翌朝は、会社へ行こうにも足に重りが付いたように動かない。
あの男が本社へ戻るという淡い期待がなくなった今、微かな希望さえない。この虐げられた時間があと三年、いや五年、それ以上にも続いてしまうかもしれない。
好きな仕事なのに、あの男がいるだけで苦しく、辛い。
あの男さえいなくなれば……。
これって、ミキと同じじゃないか。
相手がいなくならない限りは訪れない自由。
ふいに彼女が語った思いに結びつけてしまった。
一度でも頭に浮かんでしまうと、なかなか消えてはくれない。
僕は彼女の言葉に捉われていた。
その日も午後になってあの男に呼び出されていた。
書類の内容が気に入らない、という理由でだ。
データをまとめた報告書なんだから、気に入るも何もないだろう。数字を改ざんしろっていうのかよ。愚図だの使えないだの、さんざん嫌味を続けた後にあの男は言った。
「お前は邪魔なんだよ!」
その一言で僕の中の何かが切れた。
黙ってお辞儀をすると、まだ何か言いたそうにしているあの男を残して自席に戻った。
言われたとおりに書類を修正していく。
様子をうかがっていた水野がそっと近づいてきた。
「大丈夫か」
声を潜めて声を掛けてくれた。
「うん、大丈夫」
ヤツの顔を見てしまうと涙が出てきそうだったので、モニターから目を離さずにキーボードを叩く。僕の肩をポンと一つ叩いて、水野は戻っていった。
(ありがとう。でも……)
少しでも早く仕事を終わらせようと、キーを打ち続けた。
水野の誘いも断って、帰りを急いだ。
今夜はどうしてもミキに会いたい。
明日の水曜は休みだし、深夜まで粘るのも覚悟している。いつものコンビニではサンドイッチと野菜ジュース、お菓子も選んだ。
電子音と共に店へ入っても、また店長は気付いてくれない。
ヘッドホンだけじゃなく、何かパソコンに向かって作業しているみたいだ。
「こんばんは」
声を掛けると、慌てて顔を上げた。
「あ、ごめん。いらっしゃい」
「いつものことだから気にしてませんけどぉ」
受付作業をしている店長へ、冗談っぽく嫌味を言ってやった。
「いやぁ、会員証の更新時期なんでデータの整理をしていたんだよ。山瀬さんも、帰りには新しいカードを用意しておくから」
分かりました、と応えてブースへ向かう。
おなかが減ったので買ってきたサンドイッチを先に食べ始め、ひと息ついたところでパソコンを立ち上げる。
「あっ」
新着ニュースを見て、思わず声を出してしまった。周りの気配をうかがう。
(驚かせてごめんなさい)
誰も見ていないのに、ブースの中で頭を下げる。
またこの近くで人が切られたらしい。
今度は北側、家の方だ。七十二歳の男性が背中を切られて重傷と書いてある。やはり犯人は捕まっていない。
(いやだなぁ)
帰る時間が遅くなったら……ビビりな性格から悪い連想が湧き上がる。
(早く帰ろうかな)
(いや、ミキに会うまでは)
(でも帰り道で襲われたら)
せっかく気合入れて来たのに、空気が抜けるようにしぼんでいく。
そうだ、ミキが早く来てくれさえすればいいのだ。
気を取り直してアクセスする。
すぐにチャットルームへ移動して「話の続き」という部屋を作った。
(頼む、早く来て)
そう願いながらスマホでゲームを始めた。時折、掲示板を覗いてみる。ここに書かれた怨嗟の言葉たちを見ていると、あの男への憎しみや怒りが浮かんでくる。
ミキにこの想いを伝えたかった。
それなのに、彼女はなかなか現れない。
時計は九時を過ぎようとしていた。ここに来て、もうすぐ二時間になる。
(もう今夜は諦めよう)
掲示板にメッセージを書き込んだ。ただ一言「決めたから」と。
「あれ、もう帰っちゃうの」という店長の言葉を聞きながら、新しい会員証を受け取り家へと急いだ。
水曜日は基本的に僕の休日。
天気も良かったので、朝から洗濯をして部屋の掃除もした。
昨夜は無事に帰れたけれど、犯人が捕まったというニュースはない。犯人が捕まるまでは毎日が危険なのだから、急いで帰る必要はなかったのかも……と今朝になって思った。
今日こそはミキに会えるといいな。
いつも七時頃にチャットしているから、今夜もその時間に合わせて行ってみよう。
夕食は家で済ませ、昨日コンビニで買ったお菓子を持って出掛けた。
「いらっしゃい。私服なんて珍しいね」
「今日は休みだったので」
「そうなんだ。休みの日にまで来てもらえるなんて、うれしいねぇ」
店長はお世辞抜きに喜んでいる。
(昨日ミキに会えていれば、わざわざ来なかったんですけどね)
心の中でも軽く頭を下げた。
すぐにパソコンを立ち上げて、あのサイトへアクセス。
昨日、帰る時に書き込んだ掲示板を見ると――ミキからのコメントがある!
『オッケー』
あの後、来てたのかぁ。やっぱり、遅くまで粘ればよかった。
でも、とりあえず僕の意思は伝わった。今夜も来てくれたらいいけれど。
また「話の続き」を作って、ミキを待つ。
十分ほどで、入室を知らせる呼び鈴が鳴った。
『カオルさん、こんばんは。昨日はごめんなさい』
『いや、こちらこそ。もう少し待てばよかった』
『とうとう決心してくれたんだね』
『うん。ボクもあの男がいなくならない限り、逃げ出せないから』
『本当に大丈夫?』
『大丈夫。決めたからには、やらなきゃ』
『それじゃ、まずは殺したい相手のことを詳しく知らないとね。まずは私から』
こんな風に誰かを殺す話を進めているなんて、隣のブースにいる人は知りもしないだろう。
僕とミキだけの秘密だ。
キーボードを打ちながら、なぜかテンションが上がっていく。
ミキが殺したいお爺さんは亀井順二、六十七歳。
ここからは電車で三十分ほどの三河市ときわ台に一人で住んでいる。家族はいないし、身の回りのことも自分でやっているらしい。
あの男の名前や住所もミキに伝えた。
『何かにメモしておいてね。間違えないように』
スマホのメモ帳アプリに書き込む。
『どうやって殺すかだけど、事故に見せかけるのが一番だよね』
『殺すところを誰かに見られちゃったら意味ないし』
『何かいい案を考えなきゃ』
『それなんだけど――』
ミキはお爺さんを殺す案まで考えていた。さすがだ。
お爺さんの家は高台にあって、近くに神社があるそうだ。そこに五十段くらいの階段がある。毎週水曜の夜には駅前の囲碁教室に通っていて、近道だからと必ずその階段を通るらしい。
帰りに待ち伏せして、上ってきたところを突き落とす。
境内は外灯も少ないし、高台だから人の目につかない。僕は水曜は休みの日。
もってこいのシチュエーションじゃないか!
『この方法なら、女性にだってできるでしょ』
『ごめん。ボクの方は何にも考えていなくて』
『単身赴任なら行きつけの店とかありそうだよね。ちょっと調べてみるよ』
『ボクは来週の水曜日にお爺さんや神社の下見をしてみる』
『それじゃ、来週もこれくらいの時間にチャットで待ち合わせしようよ』
いよいよ僕たちの交換殺人が動き出した。
あの男が本社へ戻るという淡い期待がなくなった今、微かな希望さえない。この虐げられた時間があと三年、いや五年、それ以上にも続いてしまうかもしれない。
好きな仕事なのに、あの男がいるだけで苦しく、辛い。
あの男さえいなくなれば……。
これって、ミキと同じじゃないか。
相手がいなくならない限りは訪れない自由。
ふいに彼女が語った思いに結びつけてしまった。
一度でも頭に浮かんでしまうと、なかなか消えてはくれない。
僕は彼女の言葉に捉われていた。
その日も午後になってあの男に呼び出されていた。
書類の内容が気に入らない、という理由でだ。
データをまとめた報告書なんだから、気に入るも何もないだろう。数字を改ざんしろっていうのかよ。愚図だの使えないだの、さんざん嫌味を続けた後にあの男は言った。
「お前は邪魔なんだよ!」
その一言で僕の中の何かが切れた。
黙ってお辞儀をすると、まだ何か言いたそうにしているあの男を残して自席に戻った。
言われたとおりに書類を修正していく。
様子をうかがっていた水野がそっと近づいてきた。
「大丈夫か」
声を潜めて声を掛けてくれた。
「うん、大丈夫」
ヤツの顔を見てしまうと涙が出てきそうだったので、モニターから目を離さずにキーボードを叩く。僕の肩をポンと一つ叩いて、水野は戻っていった。
(ありがとう。でも……)
少しでも早く仕事を終わらせようと、キーを打ち続けた。
水野の誘いも断って、帰りを急いだ。
今夜はどうしてもミキに会いたい。
明日の水曜は休みだし、深夜まで粘るのも覚悟している。いつものコンビニではサンドイッチと野菜ジュース、お菓子も選んだ。
電子音と共に店へ入っても、また店長は気付いてくれない。
ヘッドホンだけじゃなく、何かパソコンに向かって作業しているみたいだ。
「こんばんは」
声を掛けると、慌てて顔を上げた。
「あ、ごめん。いらっしゃい」
「いつものことだから気にしてませんけどぉ」
受付作業をしている店長へ、冗談っぽく嫌味を言ってやった。
「いやぁ、会員証の更新時期なんでデータの整理をしていたんだよ。山瀬さんも、帰りには新しいカードを用意しておくから」
分かりました、と応えてブースへ向かう。
おなかが減ったので買ってきたサンドイッチを先に食べ始め、ひと息ついたところでパソコンを立ち上げる。
「あっ」
新着ニュースを見て、思わず声を出してしまった。周りの気配をうかがう。
(驚かせてごめんなさい)
誰も見ていないのに、ブースの中で頭を下げる。
またこの近くで人が切られたらしい。
今度は北側、家の方だ。七十二歳の男性が背中を切られて重傷と書いてある。やはり犯人は捕まっていない。
(いやだなぁ)
帰る時間が遅くなったら……ビビりな性格から悪い連想が湧き上がる。
(早く帰ろうかな)
(いや、ミキに会うまでは)
(でも帰り道で襲われたら)
せっかく気合入れて来たのに、空気が抜けるようにしぼんでいく。
そうだ、ミキが早く来てくれさえすればいいのだ。
気を取り直してアクセスする。
すぐにチャットルームへ移動して「話の続き」という部屋を作った。
(頼む、早く来て)
そう願いながらスマホでゲームを始めた。時折、掲示板を覗いてみる。ここに書かれた怨嗟の言葉たちを見ていると、あの男への憎しみや怒りが浮かんでくる。
ミキにこの想いを伝えたかった。
それなのに、彼女はなかなか現れない。
時計は九時を過ぎようとしていた。ここに来て、もうすぐ二時間になる。
(もう今夜は諦めよう)
掲示板にメッセージを書き込んだ。ただ一言「決めたから」と。
「あれ、もう帰っちゃうの」という店長の言葉を聞きながら、新しい会員証を受け取り家へと急いだ。
水曜日は基本的に僕の休日。
天気も良かったので、朝から洗濯をして部屋の掃除もした。
昨夜は無事に帰れたけれど、犯人が捕まったというニュースはない。犯人が捕まるまでは毎日が危険なのだから、急いで帰る必要はなかったのかも……と今朝になって思った。
今日こそはミキに会えるといいな。
いつも七時頃にチャットしているから、今夜もその時間に合わせて行ってみよう。
夕食は家で済ませ、昨日コンビニで買ったお菓子を持って出掛けた。
「いらっしゃい。私服なんて珍しいね」
「今日は休みだったので」
「そうなんだ。休みの日にまで来てもらえるなんて、うれしいねぇ」
店長はお世辞抜きに喜んでいる。
(昨日ミキに会えていれば、わざわざ来なかったんですけどね)
心の中でも軽く頭を下げた。
すぐにパソコンを立ち上げて、あのサイトへアクセス。
昨日、帰る時に書き込んだ掲示板を見ると――ミキからのコメントがある!
『オッケー』
あの後、来てたのかぁ。やっぱり、遅くまで粘ればよかった。
でも、とりあえず僕の意思は伝わった。今夜も来てくれたらいいけれど。
また「話の続き」を作って、ミキを待つ。
十分ほどで、入室を知らせる呼び鈴が鳴った。
『カオルさん、こんばんは。昨日はごめんなさい』
『いや、こちらこそ。もう少し待てばよかった』
『とうとう決心してくれたんだね』
『うん。ボクもあの男がいなくならない限り、逃げ出せないから』
『本当に大丈夫?』
『大丈夫。決めたからには、やらなきゃ』
『それじゃ、まずは殺したい相手のことを詳しく知らないとね。まずは私から』
こんな風に誰かを殺す話を進めているなんて、隣のブースにいる人は知りもしないだろう。
僕とミキだけの秘密だ。
キーボードを打ちながら、なぜかテンションが上がっていく。
ミキが殺したいお爺さんは亀井順二、六十七歳。
ここからは電車で三十分ほどの三河市ときわ台に一人で住んでいる。家族はいないし、身の回りのことも自分でやっているらしい。
あの男の名前や住所もミキに伝えた。
『何かにメモしておいてね。間違えないように』
スマホのメモ帳アプリに書き込む。
『どうやって殺すかだけど、事故に見せかけるのが一番だよね』
『殺すところを誰かに見られちゃったら意味ないし』
『何かいい案を考えなきゃ』
『それなんだけど――』
ミキはお爺さんを殺す案まで考えていた。さすがだ。
お爺さんの家は高台にあって、近くに神社があるそうだ。そこに五十段くらいの階段がある。毎週水曜の夜には駅前の囲碁教室に通っていて、近道だからと必ずその階段を通るらしい。
帰りに待ち伏せして、上ってきたところを突き落とす。
境内は外灯も少ないし、高台だから人の目につかない。僕は水曜は休みの日。
もってこいのシチュエーションじゃないか!
『この方法なら、女性にだってできるでしょ』
『ごめん。ボクの方は何にも考えていなくて』
『単身赴任なら行きつけの店とかありそうだよね。ちょっと調べてみるよ』
『ボクは来週の水曜日にお爺さんや神社の下見をしてみる』
『それじゃ、来週もこれくらいの時間にチャットで待ち合わせしようよ』
いよいよ僕たちの交換殺人が動き出した。