僕はそんな花穂を前に、込み上げる衝動を抑えられなかった。
ごめん、花穂……。
ごめん、兄ちゃん……。
僕は、花穂を力ずくで抱きしめた。
こんな風に本能のままに花穂を抱きしめるなんて、さすがに兄ちゃんに悪いし、ダメだってわかってる。
だけど、抑えられなかったんだ。
僕の態度に、僕の腕の中で花穂の緊張がほぐれていったのがわかった。
次第に、花穂の両手が僕の背に回る。
もぞもぞと僕の中で動く花穂に促されるように下を向くと、花穂が物欲しげな瞳で僕を見つめているのがわかった。
花穂が言いたいことは、言葉にしなくてもわかる。
思わず少し開いた唇に視線が降りてしまうが、僕はまた理性の糸が切れてしまう前に、花穂の両肩に手を置いて彼女と距離を取った。
「……えっ?」
花穂の顔は、困惑したような、不安げな表情に変わる。
違う、違うんだ。
僕は花穂を拒んでいるわけじゃない。
だけどそれ以上に、僕には伝えなければならないことがある。
取り返しがつかなくなる前に……。
「ごめん、花穂。聞いて」
「どうしたの? リョウちゃん。やっぱり記憶がなくなったままじゃダメかな……?」
「違う! そうじゃないんだ!」
思わず大きな声が出て、花穂が肩を震わせる。
「好きだよ、花穂のこと、すごく。本当は、ずっと好きだった……」
まさかこんな形でずっと秘めてきた想いを言葉にするなんて、思いもしなかった。
本当はこんなこと言ってる場合じゃないんだけど、もしかしたら全てを知ったら花穂は僕なんかと口をきいてくれなくなるかもしれないんだから、このくらい許してほしい。
「リョウちゃん……?」
「だけどね、ごめん。実は僕、本当は……」
そう言って、僕は自分の髪を──兄ちゃんがしていたのと同じように分けていた髪を無造作にクシャクシャとかき混ぜて、本来の僕の姿にしようとした。
だけど、僕が本来の僕の姿に戻る前に、花穂が両手を頭に当ててその場に崩れ落ちた。
「……花穂っ!?」
頭はグシャグシャのままだけど、今はそんなの構ってられない。
僕は慌ててその場にしゃがみこんでいる花穂のそばに膝を折る。
「どうしたの? 頭、痛いの?」
もう陽は西の空に沈みかけているということから花穂の表情は見えづらいけれど、酷く辛そうに頭を抱えていることだけはわかる。
それと同時に、目の前の光景にデジャヴも感じていた。
花穂が最初に倒れた天文学部の合宿のとき、──そして、つい先日の水族館デートの再現をしたときのことだ。
やっぱり、花穂は何かを思い出しているのだろうか?
「ねぇ、花穂。もしかして、何か思い出したの?」
だけどそうだとして、またここで意識を失ってしまえば、今の出来事は花穂にとってなかったことにされてしまうのだろうか。
花穂に語りかけるようにたずねると、それまで苦しげに細められていた目が見開かれて、僕を捉える。
やっぱり、そうなのか……?
花穂の瞳は酷く不安げで、まるでこの世の終わりを見ているようだった。
「……わからないの」
だけど、花穂が僅かに唇を動かすと同時に聞こえたのは、今にも波の音に呑まれてしまいそうな震える声だった。
「……え?」
わからない……?
「だけどすごく辛いの、この先を聞くのが。聞いちゃダメって……」
「それって……」
「ねぇ、リョウちゃんは居なくならないよね?」
天文学部の合宿の夜に聞いたのと同じ質問だった。
花穂のことを安心させたいけれど、中途半端な優しさは花穂をもっと傷つけるのかもしれないと気づいたから、今回は花穂の望むこたえを返すことができない。
「花穂、聞いて! 兄ちゃんは……」
必死で訴えるように叫ぶ。
だけど、僕が全てを伝えようとしたとき。
「──……柏木涼太は、もう」
すでに花穂は僕の腕の中で意識を手放していた。
「何でだよ……。何なんだよ……っ」
花穂はきっと潜在的には覚えているんだ、兄ちゃんのことを。
だけど、それを全身で拒んでいる。
その事実を聞くのを、知るのを、実感するのを。
「僕に、どうしろって言うんだよ……っ」
それなのに、そんな花穂に真実を突きつけることが本当に正解なのか、僕にはわからない。
ただでさえ花穂がこんな状態なのに、無理に現実を押しつけることで花穂の心が取り返しがつかないくらいに壊れてしまうんじゃないかって思ったら、僕には、真実を告げる勇気がない。
好きなのに、救えない。
大切なのに、傷つけることしかできないのか。
兄ちゃん、僕、どうしたらいいの……?
あれ……?
目を開けると、星が煌めく夜空が見えた。
聞こえるのは、波の音色。礒の香り。
私は、一体……?
「目、覚めた?」
すぐそばから聞こえた優しい声の方へ視線を動かす。すると、心なしかホッとしたようにまゆを下げるリョウちゃんの姿が、目に映る。
「ご、ごめんなさい……。私……っ」
せっかくリョウちゃんに連れてきてもらったのに、いつの間に寝ていたのだろう?
慌てて上体を起こそうとする私を、リョウちゃんが制する。
「いいよ。いっぱい水遊びして疲れたんだろうし」
「水遊び……?」
今日は、リョウちゃんと海を見に来ていた。
私が記憶を失う前に、リョウちゃんと私はここにデートで来たらしいから。
何かを思い出すどころか、リョウちゃんの言う水遊びをしたことさえ上手く思い出せない。
最近、いつもじゃないけれど、こういうことがある。
この前の水族館のときもそうだった。
どちらも昔、リョウちゃんとデートで来ていた場所というだけあって、もしかしたら何か大切なことを思い出せていたかもしれないのに、いざ終わってみたら何も覚えてないのだ。
「……ああ。今日はね、この海辺に来て、僕たちは水遊びをしたんだ。一緒にここから夕陽を見ているうちに、花穂は眠くなっちゃったんだよ」
困ったような笑みを浮かべるリョウちゃんに、そろそろ呆れられるんじゃないかって思ってしまう。
「……ごめんね」
リョウちゃんは何も言ってこないけど、私がまた眠ってしまう直前の記憶がなくなってしまっていることにきっと気がついている。
「気にしないで。帰ろっか」
リョウちゃんがスマホで時間を確認すると、すでに十九時を回っていた。
どおりで暗くなってしまっていたわけだ。
リョウちゃんのスマホにつけられた、私のものとお揃いのイルカのストラップが目に入り、ドクンと心臓がいやな鼓動を立てる。
このストラップは、水族館で私が意識を失ってしまう前にリョウちゃんとお揃いで買ったものらしい。けど、どうしてかリョウちゃんのスマホに付けられたイルカを見ると、言葉では言い表せない違和感が私を襲う。
何がそうさせているのか、考えようとすると頭の奥が酷く痛むからあまり考えないようにしているけれど。
リョウちゃんと手を繋いで、最寄りの駅へ向かう。
今日は、ロマンチックな夕陽を見ながらリョウちゃんに今の自分の気持ちを告白しようと思っていた。それなのに、また意識を手放してしまうなんて、我ながら情けなくなった。
*
暗がりの中、私の家が見えてくる。
リョウちゃんの家は、私の家の裏側の通りらしい。
すぐ近くだからと言って、リョウちゃんは行きも帰りも必ず私を家まで迎えに来てくれる。
「リョウちゃん、私のせいで遅くなっちゃってごめんね」
「いや、いいよ。今日は、うち、母さんも夜勤の仕事だから多分誰も帰ってないし」
「一人なの? 夜ご飯は?」
「まぁ、適当に何か食うよ」
リョウちゃんの家のことは、実はあまり知らない。
だけど両親共働きな上に、リョウちゃんのお母さんに関してはシフト勤務なんだそうだ。
元々の私は知っていたのかもしれないけれど、夏祭りでの事故で、私は一体どれだけのことを忘れてしまったのか。
「もし良かったら、うちで食べてく?」
「……え? いいよ、悪いし。急にお邪魔したら、おばさんも困るだろ?」
「大丈夫だと思うよ。私、ちょっと聞いてみるから、ここで待ってて」
ちょうど家の前まで来たので、リョウちゃんには家の門のところで待ってもらうように促す。
今夜は、私が午前中の空いていた時間でお母さんとたくさんカレーを作った。だから、リョウちゃん一人増えたところで問題ないはずだ。
お母さんに聞くと、少し驚いてはいたけれど快く承諾してくれる。
記憶をなくして目覚めたとき、最初こそぎこちなかったけれど、今では記憶がなくてもお母さんのことをちゃんとお母さんと思えるようになった。
ちなみに、お父さんは今夜は少し残業で遅くなると連絡があったそうだ。
「リョウちゃん、良いって言ってもらえたよ?」
外で空を仰いでいたリョウちゃんにそう告げる。
「え、本当に? じゃあ、お邪魔、します……」
リョウちゃんは何となくばつが悪そうに笑うと、ぎこちなくそう言った。
もしかして、緊張してるのかな。
とはいえ、リョウちゃんの話では私とリョウちゃんは幼い頃からの付き合いで、もちろん家族同士の交流もあったそうだから、そんなに緊張することはないと思うのだが。
リビングに入ると、リョウちゃんは嘘のようにお母さんと会話を弾ませていた。
最近の私のことはいつも見てるのに、家での私はどうかとか話している。
お母さんも、リョウちゃんと一緒に居るときの私はどうだとか聞いている。
言葉にはしないけど、二人ともに、いまだに私の記憶がひとつも戻らないことを心配させてしまっているのかもしれない。
一緒に夕飯を食べてもらうことになって、もっとリョウちゃんと話す時間が増えると思っていたのに、目の前の二人で会話を弾ませるばかりで、何となくお母さん相手に嫉妬してしまいそうになる。
「ごちそうさまでした。何だか突然おしかけてすみません。でもすごく美味しかったです」
リョウちゃんはお母さんに勧められて、カレーを二杯食べた。
「あら、それなら良かったわ。今日のカレーはね、花穂と作ったのよ」
「え? そうだったの?」
リョウちゃんは少し驚いた顔で私を見る。
自分も一緒に作っていたことはリョウちゃんには内緒にしていたから、何だかイタズラがばれたような気持ちになる。
私がうなずくと、リョウちゃんは優しい笑みを浮かべる。
「そっか。すごく美味しかったよ」
「……ありがとう」
そんな一言でさえ、ドキドキしてやまない胸の高鳴りを感じて、記憶をなくしていても私は本当にリョウちゃんのことを好きになったんだなと感じる。
リョウちゃんは、このあとすぐに帰っちゃうのかな。
目の前のリョウちゃんはお母さんに今日のお礼を言って、椅子の横に置いてあったショルダーバッグを手に取る。
夜も結構遅いし、元々突然夕食に誘ったのだから、むしろ当然だ。
まだそばにいてほしいだなんて、完全なわがままだ。
だけど、リョウちゃんが居なくなってしまうんじゃないかっていう根拠のない不安が、隙があれば私の中を埋め尽くしていくんだ。
「……リョウちゃん」