午後一から当日の流れを確認する会議が予定されていたが、寺岡はその会議出席を免除してもらっていた。
「雑務がたまりすぎているので、その処理をさせてほしい」
あながち嘘でもなかったし、今日の議題であれば神崎だけで十分対応可能という見通しもあった。
宣言通りに雑務処理をしばらく行ったあと、おもむろに席を立ち、トイレに駆け込んだ。念のため個室に入り、そそくさとスマホを取り出す。出版社のある東京から離れていることから電話会議を行うことも多く、出版社に持たされているスマホがある。
このスマホから神崎へのメールを作成する。フクロウ名義の「ごめんなさい」メールだ。余計なことは書かず、シンプルに謝罪の意を示した文章を作成し、送信ボタンを押した。
仕込みは終わった。あとは神崎が自席に戻ってこのメールに気付けば、物事はトントン拍子に進むだろう。その時が来るまで、引き続き雑務処理をこなした。
よくぞここまで来たものだ。
絶望しかなかった最初の企画会議も、もはやいい思い出に変容していた。考えもしなかった「フクロウ出演」という選択肢が示されてから、悩みに悩んだ末に立てた計画は、順調に計画通り進行していた。
シンポジウム開催のきっかけは決して愉快なものではなかったが、担当者に任命された以上、このシンポジウムを成功に導くことが使命と捉えていた。
良くも悪くも自発的には絶対にやらなかったであろう規模のイベントであり、これをきっかけに街が活性化していくことに期待している自分もいる。
今回最も悩んだのは、公務員寺岡が作家フクロウと同一人物である旨を、カミングアウトするか否かという点にあった。
公務員は原則副業禁止。この原則を突破するハードルの高さを正確に見積もることができなかったので、カミングアウトの決断にはどうしても抵抗感が生じた。
然るべき手続きを取れば、副業自体は不可能ではないようではあったが、当然そこには合理的な理由が求められるだろう。趣味の延長線上の作家業が、合理的理由になりうるとは到底思えなかった。加えて、仮に副業が認められても、職場での見られ方が悪い方向へ変わる恐れもある。ともかく現状の仕事に影響を及ぼすことは避けたかった。
寺岡=フクロウだと、絶対にバレない方策を立てる必要がある。
そうなると顔出しでの出演は絶対にNGである。覆面作家らしく、覆面を活用できないか、というのが最初の発想となった。
ただ、顔を隠したところで、声や立ち振る舞いで職場の人達には勘づかれる可能性の方が高い。また、そもそも自身がシンポジウムの担当なので、悠長に演者側に回ることなど絶対にありえない。つまり、自身が覆面をかぶって出演することは難しい。
よって次善策として思い立ったのが、覆面をかぶせて代理を立てることだった。要すれば、替え玉講演だ。
では誰を代理に立てるか。
代理覆面に求められる条件は思いつく限り三つあった。
一つ、寺岡が作家であることをカミングアウトしても問題がない人。
一つ、秘密を守ってくれると思えるだけの信頼関係がある人。
一つ、寺岡の代わりに受け答えができる人。
該当者として唯一思いついたのが兄だった。兄貴にならこの件を預けられる可能性がある。だが、どう考えても厳しいのは、三つ目の条件。自分の代わりに受け答えが可能かという点だ。
講演だけなら原稿さえ用意すれば身代わりは容易であろう。ただ、その後に用意されているパネルディスカッション。これを違和感なくこなせるかどうかは、あまりにギャンブル的であった。
全く気付かれない可能性もある。でもマスコミが来るということで確実に映像は残るであろう。いや、今の時代、マスコミの有無に関係なく映像を残されるリスクは常に付きまとう。
そして、優秀なネット民が違和感を抽出することが容易に想像できた。
自分の正体を熟知している高坂をはじめとした出版社陣が見にくる可能性も高い。ただでさえ口の軽いあの女はリスクでしかなかった。
よって代理を立てるラインは諦めた。
結局は、自分自身がこの場に出ることが最善策だった。
その出発点に立つと、やるべきことは明確だった。
そうこうしている間に神崎が会議から戻ってきた。
向かいの席からそれとなく観察していると、パソコン画面を見ながら青ざめている様子や、慌てふためいた顔で何度も電話をかけている様子が目に入る。神崎はこちらが思った通りに動いてくれていた。
神崎が必死に電話をかけている先は、先ほどメール送付にも用いた出版社に持たされている作家フクロウ用のスマホである。当然、その電話には出ない。
しばらくすると青い顔をした神崎が声をかけてきた。
「寺岡さん、緊急事態です。このメールを見てください」
先輩である寺岡を自席に呼びつけるとは何事かと、文句や嫌味の一つでも言ってやろうかとも思ったが、色々趣旨がぶれるのでぐっと抑えて神崎の席に向かう。
次の部長とのやり取りが、最後の関門となるだろう。
「雑務がたまりすぎているので、その処理をさせてほしい」
あながち嘘でもなかったし、今日の議題であれば神崎だけで十分対応可能という見通しもあった。
宣言通りに雑務処理をしばらく行ったあと、おもむろに席を立ち、トイレに駆け込んだ。念のため個室に入り、そそくさとスマホを取り出す。出版社のある東京から離れていることから電話会議を行うことも多く、出版社に持たされているスマホがある。
このスマホから神崎へのメールを作成する。フクロウ名義の「ごめんなさい」メールだ。余計なことは書かず、シンプルに謝罪の意を示した文章を作成し、送信ボタンを押した。
仕込みは終わった。あとは神崎が自席に戻ってこのメールに気付けば、物事はトントン拍子に進むだろう。その時が来るまで、引き続き雑務処理をこなした。
よくぞここまで来たものだ。
絶望しかなかった最初の企画会議も、もはやいい思い出に変容していた。考えもしなかった「フクロウ出演」という選択肢が示されてから、悩みに悩んだ末に立てた計画は、順調に計画通り進行していた。
シンポジウム開催のきっかけは決して愉快なものではなかったが、担当者に任命された以上、このシンポジウムを成功に導くことが使命と捉えていた。
良くも悪くも自発的には絶対にやらなかったであろう規模のイベントであり、これをきっかけに街が活性化していくことに期待している自分もいる。
今回最も悩んだのは、公務員寺岡が作家フクロウと同一人物である旨を、カミングアウトするか否かという点にあった。
公務員は原則副業禁止。この原則を突破するハードルの高さを正確に見積もることができなかったので、カミングアウトの決断にはどうしても抵抗感が生じた。
然るべき手続きを取れば、副業自体は不可能ではないようではあったが、当然そこには合理的な理由が求められるだろう。趣味の延長線上の作家業が、合理的理由になりうるとは到底思えなかった。加えて、仮に副業が認められても、職場での見られ方が悪い方向へ変わる恐れもある。ともかく現状の仕事に影響を及ぼすことは避けたかった。
寺岡=フクロウだと、絶対にバレない方策を立てる必要がある。
そうなると顔出しでの出演は絶対にNGである。覆面作家らしく、覆面を活用できないか、というのが最初の発想となった。
ただ、顔を隠したところで、声や立ち振る舞いで職場の人達には勘づかれる可能性の方が高い。また、そもそも自身がシンポジウムの担当なので、悠長に演者側に回ることなど絶対にありえない。つまり、自身が覆面をかぶって出演することは難しい。
よって次善策として思い立ったのが、覆面をかぶせて代理を立てることだった。要すれば、替え玉講演だ。
では誰を代理に立てるか。
代理覆面に求められる条件は思いつく限り三つあった。
一つ、寺岡が作家であることをカミングアウトしても問題がない人。
一つ、秘密を守ってくれると思えるだけの信頼関係がある人。
一つ、寺岡の代わりに受け答えができる人。
該当者として唯一思いついたのが兄だった。兄貴にならこの件を預けられる可能性がある。だが、どう考えても厳しいのは、三つ目の条件。自分の代わりに受け答えが可能かという点だ。
講演だけなら原稿さえ用意すれば身代わりは容易であろう。ただ、その後に用意されているパネルディスカッション。これを違和感なくこなせるかどうかは、あまりにギャンブル的であった。
全く気付かれない可能性もある。でもマスコミが来るということで確実に映像は残るであろう。いや、今の時代、マスコミの有無に関係なく映像を残されるリスクは常に付きまとう。
そして、優秀なネット民が違和感を抽出することが容易に想像できた。
自分の正体を熟知している高坂をはじめとした出版社陣が見にくる可能性も高い。ただでさえ口の軽いあの女はリスクでしかなかった。
よって代理を立てるラインは諦めた。
結局は、自分自身がこの場に出ることが最善策だった。
その出発点に立つと、やるべきことは明確だった。
そうこうしている間に神崎が会議から戻ってきた。
向かいの席からそれとなく観察していると、パソコン画面を見ながら青ざめている様子や、慌てふためいた顔で何度も電話をかけている様子が目に入る。神崎はこちらが思った通りに動いてくれていた。
神崎が必死に電話をかけている先は、先ほどメール送付にも用いた出版社に持たされている作家フクロウ用のスマホである。当然、その電話には出ない。
しばらくすると青い顔をした神崎が声をかけてきた。
「寺岡さん、緊急事態です。このメールを見てください」
先輩である寺岡を自席に呼びつけるとは何事かと、文句や嫌味の一つでも言ってやろうかとも思ったが、色々趣旨がぶれるのでぐっと抑えて神崎の席に向かう。
次の部長とのやり取りが、最後の関門となるだろう。