイッチを食べさせてあげよう。その位の慈悲は持ち合わせている。井口母娘に別れを告げることもなく、あの世に行ってもらうのはそれからでも遅くないだろう。
「さぁ、ケンさんも妹尾さんも。コーヒー淹れたからゆっくり飲んで。気を付けて行ってらっしゃい」
「釣った魚、わたしが気合入れて神様に献上するからね!」
雨は海面を打ち、波が沖に向かって「くの字」形に伸びる防波堤にぶつかっては白く砕けた。のんびり釣りなどできる状態ではなかった。
幸い風はなく、寒くないのが救いだった。むしろ、雲が昨日の暖気を閉じ込めているため、この時期にしては珍しく蒸し暑く感じるほどだった。
こんな状況の中、傘を差しながら防波堤の突端に向かって歩く妹尾とケン。
その姿は、傍目にはきっと奇異に映っただろうが、海岸に人の姿はなく、海上に船もない。異様な二人組を気にする者は誰もいなかった。
9ミリ弾の発射音は確実に波の音にかき消されるはずだ。
悪天候の中を釣りに出かけた二人が戻らなければ、やがて警察による捜索が始まるだろう。
そして、遅からずケンの遺体が発見されるだろう。
それでも、ケンは防波堤から転落して溺れ死に、死体が上がらず行方不明の妹尾も海に沈んでいる。
誰もがそんな風に考えるに違いない・・・しばらくは。
妹尾にとっては望み得る最高の状況だ。

妹尾の後について歩きながら、ケンは不思議で仕方なかった。
こんな雨にもかかわらず、妹尾はなぜ釣りにこだわるのか。
一昨日の飲みの席では、天ヶ浜の伝説に惹かれて、自分もちょっと釣りを楽しみにしていたのは確かだ。
しかし、悪天候に見舞われるとは予想外だった。
今となっては、わざわざ雨に打たれながら釣りなどやりたくない。
とは言え、釣り具まで用意されては仕方ない。
小一時間も釣り糸を垂れて、それで釣果がなければ切り上げよう。
妹尾だってきっと諦めるに違いない。

二人は、防波堤がくの字に折れたさらに先の突端までやってきた。
「さて、ケンさん、この辺で始めようか」
ビニールシートを敷いて荷物を置くと、すぐさま釣りの準備に取り掛かった。
妹尾が仕掛けを作っている間は、ケンが傘を差し、次はお互いの役割が入れ替わる。そんな風にやってみたが、いかんせん二人とも釣りは素人のため、仕掛けを準備するだけでも大いに手こずった。
妹尾が今朝、天ヶ浜の釣具店から調達した生餌のゴカイは新鮮で活きがよく、濡れた手で釣り針に刺すのは一苦労だった。そして、この雨では傘など差してもたいして役に立たないことも早々に理解した。
雨に濡れながら、二人がどうにか海面に釣り糸を垂れるまでに二十分が過ぎた。
ケンは比較的波の穏やかな防波堤の右側に、陸地の方を向くかたちで腰を下ろした。意味をなさない傘を使うのはとっくに諦めていた。ベースボールキャップは雨水を含んで早くも重たくなり始めていた。
「ケンさんがそっち側なら、自分はこっちで釣ってみるか」
妹尾は沖を向くかたちでケンの反対側に腰を下ろした。打ち寄せる波がもろに防波堤にぶち当たる側である。そんな場所で釣りなどあり得なかったが、妹尾があえてこちらに陣取ったのは、ケンに背を向ける形で腰を下ろしたかったからだ。これなら気づかれることなくケンの背後に立てる。
傘を差しながら、荒波に向かって釣り竿を握る妹尾。その背中に向かってケンが「幸運を」と声を掛けた。

無言のまま十分以上が過ぎていった。
防波堤を激しく叩く波音と傘を打つ雨音。それに混じって、岸辺の方から微かに太鼓の音が聞こえる。こんな天候だが祭りは無事に始まったらしい。
ケンを背後から襲うタイミングを慎重にうかがう妹尾の中で、シャツの下に隠したP7M8が徐々に存在感を増していった。
その時、ケンがおもむろに立ち上がる気配がした。
妹尾が振り返ると、ケンは脱いだばかりのびしょ濡れのシャツを雑巾のように絞っていた。雨に打たれる上半身は、元兵士らしく無駄な肉が一切ない。まるで野生の動物を思わせる佇まいだった。
「これで今日のシャワー、必要なしね」
ケンの言葉に、妹尾は軽く笑いながら頷いてみせた。
ケンの左腕に彫られたドクロと短剣のタトゥーが目に留まった。海兵隊時代の名残に違いない。妹尾は、あえて英語でケンに話しかけてみた。
「そのタトゥーは?」
いきなり妹尾の口から出た英語は、ワンフレーズとはいえ流暢だった。発音は日本語訛りだが、それでもケンを驚かせるには十分だった。
絞ったシャツを再び着こみながら、ケンも不自由な日本語をやめて英語で返した。
「英語しゃべれるなんて知らなかったよ」
「こう見えて、実はフランス語だって少しいけるんだ」
にこにこしながら妹尾は続けた。
「そのタトゥーは軍隊で?」
なぜ、そんなことを聞いてみたくなったのかは、妹尾自身分らなかった。これから殺そうとする人間のことを詳しく知ったところで良いことなど何もない。それでもなぜか今、ケン・オルブライトにターゲット以上の興味を持ち始めている自分がいる。
「そうなんだ。言ってなかったと思うけど、俺は昔、海兵隊にいてね。その時のチームのタトゥーさ。沖縄にもしばらく駐留してたから、そのおかげで日本語もちょっとだけね」
そう言いながら、ケンはタオルで濡れた顔をごしごし拭いた。
「ほぉ。ケンさん海兵隊にいたのか。で、今はなぜ天ヶ浜に?」
舞子が、除隊の理由はちょっと聞けない雰囲気とか言ってたな。
そう思い返しながらケンの方に向き直った妹尾は、しっかりとあぐらで座りなおしてから改めて尋ねた。
「差支えなければ聞いていいかな、海兵隊を辞めた理由」
顔を拭く手を止めたケンは、タオルに埋めていた顔をゆっくり上げると、しばらく無言で妹尾の顔を見据えた。
ケンの表情から、その考えを推し量ることは難しかった。険しい表情で妹尾を睨み返しているようにも思えるが、単に雨に濡れてそう見えるだけかもしれない。
やがてケンは、肩をすくめてみせると、何も言わずに釣れる見込みもない釣りを再開した。
釣り竿を握ったまま無言で佇むケンの背中を見ながら、妹尾はしばらく待ってみた。
・・・話す気はなしか。では、この辺で終わりにしよう。
妹尾は、傘を差したまま、空いた右手を懐にそっと差し入れると、拳銃のグリップを握り込んで安全装置を解除した。
P7M8をシャツの下から取り出し、銃口をケンの後頭部に向ける。
妹尾がみせた一連の動きは一切の無駄がなく、動作の気配さえ感じさせないほど滑らかだった。
微動だにしない銃口からケンまでの距離は1メートル強。
左後方の死角ギリギリの位置から狙うは左耳の付け根。
弾丸の入射角およそ四十度はこの条件ではベスト。
しくじることは先ずない。
トリガーにかけた妹尾の人差し指に力が入った。
その刹那、ケンがおもむろに口を開いた。
「仲間が死んだんだ。戦いの中で・・・兄弟同然の連中だったんだが」
ケンの視線は、釣り糸を垂れた海面に向けられていたが、その目には何も見えていなかった。
物音一つ立てずに拳銃をシャツの下に隠すと、妹尾は静かに次を待った。