日曜日になると、下痢が治まってきて、出血も全くなくなった。
さすがに点滴が3日目になると、その扱いにも慣れてきた。
歯磨き、髭剃り、洗面もなんとかできるようになり、シャワーも浴びた。もう一息だ。
午後に地味子ちゃんが見舞いに来てくれた。
「先輩、昨日より調子がいいみたいで、随分元気になりましたね」
「そう見える? 出血が止まったし、下痢も間隔が長くなっているので、もうすぐ止まるだろう。お腹の不快感もなくなってきた」
「よかったです。早く元気になって下さい。電話がなかったですけど、必要なものはないのですか?」
「昨日持ってきてくれたもので間に合っているから」
「洗濯物があれば洗って来ますけど」
「いいよ、そこまで頼めないよ。もう少し良くなったら自分でするから」
「お気遣いなく、父の下着を洗っていましたので平気ですから。フロアーに洗濯機と乾燥機がありましたから、ちょっと行ってきます」
「悪いね、カバンの中に財布があるから、そのまま持って行って使ってくれればいい」
「いいんですか。じゃあ、お預かりします」
地味子ちゃんは着替えた下着を持って洗濯に行ってくれた。随分借りができてしまった。
「百円玉3枚くらいで十分そうです。財布お返しします。洗濯に30分、乾燥に1時間くらいかかりますので、出来上がったら帰ります」
「ありがとう。ところで、故郷のお父さんはご健在なの?」
「父は私が大学3年生の時に亡くなりました。がんが見つかって、手遅れで、見つかって3か月後でした」
「それで、お母さんは?」
「母は私の小学6年生の時に交通事故で亡くなりました。それから父は男手一つで私を育ててくれました」
「お父さんが亡くなってからはどうしたの?」
「父の生命保険と私のアルバイトでなんとか大学を卒業しました。それからは磯村さんが知ってのとおりです」
「大変だったね」
「でも、今は自立してなんとか生活していけますから、すべて父のお陰です」
「米山さんが天涯孤独なんて知らなかった。これからは、僕が力になるよ、今まで以上にね」
「ありがとうございます。今までも十分力になってもらいました。感謝しています」
「住まいは梶ヶ谷だったね」
「梶ヶ谷の駅から徒歩5分のプレハブのアパートです。家賃が安いので生活していけます」
「先輩のマンションは素敵ですね」
「米山さんより給料が多いから。でも独身寮から移ったのは3年前、一人暮らしをしてみたかったからだ」
「彼女ができたら連れてくるためじゃないですか?」
「そういう下心があったかもしれないけど、全く実績なし」
「行ったら分かります。全く女っけなしですね。独身の男の人の部屋って興味があったのですが、期待外れ。殺風景この上なしですね」
「期待に沿えなくて悪かったね」
「米山さんの部屋は女の子らしいんだろう」
「ご想像していただければ分かると思いますが、家具も少なくて地味なものです。先輩の部屋と大して変わらないと思います」
「食事はどうしているの」
「自炊しています。昼食もお弁当を作ってきています」
「料理は得意なの?」
「母が亡くなってからは、父がしばらく食事を作ってくれていましたが、中学生になってからは、私がほとんど作っていました」
「料理はどうして覚えたの?」
「はじめは父が教えてくれましたが、書店で料理の本を読んで覚えてきて作りました。それで、結構、いろいろ作れるようになりました」
「すごいね。いずれご馳走になりたいな」
「そのうち機会があればご馳走します」
乾燥機から洗濯物を持ってきてくれて、地味子ちゃんは帰っていった。ありがとう、助かった。
◆ ◆ ◆
月曜日の朝、主治医の女医さんが内視鏡で直腸の検査をして状態が良ければ点滴から食事に替わると言ってくれた。
内視鏡の検査は辛かったけど、検査の結果は異状なしとのことで、点滴が終了した。
順調に行って問題がなければ、水曜日の午前中に退院できるとか、やれやれ。
昼食は3分粥で水みたいなお粥だった。これじゃ力がでない。それにおかずも刻んだ形のないものばかりで味気ない。
ただ、今、普通の食事をすると胃腸が受け付けないとのことなので、我慢、我慢、もう少しの辛抱だ。
夕食もやはり3分粥だった。
◆ ◆ ◆
火曜日の朝4時に少量の便が出た。血も混ざっていなかった。
朝食は5分粥、少し粥の量が増えただけ、おかずもやはり刻んだ形のないものばかり。
昼食も5分粥、段々食欲が出てきた。
夕食は全粥になった。でもお粥に変わりはないし、おかずも相変わらずだ。
◆ ◆ ◆
水曜日の朝6時に便が出た。正常で血も混ざっていない。ようやく回復したことが自分でも分かった。朝食は全粥。
9時を過ぎたころに主治医が来て退院の許可が出た。この後は普通の食事で良いとのことだった。
すぐに会社に退院した旨を連絡した。出勤は明日からとして今日は家で休養することとした。
地味子ちゃんには[無事退院した。ありがとう。今日は自宅で療養]とメールを入れた。
地味子ちゃんから返事のメールが入る。
[夕食は私がお家で作ってあげますから、待っていて下さい。6時30分には行けます]
3日間も絶食していた割には普通に歩ける。昨日は退院に備えて1日中リハビリのためにフロアーを歩きまわった。
やはり点滴で栄養補給されていたからだろうか、特段に疲れも感じない。ただ、今日1日は休養しよう。
コンビニで昼食用に卵サンドとポタージュスープ、ポカリ、ロールケーキなど、お腹に優しそうなものを購入して帰った。
マンションに着くと、郵便受けには新聞と郵便物が溜まっている。
すぐに部屋着に着替えて洗濯を始める。今日は晴れて天気が良いので洗濯物も乾くだろう。
地味子ちゃんが来て料理を作ってくれると言っていたので、部屋の片づけと掃除をする。木曜日の夜に帰ってきたときのままだった。
ひととおり、掃除が済むともうお昼なので、買ってきたサンドイッチなどを食べる。
あの晩はいろいろ飲んで、料理もあまり噛まずに食べていたように思う。
やっと回復した腸に負担のかからないようによく噛んで食べよう。
その後、ベッドでひと眠り。久しぶりの自分のベッドはやはり快適だ。少し大きめのセミダブルのベッドだ。
すっかり寝込んでしまった。目が覚めるともう5時を過ぎていた。ソファーに座って溜まっていたビデオをチェックする。あたりはもう暗くなっている。
チャイムが鳴るとカメラにいつもの姿の地味子ちゃんが映っている。
ドアロックを解除して、部屋の入り口で待って、チャイムが鳴ると同時にドアを開けた。
「わざわざ、夕食を作りに来てくれてありがとう」
「どういたしまして。いつものお礼です」
「入って、中は荷物を取りに来てくれたので分かっていると思うけど」
「お邪魔します」
「会社の帰りで疲れているのに、一休みしてからでいいよ」
「いいえ、先輩、お腹が空いているでしょう。すぐに作ります。私も食べますから」
「無理しないでいいよ」
「この前に来た時に、冷蔵庫の中を見ておきました。お米、調味料などはそろっていますから材料を買ってきました。すぐに出来ますから」
「何を作ってもらえるのかな?」
「簡単ですが、お腹に負担がかからないように、鰆の西京焼き、湯豆腐、ナメコとハンペンのお澄ましを作ります。ご飯を炊くのに時間がかかりますが、炊けたらすぐに食べられるようにします」
地味子ちゃんは意外に手際よく料理を作ってゆく。
前もって調べていたかのように、食器を出して準備している。
ご飯が炊けたころ、料理はすべて出来上がっていた。
二人は料理の並んだテーブルに向き合って座った。
「簡単に作ったので十分ではありませんが召し上がって下さい」
「ありがとう。いただきます」
久しぶりの食事らしい食事だ。しばらく無言で食べる。
「味付けどうですか?」
「味付けはいい、とってもおいしい。新婚の奥さんってこんな感じなのかな?」
「こんな感じって?」
「心配そうに味付けを聞く」
「せっかく作ったのだから聞くのは当然だと思いますが」
「気にしてくれて嬉しいと思ったから」
地味子ちゃんは何を思ったのか顔が真っ赤になった。結構可愛いところがある。
病院食でお腹が空いていたからか、いや地味子ちゃんの料理がおいしかったから、すぐに食べ終わった。
「ご馳走様、ありがとう」
「残さずに食べてもらえてよかったです」
「とってもおいしかった」
「後片付けをしたら帰ります。明日も仕事がありますから」
「ありがとう。仕事で疲れているところにすまなかったね。僕も明日から出勤する」
地味子ちゃんは後片付けを済ませるとすぐに帰って行った。
ありがとう。地味子ちゃんといるととっても心が休まる。
今日はもっといてほしかった!
木曜日に久しぶりに出勤した。1週間前に飲んだ同期2人が昼休みにそっとやってきた。
「大変な目に遭ったみたいだね、悪かったな、誘って」
「いや、こっちの体調が悪かったのかもしれない、君たちは大丈夫でよかった」
「同じものを飲んで食べていたはずだけどね」
「でもかなりいろいろ飲んだし、いろいろ食べたからね」
「でも、無事退院出来てよかった。俺たちももう若くないから、無理できないな」
「そうだね、さすがに今回の入院は身に染みたよ。でもいろいろなことを考える良い機会になった気がする」
「それならよかった。次の飲み会は来月にでも、お前が十分回復してからにしよう」
僕の元気そうな顔を見て安心して戻って行った。気が置けない奴らだ。同期の仲間は大切にしたい。
それから野坂さんがやってきた。
「入院していたそうね」
「急性腸炎で6日間」
「あなたらしくないわね。少し油断した?」
「そうかもしれない。いや、体力が落ちてきたのかもしれない」
「そうね、私たちはピークを過ぎてこれから落ちて行くのかもしれないわね」
「お互い気をつけよう」
野坂さんが立ち去るのを待っていたように、地味子ちゃんもやってきた。
「もう大丈夫ですか?」
「昨日はありがとう。お陰ですっかり元気になった。お礼がしたいけど、明日の金曜日空いていれば、食事をご馳走したい」
「もう大丈夫なんですか? お気遣いはご無用です。いつもお世話になっていたのでお返しです」
「僕の気が済まないので、どうかな、空いているのなら付き合ってほしい。大事な話もしたいから」
「良いですよ」
「それなら、新橋に和食の店があるから、そこで和食をご馳走しよう。久しぶりにおいしいものを食べたいんだ。和食ならお腹にも優しいので大丈夫そうだから。明日6時半にビルの出口で待ち合わせしよう」
「分かりました。ご馳走になります」
◆ ◆ ◆
次の日6時半にビルの出口で待っていると、地味子ちゃんが出てきた。相変わらずの地味なスタイルだ。
「お待たせしました」
「仕事は大丈夫?」
「折角の機会ですから、頑張って終わらせました」
大通りへ出て、すぐにタクシーを拾って新橋へ向かう。
以前、仕事で使ったことのある和食の店で、4人ぐらいで会食できる掘りごたつの個室を予約しておいた。
「どうぞ、ゆっくりして」
「良い所を知っているんですね」
「まあ、この年になるとこんな店も知っているってとこかな」
「落ち着いていて素敵です」
「ホテルの高級レストランもいいけど、こんな落ち着いた感じも良いかなと思って。二人で周りに気兼ねなくゆっくり話ができるから」
「でも何を話したらいいか思いつきません」
「何でもいいんだ、米山さんと話していると心が休まるから。料理は勝手に頼んでおいたけど、飲み物は何がいい?」
「じゃあ、折角だから日本酒をいただきます」
「冷でいい?」
「はい」
先付けが運ばれてきて、冷の日本酒もグラス2つと共に用意された。それから、時間をおいて料理が運ばれてくる。
「本格的な和食って初めてです」
「そうなんだ。僕は仕事の席で接待したりされたりで、でも忘年会や新年会や送別会で和食にすると大体ひととおり出てくるけどね」
「でも、初めからまとまって幾つか置いてあるし、こんなに一品ずつでてくることはないですよ」
「ゆっくり話ができるように一品ずつ時間をおいて料理が出されるんだ」
「じゃあ、話をしないといけないですね」
「そんなに無理しなくて自然体でいいよ。そうだな、なんでも聞いていいよ」
「入院したのは初めてだったんですか」
「そうだ。まさかこの年で入院するとは思わなかった。油断した」
「どう油断したんですか?」
「あの晩はまずお酒をいろいろ飲み過ぎた。生ビール、黒ビール、焼酎のお湯割り、日本酒、ほかに水割り」
「さすがに多すぎますね。1種類にした方がよかったかもしれませんね」
「いつもはビールだけにしている。ビールだと量が飲めないし、深酔いしないし、お腹にも優しい気がする」
「どうして、いろいろ飲んだのですか?」
「料理がいろいろ替わったので、ついいろいろ飲んでみたいと思った、魔が差したのかな」
「じゃあ、仕方ないですね。どういう料理だったんですか?」
「ブリとマグロの刺身、それにホタテの刺身、どうもこの貝が悪かったかもしれない。魚も肉も内部は無菌だけど、外側が汚染されていることがある。特に貝は海水にじかに触れているので危ない。それからてんぷらに串カツと締めに焼きそば、終わりにかけて脂っこいものが多くなったので、これも悪かったかなと思っている」
「確かに脂っこいものは胃にもたれますから」
「それから、疲れていたのかも? それにもう若くないから」
「そんなことないです。先輩はまだ若いです」
「そう言ってくれてありがとう」
地味子ちゃんには、どうして飲み過ぎ食べ過ぎをしたのかの理由は話さなかった。
これは彼女には全く関係のないことで、誰も言わずに僕の胸にしまっておくことだ。
「ところで、米山さんは以前相談にのってあげた彼とのことがうまくいかなかったんだよね。今、付き合っている人はいないということでいいんだね」
「その節はいろいろ相談にのってもらったり、機会を作ってもらったりして、ありがとうございました。でもうまくいかなくて申し訳ありませんでした」
「いいんだ、それで。それよりも大事なお願いがあるけど」
「なんですか、先輩のお願いなら、何でも引き受けますが?」
「米山さん、僕と付き合ってくれないか?」
「ええ…」
「今、付き合っている人がいないのなら、僕と付き合ってくれないか? どうかな」
「どうして私なんかと?」
「米山さんがすごくいい娘だと分かったから、君と話していると心が休まるし」
「先輩は野坂さんと付き合っているんじゃないんですか」
「いいや、野坂さんとは同期の友達だ。時々飲みに行ったりするけど付き合ってはいない」
「私はてっきりお二人は付き合っていらっしゃるものと思っていました」
「誤解だ」
「そうだったんですか」
「だったら、どうかした」
「お付き合いの申し込み、喜んでお受けします。私、本当は先輩のこと、入社した時から素敵な人だなって憬れていました。でも野坂さんのような素敵な人がいるみたいで、あきらめていたんです。だから、今、ただの友達と聞いて、混乱してしまいました」
「混乱しているって?」
「もし私でよかったら付き合って下さい。こちらからもお願いします」
「ありがとう。よかった。受け入れてもらえて。ご馳走した甲斐があった」
「ご馳走されたからお受けしたんじゃないですから、念のためですけど」
「分かっているよ。良い機会になったということ。それも入院したからかな? 『災い転じて福と為す』の典型だね」
それからは打ち解けて話ができた。楽しい食事だった。
ホテルのレストランでの食事もいいけど、こういう和室での食事も落ち着いてよかった。周囲を気にしなくていいし、誰にも邪魔されずに話ができる。
ただ、始めに信頼関係がなければ個室で二人というのは難しいけど、もともと二人には信頼関係がすでに醸成されていたのだと思う。
店を出て、二人で新橋駅まで手を繋いで歩いた。
時刻はもう9時近くになっている。地味子ちゃんから手を繋いできたのだけど、手は自然と恋人つなぎになった。
はじめはぎこちなかったけど、駅につくころにはもう恋人のようになじんできた。
地下鉄はこの時間はまた混み始めている。なんとか二人並んでつり革がつかめた。僕はお酒が入っているからか、身体を寄せ合いたいそんな気分だった。
表参道で半蔵門線に乗り換えた。今度はとても混んでいたので離れ離れになった。
そして、僕は高津で今日はここまでと地味子ちゃんと別れた。
家へ帰って一休みする。
地味子ちゃんに受け入れてもらえてほっとした。
今度は自分から勇気を出して申し込んだ。今まではいろいろと迷いが出てこれができなかった。だから、大切な人を失ってきた。
もう失敗はしたくない。心地よい疲労の中で、地味子ちゃんが家へ着いた頃にメールを入れる。
[今夜はありがとう。日曜日にデートしないか?]
すぐにメールが帰ってくる。
[ありがとうございました。嬉しかったです。日曜日のデートお受けします。どこにしますか?]
すぐに返信する。
[10時に東急大井町改札口に集合、行先は品川水族館]
すぐに返信が来る。
[楽しみにしています。お体を十分休ませてください。おやすみなさい]
最後の返信をする。
[ありがとう、おやすみ]
地味子ちゃんから野坂さんとのことを聞かれた。
実際、彼女には好感を持っている。また、彼女も僕に好感をもっているはずだ。だから、時々飲みに行ったりしている。
彼女は美人で頭もよい、服装のセンスもよい。女性としての魅力は十分にある。一緒に歩くと皆振り返るくらいの美人だ。
でもどこか惹かれないところがある。それが何かはっきりしない。
だから、深い関係にはならなかった。彼女も僕に対してそう思っているに違いない。
言ってみれば同志のような関係だろうか。お互い相談にのれる間柄だが、癒し合うような関係ではない。
地味子ちゃんとは全く違う。地味子ちゃんと話していると心が癒される。
僕はそういう癒しを求めているんだと思う。凜にもそれを求めていた。
大井町の改札口には少し早く着いた。今日は幸い天気が良い。昨日は一日中、部屋の掃除と洗濯をした。
こう見えても僕は意外ときれい好き。何せ1週間ほど入院していたのだからしておかなければならないことが多かった。
冷蔵庫に食料品を補充したり、飲み物を補充したり、特にポカリを病気になった時のために多めに仕入れておいた。
部屋のレイアウトを少し変えた。
万が一、彼女を招き入れることがあってもいいように、ベッドのシーツやバスタオルを買いたしておいた。あれもその時のために買い増しておいた。
それと少し食器類を補充しておいた。
元々、外食が好きな方ではないが、ウイークデイは駅前の食堂や会社の近くのレストランで夕食を食べるか、駅のコンビニでお弁当を買って帰っている。
休日は近くのスーパーで好みの総菜を買ってきてご飯を炊いて食べることが多い。
そのために、大きめの冷蔵庫のストッカーには冷凍食品や買ってきた総菜が多数冷凍保存されている。
いつも2週間分くらいの食料は備蓄されているので、災害があっても停電にならなければ大丈夫だ。
食べたいものを食べたいときに食べる。一人暮らしは気ままなものだ。
今着いた電車から可愛く着飾った女の子が降りてくるのが見えた。小柄だが人目につく。
こちらに近づいてきてようやくそれが米山さんだと分かった。メガネをかけていなかった。
「すごく可愛いね。この前の飲み会の時よりもずいぶん可愛くなっている」
「ありがとうございます」
「野坂さんに教わったとおりにしています。昨日はヘアサロンにいってきました。ヘアサロンにはしょっちゅう行かなければだめと言われましたから」
なんともいいようがないくらいに可愛い。こんなに可愛かったのか!
地味子ちゃんでも磨けばこんなに光るんだ。でも元々の素材が良かったのかもしれない。
「行こうか? バス停から水族館行きのバスが出ているから」
自然と手を繋いでバス停へ歩いて行く。
隣の地味子ちゃんが見ていられないほどまぶしい。
すれ違う人が彼女を見ている。確かにとても可愛い。
僕のようなオッサンが年の離れたこんな可愛い娘と歩いていていいんだろうかと戸惑う。
見た目が違うとこんなにも心がときめくものだろうか?
米山さんは嬉しそうに手を繋いで歩いている。ときどき目が合うとニコッと笑う。これがまたとっても可愛い。
何を話して良いのか分からなくなった。こんなこともあるのか?
この年になってとまどう自分に驚いている。
手を強く握ると、強く握り返して、ニコッと笑う。
米山さんと付き合うことにしてよかった。今は癒されるよりドキドキしている。
女性を好きになるってこんなことだったのかと今さら思う。僕は恋をしている?
バスは出たばかりだった。前もって時刻表を調べておけばよかった。
米山さんに言うと、お話しをしていれば時間はすぐに経つと言う。
でも今は何を話していいかすぐに思いつかない。
「昨日は何をしていたのですか?」
「しばらく家を空けていたので、掃除して、食料と飲料を補充しておいた」
「あんなに整理整頓されて、とてもきれいなお部屋でしたけど」
「結構、ほこりが溜まっていた。これでもきれい好きなんだ。それに片付けておかないと、この前のようなことがまたあるとも限らないからね」
「私は片付けが苦手で、整理をしてもすぐに散らかってしまって、でもお掃除とお洗濯は好きです」
「昨日はどうしていたの」
「今日のデートのためにショッピングとヘアサロンに行ってきました。この衣装は昨日買ってきたものです。似合っていますか?」
「とっても似合っている。いつもの米山さんとはとても思えない」
「実は昨日の朝、野坂さんに電話して、先輩とデートすることになったと言って、先輩の好みを聞いたんです」
「ええ! そんなこと聞いたのか? それで野坂さんは何て言っていた?」
「女性ぽいセクシーなものより可愛い感じのものがいいと教えてくれました」
「それで、磯村さんは良い人だから絶対に離れてはだめと言われました」
「そうか、彼女は僕のことが良く分かっている。好みも」
「ほかには?」
「あなたなら大丈夫と言われました。でも付き合っていることはほかの人に話さない方が良いとも言われました」
「そうか、確かに付き合っていることは会社では秘密にしておいたほうが良いかもしれないね」
「そうします」
ようやく、バスが来たので、二人で乗り込む。先頭に並んでいたので2人で隣り合わせに座れた。バスは15分ほどで水族館に到着した。
「初めて来たけど、水辺にあって落ち着いたところだね」
「私も初めて来ました。初デートにはいいところですね。お話がいっぱいできそうで」
「そうだね、もっと話がしたいね」
手を繋いで館内を見て回る。僕は魚がゆったりと泳いでいるのを見るのが好きだ。
少し前まで部屋に水槽を置いて熱帯魚と水草を育てていた。
仕事から帰って、水草の中を泳ぐカージナルテトラの群れと水草にからみつくヤマトヌマエビを見るのが好きだった。
1週間の海外出張が入って帰ったら、温度調節器の故障で全滅していた。これからも面倒が見られないことがありそうなので飼育をやめた。
確かに生き物を飼うのは大変だ。まして、生身の若い女性と気遣いながら付き合うのはもっと大変だと思う。
「水槽のお魚は幸せなのかしら?」
「うーん、幸せじゃないかな。毎日餌が貰えるし、天敵に襲われる危険もないし」
「恋はできるのかしら?」
「複数入っているから雄と雌がそれぞれ何匹かはいるだろうから恋はできるかもしれない。でも魚の繁殖は難しいんだ。繁殖の環境が作れるかどうかだけど」
「詳しいですね」
「少し前まで熱帯魚を飼っていたけど、さすがに繁殖はできなかった」
「恋ができないなんて、かわいそうじゃないですか」
「自然界は弱肉強食で強い雄しか雌と結ばれないと思う」
「人間もそうかもしれませんね。勇気のある人しか恋人はできないかもしれません」
「僕は勇気を出したから米山さんと付き合えた。今はとっても幸せな気分だ」
「本当に今幸せですか? 私とこうしていて」
「僕はこのごろ幸せって本当に心の持ちようだと思うようになってきたんだ」
「それはどういうことですか?」
「この年になると、人間の欲望って限りがないのが分かってきた。良い大学に入れれば幸せと思っていても、大学に入ると、いいところに就職できれば幸せと思うようになる。ようやく思うところに就職しても、部長になれたら幸せなんて思うようになる。
本当に欲望には限りがない。これから先にもっと幸せがあると思ってしまう。でも違うと思うようになった」
「私は今が一番いい時で、今が幸せと思うようにしています」
「僕もこの頃そう思うようになってきた。今振り返ると学生時代はとても幸せな良い時代だった。でもそのころはそれが分からなくていつも不満が鬱積して閉塞感でいっぱいだった」
「今は良いところも悪いところもあるけど、それを受け入れて、今が一番いい時で幸せだと思うと、心が落ち着いて安らぎます」
「僕も同じ思いだ。米山さんと話していると心が安らぐのは、きっと君自身、今が幸せと思っているからなんだね」
「私も先輩と話していると、心が落ち着いて安らいだ気持ちになれます。同じ理由からかもしれませんね」
「僕も今が一番いい時で、今のこの時間を大切にしたいと思っている」
「同じです」
「水槽のお魚は幸せだと思います。だって、こちらを見ているお魚の目、幸せそうですから」
「そういえば、幸せそうな目をしているね。どう思ってこちらを見ているのかね? でも君の目も幸せそうに見える」
「今こうして先輩といることがとっても幸せだと思っていますから」
「それはよかった。僕も米山さんと付き合えてよかった」
「先輩、付き合っているのですから、米山さんは他人行儀です。できれば名前で呼んでくれませんか?」
「いいよ。由紀でいい? それより由紀ちゃんがいいかな?」
「どちらでもいいです。呼びやすい方で」
「じゃあ、由紀ちゃんで。それなら先輩もやめてほしい」
「私も名前で呼んでもいいですか? 仁さんとか」
「そう、仁さんと呼んでくれればいい」
「そうします」
それから、水族館の中をひととおり見て回ってから、レストランで食事をした。
帰りは大森海岸駅から電車で品川駅へ、それから大井町駅へ戻り、二子玉川駅で途中下車してショッピングをした。
由紀ちゃんは自炊用の食料品を買うと言うので付き合った。そのうち食事に招待してくれると言う。
ただし、少し練習してからと言われた。楽しみに待つことにしよう。
明日は月曜なので4時過ぎに高津駅で別れた。久しぶりの楽しい日曜日だった。
由紀ちゃんが家に着いた頃にメールしようと思っていたら、先にメールが入った。
[今日は楽しかった。ありがとうございます。今幸せです]
すぐに返信。
[ありがとう。僕も幸せを感じている。おやすみ]
すぐに返信が入る。
[おやすみなさい]
月曜日の昼休みに野坂さんから内線電話が入る。
「どうだったの? まさかすぐに手を出したんじゃないわよね」
「僕はジェントルマンだからそういうことは絶対にない」
「彼女は一途だから真面目に付き合わないとだめよ」
野坂さんは地味子ちゃんをもう自分の妹のように思っているようだ。それはそれで良いことだ。
「分かっている。言われるまでもないさ」
「あなたの性格だから思いつめているんじゃないの?」
「少しはね」
「まあ、うまくやって、口外はしないから。彼女にも言っておいたけど」
「聞いた。ありがとう」
「うまくいくことを期待しているわ」
野坂さんに言われて吹っ切れた。
少しだけ、彼女には悪いことをしたと思っていたからだ。
彼女と付き合っていなかったとは言い難いところはあった。
時々飲みに行っていたそれだけの関係だったけれど、ただ、僕がその気になって一押しすればその場の雰囲気次第では何かあったかもしれないような微妙な間柄だったと思う。
地味子ちゃんはそれを薄々感じとっていて、先手を打ったのかもしれない。
いや、そこまで気が回らないだろうが、結果的には、結論が早く出た形になった。
これは地味子ちゃんの作戦どおりなのかも知れない。
丁度、新庄君が席に戻ってきたのが見えた。近づいて小声で囁く。
新庄君には内々に地味子ちゃんとのことを話しておいた方が良いと思っていた。
「新庄君、今週空いている日があったら一杯飲まないか?」
「良いですね、少し相談したいこともあるので、丁度良かったです」
「いつがいい?」
「水曜日と木曜日は空いています」
「じゃあ、水曜日の夜、7時に駅前の居酒屋でどうかな?」
「いつもの居酒屋ですね。じゃあ7時に」
◆ ◆ ◆
水曜日は仕事が早く片付いたので7時前には居酒屋に着いた。後でもう一人来るからと言って、奥のテーブル席で待つことにした。
まず、瓶ビールと焼き鳥を注文した。今日は前回の失敗に懲りて、お酒はビール、肴は火の通ったものに決めている。
丁度7時に新庄君が店に現れた。
「磯村さん、早いですね」
「仕事が意外と早く片付いたから、先にやっていた。飲み物は?」
「僕も瓶ビールで、つまみはやはり焼き鳥」
「マネするなよ」
「磯村さんのように急性腸炎にならないように気を付けたいので」
「そうだ、確かあの時の一次会はここだったから、気を付けるに越したことはない」
「まずは一杯。相談したいことって何? でも、こちらから質問がある。あれから米山さんとどうなった?」
「二人にされて、場所を変えて話をしました」
「それでどうだった」
「それで、米山さんからずっと好きだったから付き合ってほしいと言われました」
「それで?」
「断りました」
「彼女は可愛く変身していて素敵だったけど、どうして断った」
「実は僕には好きな人がいるんです!」
「ええ、そうなの。誰? 会社の人?」
「今日の相談と言うのはそのことなんですが」
「付き合っている人についての相談か?」
「付き合っていません。片思いです」
「へー君も片思いか! いったい誰だい?」
「その前に、聞いておきたいことがあるんですが?」
「磯村さんと野坂先輩とはどういう関係ですか?」
「どういう関係と言われても、同期の仲間だけど、少なくとも男女の関係にはないね」
「そうですか」
「ひょっとして、お前」
「そうです。野坂先輩です」
「お前! どうして野坂さんが好きなんだ?」
「大学時代からの憬れの人なんです」
「3年も先輩だろう」
「サークルが同じでした。僕が1年の時に4年生で、なんて素敵な人だろうと思いました」
「それで」
「4年生はすぐにサークルからいなくなったので、就職先までは知らなかったのですが、ここに入社したら同じ会社と分かって驚きました。これは運命だと」
「それは大げさで、思い込みだ」
「仕事をしているのを見かけると段々と思いが募って来たんです」
「新製品の開発担当をしていると会う機会も確かに増えるからね」
「このごろは、本当に運命ではと思うようになってきました」
「まあ、それはそれとして、好きだと告白したのか?」
「きっと断られると思いますし、それが怖くて、とてもできません。できるくらいならこんな相談しません。こんな場合どうしたら良いかの相談です」
「これは二人の問題だ。他人がどうこう言う話ではないと思うけど」
「知恵を貸してください」
「ううん、じゃあ、俺の経験から忠告しよう。お互いに知らない間柄ではないのだから、勇気を出して直接告白した方が良い。運命と思うならなおさらだ。
物事、正面突破がベストだ。いろいろ小細工してもどうにもならないことがあるけど、正面から堂々とぶち当たればすんなりいくことも多い。
仕事もそうだろう。策を弄すよりも正面から正々堂々と行くと良い結果が出ることが多い。決心して勇気を出してダメもとで告白したらどうかな」
「他人事だからそう言えるんです」
「これは自分の経験からのアドバイスだ。つい最近のことだけどうまくいった」
「そうなんですか?」
「これ以上はもうどんな知恵もない」
「そうですか、じゃあ勇気を出してダメもとでやってみますかね」
「まあ、勇気を出して頑張ってみるといい、運命と信じているならなおさらだ。きっとうまくいく」
「ところで、磯村さんがうまくいったことって何ですか?」
「今のところ秘密にしておくけど、そのうち分かる時が来る。驚くかもしれないけどね」
「楽しみにしています」
「そちらの結果もね」
新庄君は隣のグループだが、プロジェクトの関係で一緒に仕事をするようになった。
真面目な性格であることは分かっている。野坂さんと同じ有名大学の卒業で、頭も切れて、秀才の趣がある。
進学で有名な都内の私立中学・高校から大学へと進んだと聞いている。家は奥沢にある1戸建てで、一人息子で両親と同居しているという。
見た目は凄くスマートでカッコよく、いわゆるイケメンだ。地味子ちゃんが憬れたのも無理はない。
ただ、どちらかというと草食系というか、今まで順調に来ただけに、ひ弱で打たれ弱い一面もある。だから、できるだけサポートしてやっている。
一人っ子なので兄貴みたいに思われているのかもしれない。時々仕事の相談を受けるようになり、それで飲む機会も増えた。
新庄君には僕たちが交際を始めたことを話しておこうと思っていたが止めた。新庄君は地味子ちゃんには全く関心のないことが分かったからだ。
二人の関係はできるだけ内密にしておくに限る。
今日は週も半ばなので、ほどほどに飲んで食べて帰宅した。
丁度、地味子ちゃんからメールが入る。
[今日は飲みに出かけたそうですが、お腹の具合は大丈夫ですか?]
[大丈夫、飲み過ぎと食べ過ぎに注意したから。ところで今度の土曜日どこかへ行こうか?]
[スカイツリーに行きたい]
[了解。集合場所と時間をあとで知らせてくれる?]
[分かりました。おやすみなさい]
[おやすみ]
土曜日の10時に二子玉川のホームで待ち合わせたが、同じ電車で着いたみたいで、乗った車両が違っていただけだった。
今日も可愛く着飾っている。
それから渋谷経由で半蔵門線の押上まで行った。それから地上に出てタワーを目指して二人で歩く。
「実は私、行ったことないんです」
「僕もなんだ、出来てからずいぶん経つのにね」
「遠くから見えますが、近づくと随分高いですね」
「一度は来ておかないといけないとは思っていた。丁度良い機会だね」
土曜日だけど、そんなに混んでいない。まあ、出来てから相当に時間が経っているからだろう。どうせならと一番高いところまで上がった。
「すごく高いですね。あんなに家が小さく見える。それに東京って随分広いですね」
「人が多すぎる。地方では働き口がないから、都会に若い人が集まるけど、本当は地方の方が住みやすいと思うけどね」
「仁さんは東京が嫌いですか?」
「好き嫌いというよりもここでしか生活できないからね」
「確かに地方では適当な就職口がないからしかたないですね」
「由紀ちゃんはどうなの、東京の生活は?」
「一人で生活してみたら、どこでも生活できると思えるようになりました。好きな人となら、なおさらどこでも生活できると思います」
「僕は家族には良い生活をさせたいと思っている。今のところ東京でしか妻子を養っていけそうもないからね」
「私は何とか生活できればよいと思っています。上を見ればきりがないですから」
「そうだね、でも由紀ちゃんがそう言ってくれると助かるよ」
「私を好きで大事にしてくれればそれでいいと思っています」
「大事にするって難しい。安定した良い生活をさせてあげることじゃないのかな」
「ちょっと違うと思います。良い生活よりも大事されていると感じることができればそれでいいんです」
「どうしたら大事にされていると感じてもらえるかな、難しいね」
「意外と簡単だと思いますけど」
「そうかな、努力してみる」
「努力よりも自然にできるようになった方が良いと思います」
「その方がもっと難しいと思うけど」
「仁さんは私にどうしてほしいのですか」
「いつもそばにいて癒してほしい」
「いつもそばにいることはできますが、癒すってどうすればいいんですか」
「そのままでいいんだ、今のままでいてほしい。それで十分だから」
「それなら安心しました。でも遠慮なく、してほしいことを言ってください。どう癒してあげたらいいのか分かりませんから」
「そのままでずっとそばにいてくれればいいんだ」
手を握ると由紀ちゃんが強く握り返してくれる。
タワーを降りて、建物内のレストランで食事をした。
時間があるのでせっかくだから、浅草にも立ち寄ることにした。仲見世はとても混んでいる。手をしっかりつないで歩いて行く。
「人が多いけどみんな観光客かしら」
「おそらくほとんどが観光客だと思う、外人さんも多いね」
「浅草は今日で2回目です。1回目は上京してすぐに来ました」
「東京で一番の観光地かもしれない。この雰囲気は独特だね」
「こんなに大勢の人がいるのにお互いに知らないもの同志なんて不思議な気がするわ」
「確かに、知っているのは手を繋いでいる由紀ちゃんだけなんて不思議な気がするけど、それが現実だ。でもこんな大勢の人の中で一人でも大切な人がいるって素敵なことだと思うよ」
「離れ離れにならないようにしっかり手を握っていてください」
由紀ちゃんが手を強く握ってくる。それを強く握り返す。
「今日の帰りに僕の部屋に来ないか?」
「いいですよ。お部屋には入院の時に荷物を取りにと退院の時に夕食を作りに行きましたが、きれいに整理整頓されたお部屋でしたね。男性のお部屋って皆あんなにきれいなんですか」
「分からない。僕が特別かもしれない。でもきれい好きは多いと思うよ」
由紀ちゃんは僕の誘いを素直に受け入れてくれた。
「晩御飯はおいしそうなお弁当を買って家で食べよう。レストランもいいけど、落ち着かない。二人、部屋でお弁当を食べよう」
「その方がゆっくりお話しできて良いと思います」
それから、おいしそうなお弁当を売っている店を見つけて2つ買って、デザートに和菓子を買った。
あとは地下鉄から乗り継いで高津駅へ向かう。
駅に着くと、もうあたりは薄暗くなっていた。
「どうぞ入って」と由紀ちゃんを先に入れて、鍵をかける。
明かりを灯してリビングへ向かう。先を歩く由紀ちゃんは少し緊張しているみたいだった。
リビングへ入るとすぐに後ろから抱き締める。
突然抱き締めたので、由紀ちゃんは身体を固くする。
キスしようとこちらを向かせるが、恥ずかしいのか下を向いたままだ。小さな声が聞こえる。
「おトイレ貸してください」
「ええー、いいけど」
すぐに由紀ちゃんはトイレに駆け込んだ。水の音が聞こえる。
いきなり抱き締めたりしたから、驚かせたかもしれない。
すまないことをした。なかなか出てこないので心配になる。
どうしようと思っていると、ようやくドアが開いて出てきた。
「ごめんなさい。せっかく優しくしてくれたのに、ごめんなさい」
「いや、僕の方こそ、突然抱き締めたりして、ごめん。お弁当を食べようか? お腹が空いた」
「私もお腹が空きました」
「お茶を入れよう」
「私がします」
由紀ちゃんがお湯を沸かしにキッチンへいった。しばらくしてお茶碗を二つ持ってきてお茶を入れてくれた。
二人で話しながらゆっくり食べるつもりだったのが、二人は無口で食べている。
二人ともこのあとのことが気になっている。由紀ちゃんに何て声をかけたらいいのか分からなくなった。
食べ終わって、ジッと見つめていると「片付けます」と言って立ち上がった。「僕が片付けるよ」と立ち上がる。
テーブルの上で手が触れるともう我慢できなくなって、由紀ちゃんを引き寄せて抱きしめた。
由紀ちゃんは抱きついてきた。しがみついて離れない。
「大好きです」
「僕も由紀ちゃんが大好きだ」
抱き抱えて寝室のベッドに運ぶ。
由紀ちゃんはぎこちなく僕の腕をつかんでいる。
ワンピースに手をかけると身体を固くするのが分かった。
「優しくしてください」
「ああ、優しくする。心配しないで」
由紀ちゃんはこうして僕のものになった。
◆ ◆ ◆
由紀ちゃんが布団の中から見上げて僕に話しかけてくる。顔が見づらい。
恥ずかしがって布団にもぐりこんで中から顔を出さない。
「もう、服を着ていいですか?」
「だめ、もう一度可愛がってあげたいから」
「今日はもうこれ以上無理です。ごめんなさい」
「分かった。でもこのまま朝までいてほしい」
「いいんですか、泊っていっても」
「もちろん、このままでは帰せない」
「じゃあ、少し眠ってもいいですか」
「いいけど、少し話をしないか? そのままでいいから」
布団の中の顔と話しを始める。
「はじめてだったんだ」
「はい」
「ごめんね、もっと優しくするんだった。由紀ちゃんを早く自分のものにしたくて力が入った。ごめんね」
「優しかったし、とても嬉しかった。でもこれ以上は無理です」
「分かっている。このままここにいてほしい」
「こちらこそ、そばに居させてください。ギュと抱き締めてくれますか?」
「いいけど」
「そして、抱き締められたままで眠らせて下さい。こうしてもらうのが夢だったんです」
「分かった。いい夢が見られるように、由紀、大好きだ」
布団の中に腕を突っ込んで抱き締める。
抱き締めるとこんな力があるのかと思うくらいに強い力で抱きついて来る。
柔らかい身体が壊れそうになるけど抱き締める。
そのまま静かに動かずにいると、いつのまにか眠ってしまった。
◆ ◆ ◆
朝、由紀ちゃんは布団にもぐりこんだまま僕の身体にしがみついている。
眠っているのか目覚めているのか分からないが、しがみついたままだ。
「このままベッドにいてくれる? 朝ごはんを作ってあげるから」
こう言ってみると、中から声がする。
「お手伝いします」
「いいよ、そのままここにいて」
「じゃあ、服を着ます。向こうを向いていて下さい」
由紀ちゃんはすぐに服を持ってバスルームに入って行った。
僕はその間に部屋着に着替えると朝食を作りにかかる。
トースト、ハムエッグ、ホットミルク、ヨーグルト、皮をむいたリンゴ。すぐに準備ができた。
由紀ちゃんはなかなか出てこない。ようやく出てきたと思ったら、すっかり身支度を整えて可愛くなっている。
「随分、時間がかかったね」
「仁さんの前では可愛いい私でいたいから」
「そんなに気を使っているとこれからたいへんだよ」
「いいんです。女の身だしなみを野坂先輩に教えられました。どんな時も醜態を見せてはいけないと」
「醜態ね、僕は醜態も可愛いと思うけどね」
「たまにはいいかもしれませんが、いつもはいけないと思います。そして初めが肝心ですから」
「そりゃあ可愛い方がいいに決まっているけど、あまり気を使わせるのも悪いと思って、自然でいてほしいだけだ」
「できるだけ自然に振舞うようにします」
「朝食の準備ができたから食べよう」
「聞いていたとおりのバランスのとれた朝食ですね。でも仁さんもちゃんと顔を洗って歯磨きもしてきてください」
「ごめん、醜態を見せちゃいけないね、先に食べていて、すぐに戻るから」
「待っていますから、でもゆっくりでいいですよ」
まるで、新婚さんの朝の会話みたいだと思って顔を洗う。でもこれが楽しくて浮き浮きする。
由紀ちゃんを自分のものにしてよかった。
そのあと朝食の後片付けをしてくれて、機嫌よく帰って行った。
週の半ばの昼休みに野坂さんから内線電話が入る。
「今日、空いてない? 相談したいことがあるけど」
「珍しいね、相談したいなんて」
「どこか落ち着いて話せるところある?」
「この前の表参道のスナックでいい?」
「いいわ」
「7時でどう?」
「わかった。その時話すわ」
◆ ◆ ◆
表参道のスナック「凛」はママが代わって営業していた。
少し前にひょっとしてと思って前を通ったら営業していたので入ってみた。
看板は『凛』のままだったが、やはりママは知らない人だった。
以前に来たことがあるといったら、ここを譲り受けたと言っていた。
おそらく、凛の知人か親しい人だと思い、聞いてみたら、ママとは懇意にしてもらっていたと言っていた。
おそらく昔の仲間だろう。それ以上は詳しくは聞かなかった。雰囲気からそれと分かるきれいなママだった。
水割りを飲んでいると野坂さんがやってきた。
「ごめん、私の方から頼んだのに遅れてしまって。急に取材の打合せが入ってしまったの」
「忙しいんだね。身体の方は大丈夫かい? 僕みたいに身体を壊すなよ」
「ありがとう。健康には気を付けているわ。ジムに通って運動もしている。私も水割りお願いします」
「ママが代わったのね」
「前のママから譲り受けたといっていた」
「何か食べる?」
「食べる気にならないの」
「じゃあ、つまみにチーズとナッツを頼もう。空きっ腹で飲むと良くないからね。ところで相談って何?」
「うーん、ある人から、私が好きだと告白されて」
「へー、のろけか? それで何を相談したいの?」
「どうすればいいのか、あなたは彼女と付き合う時、どう決心したの?」
「そんなことは人それぞれだから、それに男と女は違うだろうし、僕の場合が参考になるのかな? それに君だって今までいろんな人と付き合ってきたんだろう」
「私、男性と付き合ったことがないのよ」
「僕とも、気楽に飲んでいたじゃないか」
「あなたとは、ただの同期としてのお付き合い」
「やっぱりね、男性としては意識されていなかったのか」
「私は男の兄弟ばかりだったから、男の子と張り合って生きてきたように思うの、小学生の時から学生時代もずっと、だから男の人を好きになれなかったみたい」
「会社に入ってからも張り合っていた?」
「そうね、そのままだったわ、今もそうかもね」
「でもオシャレに気を使っている」
「オシャレは女の武器、同性に対しても、センスが問われるから」
「男性に関心はなかったのか?」
「今まで仕事優先で来たので、男性は張り合う相手だから関心がなかったの。男性としてみるのなら、同年代ではもの足りなくて、40代位の年上の男性が丁度いい感じと思っていたわ」
「野坂さんは学生時代にはモテモテで、いろんな人と付き合っていたのだろうと思っていた。でも今は付き合っている人はいないだろうと」
「学生時代にいろいろな人と付き合ってはいたけど、好きだったからじゃないの、好きになった人はいなかったわ」
「なんとなく分かる」
「それで、ある人から突然好きだから付き合ってくださいと言われて」
「どうしていいのか分からないというのか?」
「好きだと言われたことがなかったから」
「信じられないな、野坂さんが言われたことがないって」
「本当になかったのよ」
「確かに、君には近寄りがたいオーラがあるからね」
「オーラだなんて」
「その彼は勇気があるね、よっぽど君が好きなんだろう」
「私には初めてのことで、どうしてよいか分からなくて」
「どうなの? 好きだから付き合ってくれと言われて?」
「すぐに返事できないから、時間がほしいと言ったけど、よく考えてみると嬉しいような」
「嬉しいような? その時、すぐに断らなかったのは、まんざらでもないからじゃないのか?」
「そう、すぐに断れなかった。迷ったの、どうしてか分からなかった。好きと言われて嬉しかったの、誰かに好かれるってとっても嬉しいことだとその時に思ったの。私って今まで、誰からも好きって言われたことがなかったのに気がついて」
「それなら、受け入れて付き合ったらいいじゃないか」
「迷いがあるの、なぜ迷っているか分からないけど」
「何が気になる?」
「私の後輩で年下なの」
「僕の経験から言うと、相手が誰であっても迷いはあるものだ。でも迷っているうちに僕は大事な人を何度も失った。だから思い切ってそれを乗り越えることが大切だと今は思っている」
「この迷いって何なのかしら」
「体裁、世間体、自身が作っている壁とか思い込みと言っていいのかもしれない。そのようなものだと思う」
「体裁なんか、自分が考えるほど周りの人は気にしていないから、自分の思い込みだ。自分のしたいようにすること、迷いとか壁とかを吹っ切って、自分の思いに素直になることが大切だと思う。思いが強ければ勇気をもって素直にそれに従うことだ」
「ありがとう、よく考えてみるわ」
「ところで、その相手は誰?」
「今は言えない、そのうちに分かるから。ありがとう相談にのってくれて」
「いや、君も米山さんの相談にのってくれたみたいだから、ありがとう」
新庄君は野坂さんに告白したみたいだ。
二人とも同じ有名大学卒で年齢が3歳年下というだけで、理想的なカップルだと直感的にそう思う。
年の差なんて年を経るにしたがって個人差の中に埋没して無きに等しいことだと思う。
すべての望みにかなった相手などありえない。すべて望みにかなったとしても付き合っていれば欠点も見えてくる。理想のカップルに見えていても離婚することもある。
見方をかえれば、自分にも欠点や至らないところはいっぱいある。お互いにすべてを受け入れるしかない。
大体すべて条件がそろっている相手なんかいない。それはあくまで自分の理想だ。まして体裁なんか考えていたらだめだ。
僕は自分の思いに素直になって、大切なものを手に入れることができたのだから。野坂さんにもそうして欲しい。
月曜日に席に着くとすぐに新庄君が席に来て小声で話かけてきた。
仕事を終えたら話を聞いてほしいと言うので、駅前の居酒屋で話を聞くことにした。
居酒屋には新庄君が先に着いて待っていた。
「話って」
「相談したことについて聞いてもらいたくて」
「聞こうじゃないか」
「あれから、磯村さんに言われたとおり、野坂先輩を誘って飲みに行きました。そこで、思い切って、好きだから付き合って下さいと話しました」
「それで」
「返事を待ってほしいと言われました。断られるかと思っていたのですが」
「それから」
「土曜日にもう一度会うことになって」
「どうした」
「付き合っても良いと言ってくれました。ただし、社外に限ると言って」
「そりゃそうだろう、大体、社内では付き合っていることは内密にしておいた方が良いに決まっている。俺たちもそうだから」
「俺たちって?」
「いや、どうでもいいだろう。それより、どうするんだ」
「付き合います。休日に」
「それで、どうしたらいいかと思って」
「それなら、毎週でもデートをするのがいいだろう。お互いにもっと知り合うために」
「どんなところがいいですか? 野坂さんは大人の女性ですから、僕には適当なところが思い当たりません。高級レストランとかはどうですか? 磯村さんと野坂さんは時々飲みに行っていたんでしょう。飲みに行くとかではだめなんですか?」
「あれはただ話をするためだ。友達付き合いだから。もし恋人だったら違うところへ行くよ」
「そうですか」
「野坂さんは大人の女性だからこそ、どちらかというと若い恋人同士が行くようなところへ誘ったらいい。例えばディズニーランドとか遊園地とか」
「僕はいままで若い女性と付き合ったことがないんです」
「そんなことないだろう。君はイケメンでカッコいいし、米山さんが惚れたぐらいだから」
「本当なんです。いままで女性と付き合いたいとは思いませんでした」
「君が好きな人と行きたいと思うところへ行けばいい。大人の女性だなんて気にするな。そして恋人同士がするように手を繋いで肩を抱いて、それからは自分が恋人にしたいことをすればいい。
自分に素直になったらいい。自分の大切な人にどうすればいいか、どうしてあげればいいか、自分で考えろ。野坂さんにはそれが一番いいと思う」
「分かりました。自分に素直になってやってみます」
「でもよかったな。こんな相談なら歓迎だ、うまくいくことを願っているよ。でも自分のこととなると話は別で難しいけどね」
新庄君は何か吹っ切れたように帰っていった。これでうまくいってくれればいいのだが。