「あ……。」
気が付けば本の世界から戻ってきていたようだった。
「私…卒業できたんだ…。」
まるで他人事のようにそう思って、思わず口に出していた。
けれど、確実に自分の過去だということはわかった。
その証拠に、パズルのピースのように失っていた記憶たちが埋まっていく。
あの時、自分がどれだけ傷付いていたのか。
それを考えただけで、涙が出そうになるほどに胸が締め付けられる。
辛かった。
苦しかった。
短いようで、それはとても長かった。
ふと、先程の記憶の中の拓真くんが思い浮かんだ。
“諦めない。君を守るから。”
…………。
「次…進まなきゃ…。」
彼の事を考えるのは止めよう…。
それよりも、私はいったい誰を殺したのか…。
つい数時間前まで、自分が人を殺すなんてと思っていた。
でも、私にはここ何年かの記憶が曖昧だった。
あったはずなのに、思い出すことができない。
そして本を開けば、これが自分の記憶なのだとわかった。
だから…
「本当に…人を殺してしまったのかもしれない。」
きっと残りの本は、今まであった出来事よりも悲惨な事なのかもしれない。
高校2年生の時。
私には“何か”があったのだ。
それは確かにわかった。
けれど、思い出すことを拒んでいる自分がいる…。
それでも…
“あなたには生きてほしい。”
そう言った翼の声が、脳裏に過る。
「進まないといけない…。」
唇を噛み締めて、私はまた辺りを見渡す。
すると、ベッドの下に本らしき物を見つけた。
「あった。」
先程の本によく似たその本は、焦げ茶色という感じなのだろうか?
その本に手を伸ばして触れれば、やはり光が宿り始めた。
「…よし!」
パッと本を開き、私はまた本の世界へと旅立ったのだった。
「ここ…は…」
中学校の時とは、明らかに違う教室。
ミーンミンと鳴り響くこの季節は、夏なのだろうか?
半袖のYシャツを身にまとう生徒たちを見渡して、私は“私”を見つけた。
「え…」
目の前の光景に、私は目を見開いた。
そこには、最近まで見ることのなかった“私”の笑顔があった。
『それでこの間喧嘩になっちゃって…。でもすぐ仲直りしたの。今度桜にも会わせたいな。』
『はは。写真だけで十分だよ。』
『えー!あ!桜は翔くんとはどうなの?もう付き合った?』
『翔くんはそんなんじゃないってば!』
楽しそうに話す“私”と…この女の子は誰だったっけ…。
思い出したいのに思い出すことができない。
この子は…
『千春(ちはる)はすぐそう言うんだから…』
千春…?あ、前川(まえかわ)千春。
1人だった私に、声を掛けてくれた優しい女の子。
最初はうまく笑えることも出来なくて、言葉を詰まらせたりしてて。
でもそんな私を、彼女はいつも優しい笑みを浮かべて待っていてくれた。
ふと、涙が出そうになった。
私…こんなに優しくしてくれた子のことも、忘れてしまっていたんだ…。
そんなことを思いながら2人を見つめた。
『だって毎日連絡とってるんでしょ?これはもう付き合っちゃうでしょ!』
『だから!翔くんは大事な友達だってば!』
『えー、好きなんでしょ?なんか助けてくれた男の子らしいし?これは恋の始まりですよ!』
『恋は始まらない!』
そうだ…。
卒業してから、翔くんは毎日私に連絡してくれて。
その内容はいつも
“拓真になにかされてないか?”とか“誰かに傷つけられたりしてないか?”というものだった。
そんな彼に、私は少しだけ申し訳ない気持ちがあった。
彼も、あの時本当に傷付いたのだ。
私が関わっている限り、あの出来事を思い出してしまうだろう。
だから、少しずつ翔くんから離れていかなければいけないと、そう思っているのに…。
彼の優しさに甘えているのは、私が弱いからだ…。
味方がほしいから…。
『まぁ、良いけどさ。そうだ!もし彼氏出来たら、ダブルデートしようよ!』
『っ』
「っ」
その言葉に、私だけではなく、目の前にいる“私”も深く息をのんでいた。
『桜?』
心配そうに顔を覗き込む千春に、“私”は慌てて微笑む。
『そうだね!ダブルデートとか良さそう!』
『……うん!そうそう!』
少しだけぎこちない空気が流れたが、すぐに千春はそれをかき消すかのようにいつもの笑みを浮かべたのだった。
「あれ…?」
さっきまでの教室の光景はどこにいったのか。
気が付けばもう場面が変わっていた。
これは…校舎裏?
「“私”は…どこに…」
パッと振り返ると、“私”は真後ろに立っていた。
あれ…?長袖…着てる?
周りを見渡して、紅葉が目に入り今が秋なのだとわかった。
また視線を戻すと、“私”は不安げに瞳を揺らしていた。
あれ…?
なぜか、ドクンドクンと胸が嫌な音をたて始める。
嫌な予感がする…。
この日は確か…確か…
ガサッ。
「っ!」
音のした方へ視線を向ければ、カチッと忘れかけていた記憶のピースがはまった。
「…拓真くん…。」
そこには、あの頃よりも少し大人びた拓真くんが立っていた。
『…ごめん。呼び出して…。』
『……。』
スッと、“私”は拓真くんの横を通りすぎようとした。
『待って!』
ピタッと“私”が動きを止めた。
『騙すようなことしてごめん。手紙に名前書かなかったのは…来てくれないと思ったから…。』
手紙…。
そこで、下駄箱に名前の書いていない手紙が入っていたことを思い出した。
『俺!あの頃からずっと、東條のことが好きなんだ!たくさん傷付けたこと分かってる…。翔にも東條に近付くなって言われた。けど、俺は…』
『もう…やめようよ…。』
その声はどこか、悲しいものを感じさせられた
『…っ…』
『私は、もう大丈夫だから。罪を償ってもらいたいと思ってる訳でもない…。だからもう、関わらなっ』
“私”の言葉を遮るように、拓真くんは“私”の腕を掴んだ。
『じゃあ過去とか関係なく、俺のこと見てくれない?』
『…っ…』
グッと腕をそのまま引かれ、“私”は拓真くんに抱き締められる形になる。
その腕を、“私”は振り払うことが出来ずに固まっている。
『東條が好きなんだ…。考えておいて。』
そう言って拓真くんはスッと“私”から距離を取ると、そのまま立ち去ってしまった。
ドクンドクンと胸の鼓動が速まるのを感じた。
そうだ…ここで私は告白されたんだ…。
『どうして…今さら…』
呟いた言葉は、まるで何かをたえているようで…。
『なんで……なんで…』
涙を溢す“私”の声は、震えていた。
“あの出来事が起こる前に告白してくれていたら、もしかしたら何かが変わったかもしれない。”
この時、私はそう思っていたんだった…。
場面が次々と変わっていく中で、そこには必ず拓真くんの姿があった。
休み時間の度に“私”のもとへ足を運んできて、私にだけではなく千春にも話し掛けている。
しかも、あろうことか拓真くんは、私のことが好きだと公表もし始めたのだ。
拓真くんが何を考えているのかは、この時の“私”も今の私もきっと分からない…。
『ねぇ!拓真くんの事はどう思ってるの?』
『…っ…。あ、いや…』
『すごく良いじゃん!桜の事想ってるみたいだし!』
『そうだね…。』
本当のことは、千春には言えなかった。
そして、今拓真くんと接しているということも翔くんには言っていない。
フッと蘇る記憶に、私は顔を歪めた。
ああ…そうだこの時から私は…
『桜も満更じゃない感じだよね!』
蓋をしたはずの想いが、開きかけ始めていたんだ…。
あの頃、拓真くんの優しさに、笑顔に惹かれていて。
まるであの出来事など無かったかのように、拓真くんはあの頃と同じように私に接してきていた。
「迷って…いいの…?」
目の前の“私”に問い掛けるように、そう呟いていた。
「あの人は“私”を傷付けたんじゃないの…?」
自分で呟いたのに、そのままブーメランのようにその言葉が返ってきて胸に突き刺さる。
このままでいいの…?
そう思ったとき、また体がパアッと光に包まれる。
戻るのか…。
そう思って瞳を閉じようとした時、視界の先で、今まで笑っていた拓真くんの表情が、スッと消えたような気がした。
「…ん…」
瞼をあげると、また散乱するオモチャが視界にうつる。
「おかえりなさい。」
何度か瞬きをしていると、いつ現れたのか翼が目の前に立っていた。
「どうですか?なにか分かってきました?」
その問いかけに、私は首を横にふった。
「分からない…。」
これからの“私”の行動を、私は予測することができない。
「まぁ次の本で、すべてがわかるかもしれません。」
「え…」
ニコッと翼は微笑むと、パチンッと指で音を鳴らした。
「っ?!」
「最後の、本です。」
今までそこにはなにもなかったのに、翼の手には1冊の真っ黒い本が現れた。
「この本の色は、あなたの心の中を表している。」
「心の中……。」
今までの本の色を思い出して、私はハッとした。
「だんだん…暗い色に…。」
「はい。最後の本は、真っ黒です。」
まっくろ…。
その本を見つめて、私は鳥肌がたつのを感じた。
「この記憶の本は、あなたが思い出したいと思ったところまで記載されている、あなたの心を反映させた本です。
この本を読み進めても、もしかしたら途中で終わってしまうかもしれない。
はたまた、あなたが“その人”を殺す記憶まで見られるかもしれない。
それらはすべて、あなたの心次第です。」
そう言って、翼は私の前に本を差し出した。
「もう一度言います。
僕はあなたに生きてほしいと思っている。
どんなに辛くても、あなたは1人じゃないから。だから恐れないで。」
「どうして…翼はそこまで私を…」
私の問い掛けに、翼は答えることなく笑った。
その笑みに、私はどこか違和感を覚える。
この笑い方…どこかで…
「残り4時間16分。さぁ、行ってらっしゃい。」
そんな考えをかき消すように、翼は無理矢理私に本を持たせる。
「っ!!?」
その瞬間、開いてもいないのに本は強い光を放ち私を覆っていく。
そして勝手にパラパラとページが開かれると、先程よりも強い光が私を覆い始めたのだった。
「…最後は……」
スッと目を開けると、そこは教室ではなく、そもそも学校の中ではなかった。
「駅…か…。」
どこか懐かしいそこは、高校に入ってからは毎日のように利用していた駅のホーム。
「“私”はどこに…。」
キョロキョロと辺りを見渡しても、自分の姿をとらえることは出来なかった。
「人多いな…。」
恐らくは帰りの電車を待つ人達なのだろう。
どこか皆疲れた顔をしていた。
「あ!」
その中で私は1人たたずむ“私”を見つけた。
「やっと見つけ…」
『………。』
どこか様子のおかしい自分の姿に、私は言葉を止めた。
“私”は一点を見つめて立ち尽くしている。
その瞳は、どうしてか涙の膜がはっている。
何かがあるの?
パッと“私”が見ている方向へと視線を移そうとした時だった。
「っ!」
まるで、金縛りにあったかのように体が動かなくなった。
なに…?
そしてドクンドクンと胸が大きく脈打って、暑くもないのに汗が出てくる。
なにが…?いや…見てはいけないんだ。
これを見たら、私は……
“あなたは1人じゃない。”
「!」
ふと蘇る翼の言葉に、金縛りがとけたかのように体が動き出す。
「恐れちゃ…いけない…。」
生きてほしいと言ってくれる人がいるんだから。
1つ深呼吸をして、今だ呆然としている“私”が見つめる先に視線を移した。
「あ……。」
目の前の光景に、絶句した。
線路を挟んだ反対側のホームに、その人たちはいた。
それは、中学校のときによく見ていた光景。
あの頃は特になにも思うことなく、その光景を微笑ましく見ていた。
けど今は……
『あの2人、より戻したみたいだよ。』
聞こえてきた声に、私はハッとして横を見る。
「たく…まくん…。」
拓真くんは目を細めて2人を見つめていた。
『結局は翔は、柊が好きなんだ。だから許してしまった。東條が傷付いたことなんか忘れて、裏切った。』
「っ…」
『アイツにとって彼女は、初めて好きになった相手だから。』
酷く冷たい声が、私の胸に突き刺さる。
もう一度目の前の光景を見て、私は確信した。
笑い合う静香と翔くんは、確かにあの頃と同じだった。
『俺と行こう、桜。』
「っ?!」
また拓真くんの方へ視線を戻せば、彼と私の視線がぶつかった。
「なん…で…」
バッと辺りを見渡すが、先程いたはずの“私”がどこにもいない。
『俺が、ずっと君を守るから。』
優しい声音が耳に響いたのと同時に、ふわりと優しい温もりに包まれる。
「っ?!」
『もう大丈夫だよ。』
「……っ…」
そっと私の頭を撫でる拓真くんに、私は気が付けばギュッと彼の腕を強く掴んでいた。
ふっと覚醒したのを感じて目を開ければ、そこは見慣れぬ部屋の中だった。
シンプルであまり物が置いていない部屋の中のベッドに、“私”が涙を流しながら座っていた。
そこには私以外誰もいなかった。
ぼんやりと、私はその様子を眺める。
その時、ガチャッという音と共に、拓真くんが部屋の中へと入って来た。
ここは拓真くんの…部屋…?
なんで私は…彼の部屋に…。
『落ち着いた?』
拓真くんはそっと“私”の隣に腰掛けると、優しい声音でそう聞いていた。
その問いに、“私”がゆっくりと首を横にふる。
『そっか…。』
それだけ呟くと、拓真くんは“私”から視線を外して一点を見つめ始める。
その瞳は、どこか感情がないように思えた。
『なぁ東條。』
ポツリと、また拓真くんが呟く。
『もう全部。壊してしまおうか。』
『……?』
そんな言葉に、“私”が顔をあげて彼を見つめると、拓真くんも“私”を見つめていた。
『もう粉々に壊してしまえば、なにも無くなるんだ…。』
そっと、拓真くんが“私”の頬に触れる。
そして笑った。
『好きだよ。桜。』
ズキンッ!!!!
「っ?!」
急に激しい頭痛に襲われ、私はその場にうずくまった。
なにこれ…?
ギュッとまぶたを閉じて痛みにたえるが、それに反してどんどん頭の痛みは増していく。
「うっ…」
気が付けばボロボロ涙が溢れ出てきて、私の視界を濁していく。
ハッと思って顔を上げれば、そこにはもうなにもなくて、真っ暗な世界だった。
「…何で…?」
思い出さなきゃ…思い出さなきゃいけないのに…!
「思い出したく…ない…!」
思い出してはいけない…
私があの時殺したのは…?
持っていた包丁の刃を向けた相手は…?
誰…?私は…誰を殺した…?
「っ!」
ハッと目を覚まして視界に入ったのは……
「…ち…はる……?」
どうして…?ここで…?
そこは高校の準備室で、少し不安げな顔をする千春と呆然と立ち尽くす“私”がいた。
『…嘘…だよね…?桜にも、何か理由があったんだよね?』
この…記憶は…?
『私…いじめって良くないと思ってるけど…もしかしたら桜には…何か理由があって…』
いじめ…?
『どうして…何も言ってくれないの…?それとも、佐々木さんが言ってたこと、全部本当なの…?』
佐々木さん…?
「うっ…!」
今度は、胃がキリキリと痛み始め、強い吐き気に襲われる。
嫌だ…嫌だ…思い出したくない…!
無意識に拒んでいた自分に、私はハッと我に返った。
『桜が親友の好きな人とって、その子をいじめてたって!』
「っ…」
『過去のこと…何も知らない私が口挟むことじゃないけど…それはあんまりだと思った…。』
ポロポロと涙を流す彼女は、私を見て言った。
『正直…桜とは友達ではいられない…。』
「……。」
それでも何も言わない私に、彼女はますます涙を流す。
『……最低…』
それだけ言うと、千春は準備室から出ていってしまった。
「ち…はる…。」
崩れ落ちるようにその場に座り込んで、私は床を見つめた。
「どうして…私は何も言わないの…?」
かつて、私と同じ中学校だった佐々木麗子は、同じ高校にいたんだ。
もういじめられない。もうなにもされない。
そう思っていたのに…。
そうだ…。
高校2年生になって、私は千春とクラスが離れ、千春は彼女とクラスが一緒になって……。
「…うっ…」
変な噂を流されたんだ…!
「何…で…」
どうして…?
「こんな目に遭うの…?」
ズキンズキンと、頭の痛みがまた再開した。
そしてその瞬間、強い光が放ったのと同時に、私はその光に包まれていく。