*
「君、学校はどうしたの?」
「ちょっと、寝坊した」
目の前にいる女神様に、僕は軽い口調で答えた。
僕が家を出てからすでに十五ぐらいが過ぎており、時間は午前九時七分ころだった。家を出て僕はまっすぐ学校には行かず、銀行でお金を七十万ほど下ろしてから、神社に寄っていた。
「ダメじゃない、寝坊したら」
軽く笑いながら、女神様は諭すような口調で言った。
「あんたには、関係ないだろ」
僕は、冷たい声で言った。
「まぁ、そうですけど」
そう言って女神様は、苦笑した。
「それで、今日はどんな願いをかなえに来たの?」
女神様は、細い首をわずかにかたむけて訊いた。
「四年間会ってない父親に、家に戻って来てほしいんだ」
「父親?」
僕の言葉を聞いた女神様が、眉を寄せた。
「うん。四年前に新しい仕事が決まってから、一度も家に帰って来てないんだ」
「離婚ってこと?」
女神様は、心配そうな顔で僕に訊いた。
「いや、父親からの連絡こそなかったが、離婚はしてなかった。ずっと、別居だった」
「そうなんだ」
女神様は、静かにそう言った。
「でも今朝、父親から離婚届が家に送られてきたんだ。手紙と一緒にね」
僕は送られてきた父親からの離婚届と手紙を思い出して、奥歯を噛みしめた。
今までしっかり僕たちに毎月生活費を送っていた父親には感謝しているし、父親が母親以外の女性のことを好きになるのも、この別居した家庭環境だったら攻めるつもりはなかった。しかし、もう一度前のように家族三人なかよかった家族にプレイバックしたい。
「父親に会いたいってのが、願い?」
「違う。父親がもう一度家に戻ってきて、家族三人なかよかった家庭に戻りたいってのが願い」
僕は、首を左右に振って言った。
僕の脳裏に、家族三人なかよかった記憶がよみがえった。
「かなえてあげれないこともないけど、そんな願いをかなえても結局辛くなるのを先に引き伸ばしてるだけだよ」
「え、どういうこと?」
女神様の言葉を聞いて、僕は早口で聞き返した。
「離婚届が送られてきたということは、お父さんはもうすでに新しい人生があるのよ。つまり、あなたの家にはもう戻ってくる気はないのよ。一万円を神社に納めて、その日数分だけお父さんに会っても、結局辛い今に戻ってしまうわ」
お金を神社にたくさん納めているからか、女神様は僕の懐事情を心配した。
確かに女神様の言ったとおり、神社にお金を納めた分だけしか父親に会えないのなら、離婚するという結果を知っていたら辛くなる。
「そうかもしれない。そうかもしれないけど………」
そう言って僕は、拳をぎゅっと握りしめた。握りしめた拳が、ぶるぶると震えている。
「神社にお金を納めてくれるのはうれしいけど、このままでは破産してしまうよ」
女神様は、心配そうな顔で僕に言った。
女神様に願いをかなえてもらっている代わりに、僕の貯金はほとんど減っていた。数週間前まではお金なんかいらないと思っていた僕だが、今は減り続けるお金に危機感を覚える。
「心配してくれるのはありがたいけど、僕はどうしても家族三人でもう一度暮らしたいんだ」
僕は、はっきりした口調で言った。
父親が家を出て海外の仕事をしてから、今までお金には困らなかったが、その代わり本来ある家族の形が崩壊した。そして今は、お金すらも徐々になくなっている。
「楽しいぶん、それ以上に辛いことも後から後悔することになるよ。それでもいいの?」
「ああ、いいよ」
そう言って僕は、先ほど銀行から下ろした七万円を女神様に手渡した。七万円を納めたから、これで七日間は父親がいた前の家族の生活が送れる。
「明日から七日間だけ、父親が君の家にいる」
淡々と説明する女神様の言葉を聞いて、僕は「そうか」と言った。
サイフの中身を確認するとお札は一枚も入っておらず、小銭だけのサイフが重たく感じた。
「遅れてすみません」
僕は教室の扉を開けて、中に入った。
僕が神社から自転車で学校に到着したのは、午前九時三十二分だった。教室の生徒たちが一斉に僕に視線を集め、一瞬だけ授業が止まった。
「なにをやっていたのですか、神宮君。早く、席に座りなさい」
「はい、わかりました」
担任の小雪先生に促され、僕は自分の席に慌てて座った。
となりの席に座っていたつぼみと一瞬視線がからんだが、彼女はすぐに黒板の方に視線を向けた。
つぼみの転校を引き伸ばしていくのと同時に、彼女と尊人の仲が深まっているように思えた。
二週間前に「休みの日に久しぶりに遊ぼう」ととつぼみに言ったが、断られた。それ以降も僕はつぼみに声をかけているが、すべて断られた。それと同時に、尊人も僕の誘いを断るようになっていた。それだけではなく、二人は帰りも一緒に帰るようになった。最近の二人の関係に疑念を抱き始め、僕嫉妬心が徐々に強くなっていた。
「では、授業を終了します」
教室にある壁掛け時計の針が十時を指したところで、国語の授業が終了した。
今日の日直が黒板に書かれた白い文字を、黒板消しを使って消している。となりの席に視線を向けたが、つぼみの姿は教室にはなかった。
「なぁ、願。今日、なんでちこくしたんだ?」
呆然と窓の外を眺めていると、すぐ近くから男性の低い声が僕の耳に聞こえた。
「………」
僕は、声のした方に視線を向けた。視線を向けた先には、尊人の姿が僕の目に見えた。
「なんだ、尊人か」
そう言って僕は、再び窓の外に視線を向けた。
窓の外から見える空は、波状雲が広がっていた。
「なんだよ、その言い方。こっちは心配してるのに」
尊人は空いていたつぼみの席に座って、桜色の唇をとがらせた。
「べつに、心配してくれとは頼んでないし」
僕は、そっけなく言った。
「なんか最近、俺に怒ってない。気のせい?」
尊人が、眉を八の字にして小さな声で訊いた。
「怒ってないよ」
そう言った僕だが、心の中では彼に不満感があった。
「ほら、その言い方。絶対、怒ってるでしょ」
尊人は、からかうような口調で僕に言った。
「しつこいぞ!」
僕は、わずかに口調を強めた。
「ははは、怖いなぁ。でも、つぼみがまだ学校に入られてよかったなぁ」
なにげなく口にした尊人の言葉を聞いて、僕の頬がピクリと動いた。
「神様って、ほんとうにいるのかもな」
口元をゆるめて、尊人は静かにそう言った。
「………」
それを聞いて、僕はもう一度窓の外に視線を向けた。
つぼみと神様の存在がいるかいないかの話をしていたときも、空はこんな風に晴れていた。
「それで、今日はなんでちこくしたんだ?」
尊人が、明るい声で僕に訊いた。
「寝坊だよ」
僕は、一言そう言った。
僕が神社に一万円を納めて女神様に頼んでいるから、つぼみの転校を引き伸ばすことができているのに、尊人が彼女となかよくなるのは納得いなかった。
「もっと、早く寝ろよ」
「うるさい!」
僕は、不満そうな声で彼に言い返した。
夜おそくに帰宅する母親のせいで、僕の睡眠時間が少なくなっていたことにイライラが募っていた。しかし、それ以上に尊人とつぼみがなかよくなっているのがムカついた。
「最近尊人、広瀬となかよくないか?」
僕は、低いトーンで訊いた。
「そうか、べつに普通だろ」
尊人は、さらっと言った。
「じゃなんで、一緒に帰ったりするんだよ?」
僕は、語気を強めて訊いた。
学校の帰り道、僕のいないところで尊人とつぼみが楽しそうに会話している姿を頭の中で想像すると、黒い感情が湧き上がる。
「べつに、一緒に帰るぐらいいいじゃないか。てか、なんでそんなに怒るんだよ?」
「それは………」
それを言われると、僕はなにも言えなくなる。
ーーーーーーつぼみのことが好きだがら、お前となかよくなってほしくないんだよ。
しかし、そんなことを言えない僕は、「最近お前、土日なにしてんだよ?僕の誘い断ってるけど」と、不満げな表情で訊いた。
「また、その質問かよ。べつに、なにもしてないよ」
尊人は呆れた表情を浮かべながら、手をパタパタと振った。
この質問は二週間ぐらい前から彼にしつこく聞いてるが、尊人は「べつに、なにもしてない」と言うだけ。
僕が彼にこの質問をするようになったのは、つぼみが原因だった。尊人と一緒で、つぼみも僕の休日の誘いを断っていたからだ。そのせいで、二人の関係を僕は二週間ぐらい前から怪しむようになった。