地味子ちゃんと恋がしたい―そんなに可愛いなんて気付かなかった!

「どうぞ入って」と由紀ちゃんを先に入れて、鍵をかける。

明かりを灯してリビングへ向かう。先を歩く由紀ちゃんは少し緊張しているみたいだった。

リビングへ入るとすぐに後ろから抱き締める。

突然抱き締めたので、由紀ちゃんは身体を固くする。

キスしようとこちらを向かせるが、恥ずかしいのか下を向いたままだ。小さな声が聞こえる。

「おトイレ貸してください」

「ええー、いいけど」

すぐに由紀ちゃんはトイレに駆け込んだ。水の音が聞こえる。

いきなり抱き締めたりしたから、驚かせたかもしれない。

すまないことをした。なかなか出てこないので心配になる。

どうしようと思っていると、ようやくドアが開いて出てきた。

「ごめんなさい。せっかく優しくしてくれたのに、ごめんなさい」

「いや、僕の方こそ、突然抱き締めたりして、ごめん。お弁当を食べようか? お腹が空いた」

「私もお腹が空きました」

「お茶を入れよう」

「私がします」

由紀ちゃんがお湯を沸かしにキッチンへいった。しばらくしてお茶碗を二つ持ってきてお茶を入れてくれた。

二人で話しながらゆっくり食べるつもりだったのが、二人は無口で食べている。

二人ともこのあとのことが気になっている。由紀ちゃんに何て声をかけたらいいのか分からなくなった。

食べ終わって、ジッと見つめていると「片付けます」と言って立ち上がった。「僕が片付けるよ」と立ち上がる。

テーブルの上で手が触れるともう我慢できなくなって、由紀ちゃんを引き寄せて抱きしめた。

由紀ちゃんは抱きついてきた。しがみついて離れない。

「大好きです」

「僕も由紀ちゃんが大好きだ」

抱き抱えて寝室のベッドに運ぶ。

由紀ちゃんはぎこちなく僕の腕をつかんでいる。

ワンピースに手をかけると身体を固くするのが分かった。

「優しくしてください」

「ああ、優しくする。心配しないで」

由紀ちゃんはこうして僕のものになった。

◆ ◆ ◆
由紀ちゃんが布団の中から見上げて僕に話しかけてくる。顔が見づらい。

恥ずかしがって布団にもぐりこんで中から顔を出さない。

「もう、服を着ていいですか?」

「だめ、もう一度可愛がってあげたいから」

「今日はもうこれ以上無理です。ごめんなさい」

「分かった。でもこのまま朝までいてほしい」

「いいんですか、泊っていっても」

「もちろん、このままでは帰せない」

「じゃあ、少し眠ってもいいですか」

「いいけど、少し話をしないか? そのままでいいから」

布団の中の顔と話しを始める。

「はじめてだったんだ」

「はい」

「ごめんね、もっと優しくするんだった。由紀ちゃんを早く自分のものにしたくて力が入った。ごめんね」

「優しかったし、とても嬉しかった。でもこれ以上は無理です」

「分かっている。このままここにいてほしい」

「こちらこそ、そばに居させてください。ギュと抱き締めてくれますか?」

「いいけど」

「そして、抱き締められたままで眠らせて下さい。こうしてもらうのが夢だったんです」

「分かった。いい夢が見られるように、由紀、大好きだ」

布団の中に腕を突っ込んで抱き締める。

抱き締めるとこんな力があるのかと思うくらいに強い力で抱きついて来る。

柔らかい身体が壊れそうになるけど抱き締める。

そのまま静かに動かずにいると、いつのまにか眠ってしまった。

◆ ◆ ◆
朝、由紀ちゃんは布団にもぐりこんだまま僕の身体にしがみついている。

眠っているのか目覚めているのか分からないが、しがみついたままだ。

「このままベッドにいてくれる? 朝ごはんを作ってあげるから」

こう言ってみると、中から声がする。

「お手伝いします」

「いいよ、そのままここにいて」

「じゃあ、服を着ます。向こうを向いていて下さい」

由紀ちゃんはすぐに服を持ってバスルームに入って行った。

僕はその間に部屋着に着替えると朝食を作りにかかる。

トースト、ハムエッグ、ホットミルク、ヨーグルト、皮をむいたリンゴ。すぐに準備ができた。

由紀ちゃんはなかなか出てこない。ようやく出てきたと思ったら、すっかり身支度を整えて可愛くなっている。

「随分、時間がかかったね」

「仁さんの前では可愛いい私でいたいから」

「そんなに気を使っているとこれからたいへんだよ」

「いいんです。女の身だしなみを野坂先輩に教えられました。どんな時も醜態を見せてはいけないと」

「醜態ね、僕は醜態も可愛いと思うけどね」

「たまにはいいかもしれませんが、いつもはいけないと思います。そして初めが肝心ですから」

「そりゃあ可愛い方がいいに決まっているけど、あまり気を使わせるのも悪いと思って、自然でいてほしいだけだ」

「できるだけ自然に振舞うようにします」

「朝食の準備ができたから食べよう」

「聞いていたとおりのバランスのとれた朝食ですね。でも仁さんもちゃんと顔を洗って歯磨きもしてきてください」

「ごめん、醜態を見せちゃいけないね、先に食べていて、すぐに戻るから」

「待っていますから、でもゆっくりでいいですよ」

まるで、新婚さんの朝の会話みたいだと思って顔を洗う。でもこれが楽しくて浮き浮きする。

由紀ちゃんを自分のものにしてよかった。

そのあと朝食の後片付けをしてくれて、機嫌よく帰って行った。
週の半ばの昼休みに野坂さんから内線電話が入る。

「今日、空いてない? 相談したいことがあるけど」

「珍しいね、相談したいなんて」

「どこか落ち着いて話せるところある?」

「この前の表参道のスナックでいい?」

「いいわ」

「7時でどう?」

「わかった。その時話すわ」

◆ ◆ ◆
表参道のスナック「凛」はママが代わって営業していた。

少し前にひょっとしてと思って前を通ったら営業していたので入ってみた。

看板は『凛』のままだったが、やはりママは知らない人だった。

以前に来たことがあるといったら、ここを譲り受けたと言っていた。

おそらく、凛の知人か親しい人だと思い、聞いてみたら、ママとは懇意にしてもらっていたと言っていた。

おそらく昔の仲間だろう。それ以上は詳しくは聞かなかった。雰囲気からそれと分かるきれいなママだった。

水割りを飲んでいると野坂さんがやってきた。

「ごめん、私の方から頼んだのに遅れてしまって。急に取材の打合せが入ってしまったの」

「忙しいんだね。身体の方は大丈夫かい? 僕みたいに身体を壊すなよ」

「ありがとう。健康には気を付けているわ。ジムに通って運動もしている。私も水割りお願いします」

「ママが代わったのね」

「前のママから譲り受けたといっていた」

「何か食べる?」

「食べる気にならないの」

「じゃあ、つまみにチーズとナッツを頼もう。空きっ腹で飲むと良くないからね。ところで相談って何?」

「うーん、ある人から、私が好きだと告白されて」

「へー、のろけか? それで何を相談したいの?」

「どうすればいいのか、あなたは彼女と付き合う時、どう決心したの?」

「そんなことは人それぞれだから、それに男と女は違うだろうし、僕の場合が参考になるのかな? それに君だって今までいろんな人と付き合ってきたんだろう」

「私、男性と付き合ったことがないのよ」

「僕とも、気楽に飲んでいたじゃないか」

「あなたとは、ただの同期としてのお付き合い」

「やっぱりね、男性としては意識されていなかったのか」

「私は男の兄弟ばかりだったから、男の子と張り合って生きてきたように思うの、小学生の時から学生時代もずっと、だから男の人を好きになれなかったみたい」

「会社に入ってからも張り合っていた?」

「そうね、そのままだったわ、今もそうかもね」

「でもオシャレに気を使っている」

「オシャレは女の武器、同性に対しても、センスが問われるから」

「男性に関心はなかったのか?」

「今まで仕事優先で来たので、男性は張り合う相手だから関心がなかったの。男性としてみるのなら、同年代ではもの足りなくて、40代位の年上の男性が丁度いい感じと思っていたわ」

「野坂さんは学生時代にはモテモテで、いろんな人と付き合っていたのだろうと思っていた。でも今は付き合っている人はいないだろうと」

「学生時代にいろいろな人と付き合ってはいたけど、好きだったからじゃないの、好きになった人はいなかったわ」

「なんとなく分かる」

「それで、ある人から突然好きだから付き合ってくださいと言われて」

「どうしていいのか分からないというのか?」

「好きだと言われたことがなかったから」

「信じられないな、野坂さんが言われたことがないって」

「本当になかったのよ」

「確かに、君には近寄りがたいオーラがあるからね」

「オーラだなんて」

「その彼は勇気があるね、よっぽど君が好きなんだろう」

「私には初めてのことで、どうしてよいか分からなくて」

「どうなの? 好きだから付き合ってくれと言われて?」

「すぐに返事できないから、時間がほしいと言ったけど、よく考えてみると嬉しいような」

「嬉しいような? その時、すぐに断らなかったのは、まんざらでもないからじゃないのか?」

「そう、すぐに断れなかった。迷ったの、どうしてか分からなかった。好きと言われて嬉しかったの、誰かに好かれるってとっても嬉しいことだとその時に思ったの。私って今まで、誰からも好きって言われたことがなかったのに気がついて」

「それなら、受け入れて付き合ったらいいじゃないか」

「迷いがあるの、なぜ迷っているか分からないけど」

「何が気になる?」

「私の後輩で年下なの」

「僕の経験から言うと、相手が誰であっても迷いはあるものだ。でも迷っているうちに僕は大事な人を何度も失った。だから思い切ってそれを乗り越えることが大切だと今は思っている」

「この迷いって何なのかしら」

「体裁、世間体、自身が作っている壁とか思い込みと言っていいのかもしれない。そのようなものだと思う」

「体裁なんか、自分が考えるほど周りの人は気にしていないから、自分の思い込みだ。自分のしたいようにすること、迷いとか壁とかを吹っ切って、自分の思いに素直になることが大切だと思う。思いが強ければ勇気をもって素直にそれに従うことだ」

「ありがとう、よく考えてみるわ」

「ところで、その相手は誰?」

「今は言えない、そのうちに分かるから。ありがとう相談にのってくれて」

「いや、君も米山さんの相談にのってくれたみたいだから、ありがとう」

新庄君は野坂さんに告白したみたいだ。

二人とも同じ有名大学卒で年齢が3歳年下というだけで、理想的なカップルだと直感的にそう思う。

年の差なんて年を経るにしたがって個人差の中に埋没して無きに等しいことだと思う。

すべての望みにかなった相手などありえない。すべて望みにかなったとしても付き合っていれば欠点も見えてくる。理想のカップルに見えていても離婚することもある。

見方をかえれば、自分にも欠点や至らないところはいっぱいある。お互いにすべてを受け入れるしかない。

大体すべて条件がそろっている相手なんかいない。それはあくまで自分の理想だ。まして体裁なんか考えていたらだめだ。

僕は自分の思いに素直になって、大切なものを手に入れることができたのだから。野坂さんにもそうして欲しい。
月曜日に席に着くとすぐに新庄君が席に来て小声で話かけてきた。

仕事を終えたら話を聞いてほしいと言うので、駅前の居酒屋で話を聞くことにした。

居酒屋には新庄君が先に着いて待っていた。

「話って」

「相談したことについて聞いてもらいたくて」

「聞こうじゃないか」

「あれから、磯村さんに言われたとおり、野坂先輩を誘って飲みに行きました。そこで、思い切って、好きだから付き合って下さいと話しました」

「それで」

「返事を待ってほしいと言われました。断られるかと思っていたのですが」

「それから」

「土曜日にもう一度会うことになって」

「どうした」

「付き合っても良いと言ってくれました。ただし、社外に限ると言って」

「そりゃそうだろう、大体、社内では付き合っていることは内密にしておいた方が良いに決まっている。俺たちもそうだから」

「俺たちって?」

「いや、どうでもいいだろう。それより、どうするんだ」

「付き合います。休日に」

「それで、どうしたらいいかと思って」

「それなら、毎週でもデートをするのがいいだろう。お互いにもっと知り合うために」

「どんなところがいいですか? 野坂さんは大人の女性ですから、僕には適当なところが思い当たりません。高級レストランとかはどうですか? 磯村さんと野坂さんは時々飲みに行っていたんでしょう。飲みに行くとかではだめなんですか?」

「あれはただ話をするためだ。友達付き合いだから。もし恋人だったら違うところへ行くよ」

「そうですか」

「野坂さんは大人の女性だからこそ、どちらかというと若い恋人同士が行くようなところへ誘ったらいい。例えばディズニーランドとか遊園地とか」

「僕はいままで若い女性と付き合ったことがないんです」

「そんなことないだろう。君はイケメンでカッコいいし、米山さんが惚れたぐらいだから」

「本当なんです。いままで女性と付き合いたいとは思いませんでした」

「君が好きな人と行きたいと思うところへ行けばいい。大人の女性だなんて気にするな。そして恋人同士がするように手を繋いで肩を抱いて、それからは自分が恋人にしたいことをすればいい。

自分に素直になったらいい。自分の大切な人にどうすればいいか、どうしてあげればいいか、自分で考えろ。野坂さんにはそれが一番いいと思う」

「分かりました。自分に素直になってやってみます」

「でもよかったな。こんな相談なら歓迎だ、うまくいくことを願っているよ。でも自分のこととなると話は別で難しいけどね」

新庄君は何か吹っ切れたように帰っていった。これでうまくいってくれればいいのだが。
由紀ちゃんから、土曜日の夕食をご馳走すると部屋に招待された。

献立はメールで知らされていて、ステーキ、グラタン、ポタージュスープ、サラダとパンだとか、楽しみだ。

二子玉川のスーパーで赤ワインとアイスクリームを買って、梶ヶ谷のアパートへ向かう。

駅からの地図を貰っていたので、簡単にたどり着くことができた。

聞いていた通りのプレハブの2階建てアパートで2階は女性ばかりが住んでいるとのことだ。由紀ちゃんの部屋は2階の右端だ。

丁度6時に部屋をノックすると、奥から由紀ちゃんのはずんだ声がする。

すぐにドアを開けてくれた。可愛い部屋着の由紀ちゃんがいた。メガネはかけていない。

「お待ちしていました。こんなところですが、ゆっくりして行って下さい」

「駅から近くて便利なところじゃないか」

「古いアパートなのでお家賃が安いのがとりえのところです。お掃除はしていますので、見た目よりもきれいですよ」

「今日は招待してくれてありがとう、楽しみにしてきたよ」

「ご期待に沿えないかもしれませんが、ゆっくりしていってください。料理はほとんど出来上がっています。あと最後の調理だけです。温かいもの食べてもらいたくて」

すでにテーブルにはサラダが並んでいる。グラタンがオーブンにはいっているからすぐにできるという。そしてステーキを焼き始めた。

僕は持ってきたアイスクリームを冷凍庫にいれて、グラスのあり場所を聞いて持ってきた赤ワインを飲む準備をする。

ステーキを由紀ちゃんが運んでくる。ポタージュスープをスープ皿に入れてくれる。それからグラタンをオーブンから出して夕食が整った。

「いただきます」

「お味はいかがですか」

「このステーキおいしいね」

「焼き具合どうですか」

「丁度いい。毎日こんな夕食が食べられると幸せだろうなあ」

由紀ちゃんの顔がみるみる赤くなってくる。

しばらくは、出された料理の味を確かめるように黙々と食べる。

「ワインの味はどう?」

「とってもおいしいです。飲み過ぎないようにしないと」

「酔っ払っても、ここは君の家だから大丈夫だ。僕が介抱するし、後片付けもしてあげるから、ゆっくり飲もう」

「はい、お願いします。もう少し酔ってきたみたいです」

「グラタンもとってもおいしいね」

「はじめて作ってみたのがグラタンでした。料理の本から仕入れて来て作りました。父がおいしいと言ってくれましたので、それから何度もつくりました」

「ほかに得意な料理はあるの?」

「得意と言うほどではありませんが、ほとんど何でもできます、和食でも、中華でも」

「レパートリーが広いんだ。今度は中華を食べてみたいな」

「次はそうします。おいしいと食べてもらえてほっとしました」

「本当においしい。中学生の時から料理していただけあって上手だね」

話が弾んで、赤ワイン1本を2人で空けてしまった。

僕が半分以上は飲んだみたいだけど、由紀ちゃんも1/3位は飲んでいたはずだ。

意外とお酒には強いみたいだ。いやそうじゃなかった。

ようやくすべて食べ終えた。おいしかったので残さずに食べた。由紀ちゃんはそれをみてとても喜んでいた。

後片付けに立とうとした由紀ちゃんがよろけた。少し酔ったみたいだった。

「由紀ちゃんは休んでいて、僕が後片付けをしてあげるから」

「いいえ、私がやります」

立ち上がろうとするがやはりよろめく。

「すみません。お願いできますか? 飲み過ぎたみたいです。ごめんなさい」

「こっちこそ、ごめん、ワインを飲ませ過ぎたみたいで」

「おいしいから油断しました。外ではこういうことはないのですが、自宅なのでやはり油断してしまいました。ごめんなさい」

「そういうところが由紀ちゃんの可愛いところだ。隙があって、かばってやりたくなる」

「それならいいんですけど、どうかバカな私を嫌いにならないでください」

「嫌いになんかならないさ、ますます愛しくなった」

「そういってもらえてうれしいです。少し休んでから後片付けをします」

「いいよ、御礼に僕がしておくから、休んでいて」

由紀ちゃんは、よろけながら部屋の隅にあるベッドに腰かけた。

それを見届けると、後片付けを始める。二人分の食器なんてすぐに洗って片付けた。研究所勤務の時は毎日実験器具を大量に洗っていた。

由紀ちゃんを見るとベッドに横になって眠っているみたいだった。料理造りで疲れてもいたんだろう。本当に可愛い娘だ。

近づいて寝顔を覗き込む。思わず口づけしたくなるような可愛い寝顔だ。しばらくはこうしておこう。

主が寝ている間に部屋の中を見まわす。

由紀ちゃんらしいさっぱりした部屋だ。テーブルと食器棚、小さな机と本箱、テレビ、ベッド、大きめの埋め込み型のクローゼット、一体型のバスルール。

トイレを使わせてもらったが、中はきれいに掃除されている。自分でも言っていたが確かにきれい好きだ。

由紀ちゃんは相変わらず小さな寝息を立てて寝ている。

どうしたものか、このまま帰るわけにもいかない。起きるまで待つしかないと思い、テレビをつけて音を控えめにする。

どういう訳か、結局僕も眠ってしまったようだ。確かにワインのボトルを半分以上飲んでいたのだから眠くなってもおかしくない。

誰かが揺り起こすので目が覚めた。揺り起こしていたのは由紀ちゃんだった。

「起きてください。ごめんなさい、私、眠ってしまったみたいで」

「ごめん、僕も眠ってしまったみたいだ。由紀ちゃんはもう大丈夫?」

「酔いが覚めました。仁さんはどうですか」

「テレビを見ていたら眠ったみたいだ。僕も飲み過ぎた」

二人でテーブルにもどると自然とお互いに見つめ合うが、なんとなく間が持たない。

「そうだ、買ってきたアイスクリームを食べよう」

「私が準備します」

二人でアイスクリームを食べる。冷たくておいしい。

「これを食べたら引き上げるよ」

「あのー、今夜泊まっていってもらえませんか、このままでは寂しくて」

「いいのかい」

「そうしてもらえると嬉しいのですが、ベッドが狭いですけど一緒に寝てもらっていいですか」

「抱き合って寝れば狭くないさ」

「落っこちないようにしっかり抱いて寝て下さい」

「望むところ、そうするよ」

それから、由紀ちゃんはお風呂を沸かしてくれた。先に僕が入って、その後に由紀ちゃんが入った。

明かりを落としてベッドに座って待っているとバスタオルで身体を巻いた由紀ちゃんが出てきて黙って隣に座った。

そっとキスをするとアイスクリームの甘い匂いがした。そのまま、狭いベッドから落ちないように愛し合う。

◆ ◆ ◆
布団の中で、僕は由紀ちゃんを後ろから抱き締めている。柔らかい肌が心地よい。

「こうして私のベッドで仁さんに抱かれているなんて夢みたいです」

「僕も由紀ちゃんとこんなことになるなんて初めて会った時は思ってもいなかった、でもこれで良かったと思っている」

「こうしていると本当に安らかな気持ちでいっぱいになります。このまま眠れたらどんなに幸せか?」

「ゆっくり眠ろう、明日はお休みだから、誰も邪魔しない」

「しっかり抱き締めていて下さい。おやすみなさい」

「ああ、ベッドから落とさないよ、おやすみ」

由紀ちゃんの髪の匂いがする。身体の温もりが伝わってくる。心地よい。好きな女の子を抱いて眠るって本当にいいもんだ。

朝、由紀ちゃんがしがみついて来るので目が覚めた。窓の外はまだ薄暗い。

布団がベッドから落ちそうだった。由紀ちゃんがしがみ付いてきたのは布団からはみ出して寒かったからだろうか? 

落ちそうになっている布団を二人の身体にかけ直す。

しがみ付かれるっていうのは悪くない。そっと抱き締めてやる。そしてまた寝入った。

由紀ちゃんがベッドから出て行きそうなのに気が付いた。

手をしっかりつかんで引き寄せて抱き締める。

「おトイレに行かせて下さい」

「ごめん」

「きれいにしてきますから、もう一度可愛がって下さい」

「いいよ。喜んで」

由紀ちゃんは裸でバスルームへ駈け込んでいった。

しばらくしてバスタオルを身体に巻いて恥ずかしそうに戻ってきた。

すぐにベッドに引き入れて、愛し合う。

朝は由紀ちゃんが積極的だった。愛し合うのに疲れて、また、二人とも眠った。

次に目が覚めたらもう10時を過ぎていた。今日は生憎の曇り空だから薄暗い朝だった。

今度は僕がトイレに立った。戻ってくると由紀ちゃんも目覚めていたので、抱き締める。

「もうできません。痛みなどはないのですが、腰がだるくてもうだめです。ごめんなさい」

「ごめん、大丈夫?」

「このまま、もうしばらく休ませて下さい。お昼になったら食事をつくりますから」

「せっかくだからお昼までもうひと眠りしよう。後ろから抱いてあげる」

心地よい朝寝坊だ。お互いに肌のぬくもりを感じてうとうとする。

お昼になったので、由紀ちゃんが起きてお昼ごはんを作ってくれた。昨晩は洋食だったので、あっさりしたお茶漬けがとてもおいしい。

お腹が落ち着いたところで、由紀ちゃんをもう一度抱きしめてから帰宅した。

今度の土曜日は僕の部屋へきて夕食に中華料理を作ってくれることになった。楽しみだ。
新庄君の相談を受けてから1か月ほどたった火曜日の昼休みに野坂さんから内線電話が入る。

「今度の土曜日に合コンしない?」

「いいけど、メンバーは?」

「私と米山さんとあなたと新庄さん」

「この前に集まったメンバーと同じじゃないか?」

「このメンバーで飲みたいの」

「分かった。場所と時間は?」

「この前、4人で飲んだ表参道の居酒屋で同じ時間でどう? 予約は私が入れておくわ。あなたは米山さんに、私は新庄さんに連絡を入れるわ」

「OKだ」

突然の合コンの話、それも野坂さんから、一体どうしたと言うんだろう。

すぐに由紀ちゃんにメールを入れておく。予定は空いていて大丈夫のはずだ。

野坂さんと新庄君に僕たち二人の関係を話しておく良い機会かもしれない。

◆ ◆ ◆
土曜日、由紀ちゃんと二子玉川で落ち合って、居酒屋に出かけた。

約束の時間より15分も早いのに、野坂さんと新庄君がすでに到着して待っていた。

4人掛けの席に並んで座っている。僕たちを見つけると手を振って知らせてくれた。

「もう着いていたのか、まだ15分前なのに」

「やはり、二人一緒に来たわね、仲がいいのね」

「それはそうと、君たち二人も仲良く並んで座っているけど」

「実は今日は磯村さんへの感謝の意味で席を設けたの。私たち付き合い始めたの。その報告と相談にのってもらったお礼のため」

「そうか、付き合い始めたのか、良かったじゃないか」

「先輩のアドバイスのお陰です。憧れの人とお付き合いできたのは」

「憧れの人だなんて恥ずかしいわ。私も迷いを取り除いてもらって感謝しています」

「いや、僕も同じように悩んで乗り越えて、ここにいる米山さんと結ばれたから」

「結ばれたってあなたたちはもうそんな関係になっているの?」

「まあ、身も心も結ばれているっていうところかな、そうだよね」

「私は磯村さんとお付き合いできて幸せに思っています」

「あの時、米山さんからの交際の申し込みを断ってよかった」

「そのおかげで僕は米山さんと付き合えたから」

「磯村さんはどうして米山さんと付き合う決心をしたのですか、よかったら教えて下さい」

「米山さんはもう分かっているだろうからここで話してもいいと思うけど、体調を壊して入院した時にすぐに見舞いに来て、僕の面倒を見てくれた。あの時、こんなにいい娘が僕の傍にいたんだと気がついた。

僕は人は孤独なもので生まれるのも一人なら死ぬ時も一人と思って、他人に頼ったりすることを自戒して生きてきた。一方で、それが分かっているから、ちょっとした人付き合いを、同期を、友人をできるだけ大切にしてきた。

僕はその時、彼女にずっとそばにいてほしいと思った。彼女に頼るとかそんなんじゃなくて、ただ、そばにいてほしいと思った。米山さんと一緒にいると心が安らいで癒されるんだ。

それは彼女が今を大事にして生きていているからだと分かった。僕もこのごろ、今がきっと一番いい時で今を大事に生きなければと思うようになっていた。きっと同じ思いをしているから癒されるんだとそう思った」

「私のことをそれほど思っていただいて恥ずかしいです。私は磯村さんと一緒にいると幸せですし、この時間を大切にしたいと思っています」

「とってもいいお話ね、半分はのろけかもしれないけど、そのとおりね。私たちは目先のことや体裁や周囲のことを気にかけ過ぎるのね。勝手に壁を作って迷ったりして、今をこの時をどう生きるかが一番大切なのにね」

「いつの時でも将来展望は必要だけど、先のことに囚われて今のことがおろそかになるのは本末転倒だと思う。今の自分に素直になることが大切だと思ってそれに従ったら、こうなったということだ」

「ありがとうございます。とってもいい話を聞かせてもらえて」

「ところで野坂さんはどうして決心したの?」

「私も磯村さんと同じように思っていた。これまで誰も頼りにしないで一人で頑張ってきた。でもね、このごろそれがどうなのと思うようになってきたの。誰かにすっかり頼ってみたい、包んでもらいたいと、癒してもらいたいと思う時があるの。寂しくて、寂しくてやりきれない時があるの。

そこへ新庄さんから好きだと言われて、いままでそんなことがなかった、いえ、避けてきたのかもしれないけど、ほっとした気持ちがしました。このまま、好かれてみてもいいかなと思ったの」

「僕と野坂さんとは同じように生きてきたみたいだけど、ここへきて二人とも気づかないうちに、誰かに癒されたいと思っていたのかもしれないね。年のせいかもしれないけど」

「新庄君の思いはどうなの?」

「僕は野坂先輩に憬れて、ずっと離れたところからいつも見ていた。でも時々先輩が疲れた表情を見せることがあって、何とかしてあげられないかと思っていました。僕が一方的に好きで付き合って、それで彼女がほっとするのならそれで本望です」

「ありがとう。そう言ってそばにいてくれるだけで癒されて元気が出るわ」

「二人の相性は抜群じゃないか」

「そうみたいで驚いているの」

「僕たちも相性抜群だと思う。じゃあ、二組のカップルのために乾杯しよう。これからも仲良く過ごせるように!」

「野坂先輩、また相談にのって下さい。磯村さんのことで何か困ったことがあったら」

「喜んで相談にのるわ」

「でもそんな相談はさせないように気を付けるから」

「そういってもらえてうれしいけど、保険をかけておきます」

「僕も磯村さんには相談に持ってもらいたいです」

「新庄君は大丈夫だろう。僕よりずっと勇気がある」

「それでもお願いしておきます」

それから、今日のここでの話は4人限りと言うことにして、合コンは終了した。2組のカップルは店を出て、それぞれ別の方向へ向かう。僕たちは僕の部屋へ向かった。

◆ ◆ ◆
あとで聞いた話だけど、野坂さんたちはあれから野坂さんの部屋で一夜を過ごしたとのことだった。

二人ともその時がはじめてだったとか、信じられなかったけど、後日笑いながら話してくれた。

それから、新庄君は両親に野坂さんを紹介したそうだ。新庄君の両親は野坂さんをとても気に入ってくれたそうだ。

息子は女性に関心がなくて結婚できないのではと心配していたが、こんなしっかりした女性を連れてきてくれて肩の荷が下りたといって喜んでいたとか。

新庄君は一人息子だけど、いずれは家を出ると言っていた。その方が良い。まあ、うまくやってくれ!
由紀ちゃんが僕の部屋へ来るのは今日で5回ほどになるだろうか? もう勝手が分かっていて、お湯を沸かしてコーヒーを入れてくれる。

2週間前に買った大き目のソファーに腰かけて二人ゆっくり飲んでいる。

「今日は4人でいろいろお話ができてよかったわ」

「秘密を共有した同志みたいだね。最初の組み合わせが今の組み合わせに変わってしまうなんて思ってもみなかったよ」

「でもこれが成り行きというか、落ち着くところへ落ち着いた感じがしています。これで本当によかったと思っています」

「それぞれのカップルの進む道は違うかもしれないけど、お互いに相談もできるからいいね」

「野坂先輩は頼りになります。仁さんだって、お二人に随分頼りにされているみたいですね」

「実は二人から相談されていたからね。こうなるようにアドバイスしたんだ。良い方向へ進んで本当によかった。『情けは人のためならず』かな? 野坂さんにも助けられたからね」

「これからも良いお付き合いをしたいですね」

「彼らが今日はどうするんだろうとちょっと気になるけど、それより由紀ちゃんは今日泊まっていってくれるよね」

「はい、一緒にいると安心して心が休まりますから」

「そう言ってくれて嬉しい、僕もだ」

由紀ちゃんの肩を抱き寄せてキスをする。由紀ちゃんが身体を預けてくる。

しばらく抱き合ってソファーにもたれかかっていると二人共うとうとしてきた。

お風呂を沸かして由紀ちゃんに先に入るように促す。

じゃあお先にと言って入ったところにすかさず僕が入って行く。

突然のことで、由紀ちゃんはきゃあーと言ってうずくまる。

「ごめん、でも一緒に入ってみたくなったから」

「恥ずかしいから、ダメです」

「洗ってあげる」

シャワーを背中にかけてせっけん液を吸い込ませたスポンジで洗い始める。

由紀ちゃんは観念したとみえて、しゃがんでジッとしている。

「前を洗うから、こっちを向いて」

しぶしぶ向きを変える。もう諦めたみたいで言うなりになる。でも恥ずかしいのか目をつむっている。

こっちはそれをよいことに可愛い身体を丁寧に洗ってあげる。きれいな身体だ。

「今が一番いい時で楽しいね」

「私もそう思っています。今のこの時を大切にしたいです」

由紀ちゃんがしがみついてくる。しばらく石鹸のついた身体で抱き合う。

「僕も洗ってくれる?」

「はい」

今度は由紀ちゃんが洗ってくれる。下半身も恥ずかしがらないで洗ってくれる。

「恥ずかしがらないんだね」

「父とは母がなくなるまでは一緒にお風呂に入っていましたから」

「お母さんが亡くなったのは小学6年生の時と言っていたけど」

「そうです。でも母が亡くなってからは一緒に入ってくれなくなりました」

「そうなんだ」

洗い終わるとシャワーで石鹸を流してくれた。

二人でバスタブにつかったらお湯があふれた。そのままバスタブで抱き合う。

頭からシャワーをかけあってからお風呂から出て、バスタオルで身体を拭き合って、僕は由紀ちゃんを抱いてベッドまで運ぶ。

由紀ちゃんはジッと僕の顔を見ている。

「照れくさいから見つめないでくれないか」

「ジッと見つめているのは仁さんの方です」

「そうかな」

それからベッドでゆっくり愛し合う。

心地よい疲労の中にいると、由紀ちゃんが耳元に囁く。

「身体の上に抱きついて眠ってもいいですか」

「由紀ちゃんはそんなに重くないだろうから、いいよ」

「うれしい、私、小さい時によく父のお腹の上で寝させてもらいました。父は私が抱きついて上で眠ると、しっかり抱いて寝てくれました。温かくて本当に安心して眠れました。だから仁さんのお腹の上で眠ってみたいんです」

「落ちないようにしっかり抱いて眠らせてあげる」

「でも、小さい時あまりにも心地よくて、父のお腹の上で明け方におねしょをしたことがあるんです。そしたら、父がそれに気づいて放りだされました。それからもお腹の上で寝かせてくれましたが、明け方になると必ずトイレに連れていかれました」

「この年になっておねしょはないだろうから安心しているよ」

由紀ちゃんはお腹の上で初めは僕に重さがかからないようにしていたけど、しばらくすると寝入ったと見えて体重がかかってきた。

はじめはその重さに心地良さを感じていたが、だんだん耐えられなくなってきたので、そっと横に滑らせて抱きかかえて眠った。

由紀ちゃんは横になったまま抱きついて眠っていた。可愛いもんだ。

◆ ◆ ◆
朝、由紀ちゃんが身体の上にのっかかってきたので目が覚めた。

顔を見ると安らかに眠っている。口からよだれをたらしている。可愛い。

寝ぼけてまた、僕の上にのって来たいみたいだった。

身体をすこし横にずらすと楽になったので、抱き締めてそのままにしておいた。これも悪くない感じだ。

しばらくして由紀ちゃんが動いたので完全に僕の横に落ちた。そして目が覚めたみたい。

「おはようございます。上で寝させてもらってありがとう。気持ちよかった。重かったでしょう」

「少しね」

「毎回お願いします」

「寝入るまでならいいけど、寝入ったら横へ移すけど、それでよければ」

「それでもいいです。でも明け方も上に載っていいですか」

「まあ、起きる少し前くらいなら、目覚まし代わりなるので」

「お願いします。嬉しい」

「じゃあ、思い切って一緒に住まないか」

「ここに私が? 一緒に住む? いいんですか?」

「1LDKだから二人住めないことはない。こうして由紀ちゃんと一緒にいると本当に心が休まるというか、癒されるから。僕はほかの人には頼らないで何でも一人でやる覚悟はできている。

由紀ちゃんに何かしてもらいたいから一緒に住もうと言っているのではないんだ。一人ではやはり寂しいんだ。自分のことは自分でするから、一緒に住んでくれないか。もちろん由紀ちゃんの世話もするから、考えてみてくれないか」

「私も一人暮らしは寂しいので一緒に住みたいですけど」

「できれば入籍して一緒に住むのがいいと思うけど、今入籍すると同じ職場だからおそらくどちらかがすぐに異動になる。このまま近くで働くには交際を秘密にしておいた方が良いと思う」

「私もそう思います。一緒に住んでも交際を秘密にしておくのがいいと思います。そのうちに仁さんが転勤になる時に一緒に付いていきます。それまでは秘密でいいと思います」

「入籍しないで一緒に住んでくれというのはとても心苦しい。でも由紀ちゃんと一緒に住みたい思いは強い」

「仁さんが大好きだから、今を大切にしたいから、それでいいんです。先のことは先のことですから、その時に最良の選択をすればいいと思っています」

「そういってくれて嬉しい」

「さっそく、引越しの準備をします。いいですか」

「僕も手伝うから」

◆ ◆ ◆
あれから2週間経った土曜日に由紀ちゃんが引越しをしてきた。これで二人の秘密の生活が始まった。

同棲していることは野坂さんたちにもしばらく秘密にしておくことにした。

この生活が長く続くといいけど。
朝、目が覚めると、隣で由紀ちゃんがまだ眠っている。ウイークデイの朝は大体僕の方が先に目が覚める。

電車が混むので二人とも早めに出かけるが、起きるのは6時にしている。まだ、5時半を過ぎたばかりだ。

僕は早く目覚めて隣で眠っている由紀ちゃんの寝顔を見ているのが好きだ。

このごろは離れて眠るようになったが、ここへ来たばかりのころは、いつも腕の中にいた。

本当に安らかな顔をして眠っている。よだれをたらしていることがある。それをそっと吸い取ってあげる。

休日の前の晩は僕のお腹の上で寝かせてくれということあるが、もう飽きたと見えてそれは少なくなった。

そんな時は寝た気がしないが、なくなると少し寂しい。

6時に寝坊防止のための目覚ましが鳴る。夏の間は朝が明るいが、今のように秋も半ばになると6時はまだ暗いから、二人とも寝過ごすことがある。

由紀ちゃんは寝覚めが悪い。身体を起こすがしばらくはボヤーとしている。

その間に僕が先に洗面所で身支度を整える。そして、朝食を作る。

遅れて由紀ちゃんが身支度を整えて、二人分のお弁当を作ってくれる。

僕は朝食の準備を整えると、洗濯機から昨晩に入れて洗濯して乾燥された衣類を取り出して折りたたむ。

それから二人そろって朝食。食べながら今日の二人の予定を確認する。

食事の片づけは由紀ちゃんがしてくれる。

そして7時半までには出勤する。それ以後になると電車が混んで乗れなくなる。

由紀ちゃんはずっとお弁当を作っていたので、それを続けているが、手数は同じだからと僕の分も作ってくれることになった。

どこでこれを食べるか、まさか一緒に食べるわけにもいかないので、自分の席でこっそり食べている。

急に弁当持参になったが、健康のために自分で作ったことにしておいた。でもなかなかおいしい。

生活費だけど、家賃は今までどおり、僕の負担にしている。食費と光熱水費は折半にすることにした。他は大体僕が負担している。これで由紀ちゃんの貯金が増えている。

ただ、僕の出費は一人でいたころとほとんど変わっていない、むしろ減っている。

昼食はお弁当だし、外食が減ったし、仕事を終えるとすぐに家に帰るから、飲む回数も減っている。

帰宅は大体僕の方が遅くなる。早く帰った方が夕食を準備することになっているが、ほとんど由紀ちゃんがしてくれている。

それに、僕が遅くなっても食べないで待っていてくれる。

だから、早く帰るようになるし、いつもメールでの連絡が欠かせない。

帰ってからの食事の準備が負担になっていないか心配しているが、料理は好きだし、いままでも自炊して来たから大丈夫と言っている。

その代わり、食事の後片付けは僕が必ずすることにしている。

僕の寝室にはセミダブルのベッドがあったが、それでは二人がゆっくり眠るには少し狭いので由紀ちゃんのシングルベッドを入れた。

結果、ダブルベッドよりも大きくなり、寝室はほとんどベッドの間になった。

それから、愛し合うのは週末に収束して来た。

由紀ちゃんが僕の部屋に引越ししてきたときはほとんど毎晩だったけど、気持ちの行き違いも出てきたので、お互いに週末に集中した方が良いと考えるようになった。

土曜日はどこかに出かける予定がなければ、遅くまで寝ている。

気が向けば愛し合うこともある。でも9時くらいには起きて朝食を摂ってから、二人で部屋の掃除と洗濯をする。

日曜日もほぼ同じ感じ。休日に二人で出かけた時には外食して帰ることにしている。

出かけない時は食事を僕が作る。休日ぐらいは由紀ちゃんをゆっくりさせてやりたい。

由紀ちゃんは会社では相変わらず地味なスタイルにこだわっている。ど近眼なので家ではメガネをかけていることが多い。

二人で外出するときはコンタクトに替えている。メガネの由紀ちゃんも結構可愛く思えるようになった。

1か月も経たずに二人の生活は落ち着いて来た。

僕は心の安らぎが得られて仕事にも張りが出てきた。

由紀ちゃんも仕事を張り切ってこなしているみたいだ。

僕は遅く帰ることが多いけど、待ってくれている人がいるというのはいいものだ。

一人暮らしの時は帰るとまず冷えた部屋の暖房を入れた。

でもいまは明かりが灯っているし、部屋も暖かい。

それだけでも疲れた心身を癒してくれる。まして笑顔で迎えてくれる人がいるなんて、玄関に迎えに出てくると思わず抱き締めてしまう。

確かに一人の気ままな生活も良いところがいっぱいある。二人で生活してみて一人になりたいことも時にはある。

でも二人でいて一番よいことは、楽しいことを一緒に楽しんでくれる人がいるということ、嬉しいことを一緒に喜んでくれる人がいるということ。

二人でいると楽しさ嬉しさが何倍にも増幅される。

こんな生活がずっと続いてほしい!
2月の半ばに部長に会議室に呼ばれた。

恐れていた転勤の内々示だった。赴任先はこともあろうに米国のニューヨーク事務所だった。

いままで手掛けていた海外メーカーとの技術提携の話が進んでいた。

詳細を詰めて合弁会社を立ち上げるために現地へ行って具体的な打ち合わせをする必要があった。

ひょっとすると一番詳しい僕が行くことになるのではと思っていたが、その通りになった。

就労ビザを取得するまでに時間がかかるので、赴任時期は4月になる見込みだ。

この先どうするか由紀ちゃんと相談しなければならない。どうするか僕は心に決めているが由紀ちゃん次第だ。

会議室から戻ると昼休みに由紀ちゃんを電話で呼び出して、今日帰ったら大事な相談があると告げた。

僕が真剣な顔をしているので由紀ちゃんの表情が硬くなった。

◆ ◆ ◆
今日はプロジェクトの会議の総括に時間が長くかかったので、帰りが遅くなった。

由紀ちゃんは定時に帰れたみたいで夕食を作って待っていてくれた。

遅くなった夕食のテーブルにつくと心配そうに聞いてくる。

「大事な相談って何ですか」

「異動の内々示があった。4月にニューヨーク事務所に転勤することになった」

「よかった。転勤の話で、何かもっと悪い話かと思った」

「悪い話って?」

「別れ話?」

「そんなこと言う訳ないだろう。そんなこと考えていたなんて」

「ごめんなさい、冗談です」

「それで、由紀ちゃんはどうする?」

「ついて行ってもいいですか?」

「もちろん、僕もそうしてほしいと思っている」

「そうします」

「会社は辞めるしかないと思うけどいいのか?」

「はい、一緒に居たいし、私も外国で生活してみたいです」

「よかった、こちらに残って仕事しますと言うかと心配していた」

「会社を辞める覚悟はお付き合いを始めた時からすでにできています。もし、別れたら会社にはいたくないですから」

「そんな覚悟までしてくれていたのか、僕はそこまで考えていなかった」

「私にとって、一番大事にしたいことは、仁さんと一緒にいることです」

「それなら、早速明日から手続きを進めよう」

「どうするんですか」

「まず、入籍する。それから二人で赴任する準備を始める。由紀ちゃんの退職する手続き、パスポートの申請、引越しの準備など。その前に部長に由紀ちゃんとのことを話しておかなければならない。明日、早速部長にこのことを話しておくよ」

「分かりました。でも仁さん、ひとつだけ、その前にしてほしいことがあります」

「何?」

「ちゃんと聞きたいんです」

「……? ごめん。僕はこういう独りよがりのところがある。相手の気持を考えないで自分のことしか考えていない。それで何度も…。

由紀、僕と結婚してほしい。僕のお嫁さんになって下さい。いつまでもそばにいてほしい。お願いします。絶対に由紀ちゃんを幸せにします。どうかお願いします」

「はい、喜んでお受けします。こちらこそよろしくお願いします」

由紀ちゃんが抱きついてくる。それをしっかり受け止めて抱きしめる。

由紀の身体が折れそうになるくらいに抱き締める。

そして何度も何度もキスをする。

由紀ちゃんの目から涙が一筋流れ落ちた。由紀ちゃんが泣いたのをこの時初めてみた。

◆ ◆ ◆
次の日、部長のところへ行って、隣の部の米山さんと結婚して赴任先に一緒に行きたいので3月末で退職させたいと話した。

部長は単身赴任も可哀そうだから彼女の退職はしかたないねと言ってくれた。それから内々に研究開発部長のところへも挨拶にいった。

◆ ◆ ◆
数日後、二人で区役所に行って婚姻届けを提出した。

そして、戸籍ができるのを待って、由紀ちゃんのパスポートを申請した。

結婚式は赴任先のニューヨークの教会で二人だけで挙げることにした。

◆ ◆ ◆
今日は二人で婚約指輪と結婚指輪を買うために銀座へ来ている。土曜日の午後は歩行者天国だ。

由紀ちゃんには付き合ってからも、同棲してからも、高価なプレゼントはしていなかった。

誕生日とクリスマスには僕がしてほしいと思った可愛いネックレスやブレスレットを贈った。

高価なものにすると由紀ちゃんが返って気を使うと思ったからだ。

それでもとっても喜んでくれて、ずっと今も身につけてくれている。

「ごめんね、いままで安物のプレゼントで」

「いいえ、値段なんか関係ありません。大事にしています」

「今日は好きな指輪を選んで」

「可愛いデザインで、いつでもつけていられるものがいいです」

由紀ちゃんは、婚約指輪は小さなダイヤが周りにちりばめられているタイプに、結婚指輪は細めで筋が縦に何本か入ったタイプを選んだ。

選び終わった顔は本当に嬉しそうだった。

二人は手を繋いで歩行者天国をゆっくり歩いている。婚約指輪が由紀ちゃんの指で光っている。

正面から赤ん坊を胸に抱いた女性と40歳半ばと思われる男性が連れ立ってゆっくり歩いてきてすれ違った。

赤ん坊を抱いた女性と一瞬目があった。

間違いなく凛だった。

彼女は一瞬目を閉じて、僕に合図したようだった。

僕も気が付いたが、目を合わせただけにしてすれ違った。

由紀ちゃんもそばにいた男性も気付かなかったと思う。

凛もそうしたかったのだと思う。

凛は赤ん坊を抱いて幸せそうだった。

生まれて3か月くらいか、着ぐるみから男の子らしかった。

隣の男性は僕が想像していたとおりの真面目そうな人だった。隣を歩く凛と赤ちゃんが愛おしいらしく時々目をやっていた。

幸せになっていてくれてよかった。これからも幸せでいてほしい。

凛も僕の横に歩いていた由紀ちゃんに気が付いただろう。あの時の地味子ちゃんだと気づいただろうか? 

由紀ちゃんは人を癒すタイプの娘だから、僕にぴったりの娘だと思ったかもしれない。

僕にとっては、凛を失ったから見つけられた大事な宝物だ。

突然の再会だったけど、心のどこかで気にしていたことがすっきりして気が晴れた。

由紀ちゃんは凛とすれ違ったあと、後ろを振り向いていたが僕には何も言わなかった。

僕は由紀ちゃんの手をしっかりと握って歩いて行く。

もう振り返ることはしないでおこう。

凜も振り返らなかっただろう。

お互いに前を向いてしっかり歩いて行こう。


これで「愛人を失ったオッサンが失恋した地味子を嫁にするまでのお話」はおしまいです。めでたし、めでたし。

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