いつものように電車へ乗り込み、変わり映えのしない駅で降りる。
たくさんの人が降りるけれど、誰も僕のことなんか気にしちゃいない。駅前のこじんまりしたロータリーにはタクシーが二台。それを横目に今夜もあの店へと向かう。
まっすぐ家に帰る気分なんかじゃないし。
(コンビニで何か買っていこうかな)
野沢菜明太のおにぎり、それとお茶をレジで差し出す。
「あと、特製肉まんもください」
レジ袋をぶら下げて二、三分歩くと、有名チェーン薬局の黄色い看板が見えてきた。その横にある階段を二階へ上がっていく。
扉を開けて中へ入ると軽やかな電子音が鳴った。
(また気付いてないし)
店長さんはDJみたいに大きなヘッドホンをしながら、視線を手元へ向けている。いつものように海外ロックバンドの動画でも見ているのかな。
カウンターの前へ回り込むと、ようやく僕に気がついた。
「あ、いらっしゃい」
「全然気づいてなかったでしょう。よくそれで店長としてやっていけるよなぁ。ちょっとうらやましいです」
会員証を渡しながら、笑いかける。
「ほら、山瀬さんみたいに優しいお客さんばかりだから。ちょっとくらいさぼってても平気なんだよ」
会員証には番号しか書いていないのに、店長さんは名前も覚えてくれている。ブース番号が印刷された紙を受け取り、笑顔のまま軽く頭を下げた。
決して広いとは言えない通路を進み、十六と書かれたブースへ入る。スーツの上着をハンガーに掛け、リクライニングチェアに座った。
電源を入れると、眠っていたモニターに輝きが戻る。
仕切りの高さは百五十センチほど、覗こうと思えば隣の人の顔も見えるけれど、ここネットカフェでは誰もそんなことをしない。
隣にいるのはどんな人なんだろう。
男性かな。女性かもしれない。
何をしているのかな。何をしようとしているんだろう。
椅子の上に立ち上がるだけで暴ける脆い秘密だけれど、暗黙の了解で守られている。
とっても不思議で、僕にとっては特別な空間。
ここにいる間は、いつもの自分から変われる気がしている。
何をしても、どんな風にふるまっても、それが僕だとは分からない。
匿名性なんてない、調べれば個人も特定できるなんて言うけれど、今ここには誰にも気づかれない僕がいる。
残業続きで疲れがたまっていて、電車の中ではスマホを触る気にもならなかった。
暖かい肉まんを頬張りながら今日のニュースに目を通していく。特に大きな出来事もなかったみたい。
(野沢菜明太のおにぎり、美味しいな)
最後の一口をお茶で流し込んで、両手をキーボードに添える。
ここから、秘密の楽しみが始まる。
もう覚えてしまったアドレスを打ち込んで、エンターキーを押す。
見馴れた画面が現れた。
『あなたが殺したい人は誰ですか』――いわゆる闇サイトだ。
ここの掲示板には嫌いな相手に対する不平不満、いや罵詈雑言がこれでもかと書かれている。
それを眺めていくのが僕には止められない。
生きていく中でこんなにも辛い目に合っている人が自分の他にもいるんだ、というある種の共感が生まれる。もちろん、恨みつらみを書き込むこともあるけれど、あの男を殺したいと真剣に思っているわけではなかったんだ。
ミキに出会うまでは。
サイトにログインして掲示板を開く。
ここでのハンドルネームは好きなアイドルから取った、カオル。ネームはインする度に変えられるけれど、僕を含め、常連さんは同じものを使っている。名前が被ることはあっても誰も気になんてしちゃいない。
みんな自分の不満をぶちまけたいだけなんだ。
今日の僕もその一人。
あの男がどんなに非道い奴なのか、ブラック上司の見本のようなあの男への思いを書き込んでいく。それでも足りずに、チャットルームへ移動した。
「愚痴の聞き役募集」とタイトルを付ける。
誰か相手をしてくれる人が来るまで、スマホでゲームをしながら待つことにした。
五分ほど経っただろうか。
呼び鈴に似た音がパソコンから聞こえてきた。
(思ったより早く来てくれたな)
スマホをおいてキーボードに向かう。
画面に目をやると、ミキという名前が表示されていた。今までにチャットで話したことはない気がする。
『はじめまして、ミキさん』
『はじめまして』
やはり初めてだったみたい。
女性なのかな。そんな詮索をしないのも暗黙の了解だけれど。
『愚痴を聞いてくれるなんて、ありがとう』
『カオルさんの書き込みを見て来たけれど、あの男ってひどい奴だね。私まで腹が立ってきちゃって』
『読んできてくれたんだ。クズみたいな奴なんだよ、あいつは』
『上司なの?』
『うん。とにかく頭ごなしに怒鳴り散らすんだ。それも人前で』
『一番やっちゃいけないパターンだ』
『声も大きいし、口も汚いし、人の話を聞く耳を持たない』
『最低だね』
タイミングよく返してくれるので、キーボードを打つ手も滑らかになる。
それにつれて、怒りもぶり返してきた。
『今日も契約が取れなかったのをボクのせいにしてきて、無理やり残業だよ』
『そうなんだ』
『ねちねちと嫌味をずっと言いながらね』
あ、間が空いた。
でも僕の愚痴は止まらなくなってる。
『追加の資料を作るからって指示だけ出して、自分はさっさと帰っちゃうんだから』
『労いの言葉なんて絶対にないしね』
右隣のブースに新しいお客さんが入ってきた音がする。
『他の人が怒鳴られているのを聞くのも、嫌な気分になるし』
『まさにパワハラ! ブラック上司の見本みたいな奴だよ』
『ごめん、ちょっと離れちゃってた』
ミキが戻ってきた。
『退室表示になってなかったから、一人で愚痴ってた』
自嘲気味に笑う。
『なるほどね。こんな奴、いなくなったらいいのにね』
『ほんとだよ。いなくなったら気分がいいなぁ』
『じゃ、いなくなってもらっちゃえば?』
『そんなん無理でしょ』
『交換殺人、してみる?』
画面に現れた突拍子もない文字を見て、キーボードを打つ手が止まった。
土曜日の朝は会社へ向かう電車内も空いている。
僕が勤めている不動産会社は、物件を見にくるお客が多いからという理由で土日も休まず営業をしている。企業向けの賃貸部門に所属する僕も、交代での出社日だった。
個人向けほど忙しくはならないからのんびりとした気分で行きたいところだけれど、今日はあの男も出社予定だし、昨夜のことも引っ掛かっていた。
*
この人、いきなり何を言ってるんだろう。まぁシャレのつもりなんだろうけれど。
『交換殺人なんて、出来たら面白いね』
『でしょ? やっちゃおうよ』
マジか。ヤバい人なの?
ちょっと探りを入れよう。
『ミキは殺したいほど嫌な奴っているの?』
『もちろん。だからここに来てるの』
そう言われればそうか。
『どんな奴なの?』
『爺さんなんだけれどね。早く死んで欲しい』
『ボクみたいに、ぱーっと吐き出しちゃいなよ』
しばらく間が空く。
『今日はこれから用事があるから、また今度チャットで話してもいい?』
『OK』
『それじゃ、そのときに交換殺人の相談だね』
『妄想なら何でもありだしね』
僕の最後の書き込みには反応せず、ミキは退室していった。
*
あの時のノリであんな風に言ったけれど、また会うことはないかもしれないしな。特にチャットだと、それっきりという相手も少なくない。
それにしても――いきなり交換殺人なんて言い出したミキのことが気になる。
そんなことを考えてるうちに会社へ着いてしまった。
今日は穏やかに過ごせればいいなと思いつつ、扉を開けた途端にあの男の怒声が響いてきた。
「こんなもんじゃ資料にならねぇだろうが! 一体、昨日は何をやってたんだよ」
賃貸部の部長、木戸が藤崎君に罵声を浴びせている。
俯いている彼は一年後輩で、昨夜も一緒に残業をしていた。彼も僕と同様、あの男の攻撃対象となることが多い。ちょっと内気な感じで気弱そうだから、反撃されないと思っているのだろう。
彼が怒ったり、口答えしている場面を見たことがないし。僕も似ているからよく分かる。
あの男の狙う標的にピッタリなんだ。
「部長、もうその辺で。修正は私も手伝いますから」
なおも大声で喚いているあの男と彼の間に水野が割って入った。
ヤツは唯一の同期だけれど、僕から見ても仕事ができるし如才ないというか人当たりが良いというか。
こういうタイプにはうるさく言わない。
それでも不承不承といった態度で不機嫌そうに席を立ち、藤崎君を睨みつけながら部屋を出て行った。タバコを吸いに出たようだ。
藤崎君は水野に肩を軽く二度叩かれると、黙って頭を下げた。
定時を過ぎると、珍しいことにあの男が誰かを怒鳴りつけることもなく、静かに帰っていった。何の用事があったか知らないけれど、毎日がこうあって欲しい。
「山瀬、今夜は何か予定あるか」
僕の机へ水野がやって来た。
「いや。飲みに行く?」
「流石、話が早い。こいつを誘って気分転換しないか。お前も昨夜、やられたって聞いたぞ」
ヤツの後ろには藤崎君がついてきていた。
駅近くの居酒屋へ入りテーブルに着く。
「そっちに二人じゃ、狭くない?」
「全然平気。すいませーん、中生を三つ」
僕の気遣いをスルーして水野が注文していく。喉が潤った所でヤツが切り出した。
「しっかし、木戸部長も何とかならないのかなぁ。あれじゃ、会社の雰囲気も悪くなるだけだよな」
「変わらないよ。変わる訳ないじゃん」
「おまえらは明らかに狙われてるし。パワハラだよ、なぁ」
僕たちの話にも言葉は挟まず、藤崎君は自嘲気味の笑みを浮かべるだけ。
実を言うと、ちょっとだけ彼のことが苦手なんだよね。真面目なんだけれど何を考えているのか分からないところがあって。
「去年、木戸部長がうちの支店に来てからずっとあんな感じだもんな」
枝豆に手を伸ばしながら、水野が続ける。
「どうやらさ、木戸部長は社長の親戚らしいよ。姪の息子だったかな。それで支店長も黙ってるって話だよ」
「そんな情報、どこから聞いてくるの」
「事務の金井さんから」
うちの支店のお局様だ。
「その金井さん情報だと、美樹ちゃんにもちょっかいを出しているらしい」
「新入社員の小島さんですか?」
珍しく、藤崎君が反応した。
僕はミキという名前に反応してしまった。
「部長は単身赴任でこっちに来てるし、女癖が悪いって噂だよ」
「パワハラにセクハラって、最低だね」
思わず言ってしまった。
「そうやってさ、面と向かって言ってやればいいんだよ」
水野はニヤニヤしている。
そんなこと、僕が言えないのは分かってるくせに。誰だって言えないでしょ、会社の上司なんだし。
「パワハラだーっ! って叫ぶのは冗談にしてもさ、山瀬も藤崎も少し反論してもいいと思うよ」
「例えば?」
「うーん、例えば、あまりにも理不尽な時には『それはおかしいと思います』とか」
「そんなことが言えたら苦労しないよ」
言ったって聞く耳なんか持たないし。一言でも反論しようものなら、その何倍もの罵声が返ってくる。
大きなため息を一つ、そしてジョッキに残っていたビールを飲み干した。
「とにかくさ、あまり溜め込まずに吐き出さないと、精神的に参っちゃうぞ」
大丈夫、僕は吐き出してるから、と心の中でニヤリとやり返す。
それと同時に、ミキの言葉が浮かんできた。
水野がトイレに立つと、藤崎君がボソッとつぶやく。
「僕は聞き流すようにしています」
意外、と思って彼を見ると、こう続けた。
「山瀬さんの考えてること、僕には分かってますから」
何だそれ。
ちょっと不気味な笑いを浮かべてるし。同じ立場だからって、分かったふりをされてもなぁ。
僕は君みたいに聞き流したりなんてできないんだよ、と言ってやりたかったけれど止めておいた。
水野は簡単に言うものの、あの男に対して反論など僕には出来るはずもなく、今までと同じように押しつぶされそうな日々を必死にこらえていた。
(ミキはどうしたかな)
あれから店には行っていないけれど、ふとしたときにミキが打った文字を思い浮かべる。
僕の中で、あの四文字が大きくなっていった。
「いらっしゃい。山瀬さん、久しぶりだね」
今夜は珍しくヘッドフォンを外していたらしく、店長がすぐに気づいてくれた。
「久しぶりと言っても、一週間くらい来てなかっただけですよ」
「そうだっけ? 毎日のように来ているイメージがあるからかな」
苦笑しながらブースへと移動する。
パソコンを立ち上げるとブラウザのトップページにある記事が目に入った。
(ここの近くじゃないか)
三駅隣の住宅街で歩いていた女性が背中を切り付けられたらしい。傷は浅く、命には別条がないようで、犯人は今も逃走中と書かれている。
帰りはちょっと怖いな、などと思いながらあのサイトへアクセスした。
まず掲示板に目を通していく。
ここ数日でミキが書き込んだ形跡はない。
やっぱりあの時だけ、面白半分でアクセスしていたのかな。それとも、もう他の誰かと話がまとまって……。いや、そんな簡単に行くはずがない、と様々な思いが交錯していた。
少し迷ってから、チャットルームに移動する。ルームタイトルは「この前の話の続き」とした。
ミキに伝わるかどうかは分からないけれど、なりすましを防ぐにはこれでいい。
会えるかな。
そんな不安を抱く間もないほど、すぐに入室を知らせる音が鳴った。
(マジかよ。僕を待ってた?)
『こんばんは』
表示されている名前はミキだった。
念のため、本人か確認するためにカマを掛ける。
『こんばんは。この前の話だけど、どこまで話したっけ』
『なりすましを疑ってるねー。もちろん、交換殺人の話』
本物のミキだ。
『ごめん、確認してみた。簡単に話すにはヤバすぎる内容だしね』
『そうだね。誰にでも話すわけにはいかないから、カオルさんが来るのを毎日チェックしてたの』
『この一週間は、ここへ来る気分さえ起きなかったからなぁ』
『相変わらずひどいんだね、あの男』
『そう、もうほんと嫌だ。毎日が苦痛になってきた』
『じゃあ、やっちゃおうよ。交換殺人』
また軽いノリで危ないことをサラッと言う。
実際に話しているわけではなく、文字だから言えるのかもしれないけれど。
『それより、この前の続き。ミキが殺したいほど憎い相手ってどんな人なの』
『ちょっと長くなるよ』
『短くしてよ』
『えーっ、何それ!』
『冗談。ボクの話も聞いてくれたんだから、今度はボクが聞く番』
ミキはやっぱり女性だった。
彼女の両親は町工場を営んでいたんだけれど、経営が悪くなりヤミ金融に手を出してしまった。それがきっかけで借金を返すために借金をする、なんて状況になり、挙句の果てに二人で自殺してしまう。
当時、大学生だったミキは借金と共に一人残された。大学も辞めて働きながら返済していたけれど、彼女にとっては額が多すぎて焼け石に水だったそうだ。
そこへ借金の全額を肩代わりしてくれるというお爺さんが現れた。
なんて優しく親切な人だろうと思ったら、こいつがとんでもないワルで、単に借用書を買い取っただけ。
それを形にして無理やり愛人にさせられているらしい。
『なんかドラマにありそうな話だね』
『そうかな。韓流ドラマとか? 見たことないけど』
『今はそのお爺さんと暮らしてるの?』
『マンションを借りてくれて一人暮らし。そこへ週一か週二で来るんだ』
それなら悪い話じゃない気がするけど。
僕の手が止まったのを察知したみたい。
『私にとってはカゴに閉じ込められた気分なの。色々と制約をつけるし』
『なるほどね』
『後で分かったんだけれど、爺さんもヤミ金やってて、そのときの金を基に私みたいな女性を集めてるんだ』
『集めてる?』
『そう。自分で言ってたもん。趣味みたいなもんだって』
『ひどい言い方だな』
『働くのもダメなんだよ。これなら生活が苦しくても、前の頃の方がマシ』
『どうして?』
『少しずつでも借金を返していけば、いつか終わるって希望があったけれど、今のままじゃ爺さんが死ぬまで閉じ込められてるってことなんだよ』
この時に初めて、ミキは本気なのかもしれないと思った。
『逃げ出せないの?』
『監視されてるわけじゃないから、逃げ出せないわけじゃないけど』
ここはミキが続けるのを待つところだ。
『借用書は爺さんが持ったままだし、ずっとこそこそしながら生きていくのは嫌』
『それで、交換殺人か』
『する気になった?』
『どうしてボクに話す気になったの?』
返事をはぐらかしてみた。
『カオルさん、真面目そうだからかな』
『ボクが?』
『書き込み読んでると、真面目そうなのが伝わって来るよ。だからこそ、パワハラをまともに受け止めちゃって苦しんでいるのかなって』
文章なのに、そんな風に感じ取れちゃうのか。
そうだよ、僕は藤崎君のように聞き流せないんだ。
ミキの言葉もね。
それ以上は彼女も急かすことなく、返事をしないままあの日は落ちた。
また会う約束もしていない。
彼女の思いを聞いてしまったことで、戻れなくなるような気がしたから。
今ならまだお互いに引き返せる。ネットでありがちな、不満を言っていたのが暴走しただけと自分をごまかすこともできる。
だけど、僕の方から彼女に会いたいと願うことになってしまった。
相変わらず、あの男から罵声と嫌味を浴びせられる毎日を過ごす中、また水野が僕と藤崎君を例の居酒屋へと誘った。
席へ着くと、ビールが来るのももどかしそうに切り出した。
「会社じゃちょっと言えない話でさ」
ここでも声を落としている。
「二人には悪い知らせなんだけど……」
「もったいぶらずに話して」
僕の言葉に、水野はなぜか姿勢を正した。
「木戸部長が支店長になるらしい」
一瞬、ヤツが何を言っているのか分からないほど衝撃を受けた。
まさか、そんな……。
「すぐに変わる訳じゃないけど、支店長が本社へ戻る内示を受けたそうだ」
「部長が本社へ戻るんじゃなくてですか?」
藤崎君も驚いている。
「来春の移動で交代するらしい」
ヤツのネタ元はお局様だろうから、確実な話なんだろう。あの男が支店長になるということは、あと数年は今の状況が続くということだ。
大げさじゃなく、目の前が真っ暗になった気がした。
直接に相対する機会は減るかもしれないけれど、よりによって支店のトップに立つとは。あの男が本社へ戻るかもしれないと微かに期待していたのに……。
もう、その後の話はよく覚えていない。
翌朝は、会社へ行こうにも足に重りが付いたように動かない。
あの男が本社へ戻るという淡い期待がなくなった今、微かな希望さえない。この虐げられた時間があと三年、いや五年、それ以上にも続いてしまうかもしれない。
好きな仕事なのに、あの男がいるだけで苦しく、辛い。
あの男さえいなくなれば……。
これって、ミキと同じじゃないか。
相手がいなくならない限りは訪れない自由。
ふいに彼女が語った思いに結びつけてしまった。
一度でも頭に浮かんでしまうと、なかなか消えてはくれない。
僕は彼女の言葉に捉われていた。
その日も午後になってあの男に呼び出されていた。
書類の内容が気に入らない、という理由でだ。
データをまとめた報告書なんだから、気に入るも何もないだろう。数字を改ざんしろっていうのかよ。愚図だの使えないだの、さんざん嫌味を続けた後にあの男は言った。
「お前は邪魔なんだよ!」
その一言で僕の中の何かが切れた。
黙ってお辞儀をすると、まだ何か言いたそうにしているあの男を残して自席に戻った。
言われたとおりに書類を修正していく。
様子をうかがっていた水野がそっと近づいてきた。
「大丈夫か」
声を潜めて声を掛けてくれた。
「うん、大丈夫」
ヤツの顔を見てしまうと涙が出てきそうだったので、モニターから目を離さずにキーボードを叩く。僕の肩をポンと一つ叩いて、水野は戻っていった。
(ありがとう。でも……)
少しでも早く仕事を終わらせようと、キーを打ち続けた。
水野の誘いも断って、帰りを急いだ。
今夜はどうしてもミキに会いたい。
明日の水曜は休みだし、深夜まで粘るのも覚悟している。いつものコンビニではサンドイッチと野菜ジュース、お菓子も選んだ。
電子音と共に店へ入っても、また店長は気付いてくれない。
ヘッドホンだけじゃなく、何かパソコンに向かって作業しているみたいだ。
「こんばんは」
声を掛けると、慌てて顔を上げた。
「あ、ごめん。いらっしゃい」
「いつものことだから気にしてませんけどぉ」
受付作業をしている店長へ、冗談っぽく嫌味を言ってやった。
「いやぁ、会員証の更新時期なんでデータの整理をしていたんだよ。山瀬さんも、帰りには新しいカードを用意しておくから」
分かりました、と応えてブースへ向かう。
おなかが減ったので買ってきたサンドイッチを先に食べ始め、ひと息ついたところでパソコンを立ち上げる。
「あっ」
新着ニュースを見て、思わず声を出してしまった。周りの気配をうかがう。
(驚かせてごめんなさい)
誰も見ていないのに、ブースの中で頭を下げる。
またこの近くで人が切られたらしい。
今度は北側、家の方だ。七十二歳の男性が背中を切られて重傷と書いてある。やはり犯人は捕まっていない。
(いやだなぁ)
帰る時間が遅くなったら……ビビりな性格から悪い連想が湧き上がる。
(早く帰ろうかな)
(いや、ミキに会うまでは)
(でも帰り道で襲われたら)
せっかく気合入れて来たのに、空気が抜けるようにしぼんでいく。
そうだ、ミキが早く来てくれさえすればいいのだ。
気を取り直してアクセスする。
すぐにチャットルームへ移動して「話の続き」という部屋を作った。
(頼む、早く来て)
そう願いながらスマホでゲームを始めた。時折、掲示板を覗いてみる。ここに書かれた怨嗟の言葉たちを見ていると、あの男への憎しみや怒りが浮かんでくる。
ミキにこの想いを伝えたかった。
それなのに、彼女はなかなか現れない。
時計は九時を過ぎようとしていた。ここに来て、もうすぐ二時間になる。
(もう今夜は諦めよう)
掲示板にメッセージを書き込んだ。ただ一言「決めたから」と。
「あれ、もう帰っちゃうの」という店長の言葉を聞きながら、新しい会員証を受け取り家へと急いだ。
水曜日は基本的に僕の休日。
天気も良かったので、朝から洗濯をして部屋の掃除もした。
昨夜は無事に帰れたけれど、犯人が捕まったというニュースはない。犯人が捕まるまでは毎日が危険なのだから、急いで帰る必要はなかったのかも……と今朝になって思った。
今日こそはミキに会えるといいな。
いつも七時頃にチャットしているから、今夜もその時間に合わせて行ってみよう。
夕食は家で済ませ、昨日コンビニで買ったお菓子を持って出掛けた。
「いらっしゃい。私服なんて珍しいね」
「今日は休みだったので」
「そうなんだ。休みの日にまで来てもらえるなんて、うれしいねぇ」
店長はお世辞抜きに喜んでいる。
(昨日ミキに会えていれば、わざわざ来なかったんですけどね)
心の中でも軽く頭を下げた。
すぐにパソコンを立ち上げて、あのサイトへアクセス。
昨日、帰る時に書き込んだ掲示板を見ると――ミキからのコメントがある!
『オッケー』
あの後、来てたのかぁ。やっぱり、遅くまで粘ればよかった。
でも、とりあえず僕の意思は伝わった。今夜も来てくれたらいいけれど。
また「話の続き」を作って、ミキを待つ。
十分ほどで、入室を知らせる呼び鈴が鳴った。
『カオルさん、こんばんは。昨日はごめんなさい』
『いや、こちらこそ。もう少し待てばよかった』
『とうとう決心してくれたんだね』
『うん。ボクもあの男がいなくならない限り、逃げ出せないから』
『本当に大丈夫?』
『大丈夫。決めたからには、やらなきゃ』
『それじゃ、まずは殺したい相手のことを詳しく知らないとね。まずは私から』
こんな風に誰かを殺す話を進めているなんて、隣のブースにいる人は知りもしないだろう。
僕とミキだけの秘密だ。
キーボードを打ちながら、なぜかテンションが上がっていく。
ミキが殺したいお爺さんは亀井順二、六十七歳。
ここからは電車で三十分ほどの三河市ときわ台に一人で住んでいる。家族はいないし、身の回りのことも自分でやっているらしい。
あの男の名前や住所もミキに伝えた。
『何かにメモしておいてね。間違えないように』
スマホのメモ帳アプリに書き込む。
『どうやって殺すかだけど、事故に見せかけるのが一番だよね』
『殺すところを誰かに見られちゃったら意味ないし』
『何かいい案を考えなきゃ』
『それなんだけど――』
ミキはお爺さんを殺す案まで考えていた。さすがだ。
お爺さんの家は高台にあって、近くに神社があるそうだ。そこに五十段くらいの階段がある。毎週水曜の夜には駅前の囲碁教室に通っていて、近道だからと必ずその階段を通るらしい。
帰りに待ち伏せして、上ってきたところを突き落とす。
境内は外灯も少ないし、高台だから人の目につかない。僕は水曜は休みの日。
もってこいのシチュエーションじゃないか!
『この方法なら、女性にだってできるでしょ』
『ごめん。ボクの方は何にも考えていなくて』
『単身赴任なら行きつけの店とかありそうだよね。ちょっと調べてみるよ』
『ボクは来週の水曜日にお爺さんや神社の下見をしてみる』
『それじゃ、来週もこれくらいの時間にチャットで待ち合わせしようよ』
いよいよ僕たちの交換殺人が動き出した。
あの翌日からは、会社に向かう足取りも軽くなった。
憂鬱な気分は抜けないけれど、僕たちには希望が見えている。今まで通りに罵声を浴びせられても、聞き流す余裕が出てきた。
皮肉なものだ。
あの男がもうすぐいなくなる、そう思うだけでこんなにも楽に毎日を過ごせるなんて。これなら、このままあの男が居座っても辛くないかも。いやいやそれじゃ元通りになっちゃうから駄目だよな。
そんな下らないことを考えながら、廊下で思い出し笑いをしているところを藤崎君に見られてしまった。
「山瀬さん、とうとう決めたんですね」
(はぁ? 何を言ってるんだ、君は)
意味が分からず黙っていると、彼が続ける。
「僕は応援してますよ」
そう言いながら笑顔を浮かべて去って行った。
やっぱり、彼のことは苦手だ。
ミキと会う約束をした日、午後から三河市のときわ台へと向かった。
三時ちょうどに家を出て、ときわ台駅に着いたのは三時五十分になろうとしていた。
(駅までの時間や乗り換えも考えると、一時間は見ておいた方がいいな)
早速、例の神社に行ってみる。
駅から五分ほど歩いて商店街を抜けると坂道が延びている。少し登ったところに神社への参道があった。鳥居をくぐるとすぐに石段が続いている。
周囲の木々がうっそうと生い茂っているせいで、まだ四時を過ぎたばかりだと言うのに薄暗い。
(通りからは上の方が見通せないな)
ミキが言う通り、絶好の場所だ。
段を数えながら登ってみた。全部で五十三段。思ったより勾配も急だ。途中に踊り場が一つあるけれど、登りきると息が上がってしまった。
大きく深呼吸をしてから周りを見渡す。
社殿は古いけれど手入れがしてあって、寂れた感じはない。でもこれだけ上って来なければならないからか、人影もない。
奥の方に抜ける道がある。きっとお爺さんの家の方へ行く近道だろう。
行ってみよう。
そこを歩いていくと車が走っている道に当たった。五、六段降りて歩道に立つ。教えてもらった住所を調べて、お爺さんの家を探した。
地図アプリを見ながら歩いていくと、見るからにお金持ちといった家が現れた。
立派な和風の門に石貼りの塀が続いている。表札で亀井の名前も確認したので、事前調査は完了。
さて、一旦家に戻ってから、今夜はミキと相談だ。
『こんばんは。例の神社、見てきたの?』
『行ってきたよ。確かにあの場所ならいけるかも』
『でしょ? 爺さんは見れた?』
『家は確認してきたけれど、お爺さんは見なかった。すごい家だね』
『どんだけ悪どいことして金儲けしたんだって感じでしょ』
『そっちはどう?』
『順調だよ。あの部長さん、インスタやってたよ』
『えっ、マジで』
そんなこと会社で一言も言ってないけど。意外だ。
『裏アカだね、あれは。綺麗なオネーサンと映ってる写真が多いから』
『よくそんなの見つけたね』
『実はね、元々プログラミングの仕事がしたくて勉強してたの。今でもそこそこの腕はあるからね』
『まさか、ハッカー!?』
『そこまでいかないよ。でも、ある程度はネットで調べていくことは出来るよ』
『そーなんだ』
『それで、部長さんの行きつけの店も数軒は絞り込んだから』
『ミキを敵に回したくないな』
『そう、敵に回すと怖いよ~』
その後も二人で色々と相談をした。
あの男は週末になると飲み歩いているらしく、酔って帰る所を事故に見せかけて……という作戦がいいだろうということになった。
それぞれ、もっと下準備と調査をしてから二週間後に最終打合せをする約束をして、この日は別れた。
一人になって、ふと思った。
本当に僕たちは殺人をするのかな。
こんな言い方は変だけれど、ミキとの話は楽しいし盛り上がっている。
自分の知らない相手、しかもそいつは極悪非道なヤツ。そんな悪役を倒すヒーローみたいな気分がある。
敵を倒した報酬として、自分の嫌いな奴がいなくなるなんて最高のゲームじゃないか。
銃やナイフを使って襲う、なんてことならもっとためらう気持ちが出来るかもしれないけどね。
ナイフと言えば、あの犯人はまだ見つかっていないらしい。
同一犯人による連続通り魔じゃないかって警察が発表してた。まだ死んだ人はいないけれど、最初は服を切り裂く程度だったのが段々とエスカレートしてるから危険だって。
人を切る快感てあるのかな。
ちょっと想像がつかないや。
仕事をしていても、あの男のことが気にならなくなってきた。
どうせ、もうすぐいなくなる。
(可哀想に)
私を立たせて怒鳴りつけているあの男を、憐れむような気持ちで見下ろしている。
水野にも「何かあったのか。最近、変わったな」と言われた。
そう言えば文句を言われることも減ってきた気がする。
でも、もう手遅れだけどね。
また水曜日になり、ときわ台まで行ってみた。
この日はデニムのパンツにグレーの薄手のニット、キャップを被って動きやすく目立たない恰好を意識してみた。
お爺さんの顔を覚えるのと、囲碁教室の場所を知るための尾行。ここで不審に思われてトラブルになったら、せっかくの計画が台無しになる。
すでにドキドキだ。
まずはお爺さんが出て来るまで張り込まなければならない。
張り込みと言えばアンパンでしょ。と思ってコンビニでペットボトルのコーヒーと一緒に買ってきた。
夕方から九時まで囲碁教室へ行くというミキの情報だから、四時半に張り込み開始。神社への裏道の近くで待つことにした。ここからなら、道の反対側にある立派な門も見える。
帰りにあの急な段を上ってくるくらいだから、行く時も神社を通っていくはずだ。僕の予想だと五時から六時ごろに出掛けるはず。
スマホをいじりながら時間をつぶそう。
あんパンを食べる間もなく、門が開いた。
時計を見ると五時半になろうとしている。
出てきた男性は小柄で痩せた体型の老人だった。髪は白く、大きな目が特徴的だ。これなら見間違いそうにもない。
亀井であろう老人は、思った通り、こちら側へ渡ろうと信号待ちをしている。
僕も境内へと移動する。しばらくすると、お爺さんも境内へと上がってきた。社殿にお参りしているかのような僕には見向きもせず、駅の方へと降りる石段へ向かっていく。
彼の後を距離をとって続く。
(なんか探偵みたい)
ドキドキがワクワクに変わってきた。
急な段を降り始めた背中を見ながら、このまま突き落としたら……という思いが一瞬浮かんだ。まだ六時前だし下の道にも人通りがある。
今はダメだ。
そのまま距離を保って石段を下り切った。もうお爺さんは駅の方に向かって歩いている。近道だからといっても、あの段を上り下りするだけあって足腰は丈夫そうだ。多少ゆっくりではあるけれどよろつくこともない。
そして雑居ビルへと入って行った。上を見上げると袖看板に「囲碁クラブ」と記されている。
間違いない。
あのお爺さんは、僕が殺す相手。亀井順二だ。
扉を開けると、電子音と共に聞こえてきた「いらっしゃいませ」の声。
珍しい。店長さんがヘッドホンをしていない。
「どうしたんですか?」
「たまにはお客様をお迎えしないと」
それ、たまにじゃなくていつもすべきことなのでは。
「はい。今日は八番です」
ブースに入るとすぐにパソコンを立ち上げた。
今日は時間も決めてあるので、ミキはもう来ているかもしれない。
リクライニングチェアに座ってサイトにアクセスし、チャットルームの一覧を見る。
(あった!)
部屋主の名前は「ミキ」、タイトルは「話の続き」になっている。
そこへ入室して、念のため声を掛ける。
『こんばんは。カオルです』
『お疲れさま。今夜は私の方が早かったね』
『待った?』
『ううん。五分くらい前に来たところ』
『先週、お爺さんを確認してきたよ。小柄で目の大きい人だよね』
『うん、そうだよ。分かりやすいでしょ』
『囲碁教室には行きも帰りも、あの神社を通っていくんだね』
『私も部長さんのチェックしてきた。ラグビーでもやってたみたいにゴツイ人だね』
『きっと体育会系なんだろうな』
『あれで怒鳴られたら、確かに怖いね』
『この後はどうするの?』
殺す相手のことは、お互いに調べた。
後は実行に移すだけ。でも交換殺人の最大のメリットはアリバイのはずだ。あの男が殺されたときには、僕に確実なアリバイがなければ。
『いつ殺せるかなんて、実際にはアクシデントがあるかもしれないでしょ』
確かにそうだ。
『曜日だけ決めておくのはどう? そうすれば、お互いにアリバイを作りやすいし』
ミキの提案は理に適っている気がした。
『ボクの方は水曜日で決まりだけれど、ミキは?』
『私は火曜日にする。火曜の夜は毎週飲み歩いてるみたいだから』
翌日休みのことが多いからな。
『どうするかは決めたの?』
『酔っているところをホームから突き落とすのがいいかな、と思ってる』
『それって上手くいくの?』
『大丈夫。やったことがあるし』
えっ。
さらっと怖いことを書いている。
『マジ?』
『実はね、前に交換殺人をやろうとしたことがあったの』
二度目、ってこと?
ミキの話はこうだった。
別の闇サイトで知り合った女性から、交換殺人を持ち掛けられたらしい。
その女性はある男に乱暴されて、その時に取られた写真や映像をネタに関係を強要されていたそうだ。似た境遇でもあり、ミキは交換殺人に同意した。
相手の男が酔ってホームを歩いている時に、ぶつかったふりをしてホームへ落とした。目撃者もいたから警察で事情は聞かれたけれど、「急に抱きつくように近づいて来たから反射的にはねのけてしまった」と説明したら納得してもらえたそうだ。
男と面識がなかったことも大きかったのだろう。
『でもね、相手の方は怖くなっちゃったみたいで、実行してくれなかったの』
まだお爺さんは生きてるもんな。
『その女性とは連絡取れなかったの』
『本人とは会ってもいないし、本名だって分からないし』
『そうだよね』
僕たちだって同じだ。
『だからね。カオルさんには逃げられないようにと思って』
え、どういうこと?
『今までのチャットもスクショで記録してあるんだ』
ログは残らないからって安心してたけれど、その方法があった。
『それとIDも調べてあるよ。kaoru0124でしょ』
背筋がぞくっとした。
第一印象で感じたように、やっぱりミキはヤバいのかも。
でも、もう手遅れだ。
ここまでされていたら、今さら後戻りはできない。
『怖がらないでね。念のための保険みたいなもんだから』
黙ってしまった僕に気付いて、ミキがフォローしてる。
『そうだよね。お互いのために実行すればいいんだから』
『そうだよ。これで二人が楽になるんだもん』
『早い方が良いかな』
決心が鈍らないうちに。
『それじゃ、期限を一ヶ月にしよう。四回チャンスがあればイケるっしょ』
軽いなぁ、彼女は。
『わかった』
『カオルさんを疑う訳じゃないけど、私は爺さんが死んだのを確認してからにするつもり』
そういう彼女の気持ちも分かるけれど……。仕方ないか。
彼女は経験してるんだし、ビビりな僕にはその方が良いかもしれない。
『次は、いつ会う?』
『念のため、しばらく会わないようにしようよ。全部終わってから一か月後に』
『日にちは決めずに?』
『だって、会わなくてもここには来るでしょ。私は暇なときに来てると思うよ』
『確かにそうだね。ボクも掲示板を見に来てるだろうな』
『メモの処分も忘れずにね』
『わかった』
『次にこの部屋で会う時は、本当に会う約束が出来るといいね』
こうして僕たちは別れた。
お互いに安らげる日々が来ることを信じて。
*
ミキと最後に会った一週間後の水曜日、僕はときわ台へと向かった。
気持ちがブレないよう早いうちにと思ったから。
念のため、囲碁教室へ行くことも確認しようと四時前には家を出た。もう顔も分かっているから、神社へと続く階段が見える辺りでお爺さんが来るのを待つ。
やはり六時前にはお爺さんが石段を下りてきた。後をつけて「囲碁クラブ」のビルへ入ったことも確認した。
ここまでは予定通り。
八時過ぎまで商店街の喫茶店で時間をつぶす。緊張しているせいか、お腹も減らない。
店を出て、公園のトイレで着替えた。黒いトレーニングウエアの上下に黒いキャップ。夜のジョギングをしている風に見せるため、あらかじめスニーカーを履いてきている。
準備はバッチリ、神社の境内へと向かう。
石段を上る間も、緊張からか目が回る感じがしていた。階段を上がって左側の茂みに隠れる。
口の中は乾いていた。
時計を見ると八時五十分。
もうすぐお爺さんがやって来る。
そして……。
ここから立ち上がることすらできなくて、茂みの陰に座ったままお爺さんが通り過ぎるのを見送った。
背中がどんどん小さくなっていく。
やっぱり簡単には人を殺せない。
あのお爺さんに僕が恨みを持っているわけでもないし。
せっかくこんなに準備したのに。大きなため息をついた。
『カオルさんを疑う訳じゃないけど――』
彼女の言葉が重く感じた。
翌朝、出社するとすぐに水野がやって来た。
「山瀬んちの方、大変そうじゃないか。大丈夫か?」
「え、何が?」
「お前、ニュース見てないのかよ」
昨日はそれどころじゃなかったし、今朝も落ち込んでたからね。
「通り魔に刺されて女の人が亡くなったんだよ。連続通り魔じゃないかって話だぞ」
あの犯人、とうとう人を殺してしまったのか。今までは怪我人だけだったから大きなニュースになっていなかったけれど、亡くなった人が出たんじゃワイドショーでも取り上げるんだろうな。
段々と慣れていったのかな。慣れるものなのか、聞いてみたい。
「おい、聞いてるのかよ」
「あ、ごめん。前から地元では話題になっていたから驚いちゃって」
「気をつけろよ」
「ありがとう」
僕も次は出来るのかな。
そんなことを考えながら、仕事を始めた。
会社にいても、あの男のことは全くと言っていいほど気にならなくなっていた。それよりも気になることがあるから。
今度の水曜日にもう一度行くか。でも天気予報は雨だ。どうする?
雨だと石段も滑りやすくて、死ぬ可能性はより高くなるはず。
でも傘をさして待つのは目立つだろう。
レインコートでずぶ濡れになると、その後で逃げる時に目立ってしまうかもしれない。
お爺さんも傘を持っているはずだから、とっさに武器として反撃されたら失敗するかも……。
僕の出した答えは、雨なら中止。
水曜、休日で遅く起きた朝は雨が降っていた。
もう二週間が過ぎてしまった。期限までチャンスはあと二回。前回はなぜ失敗したかも考えた。
まずは上ってくるのがお爺さんかどうか、確認できなかったことが一番の原因。この前のときに隠れた場所は上った所から少し離れていたから、下が覗き込めなかった。せめて石段の途中辺りから見える所まで近づいておかないと。
そうすることで、いきなり飛び出して突き落とすことも出来るはず。
正面から行ったのでは相手だって身構えるだろうから、この方が一石二鳥だ。
火曜の夜には久しぶりにネットカフェへ立ち寄った。
「あ、久しぶりだね」と声を掛けてくれた店長との挨拶もそこそこに、ブースに入る。
見馴れた掲示板には、この日も不平不満が連なっていた。その中にミキの名前は見当たらない。彼女も僕と同じように緊張しているのだろうか。
そして迎えた三度目の水曜日。
この日は朝から青空が広がっていた。
前回と同じように支度をして家を出る。
お爺さんが囲碁教室へ行くのも見届けた。念のため、この前入った喫茶店には行かず、少し離れたファミレスへ行った。
八時半には神社下へ着いた。
もう着替えも済ませてある。ゆっくりと石段を上り、隠れる場所を探す。右手にある大きなイチョウの陰ならば、外灯の光は届かないし下からも見えないはずだ。
準備はすべて整った。
二週間前よりもずっと落ち着いているのが自分でもわかる。
そろそろお爺さんが来るはずだ。
すると階段を上ってくる足音が聞こえた。でも駆け足のように早い。
これは――現れたのは若い男だった。
ニット帽を被ってマスクをしている。こちらに気付いた様子はない。
(早く行ってくれ)
そんな僕の願いは届かず、階段から少し離れた所で立ち止まっている。
このままじゃマズい。お爺さんが来ちゃう。
案の定、別の足音が聞こえてきた。
今度はゆっくりとしている。
(頼む、早くいなくなってくれ!)
しかし、男は動かない。一体何をしているんだ。その間にも足音は近づいてきた。
顔が見えてくる。間違いない、亀井のお爺さんだ。
でも、あの男がいたのでは何もできない。
せっかく今夜こそはと、思ってきたのに……。
もうお爺さんは階段を上りきる。
がっくりとして大きなため息をつきそうになった、その時。
「あっ!」
思わず小さな叫び声をあげてしまった。
姿を現したお爺さんに、男がいきなり駆け寄り両手で突いた。
「うわぁー」
叫び声を上げてお爺さんがよろめく。そのはずみで男のマスクに手が掛かった。
もう一度、男が両手を突き出すと、鈍い音を立てながらお爺さんが転げ落ちていく。男は落ちていたマスクを拾うと、裏道へと駆け出して行った。
僕は何が起きたのか理解できず、呆然としていた。
しばらくすると下の方で大きな声が聞こえてきた。通りがかりの人が集まり始めたみたいだ。
(ヤバい、僕もここを出なきゃ)
我に返って、裏道へ向かう。
通りを出たときには辺りに人影もなかった。鼓動が早くなっているのを気付かれないように、下を向きながら駅への道を歩いて行った。
それにしても、あの若い男は一体……。
翌朝、起きてすぐにテレビやネットのニュースを見た。
お爺さんのことはどこも取り上げていなかった。少なくとも、殺人だとは思われていないようだ。でも、助かったという可能性もある。
(確かめなきゃ)
会社に行っても仕事が手につかない。
あの男はねちねちと嫌味を言ってくるけれど、自分のことを心配した方が良いのにと聞き流した。
そうなのだ、もしお爺さんが死んでいれば僕の役目は済んだことになる。
誰がやったかなんて、ミキには分からない。結果が出れば、今度は彼女の番だ。
会社を出るとそのままの足で、ときわ台へと向かった。この二ヶ月で何度も来た道を歩いていく。神社下へ着くと階段の登り口に白い花が供えられていた。
(やっぱり……)
確信を胸にお爺さんの家へと急ぐ。
流石に階段を通る気にはならなかったので、初めて道なりに上っていった。大きな円を描くように道は続いている。
(これじゃ、近道をしたくなるのも分かるなぁ)
十五分ほど歩くと、やっとあの立派な門が見えてきた。門は開けたままになっていて、白黒の幕が張られている。
お爺さんは亡くなったんだ。
帰りの電車では不思議な安心感と共に、あのニット帽の男のことを考えていた。
自分と同じような女性が複数いるらしいとミキは言っていた。きっとその女性に関係しているのだろう。それ程、あの亀井というお爺さんは恨みを買っていたんだな。
まさか交換殺人だったりして。
下を向きながら笑みをこらえた。
金曜の朝は軽やかな気分で会社へと向かった。
僕の役割は幸運な形で終わった。後は待つだけ。
「おはよう」
先を歩いている水野に追いついて声を掛けた。
「あ、おはよう。なんか機嫌がよさそうだな」
「そう? いつも通りだよ」
「いや、いつもは朝からどんよりとした顔してるぞ」
「そうかなぁ」
心当たりは大いにあるんだけどね。
夜はネットカフェへ。
「いらっしゃいませ」
声を掛けてくれたのは店長さんではなくバイトの男性だった。
「珍しいですね、夜はいつも店長さんなのに」
「急用が出来たとかで、無理やり交代させられました」
そう言いながらも、怒っている様子はない。とても穏やかそうな人みたい。
ブースに入り、腰掛ける。
ここの所、気持ちにも余裕がなかったけれど、今夜の僕は違う。
なんてラッキーだったんだろう。自分で人を殺すことなく、嫌なあの男を殺してもらえるなんて。
(ここに幸運の持ち主がいますよ)
廻りのブースにいる見知らぬ人たちへ教えてあげたい。そんな気分。
ミキも亀井のお爺さんが亡くなったことはとっくに知っているはずだ。
来週の火曜日には、早速実行してくれるかもしれない。
亀井のお爺さんが死んでから初めての火曜日。
今日も朝からあの男は藤崎君を呼びつけて罵声を浴びせている。その様子を横目で見ながら、哀れにさえ思えてきた。
(今夜、死んでしまうかもしれないのに)
あの男がいなくなれば私だけじゃなく、藤崎君だって他の人だって幸せになる。みんなのためでもあるんだ。
昼休みが終わる頃、珍しく藤崎君に声を掛けられた。
「山瀬さん、もう終わったんですか」
「え、何のこと?」
「隠しても無駄ですよ。僕は山瀬さんのことならお見通しですからね」
まさか、あのことを知ってる?
そんな訳あるはずない。
「私には何のことだかさっぱり分からないけど」
「もうすぐ分かりますよね。それまで待ちますよ」
そう言うと、また笑みを浮かべて去っていく。いつも一方的だし、何を知っているというのか。
彼が薄気味悪くなってきた。
夜は駅前のラーメン屋さんで食事をしてから、ネットカフェへ立ち寄る。
一人暮らしの僕は家にいてもアリバイが作れない。ミキが終わらせるまで、毎週火曜の夜はここで過ごすことになる。
扉を開けると、いつものように反応がない。むしろ声を掛けられると調子がくるってしまう。
カウンターへ回り込んで、やっと店長が顔を上げる。
「ごめんごめん、また気が付かなくて」
ヘッドホンを外しながら受付作業を始めた。
「悪いなんて全然思っていませんよね」
「山瀬さんにはバレてるか」
悪びれもせずニコニコしている。
この人の憎めないところだ。
「どうぞごゆっくり」
店長の声を背に、いつものようにブースへと向かう。
こうしてモニターを眺めながらぼぉっと過ごすのも嫌いじゃない。家に一人でいるよりも居心地がいい。
今まではあのサイトで不平や不満をぶつけて、似たような立場の人たちと共感してきたけれど、あの男がいなくなったらサイトには行かなくなるかもしれない。
それでもこの店にはきっと足を運ぶだろう。
(ミキは今頃どうしているかな)
かすかな期待を胸にしながら、ネットを彷徨っていた。
木曜の朝はこれまでとは違う緊張感で、早く会社に行きたいような、行くのが怖いようなそんな気持ち。
休日の昨日、会社からの連絡はなかった。あの男も一人暮らしだから、奴の身に何かあってもまだ発覚していない可能性もある。
ドキドキしながら出社すると――あの男は来ていないっ。
マジか!? と思ったら、体調が悪くて休むとの連絡が入っていたらしい。
連絡してきたと言うことは、まだ生きてるんだぁ。と、がっかりしていたら、水野が「天敵がいないと寂しいのか」とからかってきた。
「そんな訳ないでしょ」と返す。
楽しみは一週間お預けになった。
それからの七日間はとても長く感じた。
小学生の頃にクリスマスを楽しみにしていた頃のように。あの男から文句を言われる度に、あと五日、あと三日と心の中でカウントダウンしていた。
そして迎えた火曜日。
約束の一ヶ月で最後の火曜日だ。ミキは今夜実行するはず。
仕事も終わり、高揚した気分でネットカフェへと向かう。
店が見えたあたりで、警察官が二人、階段を降りてきた。すれ違う時に僕の方を見ていた気がする。
(何だ? バレた? そんなはずは……)
僕の中のマイナス思考が加速する。
ミキが捕まったのか?
それにしては、僕へ辿り着くのが早すぎる。
亀井のお爺さんの件は事故として処理されたはずだし。
いや、そう思っていたのは僕だけか。警察へ確認したわけじゃないし。確認なんてしたら怪しいと思われちゃうし。あの時、誰かに見られていたのかも。
店への階段を上がりながらも、負の妄想がぐるぐると廻っていた。
「いらっしゃい」
入るとすぐに店長から声が掛かる。今まで警察官の対応をしていたのだろう。
「今、警察が来てましたよね」
「あぁ、また例の通り魔が出たらしいよ。駅の反対側で男の人が刺されたんだって」
なんだ、そうだったのか。って、それも怖いじゃないか。
「不審な人物が来たら通報してくれってさ」
「そうですか。早く犯人が捕まるといいですね」
少し気持ちを落ち着けてブースへ入る。
新着ニュースにも通り魔殺人のことが載っていた。刺された人は高齢の男性で、意識不明の重体らしい。関係のない人を次々と刺して殺すという感覚は僕には分からない。
僕たちがやったことは、殺したいほど憎い相手を代わりに殺してあげる、というものだ。
この犯人とは理由が違う。
結局、僕自身は何もしなかったけれど。そして、もうすぐ僕が殺したいほど憎かったあの男も……。
画面を眺めながら、時間が進むのをとても長く感じていた。
あまり遅くなると帰りが怖いので、十一時半を過ぎた頃に店を出た。
(この後に一人でいてもアリバイになるのかなぁ)
家へ帰り、誰かに電話でもしようかと思ったけれど、こんな時間にいきなり電話するのも後で怪しまれるかも。
宅配ピザは深夜配達ってしていないのかな。これも怪しいか。
大きな物音を立てるとか。近所迷惑だよな。
うだうだとしている間に二時近くなってしまった。
もういいや。寝ちゃおう。明日にはいい報せが聞けると信じて。
遅くまで寝ていてもいいのに、会社へ行く日と同じように目が覚めてしまった。
(どうなったんだろう)
気になる。でも確かめる方法がない。あの男も含めて、うちの部署は休みの日。今日の出社当番は水野のはずだ。
(奴に聞いてみようか)
でも何て聞く?
聞いたところで、会社へ連絡がいかないかもと先週分かったはずじゃないか。
焦るな、待つしかない。
それでもじっとしていられず、家からあのサイトへアクセスしてみた。チャットルームはもちろん、掲示板にもミキの痕跡はない。寝るまでに何度もアクセスしてみたけれど、結果は同じだった。
翌朝。
いつもよりも早く家を出た。
一報を聞いた時もわざとらしくならないように驚かなきゃ、そんなことを考えながら会社へ入る。自席に座っていても落ち着かない。
「おはよう。珍しく早いじゃないか」
出社してきた水野が声を掛けてきた。
「おはよう。ちょっと早く起きちゃったから」
そこは嘘じゃない。あまり眠れなかった。あの様子だと、やっぱり昨日は何も連絡がなかったんだ。
確かめてみようと奴の方へ向き直った時だった。
「あ、おはようございます。木戸部長」
水野が入り口の方へ顔を向けた。
あれほど驚かないようにとしていたのに、その姿を見て声にならないほど驚いてしまった。誰にも気づかれなかったみたいだけれど。
(どうして……)
どうしてあの男がここにいるの、なぜ生きているの、どうして……。
昨日はミキと約束した交換殺人の期限だったのに。
まさか――騙された?
そんなはずはない。騙された経験をしているミキなら、そんなことをするはずがない。僕はまだ信じていた。
ネットカフェに寄る気も起きず、まっすぐ家に帰る。
食事の支度をする前にサイトへアクセスし、掲示板を確認した。ミキからのメッセージはない。
「どうなった?」とタイトルをつけてチャットルームを立ち上げた。しかし、入室を知らせるチャイム音は深夜まで鳴ることはなかった。
それからの数日は家へ帰るとサイトにアクセスしていた。
もちろん、ミキが実行することをあきらめず、アリバイのために火曜の夜はネットカフェで過ごした。
だけど翌週も、翌々週も木曜になるとあの男は出社してきた。
僕は騙されたんだ。
彼女のことを信じていたのに。怒りなのか、悲しみなのか、それとも失望なのか、今でも複雑な思いが渦巻いている。ほんの少しだけ、安心した気もするし。
(この数カ月は一体何だったんだろう)
それでも、今までと変わったことが一つだけある。
あの男のことが怖くなくなった。
文句を言われようと理不尽な叱責を受けようと、聞き流す余裕が生まれた。
(いつ死ぬか分からないんだし)
そう思えるようになったんだ。心にゆとりが出来たら、あの男からの暴言も日に日に少なくなっていった。僕の反応がつまらなくなったのかもしれない。
こうしていつの間にか、何事もなかったかのように穏やかな日々を過ごし始めていたある日、それは始まった。
家に帰ってきて郵便受けを開ける。
何枚かのチラシと共に、あて名のない封筒が一つ。
封もしていない。
中には一枚の紙が入っていた。開くと、定規で書いたような直線的で角ばった文字が目に入る。
『ツギハ オマエノバンダ』
「何これ……」
思わず声に出してしまった。
いったいこれは――お前の番と言われて思いつくのは一つしかない。
僕に誰かを殺せというのか。でも亀井のお爺さんは死んでいる。
そもそもミキからの手紙なのかな。
交換殺人のことは彼女しか知らないはず。でも、彼女ならば僕にこんなことを言ってくる理由がない。
僕がやったわけじゃないけれど、もう目的は達せられたはずだ。
どうなってるんだ?
部屋に入ってからも、この手紙のことをずっと考えた。
宛名もないし、郵便受けへ直接入れたはず。どうして僕の家が分かったんだろう?
彼女にはハンドルネームしか教えていない。
(あっ!)
そう言えば、ミキはITに詳しいって言ってたっけ。部長のことが気になって、家からアクセスしていたから辿られたのか。そのリスクを避けるためにネットカフェからアクセスするようにしていたのに……。
部長のことを話しているから、会社の方からも探れるはずだ。
交換殺人という刺激的で特異な状況にはまって、冷静さを欠いていた。その気になれば僕のことなんてすぐに分かるのだろう。
(まてよ……)
もう一度、角ばった文字を読み返す。
(これって、次は僕が殺される番ってこと!?)
てっきり僕への脅迫だと思ったけれど、よく見れば予告かもしれない。
亀井のお爺さんを殺す計画を知っているのは僕だけ。
どうせ一人殺すなら、関係のない木戸部長ではなく僕を殺せば口封じにもなって一石二鳥だ。
これならミキが僕にこれを送り付けた理由も納得がいく。いや、納得しちゃダメだよ、ヤバいじゃないか。
家までバレてるんだから隠れるわけにもいかない。どうしよう……。
(待て、落ち着け)
自分に言い聞かせる。
他に可能性はないかな。
脅迫でもなく、殺害予告でもないとしたら――いたずら、か。
(藤崎君?)
急に彼のことが頭に浮かんだ。最近は何やら思わせぶりなことを言ってきてたし、僕の住所だってすぐに調べられる。
でも彼だとしたら、なぜ?
あれを単なるいたずらとして気にも留めないような性格じゃないことを、彼なら知っている。誰かに相談するはず。相談するなら水野だろう。ここまでは予測も簡単だ。
そこで藤崎君が割って入り「僕が調べます」って自作自演で解決。
彼に対する好感度が、僕の中で急上昇!
何だ、この流れ。変な妄想しちゃったじゃないか。
とにかく、あれを送り付けた犯人を捜そう。
まずは藤崎君からだ。
戸締りを厳重に確かめてから寝ることにした。
翌日、昼休みにはいるとすぐに藤崎君を捕まえた。
「ちょっと話があるんだけど」
「何ですか」
動揺している素振りはないな。
「この前さ、僕に『もう終わったのか』みたいなことを言ってたでしょ。あれはどういう意味?」
「えっ、いや、どういう意味って……」
「その前には『もう決めたのか』って言ってたよね。僕のことなら全部分かってるみたいなことも。何を知ってるっていうの?」
「あの、いいんですか、言っちゃっても」
廻りを伺うように見渡している。
(え、本当にこの人……知ってるの?)
内心ビビりながら、黙ってうなづいた。
「山瀬さん、会社辞めるんですよね」
はぁっ? 何言ってんだ、彼は。
「部長のパワハラに耐えられず、辞めることを決心したのが僕には分かりました。山瀬さん、すぐに表情に出るから。それで、すでに新しい会社の面接も終わった。そうでしょ?」
あぁ。とんだ勘違いをしてたんだな、彼は。思い込みが激しいというか。
「会社、辞めないから」
「え! そうなんですか?」
マジで驚いている彼に「変な噂、立てないでよ」と念押しする。大人しい彼だから、その点は安心だけれど。
でも、これで藤崎君は関係ないことが分かった。
午後になって、外回りをしている間もあの手紙の送り主のことが頭から離れない。
やはりミキなのか。
会社へ帰ると、すぐに水野がやって来た。
「山瀬の担当案件について、会社宛てに問い合わせメールが来ていたから返信しておいたよ」
「ありがとう。内容は?」
「案件の具体的なことじゃなくて、提出する書類について。担当者として山瀬の名前を入れておいたから連絡があるかもしれないし、あとで見ておいて」
「わかった」
画面でメールを目で追っていても、内容が入ってこない。
駄目だ、早く何とかしないと。
家の郵便受けを開けると、また封筒が入っている。
昨日と同じだ。
中には『ツギハ オマエノバンダ』と書かれた紙。
誰かに見られているような気がして、辺りを見回した。部屋には入らず、今来た道を戻っていく。
「あ、いらっしゃい」
たまたま入口の方に顔を向けていた店長がすぐに気づいた。大きなヘッドホンを外して首に掛ける。
「店長さんはパソコンにも詳しいんですか」
力を借りれないかと思い、聞いてみた。
「設定とかハードのトラブルには強いけれど。何?」
「いや、何か困ったら教えてもらおうかなと思って」
「いつでも言って。私で出来ることなら、手を貸すよ」
今の感じだと、ハッカー的なことをお願いできそうにはないな。
とにかく、ミキの痕跡を探そう。
『あなたが殺したい人は誰ですか』――すべての始まりは、この闇サイトだ。
掲示板を順に目で追っていく。今日もミキの書き込みは見つからない。
(もうハンドルネームを変えているかもしれないな)
ログ履歴やIDを調べる技術は僕にはない。
何とか手掛かりでもと思って、チャットルームに「ミキを知っている人」という部屋を作った。
(僕の他にミキと接触している人がいるだろうか)
待っている間に『亀井 順二』の名前で検索を掛けてみる。悪どいことをしていたなら、何かしら引っ掛かるかもと期待をしたけれど、亡くなった時の記事すらなかった。
思いつくまま色々なワードを入れてみたけれど、成果はない。
もう二時間が過ぎ、あきらめかけていた時に入室を知らせる電子音が鳴った。
あわてて画面を切り替える。
入室者の名前はミキと表示されていた。
『ミキ本人なの?』
『そうだよ』
『どうして連絡をくれなかったの』
『それはこっちの台詞だよ』
『どういうこと?』
『とぼけるなよ。カオルは何もしていないじゃないか』
どうして知ってるんだ。
キーボードを打つ手が止まっていると、ミキが続けて書き込んだ。
『会って話がしたい』
『ボクも聞きたいことがある』
『明日の夜十時に、あの場所で』
『あの場所って?』
『ときわ台の神社だよ』
『分かった』
そう書き込むと、ミキは退室していった。
ミキに会って確かめなくちゃならないことがある。
明日の夜、すべてが分かるはずだ。