「広瀬、昨日が最後だって言ってなかったけ?」
僕は自分の席に座って、彼女に訊いた。
「うん。そうなんだけど、一周間だけまだこの学校にいられるようになったの」
そう言ったつぼみの顔は、うれしそうだった。
彼女が口にした、『一周間』っていう単語に僕は覚えがあった。一周間=七日間。つまり、僕が神社に納めた金額と一緒だった。
女神様の言ったことはどうやらほんとうだったらしく、僕の願いをかなえてくれたらしい。
「へぇ、そりゃよかったね」
そう言いながら、僕は笑みを浮かべた。
「理由は朝礼で言うけど、これで私たち、もう少しだけ会えるね」
「うん、そうだね」
僕は、小さな声でそう言った。
彼女とまだ会えることになったことはうれしいが、それは僕のお金が続くまでだ。僕のお金がなくなると、彼女と別れることになってしまう。今までみたいにお金のむだつかいはできない。
「はい、席について」
壁掛け時計が九時を指したのと同時に、担任の小雪先生が教室に入ってきた。
「じゃあ」
小雪先生が教室に入ってきたのを見て、尊人が自分の席に戻った。
「おはようございます」
小雪先生が、教壇に立って生徒全員の顔を見回してあいさつをした。
「実は、昨日でみんなと受ける授業が最後だと言っていた広瀬さんですが、一周間だけこの学校にいられることになりました。そのことで、広瀬さんからお話があります」
小雪先生がかんたんな説明をした後、僕のとなりにいたつぼみが教壇に向かって歩き始めた。
「昨日転校する予定でしたけど、悪化していた母親の体調が急に良くなりました。それと同時に、母親の次の転院先の病院に救急患者が入院することになりました。その患者で予定していた入院先の病院がいっぱいになり、患者が退院する一周間だけ私はこの学校でいられることになりました」
大きく息を吸い込んで、つぼみはうれしそうな声で言った。
つぼみの転校が伸びてうれしかったのは僕だけじゃなかったのか、生徒たちのうれしそうな声が教室に聞こえた。
「なぁ、広瀬」
午前の授業が終わって、午後十二時二分。僕は教室で行きしなにコンビニで買っていたおにぎりを食べながら、横にいたつぼみに声をかけた。
「なに?」
そう言ってつぼみが、僕に視線を向けた。
「さっき、尊人となに話してたの?」
「なんで、そんなこと聞くの?」
僕がつぼみに質問したが、彼女が逆に聞き返してきた。その声は、なんだか不満そうだった。
「え、なんとなく気になったから」
「べつに、普通の話だよ」
つぼみは、短く言った。
普通の話にしては、やけに楽しく話しているように見えた。
「へぇ、そう……」
僕は、ぎこちなく笑った。
表情は笑っていたが、心の中はつぼみが尊人となにを話していたか気になった。
「なぁ、広瀬。今週の土日、どっちか僕と久しぶりに遊ばないか?」
僕は、きんちょうした声で彼女に言った。
「ごめん。土日は両方とも予定が入っていて、むりなの。ごめんね、神宮君」
つぼみは、両手を合わして申し訳なさそうに謝った。
「土日、両方とも予定あるの?」
僕は、不安げな声で訊いた。
「うん、ごめんね」
苦笑しながら、つぼみはそう言った。
彼女の表情は、なんだか悲しそうに見えた。
「そう……なんだ」
僕は、沈んだ声でそう言った。
今週の土日会えなかったら、また一周間後、彼女と別れが訪れる。そうすると、また僕は神社にお金を納めて彼女の転校を引き伸ばしてしまう。
ーーーーーー彼女と休みの日に、ゆっくり会いたい。
そう思って口にしたおにぎが、いつもよりしょっぱく感じた。
「なぁ、尊人。お前、広瀬となに話してたんだよ?」
午後四時二十分、終礼のチャイムが学校全体に鳴り響いて教室を出たあと、僕は自転車に乗って、友だちの尊人と一緒に家に帰っていた。
「え、いつの話?」
尊人は、首をかしげた。
「朝の話だよ。お前、広瀬と話してただろ」
眉間にしわを寄せて、僕は尊人に強い口調で訊いた。
「なんでもいいじゃん、そんなこと」
そう言って尊人は僕から逃げるように、自転車をこぐスピードを上げた。
「なんで教えてくれないんだよ、尊人」
不満な声を漏らしながら、僕は尊人の後を追いかけた。
舗装された道を自転車でスピードを上げて進むと、涼しい風が僕の黒い髪をなびかせた。
「教えろよ、尊人」
百メートルほど追いかけたところで、僕は尊人に追いついた。
尊人は自転車から降りてガードレールにもたれて、苦しそうに荒い呼吸を吐いている。
「なんで、そんなこと聞くんだよ?」
尊人は、不満そうな声で僕に聞き返した。それは、つぼみのときと一緒だった。
「気になるからだよ」
僕は、はっきりとした口調で言った。
「べつに、普通の話だよ」
尊人の言い方は、そっけなかった。その言葉も、つぼみと一緒だった。
「じゃあ、今週の土日、どっちか僕と遊ばないか?」
「いや、土日はむりだ。悪いなぁ、願」
手をパタパタと振って、尊人は早口で僕の誘いを断った。
「え、お前もかよ。つぼみも、土日はむりだって言ってたぞ」
僕は、怪訝そうな表情を浮かべた。
「へぇ、そうなんだ。そりゃ、しかたないなぁ」
そう言って尊人は、自転車に乗って僕から逃げるように家に帰った。
尊人の行動に怪しさは感じていたが、それ以上聞くことはなかった。
*
「七十六万」
開いた通帳に視線を落として残高を確認した僕は、弱々しい声でつぶやいた。
あれから二週間が過ぎ、九月の中頃。僕は神社に十四万円を納めて、女神様に頼んで彼女の転校をなんとか引き伸ばしてもらっていた。
神社に一万円を納めると願いがかなうということはほんとうだったらしく、僕が納めた金額分に応じてつぼみの母親の体調が良くなった。そしてつぼみの母親が入院する予定の病院も、それに応じていつも救急患者が運ばれて病院がいっぱいになる。
「もう、こんなに貯金が減ったのか………」
減り続ける残りの貯金額を見て、僕は困ったような顔を浮かべた。
「この数週間で僕は数十万という大金を神社に納め、彼女の転校を引き伸ばしていた。百万円あった貯金も、今は七十六万円とかなり少なくなっていた。
「はぁ」
僕は、深いため息をひとつ口からこぼした。
リビングにある壁掛け時計に視線を移すと、午後十時を過ぎていた。こんな時間になっても母親は帰っておらず、家の中には僕しかいなかった。
「はぁ」
もう一度深いため息を吐いて、僕は窓の外に視線を移した。
外はすっかり暗くなっており、夜空には弓のような細い月が浮かんでいた。
「ただいま!」
そのとき、玄関から母親の声が聞こえた。
「おそいよ、お母さん」
僕は、呆れた顔で母親を出迎えた。
「あら、願。まだ、起きてたの?」
「当然だろ。お母さんが帰って来ないから、心配して眠れなかったんだよ」
僕は眉を八の字にして、母親にそう言った。
「明日も学校なんだから、早く寝なさい。だからいつも、私が起こすことになるんでしょ」
玄関でパンプスを脱いで、母親は冷たい口調で言った。
母親の顔は赤くなっており、口からアルコールの匂いがした。
「だったら、もう少し早く帰って来てよ。毎晩毎晩、お酒ばっかり飲んでないで」
僕は、少し強い口調で母親に言い返した。
母親は、もともとお酒を飲む人ではなかった。母親がお酒を飲むようになったのは、父親が海外の仕事が決まってこの家に帰って来なくなってからだ。
「ねぇ、お酒飲むのやめたら。体にも悪いし、意味がないよ」
僕は、やさしい口調で母親に言った。
「うるさいわね。子供が、親のやってることに文句言わないでくれる!」
母親の口調が、わずかに強くなった。
母親はお酒を飲むと、人が変わったように乱暴になる。口調から、態度まで。父親と一緒に暮らしていたときは家庭的でやさしい母親だったが、今はどこかさびしい気持ちをお酒でまぎらわしているように見える。
「きっとお父さん、今のお母さんの姿見たら悲しむよ」
「うるさいわね!」
怒鳴り声を上げて、母親は僕の頬をパチンと平手打ちした。
頬に痛みを感じて、僕の顔が横に向いた。
「私は、この生活で幸せなの!」
そう言った言葉とは裏腹に、母親の瞳に悲哀の色が浮かび上がっていた。
父親と母親は僕が中学生のころから四年間会っておらず、連絡するなかった。昔のような夫婦関係はなくなりつつあり、お互い今の家庭を知らない状態だ。唯一、夫婦をつなげているのが、毎月父親から送られてくるお金だった。でも最近、そのお金もほとんど母親のお酒で消えていった。
「子供のあんたは、親のことに口出ししないで!」
怒鳴り声を上げて、母親はそのまま寝に行った。
僕は母親のカバンからサイフを手に取って中身をのぞいて見たが、お札は一枚も入ってなかった。