天ヶ浜奉納祭初日の土曜日は、あいにくの天候で幕を開けた。昨夜半から降り出した雨は徐々に雨脚を強め、朝にはかなりの雨量となっていた。
悦子は狭いカウンター内を行き来しながら、週一回の焙煎作業の準備にとりかかっていた。最近ひらめいた新たなブレンドコーヒーのアイディア、それを具現化するための試作品に挑戦するのだ。
明日は晴れてくれるといいのだけど・・・悦子にとっては、毎年の恒例行事以上の意味を持たない奉納祭だが、舞子が急遽十二遣徒を務めることになったため、今年は特別な祭りになりそうだった。
明日は、講師を務めるステンドグラス教室のために、昼には町に出かけなくてはならないが、教室が終わってからでも天懇献呈の儀には十分に間に合う。舞子の性格を考えて内緒にしているが、もちろん娘の晴れ舞台を見に行かない手はない。悦子はこっそり隠れて天懇献呈の儀を見物するつもりでいた。
コーヒー焙煎に音楽は欠かせない。それはちょっと大げさに言えば悦子のコーヒー哲学だった。
音楽を聴くことで自分の心に揺さぶりをかけ、湧き上がる情感を焙煎作業を通じてコーヒー豆に浸透させる。焙煎された豆は、悦子というフィルターを通した音楽を養分とし、より美味しく生まれ変わるのだ。
そこに科学的根拠はなくとも、悦子は本気でそう信じている。というよりも、信じて焙煎することが重要だと理解している。
雨の降る祭りの日の朝に、レコード棚をざっと眺めて悦子が取り出したのは、先週の『卒業』に続いて、今週も映画のサントラ盤だった。
『ロング・グッドバイ』というその映画は、二十年以上前に映画館で観たきりで、今となってはどんなストーリーだったか全く思い出せない。でもジャジーな音楽があまりにも好みで、映画館からの帰りにレコード屋へ直行して買い求めたのはよく覚えている。
かすかにかび臭いレコードジャケットには、タバコをくわえた男が銃を構える姿が描かれている。レコードをターンテーブルに置いて、そっと針を落とした。
外から聞こえてくる雨音に混じって、かすかなノイズがプチプチと鳴る。
続いてスピーカーから流れてきたジャズピアノは、そのイントロだけでいともあっさりと悦子を七十年代初頭の、あの頃へと連れて行った。
まだ若くて、自由の何たるかも理解せず、なのに何ものからも自由でいたくて。
そんな気持ちとは裏腹に、子供を孕んで、男に逃げられて。
挙句、生活に行き詰まって、地元に戻って舞子を産んで。
それでも自由を求めて、子育ての合間の息抜きに町に出かけたりもした。
当時の悦子には、創作活動との決別がもっとも辛く、堪えた。
長い別れ、永遠の別れというものは、いつでもどこでも、誰の身の上にも起こり得るありきたりなものだ。別れのない人生こそむしろ不可能なのだ。そして、別れは唐突に、予想もしないタイミングで訪れることだって珍しくはない。
しかし、何事も自分に都合よく解釈する愚かしさこそが、人間たる証なのだろうか。こと自分の人生に関しては、そんな不可避な別れの予感にさえ気づかないことが多い。そんなことだから、いざ別れを目の前に突き付けられると、おろおろと狼狽えて取り乱すという無様を演じてしまうのだ。
悦子もそうだった。
もう二度と、ステンドグラスを造ることなんてできやしない。このまま、田舎に埋もれて人生を終えるのだろうか。舞子を幼稚園に迎えに行けば、自分と同世代やもっと若い女が、揃って「お母さん」という役割を担い、平凡な生活を守るために必死に生きている。彼女たちのように、人並みの人生を自分も送るべきなのだろうか。これまで生きがいとしてきた芸術に別れを告げなければならないのか。
悦子は狭いカウンター内を行き来しながら、週一回の焙煎作業の準備にとりかかっていた。最近ひらめいた新たなブレンドコーヒーのアイディア、それを具現化するための試作品に挑戦するのだ。
明日は晴れてくれるといいのだけど・・・悦子にとっては、毎年の恒例行事以上の意味を持たない奉納祭だが、舞子が急遽十二遣徒を務めることになったため、今年は特別な祭りになりそうだった。
明日は、講師を務めるステンドグラス教室のために、昼には町に出かけなくてはならないが、教室が終わってからでも天懇献呈の儀には十分に間に合う。舞子の性格を考えて内緒にしているが、もちろん娘の晴れ舞台を見に行かない手はない。悦子はこっそり隠れて天懇献呈の儀を見物するつもりでいた。
コーヒー焙煎に音楽は欠かせない。それはちょっと大げさに言えば悦子のコーヒー哲学だった。
音楽を聴くことで自分の心に揺さぶりをかけ、湧き上がる情感を焙煎作業を通じてコーヒー豆に浸透させる。焙煎された豆は、悦子というフィルターを通した音楽を養分とし、より美味しく生まれ変わるのだ。
そこに科学的根拠はなくとも、悦子は本気でそう信じている。というよりも、信じて焙煎することが重要だと理解している。
雨の降る祭りの日の朝に、レコード棚をざっと眺めて悦子が取り出したのは、先週の『卒業』に続いて、今週も映画のサントラ盤だった。
『ロング・グッドバイ』というその映画は、二十年以上前に映画館で観たきりで、今となってはどんなストーリーだったか全く思い出せない。でもジャジーな音楽があまりにも好みで、映画館からの帰りにレコード屋へ直行して買い求めたのはよく覚えている。
かすかにかび臭いレコードジャケットには、タバコをくわえた男が銃を構える姿が描かれている。レコードをターンテーブルに置いて、そっと針を落とした。
外から聞こえてくる雨音に混じって、かすかなノイズがプチプチと鳴る。
続いてスピーカーから流れてきたジャズピアノは、そのイントロだけでいともあっさりと悦子を七十年代初頭の、あの頃へと連れて行った。
まだ若くて、自由の何たるかも理解せず、なのに何ものからも自由でいたくて。
そんな気持ちとは裏腹に、子供を孕んで、男に逃げられて。
挙句、生活に行き詰まって、地元に戻って舞子を産んで。
それでも自由を求めて、子育ての合間の息抜きに町に出かけたりもした。
当時の悦子には、創作活動との決別がもっとも辛く、堪えた。
長い別れ、永遠の別れというものは、いつでもどこでも、誰の身の上にも起こり得るありきたりなものだ。別れのない人生こそむしろ不可能なのだ。そして、別れは唐突に、予想もしないタイミングで訪れることだって珍しくはない。
しかし、何事も自分に都合よく解釈する愚かしさこそが、人間たる証なのだろうか。こと自分の人生に関しては、そんな不可避な別れの予感にさえ気づかないことが多い。そんなことだから、いざ別れを目の前に突き付けられると、おろおろと狼狽えて取り乱すという無様を演じてしまうのだ。
悦子もそうだった。
もう二度と、ステンドグラスを造ることなんてできやしない。このまま、田舎に埋もれて人生を終えるのだろうか。舞子を幼稚園に迎えに行けば、自分と同世代やもっと若い女が、揃って「お母さん」という役割を担い、平凡な生活を守るために必死に生きている。彼女たちのように、人並みの人生を自分も送るべきなのだろうか。これまで生きがいとしてきた芸術に別れを告げなければならないのか。