嫁にするなら訳あり地味子に限る!

ようやく明日の新製品のプロジェクト会議の資料が完成した。

まだ8時だけれど、もう8時。ずっと休む時間がなかったので疲れた。

今日は朝から各担当者を回って詳細を最終調整して、定時にようやく調整が終わった。

それから資料を修正してプロジェクトリーダーの室長との最終打合せ。室長は帰らずに待っていてくれた。

概ね室長とは意見を調整してあった、というよりも室長の意見を取り入れて調整して回ったので、調整結果の報告を兼ねた最終打合せにそれほど時間は掛からなかった。

それから、資料を修正してなんとか完成した。すぐにコピー室へ向かう。

今の時間、ほとんどの社員は退社してコピー室に人はいない。

原稿は添付資料を含めてA4で8枚、両面印刷をして4枚の資料となる。

コピー機に原稿をセットして、タッチパネルで部数、両面印刷、ソート、ホッチキス止めなど必要事項を入力してスタート。

最初は順調に動いていたが突然コピー機がストップ。

ええ・・・なんで止まるんだ! パネルには紙詰まりの表示が出ている。参った! 

表示に従って、機体の扉を開く。確かに紙詰まりで、詰まった紙を取り出したが、相変わらず、紙詰まりの表示がでている。困った!

以前によく研究所で使っていたコピー機はこれほどの機能はなく大型でもなかったので、自分で直せたが、最近の大型機は便利だがブラックボックス化していて一旦トラブルが起こると簡単に直せなくなっている。

そこへ黒縁のメガネをかけた小柄な女子社員がコピーをするために入室して来た。

「どうしました?」

「紙詰まりで、詰まった紙を取り除いても復帰しない。明日一番で必要な資料なので困っている」

「私が見ましょうか? 私も結構紙詰まりのトラブルに合っていますので」

「見てくれる?」

女子社員は扉を開けていろいろな部位をチェックしている。

あんなところもチェックするのかという箇所も見ている。

「紙が一枚残っていました。これでおそらく大丈夫です」

扉を閉じると復帰した。大したもんだ。

「ありがとう助かった。すぐに印刷は終わるから」

「でもちょっと待って下さい。資料の日付が目に入ってしまいましたが、明日の資料ならこの日付は間違っていませんか?」

「ええ・・・」

そうだ、プロジェクトの打合せの日が変更になったのを修正していなかった。

室長に説明したが、二人とも気づかずに見落としていた。こういうことはたまにある。

「ありがとう。すぐ原稿を修正してくるから、先にコピーしていて下さい」

「じゃあ、コピーさせていただきます」

よくチェックしたつもりだったが、急ぐとろくなことはない。落ち着いて! 

席に戻ると日付を修正してから、もう一度原稿をチェックした。もう一か所、ミスタイプを発見した。

それからコピー室へ。まだ、女子社員がコピーをしていた。

黒いスーツ、髪は後ろで束ねてポニーテイルにしている。

地味な子だけど、一目で日付の間違いを見つけてくれた。

「どうぞ、先にしてください。私はまだ多くありますので、時間がかかります」

「じゃ悪いけど、部数も少ないので、させてもらうよ。ありがとう」

コピーはすぐにできた。トラブルがなければあっと言う間にできる。すぐに女子社員と交代する。

女子社員はまたコピーを始めた。胸のIDを見ると「横山美沙」と書かれている。

「横山さん、コピー機を直してもらってありがとう。助かったよ。明日、朝一の会議で使うので今日中に作れてよかった」

名前を呼ばれて驚いたようすを見せたが、IDを見られたと分かったようで、ニコッと笑った。

ど近眼か? 度の強い分厚いメガネをしている。

「どういたしまして、コピーをすることが多くて私も随分紙詰まりには悩まさせられましたから、今ではコピー機のほとんどのトラブルに対応可能です」

「たいしたもんだ、じゃあ、またトラブルがあったら頼みます」

「喜んで」

「僕は企画開発室の岸辺といいます。ところで、あまり見かけないけど、横山さんの所属は総務部?」

「私は派遣社員で、総務部で働かせていただいています」

「遅くまで大変だね」

「残業手当をいただけるので助かります。お給料がそんなに多くないので」

「じゃあ、そのうちに食事でもご馳走するよ、今日のお礼に」

「業務の一環ですから、お気遣いは無用です。失礼します」

彼女のお陰でようやく資料が完成した。やれやれ! 

彼女がコピー機を直してくれなければ、今も悶々としていたことだろう。

これで明日の会議に余裕をもって臨める。朝からバタバタしているとろくなことがない。

総務部と同じフロアーだけど、あんな子がいるとは気が付かなかった。

地味な感じであれなら目立たないし、気付かないかもしれない、正に地味子ちゃんだ。

僕は企画開発室のプロジェクトマネージャーで課長代理。室に課長代理はおかしいが役職名。一応管理職、だから残業代はない。

入社12年で35歳、独身。部下は一人いるが入社2年目の男子社員で仕事の仕方を教えているところ。

上司は竹本企画開発室長で研究所時代の直属の上司、本社へは5年前に異動して来ている。そして僕はその室長に呼ばれて3年前に転勤して来た。

本社へ来て気が付いたことだけど、人脈と言うのは確かにある。竹本室長も研究所での直属の上司だった野口本部長に呼ばれて本社に来たと聞いている。

他の部門でも同じで、聞いてみると「今の部長は以前別の部門での直属の上司でこの部へ呼び寄せられた」というのが多い。

部下には仕事ができて気心の知れた信頼できる人がほしいというのは人情だ。

8時半過ぎに仕事を終えてオフィスビルを出た。ビルは虎の門にある。少し前をさっきの地味子ちゃんが歩いているのに気が付いた。

リュックを肩にかけている。声をかけようと思ったが、この時間なので遠慮した。こちらに気付いていないので後を歩いて行く。

帰る方向は同じみたいで、地下鉄の階段を下りて行く。

銀座線表参道で半蔵門線に乗り換えたので同じ方向だ。同じ車両に乗ってみたが、地味子ちゃんはスマホに夢中でこちらに全く気付かない。

8時過ぎになると電車はつり革が掴める程度には空いてきている。これが9時を過ぎるとまた混んでくる。

最寄り駅の二子新地で下車した。地味子ちゃんはまだ先みたいだ。駅前のコンビニで弁当を買って家へ急ぐ。

駅から5分ぐらいの1LDKの賃貸マンション。本社に転勤する時に独身寮から移った。

一人暮らしだから気楽なもの。テレビをつけて、ビールを飲みながら弁当を食べる。

それから一休みしてシャワーを浴びてベッドに横になり、取り溜めたビデオの番組を見る。眠くなると一日が終わる。

今日も疲れた、おやすみ!
朝6時に目覚ましが鳴る。昨日は疲れていたのかすぐに眠ってしまった。今日は金曜日、朝から新規プロジェクトの発足会議。

いつものように、簡単な朝食を食べて、7時に家を出る。

朝の田園都市線のラッシュは殺人的で、二子新地駅からは乗れないこともあるくらいに混んでいる。だからあえて時差出勤で7時ごろの電車に乗る。

この時間だと余裕に乗れる。会社へは8時ごろには到着するのでゆっくり休んで仕事に備える。勤務時間は9時から5時まで。

10時から会議が始まった。司会進行はプロジェクトリーダーの竹本室長が行い、説明はプロジェクトマネージャーの僕が行う。

事前に根回しができているので異論なく進行してゆく。ここが事前に根回しをするマネージャーの腕のみせどころ。

事前打合せと異なる意見を言うメンバーもいるが、そこはリーダーがうまく説得して決めてくれる。さすがリーダーだ。

会議はほぼ予定通りの1時間30分で終了した。やれやれ!

「岸辺君、ご苦労様。うまくいった。さすがだ。あとで慰労するよ」

「サポートありがとうございました」

「あと、会議録をまとめて、メンバーに確認しておいてくれ」

「了解しました」

一旦プロジェクトがスタートすれば、各メンバーが責任をもって分担を進めてくれるので、仕事の6割くらいは終わったのも同然。

あとは4半期ごとに進捗会議を開催して、進捗を管理・調整して、1年後にプロジェクトの成果を取りまとめて終了する。

ただ、プロジェクトがこれ1本なら楽だけど、これがあと4本同時に進行しているので、結構忙しい。それぞれの会議の日程調整だけでも随分手数がかかる。

会議を開催したら会議録を作り決定事項をまとめて全員に確認を取っておく。メモを取っておいて作成しなければならないので結構手数がかかる。

今日は会議の後、室長と今後の進め方についての打ち合わせ、その後、別のプロジェクトの進捗会議の日程の調整に時間がかかった。

午前の会議のメモをまとめて会議録の作成を始めたのが4時過ぎ。出来上がりを室長と擦り合わせて、ようやく完成。月曜日の朝一番でメンバーに持ち回って確認を取る。確認は早いに限る。

メールで送って返事をもらう方法もあるが、かえって時間がかかる。2~3日かかることもある。持って回れば2,3時間で終わる。

すぐにコピー室へ行く。今日はまだ7時前だ。あの地味子ちゃんがまたコピーをしている。今日は黒いスカートが黒いズボンに替わっている。

「がんばってるね」

「これは量が少ないので、すぐに代わります」

「いいよ、終わってからで」

「じゃあ、次の資料が終わるまで使わせて下さい。その後、使ってください。もう一つは量が多いので、終わってからにします」

「そうしてもらえると、またトラブルがあったらお願いできるから好都合だ」

「でもトラブルはめったにないんですけどね」

「結構、忙しそうだね」

「4半期ごとの決算の発表があるので、その準備の資料作りです」

「今日も遅くなりそうなの?」

「今日はこれで終わりです」

「じゃあ、昨日のお礼をさせてくれる? 夕食でもご馳走したいけどどうかな」

「悪いから、お心遣いは無用です」

「これから、またお世話になるかもしれないから。横山さんの帰り道によいお店ないのかな。家はどこの沿線? 最寄り駅は?」

知らない振りをして聞く。

「田園都市線の溝の口です」

「偶然だな、僕は田園都市線の二子新地」

「じゃあ、7時過ぎにビルの出口で待っているから、いいね!」

「すみません。分かりました」

溝の口か! 近くなので外勤の帰りに乗り換えに何回か降りたこともあるし、食事をしたこともある。行きがかりで、強引に食事に誘ってしまった。

地味子ちゃんと話しているとなんとなくほっとする。なぜかもう少し話をしてみたくなる。

もう社員のほとんどが帰った後だから、一緒に帰ったところで、方角が同じなので目立たないだろう。

入口で待っていると10分ほどして、リュックを肩に、地味子ちゃんが出てきた。

「すみません。お待たせして、帰りがけにまたコピーを頼まれてしまって」

「気にしないで、無理やり誘ってしまったから、もういいのかい」

「大丈夫です」

「じゃあ、行こうか」

「本当にいいんですか。ただ、コピーのつまりを直しただけで。業務の一環ですけど」

「遠慮しなくていいよ。本当に助かった。どこがいい?」

「じゃあ、溝の口に私がいつも行っている焼き肉屋さんがあるんです。高級ではありませんが、値段も手ごろで、どうですか?」

「いいね。焼肉か、食べたい。ここのところ仕事が忙しかったから、ばて気味でちょうどいい。そこへ行こう」

「先に歩いて、僕は歩くのが早いから、君について行く」

実際、地味子ちゃんと二人で歩いていても全く目立たない。地味子ちゃんに目を止める人もいない。地下鉄のホームをいつも乗る位置まで進んで行く。

僕の乗る位置と随分離れている。表参道の乗り換え位置も違っていた。これなら、同じ時間に電車に乗ってもなかなか合うことがない。

混んでいて電車の中では話ができない。二子新地から2つ目の溝の口で下車。

改札口を抜けて5分ばかり歩いた古い建物の2階にその店はあった。

「女の子が焼肉っておかしいでしょう」

「いやいや、肉食系が今はやっているから。近頃は高齢者には魚よりも肉を勧めているくらいだ」

注文は地味子ちゃんにまかせた。丁度二人分くらいを適当に頼んでくれている。飲み物は、僕は瓶ビール、地味子ちゃんはハイサワーを注文。地味子ちゃんもお酒を飲むんだ。

飲み物が運ばれてまず乾杯。しばらくして、肉が運ばれてくると焼いてくれる。

「ときどき無性に食べたくなるので一人で来て食べています。ここは昔から家族でもきていたところなんです」

「家族と一緒に暮らしているなんていいね。僕は天涯孤独だよ」

「私も同じようなものです。父は高校生の時、事故でなくなりました」

「交通事故かなんか? 大工だったんです。高いところから落ちてそれがもとで」

「そうなんだ。僕の両親は大学に入った年に交通事故でなくなった」

「そうなんですか」

「でもお母さんはいるんだろう」

「母は再婚しました」

「へー」

「母は幸せみたいで、良かったと思っています。休みの日なんかにお互いの家を行き来しています。唯一の家族ですから、頼りにしています」

「一緒に暮らせばいいのに」

「母と結婚した人はいい人でそう言ってくれますが、母の負担にならないように遠慮しています」

「それで、一人暮らしなの?」

「一人の方が気楽ですから」

「寂しくないの」

「所詮、人間一人ですから」

「そうだね。所詮人間は一人ぼっち。それが分かっていれば人とのつながりを大切にできる」

「私もそう思っています。肉が焼けました。食べてください」

「お客さんの横山さんもどんどん食べて」

「食べています。おいしい。元気がでます」

「朝は何時ごろに会社に来ているの?」

「電車が遅れることがあるので、それを見越して、絶対に遅刻をしないように少し早めに出るようにしています」

「朝のラッシュは殺人的だからね」

「溝の口は降りる人がいるので、なんとか乗れます」

「僕の二子新地はいっぱいで乗れないことがあるから、早めに出勤している」

「会社に着くのはいつ頃ですか」

「大体8時ごろ」

「随分早いですね。それじゃ駅では会いませんね。帰りは同じころが多いと思いますがお会いしませんでしたね」

「今まで気が付かなったかもしれないし、乗り降りするホームの位置が違っているからじゃないか」

「通勤にリュックを使っているみたいだけど?」

「ラッシュでカバンがつぶれるのでリュックにしてみました。帰りにスーパーで買い物をするので中に入れられますし、両手が使えますから便利です。一度使うと止められなくなりました」

「確かに便利そうだね」

「かっこいい岸辺さんには似合いません」

「そうかな」

それから会社のことで話が弾んだ。結構、会社のことは知っている。

この会社へ来たのは3年前、はじめは一階下の業務室にいて、総務部へ来てからほぼ1年になるとのこと。

僕のことはコピー室や廊下で見かけて知っていたそうだが、僕は地味子ちゃんには気付かなかった。

丁度二人でお腹が一杯になるくらいの量を注文してくれていたので残さず平らげた。なかなかおいしい肉だった。地味子ちゃんはハイサワーをおかわりしていた。

「お酒強いんだね」

「そうでもないですが、楽しい時は飲みたくなります」

「それはよかった」

「ありがとうございました。久しぶりです。誰かと一緒に食事をしたのは」

「僕も女性と食事をするのは久しぶりで楽しかった」

「お勘定、私も払わせて下さい」

「いいよ、お礼に誘ったのは僕だから」

「おいしくて楽しかったから、私も払います。こうさせて下さい。岸辺さんのお給料は私の何倍くらいですか?」

「うーん。おそらく2倍以上は貰っていると思うけど」

「それなら、岸辺さんが2、私が1だから、1/3払わせて下さい」

「どうしてもと言うのならそれでもいいよ。君のような娘は初めてだよ」

「死んだ父は、うまいものは自分の稼いだ金で食べる! といっていました。そう言って毎日仕事の帰りに居酒屋でお酒を飲んでいました。それを私と母がとがめると『てめえが働いた金で好きな酒を飲んでなにが悪い、会社の金や接待でただ酒を飲むのとは訳が違う』と怒っていました。今は父の言っていたことがよく分かります」

「お父さんはすごいね。それじゃあ、今日の焼肉はおいしくて楽しかったということでよかった」

「ごちそうさまでした」

勘定を済ませると地味子ちゃんはそのまま歩いて帰って行った。アパートはここから徒歩10分くらいのところだとか。

家まで送ろうかと言ったが、まだ早い時間なので大丈夫と言うのでその場で見送った。

不思議な子だ。話していても嫌みが全くなくてなぜか癒される感じがする。
午後2時ごろ、コピー室へ行った。また、地味子ちゃんがコピーをしている。

あれからよく会うのも何かの縁か? いや、気付くようになったからかもしれない。

「昨日はごちそうさまでした」

「いや、割り勘だからお礼は半分でいいよ」

「でも、楽しくておいしい食事でした。コピーを代わりましょうか?」

「いや、横山さんが終わってからでいいよ。特に急いでないから。でもコピーばかりしているみたいだね」

「皆さん忙しくて、コピーをする人がいないから、仕方ないです」

「この間、講演会に行ったら、コピーをしっかりできることも大事だと言う話を聞いたよ」

「どんな話ですか」

「今では超有名な日本人の外科医で難しい手術ができるので、米国と日本を行ったり来たりして引っ張り凧だとか。そのいきさつを聞くとアメリカンドリームの典型的な話だった。

若いころ、その人は私立大学の医学部卒で日本の大学では研究をろくにさせてもらえないので奥さんと米国の著名な外科の教授の研究室へ留学したとのこと。

留学先でも、給料が少なくて生活に苦労したが、教授の文献のコピーをいつも進んでしていたそうだ。

ぶ厚い製本してある医学雑誌をコピーするのは大変でいびつになったりするので難しかったが、できるだけきれいなコピーを心がけていたとか。

その真面目さ丁寧さに教授が気付いて、手術の助手をさせてくれたそうだ。

手術の助手をやっていると、器用さを認められて、難しい手術の助手もするようになり、ついに教授の代りに手術をするまでになったとか。

何でもないコピーでも一生懸命にしたことが今日につながっているとしみじみ話しておられた」

「ためになる話ですね」

「横山さんはパソコンはできないの?」

「パソコンはWord、Excel、Power Pointの基本的なことくらいはなんとかできます」

「それだけできれば十分だ。僕もその程度だから」

地味子ちゃんはコピーが終わって出ていった。自分のコピーを終えて席に戻ると、竹本室長が手招きしている。

「何か?」

「今日の晩、空いているか?」

「はい」

「久しぶりに慰労してあげるから、一杯やろう」

「分かりました。ありがとうございます」

「6時過ぎに例の居酒屋で待っているから」

「分かりました」

退社時間に二人一緒に連れだって帰るのは目立つので、二人で飲むときは居酒屋で落ち合うようにしている。

竹本室長は入社したときの直属の上司で8年先輩。研究所に配属されて右も左も分からない地方大学出身の僕に一から研究の仕方を教えてくれた。

僕が初めての部下だったので、一生懸命に育ててくれたのだと思う。

それに応えようとがんばって仕事をしたので、竹本さんの研究成果も上がり、5年前に本社へ異動になって、企画開発室長になった。

元々竹本室長の研究センスは抜群で目の付けどころが違っていた。研究の進め方もエレガント。

ただ、実験が雑で下手だった。僕がそこのところをサポートしてうまくまとめて報告書を作っていた。

昔から二人で飲むことが多く、いつも自腹でおごってくれる。

「お待たせしました」

「まずは一杯。プロジェクトご苦労様」

「ありがとうございます。いつも肝心なところをサポートしていただいて助かります」

「岸辺君が根回しを十分しておいてくれるので、スムースに事が運ぶ、さすがだ。本社へ来てもらってよかった。本部長が君のことを褒めていた。いつか調整が難しいことを愚痴っていたら、いつの間にか思う方向へ動かしていてくれた。不思議なやつだと」

「心あたりがあります。業界団体への役員の人選です。だれか自分の代わりがいないかなと言っておられたので、出たがりの某部長の部下で親しくしている先輩に頼んで話を進めてもらいました」

「なかなかやるね」

「もう転勤してから3年になりますので、ここに話をつければOKというキーパーソンが分かってきましたから」

調整先の部門では部長がキーパーソンとは限らない。もちろん部長のこともあるが、課長代理であったり、主任であったりする。

要するに一番詳しくて可否判断ができる人がキーパーソンになる。ここを根回ししておけば容易に回る。ただ、ここを説得しておかないと必ず会議で紛糾する。

「ところで、部下の吉本君はどう?」

「やる気もあってなかなか積極的で意見も言ってくれるのですが、僕と意見が違うと説得するのが大変です」

「あまり良い人材でないことは分かっていたけど、彼しか回せなかった」

「入社して2年なのでまだ頭が堅いみたいで、自分の意見を曲げないところがあって」

「そういう時には、始めにいろいろ意見を言わせるんだよ。他の方法もないかなとか言って、自分が考えている方法が出るまでいろいろ意見を言わせる。

出てきたところで、それは良い考えだとか言ってそれに決める。言った本人は自分の意見が通ったと思い、一生懸命にやるから」

「そういえば、室長も私にその手を使っていましたね」

「そうだったかな。人柄は真面目で悪くないから、育ててやってくれ。すべてを自分でやろうとしたら身体がもたない。部下に任せることもできないと上は務まらない」

とりとめのない話が続くが、ためになる話もしてくれるので、ありがたい。

お互いに付き合いが長く、気が置けない間柄なので気楽に話ができて、ストレス解消になる。

「仕事の上で何か希望でもある?」

「ううーん。できればアシスタント(助手)が欲しいですが」

「アシスタント?」

「会議の議論のメモをまとめて会議録を作ってくれたり、コピーをして資料を作ってくれるような」

「吉本君にさせればいいじゃないか」

「せっかくやる気になっているのに、コピー取りなどはさせたくありません。それに彼に頼むくらいなら自分でやった方が早いですから」

「それで」

「総務部にいつもコピーをしている女子の派遣社員がいるんですが、名前は確か横山。パソコンもできるというので、できればアシスタントにほしいのですが。

その程度の子でいいんです。アシスタントが居れば新しい企画を考える時間を作れますが、このままでは現状で精一杯です」

「分かった。総務部長は同期だから、聞いてみるか?」

「希望ですので、できればですが、お願いします」

あれから2週間後の金曜日、竹本室長が手招きしている。

「例の派遣の彼女、来週から君の部下になるから、よろしく頼むよ」

「ええ、彼女を採ってくれたんですか、ありがとうございます」

「契約の期限が近づいていたので、丁度良かったとのことだ。これがマル秘資料だ。見といてくれ。プロジェクトの方もしっかり頼むよ」

「分かりました」
月曜日に出社すると、指示したとおり、休みの間に机と椅子が配置されていた。

僕の席は企画開発室の一番端にあり、部下の吉本君と向かい合っていたが、これからは2人に指示が出しやすいように、僕の右前を吉本君、左前を地味子ちゃんの席にしてコの字型とした。

地味子ちゃん用のパソコンも1台、机の上に用意されている。これですぐに仕事を手伝ってもらえる。

8時半ごろに地味子ちゃんが企画開発室へ入ってきた。きょろきょろしているので、手招きする。

「おはようございます。今日からお世話になります。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく。来てもらえてよかった」

「指名していただいたみたいですが、お役に立てますか?」

「横山さんなら大丈夫だと思ったから。ただ、指名したのは内緒にしておいて、何かとまずいから」

「分かりました」

そうこうしていると、吉本君が出社して席に来た。

「吉本君、こちらが先週話していた横山さん、今日から僕のアシスタントに来てもらった」

「よろしくお願いします」

「よろしく。総務部にいたのかな、見かけたことがあるけど」

「そうです。私は派遣社員で総務部にいました」

「吉本君に言っておくけど、僕のアシスタントに来てもらったので、横山さんに仕事を頼みたいときは僕を通してくれ、いいね。横山さんもいいね。吉本君の仕事をするときは僕の許可を得てくれ」

これだけは言っておかないと、アシスタントにもらった意味がない。

吉本君はいいやつだがプライドが高くて、地味子ちゃんを顎で使うことになっては地味子ちゃんが困ることになる。対等な立場にしておかないといけない。

地味子ちゃんはほっとしたように僕の顔を見ている。

9時になったので、まず地味子ちゃんを室長に紹介した。

「室長、総務部から来てくれた横山さんです」

「室長の竹本です。岸辺君のアシスタントをよろしくお願いします」

「できるだけがんばります。よろしくお願いします」

室長は地味子ちゃんを見て不思議そうな顔をしていた。きっとなぜ僕が地味子ちゃんを指名したのだろうと考えていたのだと思う。

それから企画開発室のメンバーに紹介して回った。大きなチームがほかに3つあるので、それぞれのリーダーの席でチーム全員に紹介する。

地味子ちゃんを知っていて手で合図する女子社員もいたが、大概は型通りの挨拶。

企画開発室の女子社員は一人派遣の子がいるが、他は全員大学卒の正社員。

独身の男性社員も何人かいるようだが、地味子ちゃんには全く無関心だった。

それというのも、地味子ちゃんの服装はいうまでもなくとても地味。

黒のスーツに白のブラウス、髪は後ろで結んでポニーテイルにしている。

職場が変わったので、気を使ったのか、今日はまるでリクルートスタイル。

腕には幅広い革のバンドの男物の腕時計をしている。

化粧はしているが薄化粧で口紅も目立たない。それに大きめの黒縁のメガネ。

室長から地味子ちゃんの個人情報を受け取っていた。これは管理職だけのマル秘人事資料。

顔写真、氏名、生年月日、住所、電話番号、学歴、資格・特技、派遣会社名、社内勤務歴などが記載されているもの。高卒で生年月日から24歳、吉本君と同い年だった。

挨拶を終えて二人で席に戻る。吉本君は席にいた。

「今日、仕事が終わったら、横山さんの歓迎会をしたいけど、二人の都合はどう? もちろん、費用は僕が負担するから」

「わざわざ私のために申し分けありません。私は大丈夫ですけど」

「今日は人と会う約束があるんですが」

「吉本君、それは何時から?」

「7時です」

「それなら30分位付き合ってくれないか。今日を逃すともうできないから、場所は会社の近くのビアレストランにするから」

「30分くらいならいいですよ」

「それじゃ、5時になったらすぐに3人で行って始めよう」

「それから、横山さん、今日10時から、新規のプロジェクトの事前打合せをするので、3人で一緒に出席してほしい。打合せの議論をメモに取って会議録にまとめてもらいたい」

「そんな仕事、私で大丈夫ですか」

「大丈夫、僕もメモを取るから。そのメモもあとで渡すから、まとめてくれればよい」

「分かりました」

事前打合せは10時から昼頃までかかった。いろんな意見や要望が出た。

事前にこれをやってあく抜きをしておくと問題点や各部門の本音が分かって後の調整がやりやすい。

僕の取ったメモを地味子ちゃんに渡して、それから以前作った会議録を例に示してまとめ方を指示する。あとは地味子ちゃんにおまかせ。お手並み拝見だ!

午後1時から地味子ちゃんは自身のメモと僕のメモを見ながらパソコンで会議録を作り始めた。

3時ごろには一応完成したと見えてプリントアウトして読み返している。3時半ごろ、僕に会議録を見せた。

読ませてもらうと、よくまとまっている。それに発言も趣旨がよく捉えられている。最後に会議に出た意見のまとめまでしてあった。

ただ、プロジェクトの内容を理解していないので、つじつまの合わないところがあった。それはしかたのないことなので直した。

そして、再度プリントアウトしてもらって、吉本君にも内容を確認してもらったが、その正確さに驚いたようすだった。彼女を見る目が変わったみたいだった。

それから、室長のところへ会議録をもって今日の打合せの報告に行った。いつもなら、報告は次の日になるところだ。

報告しながら、会議録は地味子ちゃんが作ったことも話しておいた。そして地味子ちゃんをアシスタントに取ってもらったことのお礼を言った。

これで、今日の仕事はお仕舞い。あとは歓迎会。地味子ちゃんにねぎらいの言葉をかける。

「室長に会議録で報告しておいた。横山さんが作ったことも。いつもなら報告が次の日になるところなので、助かった。来てもらってよかった」

「要領が分かりましたので、次からは大丈夫です」

5時になると3人ですぐに退社。室長には歓迎会をすると言っておいた。

ビアレストランにはまだ客がほとんどいない。奥の方のテーブルに席を取って、生ビールを注文して、あとソーセージなどのつまみを注文。

ビールが来たのですぐに乾杯。

はじめに3人が改めて自己紹介。

吉本君は横山さんと同い年と分かって気おくれしたのかあまり話さない。そして5時40分くらいに次の約束のために退席した。

「今日はまだ月曜日だから6時半には終わりにしよう。それまでならいいね」

「6時半なら、総務部にいたらまだ仕事をしている時間です」

「残業代が少なくなるかもしれないけど悪いね」

「心配ご無用です。それよりもちゃんと仕事をさせてもらえて嬉しいです。私専用のパソコンまで用意してもらってありがとうございます」

「でもコピーも頼むよ」

「もちろんです」

「会議録の出来は抜群だよ、僕が作るよりも正確だ。これなら安心して任せられる。メールもできる?」

「できますが」

「会議の打合せの日程調整に随分時間がかかって大変なので今度調整を頼む。要領を教えるから」

「やってみます」

地味子ちゃんは生ビールのお代わりをした。少し酔ったみたいで頬が赤くなっている。

「岸辺さんはお付き合いしている人はいないんですか?」

「残念だけどいない。本社へ転勤になってしばらくして取引のある会社の女性と付き合ったことがあるけど別れた。それからずっと彼女なし」

「総務部に女子の派遣社員が私のほかに二人いるのですが、岸部さんのことをよく知っていて、カッコいい独身のエリートの部下になるんだ! と羨ましがられました」

「どこがかっこいい?」

「スーツもカッコいいし、ネクタイもセンスがいいし、それにそのカバンもブランドでしょう」

「特にブランドに拘っているわけじゃないけど、良いものを選んではいる。その方が飽きが来ないし、長持ちすることが分かっているから。このスーツも4年前のものだよ。

それに、僕はエリートなんかじゃない、地方大学出身だし、吉本君のような有名大学を出ているわけでもない。仕事も精一杯で何とかこなしているだけ」

「女子は見る目がシビヤーなんです。出身大学じゃなくて仕事ができるかを見ているんです。将来性を見ているんです」

「はたから見ていて分かるもんなの」

「分かります。仕事ができる人は相手の気持ちや立場が分かってうまく仕事を進めています。それに他人への心遣いができます」

「そういうもんかね。僕は強引に進めたいといつも思っているけどなかなかうまくいかなくて、調整ばかりしている」

「岸辺さんは仕事の進め方が上手だと思います。会議に出て分かりました。室長も一目置いているのではないですか?」

「入社以来の長い付き合いなので信頼はされていると思っているけどね」

仕事の話などをしていたらすぐに6時半になった。

地味子ちゃん自身についての話をもっと聞きたかったが、うまくこちらの話をさせられた。なかなかの聞き上手だ。

だらだらと飲むのは嫌いな方なのでここらで切り上げる。お腹も一杯。

帰る方向は同じなので、一緒に帰る。ほろ酔い気分で電車に乗ったが、丁度帰りのラッシュで車内ではもうとても話などできない。目で合図して二子新地で下車した。

地味子ちゃんは鋭いところがある。「ブランド好き」と言われたときは驚いた。正直、ブランドは嫌いではない。

高校に入った時に、父が海外出張の土産にブランドのベルトを買ってきてくれた。

バックルにブランドのロゴが入っていて、学校で随分羨ましがられたので、ブランドは凄いと信じ込んでしまった。

就職してからはお金に余裕があるのでブランドを買っていた。確かに品質がよくて長持ちする。

ただ、ずっとほしかった有名ブランドのカバンを買ったが、使ってみると必ずしも実用的でないことが分かった。

それからは、品質にはこだわるけど、ブランドには特に拘らなくなっている。今、気に入って使っているカバンは実用的で品質も良い。ブランドと言えばそうだが日本の老舗の製品だ。

今日も近くで話したが、地味子ちゃんはメガネが邪魔をしていて顔が良く分からない。全体的にはバランスがとれているような顔なので結構可愛いのかもしれない。

近くで見ると、目が優しいし、鼻筋がとおって、口元も可愛い。まあ、今日は地味子ちゃんの歓迎会ができてよかった。
地味子ちゃんがアシスタントに来てくれてから1か月ほど経つが、仕事が随分楽になった。

プロジェクトの会議録は正確でその日のうちに出来上がる。次の日には確認に回れる。

忙しい関係者を集めての面倒な会議の日程調整もしてくれて、会議室も確保しておいてくれる。

それで僕は各担当との調整や根回しに専念できて、新しい企画について室長と相談する時間もとれるようになった。

だから、ここのところ仕事はほとんど定時に終わるようになっている。でも地味子ちゃんの残業が無くなった。

「残業が無くなって給料が少なくなって申し訳ないね」

「毎日仕事が楽しいので構いません。コピーだとお金をいただかないとやれませんから」

「それもそうだけど」

「いろいろな仕事をさせてもらえて嬉しいです」

「明日、大学の先生のところへ研究委託の打合せに行くけど、一緒について来てくれないか。代わりに行ってもらうこともあるから先生に紹介しておきたい」

「分かりました。場所はどこですか?」

「神奈川県の日吉で少し遠いけど、アポは3時だから、午後1時過ぎに出かけよう」

「都内でないので日帰り出張扱いになるから手当が少し出るけど」

「ありがとうございます」

「先生との打合せメモの作成と帰ってからの出張旅費の手続きをお願いしたい」

「分かりました」

研究所だけでは手が回らないので、新しい素材の開発を大学に委託している。プロジェクトの準メンバーといったところ。

予算を取るのが大変だったが、私立の大学は学生さんが多くて人手があるので結果は必ず出してくれる。

ただ、確実な成果を得るためには事前打合せとフォローが欠かせない。

今日は幸い天気も良い。地味子ちゃんも気分転換になるだろう。室長に大学へ打合せに出かけることと直帰することを話した。

午後1時過ぎに会社を出発して、約束の30分前に大学に到着。

大学のキャンパスは広いので入口から先生の部屋まで結構時間がかかる。部屋の前で時間を調整して丁度3時にノックして部屋に入る。

打合せは30分くらいで終えた。この程度で切り上げないと忙しい先生に迷惑がかかる。地味子ちゃんがメモを取ってくれていたので、打合せに集中できた。

まだ、4時前なので、学生ラウンジへ行って、一休みすることにした。コーヒーを二人で飲む。

「お疲れさん、メモのまとめ頼むね」

「分かりました。大学教授って普通の人ですね。怖い先生かと思っていました」

「そう、いたって普通。大体、変わった人は教授になれないから、安心して普通に話ができる」

「大学のキャンパスっていいですね」

「活気もあるけど、ゆったりしていて、落ち着く。僕も好きだ。学生時代が懐かしいよ」

「私も大学へ行きたかったです」

「大学へ進学しなかったのは、お父さんが亡くなったから」

「はい。成績も悪くなかったので、母は進学を勧めてくれましたが、苦労をかけたくなかったので、高校を卒業してすぐに就職しました」

「僕は大学1年の時に両親が交通事故に遭って亡くなってしまった。幸い保険金があったので、なんとか卒業できたけど」

「パソコンはいつ勉強したの?」

「就職してからです。前の会社にいるとき、廃棄するパソコンを貰って、独学しました。会社がパソコンの専門雑誌をとっていたのですが、私が雑誌類を整理する係だったので、廃棄するその雑誌を家に持ち帰って、休みの日に初心者向けの記事を試しながら覚えました」

「随分努力家なんだね」

「パソコンくらいできないといけないと思って頑張って覚えました。でも、ようやく役に立ちました。覚えておいて良かったです。分からないところは、会社で聞いたり、操作するところを見させてもらいました」

「総務部ではパソコンを使った仕事はしなかったの?」

「総務部では来客へのお茶の接待とコピーなどが忙しくて、そこまでさせてもらえませんでした。それに自分専用のパソコンがなかったですから」

「うちの企画開発室もパソコンの専門雑誌をとっていたから、時間が空いた時に読んで最新の情報を教えてくれる? 僕もなかなかついて行けてないから」

「ありがとうございます。そうさせてもらいます」

「じゃあ、今日は直帰ということで、ここらで引き上げるとするか。同じ経路だから、南部線経由かな?」

「それが便利です」

「溝の口は交通の便がいいね」

「昔から住んでいますが、会社が変わっても転居せずに何とか通勤できますので、意外と便利です」

「アパート住まいなの?」

「かなり昔に父が建てたというプレハブのアパートに住んでいます。近くに住んでいる大家さんが知り合いで、駅からも少し遠いので、家賃を安くしてもらっています」

「会社からの補助もないから大変だね」

「仕方ないです。でもなんとか一人で暮らしていけるので満足しています」

溝の口駅で乗り換えたが、地味子ちゃんは嬉しそうに直帰した。

夕食を誘いたかったけど、無理強いするみたいで遠慮した。直属の部下だと気を遣う。
木曜日の朝、8時に会社に着いて一休みしていると電話が鳴った。朝早くから何の電話?

「おはようございます。岸辺さんですか」

「横山さんか、どうした」

「昨晩から熱があって、今日一日休暇をお願いします」

「分かった、大丈夫か? ゆっくり休んで」

「大丈夫です。すみませんがよろしくお願いします」

声に元気がない。そういえば、昨日帰るころも元気がなかった。風邪でも引いたのか? 

部下になってから2か月になるが、今まで、一日も休んだことがなかった。若いからすぐに元気になるだろう。

翌日の金曜日にも朝、電話があり、地味子ちゃんは2日会社を休んだ。少し心配になった。

万一のことがあったら大変だから、帰りに寄ってみようと思って、室長に事情を話し、5時になるとすぐに退社した。

住所は分かっているので、WEB地図で位置を確認した。溝の口駅から徒歩で15分くらい。地味子ちゃんがどんな生活をしているか知りたい好奇心もあった。

駅でお弁当を2つとフルーツを買ってアパートへ向かう。2階建ての古いプレハブのアパートが見つかった。

2階の端の201号が地味子ちゃんの部屋だ。明かりが点いている。携帯に電話を入れる。

「横山さん、岸辺だけど、心配なのでアパートの前に来ているけど、見舞いに行ってもいいかな」

「ええ・・・ご心配は無用です。大丈夫ですから」

「せっかく来たので、無事を確認したいから顔だけ見せてくれ。お弁当を買ってきたので渡したい」

「分かりました。2階の端の部屋です」

ドアをノックすると、トレーナー姿の地味子ちゃんがドアを開けてくれた。相変わらずの分厚い黒縁メガネ。

ドア越しに僕の顔を見るとめまいがしたのか、よろけた。手を伸ばして身体を支えた。

「大丈夫? 入ってもいい?」

地味子ちゃんは力なく頷くので、身体を抱きかかえながら、部屋に入った。

1DKの造り、部屋は古いが手入れがされてきれいに整っている。

6畳間に布団が敷いてあった。そこへ寝かせる。額に手を当てるとかなり熱が高い。

「熱は何度あるの?」

「朝、計ったら39℃ありました。夕方も同じでした」

「冷やしている?」

「アイスノンが融けてしまってそのままです」

「少し冷やした方がいい。氷はあるの? 冷蔵庫を開けるよ」

冷蔵庫を開けると中はきちんと整理されている。

製氷器から氷を取り出して、氷水でタオルを冷やして、それを額に当ててやる。

「冷たくて気持ちがいいです。ありがとうございます」

「医者へ行ったの? 薬は飲んでいる?」

「行っていないです」

「こんな高熱が出ているのに行かなきゃダメだ。今日はもう無理としても、明日の朝行かないとだめだ。咳は出てないから肺炎ではないとは思うけど」

「すみません」

「いつも携帯している解熱鎮痛薬があるから、これを飲んでみて」

地味子ちゃんはしぶしぶ薬を飲んだ。しばらくすると眠ったみたい。

どうしようこのままにして帰る訳にもいかない。壁に寄りかかっていると眠ってしまった。

「岸辺さん」と呼ぶ声で目が覚めた。

「すみません。眠ったみたいで、少し楽になりました」

「ごめん、僕も眠っていたみたいだ」

「熱を測ってみよう」

熱を測ると37℃まで下がっていた。時計を見るともう10時だった。

「買ってきた弁当を食べないか」

「いただきます。今日は何も食べてなくてお腹が空きました」

「お湯を沸かしてお茶を入れてあげる」

「すみません。お願いしていいですか」

お茶を入れて二人で弁当を食べる。二人共、お腹が空いていたので夢中で食べた。

手を洗ってから、持ってきたリンゴの皮を剥いてカット、キュウイを剥いてカット。

「器用ですね」

「これくらいできるさ」

「ありがとうございます。男の人に果物を剥いてもらったのは初めてです。いただきます。・・・・おいしいです」

「よかった。早く元気になってくれ」

「あのーお願いがあるんですが、聞いてもらえますか?」

「いいよ。何?」

「心細いので、どうか今晩泊まってもらえませんか? お布団はもう1組ありますので」

「ううん、心配だからそうしようか。部下の面倒を見るのも仕事のうち、室長にも訪問すると断ってきたから、いいだろう」

それを聞くと、地味子ちゃんは少しよろけながらトイレに立った。

部屋を改めてみると家具は少ないが、清潔感があり、さっぱりしていて落ち着く。

小さな机の上にラップトップのパソコン、また、本箱にパソコンの雑誌も並んでいた。地味子ちゃんらしい地味な部屋になっている。

戻ってくると、よろけながら押入れから布団を出してくれた。それを地味子ちゃんの横に少し離して敷いた。狭い部屋は布団で一杯になった。

「すみません。眠らせて下さい」

布団に横になるとメガネを外してすぐに眠ってしまった。どんな顔をしているのか、寝顔を覗き込んだ。

目をつむっているが、寝顔が思っていたよりも随分可愛い。

あの太い革のベルトの腕時計も外していたが、そのあたりに刃物で切ったような傷跡があるのに気が付いた。

手首を切った痕かもしれない。腕時計で隠していたんだな。知らないふりをしよう。

明かりを落として布団に横になると眠ってしまった。

習慣からか6時に目が覚めた。

起きるとすぐに寝ていた布団を畳んで押入れにしまった。これでまた部屋が広くなった。地味子ちゃんはまだ眠っている。

そっと額に手を当ててみるが、まだ熱がある。やはり医者へ連れて行った方が良い。

地味子ちゃんが目を覚ました。すぐにメガネをかける。

「おはようございます。泊まっていただいてすみません。よく眠れてだいぶ良くなりました」

「まだ、熱があるみたいだから、9時になったら近くの医者に行こう」

「すみません。行って診てもらいます」

「もう少し横になって休んでいて、8時になったら冷蔵庫の中のもので簡単な朝食を作るから」

8時になったので、牛乳を温めて、パンをトーストして、卵をゆでて、簡単な朝食を作った。

男の作る朝食は簡単極まりない。地味子ちゃんは何も言わずに食べていた。

それから9時にタクシーを呼んで、地味子ちゃんが行ったことがあるという駅前の医院へ連れていった。

診断は風邪だった。薬を貰って、コンビニによって昼食用にサンドイッチやおにぎりを買って、またタクシーで帰った。

帰るとすぐに地味子ちゃんに貰ってきた薬を飲ませて、布団に寝かせた。地味子ちゃんはしばらく眠った。

昼前には、熱もほぼ平熱まで下がっていたので、昼食を食べたら帰ることにした。

地味子ちゃんはサンドイッチを、僕はおにぎりを食べていると、玄関の鍵を開ける音がする。誰か入ってくる。

「母です」

「はじめまして、岸辺さんでしょ。美沙の母親の野上咲子です。娘がお世話になっております」

「はじめまして、岸辺です。横山さんが熱を出して会社を休んでいたのでお見舞いに来ています」

「美沙が話していたとおりの素敵な方ですね。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。娘が病気で休んでいることは知っていましたが、私もどうしても離れられない用事がありましてようやく来てやることができました」

「僕は何の役にも立っていません」

「そんなことはありません。娘は随分安心したと思います」

「それではお母さまが来られたのでこれで失礼するよ。月曜日は無理して出勤することはないから、火曜日からでもいいからね。朝、連絡を入れてくれればいい」

「私のためにわざわざお見舞いにきていただいて、その上こんな汚いアパートに泊まってまでいただいて、本当にありがとうございました」

母親が訪ねて来るとは思わなかった。でも地味子ちゃんの母親らしい感じのいい人だった。これで、母親に任せて一安心。

やれやれ部下の世話も大変だけど、地味子ちゃんといるとなぜか心が休まる。

帰って風呂に入ってゆっくり寝よう。疲れた!

地味子ちゃんは月曜日から出社した。元気になったみたいで良かった。
木曜日の午後からなぜか身体がだるくて、仕事に集中できない。

幸い今日の午後は会議もないので、早退することにした。

室長に断って午後の休暇届を出す。吉本君と地味子ちゃんに仕事の指示をして退社。

帰ったらすぐに寝たいので駅前のコンビニで弁当を買った。明日の朝食は冷蔵庫とストッカーに何かあるのでそれを食べれば良い。

家で熱を測ると38℃あった。手持ちの解熱鎮痛剤を飲んでベッドに横になるとすぐに眠ってしまった。

気が付くともうすっかり暗くなっていた。8時か。熱を測ると37℃。解熱薬で少し下がったようだ。買ってきた弁当を食べてまた眠る。

夜中に目が覚めて、体温を測ると39℃あった。解熱剤をまた飲んで、アイスノンを冷凍庫からとりだして頭を冷やしてまた眠った。明朝、まだ熱があったら休んで医者へ行こう。

習慣で目が覚めたら6時。体温を測ると39℃ある。身体がだるくて、節々が痛い。インフルエンザ? 地味子ちゃんからうつったかも。

9時前に会社に電話する。地味子ちゃんが電話に出たので、休暇届を出すことと今日の仕事の指示をした。

今日の金曜日には午後からプロジェクトの進捗会議を設定してあった。

進捗会議は各担当がそれぞれの進捗状況を報告して情報を共有するための会議で、何かを決めることもないので気楽な会議だ。

司会はプロジェクトリーダーの室長が行う。説明はプロジェクトマネージャーの僕が行うことになっていた。

会議に使う資料はすでに地味子ちゃんが作って完成していた。室長のところへ資料を持って行って室長に内容を説明して指示を仰ぐように言っておいた。

9時になるのを待って、駅前の医院へ歩いていった。

風邪の診断だった。薬をくれた。帰りにコンビニに寄って、おいしそうなケーキや飲み物を買った。家に着くと貰った薬を飲んでまた眠った。

気が付いたら3時だった。お腹が空いたので、買ってきたケーキを食べた。冷えたポカリがおいしい。

ここのところ、仕事が忙しかったので、疲れが溜まっていたのかもしれない。また、眠った。

6時半ごろに携帯が鳴って目が覚めた。地味子ちゃんからだ。

「岸辺さん、調子どうですか」

「熱が下がらないので、1日寝ていた。医者へ行って薬を貰って飲んだからじきに良くなると思う」

「お見舞いに来ました。マンションの入り口にいます。ドアを開けて下さい」

「ええ…お見舞い、分かった、開けるから。部屋は3階の309号だ」

ドアのチャイムが鳴ったのでドアを開けると、地味子ちゃんがレジ袋を提げて立っていた。「失礼します」と靴を脱いで上がってくる。

リビングに荷物を置いて、キッチンを見て「休んでいてください。夕食に何か作ります」と料理を始めた。

「気になさらないでください。上司の様子を見に来ました。室長に許可を得ていますし、住所も教えてもらいました。私の風邪をうつしたみたいで申し訳ありません」

「横山さんも誰かにうつされたんだろう」

「吉本さんかもしれません。先々週、身体がだるいとか言って、1日休んでいましたから」

「我がチームは、はやり風邪で全滅か! ところで、進捗会議どうなった? 報告だけだから問題はなかったと思うけど」

「はい、岸辺さんに言われたとおり、室長のところへ資料を持って行って説明しました。そして岸辺さんに室長の指示を仰げと言われていますといったら、資料を作ったのは私だから説明役をしなさいと言われました」

「それでどうなった?」

「いつも岸辺さんがしているように説明しました」

「それで」

「滞りなく会議は終わりした。会議録をすぐに作って室長に提出してきました」

「室長はなんか言っていた?」

「岸辺君がいなくても大丈夫だな! といっておられました」

「それは言い過ぎだと思うけど、まあ、うまくいってよかった」

「消化の良いうどんにしました。食べてください。食欲はありますか?」

「お腹は空く。いただきます」

うどんはだしが効いていておいしい。味付けが良い。地味子ちゃんも食べている。

「おかわりある?」

「食欲があるから大丈夫みたいですね」

お腹が一杯になると元気が出てきた。地味子ちゃんのお陰だ。熱を測ると37℃。地味子ちゃんは、後片付けをしてくれた。

それから部屋を一回りしてから、ベッドのそばにある一人掛けのリクライニングソファーに腰かけた。

10畳くらいの生活スペースには、家具と言っても、他には大型テレビ、パソコン用の机と椅子、大きめの書棚、座卓しかない。

それに少し大きめのセミダブルのベッド。これくらいの大きさがあるとベッドの上で1日過ごせる。

「この一人掛けのソファー座り心地が良いですね」

「外国製で値段も相当したけど、これに座ってテレビをみるといつのまにか眠ってしまう。椅子とベッドは休息に使うから納得のいくものにしている」

「やっぱりブランド好きですね。このお部屋も広くて良いですね、お家賃も高いでしょう」

「本社に異動になった時に独身寮から引っ越した。家賃を会社が1/3払ってくれると言うので少し高いけど良い物件を選んだ。広めの部屋だとゆったりできる」

「彼女が来ても良いように?」

「ううんーまあ、それもあるかな。でも残念ながら誰も来たことがない。横山さんがはじめてだ」

「女の人が独身男性の部屋に行くときは相当な覚悟をして行きますから」

「相当な覚悟ね!」

「私が来たのは業務の一環ですから、誤解しないでください。室長にも断ってきましたから」

「分かっているよ」

「確かに、女性の痕跡が全くありませんね。それに彼女がくるのに本棚にアダルトビデオなんか置いていませんよね!」

しまった! 本棚に10巻ほどビデオを並べているのを忘れていた。地味子ちゃんは目ざとい。しっかり、見られたみたい。困った。

「会社で女の子に言いふらすのだけはやめてくれ。健康な独身の男なら誰でも持っているよ」

「大丈夫です。言う訳ありません。だって、ここへ来たのは室長しか知りませんし、誤解されると困るので他言はしません。安心してください。でも私も興味があるので貸してください」

「もう、勘弁してくれ、熱が上がりそうだ」

「へへ・・・」

「ここに引っ越してから何度も風邪で寝ていたけど、来てくれたのは横山さんが初めてだ。本当にありがとう」

「彼女がいたって前におっしゃっていましたよね。看病に来てくれなかったのですか」

「ああ、風邪だと言うと、うつるといけないから治ってから会いましょうとか言われた」

「そういえば、私の元彼も風邪で寝込んでいた時に見に来てくれなかった。大事な仕事があるからとか言って」

「僕も彼女が風邪で寝込んだと聞いた時、お見舞いに行かなかったけど」

「彼女は一人暮らしだったのですか?」

「いや、両親と同居していた」

「それなら行く必要がありません」

「そうだけど」

「本当にお付き合いしていたんですか?」

「彼女の家まで行って両親に紹介されたくらいだから付き合っていたといってもいいんじゃないか」

「そこまで進んでいるのなら、なぜ来てくれないのか私には分からない。私なら泊まり込んででも看病しますけど」

「横山さんの言うとおり、別れた理由はその辺にあったと思っている。本社に来てしばらくしたころ、提携先の会社を打合せで訪問した時に、頼まれて合コンに出ることになった。

そこで彼女と知り合った。彼女は有名大学を出ていて美人で良家のお嬢さんと言うか、気立て良い優しい子だった。僕は一目で彼女が気に入った」

「品質重視でブランド好みの岸辺さんらしいです」

「どういう訳か、彼女も僕のことが気に入ってくれて付き合いが始まった。彼女は3姉妹の末っ子で、姉2人は結婚していた。付き合って3か月くらいで家に招かれて両親に紹介された。

奥沢にある大きな一戸建てだった。父親は商社の取締役で、我が家とは雲泥の差。天涯孤独だと言ったら構わないと言われた。結婚したら娘さんとの同居を望んでいたのかもしれない」

「婿養子を考えていたのかもしれませんね」

「僕は彼女を大切にして付き合った。デートの場所やレストランにも気を遣った。プレゼントにお金も使った。そして男女の関係にもなった。素敵な娘と付き合うのが嬉しかった。

でも段々付き合うのに疲れて来た。気を使うのはいつもこっちで彼女はそういうのに慣れていた。僕の気遣いが当たり前で、確かに病気の看病にも来てくれなかった」

「そこが私には分かりません」

「そんな一方的に気を使う関係がいやになってきて別れを切り出した。彼女は突然の別れ話に驚いて泣いた。

彼女には僕が別れたいと言う理由が理解できなかった。彼女は悪くない、当たり前に自然に振舞っていただけだった。彼女には本当に悪いことをしたと思っている」

「岸辺さんは悪くない。元々相性が合わなかったのだと思います」

「僕が悪かったんだ。それからは女性との付き合いができなくなった」

「私は今の話を聞いて元彼とは別れてよかったと気が楽になりました」

「彼はきっと悔いていると思うよ」

「岸辺さんは優しすぎる。もう少し我が儘に、自分に正直になった方が良いと思います」

「僕には僕の生き方しかできないから」

「私だったら別れたいと絶対に言わせなかったと思う。こんな良い人に!」

「慰めてくれてありがとう」

地味子ちゃんは本当に聞き上手だ。風邪で弱気になっていたのか、こんな話をしてしまうとは。ビデオも弱みだけど、誰にも話してないことまで言ってしまった。

地味子ちゃんだから安心して話せたのかもしれない。聞いてもらったら、いままで持ち続けた鬱積がなくなって少し楽になった気がする。

気立ての良い子より、苦労した子が頼りになる。好きな子より好きになってくれる子がいい。

9時前に地味子ちゃんは明日のお昼にまた様子を見に来ると言って帰って行った。明日にはもう少し回復しているだろう。

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土曜日の朝、熱を測ったら37℃だった。ここまで下がってきたから、明日の日曜日一日あれば回復できるだろう。

お昼に地味子ちゃんがまた来てくれた。すぐに部屋の中をひととおり見て回っている。

「お弁当を作ってきました。多めに作ってきましたので、夕食もこれで済ませて下さい」

「ありがとう、弁当を買いに行かなくてもいいから、助かるよ」

「そのうち、食事をご馳走するよ」

「気にしないでください。私の看病をしていただいたお礼です。心細かったのでとっても嬉しかったです」

「AV片付けたんですね」

「もう、それを言ってからかわないでくれ。だから片付けた」

「本棚に『史記』という本がシリーズでありますが、確か中国の歴史の本ですよね」

「そう、先輩から勧められて1巻だけ買ってみたけど、結局7巻まですべて買ってしまった。もう3回くらい繰り返し読んだかな」

「おもしろいですか?」

「紀元前の中国の王朝の栄枯盛衰の歴史だけど、それに絡んだ国王と家臣の信頼、忠義、嫉妬、親子の情愛、男女の憎愛などがリアルに描かれている。

紀元前の大昔から人間は全く変わっていないとつくづく思ったし、人間はどう生きるべきかを考えさせられた」

「私も『菜根譚』(さいこんたん)という中国の古い人生訓をまとめた本をネットで見つけて読みましたが役に立っています」

「それなら僕も持っている。本棚にないかな?」

「ありました。読んだのですか?」

「ああ2回くらい繰り返し読んだかな、でも納得できない箇所がまだ相当にある」

「私は気持ちが落ち込んでいる時に読んだので、随分助けられました。同じ本を読んでいたなんて思いもしませんでした」

「AVばかりを見ている訳じゃないから、本棚はチャンと見てほしいよ!」

「ごめんなさい。岸辺さんのこと見直しました」

それから、持って来てくれたお弁当を二人で食べた。

また、高熱で汗をかいていたに違いないから着替えをした方が良いと言うので、下着などを着替えた。

そして、またひと眠りした。地味子ちゃんはその間に溜まっていた衣類を洗濯してベランダに干してくれたみたい。

僕が昼寝から目覚めるのを待って帰っていった。ありがとう。助かった。
地味子ちゃんが部下に来て3か月経った。仕事も覚えて来て、任せられることも増えた。吉本君よりも気が利くし頼りになる。

ブランド品よりも実用品、学歴より実戦力。

ただ、これを露骨にすると吉本君も気分が悪いだろうと、心がけている。地味子ちゃんもそれが分かっている。

ここへ来てからは、会議録を作ってもらうためでもあるが、会議にはすべて出席してもらっている。だんだんプロジェクトの内容も理解してきている。

現在5件走っているプロジェクトの各会議のスケジュールの一覧表を作ってくれた。これで会議の日程調整を間違いなく開始できるようになった。

僕の作った資料も地味子ちゃんに見てもらっている。客観的に読んでもらって意見を聞くこととミスタイプのチェックのため。

判断を迷うと地味子ちゃんの意見を聞くこともある。地味子ちゃんは僕と違って、少し離れたところから見ているので、参考になる。

当事者は意気込みが強すぎて感情的になるきらいがある。

僕は部下には、意見を聞くと自分の意見を言ってくれるが、一旦決めたことには従って実行してもらいたいと思っている。

その点、地味子ちゃんはいろいろ意見を言ってくれるが、こちらが判断して決めたことはそのとおりに一生懸命に実行してくれる。

吉本君は自分の意見と違うことには消極的でそれを納得させるのに手間がかかる。

それで、吉本君の言うとおりにやらせてみて、うまくいかなくなって相談に来るまで待たなければならない。

室長に言われたようにいろいろな意見を求めても頭が堅いところもあり、僕が求めている意見がなかなか出てこない。

部下を育てるのは時間と手数と根気が必要だ。

仕事はできるだけ定時に終わらせるようにしている。

大体、遅い時間になると調整や交渉する相手が退社したり疲れてきたりして能率が悪い。

だから、地味子ちゃんの残業もほとんどない。総務部にいるときより給料が少なくなっているのは間違いないが、それを言うと仕事が楽しいから気にしなくてよいという。

総務部にいたころよりも会社に役に立つ仕事をしてくれているのに申し訳ない気持ちになる。でも、してもいない残業手当を付けるわけにもいかない。

なんとかしてやりたいので、思い切って室長に相談した。

「横山さんはとても役に立ってプロジェクトも順調に進んでいますが、総務部にいた時より残業時間が減って給料が少なくなっています。少しでも報いてやりたいのですが、なんとかなりませんか」

「横山さんが来てから随分能率があがっているのは承知している。この間、君が休んでいた時の会議もそつなくこなしてくれた。いくら上げてやれば良いのかな」

「残業時間で20時間くらい、金額では3万円くらいで良いかと思います。他の派遣社員とのバランスもあると思いますので」

「年間で36万円増か、分かった。室長の裁量でできるから、任せてくれ」

「できるんですか?」

「派遣社員の経費は企画開発室の予算の委託費に含まれている。研究委託費と同じだ。だから予算内であれば、室長に決裁権がある。人事には業務が増えたと言って、契約をし直せばいいから」

「ありがとうございます」

「そのうち人事を通して派遣会社から本人へ連絡があると思うから、本人と業務の増加内容について口裏を合わせておいてくれ」

「分かりました」

席に戻ると、地味子ちゃんに業務内容が変わってきたので室長と相談して契約をし直すから給料が幾分上がるかもしれないと話した。

地味子ちゃんは給料が上がるより、室長に仕事を認めてもらえたことが嬉しいと言った。

それから2週間ほどたって、派遣会社の担当者が地味子ちゃんを訪ねてきて業務内容の打合せをしていた。

終わってから嬉しそうに小さな声で僕に耳打ちをする。

「お給料上げていただきました」

こちらも小声で聞く。

「いくら上がった?」

「月額3万5千円です」

「前の残業手当と比べてどうなの?」

「こちらの方が少し多いです。ありがとうございます」

「室長にも目立たないようにお礼を言っといて」

「分かりました」

地味子ちゃんはすぐに室長にお礼を言いに行った。これにて1件落着!