東出雲町の黄泉喫茶へようこそ

『黄泉の国の軍勢を外に出してはならない。すなまい、イザナミ――』


 絞り出すような声で妻の名を呼んだイザナギは巨大な岩を見つけると、それで再び黄泉の国の入り口を塞いだ。


『こんな仕打ち……なぜ、なぜ……っ』


 目の前の岩を叩くイザナミの目からは涙がこぼれ、拳からは血が流れる。


『イザナギ、あなたの国の人間を一日千人殺すわ』


 狂ったイザナミの恨み言に対し、イザナギは悲しげに告げる。


『ならば、我は産屋を立て、一日千五百の子を産ませよう』

***

 記憶はここで途切れた。
 愛が生まれてから終わるまでを見届けた私は、再び沼の中でイザナミと相対する。

 
彼女は最初に見た美しい姿ではなく、落ち窪んだ目に身体の至るところが腐ってウジがわき、右肩からは雷神の顔がボコボコと八体も出ている死者の外見に変わっていた。


 恐ろしいと取り乱すところのはずなのに、彼女が狂うほどイザナギを愛していたのを知ったからか、怒涛のように押し寄せてくる切なさに涙が目に滲む。


 そもそも水の中にいるというのに泣けるはずがないのだが、涙の雫が瞬きとともに宙へ浮くのが見える。

 そういえば長い時間、沼の中にいる気がする。けれども苦しさを感じないので、もしかして私は死んでしまったのだろうか。

『思い出したか、裏切りを……私が受けた仕打ちを……』

「自分から逃げたイザナギが憎いんだね」

『そう……イザナギ! あの生まれ変わりを不幸に呪え、地獄に落とせ』


 それって、那岐さんを不幸にしろってこと?

 怒り狂うように顔を両手で覆うイザナミが突然、私の身体に覆い被さる。落ち窪んだ目から涙のようにウジがこぼれ落ち、剥き出しの殺意にさすがの私も息を呑んだ。


 けれど、ここで彼女を説得できなければイザナミはイザナギの生まれ変わりである那岐さんを傷つけるだろう。


 なんとかしなければ、と私は恐怖を押しのけてイザナミを真っ向から見据える。


「思い出したけど、これは私じゃなくてあなたの記憶。私はあなたの生まれ変わりかもしれないけど、今は伊澄灯なの。恨み言まで引き継げない。だって終わりがないじゃない、憎しみなんて」

『私が私を裏切るのか……!』

「私は伊澄灯、あなたはイザナミ。全くの別人だよ。だから、あなたの悲しみも憎しみもわかるけど――」


 言いかけた言葉は、最後まで紡ぐことを許されなかった。
 イザナミは『オオオオオオッ』と獣のような唸り声をあげて、私の身体を勢いよく沼の底へと押す。


 新幹線のごとく景色が急速に地上へと吸い込まれる。否、私自身が物凄い速さで地下へと落ちているのだ。

 闇が深くなり、月明かりさえも届かない沼底。どこまで私は沈んでいくのだろう、と考えていると――。


「わっ」


 背中に膜のようなものがぶつかる感覚があった。跳ね返りそうになる私の身体をイザナミは強引に膜に押しつけ、スポンッとまるでお産のように大量の水とセットで外界に出る。

 その勢いで宙に投げ出された私の身体は、ゴツゴツとした固い地面に打ちつけられた。


「いったーっ」


 背中が鈍い痛みに襲われて、私はすぐに動けなかった。転がった状態で周囲に視線を巡らせると、天井も壁も床も湿った岩でできている。


「ここは……」


 痛みが引いてから上半身を起こすと、私は見覚えのある岩の道にいた。見覚えがあるといっても私がではない、イザナミの記憶の中で見たのだ。


「よ、黄泉の国?」


 私はやっぱり、沼に落ちて死んでしまったのだろうか。全身の血がサッと頭から足元に落ちる気がして、眩暈に襲われる。


「どうしよう……」

 その場から動けずにいると甲冑のようなものを身に着けた男が現れる。

武士のような出で立ちの彼は東部に矢が刺さっており、顔の半分が焼けただれていてミイラのようだ。


「新入りだな。共食の間に案内する」


 私は戸惑いながらも立ち上がり、こちらに背を向けて歩き出そうとする男の背に「あの!」と声をかけた。


「私は本当に死んでしまったんでしょうか? その……自覚がなくて……」

「自覚がない者は多い。突然、不慮の事故で亡くなった者は皆そうなる。お前は死んだのだ。それはこの地に――黄泉の国にいることがなによりの証明だ」


 説明は終わりだ、とばかりに男は歩き出した。私はどうしたらいいのかわからず、そのあとをトボトボとついていく。

 お母さん、茜に続いて娘ふたりに旅立たれるなんて辛いよね。ひとりにしてごめんなさい。もっと親孝行だってしてあげたかったのに……。


 緩やかな坂を下りながら俯くと、視界に入り込んだ自分の裸足が涙で歪んだ。 


 水月くん、陽太くん、オオちゃん……。

 黄泉喫茶の面々の騒がしさが恋しくて仕方ない。

 そして、那岐さん……。

 一緒に暮らすようになってまだ数週間だけれど、那岐さんの作るご飯の温かさ、お風呂でのぼせたらうちわで仰いでくれて、風邪をひいたら看病してくれる優しさが私にとってかけがえのないものになっていた。


 もう、会えないのかな……。

 こんなことを言ったらおこがましいけれど、あの広い家で彼をまたひとりぼっちにしてしまうのかと胸が痛んだ。


 もっと一緒にご飯を食べたり、縁側で月を見上げたり……。あなたのことを知りたかったな。


 目を閉じると涙が頬を伝っていく。閉ざされた視界の中で心残りしかない現世に思いを馳せていると、ふいに名前を呼ばれた気がした。

 私は足を止めて耳を澄ませてみるけれど、なにも聞こえない。


 ……って、そんなまさかね。

 苦笑いしながらもう一度、一歩を踏み出したとき――。


「灯ーっ」


 遠くから響いてくる声に、ぴたりと足が止まる。目の前にいる武士の男がこちらを振り返り、早く歩けと言わんばかりに見てくるのがわかったが、動き出せなかった。

「灯、いるのか!?」


 私を呼んでいるのは、紛れもなく那岐さんだ……!

 それがわかった瞬間、私は踵を返して声を頼りに駆け出す。背後から「待て!」と制止する声が飛んできたが、構わず走った。


「はあっ、はっ」


 灯篭に照らされた道はどんどん細く急になり、もつれそうになる足を気力だけで前に前にと進める。


 やがて、視界の先に岩の扉が見えてきて、私は「那岐さん!」と叫んだ。間を置かずに岩の向こうから「そこにいるんだな!?」と返事がある。


 私は力尽きるように、岩の前で倒れこんだ。そのまま這いつくばって扉に近づき、岩に手をつく。


「那岐さん、どうしよう……っ、私……死んじゃったみたいです」

「共食はしたのか?」

「いいえ、今まさにそれをしに行くところでした」

「だったら、絶対に黄泉の国の食べ物を食うなよ? お前は死んでねえ」

「え……? そうなんですか?」


 期待を込めて聞き返せば、那岐さんはすぐに教えてくれる。


「イザナギから聞いた。お前はイザナミに黄泉の国に引きずり込まれただけだ」

「私、イザナミと話しました。イザナミはイザナギやその生まれ変わりである那岐さんのことを恨んでいて、傷つけようとしてる」

「ああ、ふたりになにがあったのかは散々夢に見てきたから知ってる。でもな、イザナギは最後にイザナミを突き放したことをずっと後悔してるんだ」


 ということは、イザナギはイザナミを裏切ったわけではなかったのだろうか。ふたりの間に誤解があったのなら、話し合う必要があるのかもしれない。

 それは那岐さんも同意見だったらしい。

「夫婦の問題に俺らまで巻き込まれるなんて、冗談じゃねえ。ふたりのすれ違いを解決するぞ」

「いや、でも……どうやって?」

「黄泉喫茶にイザナギとイザナミを呼び出して、話し合わせんだよ。そのためには俺とお前が黄泉喫茶にいる必要がある。つまり、俺がお前を死者の国から黄泉喫茶に呼び出す」


 説明を聞けば聞くほど頭痛がしてくるが、簡単にいえば私は今までのお客さん同様、那岐さんの呼び出したい死者として喫茶店に呼び出されるらしい。


「でも、そのためには私と那岐さんに思い出の料理がないといけませんよね?」

「そんなもん、俺がお前に作ってやりたいって料理で十分だろ」

「……へ?」


 私に那岐さんが作ってあげたい料理?

 自分の耳を疑って、黄泉の国にいるというのに間抜けな声が出た。

 那岐さんは私の戸惑いに気づいてか、岩の扉の向こうで咳払いをするとぶっきらぼうに白状する。

「桃のシャーベット。お前が風邪ひいてるから、帰ったら作ってやろうと思ってたんだ。でも、居間の布団はもぬけの殻だろ? 作り損ねたんだから、責任もって食え」

「那岐さん……」


 薬を買いに行ってくれただけでなく、私のために桃のシャーベットまで作ろうとしてくれていた。

 喜びの濁流が胸に流れ込んできて始めは言葉が出ず、私は那岐さんには見えないのに何度も頷いて口を開く。


「食べてみたいです……那岐さんの桃のシャーベット……っ」

「すぐにそこから出してやる。だから待ってろ」

 感動に震える声に那岐さんは泣いていると勘違いしたのか、私を励ました。

 いつもはどんな教育を受けてきたのかと疑いたくなるほど口が悪く不愛想な彼だが、本当は誰よりも仲間思いなのを私は知っている。


 ありがとう、那岐さん……。

 私は那岐さんの存在を感じるように、岩に額をくっつけた。


「待ってます」

「ああ、すぐだ」


 声が近くなった気がした。もしかしたら、那岐さんも私と同じように岩の扉に顔を近づけているのかもしれない。

 それから少しして、那岐さんの足音が遠ざかる。私は岩の前にしゃがみ込み、祈るように両手を握りしめた。



***

 どのくらいの時間が流れたのだろう。

 冷たい黄泉の国の岩の道で体育座りをして、膝の間に顔を埋めていた私はふわりと風が吹いた気がして上向く。

 すると、信じられないことに金色の光の粒が私を取り囲んでいた。


「これ……なんだろう、雪みたい」


 無意識に伸ばした手の指が光の雪に触れると、ほんのり温かい。それになんだか安堵感を覚えて、唇を緩めた。

 そのとき、まばゆい輝きに視界が占領されてぎゅっと目を瞑る。

 ――な、なに!?

 私は成す術なく光に飲み込まれ、瞼越しにそれが収まっていくのを感じてから、ゆっくりと開眼する。


 その瞬間、首になにかが抱き着いてきて、耳元で「灯! 無事だったのだなっ」とオオちゃんの声。肩にポタポタと落ちてくる雫に、オオちゃんは泣いているのだとわかって、私はその背中をさすりながら帰ってきたんだと実感する。

 周りを見渡せば、私は黄泉喫茶の座席に那岐さんと向かい合うようにして座っていた。

私たちのテーブルの周りには水月くんと陽太くんが並んで立っており、潤んだ目でこちらを見つめている。


「……ただいま」


 みんなの顔を見渡しながらそう言えば、真っ先に水月くんが「おかえり!」と笑顔を向けてくる。

 陽太くんは一瞬、嬉しそうに表情筋を緩めて、すぐにぶすっと唇をへの字に突き出す。


「大人でしょ、出かけるときは置手紙するとかしなよ」

「ご、ごめんね。出かけるつもりはなかったんだけど、こう……身体が勝手に動いてて、沼に落ちて、黄泉の国にこんにちわって感じだったの」


 意識はあったのだが、身体はイザナミに操られていたので抗えなかったのだ。


「沼に落ちるまでは僕も灯の動きを辿れたんだがな、そこからは気配を感知できなかったのだ。おそらく、沼の底に黄泉の国に通ずる道があるんだろうの」

 私の首にひっついているオオちゃんの説明で、あの沼がやたら深く感じたのは黄泉の国に繋がっているからなのだとようやく腑に落ちる。

「お前がいなくなってから喫茶店に行ってオオカムヅミにそれを聞いて、俺も沼に潜ってみたんだが、黄泉の国への道は開かれなかった。仕方ねえから、千引きの岩の前まで行ったんだ」


 那岐さんの言う千引きの岩とは、鳥居を潜って数メートル進んだ行き止まりにある大きな岩のことだ。イザナギがイザナミの放った黄泉の国の軍勢から逃げるために、塞いだとされている。


「那岐さんが会いに来てくれて、ほっとしたんです。私……」

「約束しただろ」


 那岐さんはそう言いながら、テーブルの上の透明なガラス皿を指さした。視線を落とせば、そこには淡い桃色の山にミントが飾られた桃のシャーベットがある。


「これ……どうやって作ったんですか?」

「使うモモは二個だ。皮を剥いて種をとって、水二百ccとレモン汁適量、はちみつ大さじ4杯をミキサーに突っ込んで混ぜる。これを冷凍庫で一時間冷やして、少し固まったら泡だて器で一度壊して……を二回繰り返すんだよ」

「へえ……」

 甘さをつけるのが砂糖ではなく、はちみつなのがいい。はちみつには殺菌作用があって調理後の食べ物の保存にもってこいだし、体内に入ってからすぐにエネルギー源として働くので疲労回復に繋がるのだ。


 なにより、はちみつは砂糖の一・三倍の甘さがあるので、少量でも十分甘い。これはカロリーを気にする女子からすると、ありがたい食べ物なのだ。

 那岐さんのことだから、風邪をひいている私に配慮して選んだ味付けなのだろう。


 わかりずらいが料理にまで気遣いが込められているのに気づいて、私は黄泉の国で冷え切った身体が温まるのを感じながら那岐さんのレシピに耳を傾ける。


「そんで、また冷蔵庫に三十分くらい入れとく。その間に卵白を泡立ててメレンゲを作って凍ったシャーベットと混ぜると、さらに三十分冷やして飾りのミントを載せて出来上がりだ」

「わりと簡単にできるんですね! 今度は一緒に作りたいです」

「帰ったらな。その前に、俺達にはやることがある」


 ふたりのすれ違いを解決するために話し合わせるには、私たちの中にいるイザナミとイザナギをここに呼び出さなければならない。

 その方法はオオちゃんが説明してくれる。


「ただ、胸の内に語りかければよいのだ! おぬしらの身体を使って、ふたりは会話できよう」


 私は那岐さんと顔を見合わせて頷き合うと、目を閉じてオオちゃんに言われた通り心の中でイザナミに声をかける。

 ――イザナミ。


『話すことなどない。早く殺せ』


 思いのほかすぐに返答があったが、口を開けば憎いだの殺せだの物騒だ。長年で夫婦の間にできた溝はマントルよりも深いらしい。


 私はふうっと息を吐くと、イザナミを説得するべく言葉を重ねる。

 ――イザナミ、あなたはイザナギを愛していたからこそ、裏切られたのが悲しかったんでしょう?


『愛してなどいない』


 本心を認めたくないのか、知られたくないのか、イザナミは間髪入れずに否定してくる。

 ――誤魔化したって、私にはわかるよ。だって、あなたが私に記憶を見せたんだから。