その時、入り口のドアが開く音がした。
「ただいまー」
「ただいまぁ」
「あら、お帰りなさい」
悦子がいうのを聞いてから、妹尾はさりげなく振り向いて軽く会釈した。
「こちら、カメラマンの妹尾さん。奉納祭の写真を撮りに来てらっしゃるんですって」
「妹尾といいます。こんにちは。いや、もうこんばんはですかね」
そう言いながら笑う妹尾を見たケンは、この男とどこかで会ったことがあるような気がした。だが、一体どこで?
一昨日、造船所に向かうジョギングの最中に追い越していったことまでは思い出せなかったケンだが、まるで本能が何かを知らせるように、心が不思議とざわつくのを感じた。
「妹尾さん、こちらがうちの娘で舞子といいます」
「井口舞子です。こんにちは。じゃなかった、こんばんは」
そういって照れ笑いする舞子は、やはり美人だ。
「で、こちらはうちに下宿してるケンさん」
「ハイ、こんばんはぁ」
ケンは、軽く頷きながら英語訛りを残したアクセントであいさつした。
「あれ、日本語できるんですね。日本には長いんですか?」
「はい、まぁ、そうねぇ」
さすがに初対面の日本人相手に会話が弾むわけはない。悦子が助け舟を出した。
「ケンさんは今、この先にある造船所で働いてるんです。だから日本語も上手なの」
「ほぉ、そうでしたか。どうですか、自己紹介も終わったところで・・・せっかく知り合いになれたことですし、お二人もこちらに腰掛けて。みんなでコーヒー飲みませんか?自分、おごりますよ」
妹尾は、あえて強引にプッシュしてみた。ケンの自分に対する反応をもう少し見極めたかったのだ。
「あら、気前がいい。ほんとにいいんですか?」
「ええ、もちろん。実は感激してるんですよ。言っては失礼ですがこんな田舎で、こんなに素敵なお店に巡り合えたことに」
「あら、うれしい」
「では、お言葉に甘えてご馳走になりますか。ね、ケンさんも」
舞子も乗り気になってくれたようだ。
悦子は、妹尾のカップにまだコーヒーが半分以上残っているのを見た。
「妹尾さん、うちの店、夕方からはお酒も出すんですけど。いかがかしら?ビールでも」
「それは嬉しい。ぜひみんなで乾杯しましょう、ね」
妹尾は、ケンと舞子に腰掛けるよう促した。
その後、一時間ほど続いたこの宴の間に妹尾は確信した。
悦子と舞子の井口母子は、妹尾のフリーカメラマンという偽称身分を完全に信じ切っている。そしてケン・オルブライトは、一昨日、自分と一度会っていることを覚えていない。
ケンとの距離感は、初対面の日本人とアメリカ人の間に横たわるものと考えれば妥当だろう。こちらに心を許している風ではないが、かといって警戒もしていない。初日にしては、相手の懐にまずまずの深さまで飛び込めたのではないか。
だが、悠長に構えてもいられない。祭りの取材に訪れているカメラマンが、その祭りが終わっても町をうろうろしていたら、それこそ怪しいだろう。明日から奉納祭が終わる日曜日までの四日間にケリをつけ、速やかに姿を消さねばならない。
「祭りが終わるまではずっといますから。毎日通いますよ」
そう言い残して、妹尾は「ゲルニカの木」を後にした。