――――それは、星も月も見えない夜のことだった。
私の眼下では、ネオンが眩しく輝いている。
それとは反対に、私の頭上には光なんて何も見えない。
空は、真っ暗だ。私の心と同じように――
「こんなところで、何をしてるんだ?」
私しかいないと思っていた空間で、突然知らない声が背後から聞こえてきて、私は慌てて振り向いた。
月の明かりはない。下からの輝きがあるだけで、ここに私たちを照らしてくれるものは何もない。
だから、どんな人がこの場にいるのか、私にはわからなかった。声で判断すると男性みたいだし、暗闇に慣れた私の目にはスタイルの良さそうな男性の姿が見える。
なんとなくその人を見ていると、その人影は私の元に近づいてきた。そして、一定の距離を詰めるとその場で立ち止まる。
距離が近くなったから、もっと相手の姿を見ることができた。全身黒い服を身に纏った男。どうやら私よりも年上で、背が高くて顔が小さい。だけど、どんな顔をしているかはわからなかった。
私は、念のため被っていたフードをさらに目深にした。
こんな夜にフードを被っているなんて、完全に怪しい奴だろうけど。
「こんなところで、何してる?」
私が何も言わなかったからだろうか。目の前の男はもう一度、そう聞いてきた。表情は見えないけど、睨まれているような気がする。
少しして、私は彼の勘違いに気がついた。
「別に、死のうとか思ってないけど」
私がそう言うと「……なんだよ」と男は言って溜め息をついた。
本当に勘違いをしていたらしい。そんなに追い詰められているように見えたのかな。
私と男がいるのは、繁華街にあるとあるビルの屋上だった。少し前に廃ビルになって、取り壊しも計画されている。
そんなビルの屋上で、ボーっと空や眼下の景色を見ていれば、自殺しようとしていると勘違いされてもおかしくないのかもしれない。実際、私にはそんなつもりはなかったけれど。
だとすれば、彼は自殺しそうに見えた私を発見して、慌ててここまで来てくれたのだろうか。こんなビルにわざわざ来る理由なんて、なかなかないだろうし。でも、正直そんなにいい人には見えない。
「じゃあ、こんなところで何してるんだよ」
彼は不機嫌そうに聞いてきた。何してる、って聞かれても……
「別に、何もしてない」
「わざわざこんなところに入って?」
「ひとりになりたい気分だっただけ」
「なんでだよ」
……なんだろう、この人。口が悪いし、てっきり人に興味がないタイプだと思っていたのに、グイグイ私の事情に首を突っ込んでくる。初対面だし、私のことなんて放っておいてくれたらいいのに。
それでも、この人はきっと――私のことを知らない。
「考えたかったの」
「何を」
「自分が、なんのために頑張ればいいのか」
私の言葉が重すぎたのか、目の前の男は少し驚いているように見えた。
「人って、なんのために生きてると思う?」
真っ暗な夜空を見上げながら、私は彼にそう尋ねた。
初対面の相手にこんな重い質問をするなんて、どうかしている。彼は答えないかもしれない。
それでも、なぜか彼の答えを期待している私がいた。
「……そんなの、自分のためだろ」
少しの沈黙を挟んで、彼はそう言った。
その答えは私の予想の斜め上をいっていた。
「自分の、ため?」
ドラマや漫画などでよく聞く言葉は、「誰かのため」。自分を応援してくれる人や家族のためなら、どんなに辛いことでも頑張れる。実際に私もそうなのだろうとずっと思ってきた。
だけどいつからか、その歯車が狂い始めた気がする。
家族のために、自分を応援してくれる人のために頑張ろうと思っていたのに、どんどん自分がわからなくなってきて。私はどこに向かっているのか、何を目標にすればいいのか、それすらも見失い始めていた。
そんな私に、彼は「自分のため」と言い放ったのだ。
「人間っていうのはどんなにいい奴だとしても、結局は自分のために頑張ってるんだよ。誰かのため、なんてそんなものは後付けだ。そう言っておけば周りからも良く思われるから、結果的にはそれも自分のためになってると俺は思うけどな」
「……」
「お前が何に悩んでるかは知らねぇけど、別に誰かのために頑張る必要なんてないだろ。お前の人生は、お前のものだ。自分のために生きても罰なんて当たらねぇよ」
「……そうだね」
そんな簡単なものではない。
私はあの子のために頑張らなければいけないし、ここで私が逃げ出すわけにもいかない。
自分のために生きるなんて、今の私には不可能だ。
それでも、彼の言葉は私に勇気をくれた。
なんのために生きているのか――ここ最近ずっと抱えていたその疑問を、彼はいとも簡単に解決してしまったのだ。
彼の言葉がすとんと胸の中に落ちて、重たくなっていた私の心はあっという間に軽くなった。心に渦巻いていた濃い霧は、あっさりと消えていった。
もう、大丈夫だ。
そんなタイミングを見計らったかのように、ポケットに入れていたスマホが震えてタイムリミットを知らせる。もう、行かないと。
「ありがとう」
彼にそう言ってから、私は眼下に広がる眩い光を目に焼き付けた。そしてゆっくりと彼のもとに近づいていく。そのまま彼の隣を通り過ぎようとした時、パッと私の腕は掴まれた。
突然のことに驚いて、私は思わず立ち止まって振り返る。私の腕を掴んでいたのは彼だった。私を真っ直ぐに見詰めていて、初めて彼の顔を間近で見た。
彼は、とても綺麗な顔をしていた。帽子を被っているし、辺りは暗いから顔がハッキリと見えたわけではないけど。それでも整った顔をしているのがわかって目を奪われたけど、私は慌てて彼から顔を逸らす。
私の顔を見られるのは、あまり良くない。
「あの、」
「名前は?」
顔を逸らした私とは違い、彼は真っ直ぐに私のことを見ていた。
まさか名前を聞かれるとは思わなくて、必死に頭を働かせる。
今日、私たちはたまたまここで出会った。そして、またどこかで会う可能性は極めて低い。私たちはお互いのことを知らないし、知る必要もないのだから。
彼には助けられたけど、また会おうとは思っていない。いや、きっと会えない。
私の腕を掴む彼の手にはあまり力が入っていなかったから、彼の手から自分の腕を簡単に抜くことができた。
私は彼の目を見て、キュッと口角を上げる。
「次に会えたら、教えてあげる」
そう言い終えて、私はその場を後にした。
俯きながら私は繁華街を足早に歩く。そして、入口に停められていた黒い車に乗り込んだ。すると、車はすぐに出発する。
私は小さく息を吐き、被っていたパーカーのフードを脱いだ。
「ナツ、大丈夫?」
車を運転している女性が、ミラー越しに私と視線を合わせる。その表情からは本当に私を心配してくれていることが伝わってきて、それだけで心が温かくなった。
私は彼女を安心させるために微笑む。