会社にいても、あの男のことは全くと言っていいほど気にならなくなっていた。それよりも気になることがあるから。
今度の水曜日にもう一度行くか。でも天気予報は雨だ。どうする?
雨だと石段も滑りやすくて、死ぬ可能性はより高くなるはず。
でも傘をさして待つのは目立つだろう。
レインコートでずぶ濡れになると、その後で逃げる時に目立ってしまうかもしれない。
お爺さんも傘を持っているはずだから、とっさに武器として反撃されたら失敗するかも……。
僕の出した答えは、雨なら中止。
水曜、休日で遅く起きた朝は雨が降っていた。
もう二週間が過ぎてしまった。期限までチャンスはあと二回。前回はなぜ失敗したかも考えた。
まずは上ってくるのがお爺さんかどうか、確認できなかったことが一番の原因。この前のときに隠れた場所は上った所から少し離れていたから、下が覗き込めなかった。せめて石段の途中辺りから見える所まで近づいておかないと。
そうすることで、いきなり飛び出して突き落とすことも出来るはず。
正面から行ったのでは相手だって身構えるだろうから、この方が一石二鳥だ。
火曜の夜には久しぶりにネットカフェへ立ち寄った。
「あ、久しぶりだね」と声を掛けてくれた店長との挨拶もそこそこに、ブースに入る。
見馴れた掲示板には、この日も不平不満が連なっていた。その中にミキの名前は見当たらない。彼女も僕と同じように緊張しているのだろうか。
そして迎えた三度目の水曜日。
この日は朝から青空が広がっていた。
前回と同じように支度をして家を出る。
お爺さんが囲碁教室へ行くのも見届けた。念のため、この前入った喫茶店には行かず、少し離れたファミレスへ行った。
八時半には神社下へ着いた。
もう着替えも済ませてある。ゆっくりと石段を上り、隠れる場所を探す。右手にある大きなイチョウの陰ならば、外灯の光は届かないし下からも見えないはずだ。
準備はすべて整った。
二週間前よりもずっと落ち着いているのが自分でもわかる。
そろそろお爺さんが来るはずだ。
すると階段を上ってくる足音が聞こえた。でも駆け足のように早い。
これは――現れたのは若い男だった。
ニット帽を被ってマスクをしている。こちらに気付いた様子はない。
(早く行ってくれ)
そんな僕の願いは届かず、階段から少し離れた所で立ち止まっている。
このままじゃマズい。お爺さんが来ちゃう。
案の定、別の足音が聞こえてきた。
今度はゆっくりとしている。
(頼む、早くいなくなってくれ!)
しかし、男は動かない。一体何をしているんだ。その間にも足音は近づいてきた。
顔が見えてくる。間違いない、亀井のお爺さんだ。
でも、あの男がいたのでは何もできない。
せっかく今夜こそはと、思ってきたのに……。
もうお爺さんは階段を上りきる。
がっくりとして大きなため息をつきそうになった、その時。
「あっ!」
思わず小さな叫び声をあげてしまった。
姿を現したお爺さんに、男がいきなり駆け寄り両手で突いた。
「うわぁー」
叫び声を上げてお爺さんがよろめく。そのはずみで男のマスクに手が掛かった。
もう一度、男が両手を突き出すと、鈍い音を立てながらお爺さんが転げ落ちていく。男は落ちていたマスクを拾うと、裏道へと駆け出して行った。
僕は何が起きたのか理解できず、呆然としていた。
しばらくすると下の方で大きな声が聞こえてきた。通りがかりの人が集まり始めたみたいだ。
(ヤバい、僕もここを出なきゃ)
我に返って、裏道へ向かう。
通りを出たときには辺りに人影もなかった。鼓動が早くなっているのを気付かれないように、下を向きながら駅への道を歩いて行った。
それにしても、あの若い男は一体……。
翌朝、起きてすぐにテレビやネットのニュースを見た。
お爺さんのことはどこも取り上げていなかった。少なくとも、殺人だとは思われていないようだ。でも、助かったという可能性もある。
(確かめなきゃ)
会社に行っても仕事が手につかない。
あの男はねちねちと嫌味を言ってくるけれど、自分のことを心配した方が良いのにと聞き流した。
そうなのだ、もしお爺さんが死んでいれば僕の役目は済んだことになる。
誰がやったかなんて、ミキには分からない。結果が出れば、今度は彼女の番だ。
会社を出るとそのままの足で、ときわ台へと向かった。この二ヶ月で何度も来た道を歩いていく。神社下へ着くと階段の登り口に白い花が供えられていた。
(やっぱり……)
確信を胸にお爺さんの家へと急ぐ。
流石に階段を通る気にはならなかったので、初めて道なりに上っていった。大きな円を描くように道は続いている。
(これじゃ、近道をしたくなるのも分かるなぁ)
十五分ほど歩くと、やっとあの立派な門が見えてきた。門は開けたままになっていて、白黒の幕が張られている。
お爺さんは亡くなったんだ。
帰りの電車では不思議な安心感と共に、あのニット帽の男のことを考えていた。
自分と同じような女性が複数いるらしいとミキは言っていた。きっとその女性に関係しているのだろう。それ程、あの亀井というお爺さんは恨みを買っていたんだな。
まさか交換殺人だったりして。
下を向きながら笑みをこらえた。
金曜の朝は軽やかな気分で会社へと向かった。
僕の役割は幸運な形で終わった。後は待つだけ。
「おはよう」
先を歩いている水野に追いついて声を掛けた。
「あ、おはよう。なんか機嫌がよさそうだな」
「そう? いつも通りだよ」
「いや、いつもは朝からどんよりとした顔してるぞ」
「そうかなぁ」
心当たりは大いにあるんだけどね。
夜はネットカフェへ。
「いらっしゃいませ」
声を掛けてくれたのは店長さんではなくバイトの男性だった。
「珍しいですね、夜はいつも店長さんなのに」
「急用が出来たとかで、無理やり交代させられました」
そう言いながらも、怒っている様子はない。とても穏やかそうな人みたい。
ブースに入り、腰掛ける。
ここの所、気持ちにも余裕がなかったけれど、今夜の僕は違う。
なんてラッキーだったんだろう。自分で人を殺すことなく、嫌なあの男を殺してもらえるなんて。
(ここに幸運の持ち主がいますよ)
廻りのブースにいる見知らぬ人たちへ教えてあげたい。そんな気分。
ミキも亀井のお爺さんが亡くなったことはとっくに知っているはずだ。
来週の火曜日には、早速実行してくれるかもしれない。
亀井のお爺さんが死んでから初めての火曜日。
今日も朝からあの男は藤崎君を呼びつけて罵声を浴びせている。その様子を横目で見ながら、哀れにさえ思えてきた。
(今夜、死んでしまうかもしれないのに)
あの男がいなくなれば私だけじゃなく、藤崎君だって他の人だって幸せになる。みんなのためでもあるんだ。
昼休みが終わる頃、珍しく藤崎君に声を掛けられた。
「山瀬さん、もう終わったんですか」
「え、何のこと?」
「隠しても無駄ですよ。僕は山瀬さんのことならお見通しですからね」
まさか、あのことを知ってる?
そんな訳あるはずない。
「私には何のことだかさっぱり分からないけど」
「もうすぐ分かりますよね。それまで待ちますよ」
そう言うと、また笑みを浮かべて去っていく。いつも一方的だし、何を知っているというのか。
彼が薄気味悪くなってきた。
夜は駅前のラーメン屋さんで食事をしてから、ネットカフェへ立ち寄る。
一人暮らしの僕は家にいてもアリバイが作れない。ミキが終わらせるまで、毎週火曜の夜はここで過ごすことになる。
扉を開けると、いつものように反応がない。むしろ声を掛けられると調子がくるってしまう。
カウンターへ回り込んで、やっと店長が顔を上げる。
「ごめんごめん、また気が付かなくて」
ヘッドホンを外しながら受付作業を始めた。
「悪いなんて全然思っていませんよね」
「山瀬さんにはバレてるか」
悪びれもせずニコニコしている。
この人の憎めないところだ。
「どうぞごゆっくり」
店長の声を背に、いつものようにブースへと向かう。
こうしてモニターを眺めながらぼぉっと過ごすのも嫌いじゃない。家に一人でいるよりも居心地がいい。
今まではあのサイトで不平や不満をぶつけて、似たような立場の人たちと共感してきたけれど、あの男がいなくなったらサイトには行かなくなるかもしれない。
それでもこの店にはきっと足を運ぶだろう。
(ミキは今頃どうしているかな)
かすかな期待を胸にしながら、ネットを彷徨っていた。
木曜の朝はこれまでとは違う緊張感で、早く会社に行きたいような、行くのが怖いようなそんな気持ち。
休日の昨日、会社からの連絡はなかった。あの男も一人暮らしだから、奴の身に何かあってもまだ発覚していない可能性もある。
ドキドキしながら出社すると――あの男は来ていないっ。
マジか!? と思ったら、体調が悪くて休むとの連絡が入っていたらしい。
連絡してきたと言うことは、まだ生きてるんだぁ。と、がっかりしていたら、水野が「天敵がいないと寂しいのか」とからかってきた。
「そんな訳ないでしょ」と返す。
楽しみは一週間お預けになった。
それからの七日間はとても長く感じた。
小学生の頃にクリスマスを楽しみにしていた頃のように。あの男から文句を言われる度に、あと五日、あと三日と心の中でカウントダウンしていた。
そして迎えた火曜日。
約束の一ヶ月で最後の火曜日だ。ミキは今夜実行するはず。
仕事も終わり、高揚した気分でネットカフェへと向かう。
店が見えたあたりで、警察官が二人、階段を降りてきた。すれ違う時に僕の方を見ていた気がする。
(何だ? バレた? そんなはずは……)
僕の中のマイナス思考が加速する。
ミキが捕まったのか?
それにしては、僕へ辿り着くのが早すぎる。
亀井のお爺さんの件は事故として処理されたはずだし。
いや、そう思っていたのは僕だけか。警察へ確認したわけじゃないし。確認なんてしたら怪しいと思われちゃうし。あの時、誰かに見られていたのかも。
店への階段を上がりながらも、負の妄想がぐるぐると廻っていた。
「いらっしゃい」
入るとすぐに店長から声が掛かる。今まで警察官の対応をしていたのだろう。
「今、警察が来てましたよね」
「あぁ、また例の通り魔が出たらしいよ。駅の反対側で男の人が刺されたんだって」
なんだ、そうだったのか。って、それも怖いじゃないか。
「不審な人物が来たら通報してくれってさ」
「そうですか。早く犯人が捕まるといいですね」
少し気持ちを落ち着けてブースへ入る。
新着ニュースにも通り魔殺人のことが載っていた。刺された人は高齢の男性で、意識不明の重体らしい。関係のない人を次々と刺して殺すという感覚は僕には分からない。
僕たちがやったことは、殺したいほど憎い相手を代わりに殺してあげる、というものだ。
この犯人とは理由が違う。
結局、僕自身は何もしなかったけれど。そして、もうすぐ僕が殺したいほど憎かったあの男も……。
画面を眺めながら、時間が進むのをとても長く感じていた。
あまり遅くなると帰りが怖いので、十一時半を過ぎた頃に店を出た。
(この後に一人でいてもアリバイになるのかなぁ)
家へ帰り、誰かに電話でもしようかと思ったけれど、こんな時間にいきなり電話するのも後で怪しまれるかも。
宅配ピザは深夜配達ってしていないのかな。これも怪しいか。
大きな物音を立てるとか。近所迷惑だよな。
うだうだとしている間に二時近くなってしまった。
もういいや。寝ちゃおう。明日にはいい報せが聞けると信じて。
遅くまで寝ていてもいいのに、会社へ行く日と同じように目が覚めてしまった。
(どうなったんだろう)
気になる。でも確かめる方法がない。あの男も含めて、うちの部署は休みの日。今日の出社当番は水野のはずだ。
(奴に聞いてみようか)
でも何て聞く?
聞いたところで、会社へ連絡がいかないかもと先週分かったはずじゃないか。
焦るな、待つしかない。
それでもじっとしていられず、家からあのサイトへアクセスしてみた。チャットルームはもちろん、掲示板にもミキの痕跡はない。寝るまでに何度もアクセスしてみたけれど、結果は同じだった。
翌朝。
いつもよりも早く家を出た。
一報を聞いた時もわざとらしくならないように驚かなきゃ、そんなことを考えながら会社へ入る。自席に座っていても落ち着かない。
「おはよう。珍しく早いじゃないか」
出社してきた水野が声を掛けてきた。
「おはよう。ちょっと早く起きちゃったから」
そこは嘘じゃない。あまり眠れなかった。あの様子だと、やっぱり昨日は何も連絡がなかったんだ。
確かめてみようと奴の方へ向き直った時だった。
「あ、おはようございます。木戸部長」
水野が入り口の方へ顔を向けた。
あれほど驚かないようにとしていたのに、その姿を見て声にならないほど驚いてしまった。誰にも気づかれなかったみたいだけれど。
(どうして……)
どうしてあの男がここにいるの、なぜ生きているの、どうして……。
昨日はミキと約束した交換殺人の期限だったのに。
まさか――騙された?
そんなはずはない。騙された経験をしているミキなら、そんなことをするはずがない。僕はまだ信じていた。
ネットカフェに寄る気も起きず、まっすぐ家に帰る。
食事の支度をする前にサイトへアクセスし、掲示板を確認した。ミキからのメッセージはない。
「どうなった?」とタイトルをつけてチャットルームを立ち上げた。しかし、入室を知らせるチャイム音は深夜まで鳴ることはなかった。
それからの数日は家へ帰るとサイトにアクセスしていた。
もちろん、ミキが実行することをあきらめず、アリバイのために火曜の夜はネットカフェで過ごした。
だけど翌週も、翌々週も木曜になるとあの男は出社してきた。
僕は騙されたんだ。
彼女のことを信じていたのに。怒りなのか、悲しみなのか、それとも失望なのか、今でも複雑な思いが渦巻いている。ほんの少しだけ、安心した気もするし。
(この数カ月は一体何だったんだろう)
それでも、今までと変わったことが一つだけある。
あの男のことが怖くなくなった。
文句を言われようと理不尽な叱責を受けようと、聞き流す余裕が生まれた。
(いつ死ぬか分からないんだし)
そう思えるようになったんだ。心にゆとりが出来たら、あの男からの暴言も日に日に少なくなっていった。僕の反応がつまらなくなったのかもしれない。
こうしていつの間にか、何事もなかったかのように穏やかな日々を過ごし始めていたある日、それは始まった。
家に帰ってきて郵便受けを開ける。
何枚かのチラシと共に、あて名のない封筒が一つ。
封もしていない。
中には一枚の紙が入っていた。開くと、定規で書いたような直線的で角ばった文字が目に入る。
『ツギハ オマエノバンダ』
「何これ……」
思わず声に出してしまった。
いったいこれは――お前の番と言われて思いつくのは一つしかない。
僕に誰かを殺せというのか。でも亀井のお爺さんは死んでいる。
そもそもミキからの手紙なのかな。
交換殺人のことは彼女しか知らないはず。でも、彼女ならば僕にこんなことを言ってくる理由がない。
僕がやったわけじゃないけれど、もう目的は達せられたはずだ。
どうなってるんだ?
部屋に入ってからも、この手紙のことをずっと考えた。
宛名もないし、郵便受けへ直接入れたはず。どうして僕の家が分かったんだろう?
彼女にはハンドルネームしか教えていない。
(あっ!)
そう言えば、ミキはITに詳しいって言ってたっけ。部長のことが気になって、家からアクセスしていたから辿られたのか。そのリスクを避けるためにネットカフェからアクセスするようにしていたのに……。
部長のことを話しているから、会社の方からも探れるはずだ。
交換殺人という刺激的で特異な状況にはまって、冷静さを欠いていた。その気になれば僕のことなんてすぐに分かるのだろう。
(まてよ……)
もう一度、角ばった文字を読み返す。
(これって、次は僕が殺される番ってこと!?)
てっきり僕への脅迫だと思ったけれど、よく見れば予告かもしれない。
亀井のお爺さんを殺す計画を知っているのは僕だけ。
どうせ一人殺すなら、関係のない木戸部長ではなく僕を殺せば口封じにもなって一石二鳥だ。
これならミキが僕にこれを送り付けた理由も納得がいく。いや、納得しちゃダメだよ、ヤバいじゃないか。
家までバレてるんだから隠れるわけにもいかない。どうしよう……。
(待て、落ち着け)
自分に言い聞かせる。
他に可能性はないかな。
脅迫でもなく、殺害予告でもないとしたら――いたずら、か。
(藤崎君?)
急に彼のことが頭に浮かんだ。最近は何やら思わせぶりなことを言ってきてたし、僕の住所だってすぐに調べられる。
でも彼だとしたら、なぜ?
あれを単なるいたずらとして気にも留めないような性格じゃないことを、彼なら知っている。誰かに相談するはず。相談するなら水野だろう。ここまでは予測も簡単だ。
そこで藤崎君が割って入り「僕が調べます」って自作自演で解決。
彼に対する好感度が、僕の中で急上昇!
何だ、この流れ。変な妄想しちゃったじゃないか。
とにかく、あれを送り付けた犯人を捜そう。
まずは藤崎君からだ。
戸締りを厳重に確かめてから寝ることにした。
翌日、昼休みにはいるとすぐに藤崎君を捕まえた。
「ちょっと話があるんだけど」
「何ですか」
動揺している素振りはないな。
「この前さ、僕に『もう終わったのか』みたいなことを言ってたでしょ。あれはどういう意味?」
「えっ、いや、どういう意味って……」
「その前には『もう決めたのか』って言ってたよね。僕のことなら全部分かってるみたいなことも。何を知ってるっていうの?」
「あの、いいんですか、言っちゃっても」
廻りを伺うように見渡している。
(え、本当にこの人……知ってるの?)
内心ビビりながら、黙ってうなづいた。
「山瀬さん、会社辞めるんですよね」
はぁっ? 何言ってんだ、彼は。
「部長のパワハラに耐えられず、辞めることを決心したのが僕には分かりました。山瀬さん、すぐに表情に出るから。それで、すでに新しい会社の面接も終わった。そうでしょ?」
あぁ。とんだ勘違いをしてたんだな、彼は。思い込みが激しいというか。
「会社、辞めないから」
「え! そうなんですか?」
マジで驚いている彼に「変な噂、立てないでよ」と念押しする。大人しい彼だから、その点は安心だけれど。
でも、これで藤崎君は関係ないことが分かった。
午後になって、外回りをしている間もあの手紙の送り主のことが頭から離れない。
やはりミキなのか。
会社へ帰ると、すぐに水野がやって来た。
「山瀬の担当案件について、会社宛てに問い合わせメールが来ていたから返信しておいたよ」
「ありがとう。内容は?」
「案件の具体的なことじゃなくて、提出する書類について。担当者として山瀬の名前を入れておいたから連絡があるかもしれないし、あとで見ておいて」
「わかった」
画面でメールを目で追っていても、内容が入ってこない。
駄目だ、早く何とかしないと。
家の郵便受けを開けると、また封筒が入っている。
昨日と同じだ。
中には『ツギハ オマエノバンダ』と書かれた紙。
誰かに見られているような気がして、辺りを見回した。部屋には入らず、今来た道を戻っていく。
「あ、いらっしゃい」
たまたま入口の方に顔を向けていた店長がすぐに気づいた。大きなヘッドホンを外して首に掛ける。
「店長さんはパソコンにも詳しいんですか」
力を借りれないかと思い、聞いてみた。
「設定とかハードのトラブルには強いけれど。何?」
「いや、何か困ったら教えてもらおうかなと思って」
「いつでも言って。私で出来ることなら、手を貸すよ」
今の感じだと、ハッカー的なことをお願いできそうにはないな。
とにかく、ミキの痕跡を探そう。
『あなたが殺したい人は誰ですか』――すべての始まりは、この闇サイトだ。
掲示板を順に目で追っていく。今日もミキの書き込みは見つからない。
(もうハンドルネームを変えているかもしれないな)
ログ履歴やIDを調べる技術は僕にはない。
何とか手掛かりでもと思って、チャットルームに「ミキを知っている人」という部屋を作った。
(僕の他にミキと接触している人がいるだろうか)
待っている間に『亀井 順二』の名前で検索を掛けてみる。悪どいことをしていたなら、何かしら引っ掛かるかもと期待をしたけれど、亡くなった時の記事すらなかった。
思いつくまま色々なワードを入れてみたけれど、成果はない。
もう二時間が過ぎ、あきらめかけていた時に入室を知らせる電子音が鳴った。
あわてて画面を切り替える。
入室者の名前はミキと表示されていた。
『ミキ本人なの?』
『そうだよ』
『どうして連絡をくれなかったの』
『それはこっちの台詞だよ』
『どういうこと?』
『とぼけるなよ。カオルは何もしていないじゃないか』
どうして知ってるんだ。
キーボードを打つ手が止まっていると、ミキが続けて書き込んだ。
『会って話がしたい』
『ボクも聞きたいことがある』
『明日の夜十時に、あの場所で』
『あの場所って?』
『ときわ台の神社だよ』
『分かった』
そう書き込むと、ミキは退室していった。
ミキに会って確かめなくちゃならないことがある。
明日の夜、すべてが分かるはずだ。
精算を済ませると店長が声を掛けてきた。
「もう遅い時間だから気をつけて。あの通り魔もまだ捕まってないし」
「最後に襲われた方も、亡くなりましたからね」
「警察もパトロールを強化してるみたいだから、あの後は起きていないけれど心配だよね」
「注意して帰ります」
階段を下りて通りに出る。店長に言われたからではないけれど、つい周りを見回してしまう。
無事に家へ帰っても、さっきのミキとのやり取りが何か引っ掛かっていた。
文字から受ける印象だけど、どこか今までの彼女と違うような……。
でも、神社のことも知っていたし。
あの脅迫文もやはり彼女の仕業なのかな。
どうして僕が何もしなかったことを知っていたのか。
とにかく、明日。
彼女に会うしかない。
翌日の仕事は手につかなかった。ミスも多く、部長に怒鳴られること三回。
顔色も悪かったのか、水野が心配して声を掛けてくれた。
それでも何とか残業も終わらせ、会社を出て約束の神社へと向かう。
ときわ台駅に着いたのは九時前だった。
まだ一時間ある。
喫茶店に入りカフェオレを頼んだ。夕食はまだだけど食べる気にはならない。
九時四十五分になり、店を出て神社へと向かった。
あのときとはまた違う緊張感に包まれている。
鳥居が見えてきた。もう遅い時間だし、人通りは少ない。近づくと石段への登り口辺りにはまだ白い花が置いてあった。
それを横目に見ながらゆっくりと階段を上っていく。踊り場でいったん立ち止まり、上を見上げたけれど暗くてよく見えない。深呼吸を一つしてから、また上り始めた。
境内にたどり着き、スマホで時間を確かめる。
あと五分ほどで約束の十時になる。
相変わらず薄暗くて足元さえよく見えない。
社殿の方へ歩いて行こうとしたとき、右側の暗がりから足音が聞こえた。
(先に来てたのか)
こんな時間にこっそりと潜んでいるなんて、ミキしか考えられない。
暗がりの中から近づいてくる。
ようやく顔が見える距離まで来たとき――
「あっ! あなたは……」
間違いない。
あのとき一瞬見えた顔と同じ、お爺さんを突き落とした男だ。
「あなたが……ミキ?」
「あぁ、そうだよ」
どうなってるんだ。混乱して状況が呑み込めない。
「いや、ミキって女性じゃなかったの……」
「僕は始めから三木と名乗ったじゃないか。ハンドルネームとか適当な名前を付けるのは嫌なんだ」
神経質そうなちょっと高い声をしている。
ミキは早口でまくし立てた。
「君の方こそカオルという男性のふりをして、実際には女性のくせに」
「いや、男性のふりをしたつもりは……」
そう言えば、僕が女性であることをミキには伝えていなかった。
分かっていると勝手に思い込んでいたんだ。同性同士だから共感できる、だからこそ交換殺人をしようと決めたのに。
「あ、あの手紙をボクの家へ入れたのは、あなた?」
「そうだよ! いつまで経っても君は何もしない。だから脅かしてやったのさ」
「どうやって家が分かったの?」
「あのサイトで、君のことを知ってるっていう人から教えてもらったんだよ!」
僕の家まで知ってる人?
いったい誰が……。
「君の言う通り、僕はあの爺さんを殺したんだ! それなのに、どうして君は殺してくれないっ。いつになったら角田を殺してくれるんだよ!」
え、カドタって何の話?
「ちょっと待って。あのお爺さんを殺すように頼んだのはあなたでしょ」
「なに訳の分からないことを言ってるんだよ。君が殺してくれって頼んで来たんじゃないか」
「ボクは頼んでなんかいないよ。僕もミキからあのお爺さんを殺してくれるように頼まれたんだ」
「くだらない言い訳なんかするなっ!」
興奮したのか、男は掴みかかってきた。
彼の手を両手で押さえて抵抗する。
「お、願い、ボクの話、も聞いて」
手に力を込めたまま、話し掛けた。
「あなた、が、お爺、さんを、突き落とし、たとき、ボクも、ここにい、たんだ」
途切れ途切れの言葉しか出せない。
彼のほうが背も高いし、力も強い。
徐々に押されて後ずさりする。
「くっそー! 僕が殺すのを見届けたくせに自分は何もしなかったんだな。馬鹿にしやがってっ!」
ものすごい形相で、彼が力任せに僕を突き飛ばした。
その勢いで数歩後ろへ下がる。
「あっ!」
最後の一歩は、踵が宙を踏んでいた。
バランスを崩し、背中から倒れていく。
石段に後頭部を打ちつけ、転がり落ちていく中で、いくつもの言葉や情景が浮かんでは消えていった。
顔も知らぬ誰かのために人を殺そうとした。
自分が憎む相手を殺してもらうことと引き換えに。
こんなことを考えたことが、そもそもの間違いだったのか。
僕が話したミキは、あの男なんかじゃない。
『この方法なら、女性にだってできるでしょ』
「会社宛てに問い合わせメールが来ていたから返信しておいたよ」
「君のことを知ってるっていう人から教えてもらったんだよ!」
そうか、やっと分かったよ。ミキが誰なのか……。
でも、もう、遅、かった、みた、い、だ。
「ちょっと遅くなっちゃったな」
もうすぐ七時になろうとしている。遺産相続の手続きに、思っていたよりも時間が掛かってしまった。
駅から店へ向かいながらヘッドホンを取り出して、ジューダス・プリーストの『ペインキラー』を聴く。
それにしても――出来過ぎなくらいに上手くいった。
叔父の亀井は資産家で、裕福な暮らしをしていたが身寄りがなく、唯一の肉親である俺にも甘い顔は見せないような人だった。そんな叔父が、遺産を市に寄付するなんて言い出したときには本当に驚いた。
亡くなった親父の弟だから、こっちも色々と世話をしてきたっていうのに。
それで閃いたのが交換殺人。
常連さんの一人に真面目そうな女の子がいて、彼女がうちの店で何をしているのか前から気になってたんだ。こっそり隠しカメラを仕掛けておいたら、やばい闇サイトに入り浸ってることが分かった。
このことを知ってたから、彼女をうまく使えるんじゃないかと思ったね。
まず彼女のハンドルネーム・カオルを使って、三木という男と接触した。
そして彼女が店に来た時にはミキとして取り入る。
二人に叔父への交換殺人を持ち掛けて、どちらでもいいから実行してくれたら御の字。失敗してもこちらには火の粉が掛からない。俺の作り話もすんなり受け入れてくれ、二人とも乗ってきた。
叔父が死んだ時にはどちらがやったのか分からなかったけれど、おそらく男の方が殺したんだろう。あとになってカオルのことを探り出したから、他人のふりをしてちょっと情報を教えてあげた。
最後は彼女に気の毒なことをした。
まさか、あの男に殺されてしまうなんて。しかも叔父と同じように突き落とされて。
男も飛び降り自殺してしまったし、これで真相を知る者は誰もいない。
こんなに幸運でいいのかね。笑いが止まらない。
何か運を使い果たしたんじゃないかって気さえしてくるな。
笑みを噛み殺しながら歩いていると、後ろから走ってきた男のバッグが肩にぶつかった。
「痛っ」
こちらを見て何か叫んだけれど、ヘッドホンでよく聞こえなかった。そのまま振り向きもせず走り去っていく。
「まったく、ひどい奴だなぁ謝りも――」
誰かが後ろからぶつかってきた。
背中が熱い。
急に目の前が暗くなっていく。
*
「ただ今入ったニュースです。
藪ヶ丘市の連続通り魔事件で犯人が逮捕されました。
本日、夜七時過ぎに同市水川町で男性が襲われたところを、警戒中の警察官に現行犯逮捕されました。
襲われた男性は病院に運ばれましたが、死亡が確認されています。
繰り返します。
本日、夜七時過ぎ――」
― 了 ―
会社の上司からパワハラを受けていた山瀬は、闇サイト『あなたが殺したい人は誰ですか』の掲示板を眺めることでストレスを発散していた。
そんなある日、サイトでミキと出会う。
ミキが持ち掛けてきたのは交換殺人だった。
初めは戸惑い、警戒する山瀬だったが、同僚からもたらされたある情報をきっかけにして、ミキの提案へと心が傾いていく。
殺したい相手の情報を交換し、綿密な下調べを行っていく。
殺害方法を決め、アリバイを作る。
はたして二人の交換殺人は上手くいくのか?
怪しげな同僚、謎のメッセージ。
予想もしなかった展開に翻弄される山瀬が、最後に辿り着いた「答え」とは?
現代のネット社会における「顔の見えない繋がり」に着目した作品。
エピローグで、そのすべてが明かされる。