幸せは憂鬱な時間に


 熟睡していた康平を起こしたのは、フルボリュームで設定していたケータイの呼び出し音だった。
 康平へと頻繁に電話をかけるのは勇也と朱美しかいない。
 大切な二人からの電話やメール、ラインをすぐにキャッチするため、康平は大概ケータイのマナーモードをオフにしていた。
 重い目蓋を僅かに開き、ベッドヘッドのケータイへと手を伸ばす。
 部屋が明るい。
(もう朝か)
 康平はケータイを手にとると、欠伸を噛み殺しながら通話ボタンをスライドさせた。
「はい」
 起き抜けのしわがれ声で返事をするが、目蓋を閉じれば数秒に寝息を立ててしまいそうだ。
 電話の向こうからは返事がない。
「もしもしぃ?」
 ケータイを耳に当てたまま、康平が心地よい眠りへつきかけた時だった。
『勇くんが死んだなんて……嘘よね』
 朱美の掠れ声が康平の耳に届いた。
 一瞬、康平の頭が真っ白になった。
 ケータイを握り直す。
 眠気はあっという間に消えた。
「なんの冗談だよ」
『昨日、一〇時頃に事故に遭ったって。ずっと昏睡状態が続いてたけど、夕方の五時過ぎた頃から急変して……さっき亡くなったって』
「バカな! だったら、昨日俺たちが会ったの誰なんだよ。飯まで食ったんだぞ?」
 昨日、勇也は笑っていた。
 けれど、常に違和感はあった。
(カメラがなかったのは……ケータイがなかったのは……)
 事故に遭い、破損したのなら違和感なく説明がつく。
 けれど、
(だったら、昨日会ったのは誰なんだよ)
 勇也が訪れた時間帯。
 それは、勇也の状態が急変する前の時間だ。
(昨日……勇也は病院から電話したって言ってたっけ。瀕死の重傷だって)
 ケータイを握る手に力が入る。
(アイツ、「最後」とか言ってたけど、オレが勝手にそう思っただけで、本当は「最期」だったのか?)
「朱美、勇也が亡くなった病院って、M総合病院か?」
『なんで知ってるの?』
「勇也がそこから電話したって」
 康平の脳裏に、帰り際の勇也が過ぎる。
(そうだ!)
 康平はケータイを耳に当てたまま、脱衣場へと駆け込んだ。
「洗面台の横。あった!」
『康平、何があったの?』
「勇也が捨てろって言ってたヤツ。そのままにしてたんだ」
 勇也は肩と頬の間にケータイを挟み、しゃがみこんだ。
 白いビニールの買い物袋を引き寄せる。
「幽霊だったら、服なんて必要ないだろ?」
 固く縛られた袋の持ち手を爪を立てて開けようとすると開かず、康平はビニールを引っ張り、裂いた。
 袋から鉄臭さが広がった。
 案の定、そこには昨日勇也が着ていたずぶ濡れの服が入っていた。
 康平はためらわず、それを袋から出した。
「やっぱりある。昨日、勇也が着てた……」
 服を手に、康平は言葉を失い固まった。
 服は汚れていた。
 細かい砂か土のようなものが付着したそれは、赤く染まっていた。しかも、裂かれていた。
『康平? どうしたの? 康平?』
 朱美の声が不安そうに高くなっていく。
 ケータイが床へ落ちる。
 遅れて、康平は濡れた服を抱えるように握り、嗚咽した。
 康平はしばらく泣いていた。泣いて泣いて、一度疲れ果てた。涙が乾いた頃、何度もインターフォンが鳴った。
 放置しているとインターフォンはやんだのものの、激しくドアを叩かれた。
 それもやんだ。
 今度はケータイの呼び出し音が鳴り響いた。
 康平は足元に落ちたままのケータイを拾った。
 朱美の名前がディスプレイに表示されている。
 康平は力の入らない指で通話ボタンをスライドした。
「もしもし」
 声が起き抜けよりもガサガサになっていた。
『康平? 今、康平のマンションのドアの前なんだけど、今、どこにいるの? 康平はいるんでしょ? いなくなったりしないでしょ?』
 必死な朱美の声に、
「ちょっと待って」
 康平は通話を切ると、ふらつきながら玄関へ向かった。
 康平が玄関を開けなり、泣きはらした朱美が目を見開いた。
「勇くんの後を追おうとしたの?」
 朱美の感情に乏しい声と表情に、康平は一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「それ……」
 朱美が赤く染まる康平のシャツに手を伸ばした。
 瞬間、朱美の顔をが歪んだ。
「ヤダッ」
 突然、朱美は康平を力いっぱい抱きしめた。
「康平も死んじゃヤダ! 勇くんを追って、アタシを一人にしないで」
 大泣きを始めた朱美を、康平は遅れて強く抱きしめた。熱く、確かに存在する感触に目頭が熱くなる。
「死ぬかよ。……バカッ、これ、俺の血じゃないって」
 再び、康平の目から涙がこぼれた。

 朱美は一度落ち着くと、康平の話を聞き、脱衣場に駆け込んだ。
 そして、床でグシャグシャになっている血だらけの服を見て、言葉を失い、崩れた。
 服を見つめ続けて数分後。朱美はすすり泣いた。
 康平は後ろから覆って護るように朱美を抱きしめた。

 二人は公民館で行われた通夜に参列した。
 勇也は棺の中、満ち足りた顔で眠っていた。
 康平は前の人に倣い、勇也の顔の横に白い菊の花を一輪添えた。
(なんだよコイツ。なんでこんな満ち足りた顔で眠ってるんだよ)
「起きろよ勇也」
 そっとかけた声は掠れた。
 勇也は満ち足りた表情のままだ。
「何寝てんだよ。遊ぼうぜ」
 掠れ声が涙声へと変わっていく。
 康平は勇也の頬に手の平を添えた。
 そして、体温が感じられない白い顔に微笑んだ。
「俺、まだ課題残っててさぁ。手伝ってくれるよな」
 もう片方の手も、勇也に頬に添えた。
 自分の体温を感じてほしい。
 自分の温もりがすべて勇也のものになれば、勇也が蘇る気がした。
「返事しろよ。なぁ!」
 康平は声を張り上げると、棺桶に縋るように崩れた。
 後ろに並んでいた朱美が康平の肩を抱きしめた。
 係の男が二人現れ、康平の両肩を支えるようにしてその場から引き離していく。
「お前には朱美ちゃんが入れば十分だろ?」
 いつか聞いた勇也の声が、康平の脳裏に蘇る。
(……違う。それは違う。俺、あん時認めなかったよな。勇也もいなきゃダメなんだよ。お前なしで、どう幸せになれっていうんだよ)
「お前を一人にしておけないから、こうして来てやったんだろ?」
 別の勇也の声が脳裏を過ぎる。
(もう、来ないつもりかよ。いつだって来いよ。毎日来いよ。なんなら、マンションに居座ればいい)
 会場の後ろの席に座らされた康平は、項垂れたままボロボロと泣いた。
 隣に黙って朱美が座り、康平に寄り添いながら静かに涙を零す。
 二人に声をかける者はいなかった。

 高校二年生の春。
 始業式後のホームルーム終え、康平と勇也は校門近くの桜の下で朱美を待っていた。
 理数系の康平と勇也は今年もクラスメイトになれたが、文系の朱美とは今年も別だった。
「もしもだよ。自分を残して世界中の人が突然パッと消えたとしても、康平は朱美ちゃんさえいれば生きていけるよな」
 なんの脈絡もない話を満面の笑顔で振る勇也に、康平は溜め息をついた。
「みんないるのが一番だろ」
 康平はいつものように素っ気なくはぐらかした。
「なら、僕と二人きりの世界と、朱美ちゃんと二人きりの世界、どっちを取る?」
「さぁーな」
「人って、二人いれば十分だと思うんだ。人って結婚して子供が生まれても、子供は独立するから最終的に二人きりじゃん。まあ、ずっと一人の人や、何人もの人に看取られる人もいるけどさ」
 しつこく話を続ける勇也に、康平は呆れるのを通り越して感心していた。勇也の人生には『めげる』という単語がないらしい。
「俺にばっか話を振んな。お前だったらどうなんだよ」
「僕?」
 話を振られたのがそんなに嬉しいのか、勇也は目を輝かせた。犬の尻尾がついていれば、パタパタと振っているに違いない。
「僕は康平と朱美ちゃんと三人でいるのがいいな」
「ちょっと待て。出題したお前が二択を捻じ曲げてどうする」
「さっきのは康平専用の選択問題だもん」
「はぁ?」
「康平はね、理想が高すぎるんだよ。それで、僕は一人でいるのが嫌なだけ」
「カウンセリングの真似事かよ」
「そんなことしなくても見てればわかるよ。康平って、素直だからすぐ態度に出るんだ」
 得意げな勇也に、康平は言われ慣れていない言葉に恥ずかしくなり、全身を熱くした。
「なんだよそれ」
 康平の声が上擦った。精一杯普通を演じるが、動揺が隠せない。
「そのままだって。まだあるよ。康平は誰からも相手にされなくなったら、それこそ手がつけられないほどグレるタイプだろ? あと、本気でぶつからない相手は好みじゃないし。あとは……」
「もうやめろ。聞いてるほうが恥ずかしい」
 康平の顔が耐えられない恥ずかしさに歪んだ。
 勇也の言ったことはすべて当たりだ。当たりだから、より恥ずかしい。
「バカなヤツ」
 照れ笑いした康平に、
「康平よりマシだって」
 勇也はくすぐったそうに笑った。
 感情はともかく、勇也が亡くなったことを頭で理解してから、康平は時間の流れを極端に遅く感じるようになった。
 マンションに戻るまで、康平と朱美は無言で体を寄せあった。
 勇也を思い続ける胸は熱く、口を開こうとするだけで涙が溢れた。
 康平は何度も歯を食い縛った。けれど、その程度の抵抗では涙は止まらなかった。
 泣き止んでは泣いて、泣いては泣き止む。どちらか一方が泣けば、泣き止んだ方も泣く。その繰り返しだ。
 今もそうだ。
 朱美はタオルケットを被り、康平のベッドで丸まっていた。
 部屋が薄く暗くなるまで、康平はそんな朱美を抱きしめていた。
 泣き疲れたのだろう。いつしか朱美は眠っていた。頬には涙が流れた跡が残っていた。
 康平はベッドから離れると、脱衣場のドアを開けた。
 別のビニール袋に入れ直し、片隅に放置したままの勇也の服を見つめた。
 勇也には捨てるよう頼まれたが、捨てるつもりはない。
 けれど、このままにしておけない。大切な形見だ。
(洗うか)
 康平は洗濯機の蓋を開けて固まった。勇也に貸したスウェットが丁寧に畳んで置かれていたのだ。
 体の奥深くから、切なさが熱なり湧き上がる。
「バカッ。こんな律儀に……アイツ」
 散々泣いて出尽くしたと思った涙が、溢れてきた。
 康平は洗濯機を前に崩れ込んだ。
 康平はしばらく一人で泣き続けた。